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中世浄土往生ブームの中での法然の宗教的戦い

日本中世は、仏法末法の時代である。その時代、浄土往生を願う浄土信仰が一世を風靡した。聖地霊場の参詣と納骨が熱心に行われた。浄土往生を達成するためには、仏が垂迹した霊場を訪れることが不可欠とされた。このような風潮の中で、法然は「浄土宗」を立ち上げた。佐藤弘夫氏の著書から、法然宗教的戦いの姿を見てみたい。

霊場に参詣し垂迹に結縁することが浄土往生を望む者にとって決定的に重要と考えられていた中世にあって、あえて霊場への参詣を否定し垂迹を礼拝することを拒否する立場を鮮明にした一握りの仏教者たちがいた。法然親鸞をはじめとする専修念仏者や日蓮などである。

彼らは、病気平癒や延命といった現世の問題については、神などの垂迹に祈願することを必ずしも否定しなかった。しかし、こと究極の救済については、特定の聖地を踏んだりこの世の神仏に祈ったりすることを頑として拒んだ。そして、真に往生を切望するのなら、個々の信仰者が垂迹を経由することなしに直接彼岸の本仏に帰依しなければならないと主張した。衆生ー垂迹ー本地という重層的なコスモロジーと、垂迹を彼岸浄土への不可欠の仲介者とみなす当時の常識的な救済理論に対し、彼らは衆生が垂迹を飛び越えて、直接本地に帰依する論理を提示したのである。

鎌倉時代に専修念仏は、しばしば伝統仏教側から批判と弾圧をこうむった。その際必ずといってよいほどやり玉にあげられる問題が、念仏者が神々を礼拝することを拒否した点だった。法然は、中世の神々がもっていた二つの機能ー現世利益の供与と浄土への道案内人ーのうち、後者の役割を明確に否定し、その任務を前者に限定した。その上で最終的な救い=浄土往生は、ただ本仏と直接向き合うことによってのみ成就されることを強調した。専修念仏者の「神祇不拝」は、その救済論の必然的な帰結だった。彼が阿弥陀仏以外のこの世の仏像=垂迹への帰依を禁止した理由も、まさしくここにあったのである。

法然らがこうした思想を形成した背景には、浄土信仰に垂迹が介在する限り、財産や身分・階層・性別といった世俗的な条件が救済の差別化を再生産し続けるとみる、彼ら独自の認識が存在した。

平安時代の後半から、垂迹の所在地はこの世の浄土であるという思想が広まり、霊場は往生を願う多くの参詣者を集めた。12世紀ごろからは納骨も盛んに行われた。しかし、一見万人に開放されているごときこれらの聖地にも、女人禁制などの制約が存在した。また、金銭的・時間的な制約のために、聖地への参詣を切望する者だれもがその実行に踏み切ることができたわけではなかった。垂迹である仏像の建立も絶大な善根とみなされたが、それは庶民層にとってはさらに困難な事業だった。浄土往生が垂迹を媒介とし、それへの結縁を不可欠の条件とする限り、性別や身分・階層といった世俗的な差別が、そのまま救済の差別に反映することを避けられなかったのである。

(参考文献:佐藤弘夫著「死者のゆくえ」岩田書院2008)