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稲荷信仰とは何か?そして狐は何を意味するのか?

稲荷信仰は、朝鮮半島でも中国でも目にすることはない。ただ、満州から華北ににかけて農家の片隅に祠を設けて胡仙(狐神)を祀る信仰があるという。稲荷信仰とは、何なのであろうか。日本で最も多いといわれているのが稲荷神社である。

伏見稲荷の縁起(由来)

 伏見稲荷大社について『日本書紀』では次のように書かれている。

稲荷大神欽明天皇が即位(539年または531年)する前のまだ幼少のある日「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になった時にかならずや、天下をうまく治めることができる」と言う夢を見て、早速方々へ使者を遣わして探し求めたことにより、和銅4年(711年)二月初午の日に秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))が鎮座した。(秦氏は、秦の始皇帝の子孫であり、長らく朝鮮にとどまっていたが、応神天皇の時迎えられて日本に集団移住してきたといわれている。)

Wikipediaでも、秦氏氏神として説明されている。

伏見稲荷は、元々は京都一帯の豪族・秦氏氏神で、朱い鳥居と、神使の白い狐がシンボルとなっている神社として、広く知られている。伏見稲荷大社から勧請されて全国の稲荷神社などで祀られる食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神である。総本宮である伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神主祭神として[五穀を司る『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記]、佐田彦大神猿田彦神サルタヒコ)の別名]大宮能売大神田中大神、四大神(しのおおかみ)とともに五柱の神として祀るが、これら五柱の祭神稲荷大神の広大な神徳の神名化としている。日本の神社の内で稲荷神社は、2970社(主祭神として)、32,000社(境内社・合祀など全ての分祀社)を数え、屋敷神として個人や企業などに祀られているものや、山野や路地の小祠まで入れると稲荷神を祀る社はさらに膨大な数にのぼる。日本の神社の中で最大の勢力を持つのが稲荷神社である。江戸の町の至る所で見かけられるものとして「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」とまで言われるようになった。(Wikipedia

宇迦之御魂大神ー『古事記』では、スサノオの系譜において登場し、スサノオクシナダヒメの次に娶ったカムオオイチヒメとの間に生まれている。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られたていた。

秦氏氏神とされているが、秦氏が山城に定住する前から稲荷社は存在して信仰を集めていたという説も強い。和銅4年(711年)二月初午の日に秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))が鎮座したとされているが、その日は全国的に節目折目の日で、春の初めに山の神を迎えて田の神を祀る農耕の信仰儀礼に発している。おそらく弥生文化時代から徐々に発展して、「当社者、御神徳衣食住之大祖而、従上天子到下万民幸福豊楽之神明也(神号伝)」といわれる偉大な穀霊と崇められるに至ったと思われる。

稲荷の初見は『山城国風土記』の和銅3年に餅を的にして弓を射ると餅が白鳥になり、現在の伏見の稲荷山に舞い降り、稲がなった(稲生り)ので「イナリ」と命じられた.。また、「山城国風土記」の逸文には次のような一文がある。「紀伊郡伊奈利の社、伊奈利ととなえるは、秦中家忌寸らが遠祖、伊呂県の秦公、稲梁を積みて、富裕を有ちき。すなわち餅をもって的となししかば、白鳥と化ってとびかけりて山の峰に居り伊禰なり生いき。ついに社の名となる。その苗裔にいたり悔いて社の木を抜きて家に殖えて禱(のみ)祭りき。今その木を殖えて蘇きば福を得、その木を殖えて枯れば福あらじとす」

餅を的にして弓を引いたところ、餅が白鳥となって山の頂上にとびあがり、そこに稲が生えるという奇蹟が示された。古代、日本では正月に弓を引いて一年中の邪悪を禳(はら)う儀式が広く行われていた。その際、餅を的にするというのは驕りであって、餅に宿っていた神霊が白い鳥となって、山の頂にとび去ることになる。稲と白鳥と餅とは内面的に一つのものと考えられる。山の頂に稲が生えたという話は、この山全体が稲の魂のかたまりだという意味かもしれない。

稲荷神社と狐信仰の結びつき

平安期ごろにはダキニ天と霊獣としての「狐」が結びついていたといわれている。しかし、「狐」との結びつきは、ダキニ天信仰とは関係ないという説も多い。

狐は古来より、古墳や塚に巣穴を作り、時には屍体を食うことが知られていた。また人の死など未来を知り、これを告げると思われていた。あるいは狐媚譚などでは、人の精気を奪う動物として描かれることも多かった。荼枳尼天はこの狐との結びつきにより、日本では神道稲荷と習合するきっかけとなっただけであるようだ。

