死と墓の表象(日本とヨーロッパの比較)フィリップ・アリエスの研究を通して

ラテン・ヨーロッパを舞台として紀元前後から現代まで2000年にわたる死の表象を研究したフィリップ・アリエスの仕事(主著「死を前にした人間」みすず書房1990、「図説 死の文化史」日本エディタースクール出版部1990)は、ヨーロッパにおける死者の観念と墓の変遷を詳しく分析した労作である。この研究を通して、日本とヨーロッパとの死生観と墓の変遷の共通性と差異が垣間見えてくる。東北大学大学院教授佐藤弘夫氏が紹介されている。転載して紹介する。

アリエスの叙述は、キリスト教時代が幕を開けようとする頃の古代ローマの世界から始められる。ローマやポンペイといった古代都市では、死者の墓地は郊外に造られるのが常だった。その功績を讃える記念碑としての意味をも有していた有力者の墓地は、都市の城門に至る街道沿いに、それを縁取るように二本の線として延びていった。他方、地位も財産もない無名の人間の場合は、儀式もないままに市外の捨て場に埋められていたのである。

2・3世紀になると、墓地に新たな動きが生じる。線状に延びる記念碑の背後で、新たな墓が増殖し、墓地が水平に広がった一定の空間を占めるようになる。最初は無秩序に並んでいた墓が、しだいに規則正しく並ぶようになり、やがては碁盤状の土地割りによって整然と構造化された死者たちの町が出来あがるのである。

中世といわれる時代を迎えるころ、ヨーロッパ世界の墓地は再度大きな変動にみまわれる。古代においては周到に都市内部から排除されていた墓地が、都市の中心部へと侵入してくるのである。死者の亡骸が納められる場所は教会だった。遺体は棺に入れられることもないまま、他の多くの死体とともに共同墓穴に埋葬された。教会の広場や地下には、死体が何層にもわたって無造作に積み上げられた。当時の人々に重要だったのは、個人用の定められた場所に永遠に留まることではなく、みずからの身体を教会とそこに祭られた聖人にゆだねることだった。こうして中世ヨーロッパの都市では、「生者と死者の混在」といわれる状況が展開することになるのである。

アリエスが指摘する中世の墓地のもう一つの特色は、葬られる死者の匿名性にあった。

古代文明を特色づけるものに、墓碑銘がある。紀元前後の数世紀の間、膨大な数の墓碑が建立された。それらはすべて共通して、死者の名前、死の時期、年齢などを記すことによって、死者が何者であるかを明示する役割をもっていた。ときにはそこに、肖像が付け加わった。こうしたさまざまな工夫を通じて、生き残った者は死者の特徴を、永遠に記憶に留めようとしたのである。

5世紀を分水嶺として、死後の個人のアイデンティティに対する配慮は一転して弱まっていく。碑文や肖像が次第に作られなくなる。遺体が共同の穴に投げ込まれる中世の墓地では、古代とは全く逆に、個人の記憶を残そうとする試みは一顧だにされなくなるのである。

古代ローマにおける個人別の墓が支配している状態から、中世前期の匿名性の支配の状態を経て、11世紀ごろには上級の聖職者や大領主を中心に肖像が復活する。それらのあるものは、聖人の御裔を目の当たりにし、じかに触れることを欲する信徒の要望に応えるべく、「死んでもいなければ生きてもいない、至福の状態にある」ものとして描かることになった。

16世紀になると、墓碑銘は広く社会に普及していった。それまで墓をもつことのなかった階層の人々が、墓地や教会での匿名の埋葬に満足できなくなり、この形式の墓を採用するようになる。葬法の変化に伴って、墓地は再び郊外へと移転するようになる。遺体を積み重ねるような方法は忌避され、遺体と墓が一致することがあるべき姿と考えられた。

こうして19世紀ごろから、「決定的に個人的な」墓が一般化した。都市郊外の豊かな緑の中に、それぞれの人物の生前の記録を伴った個人の墓が点在する近代的な墓地が誕生した。「生き残った人たちは、死によって引き離された人たちの墓を定期的に訪れるという、かつてはなかった習慣を、身につけ」ていったのである。

アリエスは、墓地の立地の変遷を、郊外⇒都市⇒郊外という図式を提示した。これに対し、日本では都市内の境内墓地への移行は中世後期からの現象である。この対比は、適切ではないのではないか。佐藤弘夫氏は、日本中世の納骨信仰、共同墓地への埋葬(郊外)とヨーロッパ中世の教会への埋葬(都市)が類似対比していると考えるべきであろうといわれている。江戸時代の都市内の境内墓地は、ヨーロッパにおける16世紀ごろからの墓碑銘の普及に対応した動きであろう。日本の場合、郊外⇒郊外⇒都市 と展開して都市化の流れの中で、再度郊外へと変遷しているのではないか。

平安後期からの仏教世界の拡大による彼岸の仏の垂迹地である霊場高野山など)に参詣・納骨して死後の救済を願ったが、ヨーロッパの場合は聖人のいる教会への埋葬だったと考えることが妥当である。

(資料:佐藤弘夫著「死者のゆくえ」岩田書院 2008)