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日本人の死生観(産育と葬送の類似性)

 日本人の葬送儀礼は、産育つまり出産と育児の儀礼とよく似ている。このことを指摘されたのが、国立歴史民俗博物館教授 新谷尚紀氏である。産飯と枕飯、産湯と湯灌、産着と死装束、名付けと戒名、誕生餅と四十九餅など対応する儀礼が多い。日取りも三日、七日、百日、一年、七年などよく対応している。

産育が人生の出発で、葬送が人生の出口であるからだろうか。新谷氏は、そこには日本人の独特な死生観があるといわれる。人の誕生と死亡をあの世からこの世へ、この世からあの世へのそれぞれ移行であると考え、そこでは同じような段階を経てその移行が完了するものだと考えていたのではないかといわれる。

なるほど、このような習慣をみると、「人生うたかたの夢の如し」と語り、桜を愛で潔く人生を全うしようとする日本人の思考が垣間見えてくるような気がする。日本人の観念の中では、現生(この世)だけでなく死後の世界(あの世)が厳然と存在している。死後の世界は存在していると考えているがゆえに、死者の霊が戻ってくることを前提に、また死後安楽に過ごせるようにとさまざまな弔いをしてきたと考えられる。

産育と葬送の儀礼の類似

  産育   葬送
  帯祝い     年祝い  
当日 出産(産飯) 当日 死亡(枕飯)
        (湯灌)(死装束)
  (産湯)     葬儀(戒名)
3日 (湯初め)・(産着) 3日 しあげ  
7日 お七夜(名付け) 7日 初七日  
33日 お宮参り   35日 五七日  
      49日 忌明け(四十九餅)
100日 食い初め   100日 百ヶ日  
  節供・初正月   初盆  
1年 初誕生(誕生餅) 1年 一周忌  
7年 オビドキ   7年 年忌  
      33年 弔上げ

 

 【葬儀後】

≪忌明け≫ 埋葬後、墓見舞いなどといって7日間は毎日墓参し灯明を上げるのが普通である。墓なおしといって3日目に土饅頭や石積みを築き直す例も多い。

また、埋葬当日の晩とか6日目の晩などに死者の霊が帰ってくるためにこれを追い払わねばならぬとする伝承も、とくに近畿地方から四国地方にかけてよく聞かれる。

四十九日は忌明けといって僧侶、近親者、隣近所の人を呼んで読経供養と会食が行われる。四十九餅といって、49個の小餅をつくり関係者でわけて食べる。笠の餅などという一枚の大きな餅をつくり、それを枡のへりにあててちぎってわけるという作法を伝えている例も多い。

《弔上げ》 年忌の行事は、一年、三年、七年と続けられるが、七年忌以後は省略されることも多い。ただし、三十三年忌もしくは五十年忌の最終年忌は重視され、とくに弔上げなどといって枝付きの杉の塔婆をたてる例が多い。死者はこれ以後、神様になるのだ、などという。(新谷尚紀著「日本人の葬儀」紀伊國屋書店1992より)

柳田国男は、「先祖の話」の中で、日本人は死の親しさ、死後の世界を身近なものと捉えていたと述べ、日本人の死生観として、「第一に死してもこの国の中に霊は留まって遠くへは行かぬと思ったこと、第二には顕幽ニ界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭りだけでなしに、いずれか一方のみの心ざしによって、招き招かるることが困難でないように思っていたこと、第三には生人の今は時の念願が死後には必ず達成するものと思っていたことで、これによって子孫のために色々の計画を立てたのみか、さらに再び三たび生まれ変わって、同じ事業を続けられるもののごとく思ったものが多かったというのが第四である」。霊魂は、あくまでこの世界のかつての生活空間の近辺に留まり、再び人界に生を享けるまでの間、折に触れて縁者たちと細やかな交渉を持ち続けるのである。

外国人から見た場合、日本人の信仰の理解できない現象として、死んだ人が神になることを上げる。しかし、日本人にとつて死後も霊魂が存在し続けることは、ある意味で当然なことである。死後荒ぶる御霊が、供養によって御霊が死を悟り現世への執着を忘れ安らかな和御霊になって子孫を守る。この観念に立つならば、人が神になることもごく当然のことである。

この論理に立つ場合、供養だけでほんとうに和御霊になれるのか、という疑問が残される。実は、このことに疑問を感じたが故に、日本に新たな外来宗教ー仏教が受容されたのではないだろうか。「仏教に期待されたものは霊魂を他界へ送り出すのではなく、往生すべき他界のイメージを具体化し(往生思想)、魂の浄化を図る機能だった(佐藤弘夫著「死者のゆくえ」岩田書院)。」

葬墓の原則は、鎮魂と滅罪である。仏教が入ってきて「滅罪」の力に魅せられたのであろう。古代から葬儀や墓参、供養にあたって、鎮魂と滅罪に力のある経典や陀羅尼が使われてきた。とくに法華経は、鎮魂と滅罪の力があるとされ、法華八講・法華会が行われてきたのである。国分尼寺は別名「法華滅罪の寺」と呼ばれていたのである。