毛沢東の誤算 【毛沢東はなぜ「私は孔子様にはならない。始皇帝になる」といったのか?】

(1)毛沢東の評価(功績70%、誤り30%)
 毛沢東については、「功績70%誤り30%(1981年第11期中央委員会第六回全体会議)」と評価されています。功績70%は、建国の父として人民主導の独立国家を建設したこと、誤り30%は、中華人民共和国建国後の大躍進政策(1958~1961)で数千万人が餓死したこと、政敵を多数粛清したこと、文化大革命(1966~1976)を発動して人民を迫害、財産没収を主導して中国を10年間の混迷に陥れたこととされています。
 中国共産党のこの評価に疑問をもたれる方は多いと思います。しかし、これから述べるように毛沢東の思想と行動を分析するならば、納得できるものでしょう。
 中国共産党が中国統一の主人公となるきっかけとなった大きな事件は、1936年に起きた西安事件です。
 張作霖の長男の張学良が、中国国民党蒋介石・軍事委員長の身柄を拘束した事件です。事件の首謀者張学良は、晩年、中国国民党中国共産党に敗北した原因について、「国民党は中心的な思想をもっていなかったからだ。それに比べて、共産党共産主義思想を信仰にまで高めており、それが革命の原動力になった」と述懐しています。
 それによると、張学良は国民党の方が共産党よりも数倍も強力な軍隊や兵器、さらに資金をもっていたが、結局、国民党が勝てなかったのは、中心的な思想がなかったためで、共産党軍は一種の信仰に近い共産主義思想をもっていたことを評価しています。張学良は後に首相になる周恩来共産党の最高幹部と接するうちに、「共産党は明確な目標があり、理想がある」として、張学良自身も共産主義に共鳴し、思想をともにするようになったといいます。
 これに比べて、国民党は孫文が提唱した三民主義民族主義民権主義民生主義)を党の指導理念としたが、党の指導者が各自自身の利益を優先し、共産主義のように信仰の部分にまで高めることができなかったと分析しています。
 毛沢東中国共産党は、共産主義の思想と理想に燃えて一枚岩になって中国を改革しようとしていたのです。明確な理想がありそれが人々を団結に導いていました。共産党が指導する中華人民共和国はこうして1949年10月1日建国したのです。共産党の思想と理想が現実のものとなりました。建国されると、共産党の主導する社会の共産化が進められました。1950年には、土地改革法が成立して全国で土地の再配分が行われていきました。
 この共産革命が中国にとって中国国民にとって歓迎されるものであったかどうかについては、次の西村肇氏の手記を読めばおのずから理解できると思います。

西村肇の手記 http://jimnishimura.jp/soc_per/chuo_koron/7911/5.html
 「人民公社の食堂にいきなり飛びこんで飯を食べてみた。附近の工場労働者が来る食堂だった。せまいたてこんだ食堂だが、みんなどんぶりにピ一ルをついでゆっくり食事していた。みんな服装は貧しかったけれど、落着いた顔で食事をしていた。みんなの間で食事をしていると、中国では食の問題が一応満足すべきレベルで解決しているのだという感じを深くした。解放前の中国を知っているものにとっては、これは瞠目すべき事実なのである。私は一般の人が毛沢東に感謝する気持が良くわかる気がした。日本流にいえば、毛沢東さまさまという気持であろう。すべての功績は毛沢東にあるとは考えない人でも、人々は毛沢東がいなければ新中国はなかったとゆるぎない確信をもっていた。」
 人々は食の問題を一応解決した毛沢東共産党に感謝しているようだった。解放前に比べて人々は生きていく土台を勝ち得たのであった。このような姿がもたらされたのであるから、功績70%と評価されることは妥当であろう。
 問題は誤り30%です。このことについて論じる前に、毛沢東の思想と心情について少し述べておくことにします。

 

(2)中国理想社会建設の夢
 日本人には、中国社会が理想としてきた大同社会と小康社会というものがあまり理解されていません。しかし、中国においてはその時代時代の革命家、改革者はみなこの理想に影響を受け念頭に置いて改革運動を進めてきました。
 「時代の思想家や革命家はみな、各々天下大同と小康社会に基づく異なった憧れの未来図を提示したし、異なる時代の思想家や政治家は皆影響を受けている。たとえば、洪秀全、康有為、譚嗣同、孫文らは皆その影響を受けた。近代の民主革命家で思想家の孫文の掲げた「民族・民権・民生」の三民主義は、孔子の大同の主張と儒家の民本思想を西洋資産階級の思想と結合したものである。そして中国の社会主義初期段階も、孔子の小康と異なるけれども、小康社会を目標としている。」
(引用文献:孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明翻訳「図説 孔子―生涯と思想」科学出版社東京株式会社 2014 p82~86)
 現代中国の英雄毛沢東も、孔子理想社会の思想に大きな影響を受けています。長沙に出て、湖南第四師範(のちに第一師範と合併)で学んだ時、「第一師範の孔子」と噂される楊昌済という教師と出会いました。毛沢東の回想によると、「楊昌済は、理想主義者で、道徳性の高い人物で、自分の倫理学を非常に強く信じ、学生に正しい、道徳的な有徳な、社会に有用な人物になれという希望を鼓吹した」と言ったそうです。毛沢東は、この教えを聞き、「いささかも自私自利の心のない精神を樹立して、高尚な純粋な道徳をもった人になろう」と手記に記しています。毛沢東は、学生時代に「心の力」という論文を書いているのですが、楊昌済はこの論文を激賞したといいます。毛沢東の最初の妻は、楊昌済先生の娘、楊開慧です。毛沢東は、儒教の教えを受けてこれを土台として毛沢東思想を展開したことを覚えておくことが必要です。
 毛沢東は、共産主義理論(マルクス・レーニン主義)と孔子儒教・大同世界思想を結び付けて毛沢東理論を構築したのです。
 毛沢東の構想した社会は、多くの都市、農村の人民公社によって構成されるものであり、人民公社は分配における平等を実現するために必要な基層組織でした。人民公社は、二つの移行(集団所有制から全民所有制への移行及び労働に応じての分配から必要に応じての分配への移行)を実現するための最もよい形式であり、大であり共有であることはこの二つの移行の実現を有利にするものであり、それは将来の共産主義社会の基層単位となるものであったのです。

 

(3)毛沢東は、神の存在を信じていた
 毛沢東は、共産主義者だから神の存在など全く信じていないと思われていると思います。確かに、表立って神のことを語ったことはないし神様を崇敬しているわけではありません。しかし毛沢東は、1965年1月スノウと会見した時、「神との対面を準備している」と語ったのです。
 毛沢東は、「神との対面を準備している」と語った。「天」への回帰である。紅衛兵の集会に臨んだ毛沢東の横顔には、そうした言葉から連想しがちな、消極的な諦観の影はない。むしろ、どこまでも人間くさく、自分が指導した中国革命の未完の事業を時代の青年たちに、しっかりと引き渡したいという、意志と執念と興奮による輝きと、そしていくらかの疲労も感じられるようである。《竹内実著 「毛沢東伝」毛沢東語録河出書房新社)所収》
 共産主義と神という絶対に相容れない両者を毛沢東は両方とも受容していたのです。驚くべき内容ではないでしょうか。

 

(4)毛沢東思想は、共産主義思想の異端
 毛沢東は、「矛盾論」のなかにおいて、「我々は、全体的な歴史発展の中では、物質的なものが精神的なものを規定し、社会的な存在が社会的な意識を規定することを認めるが、同時に、精神的なものの反作用、社会的存在に対する社会的意識の反作用、経済的土台に対する上部構造の反作用をもまた認めるし、また認めなければならない。これは、唯物論に背くことではなく、まさに、機械的唯物論に陥らずに弁証法唯物論を堅持することである」と記しています。精神的なものが物質的なものを動かすという論点を提示しているのです。これはマルクス主義にはない論点であり、毛沢東思想独自のものです。唯物論だけでなく、控えめながら唯心論をも認めていることになります。この考えの原点は、湖南第四師範学校時代に書いた「体育の研究」という論文(のちの毛沢東思想の原型があるとされている)にあります。「学校の設備、教師の指導、これは外なる客観であって、われわれには内なる主観というものがある。いったい、内において、心に断ずれば体は命令に従うものである。自分が発奮しなければ、外なる客観が善を尽くし美を尽くしても効果をあげることはできない。故に体育を重んじる人は、必ず自ら動くことから始めなければならない」と論じたのです。
 毛沢東思想は、儒教の色彩の強い共産主義だと言えるのです。前置きはこのくらいにして誤り30%に入ることにします。

 

