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本居宣長の「もののあはれ」考(2) 「情」の根幹を探して

「情」という字は、「じょう」と読むだけでなく、「なさけ」とか「こころ」と呼ばれてきた。この字に込めた日本人の思いには、特別な思いがあるように感じる。歴史を振り返ると、漢字は中国から日本に伝えられてきたものである。宣長が、「大御国にもと文字はなかりしかば、・・・・・、書籍と云ふ物渡り来て」と古事記伝に記しているが、漢字渡来以来何とかして漢字で日本語の情感を表現しようとしてきた日本人の努力が大変なものであったと推測する。この葛藤とそれを我がものにしようとする努力と智慧が訓読み、かな文字という発明をもたらした。何とすばらしい発明だったであろうか。日本語の情感は、この発明によって失われることなく綿々と伝えられてきた。

漢字が入る前に日本人にとって「情」という漢字をあてたもとの言葉は、「こころ」であり「なさけ」であったとも思われる。本居宣長は、日本人の和歌の心を訪ねていった時、そこに民族の秘められた情を感じ取り、漢心とはちがうものが厳として存在しているのを感じた。

 

(1)心におもうこと(実情)

宣長は、日本の和歌の世界に日本独特の情感を感じた、もちろん生来の和歌好きだったのではあるが。「あしわけをぶね」の中で、「歌は、ただ心に思ふことをいふのぶるまでの事也」というのであるが、「心に思うこと」とは、何を言うのか。宣長は、次のようにいう。

すべて好色のことほど人情のふかきものはなきなり。千人万人みな欲するところなるゆへにこひの歌は多き也。世に賢人にて、身をおさめ善事のみ心がけて、誡(いましめ)をのみ大事に思ふ人はすくなきゆへに、誡の歌すくなし。ただ善悪教誡のことにかかはらず、一時の意をのぶる歌多きは、世人の情、楽みをばねがひ、苦みをばいとひ、おもしろきことはたれもおもしろく、かなしきことはたれもかなしきものなれば、只その意にしたがふてよむが歌の道なり、姦邪の心にてよまば、姦邪の歌をよむべし、好色の心にてよまば、好色の歌をよむべし、仁義の心にてよまば、仁義の歌をよむべし、ただただ歌は一偏にかたよれるものにてはなきなり。」

「心に思ふこと」には、「姦邪の心」も「仁義の心」も「楽しみを願う心」などの世人の情もあるという。(これを別の言い方として「実情」と呼んでいる。)

ここから、宣長の「心に思ふこと」の模索が始まる。

 

(2)実情から人情(本情)へ

相楽亨氏の研究によると、後に書かれた「あしわけをぶね」第52条では、「上代も末代も人情にかはることはなく、今としても人の実情をさぐりみれば、上代にかはらず、はかなくおろかなるもの也。さかしく男らしきは実情にあらず」と述べ、男らしい仁義の心、善悪教誡の心が実情から除外され、「世人の情」だけが実情とされてくる。第30条では、「此道は風雅をむねとし」とまで述べ、歌と関連ある「実情」というものは「世人の情」的なものに限定されてくる。

宣長は、「風雅を知らざる木石のたぐひ、人情にうときこと、いはむかたなし。人情に通じ、物のこころをわきまへ、恕心を生じ、心ばせをやはらぐるに、歌よりよきはなし」といい、人情に疎からぬことが風雅を解することにつながり、人情に疎からず通じることが心ばせをやわらぐことにつながる。宣長歌人の心ばへとして求めた「やすらかに温和」な心ばへは人情にうとからぬところに形成される心ばへであり、それであるからこそまた、「やすらかに温和」な心ばへをもつ時に風雅につながることができたのである。(相良)

 

宣長は、「人情と云ふものは、はかなく児女子のやうなるかたなるもの也。すべて男らしく正しくきつとしたることは、みな人情のうちにはなきもの也。(38条)」という。武士が死に臨んでなお毅然としているのは、「心を制し、形をつくろひて」この「本情をかくしつくろふ」たもので、「もとのありていの人情」のままのあり方ではないという。人情というものは、はかなく、しどけないものなのである。いとし児が死んだ時、母親が「なげきにしづみて、涙にくれまどふ」のも、「本情を制しあへず、ありのままにあらはし」たものである。父親がとりみださず、かなしみを面にあらわさないのは、これは本情を制しおさえたもので、「本情にはあらざる也」。また宣長は、「僧とてももと俗人とかはりたる性質にあらず。もと同じ凡夫なれば、人情にかはりたることはなきはずなり」「僧なれば心に色を思ふをもにくみうとむは、人情をしらぬ心也」という。

