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禅の世界と禅の未来(3)禅の世界

(1)一即多・多即一

禅を語る時、常に出てくる言葉は「一即多、多即一」である。「一即多、多即一」という事実の直観認識は、「空即是色、色即是空」につながる仏教の根本教義でもある。

「一即多、多即一」は、「一」と「多」の二概念に分析して分別智を働かせてはいけない。そのまま受け取ってそこに腰を落ち着けるのである。これがここで必要な一切である。

「空」は、絶対の世界であり、「色」は特殊の世界である。禅の最も普通の文句の一つに「柳は緑に、花は紅」というのがある。ここでは特殊の世界を直説しているので、この世界では、また竹は直く、松は曲がっているのである。体験の諸事実がそのままに受け取られる。禅は否定的、虚無的ではない。しかし、同時に特殊世界の経験諸事実は相対的の意味でなく、絶対的の意味において、いっさい空である。絶対的意味における空とは、分析的な論理の方法で達しうる概念ではなくて、竹の直き、花の紅などという体験事実そのままを指すのである。直観または知覚の事実を素直に認めることである。知的作用という外側のものに向かわずに、心がその注意を内部に向ける時、一切は空から出て、空に帰することを知覚するのである。而してここに往還といえば往くと還るとの二つの方向があるかのごとく考えなければならぬが、その実はただ一つの動きである。

この動態的同一作用ともいうべきものは、われわれ体験の基礎であって、一切の生活活動はその上に展示されるのである。禅は、われわれにこの基礎まで掘り下げるべきことを教える。『禅とは何ですか』と問われると、『禅だ』とか『非禅だ』などと禅者が答えるのは、じつにこの見地からである。(鈴木大拙*2)

 

(2)時空の認識(即今・此処・自己)

「日々是れ好日」という禅から来た言葉がある。もちろん毎日がいい日であるということではない。楽しい日もあれば苦しい日もある。ただひたすら現在・今に徹して生きることが大切であるという教えである。中国の禅師超州の言葉に、「十二時には使われるな、十二時をつかえ」という言葉がある。対象(事態)に引きずり回されるこのではなく、主体として対象(事態)を見よという教えである。(*1)

我々人間は、どうしても毎日の出来事に振り回されやすい。そしてその出来事に引きずられて、次の日もその思いを引きずりやすい。また、思いわずらって先を考えてしまう。その日はその日だけであって、次の日はすべてが違う。だから、すべてをリセットしてその時に集中して人生に臨むことが重要であると教えるのである。

秋月龍珉氏は、「禅の修業は常に『即今・此処・自己』が問題である。これを忘れると、公案がよそごとになり、せっかくの参禅がむだごとに終わる」という。無相の自己が有相有位に働くことを学ぶことが参禅の大切な目的である。

鈴木大拙氏は、「禅には一揃いの概念や知的公式をもつ特別な理論や哲学があるわけではない。ただそれは人を生死の絆から解こうとするのである。しかも、これをするために、それ自身に特有なある直覚的な理解方法によるのである(*2p37)」と述べている。

禅は、『今』を大事にして直覚的な方法によって今に徹して生きることを教えるため、思想哲学上の精神的な生死のみならず、自らの肉体の死という観念の壁をも超えることができるのである。それゆえ、どんな思想哲学にも対応でき、あらゆる思想に結びつく。禅が武士に受け入れられたのも、この単純直截な方法と今に徹して生き、一度決すると振り返らないという精神、死という観念を超えることに手を結ぶ要因があった。(*2)

また禅の死後の世界観(死後人間はどこに行くのかという問い)は、「死後のことは考えるな」とされている。今に徹する生き方を教える禅にとって、死後という観念は考える対象ではないということである。

 

(3)孤高・孤絶の境地

「禅は、形式主義・慣例主義・儀礼主義を否定する結果、精神はまったく裸出してその孤絶性・孤独性に還る。孤絶とは、世間の言葉でいえば無執着ということである。超絶的な孤高または超越的な孤絶性は、清貧主義・禁忌主義の精神である。それはすべての必要ならざるものの痕跡をいささかも止めないということである。(鈴木大拙*2)」

禅は、われわれのうちに眠っている般若(智慧)を目ざまそうとするために、認識の通常の方法とは逆の方法できたえるものである。無明と業をもたらしている知的作用―論理と言葉―を蔑視して否定していく。それは、自らの否定である。