(5)中華人民共和国建国と社会建設(この項Wikipedia)
 1949年10月1日、中華人民共和国は建国されますが、それに先立って臨時憲法が制定されます。
 1949年9月、北京で中国人民政治協商会議が開催され、統一戦線の代表により新しい政権建設についての話し合いが行われ、中華人民共和国の臨時憲法である「中国人民政治協商会議共同綱領」(1949.9.29公布)が定められました。この臨時憲法では、中華人民共和国は「人民民主主義国家」であるとしています。そして、政治と経済の体制には「新民主主義」(綱領第1条)と「国家資本主義」(綱領第31条)を掲げ、「共産党の指導」や「社会主義」といった文言は一切盛り込んでいませんでした。つまり、建国の段階では中華人民共和国中国共産党がめざす「社会主義国家」ではなかったのです。事実、国家元首である中央人民政府主席には毛沢東が、首相である政務院総理には周恩来が就任したものの、中央人民政府副主席6名のうち半数は非共産党員であり、副総理・閣僚級ポストのおよそ半数も非共産党員が占めていました。毛沢東社会主義を「将来の目標」としており、ソ連との関係強化を図っているだけです。
 1950年の全国政治協商会議第2回会議で、社会主義への移行は「かなり遠い将来のこと」と発言し、建国当初、新民主主義社会の建設を目標に「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東だったのですが、1952年9月24日、突如として社会主義への移行を表明しました。急進的に社会主義を導入することに方針転換したことは、周恩来劉少奇など多くの指導者を困惑させました。しかし毛沢東は、かまわず1953年1月よりソ連社会主義計画経済をモデルとした第一次五カ年計画をスタートさせ、農業の集団化などの社会主義化政策を推進していったのです。
 毛沢東は、中華人民共和国を新民主主義国家から社会主義国家に変貌させるために、国家機構の改造にも着手しました。1954年9月、全国政治協商会議に代わる最高権力機関として全国人民代表大会が設置され、9月20日全人代第1回会議において中華人民共和国憲法が正式に制定されました。
 国家主席に就任した毛沢東は、自己に対する反対勢力を粛清していきます。一方で、1956年2月にソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフが行ったスターリン批判に衝撃を受けた毛沢東は、中国共産党に対する党外からの積極的批判を歓迎するという「百花斉放百家争鳴」運動を展開します。しかし、多くの知識人から共産党の独裁化を批判されると、毛はこれを弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄しました。
 1958年には大躍進政策を発動。この大躍進政策は失敗し、発動されてから数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出しました。大躍進政策の失敗は毛沢東の権威を傷つけ、1959年4月27日、毛沢東大躍進政策の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなったのです。
 しかしその後も毛沢東は、密かに権力奪還の機会をうかがい、紅衛兵による文化大革命(1966~1976)を起こし主導したのです。文化大革命は、毛沢東の死去と共に終焉しました。(Wikipedia


6)毛沢東の意図「孔子様にはならない。始皇帝になる。」
 毛沢東は、建国当初穏健な考えを抱いていたようです。その後の粛清ばかりの歩みだけを見るとわからないのですが、当初は異なる考えをもっていたようなのです。
 毛沢東の警護長を務めた李銀橋の回想によると、毛沢東はもっとも金銭を嫌った。毛沢東蒋介石と握手したが、金をにぎることはなかった。毛沢東は延安で金をにぎらず、陝北に転戦した時にも金をにぎらず、北京入城後はさらに金をにぎらなかった」という。毛沢東自身も「やれやれ、かねというものはまったく煩わしいものだ。私が持っていても仕方がない(権延赤「神壇を降りた毛沢東」(雑誌『炎黄子孫』1989年第2号よりの再引)と述べたそうです。
 毛沢東は、「私は孔子様にはならない。始皇帝になる」と語ったと言われます。次の毛沢東の言葉は、始皇帝になる決意をした根拠ではないでしょうか。
「わたしは、現物給与制を行えば人間が怠け、創造や発明をしなくなり、積極性がなくなるなどということは信じない。解放後、全部を賃金制にして等級評定をやったが、かえって多くの問題が生まれた。」
 資本主義復活の危険性を説く毛沢東の不安が、建国後社会主義化を急ぎ不正の摘発・粛清につながったのではないかと考えます。中華人民共和国を建国したものの、周りの人間は我欲にまみれた人間だったのでしょう。そのことに対する解答が「私は穏便な教育者の孔子にはならず、粛清の始皇帝になる。自分の力で世の中を糺す」という決意だったのだと思います。
 毛沢東は、1973年頃外国人客との談話において、「秦の始皇帝は中国封建社会で最初の有名な皇帝である。私も秦の始皇帝である。林彪は私が秦の始皇帝であると非難した。中国は一貫して二派に分かれていた。一派は秦の始皇帝を良いと言う。もう一派は秦の始皇帝を悪いと言う。私は秦の始皇帝に賛成し、孔子様に賛成しない」と述べました。天に頼らず自分の手で、プロレタリア文化大革命を最後まで進めるという決意の表われであるのです。


(7)中国古来の権力闘争を踏襲した毛沢東戦略「破・立」「大乱大治」
 毛沢東は、中国古来の権力闘争と社会変革の歴史から、一つの大きな戦略を実行していきます。毛沢東の思想の「破なければ立なし」「破を押し出せば立はおのずと付いてくる」、「天下の大乱から天下の大治に至る」という考えです。旧いものを打破するためには乱を起こす必要がある。文化大革命はこの考え方に基づく一つの政治闘争、階級闘争であり、それは思想を清め、政治を清め、組織を清め、経済を清めるものであるというものです。修正主義を歩んでいる党と国家の指導的幹部は、通常の方法では打倒できず、天下大乱の情勢をつくり出すことによって逃げ場をなくして初めて打倒できる。このため、毛沢東は乱を恐れず、乱を作り出そうとしたのです。その後「立」をなそうと、党の組織工作、政権機関の工作、労働組合の工作、各種の大衆団体の工作を呼びかける。中心工作に奉仕しようと呼びかけるのだと考えたのです。
 中国の歴史は、古代春秋戦国の時代より破壊と再生の繰り返しであるといわれます。領土の奪い合いから始まり、秦の平定以降は天下の奪い合いでありました。そして奪った後の政治体制は、以前の中央集権の官僚政治ほぼ同じでした。ほとんど変わらないものでした。儒教は、その中で統治の道具として重宝されてきました。儒教は人間を教化することによって世の中を安定させようとするので、中国の指導部の意向に沿う思想でした。
 この中国歴史が、毛沢東の「破」と「立」の理論の根底にあったのでしょう。「乱」と「治」は繰り返してきた。この繰り返しこそが、プロレタリア独裁下での継続革命による共産主義社会への弁証的発展方法と考えていたと考えられます。ただ、他の人には、全く理解できていなかったようです。
 毛沢東は、この上部構造、人間の意識の革命を人間の手によって実現しようとしたのです。7~8年乱を起こして、7~8年安定させるという天下大乱・天下大治の思想は、継続的に困難な状況を作り出して人間を鍛えることによって、人間の意識をはじめとする上部構造を改革して、共産主義に近づけることができると考えていたようなのです。これが、文化大革命を最後まで誤りとして認めず、最後まで推進しようとした理由だと考えます。
 継続革命理論に基づいて展開された文化大革命は、中国社会に大きな爪痕を残しました。人間の意識を始めとした上部構造を改革して共産主義に近づけることができたのかと問えば、多くの疑問が残るのではないでしょうか。

 

(8)「継続革命理論」は、社会主義では理想社会は実現しないと言っているのと同じ
 「百家斉放・百家争鳴」運動の結果生じた党批判を封じ込めるために発動した1957年の反右派闘争を経て、再び階級闘争は重視されるようになっていきます。
 1966年には、毛沢東の「階級闘争を要とする」という「プロレタリア独裁の下での継続革命理論」によって、階級闘争が明確に推進されることになっていきます。すなわち、社会主義社会の中でも階級は存在し、搾取階級と被搾取階級との間に階級闘争も絶えず発生するというものです。絶えず発生する階級闘争は、「破」と「立」、「大乱大治」の戦略によって乗り越えていくとすると、常に社会は混乱の中にあることになり、混乱こそが理想社会を築く方法であるということになります。社会主義社会とは、解放前と同じ闘争の社会であるというのです。
 ここまで記述してきて、おやっと思われないでしょうか。社会主義革命では、理想社会は実現しないといっているのです。人間の意識の改造が必要であり、革命後も引き続き革命を継続する必要があるといっているのです。しかも毛沢東は、意識の改造は神の領域ではなく、人間の指導によって人為的に実現できるとして「大乱大治」を実行したのだと思います。おそらく、毛沢東は頼りにならない神に失望したのでしょう。結果は、文化大革命の結果を見ればあきらかです。文化大革命の混乱は、共産主義化を推進したどころか、多くの憎しみと対立をまき散らしたと言えるのではないでしょうか。

 

