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幕末明治維新期に成立した民衆宗教の展開と特徴

(1)民衆宗教の成立

幕末明治維新の時代は、13世紀鎌倉時代と並ぶ宗教の一大変革期であった。この時代に、習合神道系、仏教系、山岳信仰系等の宗教運動が新たに成立した。キリスト教カソリックが再伝来し新たにプロテスタントが伝来した。

幕末明治維新の時期に成立した民衆宗教として代表的なのは、如来教黒住教天理教金光教などである。代表的な山岳信仰である冨士講身禄派は、修験道の枠を脱して神道化し、江戸とその近郊の農村の商工民・農民に普及した。また、富士講を背景にして丸山教が明治初年に成立した。仏教系でも、本門仏立講(のちの本門仏立宗)に代表される在家信者を主体とする教団形成の動きがあり、1920年代以降の法華系新宗教の源流となった。

各々の創始者たちは、習合神道の豊かな展開から影響を受けるとともに、仏教各宗の教説・修験道陰陽道儒教・心学をはじめ、ときにはキリスト教の影響をも受けて教義を形成し展開した。創唱者たちは、封建権力や既成の宗教勢力のさまざまな圧迫干渉に耐えて、布教活動を展開して、封建社会末期の農民・商工民を組織して行き、広範な地域で信者集団(講)が育っていった。そこには、封建宗教にはもとめえなかった個人の主体的信仰に基づく同じ信者の強固な結合がはぐくまれた。(村上重良)

 

幕末の時期、日本のどの地域も疲弊していた。国学者儒学者をはじめとする多くの知識人・為政者にとって、地域の再興こそが第一の課題であった。国学者国学の世界に留まっておらず、「神と君との大御心を心として、御百姓前を我生成せる子にひとしく、身にそひ蔭に添て、愛憐し教育て」(桂誉重著「済生要略」)という撫育教導に見られるように村落の自力更生に注力した。

芳賀登氏は、民衆宗教の指導者、金光教の宗祖・川手文治郎黒住教の宗祖・黒住宗忠、天理教の宗祖・中山みき等は、文政のおかげおどりに参加して体験し、それが開宗の動機となっているといわれている。苦しむ民に救いの手を差し伸べたのが、民衆宗教誕生の背景である。

 

(2)明治政府の宗教政策の中で―「教派神道

明治新政府が誕生すると、事は単純ではなくなった。政府の規制が加えられてくるのである。民衆宗教は政府の政策に抵抗しつつ、その居場所を探り続けていく。

明治維新直後、明治新政府祭政一致の理念をかかげて神道国教化政策を進め、江戸時代幕府支配の一環を背負っていた仏教勢力に打撃を与えんとした。明治元(1868)年、明治政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、神仏分離令を発してそれまで広く行われてきた神仏習合神仏混淆)を禁止した。政府は、神仏分離令により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じた。神仏分離令は仏教排斥を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院の腐敗に苦しめられていた民衆がこれに加わった。

しかし、明治5(1872)年の神祇省廃止・教部省設置で神道国教化政策はすぐに挫折し、諸宗教挙げての国民教化政策に切り替えられた。国民教化運動の進展と共に多くの民衆宗教はしばしば禁圧を受け、布教活動は困難を極めた。

教部省による国民教化運動は、仏教側の巻き返しによって数年で瓦解し、1870年代末に祭祀と宗教の分離による国家神道確立の方針を定めた。国家神道は、宗教ではなく国家の祭祀とされ、宗教としての神道ないし神道宗教的部分として「教派神道」が編成された。習合神道系・山岳信仰系の民衆宗教は、教派神道の独立教派ないし付属教会に編成され、教派神道として一括され、事実上の公認宗教としての地歩とひきかえに国家神道への従属を要求された。

 

戦前「教派13派」と呼ばれていた教派神道は、明治9(1876)年に黒住教神道修成派が公認され、明治15(1882)年を中心に、神宮教・大社教・扶桑教・実行教・大成教神習教・御岳教が公認され、続いて神道本局(神官・神職の連合体、のち神道大教)・神理教禊教が公認された。日清戦争後の明治33(1900)年金光教が公認され、日露戦争後の明治41(1908)年天理教が公認された。このうち、伊勢神宮の講を結集した神宮教がのちに財団法人神宮奉斎会に改組された。(天理教金光教は、独立以前は神道本局に属し、丸山教は独立教派ではなく、扶桑教・のち神道本局の付属教会であった。)

金光教では、政府の「神道から他の神社の分霊をうけるならば一派独立を許可しても良い」といわれた時、教祖がきっぱり「此方はちがう」、他の神とはちがうのだと拒否し、そのため一派独立は20年近くあとになった。(佐藤範雄『信仰回顧六十五年』)

天理教でも、教えが広まるとともに地域の寺社から疎まれ、さらに教祖は逮捕・拘留されるなど、幾度となく官憲から弾圧を受けた。そのようなことから、教団としての認可活動を得ることを試みたが、親神(教祖)は教団の認可活動を認めず、何度も反対した。明治18(1885)年神道の一派として「神道天理教会」として公認されたが、教団としての独立ではなかった。明治33(1900)年明治政府の意向に配慮した「明治教典」などの編纂を行うなど各方面で努力をした末、1908年(明治41年)にようやく別派として独立をはたす。

