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出口王仁三郎と理想世界、世界平和ー2

3、入蒙「満蒙に精神的理想郷建設」

王仁三郎は、第一次大本事件以後、突如満蒙にはいっていく。大正13年2月13日深夜、王仁三郎は松村真澄、植草盛平(合気道の開祖)ら3名をともなって密かに綾部を出発し大陸に渡り、ダライ・ラマと称して蒙古に入った。その目的を回顧録の中で次のように語っている。
「余は日本人口の増加に伴い発生する経済的不安を憂慮し、朝鮮における同胞の安危を憂え、次いで東亜の動乱の発生せんことを恐れ、この時において満蒙の開発に着手せなくては、金甌(きんおう)無欠の我皇国も前途甚だ心細い事になるであろうと憂慮し、而も当時の国状を見る時、この場合誰かが悲壮な犠牲者となって国民に一大衝撃を与える以外に覚醒の途が無いと考えたからである」と述懐している。後日、王仁三郎は、「満蒙の今日のありさま前知してわれは蒙古に向かいたるなり」と詠んでいることをみても、日本と満州の行く末を案じていたことが分かる。

王仁三郎の入蒙を決意させたものは天の啓示であったようだが、その前にエスペラント、そして人類愛に燃えるバハイ教(イスラム教シーア派エスペラントを使用。全世界で宣教活動を行っていた)の訪問を受けて影響されたことも大きい。入蒙1年前の大正12(1923)年1月の『神の国』に発表された文の中で、「(中略)しかしひるがえって大本の現状を見る。なんぞその退嬰消極的の甚だしきや。その教えを説くものその足跡のおよぶところ、わずかに本土の内にかぎれり。・・・・世界人類済度の経典を与えられたるわれらは、あるいはいたずらに身霊の因縁性来をなまかじりにして太平楽をならべ、あるいは排外的思想に没入してみずから小さくなるの愚を避け、大いにこれを活用して世界的神国成就の実現を努力すべきなり。
噫噫(ああ)人類はいまや救主の出現を待ちて無明暗黒の世界を模索しつつあるにあらずや」(前掲書*1より)。王仁三郎の言葉にはやがて世界に雄飛せんとする気概が満ちあふれている。

大正10年(1921年)には、山東省済南に道院という啓示を受けた新しい信仰団体が生まれる。ある時その道院に啓示が降りて、「日本の首都を中心に大震災が起こるので救援に行け。また、日本に道院と同様な宗教団体がある。そこと提携を図れ」という。啓示を受けて関東大震災の救援に来た中国の道院の活動団体「世界紅卍字会」と大本教は提携を結ぶ。道院は、祭神を“至聖先天老祖”(大本の国祖・国常立尊のあらわれ)と称し、釈迦・キリスト・マホメット老子孔子などの各宗祖を併祭していた。教えも、大本と同じ万教同根を説き、その神示は檀訓といった。当時、世界紅卍字会は、華北から満州にかけて信徒が多く、中産階級以上の信徒が約600万人いるといわれていた。(出口斎編『神仙の人 出口日出磨』講談社1989*4

王仁三郎は、中国道院・世界紅卍字会の協力のもとに数人の側近と共に入蒙(満州・蒙古)する。王仁三郎は、中国道院との提携によって道院の宣伝使としての資格をもっていたので宗教の布教には支障がない。そこで「まず宗教的に進出するのだ」と語り、宗教的・平和的に蒙古を統一し、東亜連盟実現の基礎を打ち立てたいと考えていた。しかし、出口宇知磨に渡した手紙には、「ことの成否は天の時なり・・・王仁30年の夢いまやまさに醒めんとす・・・」と記されていた。(前掲書*1)成功する確率は低いと見ていたのであろう。

「王仁蒙古入記」によると、「蒙古王国の建設よりひいて新疆、チベット、インド、シナの全土を宗教的に統一し、東亜連盟の実行を成就し、ついでロシア、シベリアにその教勢をひろめ、パレスチナエルサレムに再生のキリストとして現れ、欧米の天地に新宗教的王国を建設し、国祖の使命を完成せん・・・」。王仁三郎は、蒙古だけでなくさらに西に進軍することを考えていた。この構想に、協力してきた人々もたまげてついていけなくなるのであった。

後日王仁三郎は語っている。「蒙古から中央アジアをへて太古のエデンの園、太古のエルサレムへの世界の源をたずねにいくつもりだった。人類文明の源アルメニアについては、わしの『霊界物語』にくわしくあらわしてある。ノアの方舟のひっかかっとる山へも登る気やった。いまの人類史の始点にさかのぼると、もうひとつまえのムー大陸時代の文明の研究ということがやかましゅうなってくるだろう。馬にのって、くる日もくる日も走りまくった。一週間ほどして、もうだいぶエルサレムも近づいたやろと地図をみてがっかりした。針で突いたほどもうごいておらん。地球というものはなんと大きなもんやろう」。関西の一流財界人の集まりである清交社主催の「出口王仁三郎氏にものを聞く会」での答えであった。(前掲書*1より

王仁三郎は、張作霖の配下でチャハル方面の実力者、盧占魁の兵に守られ、霊界物語(大正10年の第一次大本事件後に王仁三郎が書いた第二の経典)と西王母の衣装(能楽西王母』の主役が身にまとう衣装。西王母は女の神様で、中国古典に出てくる救世主)を積んだ車を引いて、自身は盧占魁から贈られた白馬にまたがって蒙古草原を進軍して行った。王仁三郎は、ダライ・ラマだ、ミロクだといって進軍する。各地で「聖者来る」といううわさがひろまり、人々が群れ集まって王仁三郎を拝んだという。もくろみは、端緒についたかにみえた。