(9)「中国が西洋化することによって世界史が完成する
 「中国が西洋化することによって世界史が完成する」。この言葉は、現代の言葉ではありません。記号論理学・微積分学の創案、二進法の考案、エネルギー概念を発表した17世紀の科学者ゴットフリート・ライプニッツの言葉です。ライプニッツの中国を西洋化することによって世界史が完成するという終末論的歴史哲学は、その後、大きな影響力を欧米に残しました。その後ヴォルフ(Wolff),ヴォルテール(Voltaire)、ドルバック(Baron d’ Holbach)などに受け継がれ、中国人が西洋流の自由民主主義を受け入れたら、「歴史の終焉」という文明観まで生まれたのです。
 ライプニッツは、「中国人がもっとも崇高なものとして,理と太極の後に話題にするのは上帝です。そして上帝は天なる王,いやむしろ天を支配する巨大なる精神です。(中略)中国では,キリスト教の神を指すのに通常はこの天主という語を用います。(中略)重要な問題はむしろ上帝が中国人にとって永遠なる実体かもしくは単なる被造物かという点にあります。(中略)上帝と理が同一だとすれば,完全な論拠でもって神に上帝の名を与えることができます。」
 ライプニッツは、中国という国がキリスト教の教えに近い民族性を有しており、中国がキリスト教国家になれば世界がすべてキリスト教の世界になるというキリスト教的世界観に基づいた言葉です。
 しかし、そこに一つの大きな問題・相違点があります。中国思想にはキリスト教でいう「人類始祖の堕落」「サタン」という宗教上の観念がないのです。古代中国神話には悪神が登場しますが、反乱を企てたという悪人というものであって、キリスト教でいうサタンという存在ではありません。それどころか、中国社会の根幹はサタンと同居しているように見える節があるのです。中国神話に出てくる中華民族の祖「伏犠と女媧」は、蛇身人首(頭が人で体が蛇)の姿をしています。キリスト教では堕落した天使サタンは蛇で表徴されます。中国社会は、神とサタンが同居しているといっているようです。実事求是の考えと相まって、中国の統治は権力による人知主義(この世の君)が支配することになるもとのようです。儒教も、そのための道具として利用されてきたのです。この思考が変わらなければ、世界は終焉するという西洋の予感は的を射た指摘であるかもしれません。

 

(10)中国の未来を拓く鍵-メシア(真人)の解明した教えに理想社会建設のカギがある
 毛沢東が生存していた時代、社会統治の方法には始皇帝の弾圧的方法と孔子の教育的方法しか存在しませんでした。毛沢東共産党による新しい中国社会を実現したけれども、人々の意識は解放前と同じで我欲にまみれたままでありました。毛沢東は、人々の意識を変えるために「継続革命理論」という思想を持ち出さざるを得なかったのではないでしょうか。しかし、この考えでは人々の意識が向上するということはできませんでした。革命・闘争では人間の意識の向上は期待できないのです。
 毛沢東が不幸だったのは、毛沢東が生存していた当時はまだメシアの教えが世の中に出ていなかったことです。メシアは、人間の意識の向上を図り世界を一つにする術を神に尋ねながら解明して人類に示しました。
 メシアが示したのは、人類歴史は表面的には人間の対立抗争の歴史にみえるが、対立抗争の背後で神様による復帰の計画が進められてきたことを明かされたことです。それを蕩減復帰といいます。人類始祖は、サタンの誘惑によって堕落しました。(具体的な罪は姦淫です。)この結果、人間は目が開けて自分という観念をもつようになりました。それは、自分と他人という自他の区別の情です。その情は自己に執着する、自分本位に考えやすいという性稟をももたらしたのです。人間は善にも悪にもなる中間的存在になったのです。
 神様は、善にも悪にも相対するようになってしまった人間を善の存在と悪の存在に分立して、善の存在が悪の存在(サタンと配下の悪霊の攻撃)に対抗して勝利することによって、堕落した人間をサタンと悪霊側から取り戻す戦いをしてこられたのです。神様に召命された聖人・義人たちは、神様の願いに応えて懸命にサタンの悪なる攻撃に耐え忍びながら神様を賛美して神様と共に善なる行為を広めてサタンからこの世の支配権を少しずつ取り戻そうとしてきました。しかし、神様が召命した聖人・義人でさえほとんどサタンと悪霊に打たれてしまい、文明が現在のレベルに達するには長い年月がかかってしまいました。
 メシアは、聖書の中に善の存在が悪の存在を屈服させ和解して一体になる神の戦法が記述されていることを解明されました。と同時に、地上の統治権をサタンから奪い返してこられました。メシアの人生は、サタンとのこの世の覇権をかけた闘いだったのです。その道は複雑ですが、メシアの勝利によりこの世の国・民族・氏族の主導権をサタン(この世の君)から神様が奪還する道が開かれたのです。(毛沢東がこのことを知っていたならばと思わざるを得ません)。
 世界は現在混迷の中にあります。中国は経済は成長したけれども、国民を導く道が見えていません。孔子は、「富裕の後は道を教えん」と述べました。人として生きる道を教えることが現代中国に必要な政策です。民主化要求、人権問題が中国社会で問題になっているのは、人として生きる道を指導することが課題であることを示しています。中国政府は、その要求に対して粛清という圧力で臨んでいますが、この方法では混乱を深めるばかりで解決になりません。またこの方法は、この世の君といわれるサタンが混乱を助長して国を疲弊させていくということに気づかないといけません。中国は、サタンという存在を認識するとともに、解決の道はサタンに勝利されたメシアの理論の中にあることに気づくことが大切です。
 中国の善なる勢力がもしこの世の君サタンに勝利されたメシアと統一原理を受け入れることができれば、中国は劇的な変化を迎えるでしょう。1989年のベルリンの壁の崩壊のように、歴史を新しい次元に引き上げるでしょう。中国社会は覚醒して新たな次元に飛躍して、新しい価値観のもとに世界をリードする国となることができるはずです。一方世界は、中国の革新を受けて終末の恐怖から解放されることでしょう。しかしそうできなければ、世界の混乱はさらに深まり、人類は絶望の極に至るでしょう。

 

者の中国思想関連の過去のブログ一覧
筆者ブログ 「キヴィタス日記」
2010年9月16日 中国は、儒教社会主義に向かうかもしれない。
2011年7月27日 文化大革命毛沢東の意図(神への挑戦)
2011年7月27日 今、なぜ文化大革命を考えるのか。
2011年7月27日 文化大革命の展開1―革命前夜
2011年7月27日 文化大革命の展開2-序幕
2011年7月27日 文化大革命の展開3-全国的な全面展開
2011年7月27日 文化大革命の展開4-林彪事件と転機
2011年7月27日 文化大革命の展開5-終幕
2011年7月27日 文化大革命の悲劇と教訓
2011年10月8日 中国でも注目されている渋沢栄一の経済思想
2011年10月28日 他者や制度は信じられない「低信頼社会」の中国
2012年12月4日 2006年中国の論語ブーム「于丹現象」を知っていましたか?
2013年4月21日 【中国の2013年慈善ランキング】報道より
2013年7月1日 中国の反日運動のルーツは、1915年の対華21カ条要求
2013年10月8日 習近平国家主席から中国経済の舵取りを任された劉鶴氏とは?
2013年12月1日 中国人は、やはり現世のみを重視する現実主義者である。(日本人との違い)
2015年9月8日 中国は、アヘン戦争の屈辱を忘れてはいない。
2015年10月23日 〔中国が西洋化することによって世界史が完成する〕という言葉
2015年10月29日 中国で一番尊敬されている経済学者―青木昌彦先生
2018年6月10日 「銭聚人散、銭散人聚(お金が集中すれば人はばらばらになり、お金が分散されれば人は集まる)」

筆者ブログ「ぶっだがやの散歩道」

2012年9月21日 エンゲージド・ブッディズム(人間宗教)と慈済基金
2013年4月7日 都合よく改ざんされた末法思想
2014年7月15日 禅の世界と禅の未来(1)禅の歴史
2015年8月10日 孔子が目指した理想世界
2015年9月20日 孔子の「忠」の思想-「忠」の発生と「忠」思想の歪曲化
2015年9月24日 東洋陰陽思想の核「太極」
2015年9月27日 綿々と続けられてきた中国皇帝の儀式
2015年10月11日  朱子朱熹)の鬼神論(1)
2015年10月11日  朱子朱熹)の鬼神論(2)
2015年11月24日 「易経」が教える循環と苦難への対処(1)
2015年11月24日 「易経」が教える循環と苦難への対処(2)
2016年11月21日 霊界で四大聖人・聖賢の方々がセミナーを開いているそうだ。
霊界からのメッセージ(3)【孔子孟子荀子
2019年2月3日 共産主義では、何故地上天国は実現できないのか?