これについても、肥後和男氏は天台宗顕教)の延暦寺の地主神である日吉社がサルを尊ぶのに対して、真言宗密教)の東寺がキツネなのは、偶然であろうがぴったりであると言われる。サルは陽でキツネは陰であり、その方がはるかに神秘的で神の効験をより大きく人に伝えてくれるような感じがある。稲荷の狐があることで、この神の信仰を今日まで根強く伝えてきた理由の一つではないか。形あるものによって形なきものを頼む気持ちと同じであるという。

 

伝説によると、東寺建立の時に空海が門前で稲をせおった老翁に出会った。それが稲荷の神で、これを東寺の鎮守として勧請したとされている。新都の造営と発展に協力するという形で両者のあいだで深い関係が生じたのは確かであろう。真言密教の考えによれば、この世界はすべて大日如来の顕現であって、物としてこととして大日如来でないものはない。そうした考え方がやはり日本の神道にも働いているので、稲荷山そのものが神であればそこに生える木も神であり、動物もまた神である。古代においてこの山の木を抜いてきて社の中にうえ、その生活によって占いをしたのも、その木が神木であったからである。狐にしても、石にしても同じであって、すべて神ならざるはない。山中にある多くの塚もそうした意味に解せられる。私はそれらの塚をみて、たとえばそこに延寿大明神と刻されているのを拝し、なるほど今日の稲荷山は人間のあらゆる願いが込められているのだなと知った。ということはこの社が遠い昔から今日まで多くの庶民の願いを受け入れてきたのである。つまり、庶民のあらゆる願望がこの神にたくされているのである。したがって、庶民生活の発展とともに繁栄してきたのである。(肥後和男「稲荷信仰の起源と普及」*1所収)。

狐信仰の原点(田の神の使令)

柳田国男は、かつて狐を田の神の使令と考え、稲田の近くに塚を築いてこれを祀ったのが狐塚であること、後に稲荷の小社が勧請された。狐は秋冬の時期人目を引く動作をする。この時期狐は山から里へ降りてきて稲田の辺に食物をあさり、子狐を養おうする。また狐はほかの動物と違って人に見られてもすぐには逃げず、立ち止まって一度は人間と目を見合わせようとすることなどの点から、狐を田の神の使令さらには田の神が仮に狐に姿を託しているものと認めるに至った、と述べている。

狐は、近世以降悪意に満ちたいたずらしかしない獣のように考えられ、化けて人をたぶらかしたとか気味の悪い狐火の話ばかりが多く伝えられている。狐憑きという俗信は全国的にあるが、これには幾段階かの変遷があったようで、元来は家の守護神の使令ないし守護神そのものと信じられた神狐を、人が随時招いてその教えを聞こうということになって、仲介する人間が必要になり、それが後には行者その他の民間宗教家によってゆがめられたものと解される。(直江廣治)

しかし一方では、人間に好意を持ち、恩恵を与えてくれる狐話が伝えられている。狐女房説話とも言うべき狐との婚姻は、「信太の森」だけが文学になって有名であるが、全国に似た話が有り、多くは恩に感じまたは若者の善行をめでて、人の姿を借りて嫁に来て子を産み、農事を助け、家を富み栄えさせたことになっている。越後その他の北国の山村には、除夜とか小正月の晩の神聖な時刻に、谷の底から大きな声で来るべき一年の吉凶を住民に告げ教え、あるいはよくない一人の村人の隠しごとなどもすっぱぬいたという狐の話が伝えられている。ここでは、狐の村人に対する交渉は、好意に満ちたものである。全国の古城址には、その片隅にたいてい稲荷社が祀られている。その言い伝えには、注目すべき類似点があって、多くはお家の一大事という時期に出現して、人のできない働きをする。その任務というのは、多くの場合飛脚であった。江戸と十数日の旅程を二、三日で往復したと伝えられている。交通の不便な当時、人間に不可能な能力を狐に認めた人が昔は多かったのである。。(直江廣治)

京阪神地方で少し前まで行われていた行事に、「狐の寒施行」という行事がある。旧正月前後の夜陰、小豆飯とか油揚げのごちそうを携えて、森や野のほとりを廻って、狐の接待をするのである。また福井から鳥取にかけての農村で旧正月の十四日、「狐狩りや、オロロ、オロロヤ、オロロヤ、オロロ」と呼びながら歩く「狐狩り」という風習がある。現代では、狐の害を防ぐためであると説明されているが、元は年の初めにあたって、狐からめでたい祝言を聴こうとした儀礼であった。(直江廣治)

田の神の実像を見ることのできない農民は、狐が神饌田の周囲に現れることをもって、田の神の出現と信じたこと、小祠を家の近くに奉斎すると、使いである狐が家の周囲を守護するという考え方が成立した。

