煩悩の背後に悪魔は実在する。そしてこの世を支配している。

ほとんどの現代人は、聖書や仏典の中にあらわれる悪魔は、比喩にすぎないと思っていませんか。人間の内面の心理的葛藤を表わしたものにすぎないと。私たちの心の中には、悪への誘惑に駆られる心とそれに打ち勝とうとする力があって葛藤をしている。煩悩があるがゆえに私たちは迷い、悩む。この悪へと誘惑する力ーそれが悪魔であるといっているにすぎないと。ほとんどの人は、そのように理解していませんか。

お釈迦様が、悪魔に試される場面をみると、お釈迦様はさまざまな方法で悪魔に試されます。

一番有名なのは、お釈迦様が最後に悟りを開く場面です。悪魔は三人の美女をお釈迦様のところへ遣わします。色欲によって誘惑せんとします。お釈迦様は、悪魔の誘惑を見抜きます。そうすると、美女たちの容貌は、老醜のそれに変わります。
お釈迦様が苦行で体力を消耗して瀕死の極にある時、滑りやすい石を置いて、お釈迦様の足を滑らしたりもしています。
他にも、甘言でもって誘惑します。「お前に富であれ、権力であれ、望みのものを与えよう。それを享受する気はないか」と。あるいは、配下の軍勢を送り込んで攻撃をかけたりします。攻撃の際には、軍勢の刃は折れ、矢は届かなかったと伝わっています。

この悪魔の試練は、お釈迦様の心の葛藤だけでしょうか。悪魔に誘惑されているお釈迦様は、凡人と同じような煩悩に悩まされていたでしょうか。単純に心の善悪の葛藤であるだけならば、それを乗り越えるのにそれほど苦労することはなかったでしょう。正しい判断力と強い意志をもっているならば、それほどの苦労もなく乗り越えることができるでしょう。しかし、お釈迦様は執拗な攻撃を受けているのです。人間の心の内面に外的な実体攻撃がかけられていると解釈する方が自然です。人間を悪の道に陥らせようとする悪の力が存在するのです。人類の歴史の中で、どれほど多くの人が人生をかけて煩悩の滅却に努めて来たことか、煩悩の克服が容易ではないことは歴史が示しています。悪魔は実在するのです。

キリスト教では、メシアとして降臨したイエス・キリストが悪魔に試される場面があります。メシアとして降臨したのですから、悪魔に試練を受けることはなく、人類を救済する力を発揮できるはずなのですが、そのイエスも悪魔の試練を受けています。

さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、40日40夜の断食をし、そののち空腹になられた。すると、試みる者がきて言った。「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。」

イエスは、答えて言われた。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものであると書いてある。」

それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った。「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手で支えるであろう』と書いてありますから。」

イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある。」

次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう。」

するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。(マタイによる福音書第4章1~11)

イエスは、即座に悪魔に返答しています。悪魔は、実体として存在することを示しています。

そして、現代の私たちも、煩悩があるが故に心の葛藤から抜け出すことがいかに大変なことか、経験として十分知っています。自らの煩悩がなんらかの要因で湧き上がりなかなか滅却できないことを感じます。そして、この内面の葛藤が自分だけのものでなく、心の中に私以外の外的な力が加わって、私を引っ張っていこうとしているのも感じるはずです。カルマの因縁・・・・・。だからこそ、煩悩の滅却はむずかしいのだとも思っているでしょう。

普通の場合、私たちの推理はそこで終わります。しかし、その先があるのです。個別の事象を越えた挑戦(誰にも起きる)がなされる場合、カルマの後ろに構える大御所が出現するのです。悪魔とかサタンとか呼ばれている存在が姿を現わすのです。心の中に、究極の善と悪の戦い、神と悪魔の戦いが始まるのです。目に見えない当事者だけが知る戦いが始まるのです。とてもし烈で、どんな聖者といえども簡単には勝てません。お釈迦様への悪魔の挑戦も、このような背景で起きたことです。とてもし烈な戦いだったと思います。