 

悪霊現象と救い(2)蕩減復帰原則(メシアが解明した神の武具)

 悪霊現象と救い(1)において、悪霊現象とそれがもたらす姿について説明してきました。それでは次に、この地上で人間がサタンと悪霊の術中から神様のもとに戻る道について説明していきましょう。
 救いの道は自動的には訪れません。親鸞聖人の説かれたように、「信ずればたすかる」というだけでも、お釈迦様が説かれたように八正道(正しい思いや正しい行いを行う)を実践するだけでも実現できません。道徳教育は重要ですが、それだけでは問題の全面解決にはならないのです。
 キリスト教は、人類始祖において「堕落」と呼ぶ人間の神様からの離反があったと伝えています。ほとんどの人は、遠い昔の作り話としか思っておられないでしょう。しかし、仏教が教えてきたように、先祖の因果が子孫に報うという因果応報の考えは、ほとんどの人に受け入れられています。先祖の失敗が何らかの仕組みで子孫に引き継がれているということは体験的に感じています。過去の失敗が再現されるということが、人類歴史だけでなく、私たちの家庭や個人においても再現されているのです。
 こうした歴史の失敗が起きた原因は、人間が本来の生き方(神の願い)から外れて罪を犯したということと、それをそそのかしたサタンと悪霊の存在があるためです。人類始祖は、サタンの誘惑によって罪を犯しました。その後の歴史においては、堕落した人間がサタン配下の悪霊となって人間をそそのかしてきました。そこから本来の神様の世界に復帰しようとしてきたのが人類の歴史であり私たちの歩みでした。表面的には人類歴史は人間の対立抗争の歴史であり避けられないものと考えられてきましたが、対立抗争の背後で神様による復帰の計画が進められてきたのです。それを蕩減復帰といいます。人類歴史は長い時間をかけて神様の計画が進んだ分だけ、人倫に配慮した人間社会に進歩することができているのです。(図は、「原理講論」の記述によるものです。)

 

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(1)蕩減復帰原則(メシアが解明した神の武具)とは何か
 『主にあって、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。』(エペソ人への手紙6-10~11)

 神様がサタンと配下の悪霊の攻撃に対抗するために、ひそかに計画された救いの計画が蕩減復帰なのです。人類始祖は、サタンの誘惑によって堕落しました。(具体的な罪は姦淫です。)
 この結果、人間は目が開けて自分という観念をもつようになりました。それは、自分と他人という自他の区別の情です。その情は自己に執着する、自分本位に考えやすいという性稟をもたらしたのです。サタンはこう主張するのです。「人間は所詮自分中心である。神様の言うように、人間は神様のようにすべての人を愛すことはできない」と神様に訴えるのです。サタンの主張はもっともです。お釈迦様でさえ、人間は自己愛があるが故に執着して苦しむと語っているのをみても、問題がいかに根深いかがわかります。我々人間は、とてもサタンの主張を退けるだけのものをもっていない悲しい存在だといえるでしょう。このまま人間が変わることができないならば、自己愛に執着する人間が作り出す世界は今まで同様対立抗争の世界として続くことは避けられません。
 神様はこうした状況の中で、神様を求める義人・聖人・善人を探し出して蕩減復帰という摂理をひそかに計画されたのです。堕落して神様にもサタン(悪霊)にも通じる立場に陥った人間を善悪二つに分けてサタンと対決しようとしてこられたのです。聖人・義人・善人を善なる人間の代表として立ててその人々が神様の願いに応える歩みをなしてくれることを願いました。その歩みは実に難しいものでした。聖人・義人たちは神様の願いに応えて懸命にサタンの悪なる攻撃に耐え忍びながら神様を賛美して善なる行為を繁殖することを通してサタンからこの世の支配権を少しずつ取り戻そうとしてきたのです。これが蕩減復帰であり、蕩減復帰摂理なのです。現在私たちが文明の進歩した世界で生活できるのは、神様の願いに応えて苦難の道を歩んだ聖人・義人の歩みの恩恵によっているところが大きいのです。

 

(2) 蕩減復帰における神とサタンの対決
 『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。』(使徒行伝2-17)

 蕩減とは、人間の立場から見れば神様に私たち人間が犯した罪を棒引きにしてもらうために立てる条件のことを言います。人間が本来の姿から自分の意志で罪を犯したので自分で条件を立て精誠を尽くして復帰することが必要になったために立てなければいけなくなったものです。一方、神様から見れば、善なる人間が立てた条件をもとにして、サタンとその配下の悪霊から人間とこの世の支配権を奪い返すことを企図しています。
 人類歴史は、蕩減復帰というプログラムを通して神様が堕落した人間をサタンと悪霊側から取り戻す戦いをしてきた歴史なのです。ただ残念なのは、今まで人類の蕩減復帰の歴史は、ほとんどサタンと悪霊の勝利に終わっていました。神様が召命した聖人・義人でさえほとんどサタンと悪霊に打たれてしまい、復帰摂理はほぼ水泡に帰してしまいました。文明が現在のレベルに達するには長い長い年月がかかりました。勝利したのは、サタンと悪霊が支配する勢力でした。イエス様も十字架に架けられて亡くならざるを得ませんでした。サタンが主張する堕落人間の本性(自己中心、プライド、物欲)が癌になりました。歴史はサタンが主導してきました。この世は対立抗争の世界のまま続いてきたのです。
 この世を天国にするためには、この世のサタンの支配権を取り除く必要があるのです。この世は、個人、家庭、民族、国家から世界に至るまでサタンと悪霊が中枢を支配しています。どんなに地球環境問題、人類の飢餓問題を論じても遅々として進まないのは、この世の支配権が自分を優先する価値観の人間とサタンのもとにあるからです。善なる人間が堕落した圏内(罪を犯した圏内)から蕩減条件を立ててサタンを追放する条件を立てなければ神様の領域は拡大できないのです。
 身の回りの家庭問題も例外ではありません。今、日本では多くの家庭で家庭問題が起きています。とても多くの人が苦しんでいます。それも理由がわからないので困惑している方が大半ではないでしょうか。
 現在起きている家庭問題は、善なる人が打たれることによって家族を一つにしようとしている蕩減復帰の一コマであることを理解することが必要です。善なる人は、その家庭の歴史的な先祖の失敗の償いとしてサタンと悪霊に攻撃されています。誰かが家庭を代表して苦労を引き受けてくれなければ、過去の失敗を清算することができないのです。残念なことは、苦労を引き受けた善なる人が神様をわかっていないためにサタンと悪霊に対抗できず、サタンと悪霊に翻弄されていることです。対抗する武器をもっていないのです。これでは、サタンと悪霊にしてやられるのは致し方ありません。最終的には完全に飲み込まれていくことになります。
 それに加えて、現在の家庭問題が多岐にわたり広範囲に起きている理由は、「終わりの時にわたしのすべての霊を注ごう」と聖書に書かれている現象が起きているからです。わたしの霊とは、神の救いという意味ではありません。霊界に蓄積されている善悪すべてのエネルギーが地上に降ろされるという意味です。善霊も悪霊も地上のゆかりのある人に協助するために降りてきているのです。善悪が交錯する混乱の時代が訪れているのです。終わりの時には、私の家系の問題も3代前も100代前の問題も一挙に蕩減として降りかかるのです。とても理解できるものではありません。今必要なことは、こうした神様の蕩減復帰摂理を理解して、蕩減条件を立ててサタンと悪霊に立ち向かうことが不可欠なのです。
 また目を社会に向けてみると、現在日本では、第二次世界大戦時に近隣諸国との間で起こした軋轢-慰安婦問題、徴用工問題が蒸し返されています。これも、日本の国としての蕩減復帰として80年前の現象が再現していることであると理解することが重要です。「終わりの時にわたしのすべての霊を注ごう」という聖句は、民族としても国家としても過去の歴史的な軋轢が再現されてきているのです。こうした背景の中で起きている現象ですから、その再現の中で過去の軋轢に反発せず忍耐して甘受することによって、乗り越えることが重要なのです。反発すれば、しこりは子孫に受け継がれることになるのです。いかに犠牲を少なくして乗り越えるかが重要なのです。

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(3) 蕩減復帰原則
 次に、蕩減復帰の原則について説明します。蕩減復帰は、①人間の善悪分立 ②罪の逆の経路を通しての復帰 ③神のもとに条件を立てる の三つの要件があります。


① 人間の善悪分立
 私たち堕落した立場の人間は、誰でも神とも通じる一方、サタン(悪霊)とも通じる立場にあるという中間位置にあります。どちらとも通じ合うことはできるのですが、ほとんどの場合、自分本位の考え方をするのでサタンと悪霊に通じていると考えて間違いありません。現代のように、社会に情報が氾濫していて悪なる誘惑が渦巻いている場合はサタンと悪霊にひかれていく条件がそろっています。神様は、神様を慕う人を探すことから始められました。そういう人がいないと神様が協助できないからなのです。
 神様の蕩減復帰摂理は、人間を善なる存在と悪なる存在に分立することから始まります。人間の一人は神様の側に一人はサタンの側に置く形を取ります。どちらが良いか悪いかということではなく、人間同士の間で罪を犯したので、当人同士で罪を清算するために罪を犯した方と犠牲になった方に分立されるのです。この存在を、人類始祖の物語にちなんで、アベル型人間(犠牲になった人間)とカイン型人間(罪を犯した人間)と言います。アベル型人間は、どちらかといえば従順な人で、カイン型人間は積極的な人です。善なる存在と悪なる存在に分立するのは、このように分立することにより善悪どちらの人間が勝利するかによりその結果を神様がとるかサタンがとるかを決めるのです。神様がとれば、愛と平和がもたらされ、サタンがとれば対立抗争をもたらされるのです。人類歴史は、人類始祖の物語と同じくほとんどの場面でカイン型人間がアベル型人間を力で押さえつけるという結末を迎えるサタン側の勝利となり、対立抗争をもたらしてきました。
 このことは、一人の人間の内部においても行われています。私の心の中は「心ころころ」と言われるように、いつも正しく定まっているわけではありません。善ある決意をすれば神様の方向を向き、悪なる誘惑に心が動けばサタンの方向に向いていきます。だから自分自身が本当に善なる方向に変わっていくためには、善なる条件を立てて自分の心を善の方向に定めなければならないのです。ここに後述する蕩減条件が必要な理由があります。

