仏教では、宗派によって人の死後、往くところが違う。

「はるかな遠い昔から現在まで、流転しつづけてきたこの苦悩の現世ではあるが、なぜか無性に捨てがたく感じられるというのも、そして、まだ見ぬ安らかな浄土を慕う心がおきないというのも、これもまた煩悩の焔のせいである。しかし、どれほど名ごりおしかったとしても、人はこの世の縁がつきはて、やがてどうしようもなく死んでいくときがくる。そのときわたしたちはかならず浄土に迎えられるだろう。(五木寛之私訳「歎異抄」)」

我々は、亡くなったら「浄土」に行く、「極楽世界」に行くと信じている。天国に行くと思い込んでいる人も多いだろう。ひょっとすると、「あの世はない。私の意識もなくなる」とさびしい考えに拘泥している方もいるのではないか。

実は仏教では、宗派によって死後どこに行くか、答えが違うのである。

まず、禅宗。その答えは、人間死んだらどうなるか?死後の世界はあるのか?その答えは「いっさい考えるな」である。この考えは、仏教の基本的考えである。釈尊は、弟子から死後の世界の有無を問われたとき、口をつぐんで答えなかった。判断中止が仏教の基本的態度である。禅の修行は、そうした問題に惑わされない強い精神力を養おうとするものである。

浄土宗や浄土真宗では、歎異抄で語られているように、人は死んだら阿弥陀仏のおられる極楽世界に往くと信じられている。ただし、われわれが往くのではなく、阿弥陀仏がわれわれを極楽世界に迎えてくださると信じているのだ。そう信じていれば、死後の世界があるかないか考えなくていい。これが浄土信仰である。真言宗は、大日如来の「密厳浄土」へ、日蓮宗は釈迦仏の「霊山浄土」に往くと信じられている。

このように、宗派によって死後の世界の考えは異なる。しかし日本の伝統的風習をみていると、日本人の死後の世界の観念は仏教にあるのではなく、どうも古来からの先祖崇拝にあるように思えてくる。

日本人は、ご先祖様が傍にいて守ってくれるという観念が強い。そしてわれわれは、死後ご先祖様のところに行くと信じている。古来日本人は、死ぬと精霊(ショウリョウ)になると信じていた。死んだばかりの霊魂は「荒御魂(死の直後の御魂は死を受容していないから荒れている。怨念がある)」であるから、まずはお坊さんが葬儀と法要をやってなだめる。だいたい49日間で荒御魂はおとなしくなる。1周忌を迎える頃には少しおとなしくなる。これを「ホトケ」と呼んだ。このホトケの供養を続け、33回忌を過ぎると、荒御魂が和(にき)御魂に変わるという。完全に変わった状態が、カミ(神)である。ご先祖様は、カミ(神)になってわれわれを守ってくれるのである。江戸時代の神仏習合の際、仏教は霊魂がおとなしくなるまでの供養を担当し、和御魂になった後は神道がカミとして死者を祀るという分担がもたらされたらしい。

正月とお盆の慣習も、この過程でつくられた。本来、盆も正月もご先祖様が各自の家に戻って帰ってこられ、これをお迎えして家族がそろってご先祖様と一緒に食事をする祝い事である。正月は、年神様(各自の家のご先祖様の集合霊)をお迎えして、家族そろって年神様と一緒に食事をする慣わしである。お盆もご先祖様が各自の家に帰ってこられるのだが、お盆はホトケの段階にあるご先祖様が各自の家に帰ってこられ、これを迎え祀る行事とした。(昔は「結構なお盆で、おめでとうございます」といっていた。)こうして正月は神道の行事に、お盆は仏教の行事であるかのような習慣が作り上げられた。

また神仏習合の過程で、仏教僧が葬儀を取り仕切るというシステムがつくりあげられた。まず、死者に戒名をつけるという方法が考案された。実は、これは出家した僧侶の葬式を僧侶仲間で行っていた方法が採用されたものである。(それ以前、仏教僧は在家信者の葬儀をしたことがなかった。)戒名をつけることによって死者を出家させて成仏させることにしたのである。死者に剃刀を与えるのも、剃髪式のまねごとである。このようにして、お坊さんが死者を成仏させる権能をもち檀家のお葬式をするようになった。こうして、お坊さんしか葬儀ができないという社会習慣が確立した。何ともうまい方法を考えたものであるがその根拠は怪しい。そして、このシステムの中で戒名料、法事という寺の運営システムが構築されたのである。

このように、日本の仏教が葬儀と死後の世界について対処してきた歴史をふりかえってみると、 どうもインドや中国において仏教が民族宗教に吸収されたように、日本仏教も江戸時代を通じて世俗化しただけでなく、日本民族信仰に同化したように思える。日本人の死後の世界の観念は、仏教の教えを吸収しながら日本古来からの先祖崇拝(ご先祖様がそばにいて守ってくれる。なくなると、われわれもご先祖様のところに行くと信じている)に戻ったといえるのではないだろうか。近年自由な葬儀が行われてきているが、人の死と死後の世界はお釈迦様も黙して語られなかったように、簡単ではない問題を含んでいるようである。