厄年と厄払い(人生の転換期)

厄年を単なる迷信として片付けられないのは、その年の前後に多くの人が転換期を迎え、その年を境に没落・失脚あるいは脚光を浴びていくケースが数多くあるからである。へたをすると、病にかかるなどこの世を去る運命にもなる。厄年とは、何なのであろうか。まず、歴史上の有名人の厄年前後の人生の転機を見てみよう。

歴史上の有名人の厄年における転機(島田裕巳著「『厄年』はある!」三五館 2005より)

1、空海弘法大師)ー43歳の時、高野山金剛峯寺を建て真言密教道場を開いた。
2、最澄伝教大師)ー39歳の時、唐に渡り天台教学を学び、1年後多くの経典を携えて帰国。41歳の時、最長が開いた天台宗に正式に僧が割り当てられ公認された。
3、親鸞ー仏教伝道の道をを開眼したのが42歳の時であるとされている。
4、道元ー44歳の時、永平寺を開いて弟子の教化を始める。
5、金光教始祖(赤沢文治)-42歳の時、重い病に侵されていた時、神から啓示を受け金光教を開くことになった。
6、平清盛ー42歳の時、「平治の乱」を勝利して武士勢力の棟梁としての地位を固める。
7、源頼朝-42歳の時、平泉の藤原氏を滅ぼし全国を平定する。
8、織田信長ー43歳の時、「安土城」に移り、「天下布武」の印を使い、天下統一事業に着手する。
9、徳川家康ー家康は、43歳の時まだ活躍していない。44歳の時、秀吉が関白になり絶頂期を迎える。(実は、ここに重要な秘密が隠れている。)
10、太宰治-逝去39歳
11、宮沢賢治-逝去37歳

現在厄年は、●男性 25歳 42歳(大厄) 61歳●女性 19歳 33歳(大厄) 37歳 とされている。では、昔厄年は、何歳だったのであろうか。天禄元年(970)陰陽道の書物「口遊」の中に厄年として、13、25、37、39、61、73、85、91歳があげられている。大厄とされる33、42は含まれておらず、39と91を除けば厄年は12年ごとに訪れるようになっている。干支に絡む年が対象となっている。『仏説灌頂菩薩経』では七、十三、三十三、三十七、四十二、四十九、五十二、六十一、七十三、八十五、九十七、百五」とする。

ではいつから19、25、33、42歳が厄年と考えられるようになったのか。江戸時代のようだ。島田裕巳氏は、それは語呂合わせであると言われている。19は、「重苦」で苦しみが重なるので厄とされた。25は、「五五、二十五(後々二重後)」で死後のこととして忌まれ、33は、「散々」、42は「死に」に通じるとして忌まれたと言われている。

それはともかく、江戸時代厄年と厄払いは広く信じられていた。天保9(1838)年に成立した『東都歳時記』には、川崎大師への参詣が記されている。とにかく賑わったようである。
弘法大師参詣 河崎大師河原平間寺(川崎大師のこと) 正五九月はことに賑わし、世に厄除大師と称して、都鄙の男女厄年に当たる時は、必、当寺に詣して厄除を祈る。江戸より行程五里半あり」

なぜ、厄年と厄払いは民衆に広く信じられ風習として広がったのであろうか。それは、多くの人がそれぞれ感じるところがあったからである。実感として、これは重大だと感得したからである。単なる語呂合わせではない。厄年について、民俗学者のあいだでは、次のような説がある。

厄年=役年説は、1943年倉田一郎・瀬川清子民俗学者が提唱した説で、厄年は本来神事に携わる年齢、いいかえると役につくという意味である。

もうひとつの厄年=俗信説は、民俗学者の井之口章次が提唱したもので、厄年の背景には、人間の霊魂は年々更新されるという観念があり、そこから特定の年齢に結び付けられた俗信であるとする主張である。(井之口章次著「日本の俗信」弘文堂1975)

神道学者の三橋健は、経験則的にこの時期に人生の節目になるとされている年だと述べている。また、文化人類学者の小松和彦は、「平安時代は貴族は毎年厄払いをしていた。江戸時代に入って暦の普及とともに厄年も普及し神社仏閣での厄除けが流行した。現代は成人儀礼として行われている」と述べている。

