日本の墓の変遷と霊魂観(1)

東北大学大学院教授の佐藤弘夫氏が日本人の墓の変遷についてまとめられている。墓がどのように変遷を遂げてきたか、それを知ることは未来にも通じるはずである。現代の日本人は、通常遺影を家に飾り、立体化した墓地に家の墓を作り遺骨を埋葬している。また、墓そのものの宗教性が希薄になり個性的になってきている。墓に込めた日本人の死生観の歴史ををふりかえることにより未来を展望する一里塚としたい。

(1)世界各地の霊魂観と日本

人間を、目に見えない「霊(魂)」と形をもった「肉(体)」という二つの要素からなる存在として把握することは、世界各地にみられる現象である。古代中国では、身体は殻であり、魂はその殻の中に宿るものだった。死は魂が肉体から離れて、再び戻ることができない状態を意味していた(大杉徹2000『魂のありか 中国古代の霊魂観』)。古代エジプトの場合、人間は「カア」「バア」という二種類の霊魂と「セト」と呼ばれる肉体から構成されていると信じられた。カアは、死後もミイラとなった遺体や墓の上部構造としての彫像に宿り、供え物を受け取り続ける存在だった(スペンサー『死の考古学ー古代エジプトの神と墓』1984酒井傳六・鈴木順子訳)。」ヨーロッパでも、人間を肉体と魂の二元論で把握することは、古代ギリシャ以来の伝統になっていた。イスラム教キリスト教もまた、同様の人間観をもっていた(八木久美子『生をはらむ二つの死ーイスラム教徒の死生観』(現代宗教2004号))

日本古代においても同じであった。『日本霊威記』に記されている説話によると、死後肉体から抜け出した霊魂は、生前と変わることのない意識と記憶を保有し続けている。人間の個性と人格は、肉体にではなく霊魂の方に帰属する要素だったのである。

そして今日、日本人は霊魂との間を取り持つものとして骨をとても大切にしているようにみえる。第二次世界大戦終了後60余年を経た今においてさえ、戦死者の遺骨の収集は続けられている。遠い異国の地で親族が亡くなった場合、せめて一片の骨だけでも持ち帰りたいという心情は、私たちの多くが共有する感覚である。そして柳田国男が述べたように山上の見晴らしのよい場所に造られる家の墓地に、しかるべき故人の骨を納めてはじめて、遺族は安らかな気持ちを得るのである。

(a)  人は誰しも親しき者の死を悲しみその冥福を祈る。しかしそれだけでなくたいていの人間は、死者に対して親しみと恐怖の二つの相矛盾する感情を有すしているのを感じる。それがどこから来るのかはしかとはわからない。
日本の古代の場合、通常は死後間もない人間の魂の方が、人に危害を加える可能性の高い危険な存在と認識された。そうした荒ぶる霊魂をさまざまな手段によってなだめ、無害な霊にまで浄化することが葬送儀礼の重要な役割だった。このプロセスがないまま死霊が放置された場合、放浪しつつ人々に祟りや害を及ぼす無縁仏となると信じられた。
近世以降に定着する死から埋葬に至る一連の葬儀は、死者の霊を遺体に封じ込めつつ、その無害化と浄化を図ることを意図したものであったと推定される。犬弾きも、そうしたシステムの一環をなす仕掛けだった。こうした企てが功を奏して、死霊が無害化されてはじめて、死者は折々に自宅に招くに足る親しき祖霊と化すのである。遺骸や骨の安置された墓に永久に留まり縁者の訪れを待つのが、あるいは招かれたときだけ位牌のある自宅に戻るのが、近世以降のあるべき霊の姿だった。一定の時間を経て墓に立てられる石塔は、霊の浄化が完成したことを示すシンボルであり、その依り代にほかならなかったのである。

(2)古代の霊魂観と墓、遺骨

現代の日本人が抱く故人の骨を納めてはじめて安らかな気持ちを得るという感覚は、この列島上に普遍的・超時代的に存在する「日本的」な感性ではなかった。たとえば11世紀ぐらいまでは、天皇家や上級貴族、僧侶など一部の特権階層を除いて、墓が営なまれることはなかった。庶民層の死体は、特定の葬地に運ばれると、簡単な葬送儀礼を行った後、そのまま放置された。権力者や裕福な人々の間では土を掘って埋葬し、墳墓を造ったり石塔を立てたりすることも行われたが、現代のように定期的に墓参が行われることはなかった。時が流れれば墳墓は草木に覆われ、誰のものかわからなくなってしまう、というのが当時の実情だった。人々の関心はもっぱら魂の浄化に集中しており、死後は故人の骨や遺体に関する関心がほとんど失われてしまったのである。