② 罪の逆の経路を通しての復帰
 仲の良かった二人が何らかのはずみで憎み合うようになった場合、もとの状態に復帰するためにはお互いに謝罪することが普通必要になります。罪を犯した場合、逆の経路で元の状態に復帰するということが鉄則です。二人の間の問題なので二人で解決する必要があるのです。例外はありません。
 蕩減復帰の罪の逆の経路を通しての復帰は、神様の創造の中においてもともと存在した天地創造の授受作用の原理を負荷をかけた形で再創造しようとしているものです。
AとBが月と地球の関係のように互いに支え合う関係であるのが本来の関係であったとしましょう。ところが、何かの原因でけんかをしてAがBに危害を与えたとします。AとBは支え合う関係ながらも、憎しみをもつ関係に変化します。まだかまり、不信感を持ちながら、関係を続けることになります。切ることはできませんので、不信感を低減させるか増大させるかのどちらかになります。もし、AB二人とも我が強ければ、不信感は増大して対立の根は深くなります。しかし、一方が従順ならば、対立は和らぎます。従順な人は、おそらくじっと我慢するでしょう。そうして時が経つ時、危害を加えたAが「お前はいいやつだ」と言って、「これからはお前についていくよ」と言ったとしましょう。そうすれば、AB二人の間の軋轢対立は解消されます。
 神様は、人間をこうしたAB二つの立場において対立を解消しようとしてきたのです。このことが実現できるには、従順な人間が不可欠になることがわかるでしょう。神様は、従順な人間が片方の攻撃を甘んじて受けてくれるだけで対立を終わらせようとするのです。危害を加えた人間は、被害にあった人間に従順に屈服することが必要なのです。残念ながら、危害を加えた側を演じている人は、人類始祖のカインと同様、神様に愛されないことに納得できず、危害を受けた側アベル型人間をないがしろにして押さえつけてきたのが人類歴史でした。
 仏教では、人間の三大因縁として殺傷因縁、色情因縁、財の因縁の三つをあげています。殺傷因縁は、自分のプライドが原因で他人と対立状況に至り、殺りくにまで及ぶ因縁です。家庭内、友人の間で多く見られるものです。人が一つになれない主要な因縁です。色情因縁は、文字通り男女間の問題です。もっとも深い因縁とされており、解決不可能な問題と言われています。そして、財の因縁は財の奪い合いという人類歴史の対立抗争の原因となったものです。どれも代表的な罪です。
 因果応報は、蕩減復帰のことを述べています。少し違いがあると言えば、蕩減条件を立てることにより因果応報を軽減、解消することができるということでしょう。過去の罪を一番いい形で清算するには、誰にも文句を言えない形で罪を背負うことです。病気、破産といった形は憎しみを残すことがなくあきらめに近いので、罪の清算、蕩減復帰としてたびたび登場するのです。

 

③ 神のもとに条件を立てる
 罪を犯した人間が再び本来の位置と状態に復帰するためには、罪を埋めるに足る条件を立てなければなりません。堕落人間がこのような条件を立てて、本然の位置と状態に戻っていくことを「蕩減復帰」といい、立てる条件のことを蕩減条件といいます。
 一人の人間の心の中も、「心ころころ」と言われるように、善悪いつも正しく定まっているわけではありません。善ある決意をすれば神様の方向を向き、悪なる誘惑に心が動けばサタンの方向に向いていきます。だから自分自身が本当に善なる方向に変わっていくためには、善なる条件を立てて自分の心を善の方向に定めなければならないのです。しかし、自分一人で強大な悪なる勢力に立ち向かうことはほとんど不可能です。立ちどころにやられてしまいます。今まで私たちは、悪なる勢力に部分的に勝利した成人・義人の勝利圏を宗教という形で受け継ぎ、その恩恵圏で信仰を神の武具として闘ってきました。そしてメシア降臨の時を迎えて、新たな神の武具をもって闘える時を迎えているのです。メシアは、「君たちがこの世の君サタンに立ち向かえば必ず死ぬ」とまで言われています。この世の平安と幸福を獲得するためにサタンと悪の勢力に対抗するためには、メシアの権能という神の武具をもつことが必要なのです。蕩減条件を神様の前に立てるということは、メシアの権能を振りかざしてサタンと悪なる勢力と闘うということなのです。
 蕩減条件には、縦的蕩減条件と横的蕩減条件があります。
 縦的蕩減条件とは、神様に対する信仰条件です。神の武具で身を固めなさいという言葉は、このことを言っています。神様からくる力だけが対立を解消することができるのです。私たち堕落した人間は、自分中心というサタンの支配する情を抱えてしまっているので、このままでは神様の力を受けることができません。神様の力を受けるための条件が必要なのです。
 「縦的な蕩減条件は、何によって立てなければなりませんか。責任分担完成と神様に対する絶対的な愛の完成、この二つの条件です。このような基準があるのでイエス様も、『わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこやむすめを愛する者は、わたしにふさわしくない』(マタイ10-37)と言われました。この原則から、このような言葉が出てきたのです。」(天聖教P1188)
私たちは神様と世界のために生きることが必要なのです。そして、そのような条件を立てることがまず第一なのです。
 次に、横的蕩減条件とは何でしょうか。横的蕩減条件とは、どんなサタンの迫害にあっても耐え忍ぶということです。イエス様の歩みのように、縦的蕩減条件を立てると、サタンと悪霊が攻撃をかけてきます。神様の懐に行くのですからサタンが迫害してきます。サタンは環境を支配しているので、中傷謀略をしてでもいかなる手段を使ってでも切ってしまおうとするのです。それに対抗することが不可欠です。サタンの支配する世界から逃れるのですから、サタンは逃さまいと攻撃をかけてきます。イエス様でさえ十字架にかかってしまったので、我々が独力で立ち向かうことは不可能です。ですから、メシアの勝利圏と連結して闘うのです。
 「蕩減条件は、責任分担を完遂して神様を愛するものです。サタンがどんなに迫害し、攻撃しても、それを退け、そこに動揺しないとき、サタンが打って打ちまくってそれでも退かないときは、自分が退かなければならないのです。このようにしてサタンを分別するのです。これが決定できなければ蕩減する道はありません。」(天聖教P1187)
わたしの体験からいうと、可能だということができます。そして、この闘いにおいて重要なことは、蕩減復帰原則という仕組みをよく理解すること、もう一つはサタンと悪霊の動きを察知する霊的眼力をもつことです。サタンと悪霊は霊的に襲ってくるので、その攻撃がわからなくては闘うことができません。(悪霊にやられている人は、ある程度その感性を有しているので、サタンと悪霊と闘う能力を持っているのではないでしょうか。)
 次に、蕩減条件を立てて、現在起きている家庭問題(家庭内暴力)にいかに対処するかを少し述べてみましょう。
 今起きている家庭問題の大半は、先祖からの因果応報として再現していると観ていいでしょう。先祖の問題がまとめて起きているので、どの問題かはよくわからない場合が多いのですが、家族全員が関係して立ち向かわないと解決しないことだけは確かです。家庭問題が起きてしまうと、親はおろおろするばかりです。原因も対策も何もないからです。悪霊に翻弄されている場合、対抗する力を注入しないと抜け出すことができませんが、それが何かがわかりません。
 まずしなければいけないことは、神の武具を身につけて(縦的蕩減条件)神様の権能と力を受けることです。神様との関係を築くことです。それには、仕組を知ること、神様との関係を築く条件を立てることの二つです。そしてそれを実践して条件が満ちた時、神の力が入ってくるのです。(それは、どれくらい必要かは神様とサタンの交渉なのでわれわれにはわかりません。)
 そしてもう一つしなければいけないことがあります。暴力をふるう子に対して我慢し耐え忍ぶのです。横的蕩減条件と言われるものです。そうする中で、私の中にあるわだかまりの心情を穏やかにしていくのです。悪霊は、子供を攻撃しながら親の対応を攻撃してきているということを知らないといけません。両方を攻撃してきているのです。ですから、それに対抗するには、反撃するのではなく耐え忍ぶことによって悪霊の攻撃を消していくのです。親子共同作戦が必要なのです。お払いによって一時的に悪霊が出て行っても、親子の対立の情が残っているとすぐに入り込んできます。あまり役に立ちません。
 よくこの子はいい子なのにどうしてと言われますが、いい子というのは先祖の善霊が協助していると考えられます。いい子でないと、過去の罪の清算はできないので先祖は期待しているのです。甘んじて罪の清算という苦労を引き受けるのですから、普通の人にはできません。普通の人ならば、すぐに失敗に終わることでしょう。しかし、その子も耐える限界を越えてしまうと、悪霊に乗り移られてどうしようもなくなり、先祖の罪の再現をするだけになってしまいます。神の武具が不足しているのです。悪霊に抗しきれなくなるのです。こうして家庭は、サタンと悪霊に荒らしまわられて追い詰められていくのです。神の武具を身につけないと対抗できません。次回は蕩減条件の立て方について説明します。

