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禅の世界と禅の未来(5)現世における自他不二の世界の創造

(1)禅の国際化

戦後禅の海外布教は目覚ましく進展した。鈴木大拙氏の英文による禅の著書は、欧米の人々に多大なる影響を与えた。アップル社の故スティーブ・ジョブズも、禅に魅せられた人だった。海外布教を組織的に行っている曹洞宗の場合、ハワイ9か所、北アメリカ48か所、ブラジル7か所、フランス10か所、ドイツ・スイス・イタリア各6か所などとなっている。(2013年12月現在*1)

今後、世界中の人が宗教的世界への入り口として禅に注目していくのは確実であろう。

 

また、禅は宗教間対話の中で重要な働きをなしてきている。禅は、特定の教義をもたず、自由な立場にあることから、多くの宗教間対話に参加して主導的な役割を果たしている。日本は、宗教的に寛容な風土があり、宗教間対話を進めていきやすい環境にある。「世界宗教者平和会議」(WCRP)、比叡山での「世界宗教者平和の祈りの集い」(世界宗教サミット)などが日本主導で行われており、禅の各宗派も積極的に参加している。また、「禅とキリスト教懇談会」「東西霊性交流」などの対話にも積極的に参加している。(*1)

禅は、今後も宗教間対話に積極的に参加して、宗教の役割と宗教間の融和に尽力することになるであろう。多大なる活躍が期待される。

 

(2)禅の覚りは終着点ではない。出発点である。

 

(2-1)「還相(げんそう)の世界へ」―真空妙用

還相とは、浄土からこの娑婆に還ってくることである。凡夫のわれわれには自己の救いの実現に苦しんでいるのにどうして還相まで語れようかという思いがある。しかし、覚りに至ったならば、還相して本来の主体(神仏)のもとに役目を果たすことが重要である。

 

白隠禅師は、「洞山の五位」の一句「有無に落ちず、誰か敢えて和せん。人々尽く常流(じょうる)を出でんと欲す。折合(しゃくごう)して還(ま)た炭裡(たんり)に帰して坐す」をこれはどうもいただけないといって、あらためて次の詩を付した。
「徳雲の閑古錘、幾たび妙峰頂を下る。他の癡(ち)聖人を傭うて、雪を担うて共に井を填(うず)む」(白隠『毒語心経』)

 

竹村牧男氏は、この句の意味を次のように解説されている。

どんな人でも世間の苦悩を脱出したいと欲する。煩悩の世界を解脱して、生死輪廻の世界にもどってきたとしても、「炭裡に帰して坐す」と、坐してじっとしているだけでは徹していないというのであろう。そこで白隠は、修行の跡も消し去って、とがったところもまったくなくなった境地にある者が、その利害打算を超えた立場から、報いを求めずに黙々とひたすら働きつづけるあり方こそ、「兼中到」という至高の境地にふさわしいと見たのである。どんなに雪を放り込んでも、井戸は埋められることはありえない。そのような無意味のことに、せっせとはたらいてやまないところに、禅のこのうえなく深い味わいがある。ここには、ニヒリズムを突破して、しかも果てしなく深い無味の味わいがある(*1)。

「ただはたらいてやまない」というのは、自我にしがみついてはたらくというのではなく、本来の主体(超個あるいは神・仏)そのものに目覚めてこのかけがえのない主体を自覚して、その主体の下にやってやってやりぬく(真空妙用)ということである。

 

鈴木大拙氏は、最晩年覚りに至ったならば、現実の世界の中で縦横に働くべきであると語っている。

「極楽というところは久しくとどまるべきではない。とどまってもしようのないところだ。ありがたいかしらんけれども、ありがたいだけでは何のためにもなりゃしない。ただ自己満足ということになる。それだから、どうしても極楽を見たらただちに戻って来なければならない。還相の世界へ入らりゃならん。(加藤辨三郎「最後の法語」久松真一他編『鈴木大拙―人と思想』岩波書店1971)」

【真空妙有・真空妙用】(*1より)

自己は禅定による否定即肯定の体験によって空じられ空そのものとなるとき、本来の自己を「無我の我」として自覚する。その覚りの智慧が般若とされる。空は般若によって体験されたとき、古来その否定的面において平等の「真空無相」とされ、その肯定的面において差別の「真空妙有」と理解された。鈴木大拙は、「無作の妙用」などという禅の働きの側面に深く注目し、般若は「真空無相」「真空妙有」「真空妙用」であるとした。

 

(2-2)現世における仏法の積極的実践

真空妙用の働きを現実世界(娑婆)における生活に活用したのが、鈴木正三である。

松永尺五、石田梅岩とともに日本型資本主義の精神の形成に大きな役割を果たした江戸初期の曹洞宗の僧侶である鈴木正三は、「何の事業も皆仏行なり。人々の所作の上におひて成仏したまふべし。仏行の外なる作業有るべからず。一切の所作、皆以て世界のためとなる事を以てしるべし。仏体をうけ、仏性をそなはりたる人間、意得あしくして好て悪道に入ることなかれ」。正三は、職業の中に仏教を生かすことが大切だと主張した。