 

このように、宣長にとって人情とは、聖人にも凡人にも、俗人にも僧侶にも「古も今も、唐も天竺も、此国も」変わらず、人間である限り、誰しも心の底辺にもつ、もっともありのままの心なのである。(相良)

そして、心に思うことをいうのが歌であって、よい歌をよまんとすれば、「風雅なる中に風雅を」を求める必要があり、詞とともに心も選ばれなければならなかった。(相良)

「和歌はもと本情をのぶるものなれば、はかなくしどけなくをろかなるべきことはりなり」とされるのである。

 

しかし宣長は、男らしい仁義の心、善悪教誡の心を否定してはいない。「国のため君のために、いさぎよく死するは、男らしくきつとして、誰もみなねがひうらやむこと也」といい、父親の毅然とした態度にも「「さすがとりみださぬところはいみじ」といい、否定してはいない。宣長は、「聖人の教誡、人倫のおさめかたのこる所なく教伝にしるして、人のよくわきまへしるところ、愚人もをのずから不義のわけはよくしれり」(34)と、倫理的当為の存在を認めている。人情のまゝ振る舞えばいいなどと考えてはいない。しかし、一方では「男らしく正しくきつとした」姿勢は、「もとのありていの人情」ではなく、「心を制して形をつくろったもの」なのであるというのである。(相良)

 

(3)人情(本情)から風雅への純化

「物のあはれをしる心」は、人情よりさらに狭い。「人情と云ふものは、全体古も今も、唐も天竺も、此国も、かはることなし。みなみな富貴をねがひ、貧賤をいとひ、美食を悦び、美味をむさぼり、安伕(ふ)をねがひ、楽をこのみ、苦をいとひ、福をねがひ、禍をにくむ」とあった(「あしわけをぶね」)。人間の利欲もまた人情の一つであった。

宣長は、「あしわけをぶね」執筆後に「歌は情よりいづるものなれば、欲とは別也」「欲と情とのわかちは、欲はただねがひもとむる心のみにて、感慨なし。情はものに感じて歎慨するもの也。恋と云ものも、もとは欲よりいづれども、ふかく情にわたるもの也」

 

宣長は、歌は情の世界のものであって欲の世界から生まれ来るものではないという。「欲の方の思ひは、一すぢに願ひもとむる心のみにて、さのみ身にしむばかりこまやかにあらねばや、はかなき花鳥の色音にも涙のこぼるる事ふかからず。かの財宝をむさぼるやうの思ひは此欲といふ物にて、物のあはれなるすぢにはうときゆゑに歌はいでこぬなるべし。」(「石上私淑言」)(松本三之介)となる。

 

歌は、仁義の心善悪の教誡の心を排除しておろかなる実情を「ありのままによむ」ということは、人情の解放の意味をはっきりもってくる。歌の独立性は、人情の解放の場としての独立性となる。宜長自身も、僧侶の恋歌を取り上げて、「いよいよ心には思ひむすぼれて情の積鬱すべき理」「せめて思ひを和歌にはらさんこと、いと哀なることにあらずや」となる。しかし、歌は人情を解放するのみでなく、人情をより風雅なものに純化し昇華するものであった。それは、人情を本来のものに帰還せしめることであった。(相良)

 

さて、宣長は心を取り繕うことについてどのように考えていたのか。「克己」について、このような見解を述べている。宣長は、人妻を犯すことなど悪いことは竹馬の童も知ることではあるけれども、と言ったうえで、「克己しのびつつしむと、えしのびおほずしてしてみだるるとのちがひ也、それを忍びつつしむは、よきは勿論也。えしのびあえずして色にいで、あるはみだりがはしき道ならぬわざをもするは、いよいよ人情の深切なること」といい、「また「聖賢の人はさるべけれども、凡人いかでとどめあへん、我心にも、心は制しがたきはよのつね也。されば克己と云ことむかしよりなりがたきこと也。それをつつしみまもると、おかすとの、人々の心にあること也」という。克己が望ましいことは勿論であるが、同時に容易になりがたきことであるというのである。つづいて、「ただ歌は、さやうの議論には一向かかはらぬことにて、歌のすぐれたるを賞し美すること也」という。

