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仏陀は、悟りを得た後も最高の真理を求め続ける。そして、悟りを得た後も魔の誘惑は続く。

『盲目のアヌルッダは、自分で裁縫をするとき、針に糸を通すことができない。そこでいつも誰かに助けてもらっていた。ある時、「お願いしたい」と声を出した時、「では、わたしが功徳を積ませていただこう」と、釈尊がアヌルッダの手から針と糸をとられた。アヌルッダはびっくりして、「わたしは世尊に申し上げたのではありません」と、答えた。そうすると、世尊は「どうしてだね?アヌルッダよ。わたしもまた、幸福になりたいと思っているのだよ」と、答えられた。

そして続けて、
「そうではないのだよ、アヌルッダよ。仏陀であっても、なお求めるものがある。最高の仏陀であっても、これで十分と満足してはならないものが六つある。その六つのものは、・・・
まず第一が、「施」。人に施しをするのに、これで充分ということはない。
第二は、「教誡(きょうかい)」。弟子の指導に、ここまでで充分というところはない。
第三は、「忍」。じっと耐え忍ぶことに限界はない。
第四は、「説法」。信者に法(真理)を説くのに、これだけ説けばもういい、という限界はない。第五は、「衆生の愛護」。これにも限りがない。
最後に、「無上正真の法を求めること」。仏道は無窮であって、仏陀はいつでも最高の真理を求めつづけている。
だから、仏陀はいつでも幸福を求めているのだよ。仏陀はいつでも精進を続けているのだよ。もうこれでよいという限界はない。つねに前進をつづけるのが、仏教者なんだよ・・・。』

こう語られる釈尊の姿に、悟りを得るということは何か、そして悟りを得たとしてもなお衆生に苦しみがある限り真理を求めてやまない、無上の幸福を求めてたゆまぬ精進をする仏教者の姿があります。

その一方経典は、悟りを得た後も魔の誘惑があることを伝えています。既に勝利したことであっても再び誘惑されるのです。もちろん、既に勝利した内容なので乗り越えることは容易であるのですが、試練はその後も訪れるのです。

有名なスンダリーの迫害やマーガンディヤーという娘の話が仏典には書かれています。もしも釈尊の心に魔がさしたなら、悟りは水泡に帰して堕落してしまうことになるでしょう。