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宗教と信仰ー出口日出麿氏とともに(1)宗教本来の目的は、地上天国の建設にある。

宗教と信仰ということについて、出口日出麿氏が簡単明瞭に語られている。その言葉に込められているなかに真理が明確に示されている。氏の語られている言葉をたどりながら、宗教と信仰について何回かにわたって語っていこうと思う。

出口日出麿氏は岡山県生まれ、大本教に入られて、大本教出口王仁三郎氏の娘三代目教主出口直日氏と結婚し、出口王仁三郎氏とともに宣教活動をされた方である。太平洋戦争時には、壮絶としかいいようのない信仰上の苦難・迫害を受けられた。氏の説話をまとめた三部作「生きがいの探求 信仰覚書 講談社 1966」、「生きがいの創造 講談社 1974」、「生きがいの確信 講談社 1984.11」はベストセラーとなり、多くの人に読まれてきた。昭和62年(1987)8月、比叡山で初の宗教サミットが世界の主な宗教20数教団の代表が参加して催された時には、朝から「宗教は末長う仲ような!」といい続けられていたという。

(1)宗教本来の目的は、地上天国の建設にある

「宗教本来の目的は、現界的にいえば、地上天国建設にあるのである。すなわち、すべての人類がたがいに愛し愛されながら神を賛美し、その業を楽しみ、闘争や蔑視反目のない真に住み心地の良い世界を造ることにあるのである。各教が個々に完全であることは喜ぶべきことではあるが、これをもって満足すべきではない。さらに他教と親和し協力して、宗教本来の使命を成就するものでなければ、真に完全とはいえないのである。(中略)時・処・位・人によりて、宗教宗派は異なるのが当然である。いろいろ宗派はあれど、詮ずるところはみな一に帰すなり」。

「宗教本来の目的は地上天国建設にある」と聞けば、ごもっともで結構なことであると誰もが賛同されることだろう。まさしくそうである。しかし、「すべての人類がたがいに愛し愛されながら神を賛美し、闘争や蔑視反目のない真に住み心地の良い世界を造ること」と聞けば、まことに素晴らしいことであるが、どのようにして実現できるのかと疑問を持たれるであろう。実は、「地上天国建設」というと、そこに疑念をさしはさんでしまうところに人間の置かれている不完全な状態がある。

その疑念は、人類史が対立と抗争に明け暮れて、地上天国とは程遠かったことに原因がある。対立と抗争は、人間活動のあらゆる分野で起きている。もっとも根源的な対立と抗争は、一人の人間の内面の闘いである。お釈迦様が苦悩から脱却すべく闘われたように、一人の人間の中にも対立と抗争がある。それを仏教では「煩悩」と呼んだ。私の心にも善と悪の抗争があって私を苦しめている。さまざまな悪なる思いが私に襲い掛かってくる。善悪の判別がわかるのはまだましな方で、善悪の観念さえ間違っていることさえ分からない場合が多い。善悪の観念が狂っているような状態では、人間社会に地上天国などできるはずがない。宗教はそのほとんどの闘いを人間の内面の闘いに費やしてきたが、それでも未だ人間の内面の闘いの勝利はおぼつかない。

さらに、人間を追いつめているのは、人間の内面の完成、悟りの境地がいかなるものか、示されていないことにある。本来の人間の姿がわからないのである。多分に悟りの境地を神聖化してしまったことに原因があるかもしれない。これでは、羅針盤のないまま内面の完成に努めているといってもよい。悟りの境地を一言でいえば、神の意図、計らいを理解できる状態、神と対話できる状態といってもよい。人によっては、アイデアのひらめきのように一瞬であることもある。神は、奇跡や祟りや霊験だけでなく、インスピレーションをもって語り掛けているのである。

出口日出麿氏が言われる次の言葉は至言である。「信仰とは、宗教の教義をそのまま信じて実行することではない。信仰とは、神と私が対話できる状態に復帰することである。その状態ができない人間が、復帰の過程として一時的にその方法を学び実践するのが宗教なのである。神と対話することが難しい原因を知り、元の姿に戻るために、その方法の手段として学び実行するのが宗教の教理であり、宗教的修行である。」

本来の人間の姿がわからないのだから、本然の人間によって造られる地上天国をイメージできないのも致し方ない。「地上天国」と呼んでも各自がイメージしている内容はばらばらであるだろう。個人の願望から出た地上天国は、偽物である。共産主義のように表面的に平等を実現しても、人間各自の思い、行動が変わっていなければ早晩崩れることはあきらかである。地上天国は、人間一人一人の内面の完成度合によって進展するのである。このことをしっかりわきまえることが重要である。

最後に、出口日出麿氏は「宗教末長ごう仲ような!」と語られている。このことは重要な意味を持っている。宗教はいつもお互いをけなし優位性を主張してきた。そのことがどれだけ宗教対立を生み、戦いを誘発してきたことか、人類史の汚点である。異なる宗教宗派が仲よくすることが地上天国実現に当たって不可欠である。宗教にはそれぞれ使命がある。それぞれの使命を尊重すべきである。時・処・位・人が異なれば、その説き方も異なるのが当然である。どちらがいいとかどちらが優れているとかは、人間の邪心のなせる業であって、必要な人が必要な宗教を学べばいいのである。ただし、宗教の中には神ではなく邪神(悪魔)につながっているものもあるから、邪教には気をつける必要はある。王仁三郎氏の言うところによると、邪教の主なるものは、バラモン教(宗教の幹部が盲目的に自分に信者を従わせること)と占い教(信者の欲望を掻き立て、欲望の亡者に陥れること)の二つである。この二つは、昔から宗教という言葉を語りながら人間を陥れてきた魔物である。