鈴木正三は、山本七平氏によって高く評価されている人物であり、現在の日本人の人生観、勤労観に大きな影響を与えている人物である。日本人が好きな「人生修行」という観念は、この人から生まれているといってもよい。この世のすべての職業がすべて仏行である。人間はそれぞれの職業生活において成仏できると、肯定した。日本のプロテスタンティズムと呼んでもいいだろう。

「正三の思想は、仏は気(機)であり、天地はその仏である気で満ちているという、画期的な仏理解が上げられる。つまり、仏である気が、十方に、満々と満ちており、その仏の働き(徳用)によって世界・世間のものごとが生成している。仏は、万徳円満の仏、言い換えれば、気である仏の計り知れない働き(万徳)によって、森羅万象が形をなし、一切世間の人々の所作・事業、すなわち鍛冶、農業、医業などの具体的なる活動(万徳)が生成して、世界を利益するのであると、その一端を測ることができる(公益財団法人中村元東方研究所研究員 加藤みち子氏)」という。

 

(2-3)「社会における自他不二の世界へ」

秋月龍珉氏は、「一日一禅」の著作の中で、「南山に雲起これば、北山に雨下る」という句について、次のように説明している。

『南山の雲と北山の雨とは不二である(二つであって二つでないこと)。それを空というのだ。空とは「自他不二」である(禅は、この不二を自覚することを説く)。平等即差別である。したがって差別即差別である。個物(微塵)と個物(微塵)とが相即相入する「事事無礙法界(じじむげほっかい=個と個とが円融交差して互いに礙〔さまた〕げない自他不二の境地の世界)」がそこにある。』自他の区別も空ぜられたとき、すべては一体化する。

秋月龍珉氏は、「南山の雲」の句を「張公茶を喫して李公覚む(a)」に代えたいと語る。このことを次のように説明している。

『従来の禅では相交わる対象がどうも自然に傾きすぎて「私と汝」という人間対人間のところで「自他不二」の境涯を練る訓練が足りなかったと思うのである。』
つまり、これまでの禅者は、覚りを開いて山水(自然・客体)と一体となることを愛ではしたものの、他者(人間・主体)との一体の境地を生きることには必ずしも積極的ではなかった。禅には社会性というものが不足していたと批判しているのである。禅道の修道において真に自他不二を自覚したなら、おのずから他者の悲しみ・苦しみが自己のそれとなり、他者のためになんとか働こうとするはずであろう。秋月龍珉氏は、本来の禅は、十字街頭にあってしかもことさらにでなくひそかに、くるしみにおたうちまわる他者のために働くのであると主張する。大智はおのずから大悲に流れる。はたらいてやまないのは、ひたすら他者のためにである。禅の公案体系は、単に覚りを得させるためだけでなく、むしろいかに菩薩行に徹底していくか、その生き方の実現を導くためのものなのである(竹村牧男*1p108~111)、と語っている。

(a)元の句は、「張公酒を喫して李公酔う」である。

 

(2-4)アガペーの愛の実践(慈悲の実践)

秋月龍珉氏の「自他不二」の主張は、現世(娑婆)における愛の実践になるだろう。
秋月龍珉氏は、聖書の「In the beginning there was logos(はじめに言葉=ロゴス=があった)」とあるが、それは「カルナ(悲・慈悲)」である。カルナは、「アガペー(神の人間に対する絶対的な愛)」であり、ここに仏教とキリスト教の共通の根拠がある。「初めに大悲があった」というべきであると語られている。(*1)

ここにおいて、禅とキリスト教は、同じ価値観に立ったのである。

鈴木大拙氏も、「仏教の真髄は何か。それは、般若(智慧)と大悲(愛)である。般若(智慧)をえれば、われわれは生と世界との根本的の意義を洞徹しえて、たんなる個人的な利益や苦痛に思いわずらうことがなくなる。大悲がそのとき自在に作用する。それは「愛」がその利己的な妨げを受けずに、万物に及ぶことができる(*2)」と語られている。

仏教は、禅は、寺院を飛び出して愛の実践に向かおうとしているのである。

私がブログで紹介した「エンゲージド・ブッディズム(人間仏教)と慈済基金会」も、こうした歴史の流れの中で起きている仏教の変革である。慈済基金会のルーツは、中国の太虚大師の人間仏教運動(エンゲージド・ブッディズム)に始まる。エンゲージド・ブッディズムと呼ばれている人間仏教運動【創始者太虚大師(1890~1947)は、人生仏教と呼んだ】は、現在アジアや西洋で急速に広まっている。彼は、寺院の外、病院や孤児院や学校などにおいて仏教徒が社会活動を行うことの必要性を強調した。彼の計画は、中国では実現されなかったが、今日アジアや西洋で急速に広まっている。ワーレン・ライは、次のように述べている。

