いい人ほど苦労するのは、なぜ?

Yahoo知恵袋にこんな質問と回答があった。

「どうして人は、苦労して幸せになれない人と、苦労しないで幸せになる人にわかれるのですか?」

「苦労しているのに幸せになれないということは確実にその人はとてもいい人です。
いい人は他人を幸せにするために苦労してしまうからです。」

何とも悲しい回答ですね。「結局、いい人は苦労する運命なのだね」と、あきらめざるを得ないような回答である。本当にそうなのであろうか。苦労する人生とは何か、若い時の苦労は買ってでも行えなどといってきたが、人生の苦労は何を意味しているのか。運のいい人、悪い人ということだけでは割り切れない疑問が残る。今も心身の悩み、対人関係で多くの人が苦しんでおられることと思う。その悩みの一端でも開けてくればと思い、記してみた。

努力は素晴らしいと誰もが絶賛する。しかし、努力と結果はイコールではない。注目すべきデータがある。スポーツ選手の意識である。メンタルトレーナーの森川陽太郎氏が語られている。森川氏は、スポーツ選手に必ず次の質問をするそうだ。

1カ月後に大事な試合を控えていたとします。その試合までとにかくストイックに練習して、苦しんで試合に臨んだのに負けてしまうのと、1カ月間全く練習しないでその試合に勝つのと、どちらがいいですか?

この質問に対して、95%以上のアスリートは「ストイックに努力して負ける」を選びます。一見、何もしないで結果が出るなら、誰でもそちらを選びそうなものです。しかし、なぜほとんどのアスリートが前者を選ぶのかというと、そこに「依存」が起こっているからなのです。「苦しい状態の中で努力し続けている自分」を心の拠り所にしてしまっているのです。これは頑張ることに対する「依存」です。彼(森川氏が取り上げている例)は試合で実力を発揮できず、控え選手に甘んじていましたが、原因はここにありました。《このことは、信仰の世界でもある。》

彼に後者を選んだ理由を聞くと、「何の努力もしないで試合に勝つことに罪悪感がある」と答えました。何の苦労や努力もしないで得た勝利には価値を感じられないと言います。彼は、苦しいことに対して前向きに努力することにこそ価値を感じていたのです。

日本人は苦労を好む傾向があります特に何かで成功を収めるためには、「苦しい」「つらい」といったような感情を乗り越えなければいけないと考えます。それは日本人特有の「苦労の美学」からくるものです。「一生懸命努力することがいいことだ」「楽をしてはいけない」などがそうです。これらはほとんどの日本人が無意識に持っている美学です。http://www.lifehacker.jp/2013/06/130612aestheticstrouble.html

なるほど、日本人は努力することが好きである。日本人が人生修養論が好きなのも当然である。人生に何がしかの苦労の意味があると感じているのである。いつの時代からこのような感情が芽生えたのかわからないが、現世の意義を強く感じ出した江戸時代初期にその萌芽があるのではないか。山本七平氏によって高く評価されている鈴木正三が一つの原点であろう。鈴木正三は、現在の日本人の人生観、勤労観に大きな影響を与えた人物であり、日本人が好きな「人生修行」という観念は、この人から生まれているといってもよい。鈴木正三の仏法を記してみる。

「仏法は渡世身過に使ふ宝也」寺に仏教があるのではない。かりに寺に仏教があるにしても、そんなものは民衆の日常生活には役に立たない。渡世・身過ぎ(なりわい、生業)に役立ってこそ、仏教の値打ちがあるのだ。

「身命を天道によって、一筋に正直の道を学びなさい。正直の人には、諸天の恵みが深く、仏陀神明の加護があり、災難を防ぎ、自然に福をまし、衆人が敬愛し、浅くなく万事思ったとおりになるようになる」と述べ、正直な商売こそが大事であると説いた。

では、その「正直」とはどのようなものかというと、「私欲に専念して、自他を隔て、人を抜いて、得利を思う人には、天道のたたりがあって、わざわいをまし、万民のにくみをうけ、衆人が敬愛することなくして、万事思ったようにはならなくなる」とあるので、「私欲」を持たないことと考えることができる。
「自分が名声を得たり財産をふやしたりすることを願っても、さらによいアイデアがあるわけではない。結局、地獄道・餓鬼道・畜生道の三つの悪道の業が増長して、天道に背き、必ずそのとがめをこうむるのだ。」「これを恐れ慎んで、私欲の念を捨て、この売買の作業は、国中の物流を自由する役人になることで、天道より与えられたのだと思い定めて、この身は天道に任せて得利を思念することを休め、正直の旨を守って商いすれば、火がものを乾かしたり、水が上から下に流れるように、自然に天の福が相応して万事思ったとおりになるであろう。」私欲を捨て、正直を守るということが、結局は「福」を増すことなのだと正三は、主張するのです。 (鈴木正三記念館ウェブより)http://www.geocities.jp/shimizuke1955/1185suzukisayousan.html

このように説かれても「福」が巡って来ず、苦労ばかりだと思っている人にとっては、納得しがたいことが多いと思う。何故か?我々は、現在生きている自分の立場からしか人生を見ようとしていない。ここに行き詰まっている問題がある。

発想を変えて別の角度から見てみよう。私という存在の背後には、私に関係する長い歴史が存在している。家系を通して、ゆかりのある人を通して・・・。私のブログでも、「私という存在は、歴史の結実体である」ということを記述した。その先祖の人々の中には、すばらしいことをなした人もあっただろうし、あやまったこと(罪・業)をしたままになった人もいるはずである。

