出口王仁三郎のエピソード

余談になるが、出口王仁三郎のエピソードを紹介する。大本教の信者にはあたりまえであると思うが、いかに王仁三郎師が常人を超えた人間世界を見通していたかを垣間見せるものなのでいくつか紹介してみる。

○戦争に徴兵されて外地に出征する人に
「鉄砲は空向けて撃っとけよ」といいながら、行く先々によってそれぞれ注意を与えていた。また、出征する兵士には特別のお守りを与えた。これには「我敵大勝利」と書き添えてあった。

○刑務所での夢
わしは未決監に収容されているときは、くる夜もくる夜も神さまから夢を見させられた。それで夜がきて眠りにつくのが待ち遠しく、唯一の楽しみであった。入監中に見た夢を数えていたが、3,552になった。

○関西の一流財界人からなる清交社による「出口王仁三郎氏にものを聞く会」において
問い.神の道とはどんなものか?
答え.広場や、自由自在のところや。
問い.大本とは何をするところか。
答え.鉄火場や、三千世界の大バクチを打つとこや、つもるもするも心ひとつ。
問い.高天原はどこにあるのか。
答え.高天原はここにもある。
問い.あなたは狂気か正気か。
答え.狂気ではない。しかし気の持ちようがふつうの者とはちがうからきちがいや。ナポレオンかてそいういう意味ではきちがいや、わしのは叡知病というのや。

○大阪控訴院での裁判長との虎穴問答-「人虎孔裡に墜つ」という禅問答
王仁「一人の人間が虎の穴へ落ち込んだ場合どうしたらよいか。裁判長、あなたはどうお考えになりますか?」
裁判長「自分は法律家だからわからないが、どういうことなのか?」
王仁「人間より虎のほうがつよいから逃げようとすると殺される。刃向かっていっても同じことだ。ジッとしていても虎が腹がへってくると殺しにくる。どっちにしても助からない。けれどひとつだけ生きるみちがある。それは食われてはだめだ。こちらから食わしてやるのだ。食われたらあとにはなにも残らんが、自分のほうから食わしてやればあとに愛と誇りとが残るのだ。
裁判長「うーん」と嘆声を漏らした。

王仁三郎は、この問答で大本事件を語ったのである。そして、この問答が事件の一大転機をもたらした。これこそが一厘の仕組みというものだろう。

(以上出典:出口京太郎著『巨人 出口王仁三郎』講談社昭和42年)

京都地裁での漫談問答(当意即妙症)
裁判長「そちらは昭和3年3月3日にみろく大祭というお祭りを執行したか。」
王仁「しました。」
裁判長「妙に三、三、三という数字の重なった日を選んで、お祭りをしたものだな、なにか意味があるのか。」
王仁「はあ、私は三という数字が好きです。仏教の方でも三輪とか、三藐三菩提とか、三宝とか、よいことは皆三の字がついています。そればかりでなく、私はかねてから神様から、七という数字のかさねる時に、何か事が起こると世界的に発展する、と聞かされています。それで私は大難を小難にまつりかえてもらうつもりで、七に三を加えると十になる。十は神の数です。そういうところからお祭りした意味もあったのです。
裁判長「何か七、七、七に関連したことでもあったのか。
王仁「はあ、大本開祖が亡くなってから七年目に、私は蒙古入りをしました。それから七年目に満州事変が起き、それから七年目に今度は支那事変が起きた。しかも七月七日という日に支那事変が起きている。私はかねて神様から、これは下手をすると世界的大事件となって、日本も危うくなると聞かされていたので、大難が小難で済むようまつりかえして頂いたのです。
裁判長「昭和三年三月三日のみろく大祭の祝詞奏上の後でお前は『万代の常夜の闇もあけはなれみろく三会の暁きよし』という歌を詠んだそうでないか。
王仁「はあ、詠みました。」
裁判長「みろく三会とは、天のみろく、地のみろく、人のみろく、この三つが一つになるということだそうだね。
王仁「さようです。」
裁判長「この歌によると、地球上で、お前が一番えらいという意味になるのではないか。」
王仁「それは私の宗教上の悟りです。宗教上の悟りを法律で解釈されてはかないません。釈迦でも天上天下唯我独尊と言うているが、宗教を開く者はそれくらいの悟りの自覚がなくては、宗教が開けるものではないと思うとります。私は別に悪いと思うておりません。」

裁判長「それから祭典の後で、お下がりを皆にわけてやったそうだね。第一番にお前が林檎三つ取ったというじゃないか。」
王仁「はあ。」
裁判長「お前はかねて『日地月あつめて造る串団子星の胡麻かけ食らふワニ口』という歌を詠んで信者に披露しているというじゃないか。」
王仁「その通りです。」
裁判長「その歌と林檎三つ取ったことを考え合わしたら、妙なことに解釈できんかね。」
王仁「何も妙な解釈はできんと思います。あの歌も私の悟りの境地を詠んだのです。林檎三つですから、三輪ということになります。三輪とは仏の教えの十善戒のことで、身輪口輪意輪で三輪といいます。身輪とは身体の戒律で、不偸盗戒、不殺生戒、不邪淫戒等をいい、口輪とは口の戒律で不妄語戒、不綺語戒、不悪口戒、不両舌戒などをいい、意輪とは心の戒律で不瞋恚戒、不貪慾戒、不邪見戒等をいいます。私は宗教家だからこのような戒律を守ろうとして林檎を三つ取りました。」

裁判長「お前の林檎三つはなかなか大変な意味が含めてあるのだね。それでは妻に大根をやった意味はどうかね。」
王仁「これも仏の教えに、大根大機諸々の菩薩を利益し六度百行首楞厳定を与う、ということが書いてある。人には二十二根ある。私の所は代々女が跡取りで、私は男でも補佐役で、女房の方が教主になっている。それでお前は教主だから、すべて役員信者を大根大機でよく利益してやらなならんという意味なのです。それからもうひとつ意味がある。私は小糠三合の口で、出口すみの所へ入婿に来たのです。どこでも家は女房というものの権幕が強いもので、昔から、何ぞや杓子に当たる悪い嬶(かか)、という発句もあるくらいで、女房に当てられる亭主は嫌なものです。あの大根というものは、なんぼ食べても腹が痛まぬ。当たらぬ物です。私は口では言えぬが女房に、この大根にあやかって、ちと当たらぬようにしてくれ、という意味もあったのです。役者でも当たらぬ役者は大根役者といいます。」

裁判長「漫才みたいなことを言うな。幹部十七、八名に親薯(いも)を一つずつやった意味は?」
王仁「薯(いも)というものは人の見ぬ土のなかで子供を殖やすものです。土の上に出ている葉はいつでも頭を下げて謙遜している。それで私は幹部に、お前たちは人に教えを説き、人に模範にならねばならぬ人たちだから、この薯にあやかって人には腰低うゆき、人に見せるためでなく、人に知らぬように徳を積み、徳を施していかねばならぬ、という意味でやったのです。
裁判長「しかし、そのお薯をやる時に、他の者に食わしてはいかぬ。一人で食べよ、といったそうじゃないか。」
王仁「それはちょっとしゃれたのです。古語では妻のことを吾妹といいます。自分の女房を人に食わしたらいかん、としゃれたわけです。」

出口王仁三郎は、死刑になるかならぬかの審理を受けている最中にこのようなおもしろい答弁をして、みなを苦笑させたのです。裁判長は、「あれは当意即妙症だね」と笑ったという。

(出典:早瀬圭一著「大本襲撃ー出口すみとその時代」毎日新聞社2007年)