仏教を寺院から現代の世界へと連れ出したのは、ほかならぬ大虚大師であった。また、この世で働くことに身を捧げるという大乗精神を復活させたのも、仏教徒の注意を現代の社会問題に向かわせたのも、当時、中国が直面していた国家的な危機の中で、僧侶を含む仏教徒たちに対して、国防に積極的に関与すべきことを説いたのも太虚大師であった。

大虚の弟子である印順は、台湾に移住して、「大乗菩薩の精神にしたがって、今、ここに生きていることに改めて取り組み直す」ことを説いた。今日、中国文化圏で急速に発展しつつある台湾の「慈済基金会」に大きな示唆を与えた。

アガペーの愛の実践は、仏教世界でも着実に広がりを見せているのである。

 

(2-5)さらなる高みの覚りへ

禅の修行によって得た覚りは、覚りの終着点ではない。アガペーの愛の実践だけではない。さらなる覚りの世界がある。還相(娑婆)の中に自他不二の世界を創り出すことが待っている。

釈尊は、現世を捨てるという形で覚りを開かれた。衆生の布教にあたっても、覚りに至るには出家が必要であるとされた。衆生のままでいる人については、菩薩行を積むことによって、菩薩までには至れるといわれたとされる。

現世における救済は、後世に託された課題となった。その救済をもたらす人として弥勒菩薩の来臨が待望されてきた。しかし、弥勒菩薩の来臨は56億7千万年後という途方もない遠い未来の話だった。

釈尊の入滅後花開いた大乗仏教は、煩悩にまみれた衆生にも仏性がある、仏性を覚醒することによって現世での救いを得ることができると説いた。法華経の観世音菩薩普門品第二十五(通称観音経)が人気なのも、現世での救いを説いていることによる。禅は、衆生一人一人に仏性があるという前提に立っている。

禅は、人間個人ということでは覚りに至る道を見出した。

 

しかし、秋月龍珉氏の批判のように、禅の覚りは禅院に籠り、一人覚醒して自然山水を愛でることを主眼として、衆生救済に出かけていくことはまれだった。

衆生救済とは、鈴木正三のように現世における仏法の実践を説くだけでも、またアガペーの愛の実践をするだけでもない。「私と汝」という人間対人間のところで「自他不二」の境涯を創造することである。私を中心として自他不二の人間関係を構築することである。ちょうど禅の修行において、自己の心をそぎ落として個―超個の覚りの世界に達し、本来の自己を見出したように、自己と他己の間においてそれを創り出すのである。社会における自他不二の世界は、私と他者は一体であり、別々ではあっても分かつことができないという世界に至ることである。

この現世(娑婆)における人間関係を超個の世界(神・仏)の世界につなげるのである。親と私、夫婦、親と子、一族、友人知人、民族国家、世界とつなげるのである。この人間対人間の関係で「自他不二」の世界が実現できたならば、そこが天国である。宗教はすべて地上天国の実現を目指しているというのもこのことを指している。

しかし、この道は困難を極めるものである。自己と他己の間には、歴史的な因果応報が待ち受けており、人間関係を裂いている。色情の因縁、殺傷の因縁、罪の因縁と呼ばれる罪障が人間関係を切り裂いている。もっとも身近な人間関係である家族でさえ多くの問題を抱えているという現実は、この道が容易ならざる道であることを感じさせてくれる。

家族の崩壊は、今に始まったものではなく、遠い過去にさかのぼる歴史的な罪障である。日本の古事記をはじめ、世界中の多くの神話が家族内のトラブル、対立、殺人を記している。最も古い家族のトラブルは、聖書のアダムとイブの家庭から始まっているといっていいだろう。家族は現世でのもっとも基礎となるべき単位であるが、そこには如何ともしがたい深い問題が横たわっていることを感じる。この家族が抱えている問題を解決することなくして、現世(娑婆)での「自他不二」の世界を築き上げることは難しいといわざるを得ない。家族内での対立・殺傷が子々孫々の代にて拡大して民族対立として現れてきた。家族の問題は、この世における自他不二の根源的な問題なのである。

そして、この問題に立ち向かうためには、禅が培った覚りが大きな武器となる。自他不二の対象となる他己は、仏性を有してはいるものの、その仏性なるものは密雲に隠されていて煩悩に翻弄されて輝きを放っていない。その煩悩の密雲に立ち向かい、仏性を目覚めさせる修行が待ち受けているのである。さらに厄介なのは、修行の場所が静かな禅院ではなく、喧騒とした悪鬼の住処であることである。個の確立が不十分なままでは、悪鬼に敗北して自他不二の世界を構築することは大変むずかしいのであり、他己を覚りに至らしめるのであるから尋常ならざる努力が必要なのである。

この闘いには、今後多大な時間がかかるであろう。しかし、この闘いを避けては人類の未来はないことを知るべきである。このほか、現世における自他不二の世界の創造には複雑で厄介な問題が待ち構えている。そのことについては、別の機会にする。

 

(*1:竹村牧男著「禅の思想を知る事典」東京堂出版2014)

(*2:鈴木大拙著 北川桃雄訳「禅と日本文化」岩波新書 1940)