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宗教と信仰ー出口日出麿氏とともに(2)神と人間は親子である

人間は、神について古くから畏敬の念をもってきた。神は、人間をはるかに超えた超越した不気味な存在であり、いつ祟りをもたらすかわからない怖ろしい存在であった。篤く祀らないと何が起こるかわからず、人間は供え物をして神にとりなしと許しを請うことを常としていた。天変地異が多い日本においては、特にその性格が強かった。そのような日本に仏教が伝来する。仏による救済は、日本人に死者の鎮魂滅罪としてまず受け入れられた。その仏教が、衆生の救済として天地垂迹(従来の日本の神はあの世の仏がこの世の衆生を救済するために顕現した存在であるとした布教の論理)を通して、仏は人間を慈しむ救いの存在として広がっていく。仏教の影響を受けて、神も人間を慈しむ存在として認識されてきたものと思われる。そして、近代になると、「神と人間は親子の関係である」というより親しい間柄になってきたようである。

(2)神と人間の関係は、親子の関係である。

 「宗教によっては小賢しい理屈をいうものもあるが、しかし神様と人間とは理屈ではない。まったく親子であり、人間同士は兄弟関係である。これが真の宗教である。内流は神さまからくるが、実行は人間がするのである。地上天国は人間がつくるのである。自分で自分にいつも気をつけ、身の内の悪とあくまでたたかわねばならぬ。しかし、自力のみではとうていだめであるから、つねに神さまのお力にすがる事を忘れてはならぬ。」

出口日出麿氏が語られている「神と人間は親子であり、人間同士は兄弟であるという」教えは、近代日本の地場の神道系の教団に共通してみられる教えである。日本人の神に対する観念は、先祖に対する祖霊信仰(33回忌あるいは50回忌の弔い上げを済ますと先祖は神になるという観念があり、先祖は身近な裏山に今もいて子孫を見守っていると考えられている)をベースにしており、神は先祖や自然と同じように身近に存在していると考えられている。神が遠い世界ではなく、私たちの身近にいるという観念は、ともすれば収拾のつかない八百万の神になってしまうのだが、宇宙の根源である神(密教では、大日如来と呼んでいる。空海大日如来に触れて密教を目指したといわれている)が、被造物(神羅万象)の中に汎く存在する(汎神論)という立場からみれば、当然の帰結となる。

この観念は、実はキリスト教にも通じる。「ローマ人への手紙」1章20節には、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」と、被造物すべてに神が顕現していることをパウロは記している。

近代日本に現れたいくつかの神道系の教団の教義を下記に示してみる。

天理教

天理教でも、親神・天理王命は、人間が互いにたすけ合う「陽気ぐらし」の姿を見て共に楽しみたいとの思いから、人間と自然界を創り、これまで絶え間なく守り育んできました。人間に体を貸し、果てしなく広く深い心で恵みを与え、「親」として温かく抱きしめ、教え導いています。(天理教webより)
親神のもとでは人類は「一視同仁」、みな兄弟姉妹だと説かれています。上下貴賤は存在しない。『おふでさき』には次のように書かれています。

せかいぢういちれつわみなきよたいや
たにんとゆうわさらにないぞや
(世界中一列はみな兄弟姉妹や 他人というはさらにないぞや)

このもとをしりたるものハないのでな
それが月日のざねんばかりや
(この元を知りたる者はないのでな それが月日の残念ばかりや)

金光教

金光教では、神と人とは「あいよかけよ」の関係であるとした(人が助かるには神に願い、神の助けが必要だが、神もまた人が助かって欲しいという願いを持ち、人を助けることで神としての働きが出来るので助かっているという関係)。また、人はみな神のいとしご(氏子)であり、それぞれの宗教の開祖も、神のいとしごであるという教えから、他の全ての宗教を否定しないという思想を持つ。日々唱える言葉は「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)天地金乃神(てんちかねのかみ)一心に願(ねがえ)おかげは和賀心(わがこころ)にあり、今月今日でたのめい」である。(Wikipedia)
金光教の主神は、次のような神であるという。「日天四(子)・月天四(子)」が天にいる至上神、「不残金神」が地上を支配する神で、その中心が鬼門の金神である。金光教の主神が「天地金乃神」と名づけられているのは、こうした天地の神々を統合したものである。天理教の神も「月日」と呼ばれている。(安丸良夫

黒住教

黒住教では、「人は皆、天照大御神のご分心をいただく神の子」という人間観を明らかにしました。“親心”で働き導いて下さる天照大御神に孝養を尽くす思いで、大御神の分霊である私たちの心(ご分心)を、丸く、大きく、あたたかい、本来の姿に養い育てることが本当に生きるということです。“心なおしの道”である。(黒住教webより)

丸山教

丸山教でも、親神とは宇宙の根源・万物を産み殖やす者・万人を護り育てゆく力であります。私たちは神様と親子関係で結ばれ、親神から一分心(いちぶしん=親ごころ・親の働きの一部)を相続し、地上で親神の生(しょう=営み)を代理・代行致します。この信念が確立しますと、親神と同根同泰の境地に安住し、何の恐れも、心配もない、どっしりした人生が送れるのであります。(丸山教webより)

各教団ではこのように説かれてきた。神と人間は「親子の関係」と知り、神に近づき、神の心情を感じ取って来られてきたと思う。しかし、出口日出麿氏が語られているように、身の内の悪と闘って神の分身となることは困難を極める。「その闘いは、困難を極めるから独力では難しく、神様の力を借りるしか手がない」と説かれている。なぜ神様の力を借りるしか方法がないのか。どこに問題が潜んでいるのか。実は身の内の悪の根源に悪魔という存在が実在して、身の内の悪を支配しているということを理解する必要がある。私たちは、神を賛美して神とともに生きるとともに、お釈迦様のように魔を降伏するという信仰が必要なのである。

それは、キリスト教でパウロが語っている嘆きに通じるものである。「わたしは内なる人としては、神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしはなんというみじめな人間なのだろう。(ローマ人への手紙7-22~7-24)」ということばに端的に表現されている。そして、人間にできることは罪の自覚を得ることのみで、罪からの救済は、キリストを信じることによってしかもたらされないというのが、パウロの下している結論である。魔とは何か、そして魔を降伏するために何が必要か、神に近づくためにはこれが大きなテーマとなる。