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(鈴木大拙氏とともに)禅と武士道

「天台は宮家、真言は公卿、禅は武家、浄土は平民」という言い回しがある。この言葉は、日本の仏教各宗の特色をよく表している。天台と真言は、儀式主義に富んでいて、その儀式はなかなか煩雑で、手の込んだ華麗豪奢なものがあるので、それが洗練された階級の嗜好に投ずる。浄土は、その信仰と教義が単純であるから、平民の要求に応じている。禅は、究極の信仰に到達するために、最も直接的な方法をとるとともに、これを遂行するために異常な意力を必要とする宗教である。武人の精神に近い宗教である。(*p38)

鈴木大拙氏の著書「禅と日本文化」より、禅と武士道の関係についての部分を抜き出してみた。

禅は、日本に入った当初から武士と密接な関係にあった。武士が一たび禅に入った時には、禅は受動的に彼らを支持した。禅は、道徳的哲学的二つの面から彼らを支援した。道徳的というのは、禅は、一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教える宗教だからで、哲学的というのは生と死とを無差別に取り扱うからである。この振り返らないということは、結局、哲学的確信からくるのであるが、元来、禅は意志の宗教であるから、哲学的より道徳的に武士精神に訴えるのである。哲学的見地からは、禅は知性主義に対立して直覚を重んじる。直覚の方が真理に到達する直接的な道であるからだ。それゆえ、禅は武門階級にとって非常に魅力がある。武門階級の精神は比較的に単純で哲学的に耽るというようなことは全然ないから、禅において似あいの精神を見出すのである。

次に、禅の修行は単純・直裁・自恃・克己的であり、この戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致する。戦闘者はつねに闘うべき目前の対象にひたすら心を向けていればよいので、振り返ったり傍見をしてはならぬ。敵を粉砕するためにまっすぐ進むということが彼にとって必要な一切である。ゆえに彼は物質的・情愛的・知的いずれの方面からも、邪魔があってはならぬ。もし戦闘者の心に知的な疑惑が少しでも浮かんだならば、それは彼の進行に大きな妨げとなる。もろもろの情愛と物質的な所有物は、彼が最も有効的に進退せんと欲する場合には、この上ない邪魔物になる。立派な武人は総じて禁欲的戒行者か自粛的修道者である。という意味は鉄の意志を持っているということである。そうして必要あるとき、禅は彼にこれを授ける。

第三に、禅と武門階級は歴史的なつながりがあった。禅を最初に日本に紹介したと見られている栄西(1141~1215)は、その活動が京都に限られていたため、ある程度まで天台や真言と妥協して調和的態度をとらなければならなかった。しかし、北条氏が居を構えた鎌倉は、武門階級の中心地であった。北条氏は、厳格な節倹と道徳的修養とで、またその強力な行政的および軍事的整備で聞こえている。その指導者たちは、宗教に関しては禅を彼らの指南として抱懐した。禅は、13世紀以来、足利時代を通し、徳川時代においてさえ、日本人の一般文化生活に種々の影響を及ぼした。

禅には、一揃いの概念や知的公式を持つ特別な理論や哲学があるわけではない。ただそれは、人を生死のきずなから解こうとするのである。しかも、これをするために、それ自身に特有な、ある直覚的な理解方法によるのである。それゆえに、その直覚的な教えが妨げられぬ限り、いかなる哲学にも道徳論にも、応用自在の弾力性をもっていて、極めて抑揚に富んだものである。

禅は、無政府主義やファッシズムにも、共産主義や民主主義にも、無神論や唯心論にも、またいかなる政治的、経済的な教説にも結び付いている。ある意味では、禅はいつも革命的精神の鼓吹者ともいえる。また過激な叛逆者にもなれば頑固な守旧派にもなりうるものを、そのなかに貯えている。なんでも危機ーいかなる意味でもよいが、それに瀕した時は、禅は本来の鋭鋒を現して、左右いずれとも現状打破の革新力となる。鎌倉時代の精神はこの点において、禅の男性的精神と相呼応していた。

禅は、究極の信仰に到達するために、最も直接な方法を選んだほかに、これを遂行するに異常な意力を要求する宗教である。そして、意力は武人のぜひとも必要とするところのものである。もっとも禅は、意力だけでなく、最後は直覚によって解決をつけるべきものではあるが。(*p35~38)

われわれが一般に武士道として理解するものを作りあげるようになった中心思想は、武士たるもの威厳を不断にたゆむことなく擁護するということである。この威厳とは、忠孝仁義の精神である。しかし、これらの義務を立派に果たすためには、二つの事が要る。一は実践的な方面のみならず、哲学的な方面でも、一種の鍛錬主義を抱持することであり、一は常住死を覚悟すること、すなわち、その機に臨めば、躊躇なく身命を放擲(ほうてき)することである。これがためには、多くの精神上の修養が大いに必要である。

専ら戦闘に生命を捧げる武士にとって、死の問題は逼迫している。戦闘は、闘うもの双方の側にとって死を意味する。17世紀の武人著者大導寺友山は、その著書「武道初心集」の初めに、「武士に取って最も肝要な考は、元旦の暁より大晦日の終わりの一刻まで日夜念頭に持たなければならぬは死という観念である。この念を固く身に体した時、汝は十二分に汝の義務を果たしうるであろう。・・・」と記している。

江戸時代中期、佐賀藩鍋島直重の下で禅僧によって編纂された「葉隠」の、葉隠の意味は、「葉の陰に隠れる」意で、わが身を誇示せず、角笛を吹いて廻らず、世間の眼から遠ざかって、そうして社会同胞のために深情を尽くすのが、武士の徳の一つだというのである。

この書では、いつにても身命を捧げる武士の覚悟を強調し、いかなる偉大な仕事も、狂気にならずしては、すなわち、意識の普通の水準を破ってその下に横たわる隠れた力を解放するのでなければ、成就されたためしはないと述べている。この力はときとして悪魔的であるかもしれぬが、超人間的であり、すばらしい働きをすることは疑えぬ。無意識状態が口を切られると、それは個人的の限度を超えて立ち上る。死はまったくその毒刺を失う。武士の修養が禅と提携するのは実にこの点である。

日本人の、特に武士の『潔く死ぬ」という死の哲学・態度は、禅の教えと一致したのである。

禅を熱心に学んだ上杉謙信は、家臣たちに次の訓戒を残している。
「生を必する者は死し、死を必する者は生く。要はただ心志の如何にあり。よく此の心を得て、守持する所堅ければ、火に入りて焼けず、水に陥って溺れず、何ぞ生死に関せんや。予、常に此の理を明かにして三昧に入れり。生を惜しみ死を厭ふが如きは、未だ武士の心胆にあらず。」(*p45~53)

最後に、日中戦争が激しくなった1930年代、「葉隠」の精神がしきりに鼓吹されたことを記しておく。

(*:鈴木大拙著 北川桃雄訳「禅と日本人」岩波新書1940)