いんやく りお「自分をえらんで生まれてきたよ」が語っていること

表題は、サンマーク出版から2012年5月に出版された本の題名である。いんやく りおは、小学生の男の子。りおが語ることばは、周りの人をそして読者を驚かせています。少し書いてみます。

赤ちゃんは、どのお母さんにするか、
どんな体にするか、どんな性格になるか、

自分で決めて生まれてくるのが、ふつうだよ。
ぼくが病気で生まれたのは、
病気で生まれる子や、お母さんたちを、励ますためだ。
だから、ママは、
ぼくの言葉を、みんなに教えていい。

雲の上から、
お姉さんとお兄さんを見て、
「どの人がやさしいかなあ」って、見ていた。
それで、ママのところにした。
ママなら、心のことをわかってくれると思ったから。

いのちはぜんぶ、つながっている。
一人のいのち、というのがあるのじゃなくて、
一人ずつのいのちは、ぜんぶつながっている。

この本をまとめられた産婦人科医の池川 明さんは、生まれる前の記憶を語る子どもが増え続けていると語られている。誕生記憶、胎内記憶だけでなく、おなかに宿る前の記憶を語る子どもも増えている。生まれる前は、ふわふわとした安らぎに満ちた世界で、天使や神さまのような存在に見守られていたとか、別の星にいたとか語る。調べていくうちに、人は何度も生まれ変わりながらたましいの成長を遂げている、と思うようになったと語られている。

輪廻転生は真理なのか。しかし輪廻転生は、普通過去の行いの結果であると思われている。六道輪廻の思想とあいまって過去の世における良き行い、悪しき行いの結果であると信じられている。仏教は、「親の因果が子に報う」と教えて戒めてきた。

こう教えることによって、悪しき行いを食い止めようとはしてきたのであろうが、不幸にしてこの世に障害をもって生まれたものにとってはやるせない言葉であった。

しかし、このりお君や生まれる前の記憶を語る子どもは、そうではない。自分で選んで生まれてきたのだと語っている。あえて苦しい境遇を選んで生まれたと語るのだ。なぜ?実はこのような教えは、仏教の中にもある。願生思想というものである。法華経法師品第4の中に次のように説かれている。

「諸有(もろもろ)の能く妙法蓮華経を受持する者は、清浄の土を捨てて衆を愍(あわれむ)が故にここに生まれたるなり。当に知るべし、かくの如き人は、生まれんと欲する所に自在なれば、能くこの悪世において広く無上の法を説くなり(法師品第4)」

つまり、この現世に一見不幸な姿で生まれたように見えたとしても、その実は皆を憐れむが故に生前請願を立てて敢えて生まれたのであって、誰もができることではないその境遇を甘受して前向きにとらえることができるならば、自分の存在目的を自覚して存分にその価値を発揮して使命を果たさんとするものであり、苦悩を救わんがために歩まんとしているのものである。決して不幸なのではなく、多くの関係する人々の救いのための苦行である。業の報いとして生まれてきたのではなくて、衆生済度の請願によって生まれたのである。過去の因果の報いの清算を行っているというとても貴重な行いをしているのであって、そのことをよく理解すべきである。そして、このような人生を選択したということは、とてもその魂が清らかなものであるからである。

今、日本には障害、病気や心の病で悩まれている人が多い。社会に適応できず、閉じこもりになっている人も相当数に達している。そして、家族も周りの人も心配している。このような境遇も、不運にして生まれたのではなく、「選んで生まれてきたよ」と、敢えてその境遇を積極的に見つめ直して、人生の意義を見つめなおして欲しいものです。そして、周囲の人もその方の持っている使命を温かく見守り、成就することを助けて欲しい。荒々しい世界だけがこの地上の世界ではない。繊細な精神が、その才能を開かせる地上の条件が整っていないため、適応できていないだけである。自分の生まれてきた役割をたましいの根源に入り込んで見つめなおす時、光が見えてくると信じている。