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悪霊現象と救い (1)悪霊現象の仕組み

(1) 悪霊現象と悪霊憑依現象
  悪霊現象というと、悪霊と思しき者が憑依したとしか思えない現象を想像されると思います。突然異言を吐くとか奇怪な行動をする人を見ると、悪霊現象なのかなと思われることでしょう。麻薬をやって人為的に異常な世界に入る人もいますが、それも一つの悪霊現象と言えるでしょう。このような現象は、日常的な姿でないため悪霊現象であると理解している人は多いと思います。
 しかし、どうしてそのような現象が起きるのかとなれば皆目見当がつかない人が多いと思います。現在、社会には悪霊現象かと思われる奇怪な現象があまりにも多いので関心だけは強いのではないでしょうか。悪霊が憑依して心を乗っ取られた場合でも、自分の心は片隅に残っています。しかし、どうすることもできず悪霊のなすがままになすすべなく翻弄されていきます。異常行動を起こした人が「〇〇しろ」という声が聞こえてきてどうしてもそうしなければいけないように思ったと供述していることがありますが、理不尽な犯罪の背後には悪霊の働きが関与しているのです。
 悪霊に憑依されやすい人は、霊界と通じやすい体質をもっている人です。いわゆる霊的能力、霊能者体質です。こうした体質の人は、霊界とコンタクトできやすいので霊界にいるいい人も悪い人もコンタクトしてくるのです。いい人がコンタクトしてくる場合は、素晴らしいひらめきやアドバイスを受け取って自分の力になっていきます。しかし、悪霊にもコンタクトされやすいので注意する必要があるのです。修行を積んだ霊能者といえども注意しなければいけません。霊能者は悪霊に対抗する力を取得して、善霊の協助のもとに悪霊からの救いの役目をなしています。しかし、霊界とコンタクトしやすいという体質は一面危険なものです。自分本位に使用していると、悪霊にやられてしまいます。悪霊には親玉サタンから地縛霊など末端の悪霊までいるので、自分の心が悪に傾けばすぐに悪霊に乗っ取られてしまいます。このため、修行をおろそかにすることは致命傷になりかねません。
 霊能力のない私たちには関係がないと思われるかもしれません。しかし、悪霊現象は皆さんが考えているような特殊な現象だけではありません。我々は日常的に悪霊の攻撃を受けています。我々が悪霊だと感じないのは、異常な形でなく普通の形で入って来ているからです。私たちは、普通に頭が重いとか肩が重いと言っています。こういう時には体が思うように動かず難儀をします。今日は体調が悪いということで処理しています。しかし、人間は本来頭が重いとか肩が重いということはありません。悪霊が来ていない状態では、頭はすっきりして体は軽いのです。そういう状態はほとんどないというならば、もう既に悪霊に入り込まれているといっていいでしょう。
 それが進んでくると、精神的疾患と言われる状態になってくるのです。信仰生活を積み重ねて少しずつ悟りの世界が開けてくると、良くない思いが悪霊を引き寄せてくるのが感じられるようになります。頭が重いとか肩が凝るという状態は本来の姿ではないこともわかってきます。頭はすっきりしていて体は軽いのが普通です。修行を積んだお坊さんが元気なのも、悪霊を屈服させてきたからなのです。

 

(2) 普段の日常生活の中でいつも悪霊は活動している
 では、われわれの日常生活の中で悪霊はどのように活動しているのでしょうか。悪霊と言っても様々な悪霊がいます。悪霊には親玉(サタン)から末端の地縛霊、犯罪者の霊まで多種多様です。神の存在を知っているものから神様のわからないものまで。地縛霊にいたっては死んだことさえ分かっていません。その悪霊の数たるや、人類歴史の期間を考えると、膨大な数いることだけは確かです。親玉サタンは、悪霊の棟梁としてこの世を牛耳っています。(サタンの目的はこの世の支配なので、よほどのことがない限り姿を現すことはありません。)
 それらの悪霊がひとりひとりの人間に入れ代わり立ち代わり日常的に入り込んでいるのです。日々心が変わるのは、入り込んでいる悪霊が変わったからだともいえるのです。
 ちょっとした思いの瞬間、悪霊は入って来ます。私の思い、言動をサタンと配下の悪霊はいつも見つめています。入る条件があるならばいつでも侵入することができます。従って、自分の心を制御できない人は悪霊の思うつぼになります。怒りやすい人、平常心を失いやすい人、落ち込みやすい人、自己顕示欲の強い人、こうした性格の人は気を付けないといけません。自分の感情に踊らされると、それを悪霊がもっていくのです。おお喜びした後、しばらく経って急にさみしくなるのは悪霊があなたの情を奪ったのです。不安な状況に陥れられていくのです。
 自分の心を制しない人は、城壁のない破れた城のようだ。」箴言25-26)
 この聖句は、まさにこのことを言っています。あなたの体は悪霊の出入り自由なお城になっているのです。このような状態ですと、悪霊が必要な時に訪ねてくることができることになります。
 「私はあなたがたにいう。誰でも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(マタイによる福音書5-28)
 この聖句も、誰もがちょっとした瞬間に思う情さえ、おろそかにできないといっています。この瞬間、悪霊が囁いてきてそそのかしたならば、あなたは罪を犯すことになるかもしれません。
 何も知らずに生きているならば、まず悪霊にやられていると思っていいでしょう。イエス様の言葉に「聞いて悟るがよい。口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。(中略) 口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。」(マタイによる福音書15-11~20)
 私たちの日常の思いが具体的な罪を起こす原点であることに気づく必要があります。私たちの周りの環境はあまりにも悪なる誘惑に満ちています。我々は知らず知らずのうちに悪霊にしてやられているといっていいでしょう。あまりにもそのことの重要さに気づかないのは、ささいな当たり前の日常のことなので、悪霊の影響を受けているなど少しも感じていないからです。
 ギャンブルでビギナーズラックという現象がありますね。はじめてギャンブルをした人が偶然大当たりを引き当てるという現象です。一見いいことのように思いますが、このことが引き金になってギャンブルにのめり込んでいき、ギャンブルの虜にされていくことがあります。知らず知らずのうちに私の心を悪霊たちが支配していくのです。当人は、自分で判断したと思っているのでそれが悪霊の仕業であると思うこともありません。気づかれないでその人の心を支配していくのがサタンと悪霊の怖いところです。
 自分本位、プライド、おごり、悲観、邪悪な思い、それらはすべて悪霊の好むものです。平常心を失ってはいけません。厳密にいえば「私」という観念はサタン(悪魔)であるともいえるのです。悪霊の醸し出す波動は、イエス様が見抜いているようにわかるものです。悪霊が入れる条件ができると、いつでも入りたいときに入るようになります。悪霊が侵入権をもったといっていいでしょう。この段階でも表面的には変わりませんので、だれも変だとは気づきません。しかし、この思いがエスカレートしていっていつしか誰の目にもわかるような罪を犯します。
 聖書に次のような言葉があります。
「強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その分捕品を分けるのである。わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。」(ルカによる福音書11-21~23)
 今は大丈夫でも、悪霊の強力な奴が出てきて、私の守り神に打ち勝ったならば、私は悪霊に乗っ取られるのです。さらにイエス様は、神の守りがないならば、悪霊が集団でやって来てひどい状態を創り出すとも言っています。
「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、帰ってみると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである。」(ルカによる福音書11-24~26)
 悪霊の住処になってしまっても、何ら神の防護をしない限り、状態は悪化していくのです。

 

