読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

悟りを得た仏陀といえども、悪魔に試され、基台なき場合はこの世に存在できない。

仏陀の入滅が近くなった時のこと、次のようなことがあった。
「アーナンダよ。究極の真理を悟った仏陀は、もし本人が望むならば、一劫のあいだこの世にとどまり、人々を教化することができるのだよ。(一劫とは、120歳ぐらいまでの天寿と考えられる)」
こう釈尊が語られた時、アーナンダは悪魔に耳を塞がれていて、釈尊のことばを聞いていなかった。そのため、釈尊は、二度三度同じことを言われた。
「アーナンダよ、仏陀には、本人が望むなら、一劫のあいだこの世にあって、人々を教化できる力があるんだよ。」
アーナンダはこうこたえた。「ああ、そうですか・・・・・」「ああ、そうですか・・・・・」
この時、アーナンダは、「世尊よ、どうか一劫のあいだこの世にとどまり、私たちを教化してください」と頼むべきであった。釈尊は、この返事を聞くために何度も問いかけた。しかし、アーナンダからその返事がなかった。
悪魔が釈尊にささやきかけてきた。
「どうだ、もうよいのではないか?」悪魔のことばは、感情的に釈尊に訴えかける。
「45年前、おまえが悟りを開いて仏陀となったとき、わしはおまえにすすめた、さっさと涅槃に入れ、と。たいていの聖者がそうする。せっかく聖者になったのに、愚かな人間と接触して汚れてしまえばなんにもならない。けれども、おまえは変わり者であった。おまえは人々に、真理を説き聞かせると言った。わしは“よせ”と言ったが、おまえは布教をはじめた。あれから45年、おまえの伝道も実りがあったではないか。大勢の弟子たちがいる。大勢の在家信者がいる。彼らはおまえの教えを理解した。教団も基礎がしっかりとできた。もう大丈夫だ。おまえがいなくても、弟子たちはちゃんとやっていける。だから、おまえは涅槃に入れ。おまえも疲れただろう。涅槃の世界で静かに休息するがよい」
釈尊は、悪魔のことばに耳を傾けられた。悪魔のいうとおりである。釈尊は入滅を決意された。「悪魔よ、汝の言う通りである。されば、われは入滅しよう」
「その時期はいつだ?」「わかった。わたしは入滅しよう・・・」
「で、いつ入滅する?」「いまから三ヵ月後である」釈尊はそう宣言された。
「よし、わかった。おまえはいまから3ヵ月後に涅槃に入る。約束したぞ。わすれるな!」
その瞬間、大地が震動した。アーナンダがびっくりして駆けつけてくる。
「世尊よ、この地震は何ですか?」
「アーナンダよ、いま、わたしは入滅を決意した。そのための地震なのだよ」
「えっ、世尊が入滅されるのですか?世尊よ、わたしたちを見捨てずにいつまでもこの世にとどまり、教えを説いてください」
遅い。遅すぎたのだ。釈尊が入滅を宣言されたあとでは、アーナンダのことばはなんにもならない。「アーナンダよ、あなたはもう少し早く、そのことばを申し上げるべきであったのだ・・・」小乗経典の「大パリニッバーナ経(大般涅槃経)」より-ひろ さちや著「仏教の歴史2-仏陀なき仏教」p21~28より)

実は悪魔は、45年前悟りを得て仏陀となった釈尊にも、折をみて攻撃を仕掛けて誘惑している。
「おまえは仏陀になった。満足だろう。だから、おまえはここでさっさと入滅するがよい。真理の伝道だなんて、しんどい、疲れる仕事はやめて、さっさと涅槃に入るがよい・・・」
仏伝作者は、そのところで悪魔と反対の梵天を登場させて、釈尊に「説法をしろ」とすすめている。

この悪魔の誘惑、語り掛けには、重要な真理が隠されている。ひろ さちや氏は上述の物語ではアーナンダがかわいそうだといわれている。しかし、この背後に仏教界のユダと呼ばれている提婆達多(だいばだった)の存在がある。「南伝大蔵経」には、次のように記述されている。
提婆達多(だいばだった)は、マガダ国の阿闍世(あじゃせ)太子に取り入った。阿闍世太子は毎日、五百台の車でもって食糧を運び、五百の釜で食事をつくって提婆達多に供養した。それで提婆達多はいい気になった。そこで彼は釈尊の許に行き、釈尊に引退をすすめ、代わって自分が仏教教団の統率者になることを申し出る。「世尊よ、世尊はもうろくされました」。釈尊は提婆達多の要求を拒否する。経典は、その後提婆達多が釈尊暗殺計画を立て、刺客を送り、石を落とし、狂象を送り込むなどの陰謀を図ったことを記している。そしてその陰謀は、ことごとく失敗する。一方、提婆達多は、釈尊に「五事」の制戒を申し入れる。(「五事」とは、山林の行者が行っている戒律)釈尊は、「修行者が望むなら、林住してもよいし、また村邑で修行してもよい。それを望むなら、つねに乞食をしてもよいし、招待を受けてもよい」とはねつけられた。すると、提婆達多は、比丘たちの集会において「疇(ちゅう)を取る-投票」を呼びかけたという。提婆達多は、投票によってことを運ばんとした。そうすると、同調者が出てきた。ヴェーサーリーのヴァッジ族の比丘500人である。

経典はこのように伝えている。提婆達多の話は、どこまでが史実でどこから創作か不明だが、いずれにしても教団内は釈尊一枚岩ではなかったのであろう。アーナンダが弟子を代表して試練を受けているが、それは提婆達多の野心・裏切りというような教団内の不協和・分裂の様相があったのは確かであろう。後述するイエス・キリストの場合と同じような事態が進行しつつあったが故に、悪魔に試されることになったといえる。仏陀となった釈尊でも、この地上で生存するためには支持者、基台がいるのである。

イエス・キリストが、弟子ユダの裏切りによって十字架にかけられていくのも、支持者の裏切り、基台の喪失を引き起こしたゆえのものである。

最後の晩餐からゲッセマネの祈りに至る場面である。イエスの必死の願いもむなしく、弟子たちは全員悪魔の誘惑に負けてしまう。イエスには、もはや十字架の道しか残されないことになる。
イエス・キリストは、うつぶしになり、祈って言われた。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」
それから弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた。「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熟しているが、肉体が弱いのである」。また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」(マタイによる福音書25章36~46)

悟りを得た仏陀、イエス・キリストといえども支持基盤が崩れる時、支持基台がなくなる時、現世での生存が難しくなる。この真理は、すべてにあてはまることである。