出口王仁三郎と理想世界、世界平和ー3

4、昭和神聖会の設立

昭和7(1932)年11月、大本は再び「皇道大本」と復名し、第一次大本事件で頓挫した「大正維新」を「昭和維新」として実行しようとしていた。王仁三郎は、頭山満内田良平ら右翼人士との交流を行い、1934年(昭和9年)7月22日に昭和神聖会を結成する。東京九段軍人会館で行われた発会式には陸海軍将校が多数出席し、後藤文夫内務大臣、秋田清衆議院議長が祝辞を述べるなど各界の著名人が3,000名以上が参集し、政治・軍事への影響力を示した。王仁三郎は統管に就任し、「神聖皇道を宣布発揚し、人類愛善の実践を期す」とぶちまくった。昭和神聖会の政策請願に署名した人数(会員)は800万人にのぼり、日本有数の団体になっていったWikipediaによると、1935年(昭和10年)の時点で、大本は支部1990、信者100万 - 300万人(特高警察資料、大本教40万・人類愛善会25万人)、3割は大学卒業者という高学歴で、政治家・軍人を含む確固たる宗教勢力に成長していた。

王仁三郎の神聖会運動に対する打ち込みようは大変なもので、昭和9年の夏から翌年にかけて、席のあたたまる暇もないほど全国を飛びまわった。各地での支部発会式や講演、座談などのほか、有力者、知名人、ジャーナリストらとのインタビューに追われ、合間に信徒の相談にのるといったぐあいであった。1ヶ月の間に1万1千キロ行ったという。

昭和9年(1934年)7月に発足した昭和神聖会の大本版、昭和青年会の「閲兵式」などでは、天皇の閲兵式を模倣し、軍服を模した服装で白馬にまたがり、左手で手綱を支え、右手に鞭をもつという姿で謁見している。(前掲書*1

しかし、王仁三郎と昭和神聖会の活動はいやがゆえにも目立ちすぎていた。当時の国内外の情勢は騒然としていた。昭和7年(1932年)満州国建国、昭和8年(1933年)国際連盟脱退通告、昭和6年(1931年)の大川周明、橋本欣五郎中佐らの桜会事件、昭和7年(1932年)の日蓮宗井上日召に組織された血盟団による前蔵相井上準之助、三井財閥の団琢磨の殺害、同年5月の5・15事件と血なまぐさい事件が頻発していた。時の権力者が密かに昭和神聖会と大本教の粛清を練っていたのも致し方あるまい。時の権力者は、大本と王仁三郎が軍部の革新派や右翼団体と協力してクーデターを起こす危険性を考慮し、昭和神聖会の資金源を断つべく大本の壊滅を意図した。密名は一人の特高警察課長に下った。愛知県警察本部特高課長杭迫軍二(くいせこぐんじ)である。杭迫は京都の特高課長に就任し、大本教の探索に密かに当たったのだった。裏で誰が画策したのかは現在も謎である。

5、第二次大本教弾圧

大本教は、1921年(大正10年)と1935年(昭和10年)の2回大弾圧を受けている。第二次の大本事件は、昭和10年12月8日突如起きた。

1935年(昭和10年)12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した。罪名は不敬罪並びに治安維持法違反。6日間の捜索で5万点の証拠品を押収した。王仁三郎は、島根別院で逮捕された。取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、検束や出頭を命令された信徒は3000名に及ぶという。最終的に987名が検挙され、318名が検事局送致、61名が起訴された。特別高等警察の激しい拷問で、僅か1年余りの間に自殺1人、衰弱死2人、自殺未遂2人を出している。そして教団の全財産を没収された。

昭和17(1942)年8月5日、みずから法廷で予言していたように王仁三郎は保釈される。王仁三郎は、8月7日6年8ヶ月ぶりに一族の待つ中矢田農園に戻ったのだった。戻った王仁三郎は、「今度の戦争は、なぐりこみだから天佑はない。悪魔と悪魔の戦いだから協力しないように」と強調し、破壊された本部について、「このように日本はなるのや、亀岡は東京で、綾部は伊勢神宮にあたる」。「九州は空襲だ。艦載機が個別訪問する」広島の信者には、「埋立地は危ない。疎開するように」とアドバイスした。

王仁三郎は、事件の終了後小山弁護士に次のように語っている。
今度の大本事件は、大本という神様の団体は、今度の戦争には全然関係がなかったという証拠を、神様がお残しになったことだ。(中略)日本という国は特殊な国で、日本が戦争をしている時に、日本の土地に生まれた者で戦争に協力せぬなどということは日本の国家も社会も承知せぬ。しかしそれでは世界恒久平和という神様の目的が潰れるから、神様がわし等を、戦争に協力出来ぬ処へお引き上げになったのが、今回の大本事件の一番大きな意義だ(早瀬圭一著『大本襲撃ー出口すみとその時代』毎日新聞社2007年*5より)」と語ったという。大本教は、太平洋戦争に協力しなかった稀な宗教団体となったのである。

第二次大本事件では、あれほど激しい大弾圧であったにもかかわらず、転向者がほとんどいなかった。王仁三郎は終戦後、「信者は迫害に耐えた。神殿は破壊されたけれども、信者は教義を信じ続けてきたので、すでに大本は再建せずして再建されているのだ。ただこれまでのような大きな教会はどこにも建てない考えだ。・・・これからは自分はただ全大宇宙の統一和平を願うばかりだ。・・・・自分のつごうのよい神社を偶像化して、これを国民にむりに崇拝させたことが日本をあやまらせた」と、語っている。ともかく、日本の型が守られたということに感謝したい。

