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禅の世界と禅の未来(4)覚りの世界

(1)「無」:人間の極限は神の機会である

公案でもっとも有名な「無門関」第一則「趙州無字」は、趙州和尚、僧の『狗子(しし)にも還た仏性ありや』と問うに因って、州云く、≪無≫』というものである。無に集中して次第に一心に統一され、推し進めていくと突然覚りを開くというのである。

この無字に集中して坐禅修行の実際について、川尻宝岑は次のように述べている。「この打成一片の地位を喩えてみると、厚い氷の中に閉じつ込められているようなものじゃ。上下四方、前後左右、悉く透き徹っていかにも見事な美しいものではあるけれども、わが身は氷に閉じ込められているゆえ、身動きをすることのならぬようなもの、この時に至って少しも退却の心を発さず、一念も動かさず、ただ一向に「州云く、無無無無で、無二無三で押し込んでゆくと、頓て時節到来して豁然(かつねん)として真の悟りが開けるのである。(川尻宝岑『坐禅の捷径(はやみち)』(*1p27)」

 

禅の修業も、最後は自力を手放して自己を超える大きないのちの働きにまかせるというところがある。優れた禅の覚者は、しばしば他の浄土念仏者の自己の凡夫に徹底して阿弥陀仏の大悲にまかせて救われるという他力信仰と共感を抱くのだという(竹村牧男*1)

 

臨済は、洞徹した「無意識」の境(無の境地)において、結局「仏法などそう大したものではなかった」。「無意識」は蓄積された知識の宝庫ではなくて涸れることを知らぬ生の源泉であるからだ。(無意識から)巨木が極小一粒の種子から成長するようにここから生長するのである。偉大な行為はみな、人間が意識的な自己中心的な努力を棄て去って、「無意識」の働きにまかせるときに成就せられる。神秘的な力が何人の内にも隠されている。(鈴木大拙*2p160)

鈴木大拙氏は、「禅と俳句の中で、覚りは『狂う』こと、すなわち通常の意識レベルたる知的レベルを超えることだといわれている。その通りである。覚りには別の一面があって、それは通常に異常を見、平凡な事物に神秘的なものを感知し、創造全体の意味を一気に領得する一点を把握し、一本の草の葉を採ってこれを丈六の金身仏に変ずるのである」。無の境地は、神との出会いの場なのである。

 

(2)個と超個

禅の修行において重要な体験は、対象的分別を超えた(やんだ)純粋経験を体験することである。対象的分別を超えたところに「無」としかいえないような境地があり、他方では今現在の私の具体的な活動(行動だけでなく思考も含われる)がある。かけがえのない自己(個)と個を超えた超個が一つになった自己構造がある。(竹村*1))私なりにいうと、透き通った意識圏が天に向かってスーッと広がっていて、その意識圏で自己という現実の姿とそれを大きく包みながらすべてを見ている超個の二重意識がある。

 

道元のことば「正法眼蔵」「現成公案」≫

「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭々に辺際をつくさずといふ事なく、処々に踏飜(とうはん)せずということなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命しりぬべし。以空為命しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんには、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆえにかくのごとくあるなり。」

 

竹村牧男氏は、この言葉を次のように説明されている。

水・空は不可得のいのちの世界、鳥・魚は今・此処のかけがえのない活動そのもの、その両者の一つのところないし全体が、自己そのものなのである。単なる無でもない、無にして有のいのち、不可得にしてしかも現実の場において活動するいのちに自己がいると。(*1)

 

≪西田幾太郎「自己は絶対者の自己否定として成立する」≫

西田幾太郎氏は、自己の根柢を訪ね徹する時、「我々の自己は絶対者の自己否定として成立するのである。絶対的一者の自己否定的に、即ち個別的多として、我々の自己が成立するのである。故に我々の自己は根柢的には自己矛盾的存在である。自己が自己自身を知る自覚と云ふことが、自己矛盾である。故に我々の自己は何処までも自己の底に自己を越えたものに於いて自己を有つ、自己否定に於いて自己自身を肯定するのである。かかる矛盾的自己同一に徹することを、見性と云ふのである。(西田幾太郎全集新版第10巻p352~353 岩波書店)」