(3) 善霊の業と悪霊の業(善神・悪神とも呼ばれている)
 私たちの思い、言動はすべて神側の善霊とサタン側の悪霊によっていつも見つめられています。この基本的な仕組みがわからないと、私たちは悪霊に対処することはできません。自分の思いで自由に生きているのではないのです。では、どういう仕組みなのでしょうか。
 神と神側にいる善霊たちと天使たちが協助する業が善霊の業であり、サタンとサタン側にいる悪霊たちが協助する業が悪霊の業です。善霊の業と悪霊の業は形としては差異がありません。違いは、悪霊が協助した業は動機が自分中心なので時間が経つにつれて不安と恐怖と利己心を増加せしめ、また健康を害するようになります。反対に、善霊の業は動機が神の御心に適うため時間が経つにつれて平安感と正義感を増進せしめ、健康も向上させていきます。  
 たとえば、祈願して運よく宝くじにあたったとしましょう。普通に考えれば、神様が応援してくださった、ありがたい、良かった良かったと善霊の業と解釈するでしょう。まさか悪霊の仕業であるなどと誰も思わないでしょう。しかし、宝くじに当たったことで、気持ちが大きくなり、有頂天になり、その後の人生が波乱万丈になったとしたら、どうでしょうか。悪霊は、一見良さそうな現象を起こして人間を引き込むのです。宝くじに当たることで、心に変化が起きるのです。自分の心に起きる変化を狙って悪霊は攻撃をしかけているのです。20世紀終わりのバブル経済の時、悪霊は日本人に金こそすべてという価値観を擦り込んで多くの日本人を狂わしてしまいました。
 もう一、二、例を挙げてみましょう。不幸が続き詐欺にまであって大金を失ったとしましょう。不幸の連続は悪霊の仕業には違いありません。周りの人からは、何とお人よしなんだと馬鹿にされて立つ瀬がないでしょう。不運が続くことは悪霊にやられたことに間違いありませんが、不運を耐え忍んで甘受すれば、そこで悪霊の攻撃は止まります。不運を甘受することによって罪を拡散せず罪を止めることになり、その後健康的に運も好転することがあります。わざわいは転じて福になるのです。表面だけで判断してはいけないのです。
 もう一例、家族の関係についてあげてみましょう。子供がいうことを聞かないで親に乱暴ばかりするケースを考えてみましょう。子供が乱暴するのは、悪霊の仕業であることは間違いないでしょう。乱暴をふるう子供は、ただ衝動に駆られてやっているだけでしょう。止めようがありません。自制心を失い、もはや自分で自分を律することができない状態です。完全に悪霊に支配されている悪霊現象です。子供は、自分の力で立ち直る力を既に失っています。(悪霊の力が強烈である場合、子供の心は乗っ取られていきます。) 家庭DVという問題ではこうしたケースが多いのではないでしょうか。
 こうした場合、暴力をふるう悪霊人と親との間で信仰の闘いが始まるのです。よく、「この子は悪いのではありません。この子に加担している悪霊が悪いのです」といって親は子供をかばいます。その通りです。子供の背後にいる霊(多くの場合先祖)が子に乗り移り、悪事を再現しているのです。
 このような場合、親子が一つになって悪霊と闘わないといけないのです。子供だけの問題ではありません。悪霊は、子供と親の関係を突き付けていることに気づかないといけないのです。

 

(4) 人類の救いの歴史-現代の救い
 お釈迦様は、苦の続くこの世の生活から出家して修行を積まれて悟りを開かれました。お釈迦様は、修行を通じて悪魔の挑戦を退け悟りにいたりました。最後の色魔の誘惑は誰もが知るところです。
 悟りを開かれたお釈迦様は、四諦を説かれました。「この世は無常なるがゆえに苦なり」ここにこの世で生きるうえでは、苦から逃れられないというこの世の限界を述べています。だから、この世の苦から完全に逃れるためには出家することが必要だと説かれたのです。在家の人についは、他者への施しと戒(戒め)を守ることを教えます。そうすれば、布施の功徳を積んで悪事をせず、来世は天界に生まれると教えたのでした。
① 苦諦・・・われわれの生存は苦である。一言付け加えるならば、無常なるがゆえに苦なり、である。生・老・病・死が基本的な苦(四苦)である。この四苦に加えて、a愛別離苦、b怨憎会苦、c求不得苦、d五陰盛苦(物質界と精神界の一切の事物・現象が苦である)。ここから四苦八苦という成句ができた。
② 集諦(じったい)・・・苦の原因に関する真理である。自己愛があるが故に執着するのであり、苦しむのである。a欲愛(感覚的・物質的な欲望)、b有愛(来世の幸福を願う欲望)、c無有愛(死後の世界の虚無を願う気持ち)
③ 滅諦・・・原因の滅に関する真理である。医学の方法によく似ている。
④ 道諦・・・方法に関する真理である。治療の段階である。八正道(実践)を教えられている。a正見、b正思惟、c正語、d正業、e正命(正しい生活)、f正精進、g正念(教えを忘れないこと)、h正定(精神の集中と解放)
*八正道の教えは、基本的に出家者に対する教えである。

 お釈迦様の教えは、当時の人々の灯明となりました。しかし当時の時代圏では、出家という方法が不可欠で、この世で心に平安を保ち幸せを得ることには限界がありました。それゆえに、この世での救いは後の仏と呼ばれる弥勒の降臨に希望を託さざるをえなかったのです。キリスト教でも、イエス様の十字架をもってしてもこの世の救いは完全には実現されなかったため、再臨主の降臨に引き継がれました。世の東西両洋でメシア降臨が期待され続けられてきたのです。メシアが降臨されるとき、この地上で私たち人類ははじめて救われると信じられてきたのです。弘法大師空海も、弥勒降臨の時には私も降臨して協力すると述べています。
 悪魔の領袖サタンは、この世の君と言われます。メシア降臨の終末の時、この世の支配者であるサタン(悪魔)のもとにある人類歴史が終わりを告げ、新しい時代が始まると言われてきました。そして、終末に降臨すると予言されていたメシアは現実に来られてサタン(悪魔)との壮絶な闘い(愛と忍耐の闘い)に勝利されて私たちに救いの道をもたらして下さいました。私たちは今、メシアにつながることによって、この地上においてこの世の主サタン(悪魔)から逃れて神のもとに戻る道が開かれたのです。わかりやすくいえば、この地上に地上天国を築く道筋が開かれたのです。
 現在悪霊現象が頻発しているのは、地上にメシアの救いがもたらされる時が来たために、その恩恵に浴しようと善霊人、悪霊人がこぞって霊界から降りてきているのです。いい人が苦労したり悪霊現象に悩まされたりしているのは、こうした背景があるからなのです。霊界にいる霊人たちも、地上にいる縁ある人(子孫が多い)がメシアにつながることを期待しているのです。メシアの価値を分かっている霊人はあまりいないと思いますが、協助している地上人がメシアにつながるならば喜び、無視するならばがっかりしていることでしょう。そして、メシアと関係がもてないならば救いは先延ばしされてしまうのです。
 既に、メシア以降の千年王国時代は出発しています。しかし、その恩恵にあなた自身が浴するのか否かは、あなたの価値観と生き方次第です。今までこの世を牛耳ってきたサタンの価値観にとらわれるならば、サタンと共に滅ぶ運命にいたるでしょう。反対に、神様のもとに帰ることを選択するならば、希望の未来が切り開かれていくことでしょう。しかし、神様のもとに戻る道は、自らの中に侵入しているサタンと悪霊の条件を払しょくすることなくしては現実のものとなりません。すべては人間次第です。おそらくほとんどの人がいままでの価値観のもとにとどまるでしょう。その場合、人類に大きな悲劇が来ることは避けられないものとなります。

 

地上天国建設への道「神に侍り、隣人に寄り添い、生きとし生けるものすべてを慈しむ」

 

 この言葉は、ほとんどの宗教が教えていることと同じではないか、さして新しいことではないと思われることでしょう。そうです。それほど真新しい言葉ではありません。宗教が教えてきたことは本来の人間の在り方、生き方を教えてきたものなので、本質的には同じものです。世界の中では地域・民族によって宗教の教えが異なっているように見られていますが、それはその民族に適した教え方を取っているためだけであって、その教えの基本は変わりません。宗教は、神様がいること、神様と人間は親子の関係であること、人間はこの地上でお互いに助け合って天国をつくることを教えてきたのです。

 聖書のはじめに、神様は人間を創造した後彼らを祝福して「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ(創世記1-28)」と言われたと書かれています。この言葉の中にすべての神様の願いが凝縮されているのです。

 表題で述べた言葉は、神様が創世記の中で語られたみ言を地上に生きる人間がどのように実践するかという意味を込めたのです。言葉に込めた意味を少し説明していきたいと思います。

 

 (1) 神を崇め、神を信じではなく、なぜ神に侍るなのか?