しかし、事態は暗転する。満州の独裁者張作霖は、盧占魁の勢力が拡大することに危機感を募らせ、討伐軍を派遣する。盧占魁は捕らえられ殺される。王仁三郎は、捕らえられ銃殺一歩手前までいく。あえなく、蒙古王国は潰え去ったのであった。わずか4ヶ月ほどの夢物語であった。しかし、日本ではやんやの喝采が巻き起こったのだった。

4、世界宗教連合会設立と愛善会運動

 大正13年(1924年)11月1日、保釈により刑務所から出てきた王仁三郎は、大本教の万教同根の思想と宗教による精神的な世界の統一の方法として、世界宗教連合の実現に努力していく。松村真澄を北京に派遣し、北京にいた章嘉活仏(ラマ教)と会い、連合会の発起について王仁三郎の意を伝えている。当時としてみれば、とんでもない構想であった。

この理想は、大正14年(1925年)5月、普天教、道教、救世新教、仏陀教、回教、仏教、キリスト教の一部からなる世界宗教連合会の設立となって実現する。発会式は北京で行われ、総本部を北京に置き、東洋本部は亀岡に置かれることになった。発起人には、内田良平秋山定輔頭山満田中義一、王芝祥(中国)、セミョウノフ将軍(ロシア)らが名をつらね、理事には大本教、道院、悟善社、ラマ教、道教、仏教、イスラム教などの代表が名を連ねていた。東亜の宗教的連盟を堅くし、さらに西漸する構想だった。

大正14年6月には、「人類愛善会」を発足させる。ここを母体とする人類愛善運動は、非常な勢いで国内だけでなく海外へ発展していく。総本部は亀岡に置き、その下に東洋本部・欧州本部・東京本部を置き、あっというまに日本だけでなく満蒙、東南アジア、ヨーロッパ、アメリカ、南米、南洋諸島などに支部が設立されていった。ヨーロッパにおいては賛同者が続出し、入会者がひっきりなしであった。各国各地には愛善堂、愛善農園、愛善保育園、愛善診療所、愛善語学校などが作られていった。

昭和10年人類愛善会設立10周年記念大会の折、愛善会支部は総数1,247、日本内地962、満蒙207、南洋20、南米19等々であると報告されている。発行された愛善新聞(旬刊)は、当初1万部だったが、昭和3年末には2万6千部、8年には47万部、9年には100万部(当時大阪朝日63万部、読売52万部)であった。

昭和6年9月、満州事変が勃発した時、大本、人類愛善会、道院、紅卍字会の人々は、奉天を拠点に救援物資をばらまいたり、負傷者や病人の診療に奉仕したり,戦没者や犠牲者の慰霊祭行ったりした。提携団体も多数に上った。大本の人気は急上昇していった。そんな中で王仁三郎が昭和7年(満州事変の1年後)朝鮮満州を訪問したのだから、熱狂的に民衆に迎えられたのはいうまでもない。1ヶ月あまりであったが、各地でワニブームがまきおこり、どこへいっても500~1000人の群衆が出迎えたという。(前掲書*1

日本が中国の民衆の心がつかめず大陸政策で苦心し、力で圧迫するばかりで抗日の気分が強まり、日本人は孤立に陥り満州人に相手にされなくなっていた。そんな中で、大本教の愛善運動は道院・紅卍字会との協力のもとに急速に拡大していたのだった。

大本70年史は、「満州国は建国を宣言したが、地方軍閥のあいだには新政府に対する反抗的な空気が強かった。しかし大本及び人類愛善会の精神に対しては、抗日会の幹部も匪賊の頭目も共鳴し、協力を惜しまなかったという。張学良一派で師団長、旅団長格の十数人が愛善会の趣旨にめざめ、張学良から離反して東亜民族同盟をつくり、満州の治安維持に働きかけるようになった。昭和7年8月には、満州国紅十字会総裁李振邦ほか数人の幹部が愛善会に入会し、20万会員を愛善運動に参加させる約束ができた」と述べている。

出口日出磨(王仁三郎の娘婿、7度満州朝鮮に宣教に行っている)は、1932年(昭和7年)満州蒙古の伝道から帰国した報告講演会で、「・・・・今後は日本の出ようひとつでいかようにもなるのでありますから、この意味においてわれら日本の責任は重かつ大であります。われわれは日本人の天よりの大使命を覚り、本当に胴腰を据えて、利権などは問題にせず、兄弟として愛善をもって接し、指導してゆけば、かならず吾が日本を徳とする事は明らかであります。本当の善、心からの愛により、すなわち神慮に基づきたる東亜の大神策を堅く打ち立てねばならぬのであります(前掲書*4より)」。事態は、重大な局面を迎えていた。

しかし、王仁三郎の意図とは異なり、満州は野心と魂胆ある人々の手で戦争への道を切り開くことになる。王仁三郎は、満州事変勃発の10日前の昭和6(1931)年9月8日、神示により綾部本部の山の上に用意していた石碑を建立する。石碑の碑文には、入蒙時バインタラで遭難した時の辞世の歌「よしなみは蒙古のあらの朽ちるともやまと男の子の品は落とさじ」が記され、王仁三郎は、「これから10日後の9月18日大事件がおき、それが世界的に発展する」と述べた。そして、満州事変が起きた時、王仁三郎は、1931年のことをイクサハジメといい、紀元2591年にちなんでジゴクハジメと評した。いよいよ神が表に出て経綸が始まっていくのだった。(前掲書*1より

この日を境に、日本は敗戦という運命の道に、大本教は第二次の弾圧と解体の道に向かっていくのだった。