西田幾太郎氏の「自己は絶対者の自己否定として成立している」という指摘は、「自我」と呼んでいる観念が独立した本質的なものではないという重要な指摘である。西田幾太郎氏は、自己を超えた絶対的存在を「神」と呼んでいる。また、自己と自己を超えるものとが一つであるところを「逆対応」と表している。逆対応とは、個の方向に自己を徹底して追求し、そのまさにかけがえのない個であることの自覚の果てに最高の普遍である絶対者(神)と出会うということである。

 

≪自己の転換(西田幾太郎の平常底)≫

禅宗では、見性成仏と云ふが、かかる語は誤解せられてはならない。「見」と云っても、外に対象的に何物かを見ると云ふのではない。又内に内省的に自己自身を見ると云ふのでもない。自己は自己自身を見ることはできない、眼は眼自身を見ることはできない。然らばと云って超越的に仏を見ると云ふのではない。さう云ふものが見られるならば、それは妖怪であろう。「見」と云ふのは、自己の転換を云ふのである」。入信と同一である。いかなる宗教にも、自己の転換と云ふことがなければならない。即ち廻心ということがなければならない。これがなければ宗教ではない。(中略)我々の自己が自己自身の根柢に徹して絶対者に帰すると云ふことは、この現実を離れることではない。却って歴史的現実の底に徹することである。絶対的現在の自己限定として、何処までも歴史的個となることである。(西田幾太郎全集新版第10巻p337 岩波書店)」

竹村牧男氏は、西田哲学の平常底について、絶対者のふところに抱かれてやすらうのみではない。その愛に浴するがゆえに、自由自在に働いてやまない主体が発動するのである。自己成立の根柢に絶対者の愛があり、それゆえにその愛に応えて働くという「報恩ゆえの当為(行うべき行為)」へということにあると説明している。(*1)

絶対マイナスの先には、神に出会って神の愛に触れて絶対プラスに転じるという大転換が起こるというのである。このような大転換を体験するがゆえに、絶対者の愛に応えてはたらく主体と転ずるのである。

 

≪身心脱落(とつらく)から脱落身心≫

道元は、脱落すると、無に帰して終わるのではなく、不思議と現実世界へよみがえると記している。

「雪裏の梅華は一現の曇華なり。ひごろはいくめぐりか我仏如来の正法眼晴を拝見しながら、いたづらに瞬目を蹉過して破顔せざる。而今すでに雪裏の梅華まさしく如来眼晴なりと正伝し、承当す。これを拈(ねん)じて頂門眼とし、眼中晴とす。さらに梅華裏に参到して梅華を究尽するに、さらに疑著すべき因縁いまだきたらず、これすでに天上天下唯我独尊の眼晴なり、法界中尊なり。(「正法眼蔵」梅華の巻)」

雪が一面埋めた世界にあって、春にさきがけて梅が一輪二輪ほころぶ。それは正法の核心(眼晴)であり、如来の核心である。覚りの只中にある。一切の分別を掃討し尽して、いわば無の世界に入り尽して、さらにそこをも突破して主客未分の一真実に出会ったところというべきであろう。脱落すると、無に帰して終わるのではなく、不思議と現実世界へよみがえるのである。(*1)

 

鈴木大拙の個と超個≫

「個は、個である。超個ではないが、超個は個で始めて用が可能になる。個は超個である。個だけではない。超個の個である。仏と人とは即非無異の論理である。」自己は自己を超えたものと一つであるのが、自己の真実の姿である。同時に個は、超個にあやつられる存在ではなく、「個は、道具でなく自由意志の主体である。本能的・反射的行為の能動者ではなくて、自分を自分で規制し主宰して行くところの創造者である(鈴木大拙著「禅の思想」)」。

個は、超個のもとに成立しつつ、むしろそれゆえにあくまでも個の意志をもってはたらくというのが本来の姿である。(*1)

 