その人々が生前犯した罪ゆえに苦しみ、何とか自分がなした罪を償うことができないものかと思っているとしよう。そして、その罪を償うためには、犯した罪の反対をしなければならないという神仏の法がある(この世の法律もそうであるように)。そうであるならば、罪を償ってくれる子孫を探す必要がある。犯した罪の反対の道を行くのだから、当然ながら苦しい道である。人を虐げたならば、虐げられるという道を行くのであり、人をだましたならば、だまされるという道を行くことになる。普通の人間の場合、その償いの局面が訪れると、逆に相手に怨みを抱くであろう。そうなると、怨み返しになって業が巡ることになる。罪・業を償うためには、裏切られても騙されても、虐げられても、それを恨みに思わず乗り越えていける人が必要なのである。それができる人は、俗にいう「いい人」しかいないのである。だからいい人は、苦労しがちなのである。仏教的にいうならば、先祖の罪を背負って必死に戒を実践しているのである。襲ってくる邪なる思いと闘うだけでなく、理不尽な境遇を甘受して苦しんでいるのである。自分の人生だけでなく、先祖の業まで背負って歩むのだから容易ではない。それこそ業が襲ってきたときには、体がだるく、肩は重く、頭はどんよりして苦しいものである。しかも、誰もその苦しさを理解してくれない。

お釈迦様の教えを参考にし見てみよう。悟りを開かれたお釈迦様の最初の教えは、四諦(四つの真理)であるといわれている。(ブログ「仏教のミニ知識1-釈尊の教え」2012/5/13より)
①苦諦・・・われわれの生存は苦である。一言付け加えるならば、無常なるがゆえに苦なり、である。生・老・病・死が基本的な苦(四苦)である。この四苦に加えて、a,愛別離苦、b,怨憎会苦、c,求不得苦、d,五陰盛苦(物質界と精神界の一切の事物・現象が苦である)。ここから四苦八苦という成句ができた。
②集諦(じったい)・・・苦の原因に関する真理である。自己愛があるが故に執着するのであり、苦しむのである。a,欲愛(感覚的・物質的な欲望)、b,有愛(来世の幸福を願う欲望)、c,無有愛(死後の世界の虚無を願う気持ち)
③滅諦・・・原因の滅に関する真理である。医学の方法によく似ている。
④道諦・・・方法に関する真理である。治療の段階である。八正道(実践)を教えられている。a,正見、b,正思惟、c,正語、d,正業、e,正命(正しい生活)、f,正精進、g,正念(教えを忘れないこと)、h,正定(精神の集中と解放)
*八正道の教えは、基本的に出家者に対する教えである。

在家(一般人)に対しては、次のように説教されたとされている。
ベナレスの富豪の息子、人生に煩悶し懊悩していた青年ヤサに説教したのが最初であるとされている。「青年よ。ここに来るがよい。うとましさを脱した安らかな境地を教えてあげよう」と呼びかけられた。
釈尊は、順を追って説法された(次第説法)。
①施論ー他者への施し、布施についてである。布施は慈善とは違う。慈善は、他人のためにする行為であるが、布施は自分のためにする行為である。仏教は、自分の大切なものを人にもらっていただく。そうすることによって自分の気持ちが安まるから、お布施をさせていただくのである。「相手がありがとうというべきだ」という考え方は、相手を乞食扱いしている。布施の功徳を積むことによって、心が浄らかになる。正しく世界を見られるようになる。
②戒論―基本的な戒として五戒を説いている。五戒は、命令ではない。a,不殺生戒、b,不妄語戒、c,不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、d,不邪淫戒、e,,不飲酒戒(ふおんじゅかい)。このような善い習慣を身につけようという意味である。そして、戒を犯したとき、素直に自分の過ちを反省して謝罪する(懺悔―さんげと読む)。自分の弱さを自覚してそれを懺悔するのが仏教者の生き方である。
③生天論―因果応報の思想
わたしたちが布施の功徳を積み、、そして戒を守って行くならば、わたしたちは必ず来世において天界に生まれることができる。逆に、わたしたちが布施の功徳を積まず、破戒をしながらなんの反省もなく、悪事を積み上げるならば、来世は必ず地獄に堕ちるという教えである。輪廻転生を信じたインド人は、未来における果報を「天に生まれる」と表現した。

お釈迦様が開かれた救いの世界は、この世における救済ではなかった。この世で功徳を積み上げて来世において救済されることを説かれた。この世では、布施・五戒の修行生活を通して悪しき思いと習慣を滅することが重要であると説かれた。当時この世は、所詮悪徳が支配する世界であり、救済できるものではなかったのである。

現在私たちが悩んでいるのは、この世での救済である。この世での救済を実現するためには、思いだけでなく所業までも滅することが不可欠である。先祖の罪を清算、滅するまでは理不尽な苦労が続くというのが因果応報である。できることは、神仏の加護のもとにあってできるだけ少ない苦労でその償い期間を乗り越えることである。宗教は、その道しるべとして存在している。宗教が勝ち得た勝利圏をいただくことができるのである。因果応報を乗り越えることができた時、今までにはない重荷を下ろしたすがすがしい気分に包まれるだろう。そして、何物にも代えがたいレベルアップした心境を会得できるだろう。2012年9月3日のブログ【いんやくりお「自分を選んで生まれてきたよ」】の中で、りおくんが語っていることは、あえて苦労を買ってこの世の人生を歩み、苦労を乗り越えて人々の希望になろうという気高い志である。苦労を乗り越えた時、新しい世界が見えて来るはずである。

最期に、身内にいい人なのに苦労している人がいたならば、業を背負ってもらって申し訳ありませんという感謝の念を示し、できるだけ援助してあげることが重要である。また、どんなに順調で恵まれている人も、究極的には仏教でいう「無明」という業を背負っている。それゆえ、順風満帆の人生にあっても、必ず試練が訪れる。その時どのように対処できるか、苦労しなかった人は失敗しやすいことを忘れてはいけない。