(a)  古代日本において、亡くなって間もない死者の魂は荒々しい威力を持った恐るべき存在だった。それが穏やかで無害のものへと昇華していくことが残されたものの望みだった。モガリの風習も、死者の荒ぶる魂を鎮めることにあったという。古代の仏教に願われた役割も、 霊魂を他界に送り出すという役割だった。古代において尊重された経典の一つに「法華経」がある。国分尼寺が「法華滅罪の寺」と呼ばれていたように法華経が注目されたのは、諸法実相でも久遠実成ではなく、滅罪の機能だった。

(b)  律令体制時代の天皇や官人の葬送儀礼規定する「葬送令」の中に、三位以上の貴族と分立した氏の始祖だけは墓を営むことを許すが、それ以外は墓を持つことを禁止する。墓を営むことのできる階層の人間でも、「大蔵」=散骨を希望すれば許可する、というような内容が記されている。万葉集にも散骨の歌が出てくる。大方の人にとって墓を築いて故人をしのぶということは、必ずしも切実ではなかったようにも見える。
ー玉梓の妹は玉かもあしひきの清き山辺に撒けば散りぬるー

(3)浄土信仰と聖地納骨

12世紀ごろから普及し始める新しい葬送儀礼、聖地=霊場に対する納骨信仰には、それまでとは違って遺骨に対する縁者の継続的な関心を見てとることができる。それ以前の人々が死体や遺骨に見向きもしなかったのに対し、骨を携えて霊場に運ぶという行為には、残された骨になんらかの宗教的な意義を見出していた様子を窺うことができる。納骨は、最初に高野山比叡山で始まり、全国各地に広がっていく。それは同時期に発達する中世的な共同墓地の在り方にも看取できる。だが霊場への納骨でも共同墓地への埋納の場合でも、ひとたび骨と遺体がしかるべき場所に納められてしまえば、古代と同様、もはやその行方に関心が払われることはなかった。

(a)  霊場への遺骨納入の風習が最初に本格化するのは、12世紀の高野山においてであったといわれる。弘法大師が生きたままその姿を廟所に留めているという「入定信仰」が広まり、大師の膝下に骨を納めることを希望する人々が増加した。鎌倉時代の「一遍聖絵」や「天狗草紙」には、弘法大師の廟所がある奥の院への参道の両側に、無数の納骨の卒塔婆が林立する情景が描かれている。元興寺長谷寺室生寺などが早くから納骨の場となった。法隆寺当麻寺、、西大寺なども納骨信仰の痕跡を残している。中世の寺社は、聖人信仰の高まりと増大する参詣者に対応すべく、聖人を祀る新たな施設を、寺院のもっとも奥まった見晴らしの良い場所に「奥の院」として建立した。

(b)  集団的な納骨の地として知られるのは、横浜市の上行寺東遺跡や岩田市の一の谷遺跡、江の島、龍ノ口なども死の匂いの立ち込める場所だった。新潟県粟島、松島の雄島、名取市の大門山なども納骨の跡をとどめている。経塚(経筒に収めた経典を地中に埋納し、その上に塚を築いたもので、弥勒菩薩降臨まで経典の滅失を防ぐためになられた)の周辺にも多数の納骨がされていた。また平安時代後期、死者の追善供養のため、遺骨を埋葬した場所に追善の塔婆を建立することが仏教者や貴族の間で習俗となっていった。この習俗の一つとして板碑(石塔婆)が13世紀前半に出現し急速に各地に広がる。
念仏の聖が野に捨てられた無縁仏の骨を拾い集め供養を行うのは、骨に宿る霊を浄土に送り届けるためであった。京都の三大共同墓地として知られるのが嵯峨野の化野、東山の鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野である。

(c)  浄土信仰の広まりにつれて、10世紀ごろから彼岸の世界に対する観念が増大する。この世は仮の宿である、来世の浄土こそがこい願うべき真実の世界であり、現世の生活のすべては浄土往生実現のために振り向けられなければならないという現世無常感が広まった。他方、他界浄土を代表するものが阿弥陀仏のいる西方極楽浄土だった。衆生救済のために考えられたのが、仏がだれもその存在を認識できるような姿(神・仏像・聖人=聖徳太子最澄空海、釈迦など)をとってこの世に出現して衆生を浄土に向けさせようとた(本地垂迹)。衆生は、垂迹と縁を結ぶことによって浄土への確実な往生が約束されるとされたのである。寺社縁起・垂迹曼荼羅・宮曼荼羅が数多く制作され、霊場を踏むことの重要性が宣伝された。死者の遺骨を霊場に埋納するということは、霊場に運んだ段階ではまだ骨に霊魂が宿り続けている観念があったことを裏付けている。

(d)  屋敷墓ー子孫を守る守護神。平安時代後半から、在地領主や名主の間で死者を家の敷地内に埋葬する習慣が広くみられるようになる。埋葬される人間は、家の創始者・屋敷の建立者という特別な人間に限定されていた。屋敷墓には樹木が植えられ、死者の魂は樹木に宿り、子々孫々まで守護するという観念があった。