もっとも、厄年のような考え方は、日本だけのものではなく、イギリスやスペインといったキリスト教、エジプトやトルコといったイスラム教国にも同じような風習がある。

中国 = 自分の生まれた干支が厄年になる。12年に一度巡ってくる。厄払いの方法は、金色や赤いものを身につけること
イギリス =男性は年齢に4がつく年、女性は年齢に7がつく年。厄払いの方法は、厄年の数だけ木ノ実を集め、外気にさらしたあと、近所の庭先で木の実を焼く。
スペイン =男性は、24歳と44歳。女性は14歳と34歳。厄払いは親戚や友人など、大勢が見守る中で厄年の年齢の数の馬の肉片を見守られながら食べる。その後は、一昼夜にわたって歌ったり踊ったりして明かす。
エジプト =4歳から4年ごとに訪れる(50代まで)。厄払いは、近所の老人から布地をもらい歩きその布地を継ぎ足して身につける。
トルコ =男性は、23、43、63歳。女性は、13、33、53歳。厄払いの方法は、等身大の泥でできた人形を友人や親戚で作り、原色の服を着せて水に流す。

 

厄除けの風習は、全国各地に様々な形で存在している。節分の豆まきは。「福は内、鬼は外」と唱えて豆をまくことで厄を払おうとする。豆をまく人は、年男と呼ばれるが、神社仏閣によっては厄年の人が務めるところもある。

厄を払うとは、自分中心に考えることで積もり積もった欲望、仏教で言えば「煩悩」、神道流に言えば「罪穢れ」を振り払うことである(島田裕巳著「『厄年』はある!」三五館 2005より)。.人生の区切り、転換期であるという指摘は正しい。ただそれだけでなく、数字に意味がある。

カバラ数秘術」によると、
●31~33歳は、「ゴルゴダの丘の時期」と呼び、「報われない時期」であるという。
●36歳ーこの年齢は、「天命に気づく時期」という。
●42歳ーこの年齢を「魂の暗い夜」と呼び、「落ち込む時期」であるという。ただし、落ち込みから回復することで精神的に成長する時期だという。http://www.att7.jp/dictionary/seisinn/yakudosi.html

人間の人生には、区切りがある。20、40、60である。文字通り20歳は、子供から大人になる年である。40は、孔子が「40にして惑わず」と述べたように自分の人生を知る年である。孟子も40歳ごろ「我四十にして心を動かさず」(『孟子』公孫丑上)と、不動心の境地に至ったと述べている。そして、60は還暦と呼んで干支が一回りして元に戻る、別の言い方をすれば、ひと回りして赤子に戻る年である。

ほとんどの厄年は、この区切りに絡んでいる。19は、大人になる前の年、大人になるにあたって引っかかる問題があると厄になるのである。そして、25は大人になって人生を出発する年齢である。脳の発達は25歳までと言われるが、大人になって具体的に自分の人生の方向を定める年齢である。

33歳は、キリストが十字架にかけられた年齢とされているが、イエス・キリストは、25歳から東方に伝道に行き、その後ユダヤの地で伝道に入ったとも伝えられている。「30にして立つ」と孔子が語ったように、自らの人生を出発したけれど、うまくいかなかったという年である。「報われない時期」という解釈は、的を射ていると考えている。そして、36。釈尊が悟りを開いたのが35歳であるとされている。40を間近にして天命に気づく時期とされるのも頷ける。

では、42歳は何なのか。40という数字は、孔子が「40にして惑わず」と語ったように、今までの人生を総括する年であり、そういう数字である。4という数字は、縁起の悪い数字とされているが、その通りであって、魔を切らなくてはいけない数字なのである。それゆえに、孔子は「惑わず」と述べた。煩悩にまみれた人間は、魔を切らないと本当の自分の人生が見えてこないと言いたかったのである。42は、40の区切りを迎えて次の20年に向けて再出発する出発の3年の準備期間の2年目という重大な時期なのである。この年に出発の準備が出来ていないと、この先がおぼつかないのである。厄払いをして本来の人生、特に神仏と自分との関係に目覚めないと先が危ないのである。

還暦である60歳は、干支をひと回りして、我が身に降りかかっている因縁を清算して、後人生を出発する年である。61は、人生の清算ができていないため、降りかかってくる厄と呼べばいいであろう。そのすべてを通過して70を迎えた時、昔からそれを「古稀」と呼んだのは、人生を勝利した稀な人という意味である。

厄年を「語呂合わせ」とか、「迷信だ」などという軽はずみな解釈をせず、人生の区切りとして本当の人生に気づくきっかけにすることが大切なのである。もちろん厄払いをしたからといっても、当の本人が何も変わっていなければ効果はほとんどないのは言うまでもない。