漁村においても、狐に関する伝承で共通していることがあるという。(津軽および東北地方の日本側の稲荷神社の研究)
①、狐の鳴き方で漁の豊漁を占う
②、供え物についた狐の食べ痕をウゲというが、稲荷に供えた小豆飯や魚のウゲによって漁を占う。
③、域内の中心とされる稲荷に詣でて漁の祈願と占いをする。境内に竜神を祀った池があり、サンゴを打って作柄や漁の豊凶を占う。
(サンゴ:神前に供えた米または持参した米を御祈祷してもらった御幣の紙に包んで池に投げ、沈み方の遅速によって占う方法)
狐は、漁の神の使いという考え方があったといえまいか。(亀山慶一)

稲荷信仰の普及

伏見稲荷社は、田の神としての地の神が、まず秦氏が伊奈利山の祭祀権を掌握し、さらに真言宗と結びつくことによって飛躍的に発展し、近世中期以降は憑きもの、福神など「はやり神」的な稲荷信仰の盛行へと展開していった(直江廣治)のである。

稲荷への参拝は、古くから盛んであったといわれる。『今昔物語』の巻第28に「今ハ昔、衣(日ヘンに暴)(きさらぎ)ノ始午ノ日ハ、昔ヨリ京中ニ上中下ノ人稲荷詣トテ参リ集フ日也」とあり、平安時代末期民衆だけでなく上層の人々まで多数の参詣があったことがわかる。イナリ三峰より伐りだした杉の青葉(シルシの杉)と榊の枝とを参詣者がかざして帰るのが風習であった。

江戸時代に入ると、稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるようになる。江戸時代、伏見稲荷社は、『正一位稲荷大明神』ビジネスを行った。諸国に伏見稲荷祭神の分霊『正一位稲荷大明神』を勧請、分け与えるというビジネスを展開したのである。京都の南郊古代以来朝野の崇敬を受けていた伏見稲荷社の祭神稲荷大明神は、天慶5(942)年朝廷から正一位の神位を受けていた。伏見稲荷祭神正一位稲荷大明神である。この正一位稲荷大明神が分霊を与えるのだから、どこへ行っても神様は正一位稲荷大明神になるわけである。伏見稲荷社は、神位を与えるという方法ではなく、正一位をもった神様の分霊を与えるという方法で、各地の神社の神位に対するニーズを取り込んだのである。江戸時代に入って分祀されたものとして、竹駒神社(宮城県)、笠間稲荷神社茨城県)、祐徳稲荷神社佐賀県)、穴守稲荷神社(東京大田区)、稲荷神社(大阪市東区)などがある。

江戸時代は平和が長く続いて、商人が経済的に力を持ちはじめ、自前で神社を持つほどになってきていた。 稲荷神社は本来穀物の神だったが、関連して豊作・商売繁盛を司る神として選ばれ、商業地に広がったのである。 ついには江戸の町中はコンビニのように稲荷神社でいっぱいになった。江戸では、「伊勢屋、稲荷に犬の糞」といわれてどこにでもあるものの代表となった。今日でも、デパートの屋上に祀られている。屋敷神、家々の守り神として敷地内に祀っている神様は圧倒的に稲荷が多い。

江戸時代、田沼意次の出世が、居宅内の稲荷の祠の霊験と伝えられ、武家がそれにならって稲荷の祠を設け、商人も勧請するものが多くなったともいわれる。また、伏見稲荷社が広がるのに、「稲荷さげ」と称する、狐が巫女について託宣下すという一種の託宣を業とした巫女の活躍、神職その他職業的宗教家の宣伝も大きな力となった。そして現在は産業全般の神として信仰されるに至ったのである。

なお、備中高松の最上稲荷豊川稲荷は、別系統で茶吉尼天(だきにてん)を祀っている。別系統である(梅田義彦)。稲荷信仰とダキニ天信仰(インドの神様ー真言密教では、荼枳尼(ダキニ)は胎蔵曼荼羅の外金剛院・南方に配せられ、奪精鬼として閻魔天の眷属となっている)が本来は別系統の信仰でしたが、結びつくようになった。インドでダーキニーは、魔術により強風を起こし、虚空を飛ぶ魔女として登場する。狐と荼枳尼の結びつきは既に中国において見られるが、狐(野干)に乗る荼枳尼天の像というのは中世の日本で生み出された姿であり、インド・中国撰述の密教経典・儀軌には存在しないものである。〔Wikipedia荼枳尼天(だきにてん))(Wikipedia稲荷神)

 

*1:直江廣治編「民衆宗教史叢書第三巻-稲荷信仰」雄山閣出版 1983
*2:井上智勝著「吉田神道の四百年」講談社新書2013
*3:島田裕巳著「『厄年』はある!」三五館 2005