また、お釈迦様の前に現われた悪魔は、部下たちを遣わしています。部下たちがさまざまな方法をとるのです。美しい娘に化身して(実際は、邪悪な心を持つ美しい女性に力をあたえて誘導する)誘惑する場面は良く知られています。表面上は、美女の誘惑にしかみえません。たとえ、悪魔が目の前に現われていたとしても、悪魔に対する認識がないならば、ただの美女の誘惑として感じるだけでしょう。よほどの感覚を持っていない限り、背後の悪魔の力は見抜けません。そんなものです。

日蓮上人は、「魔を降伏しないものは正法ではない」と語られましたが、そのとおりです。悪魔の存在を知らず、魔を空想の存在として理解している限り、この世は悪魔の支配下として安泰なのです。我々の煩悩も消え去ることなく続き、私たちの苦しみも絶えることなく続くのです。それゆえ、悪魔はめったに姿を現わしません。肝心の時にこそ、悪魔の誘惑があるといえばいいでしょうか。

日本人は、悪魔という存在は空想の産物にすぎないと馬鹿にしています。認識の甘さにあきれるばかりです。その中にあって、大本教出口王仁三郎は、悪魔の存在を書き記しています。王仁三郎も、お釈迦様やイエス・キリスト日蓮のように悪魔とし烈な戦いをしたのだと思います。王仁三郎が記した悪魔の記述を記します。

太古から日本を、世界を転覆させ、自分たち悪霊の支配する世界にしようとする、そしてこの世を呪ってやまない巨大な悪霊である。巨大な権力、勢力をもち、世界各地の支配層や人々に自己の分霊をそれぞれ憑依させ、権謀術数を用いて世の中を永遠に体主霊従、力主霊従の世にしようと企む霊のことである。

出口王仁三郎は、この霊に三種あるとして、「八頭八尾(やつがしらやつお)の大蛇(おろち)」「金毛九尾の悪孤」「六面八臂(ぴ)の邪鬼」と名づけている。

「八頭八尾(やつがしらやつお)の大蛇(おろち)」
「八」には“多く”“無数”、「頭」には“上”“支配者”の意味があって、「尾」には、昔の武将が采配をふって軍卒を指揮したように“支配”の意味があって、悪霊が世界の指導者に自己の分霊をまくばり、大蛇のように執念深く支配しようとすること。

「金毛九尾の悪孤」
「金毛」とは、最上の毛並みのことで、悪霊がもっとも上品、優雅な姿をかりてあらわれ、威厳を示して人々をたぶらかし惑わすこと。「九」は数の終極を意味し、“多く”とか“すべて”をあらわし、「尾」は前出のように“支配”の意味があって、悪霊が自己の分霊をまくばり、優美な姿で人々を千変万化に幻惑し、世の中を悪化させる陰湿な悪霊をいう。

「六面八臂(ぴ)の邪鬼」
「六面八臂(ぴ)」とは、“多くの顔”“多くの肘”のことで、多芸多能を意味し、技術、技能、手腕にたけた残忍な邪鬼の霊で、やはり世界の盟主となることを企む。

王仁三郎は、
世人の智慧は賢しくも   この世をのろふ魔神の  醜のたくみは悟り得じ
と示して、いかにこれらの霊がしつように世界の精神界、物質界に巧みに根をはり、真の神の光を覆うとしているかを諭している。大本の神諭には、「この世は、九分九厘まで悪神の自由になっている」とある。(中略)出口なおの「筆先」には、
悪神の大将を往生させて、天下太平に世を治めるぞよ
悪の身魂を改心させて、善一筋の世にいたすぞよ
と書かれている。(出口 斎編「神仙の人出口日出麿」講談社1989 p293)

ゲーテが、「ファウスト」の中でこの世を統べているサタンという存在に触れているが、王仁三郎も悪魔について詳しく記述している事を述べておきます。最後に、万物は、悪魔に支配されたことに嘆息しているという言葉があるが、実際は恐怖の悲鳴をあげていると言った方が正しいと思います。