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平田篤胤とキリスト教

復古神道の大成者平田篤胤(1776~1843)は、荷田春満賀茂真淵本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人であり、幕末維新の中で大きな影響力をもった人物である。篤胤は、宣長亡き後国学を変革し、明治維新に大きな影響を及ぼしていく。(それは一面、国粋主義の元凶とも言われている。)平田国学の特徴の一つは、宣長の時代国文学の研究の範囲に留まっていた国学を宗教化していったことに大きな特徴がある。

篤胤は、本居宣長がこの世で悪しき事邪な事が起きる事、正しい道理のままではないこの世の事態は悪神のしわざであって、死ねばだれしも黄泉の国に行かざるを得ないと諦観していたのに対して、現世にあって報われることの少ない不遇な倫理的行為者の幽冥界(死後)での救済を説いていく。彼が説いた救済観は、現世での受難者が神のもとに永生をうるというキリスト教の救済の論理を受容し、神道教理に応用したものといわれている。

篤胤における天主教教理受容の明確な軌跡を示すものとして、篤胤の「本教外篇」(未発表)という著作がある。村岡典嗣の論文「平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響」で紹介された。村岡は、「本教外篇」がイタリア人宣教師マテオ・リッチが書いた中国語のカトリック教理書の「畸人十篇」や「天主実践」による翻案やほとんどその直訳からなる部分、またバントーハの「七克七書」の抄出からなる部分や、耶蘇教の趣意をもって篤胤が書いた部分を指摘し、篤胤の神学の由来が耶蘇教にあることを明瞭にした。(*1)

「天地世界を創造し、人種万物を生成し、又人間に至善の霊性を賦与せる祖神」というような創造的主宰神の観念や、死後に人の霊魂は幽世におもむき、そこで幽世の大神の審判を受け、善なる魂は幽世で永生をうること、そしてそれこそが人の真福であり、また幽世こそが本つ世であるという来世の観念を提示した。(*1)

「古史伝」に述べられている次の言葉は、キリスト教の救済論の投影であり、篤胤自身が「外国籍に謂ふ如く」と認めている。

「現世の富、また幸あるも、真の福に非ず、真は殃(わざわい)の種なるが多かり。(其は冨かつ幸あるが故に、罪を造て、幽世に入て其罰を受ればなり。)現世の貧また幸なきも、真の殃に非ず、真の福の種なるが多かり。(そは貧かつ幸なきが故に、罪を造らず徳行を強め、幽世に入て、其賞を受ればなり。)・・・・抑々徳行に苦める者、幽世に入ては、永く大神の御賞を賜はりて用ひらる。是を真の福といふ。抑々此世は、吾人の善悪きを試み定め賜はむ為に、しばらく生しめ給へる寓世にて、幽世ぞ吾人の本ッ世なるを、然る故義(ことのこころ)をば弁へずして、仮の幸を好み、永く真の殃を取ことを知ざるは、最も悲しき態なり。

此世にある間は、大かたの人は、百年には過ざるを、幽世に入ては無窮なり。然れば此世は、人の寓ノ世にて、幽世の本ッ世なること決(うつ)なし。此は信に、外国籍(ぶみ)に謂ふ如くにぞ有ける。(『古史伝二十三』)」(*1)

 

子安宣邦氏が、「本教外篇」における神格の再構成の跡をまとめておられる。これを転載してみる。(*1:P276~283)

(1)天之御中主神の究極神化と造化三神

天地万物に大元高祖神あり。御名を天之御中主神と申す。始めもなくまた終わりもなく、天上に坐します。天地万物を生ずべき徳を蘊(つみ)し、為す事なく寂然として(謂ゆる元始の時より高天原に大御座す。)万有を主宰し玉ふ。次に高皇産霊神神皇産霊神あり。天之御中主神の神徳を持別けて、天地万物を生じ、天地万物を主宰し玉ふ。霊妙不測の産霊の徳を具へたる、我人本生の祖父母に坐します。

 (2)天帝・造化神・産霊大神

産霊大神(天地万物に一大霊明の大父母ありて天上に坐して万有を主宰給ふ。

御名を産霊大神と申す)は、天地万有の真主なり。天を生じ、物を生じて其を主宰し、其を安養し、我人の本生の大父母にて、心身性命すべて此の大神の賦(くま)り賜ふ物なり。天地間の万の事物、この大神の神徳によりて安立す。我人の極めて(造次顚沛も)欽崇(し奉らでは之有るまじ)き大神なり。