また、王仁三郎は「本当の火の雨はこれからじゃ」と語る。一方、「いま軍備はすっかりなくなったが、これには世界平和の先駆者としての尊い使命がふくまれている。ほんとうの世界平和は、全世界の軍備が撤廃されたときはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある(朝日新聞昭和20年12月30日)」と、語っている。王仁三郎が予言した米ソ対立の時代も終焉した現在、火の雨は来るのであろうか、それとも回避されたのであろうか・・・・。その答えは・・・・。

 6、戦後の大本教(正式には大本)

昭和20(1945)年12月8日、大本事件勃発から10年、綾部の神苑で大本事件解決奉告祭が執り行われた。翌昭和21(1946)年2月7日、大本は「愛善苑」として再発足する。王仁三郎は、出所後陶芸に励み、昭和23年(1948年)昇天する。最後の活動である陶芸では3,000を越える作を残した。その作品は現在世界第一級品の作と称賛されており、国宝になるのは間違いないとまで評価されている。(生存中は評価されていなかった。)

また、妻であり二代教主である出口すみは、王仁三郎亡き大本教を指導し、第二次大本事件で破壊された綾部のみろく殿の再建を発表し、昭和27年(1952年)昇天する。みろく殿は破壊から43年後の52年再建された。また大本では、昭和24年より世界連邦運動を推進している。

昭和52年(1977年)2月3日、再建された綾部のみろく殿で、キリスト教との共同礼拝式がモートン神父、日本聖交会の関本肇神父らによって行われた。宗際化の第一歩であった。各宗教がその独自の発展と伝統を尊重しながら、一宗一派にとらわれずに相互に交流、協力を図り世界の平和と人類の救済に貢献していこうというものだった。

五代教主に就任した出口紅氏は、早瀬圭一氏の「大本はもう少し信者の数があってもいいのではないかなと率直に思いますが」という問いに、「大本のみ教えをよく理解し、神様の存在を感得され、みずからのお気持ちで本当に入りたいという方に入っていただくのが一番いいかたちではないかと思います。(中略)本当に自分に必要な宗教だと思われる方にお入りいただければ嬉しく思います。(平成19年の対談)」(前掲書*5より)と語っている。また五代教主は、近未来の目標として生命倫理、平和、農業・環境、芸術文化、エスペラントの五方針と福祉を実践目標として、開教120年の平成24年に向けていろいろ整備していきたいと語られている。

平成24年(2012年)5月5日には、大本教120周年慶祝行事が行われた。大本教も新しい時代を迎えていくのだろう。

7、理想世界、みろくの世に向けて

出口日出磨(第二次大本事件で特高の拷問により精神異常をきたす。戦後、三代教主出口直日の就任に合わせて教主補に就任する)も次のように語っている。
「宗教によっては小賢しい理屈を言うものもあるが、しかし神様と人間とは理屈ではない。まったく親子関係であり、人間同士は兄弟関係である。これが真の宗教である。内流は神さまからくるが、実行は人間がするのである。地上天国は人間がつくるのである。(中略)自分で自分にいつも気をつけ、身の内の悪とあくまでたたかわねばならぬ。しかし、自力のみではとうていだめであるから、つねに神さまのお力にすがる事を忘れてはならぬ。(前掲書*4

「世界の立替えとは、身魂の洗濯のことである。大峠とは今までのめぐりが世界へ一時に現われてくることである。故にこれからますます世の中は悪くなる一方。いろんな災危が世界的にも個人的にも起きてきて非常な苦悩がやってくるのである。(中略)この世の改造ということが、そう手っ取り早くできるものではない。表面だけの改造なら今日の日でもできるけれども、それはまたすぐに壊されるものだ神さまは、“得心さして改心さす”と仰っている。“悪でこの世が続いていくかどうかということをみせてあげる”と仰っている。“渡るだけの橋は渡ってしまわねばミロクの世にならぬ”と仰っている。どうもそうらしい。せめて世界中の半分の人間が、なるほどこれは間違っているということを心の底から気づいてこなくてはダメだ。(前掲書*4)」

「なんで戦争なんかがあるのでしょう」と信徒のある婦人が問えば、「みないばりたいからじゃ」とすぐ答え、「ミロクの世はいつくるのですか」との質問には、「在家の菩薩が道を説くようにならな、ミロクの世はこない」という。ポカンとしている相手に向かい、「在家の菩薩いうたらおまえらのことじゃ」と(出口王仁三郎)。(前掲書*1より

これらの言葉は、「立替え立直し」は対決による体制変革にあるのではなく、魂そのもの立替え立直しというきびしいものであり、このことなくしてみろくの世はこない、ということを教示している。ここまで書いてくると、宗教はみろくの世になれば無用のものであって、宗教が世界から全廃される時が来なければだめなのであるという王仁三郎の言葉がよくわかるのであり、課題はいかにしてみろくの世に至るかということになる。

8、最後に

出口王仁三郎が歩んだ道は、人間的基準から見れば理解できないことは当然である。王仁三郎は、神の経綸に従って行動しているからである。今、王仁三郎の歩みを振り返ってみると、そこには平和を築くヒントが隠されていることに気づく。世の立替え立直しとみろくの世の建設、それは人類全員の願いであり理想郷であるが、そこに至るには何をしなければいけないのかが暗示されている。力と力の対立、エゴのぶつかり合いは回避できるのか?このことに対して大本教と王仁三郎は、体主霊従から霊主体従へと信仰的課題を取り上げ、型の法則により世界を平和に導くという道を示してきた。実は、ここに人類が今後進まなければならない秘密が隠されている。

なお、私自身は大本教の信者でも関係者でもありません。また、宣伝するために記述したのでもありません。大本教に示されている天理の経綸を伝えるためであります。もし内容に誤りがあればお詫びします。ご指摘していただきたい。すべて私の不徳の致すところであります。