秋山真之海軍少将の見た霊夢

秋山真之といってもピンと来ない人でも、日露戦争日本海海戦のT字戦法を編み出したあの参謀、あるいは『本日天気晴朗なれども浪高し』というあの有名な電報を作った人といえば、ああっと思い出すと思う。日本が生んだ天才戦略家である。その秋山が自分が見た霊夢を語っている。出口和明著の「大地の母ー第11巻天下の秋」より引用してみる。

秋山真之海軍少将が大本教を訪れたのは、浅野和三郎が「神霊界」の原稿を書き始めて4日目、12月14日であった。「最近、ふとしたことで『敷島新報』を一部拝見しましてね。それ以来、綾部に一度行ってみたいと思っていたんですよ」と答えている。この時、秋山49歳、王仁三郎46歳、浅野和三郎43歳であった。

「失礼ですが、神霊問題についての秋山さんの御造詣の深さは並々ではない。以前にご研究なさったことでもあるのですか」と浅野が聞くと、「実はそうなんですよ。ぼくが神霊問題に熱中するようになったのは、それなりの理由があります」と語って、自らの霊的体験を熱のこもった口調で語り始めた。明治37年、秋山真之は東郷艦隊の中佐参謀として「三笠」に乗り組み、旅順封鎖の任に当たっていた。ウラジオストク艦隊のほしいままの跳梁を無線でひんぴんと報告されても、東郷艦隊としては、一時も旅順沖を離れることはできない。
旅順艦隊の予測される行動は、、日本海を通過してそのままウラジオストクへ引き揚げるか、日本の東海岸に進み日本艦隊の空虚をついて津軽海峡宗谷海峡を抜けて帰航するかである。上村艦隊としては、二者拓一の決を迫られていた。勝負はまずこの時点の1断で決する。秋山参謀の苦悩は、実はここにあった。
夜もすがら、考え、脳漿をしぼりつくした末、力つきてふとまどろんだ-瞬間、閉じたはずの瞼の裏が陽光がさしたように明るくなり、海がひらけ、入り組んだ陸地が見え出したのだ。日本の東海岸の全景だ。その向こうに映ずるのは津軽海峡。と、蟻のような三つの黒点が現われ、次第に大きくくっきりと形をあらわす。夢寐(むび)にも忘れ難いウラジオ艦隊ロシア、ルーリック、グロムボイの三艦ではないか。波濤を蹴立て、三艦は津軽海峡目指して北進する。
-あっ、あいつら東海岸を廻って津軽へ抜けるのか。
直観したと同時に、何もかも霞の奥に閉ざされていた。夢といえば夢、幻といえば幻、これが悪夢かとしばしまどう。明け方であった。ひれ伏して東雲の空を拝した。魂のおののくような感動に、顔中涙となった。
ー神助だ。神はおわす。
それは揺るぎない信念となって、秋山の腹の底に納まっていた。
霊夢で敵艦の行動を知ったなどと言っても、冷笑を買うのみである。秋山はこのことは胸底に秘し隠し、理性の判断からウラジオ艦隊の行動を推定したことにして進言した。
ーウラジオ艦隊は必ず太平洋に突出し、津軽海峡を通過してウラジオに帰航するものと確信する。上村艦隊はこの推定の下に行動を起こし、日本海の捷路をとり、津軽海峡の内面に於いて敵艦隊を追撃すべきである。敵艦隊の後を追って太平洋に出るのは、むなしく敵を逸するのおそれがある。
無線通信は軍令部にも上村艦隊にもこの言を伝達した。しかし軍令部はこれを採用せず、上村艦隊をして東海岸方面に出動させた。このため、敵は悠々として津軽海峡を見過ごし、いったんウラジオストクへ入ってしまった。
この時、もし秋山の進言が容れられていれば、八月十四日の蔚山沖海戦を待たず、六月中旬にウラジオ艦隊を撃没し、幾多の尊い人命を彼らの歯牙にかけずにすんだにちがいない。
秋山の霊的体験は、この一度で終わらなかった。身を乗り出し、海軍流のくだけた口調ながら、眼を輝かして秋山は語る。