丸山教は、松方デフレのもとで民衆が急速に没落していった明治15(1882)年ごろから明治23(1890)年ごろの間、社会体制批判の宗教的ユートピア的教義が庶民に熱狂的に迎えられたが、政府の弾圧によって急速に衰えていった。

江戸時代末期に成立した神道各派にとって、明治政府の締め付けは信教の自由との戦いの連続であった。神道各派にとって、国家神道体制は安泰なものではなく厄介な体制であった。このことをみても、明治政府の国家宗教政策がいかに問題が多く危険なものであったかがわかる。

 

(3)民衆宗教の思想的特徴

幕末維新期に成立した民衆宗教は、共通した思想的特徴をもっている。村上重良氏は、その特徴を次のようにまとめられている。(参考文献:P568~570)

①    政治的・社会的変革の時期に反映する強力な一神教的な最高神による救済の教義である。如来教如来黒住教天照大神天理教の天理王命、金光教の天地金乃神、丸山教の大祖参神(もとのおやがみ=太元の父母)等は、いずれも最高神的な救済神であり、如来・天理王命等は、宇宙と人間の創造神とされ、独自の神話が伝えられている。その救済神としての神格は、封建支配とそれにつづく近代天皇制の絶対主義的支配の動揺と危機を反映して、天理教丸山教等では、世直し的な理想世界実現の教義に展開した。

②    徹底した現世中心主義がある。封建支配の相対的安定期に成立した如来教は来世主義の教義に立っているが、他の各宗教はすべて現世中心主義で、病貧争のない「この世の極楽」が語られ、病気なおし等の現世利益が一貫して強調されている。天理教では、死を出直しと呼び、その教義には、来世も祖霊信仰も原理的には意義を認めない徹底した現世中心主義がみられ、開教期の入信者の動機では、病苦が圧倒的に多かった。

③    人間本位の教義であると指摘できる。幕末維新期の民衆宗教に共通する最大の課題は、まずしい生活者であり被支配者である民衆の救済にあった。そこで語られている人間は、支配するゆたかな者たちではなく、勤勉な無名の民衆であり、まさに天理教のいう「谷底」の人々であった。民衆の全生活的な救済の使命感を支えるものは、素朴な人間愛であり、人間の本性への楽観的な信頼であった。天理教では、「一列はみな兄弟」とされ、金光教では、「神の氏子」として人間はすべて階級・身分・性の差別なく平等であった。そこには、封建宗教にはもとめえない自由な人間像があり、天理教の夫婦中心の家族観は、儒教的な家父長制的家族観の否定にほかならなかった。民衆宗教の道徳観は、原罪説に立つ如来教は異例であるが、全体として、日本社会で伝統的なツミ・ケガレ観をうけついでおり、人間本位の明るい生活態度が説かれている。とくに、民衆にとって有害な俗信を拒否する金光教は、人間を基準とした開明的・合理的な生活態度を教え、その教義は日本における近代宗教の萌芽として注目に値する。自主的な信仰によって結合した民衆宗教の信者たちは、互いにたすけあい学びあって、共同の信仰生活の場をつくり出した。この信仰の共同体は、制度化された寺檀関係や氏子組織とは異質であり、近世社会で封建支配の境域をこえて発達した同信者の結合である講をうけつぎ発展させたものといえよう。そこには、祖霊崇拝を核とするイエの宗教とも、共同他の生産と生活のための祭祀であるムラの宗教とも異なる、ひとりの人間としての民衆の救済の願望が結集されており、このことが、各宗教の思想上・組織上の急激な発展の原動力となった。

④    政治権力・社会・民族への観点が指摘できる。天理教丸山教には、世直し的な生時間が顕著であり、天理教のいう「高山」の没落は、強烈な終末観に立っている。これにたいして金光教では、「世かわりもの」と政治権力の消長隆替へのゆるぎない信念が示されており、この認識から、政治権力にたいする中立的態度が導かれている。これらの創唱宗教は、例外なく民衆宗教の性格をうけつぐ習合神道の基盤から出発して世界宗教を指向しているが、国家観・民族観においては、日本中心の排外民族主義への傾斜がつよくみられ、このことが、これらの各宗教が国家神道体制に組み込まれる過程で、天皇崇拝と国家主義に容易に妥協迎合して一因であったといえよう。

 

これらの宗教には、大別して、政治と社会の変革によって「よふきぐらし」(天理教)、「日の出に松の代」(丸山教)とよばれる理想社会の実現を目指す政教一致型の世直しの宗教と、「実意丁寧神信心」(金光教)をもとめて信仰をどこまでも個人化し内面化していく、内面指向型の宗教が見られる。幕末維新期の代表的な民衆宗教であり、この時期の創唱宗教の中で現在も最も有力な教勢を擁している天理教金光教は、この二つの型を典型的に示している。

 

私は、幕末時の民衆宗教の勃興は宗教が究極的に目指している現世での理想社会の実現という目標に向かって準備された一つの方途であったのではないかと考えている。(私見)

 

(参考文献:村上重良「幕末維新期の民衆宗教について」日本思想体系67『民衆宗教の思想』岩波書店1971)