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共産主義より恐ろしい《性の堕落》

女優の上戸彩さんが“不倫妻”役で主演した連続ドラマ「昼顔~平日午後3時の恋人たち~」(フジテレビ系)の最終回となる第11話が9月25日に15分拡大版で放送され、平均視聴率は16.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・以下同)を獲得したという。大ヒットである。夫を会社に送り出した後、家事をきちんとこなし、昼間にほかの男性と恋に落ちる主婦“平日昼顔妻”が主人公である。

 

(1)歴史的に性に寛大だった日本文化

今までも不倫を題材としたドラマ・小説はいつも話題を提供してきた。渡辺淳一さんの「失楽園」は社会に大きな反響をもたらした。男女の恋愛物語は、人間にとって永遠のテーマと呼んでいいだろう。最も有名な古い恋愛物語は、「源氏物語」である。「源氏物語」は、光源氏(桐壷帝の皇子)の恋愛遍歴を書き綴った小説で、最後は愛情生活の無常を覚り、出家を志すというストーリーである。光源氏の恋の行方に当時から多くの読者が胸を高ぶらせ、息をひそめて見守り読み続けてきた。

 

和歌の世界においても、恋歌は独壇場だった。本居宣長は、「あしわけをぶね」の中で、「すべて好色のことほど人情のふかきものはなきなり。千人万人みな欲するところなるゆへにこひの歌は多き也。世に賢人にて、身をおさめ善事のみ心がけて、誡(いましめ)をのみ大事に思ふ人はすくなきゆへに、誡の歌すくなし」と語っている。

古今東西、男女の愛は人間関係の究極のテーマである。《千人万人皆欲する》ゆえに、恋愛のテーマは永遠である。このことは当然のこととしても、それはどこまでも許されるものではない。

 

しかしその欲求をどこまでも正当化したいと考えるのが愚かな人間の姿である。日本でも「離婚・再婚」はあたりまえになり、この結果その痛みが子供に引き継がれることとなっている。それだけでなく、「不倫は文化である」「同性愛容認」とか「自由恋愛」という「性の解放」が人間の本能として許されていいのではないかと思われている。日本の文化は、性を容認する風潮が強い。戦前まで続いていた「夜這い慣習」「全国各地に見られた売春宿」「妾は甲斐性」「色情に対する寛容な姿勢」など、性の問題は人間にとって重大な問題とは考えられてこなかった。現在も、アダルトビデオ、風俗営業など諸外国では一部に隔離されている性の分野が公然と世の中にその位置を占め、外国人からも関心を集めている。

 

しかし色情問題は、共産主義より恐ろしい個人と民族と国とを滅ぼしかねない人間の犯罪である。江戸時代末期の国学者大國隆正は、色情に寛大な姿勢を見せた本居宣長に対して「色情をゆるし、異母兄弟とつぎしも、いにしへのみちにて、あしからぬさまにいはれしたぐひは、わろかなり」と批判している。

現在でもほとんどの人間が、性の問題が問題多きものであることはうすうす感じてはいる。必ず誰もが隠そうとして誰もが悩んでいる根の深い問題である。現在、性の不道徳が氾濫し、性に関わる犯罪が増加し続けているにもかかわらず、方策をほとんど講じることができていないのも、また性犯罪の再犯率が異様に高いのも、問題の根が深いことを示している。最近では、さらに複雑化して異様な性嗜好(同性愛、性虐待、児童ポルノ、児童に対する強制わいせつ)が増えており、異常な犯罪を引き起こす元となっている。

 

(2)人間関係の情のもつれの原点としての淫行

実は、色情問題、その原点である性の問題(淫行)には実に深い深刻な問題がある。それは、究極の人間関係の情のもつれの原因となるというのが第一の理由である。このことは誰しもが感じていることで、「犯罪の影に女あり」という言葉はそのことをよく言い表している。男女の間の情のもつれから生じた憎しみ・怨みは、男女の対立となり殺人に至るということは、推理小説であるいは恋愛小説でまたニュース報道でよく知る所である。最も究極の愛が男女の愛であるが故に、そこにもつれが生じた時、終わることなき怨念が渦巻くことになる。よく「女の恨みは怖ろしい」というが、この言葉は長い人間の経験から出た言葉である。

 

(3)悪魔が淫行を背後で手引きしている

そのようにならないように気をつければ大丈夫ではないかという意見があるであろう。しかし、この意見は現世の背後にある世界を知らない意見である。ドイツの哲学者ショウペンハウエルは、人間の意志の核心、焦点として生殖行為を取り上げ、「悪魔がそこでこっそりと自分の勝負をやってのけようとしているだけなのではないか、という風に思われてこないわけではない。即ち、同衾が彼の手付金なのであり、結果世界は彼の国となるのだ。一体、ひとびとは交合の後に悪魔の高笑いが聞こえてくる、ということに気づかなかったであろうか。」(ショウペンハウエル著斎藤信治訳「自殺について他四編」岩波文庫p90)と述べ、人間の中に潜むエゴイズム、その原点に生殖行為があると語っているのである。

人間の性の背信行為は次世代に深刻な問題をもたらすことになる。当の本人は、何の問題も感じることなく人生を終わるのであろうが、その行為の結果は遺伝として子供に受け継がれる。そして淫行は、色情の因縁だけでなく殺傷の因縁をももたらすことになる。

 