宣長にとって、歌は終生教誡の世界の外に独立して存在し続けたのである。(相良)

 

(4)物のあはれをしる―物にふれて感ずる事

宣長の「源氏」論の課題は、「あはれ」とは何かではなく、「あはれを知る」とは何かであった。「人の実の情をしるを、物の哀をしるといふなり」(「紫文要領」巻下)「人の實の情」は知り難い。こんな不安定なものはないからだ。「感は動也といひて、心のうごくこと」(「玉のをぐし」)そして、宣長は次のようなことに注目している。「心に深く感(あはれ)とおもふ事あれば、かならず長息をする故に、其意より転じて、物に感ずる事を奈宜久(なげく)とも奈我牟流(ながむる)ともいふ也」(「石上私淑言」巻一)

歌とは、意識が出会う最初のものだといいたかったといってよさそうだ。(中略)そして突き詰めていけば、禮とは、「実情ヲ導ク」その「シカタ」だという。私たちは、この「シカタ」を何によって思ひ附くのではなく、何處から借りて来るのでもない。それは実情自体から「ヲノズカラ」「ほころび出」る。人間の構造は、そのやうな出来だといっていると解してよかろう。(小林)

 

宣長は、「石上私淑言」において、「歌てふ物はいかなる事によりていでくるものぞ」と設問して、「物のあはれをしるよりいでくるもの也」と実情をさらに限定している。

情あれば物にふれて、必思ふ事あり、(略)その思ふ事のしげく深きは何ゆへぞといへば、物のあはれをしる故也。事わざしげき物なれば、其事にふるるごとに、情はうごきてしづかならず。うごくとは、ある時は凛しく、ある時は悲しく、又ははらだたしく、又はよろこばしく、或いは楽しくおもしろく、或いはおそろしくうれはしく、或いはうつくしく、或いはにくましく、或いは恋しく、或いはいとはしく、さまざまに思ふ事のある,是即物のあはれをしる故にうごく也。(略)事にふれて、其うれしくかなしき事の心をわきまへしるを、物のあはれをしるといふなり。その事の心をしらぬ時は、うれしき事もなくかなしき事もなければ、心に思ふ事なし。」

「うれしかるべき事」にふれて、「うれしく」おもう。情が動いてうれしく思うのである。「事の心」を知らなければ、うごかない。「物のあはれをしる」ゆえに「うごく也」というのである。つまり「物のあはれ」は、「物の心」「事の心」なのであり、その情緒をうけとめることがしることであり、感じることであり、心動くことである。(相楽)

 

「あはれ」とは、物にふれてうごく「嘆息」のことであり、「見る物聞く事なすわざにふれて、情の深く感ずる事をいふ也。俗にはただ、悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず。すべて、うれし共、おかし共、たのし共、かなし共こひし共、情に感ずる事はみな阿波礼也」という。宣長は、深く感ずる深いあはれが悲哀であり、悲哀にしばしばあはれが限定されることを認めている。「おかしき事、うれしき事などには感く事浅し。かなしき事、こひしき事などには感くこと深し。故にその深く感ずるかたを、とりわきてあはれといふ事ある也。俗に悲哀をのみあはれといふも、この心ばへ也」

 

宣長は、日常生活の間において「事の心、物の心をわきまへ知るが、則ち物の哀を知る」事といへるし、更に、「世にあらゆる事に、みなそれぞれの物の哀はある」筈だと言ふ。このような考え方を進めて行けば、世間が、ほんとうに解るという事が、「もののあはれ」を知るといふ事だといふ事になる。人の心ばへ、世の有様は、なるほど、かくの如きものか、と身にしみて解っている人が、「もののあはれ」を知る人と言える。(小林)

 

(参考文献1:相良 亨著「本居宣長講談社学術文庫2011)

(参考文献2:松本三之介著「幕末国学の思想的意義」『日本思想体系51-国学運動の思想』岩波書店1971)

(参考文献3:「小林秀雄全集第十四巻 本居宣長」新潮社2002)

(参考文献4:子安宣邦著「平田篤胤の世界」ぺりかん社2001)