禅の世界と禅の未来(2)禅の修行と方法

(1)禅の方法

禅の方法とは、心を統一して観察することである。禅定と智慧の修習、止観の修習(外界の現象や乱れた思いに心を動かさず、特定の対象に心を専一に注ぎ、止によって正しい智慧で現象を観ずること。止と観とは車の両輪である)。

仏教の覚りをひらく前提として必ず禅定は準備されているのであり、どの宗派にも例外なく止観行は準備されている。華厳宗では法界観、天台では摩訶止観、密教では阿字観、唯識思想では唯識観と呼ばれている観法が用意されている。禅宗が伝える方法は、釈尊菩提樹の下で覚られた世界を追体験する道として無念無想を旨とする坐禅を伝えてきた。それは、仏陀の精神(般若=超越的智慧と大悲=愛)を直接見ようとするものである。

 

唯識思想の無著は、心を統一する方法として「摂大乗論」の中で、
「静慮の三品とは、一に安住静慮、二に引発静慮、三に成所作事静慮(じょうしょさじじょうりょ)なり」

と記している。(*1)

安住静慮とは、禅の修行の中で安楽な心境に住するようになることである。これは、だれもがすぐに納得されるだろう。二番目の引発静慮とは、禅定を深めていくと神通力が現れるようになるということである。覚者になると、煩悩にまみれた衆生にはない何かしらの不思議な力が現れてくるのだという。三番目の成所作事静慮とは、禅の修習の中で、疫病の流行を止めるとか震災の出現を止めるとかの力を発揮できるようになると記している。(*2)

現代人には理解できない記述であるが、禅の覚者が覚った世界をたどると、これは事実である。しかし、これには条件がある。覚者が超越者(神)と一つになって、神の意志に沿う場合においてである。勝手に超能力をふるうと、ものの理から離れるので、マイナス要因(マイナスの縁)を引き起こすことになる。

 

(2)無明と業(カルマ)からの脱却

禅は、無明(煩悩の根源)と業(カルマ)の闇に包まれて埋もれてしまっている般若を目ざまそうとするものである。鈴木大拙氏は、「無明と業は知性に無条件に屈服するところから起こる。知的作用は論理と言葉となって現れるから、禅は自らの論理を蔑視する。自分そのものを表現しなければならぬ場合には無言の状態にいる。知識の価値は事物の真髄が把握せられた後に、はじめてこれを知ることができる。これは、禅がわれわれの超越的智慧(般若)を目ざます場合に、認識の普通のコースを逆にした方法で、われわれの精神を鍛えるという意味である(*2)」と語られている。われわれがもっている認識・知識は、本然のもの(般若)であるとはいいがたいものであるため、これを払拭・否定する内的闘いが禅なのである。

 

(3)修行生活

禅院の修行は、禅宗独自の清規(しんぎ=修行共同体の規範)にのっとって行われる。起床は夏3時半、冬4時半、洗面・用便・着服ののち、本堂での朝の勤行。移動はいつも叉手当胸(しゃしゅとうきょう)、無言のうちに行われる。勤行では、経典の読誦が行われる。朝の勤行ののち、僧堂にもどり再びお経をあげ、梅湯茶礼などがある。その後、食堂にて朝食(粥座)がある。

朝食後、再び茶礼(点呼を兼ねている)があり、その日の行事や用務が告げられる。その後、朝の独参(師家の室に入って公案の解答を師家に呈する)が始まる。独参の時間が過ぎると、作務(講座、剃髪、掃除、畑仕事、木の枝打ち)や托鉢(午前11時までと決められている)にあてられる。作務中も私語は一切禁止である。

午後3時を放参といい、夕方の勤行に相当する晩課が始まる。夕食(薬石)ののち、昆鍾までは自由時間である。昆鐘では、その役割の者が梵鐘をつきながら「観音経」を朗唱する。昆鐘から解定(かいちん=睡眠のための消灯時間)までは、坐禅の時間である。坐禅の始まりは、禅堂門前に吊るされている木板を打つことによって通知する。

解定は、通常9時半、大接心の時は11時である。消灯後も、夜坐といって坐禅修行がしばしばなされる。(*1)

私自身は、禅の修行は行ったことがないが、修行生活の内容に違いがあるものの、概ね宗教の修行生活とはこのようなものと考えてよいと思う。

 

(4)坐禅

坐禅の方法は、身体の定着と呼吸の調整から心の統一を実現する道で、単に心によって心を操作するようなものではない。身体の安定、呼吸の安定を通じて心を調整する道なのである。この方法は、釈尊が初めて創造したものではなく、インド古来のヨガ技法に基づくものであるに違いない(*1)。

 

(5)禅と経典読誦

禅においては、「不立文字・教外別伝」と標榜するにもかかわらず、日常的に経典を読誦する。「般若心経」「金剛般若経」「観音経」「大悲呪」「尊勝陀羅尼」「楞厳咒」などである。

「般若心経」は、本来密教の経典であるが、禅宗では般若波羅密多の覚りを描いているものとして用いられている。「金剛般若経」は、全編「如来如来に非ず、是を如来と名づく」というような即非の論理が唱えられていて、禅宗と近しい関係にある。また、末尾の「如露如電、応作如是観(露の如く、また電の如し。応に是の如き観を作すべし)という空観を表す有名な句があるが、六祖慧能はこの経典の読誦の声に触れて覚りを開いたとされている。(*1)

 

(6)禅と戒律

仏教においては、出家者は釈尊の制定した戒律を受けてこれを守ることになっている。釈尊以後、その戒律は分裂した各教派によってそれぞれ異なるものとなってきた。

大乗仏教の戒律としては、①摂律儀戒(しょうりつぎかい=一切の諸悪を断捨する戒)、②摂善法戒(しょうぜんほうかい=一切の善法を実践する戒)、③饒益有情戒(にゅうやくうじょうかい=他者を利益することを勧めるもので、種々の慈悲業の実践があてられる。摂衆生戒ともいう)の三聚浄戒が説かれている。これとは別に下記に記した十重四十八軽戒があり、大乗仏教徒の出家者は、小乗の具足戒を受けなければならなかった。

道元の戒思想も、三帰・三聚浄戒・十重禁戒の十六条戒からなっている。この他に、修行僧らには禅院運営の清規(しんぎ=修行共同体の規範)がある。(*1)

 

≪十重禁戒(梵網経に基づく大乗菩薩戒)≫

①  不殺生戒・・・生き物を殺さない

②  不偸(ちゅう)盗戒・・・他人のものを盗まない

③  不婬欲戒・・・婬(淫行)をなさない。(在家の場合は夫婦以外の婬をなさない

④  不妄語戒・・・うそをつかない

⑤  不飲酒戒・・・酒を飲まない

⑥  不説四衆過罪戒・・・他人のまちがいや欠点を言ったり、人をして言わしめない

⑦  不自讃毀他戒・・・自分のことをほめて他人をけなすことをしない

⑧  不慳貪戒・・・物心両面にわたり、他へ施すことを惜しまない

⑨  不瞋恚戒(ふしんにかい)・・・むやみに怒りを発しない

⑩  不謗三宝戒・・・仏・法・僧の三宝を謗(そし)ることをしない

(*1:竹村牧男著「禅の思想を知る事典」東京堂出版2014)

(*2:鈴木大拙著 北川桃雄訳「禅と日本文化」岩波新書 1940)