日本海海戦の時のことです。ご承知のように、ロシアは強力なバルチック艦隊を第二艦隊として日本に送り、制海権を奪おうとやってきました。迎え撃つ日本艦隊は、根拠地を鎮海湾において敵の接近を今や遅しと待っていたわけですが、この時の用意と覚悟たるや、実に想像の外です。日露戦争中、何が大事と言ってもこの一戦に勝るものはなかった。まさに「皇国の荒廃この一戦にあり」でした。万々一日本艦隊が敗れたとすれば、それは日本の滅亡を意味します。もしこれを逸してウラジオに入港させては、日本の最大の危機となる。よしかなりの勝利を占めても、その一部をウラジオに逃したのでは、やはり勝手が悪い。どうでも完璧にやっつけねば、日本の安全は保ち難かった。
しかしここでも、敵の進路の想定がウラジオ艦隊の場合と同様に重大問題で、しかも軽重の差から言えば比較にならぬぐらいでした。もちろん全力を上げて情報の蒐集をしていますが、神ならぬ身の絶対の確報は得られない。五月二十日を過ぎると、心身の緊張は極点に達していました。旗艦“三笠”には幾度となく全艦隊の首脳部が集まり、密議を凝らした。ぼくの口から言うのも何ですが、官職こそ一中佐であれ、連合艦隊の作戦は、ほとんどぼくの頭脳にかかっているーその責任の重さに押しつぶされそうになりながら、着のみ着のまま、昼も夜も寝食を忘れて考え続けました。」
「忘れもせぬ五月二十四日の明け方でした。ぼくは疲労でよろめきながら士官室に行き、安楽椅子にぶっ倒れました。他の連中はとうに寝てしまって、士官室にいるのはぼくだけです。体はどんなにまいっても、頭脳だけは別のように考え続けていて安まらない。それでも、とろりと眠ったのだろうか、例の瞼の裏が明るく深く、果てしなく広がり出した。瞼の色が変わって海の青いうねり、波の白がくっきり見える。-対馬だ。対馬海峡の全景が見える。
ぼくは無意識に心眼を凝らして海上を探った。いや、探るまでもなかった。バルチック艦隊は二列になってのこのこ対馬沖をやってきます。その陣容、艦数までとっさにつかんで、しめた、と思ったとたん、はっと正気に返った。頭は冴えに冴えています。今度は二度目なので、すぐに神の啓示だと感じました。敵の出方がわかれば、作戦はひらめいてきます。
バルチック艦隊は確かに二列を作って対馬東水道を北上する。それに対抗する方策は、第一段は夜戦で駆逐艦水雷艇による襲撃をかける。第二段はその翌朝の艦隊全力上げての決戦、第三段・第五段はひき続いて夜戦、第四段・第六段は艦隊の大部分をもってする追撃戦、第七段はウラジオ港口に敷設した機雷原に敵艦隊を追い込む。昼夜の海戦を続けようという、ぼくの七段構えの戦法が出来上がりました。
二十七日の夜明けになって、信濃丸からの無線電信で敵の接近を知り、ついにあの歴史的な海戦になるのですが、その時は肝の底から勝利の確信がありました。なぜって、目前に現われた敵の艦形が、三日前に霊夢で見せられたのと寸分の相違もなかったんですからね。ただ予想に反して敵艦隊の海峡通過が昼になったので昼夜が入れ替わり、第一段の艦隊決戦ですでに大勢を決したので、実際には第三段で作戦は終わりましたが・・・・。
いざ戦線を書こうとして筆を執った時、『天佑と神助によりて・・・』と、まず書き出していたのです。事実、そうなのですから。決しておまけでも形容でもなかったのですよ。」

「・・・ぼくも二度の体験以来、人間に働きかけてこられる神霊の実在を、疑うことができんのです。人間がいくら知嚢(ちのう)をしぼっても決しかねる時、人間が匙を投げて神の前にひれ伏せば、神は必ず誠心の人を助け給う。これがぼくの信仰です。智慧ばかりでは駄目だ。人間が万全の働きをするには、どうしても至誠通神の境地に達せねばならぬと思いますね。」

この話を聞いて王仁三郎は、感慨深げに「ここの、教祖は当時10日間舞鶴沖の孤島沓島で日本の戦争を祈願しなはった。23日の夜には龍宮の乙姫さんが現われて、『日本を攻める外国の船がたくさん参ったから、これからお手伝いに参る』と言い放ったそうや。
あなたの霊夢は、その明け方、教祖はこの日、『もう日本は大丈夫、私の御用も終わったから、明日は船を呼んで帰ってもよい』と、ついて行った若い者に言っています。日本海海戦の勝敗は、この時点で決まっていたかもしれませんなあ」と語っている。