(3)「大地性」―母なる大地

鈴木大拙氏は、「天の太陽なくしていのちはないが、また大地に根をおろさなければ生きていけない。大地は踏んでも叩いても怒らず、あらゆるものをひきとめるものであるとし、『霊性の奥の院は実に大地の座にある』という。大地の何事も許してくれる限りなき愛、包容性、母体にこそ宗教の根源がある。大地は、人間の誠に応じて応えてくれる。季節の順序性も教えてくれる。ゆえに大地は大教育者であり、大訓練者である。(『鈴木大拙全集 第八巻p45~46』岩波書店*1)」

大地は、(地球宇宙の)自然と呼んでもいいであろう。人が仏の慈悲・神の愛を受ける片側で、仏の慈悲・神の愛を受けた大地が存在して、人はこの大地に抱かれて生きている。この両者のかけがえのない相互関係があって、この世界は創造されている。人も、超個(絶対者=神・仏)との関係においては大地性の位置(対象)にあり、(地球宇宙の)自然との関係においては超個の立場(主体)にある。人は超個の覚りに成長するまで、大地の限りなき愛・包容性に包まれて教育されているというべきであろう

釈尊が亡くなった時、動物までが集まって来て号泣したと伝わっているが、それは大地の主人を失った大地の嘆きなのである。仏・神の愛を受けた大地は、もう一つの教育者であり、そして本然の人によって愛を受ける存在なのである。それゆえ、釈尊が亡くなったことは、大地の悲しみでもあったのである。

キリスト教の「新約聖書:ローマ人への手紙:8章:19節 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」は、被造物に本来の愛をもたらしてくれる主人(人)が現れることを切望しているという意味である。

大地は、人が利用するだけの存在ではなく、人に恵みを与えるだけの存在ではなく、人から本来の愛を受けて喜びをともに享受したい存在なのである。

 

(4)芸術とは直結するが、道徳とは直結しない

鈴木大拙氏は、「禅はどうしても芸術と結びついて、道徳とは結びつかぬ。禅は無道徳であっても、無芸術ではありえない」と語っている。(*2p28)

この指摘は重要な意味を有している。禅は、形式主義・慣例主義・儀礼主義を否定する結果、精神はまったく裸出してその孤絶性・孤独性に還る。超絶的な孤高多様性・超越的な孤絶性を獲得するがゆえに必然的に一つの美的世界・芸術世界を創り出す。そぎ落とされて本質をむき出しにした世界である。

「わび」と呼ばれる文化は、世間的な富・力・名に頼らず、しかも何か時代や社会的地位を超えた不変の価値を持つものの存在を表現する。「さび」は、文字の上からいえば「孤絶」とか「孤独」とかを意味して、目覚ましい示威(デモンストレーション)をやったりなどせぬ。一見はなはだみじめな、無意義な、憐憫を催させる底のものである。

茶の湯の指導原理たる「さび」を最もよく言い表すものとして挙げられる歌として

見わたせば  花も紅葉もなかりけり  浦のとまやの  秋の夕暮  (藤原定家

花をのみ待つらむ人に  山里の雪まの  草の春を  見せばや  (藤原家隆

ささやかな草の形を借りてかすかながら生の力の萌が主張されている。冬の荒涼たる最中に生の衝動があることが示されている。(*2)

このように、芸術とは直結する。しかし、道徳とは必ずしもこのようにはならない。「無」に徹しきったならば、神・仏の大慈悲が顕現して道徳的に直結しても不思議ではない。しかしそうならないと鈴木大拙氏は述べている。自然との間においては、問題なく直結するが、対人間の関係においてはそれが難しいといっているのである。個を超越したとしても、人間同士の関係においては、神・仏が直截に入り込めないのである。

その理由は、双方が覚りの境地に至っていない故であり、また個を超えた「超個」の世界に神・仏以外の存在があるということに原因がある。通称「サタン」とか「悪魔」と称されている存在が、道徳的でない方向に人間を引っ張っていくのである。人間が無の境地において神・仏を迎え入れる心情が足りなければ、道徳的ではない方向に向かわせしめられるのである。「神」を選択するか、「悪魔」を選択するかの岐路におかれるといったらよいであろう。「愛」は「死」よりも尊いというのは、ここからきている。

(*1:竹村牧男著「禅の思想を知る事典」東京堂出版2014)

(*2:鈴木大拙著 北川桃雄訳「禅と日本文化」岩波新書 1940)