体験により否定していくことにより、自らの精神はそぎ落とされ、孤絶・孤独の世界に入り込んでいく。あらゆる宗教が、「自己否定」と呼ぶ煩悩にまみれた精神を捨てていく過程である。禅は、その過程を精神の裸出した状態で行うため熾烈をきわめる。

道元漢詩に次のような詩がある。

西来の祖道  我れ東に伝う  月に釣り雪に耕し、 古風を慕う。

世俗の紅塵、 飛びて到らず  深山雪夜  草庵の中。

まったく音もしない静寂の極みの中で、孤独に徹した世界に一人ひそんでいる姿がある。(*1)この世界こそ、孤絶の世界である。  

こうしてたどり着いた世界は、余計なものすべてがそぎ落とされ、否定し尽された厳しさがあって、極寒の世界がふさわしい内的世界である。ただ孤独・孤絶の世界は、禅だけに特有なものではなく、すべての宗教の修行の過程で必ずあるものである。

 

『禅の芸術の特徴とされる「わび・さび」は、この精神の修練の過程から来ている。「わび」の真意は、貧しいということすなわち世間の富・力・名に頼らず、時代や社会的地を超越した最高の価値を持つもの。「さび」は鄙びた無虚飾や古拙(原始的な無骨さ)な不完全にある、単純さや無造作な仕事ぶりにある、豊かな歴史的連想をもたらす「孤絶」を意味し、くだんのものを芸術的作品に引き上げる要素を含んでいる。(鈴木大拙*2)』

禅の精神の世界が、秋から冬、そして早春を好むのも、自らの世界を一度棄て去って、自らを新たに芽生えさせようとすることに主眼があると考えれば、十分納得がいくものである。

見わたせば  花も紅葉もなかりけり  浦のとまやの  秋の夕暮(藤原定家

この有名な歌も、禅の修行の世界の心情と重ね合わせれば、納得できるものである。白隠禅師は、「坐禅を深めれば、やがて万里の層氷裏にあるがごとくなる」といった。坐禅そのものの心境が、冬の冷え冷えとした世界と通じているのである。

 

(4)不動智

禅が呼び覚まそうとしている知識習得の方法は、直覚的な理解の方法によって知識を獲得しようとするものである。この方法は、事実に確実な基礎を有しないからあまり絶対的な信頼を置くことができないとされている。しかし、この直覚的方法はあらゆる宗教的信仰を基礎に歴史をかけて形成されてきていることを承知すべきである。不動智は、この直覚的方法によって得られるものである。

 

「仏教の修行も最高の段階に到達すれば、仏陀のことも、法のことも、なにも知らぬ無邪気な子供と同じようになれよう。自己欺瞞からも、偽善からも、自由になる。しかるときは、不動智は、結局、無智でありー両者は二ならず、一である、ということができる。ここには、ある点に対して、ある点を選択する際に、人を躊躇させるところの、分別智というものがなく、したがって、無念無想という心境の熟達にとって有害な、「止まる」ということがどこにも存しないからである。無智の人は、智力をいまだ目ざまさぬから、素朴のままにある。賢い人は智力の限りを尽くしているから、もはや、それに頼らない。両者は睦まじい隣り同志である。「生ま知り」の人にかぎって、頭を分別でいっぱいにする。(中略)われわれの心は分割されてそこに『我』と『非我』が生じ、この二元性ゆえにわれわれは善悪のいっさいの行為をとげることとなり、『業(カルマ)』のもてあそびとなるよりほかない。『業』もじつは『心』から発する。ゆえに『心』そのものを洞徹することである。そしてこの洞徹力を実生活の機能となさねばならぬ。」(鈴木大拙*2)

「たとえば、人から話しかけられた時には、ただちに『諾』と答える。それが不動智である。話しかけられた時、いかなる用があるのかと、不審がったりして熟考するならば、それが心の『止まる』のであり、すなわち、混乱と無智(住地煩悩)とであり、いまだ尋常の智の人であることを示すのである。(この止まる心から執着の心起り、輪廻もこれより起こり生死の絆となる。)間に対して即座に応ずるところのものは、『仏陀の智慧』であり、それは神々と賢愚の別なく人間を含めたいっさいのものに、あまねく与えられているものである。この『智慧』に命ぜられて行動するときは、人は仏か神である。」(鈴木大拙*2)

(*1:竹村牧男著「禅の思想を知る事典」東京堂出版2014)

(*2:鈴木大拙著 北川桃雄訳「禅と日本文化」岩波新書 1940)