(中略)

3)産霊大神と幽冥大神

産霊大神その霊性を分け降し賜ひ、其の性素より義理に遵ひ、其の賦り賜へる性の初めに負(そむ)くことなからしめ玉ふことは、譬へば旧く皇帝より国々の司を御任し坐して、其の地を治めしめ玉ふに、・・・・しるしの物を賜ひて命せ玉ふが如し。斯くて其の任竟(を)へて復命して、御しるしの物奉りて、大御言を承るが如し。人死なば形骸は土に帰り、其の霊性は(万古)滅ぶる事なく、必ず幽冥大神の御判を承けて、天国に復命す。天地の初発より一人も産霊大神の善しき霊性を賦り賜はらぬはなく、顕幽相判れたるより、一人も死て幽冥大神の賞罰の御判を承張らざる者なし。

(4)神明の照覧 (略)

幽事と幽世の概念の構成について

(1)幽世と幽神の賞罰・審判

人の善を為すに微瑕なきものは有らず。人の善を為すも微瑕なき者は有らず。幽冥大神は至公至明にして、其の善者の或はやや世苦を受るは、其の細(いささ)けき過ちを煉りて、其の徳を玉と成し賜ひ、徳行の純全なるに迨(よろこ)びて、始めて天国に復命さし玉ふ(あり)。悪人の少しく世福を獲ることは、其の微徳を酬ひ玉ふなり。

けだし人の霊魂は原より一身の主なり。形骸百体は霊魂の従役なる者なり。善悪その行を異にして、其の功と罪と総て主に帰する者といへども、形骸は土に帰し、主は自存し(て滅亡せず)必ず幽世に入りて、幽神のその賞罰を審判することを聴き、(然後)天命に復命するなり。

善人は幽世の大神集へ率ゐて天上に参上り、天神に復命白さしめ賜ひ、永々此の国土の幽世に侍はしめて其の処を得し賜ひ、天上に往来しつつ、各々某々の功績を為さしめ給ひ、悪人は理のまにまに遂に予美都(よもつ)国に逐はれて、限りなき殃苦を受け、懊悩痛哭して永々身に脱せざらむ。悲しむべし、憐れむべし。

(2)幽世の真福・幽世こそ本世

仁を成し義を取りて死するものあり。義の為にして、窘難(こんなん)を被るものは、すなはち真福(にて)その己に天国を得て処死せざる(不死の地を得)と為るなり。これ(我が)神道の奥妙、豈人意を測度べけんや。

この顕世は人の本世に非ず。天神の人を此の世に生じ玉ふは、其の心を誠にし徳行の等を定め試みむ為に、寓居せしめ玉ふなり。・・・・・試み畢(おわ)りて幽世に入れば、尊きは自ずから尊く、卑しきは自ずから卑し。人の本世は顕世に在らず、幽世なれば也。本業も亦彼の世に在り。天(皇)祖神は人の心顕世にのみ在て、是をもて(真)郷と為し、ただ今世の卑事に泥みて、幽世の吾が本世なることを知らざるを憫み悲しみ玉ふ。

故に死は凶に非ず、凶の畢(おわ)れるなり。大人は明らかに天神の我に顕世を借して寓居せしむ事を知り、幽世の常居たることを知る。

世位の尊貴を人誤て以て真福と為す。而れども真福に非ず。乃ち惟福(いふく)の影のみ。

(3)幽世における霊魂の永生

人死なば形骸は土に帰り、其の霊性は(万古)滅ぶる事なく、必ず幽冥大神を承けて、天国に復命す。

斯くて神判既に終りて、善人は幽世の大神集へ率ひて天上に参上り、天神に復命白さしめ賜ひ、永々此の国土の幽世に侍はしめて其の処を得しめ賜い、・・・・

此の世の寿たとへ数百歳を保つとも、此を幽世に往きて無窮なるに比べるは須臾(しゅゆ=しばらくの間)にしてその短きこと言ふべけんや。

 

まとめ

「現世(顕世)とは神に与えられた課題遂行の試練の場である」といい、「現世における苦難や不幸はむしろ幽世における真の幸福につながる」のだといい、そして「現世で報われることのない善人も、死後幽世において幽神の正しい審判によって賞され、霊魂は永生をうる」ことができるのだと説く(子安宣邦)のである。

神道にもこんな教えがあったのかと驚かれる方も多いのではないだろうか。

(*1:子安宣邦著「平田篤胤の世界」ぺりかん社 2001)