(4)神話が記してきた罪の原点としての淫行行為

人間の性の失敗・堕落が人間を不幸にした原因であることを世界各地の神話は書き記している。信じ合った男女の最初の子が生み損ないになるという神話は世界各地に見られる。最も有名なのが、聖書のアダムとイブの話である。

「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、ヘビが最も狡猾であった。ヘビはは女に言った。『園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか。』女はヘビに言った、『わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神に言われました。』ヘビは女に言った、『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。』女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。」(「創世記」3-1~3-7)

 

人類始祖とされるアダムとイブが神の戒めを破り禁断の木の実を食べたという神話である。禁断の木の実とは何かという議論が歴史上続いてきたが、この行為はいちじくの葉を腰に巻いたという記述から、生殖行為であると解釈していいのではないか。そしてこの行為の結果は、子々孫々に遺伝されていった。次の代では、人類最初の殺人兄弟殺しが起こることになる。

 

日本の神話「古事記」にもほぼ同じ話が記されている。伊邪那岐命イザナギノミコト)と伊邪那美命イザナミノミコト)の国産み神話である。一部を記した。

伊邪那岐命が、「そなたのからだの形はどのように出来ていますか」と、伊邪那美命にお尋ねになると、

「わたくしのからだは成り整ってはおりますけれど、足りない所が、ひと所だけございます」とお答えになった。

「わたしのからだは、余っている所が、ひと所ある。だから、このわたしの余った所を、そなたの足りない所に刺しふさいだら、国土が出来ると思うが、いかがなものであろう」

「それがよろしうございましょう」

「では、わたしとそなたと、この柱をめぐって、婚(まじわ)りをすることにしよう」

こう約して、「それでは、そなたは右からお廻りなさい。わたしは左から廻ることにするから」

こうして、二神が柱を廻られる際に、伊邪那美命がまず、「あゝ、お美しい、愛しいかた!」とお唱えになり、後に、伊邪那岐命が、「おゝ、美しい、可愛いおとめよ!」と仰せられた。しかしその後に、「女が先に言ったのはよくなかった」と仰せられたけれども、とにかく寝屋におこもりになって、水蛭子(ひるこ)をお生みになった。(蓮田善明訳「現代語訳 古事記」古川書房1979)

 

水蛭子(ひるこ)とは、不具の子のことである。伊邪那岐命伊邪那美命は、水蛭子(ヒルコ=不具の子)が生まれたため、水蛭子を葦の舟に入れられオノゴロ島から流す。要するに健全な子供ができなかった、失敗したと語っている。その原因は、伊邪那美命(女性)が伊邪那岐命(男性)に先に声が掛けたのがいけなかったというのが古事記の内容である。その後、古事記ではやり直すのであるが、そのことについては別の機会に譲るとして、性の問題で不具の子が生まれてしまったという記載は、正常ではない人間が産まれた原因は性の問題であることをはっきり記しているといっていいだろう。

 

しかし、日本では性の問題・色情問題は、深刻に考えられてこなかった。むしろ、性はおおらかに寛大に容認されてきたと言った方がいいであろう。伝来した仏教が、色情問題をゆゆしき問題として取り上げ、禁欲を広めたのが唯一の教えであったのではないだろうか。

 

(5)性的に堕落した社会は滅亡する

人間の完成を目指した宗教は、いづれも罪の根が淫行にあることを察知し、姦淫を最大の罪として定め、これを防ぐために禁欲生活を強調してきた。ユダヤ民族は、贖罪の条件として割礼を行い血の聖別を行ってきた。仏教でも最大の罪は色情であり、お釈迦様の最期の闘いが色魔との闘いであったことはよく知られている。

仏教は、人間の欲望を煩悩とみなし、智慧をもって煩悩を制御することを理想としており、人間の欲のうち、最も克服しがたい性欲を抑えることを薦めてもいる。そのため出家者の戒律には、性行為の禁止(不淫戒)、自慰行為の禁止(故出精戒)、異性と接触することの禁止(触女人戒)、猥褻な言葉を使うことの禁止(麁語戒)、供養として性交を迫ることの禁止(嘆身索供養戒)、異性と二人きりになることを禁止(屏所不定戒)、異性と二人でいる時に関係を疑われる行動することを禁止(露処不定戒)など、性欲を刺激する可能性のある行為に関しては厳しい制限がある。ちなみに在家信徒も、淫らな性行為は不邪淫戒として禁じられている(五戒の一つ)。また在家者も坐禅や念仏などの修行に打ち込む期間だけは不淫戒を守ることが薦められる。(Wikipedia

 

坊主の一番の因縁は色情であるといわれるのも、色情問題が最後まで残る罪の根であることを示している。明治時代、高邁な禅のお坊さんが「覚った」と覚知したその翌日、女を買いに行ったという話が伝わっている。現代に生きる我々も、最後は色魔に苦しめられる運命にある。色情の因縁を強く受けると、色魔の誘惑が強いだけでなく、意識をぼかされてくる。背後の魔の力が強く働きかけて来て正しい判断が難しくなる。

 

性的に堕落した社会が共産主義より怖いのは、人間が性に関心を奪われて厄介な情のもつれの中に身をやつし、自らも意識をぼかされて神(天)の啓示を受けることができなくなり判断能力を失っていき、滅亡する道を選択してしまうという点にある。個人的には破滅、一族としては絶家、民族・国家としては滅亡が待ち受けるのである。神は守りようがない。

旧約聖書のユダ書は、「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラもまわりの町々も同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている」(ユダ書6節~7節)と記している。色情の罪は、大変恐ろしいのである。