 科学万能の時代に神様という話題自体がナンセンスだと思われている人も多いと思います。現代は、人間の意識の中に神様を忘れ棄て去り人間万能を誇示している時代です。神の力が働いているなどということを信じている人の方がごく少数派でしょう。ちょうど、ソドムやゴモラの街のように、神を忘れて快楽にふけった時代と同じように。この価値観が正しいものかどうかは今後の歴史が示すことでしょう。

 神を信じている人からみても、なぜ神に侍るのかは理解できないのではないでしょうか。神を信じることはわかるけれども、神の意図が分からない限り侍ることなどできないではないかと思われるでしょう。そうなのです。私たち人間は、神様から遠い存在になってしまったのです。神様の言葉が聞き取れないばかりか、神様の存在さえ確信を持てなくなってしまいました。

 神の言葉を聴き取れなくなった人間にとって、自分の思いがすべてになりました。お釈迦様は、「人間は自分中心である。だから他人に危害を与えてはいけない」と諭されたと言われています。「私は私自身のことを知らない。私が苦しんでいるのは、物がないからでもない。敵が攻めてきたからでもない。他の人がこう言ったからでもない。自分の無知、無明。自分のこころが明るくない。ものを知らないということに原因があるということに気づくということが大切です。」(出典:「お釈迦さまの願いと教え」 上山大峻先生のご法話より(平成20年6月20日) www.joukyouji.com/houwa0808.html

 わたしたちの心の中に、自分という価値観が占領したのです。そしてそれは、無明であるのです。

 聖書の人類始祖の堕落の場面に「イブが蛇の言葉を信じて善悪知るの木の実を食べた後、自分が裸であることがわかりいちじくの葉を腰に巻いた」という記述があります。私たちの意識の中に、別の意識・情が入り込んだのです。自分という情(自分と他人を分ける情)です。この情は、人間を仲違いさせていく自分優先の情だったのです。人類歴史が対立抗争の歴史になったのは、この情が入り込んだためなのです。それゆえ、神のもとに帰るためには、自己犠牲と自己否定という難しい道を通過することが不可欠になってしまったのです。自分優先という情は、とても根深いものです。この情を拭い去るために宗教人がどれほど悪戦苦闘しエネルギーを注いできたことでしょうか。

 自己犠牲、自己否定の宗教修行を通して自分優先という情を何とか乗り越えてくると、心の内に入り込んだ自分という誤った情が何かがわかるようになります。心の中に、善悪の葛藤が明確に芽生え、その情を克服すると、人間は神と部分的ですが一つになってきて神性を帯びるようになり、神の心情と摂理がわかるようになってきます(悟りと呼んでいる現象)。一種の超能力なようなものも生まれてきます。しかしそれは、自分勝手なものではないことも同時にわかるようになります。私たち人間は、自分勝手に生きているのではなく、神様の摂理の中で生きている、生かされていることに気づくのです。

 人間は、天宙の中心として創造されているので、神に近づくにつれて神の心情と摂理が理解できるようになるのです。ちょうど、子供が成長して親の気持ちがわかるようになるようになるのと同じです。

 何故、神に侍るのかと言えば、人間は自分勝手に自分の都合で生きているのではなく、神の摂理の中で生きているということを感じるようになるからです。しかも、神の摂理は刻々変わっていきます。昨日の摂理と今日の摂理とは違うことがままあるのです。また、人間の行いの結果次第で神の摂理は変わっていくのです。イエス様を十字架につけたその時からその後の2000年の人類歴史のアウトラインは決定されたようにです。

 私たちの身の回りの行動にも摂理は働いています。私が取る選択如何によって、私の未来は決まっていきます。私が取る選択次第で私の未来を神と悪魔(サタン)が奪い合っているのです。今日の私の判断は、明日の私と神の摂理に大きな影響を及ぼしているのです。そうした背後の事情の分からない人間は、ほとんどの場合神の願いとは反対の選択をしてしまいます。保身という選択は、失敗という言葉に置き換えてもいいかと思います。

 

 (2) なぜ、隣人を愛すではなく、寄り添うなのか?

 「汝の隣人を愛せよ」とは聖書に記されているイエス様の言葉です。家族、隣人と仲良くし互い助け合うことは宗教の教えの基本です。しかし、なかなか隣人とひとつになれないのが現実の姿ではないでしょうか。

 その最も身近な隣人が家族です。隣人に寄り添うことの原点である家族は、互いに寄り添う愛の基地でなくてはいけないのです。家族の中にどんな問題があろうとも、それを避けて通ってはいけません。家族の破綻は、子孫により大きな愛の問題を先送りするのです。

 人類歴史の出発が家族の間の対立、分裂から始まっているということを知らないといけません。世界中の民族の神話にはほとんどすべて兄弟殺しが記述されているということは、家族の分裂が混乱と人間の不幸の原因なのだということです。現在、多くの家族で、家庭内に問題を抱えています。わけもわからず突然、重い闇が押し寄せてきて家族を苦しめているようです。家族そのものが歴史の結実体で、過去にあった問題が噴出しているのです。それは、一人の問題ではありません。家族間の心の問題が表出しているのです。この問題は、家族が一つにまとまろうと互いに寄り添うことによってしか解決できないのです。

 私たち家族を神様と悪魔(サタン)は見つめています。悪魔(サタン)は、いつもこういいます。「所詮、人間は自分中心で、互いに協力して一つになることはできない」と主張してくるのです。人類歴史を振り返ると、悪魔(サタン)の言い分に返す言葉がありません。何と悲しい人間なのでしょうか。同時にそれを見つめている神様の悲しみが伝わってきます。本当にどうしようもありません。

 信仰を深め宗教的に修行を積んだとしても、それを克服することは至難の業です。聖パウロが、「私は内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう(ローマ人への手紙7-22~23)」。聖パウロの嘆きは、善を求める宗教人すべての嘆きです。

 この人間の苦しみに神様が摂理されたのが、メシアを送るという摂理です。人類歴史の終末の時、私の肢体の中にある悪魔(サタン)の律法を拭い去って神の律法に置き換えるという役事を準備されたのです。それが、黙示録にある子羊の婚姻なのです。家族の分裂の原点の修復、それがこの役事なのです。

 では次に、汝の隣人を愛せよではなく、なぜ隣人に寄り添うようにという言葉を選んだのかを語ってみましょう。汝の隣人を愛せよという教えは、私たち一人一人に愛の実践の行動指針を教えています。多くの人が、宗教が教えている指針に従って、隣人を愛することを実践されています。そう実践することによって、かけがえのない兄弟愛に結ばれた隣人関係を築いておられると思います。しかし、隣人を愛するという行動は、ともすれば押し売り的で他人の不興を買うこともあります。また、隣人に気遣い慈しんでも、隣人は期待に副う反応を示してくれるとは限りません。私が考えている隣人への愛と隣人が受け取る愛の姿には隔たりがあることが多いのです。

 お釈迦様の逸話の中に次のようなお話があります。

王様がお妃に「この国は、豊に栄え民衆も穏やかに過ごし、何の不足もないが、そなたにとって一番いとおしいものは何か?」と、聞かれました。お妃は「王様です」とは答えずに、「自分が一番いとおしいです。」と答えました。また、逆にお妃が王様に同じように質問されると王様も「自分が一番いとおしい」と答えられたということです。そこで、この答は正しいのかをお釈迦さまに尋ねに行かれたところ、お釈迦様は「その通り、それで間違いない。」と答えられ、「だからこそ他の人もまた、自分が一番かわいいと思っていることに気づかねばならない。」

(コーサラ国のハシノク王とお妃のマツリカの話)

出典:「お釈迦さまの願いと教え」 上山大峻先生のご法話より(平成20年6月20日) www.joukyouji.com/houwa0808.html

 誰しも自分が一番かわいいと思っているという現実を直視する必要があるのです。このことに気づかれたお釈迦様は、本当に自分がかわいいのであったら、自分を大切にすると同時に、他人も大切にしていくということに気づかなければならないということにも気がつかれたのです。これが、仏教の原点です。自分が一番かわいいと思っている人間同士が一つになるということは、お互いを尊重することなくして成立しません。だから一方的に愛を施すのではなく、その人に寄り添うことが重要であり原点であるのです。

 人類の歴史は、反発と反逆の歴史でした。私と隣人との関係は、今を生きている二者の間の関係だけでしたらそれほど難しい問題を抱えることはないでしょう。しかし、私もそして隣人も長い歴史の背景がありその結実体として今を生きています。それぞれ歴史の中で起こした深い事情を抱えています。一朝一夕に解消するものではありません。兄弟愛のもとに唯一無二の関係を築いていくことが目標ですが、間に横たわっている問題はいつ解消されるのか定かではない複雑なものを含んでいることも多いのです。だからこそ、寄り添うという姿勢が大事なのです。それは、多くの場合我慢強く耐え忍ぶということを必要とするのですが。お互いに寄り添う中において信頼関係が生まれ、兄弟愛(利他の精神)に結ばれた人類一家族を形成していくことが可能となるのです。そこにあるのは、無私の愛の姿なのです。

 イエス様が「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りにせよ(マタイ7-12)」と語られ、「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれる(マタイ7-1~2)」であろうと語れていますが、この言葉の中に寄り添うということがいかに重要な姿勢であるかが示されています。

 

 (3) 生きとし生けるものすべてを慈しむとはどういうことなのか?

 仏教に殺生禁断という言葉があります。むやみに生き物を殺すことを戒めることです。

お釈迦様は、「すべてのものは、暴力におびえる。すべての生き物にとって、いのちはいとおしい。おのが身に引き比べて、殺してはならない。殺さしめてはならない。(ダンマパダ 第10章)」と言われています。私たちの身の回りの生きとし生けるものはすべて生命をもっています。それだけでなく、大地までもが生命を有していてある心をもっています。そうであるからこそ、自らに危害を加えようとする者に対しては恐怖を覚え身構えます。しかし人間は、生きとし生けるものの叫びの声が聞こえないがゆえに、人間本位に生きとし生けるもの(万物)を殺したり利用したりしています。生きとし生けるものの心を感じ取ることができないのです。

 私たち人間は、この地上生活においてその物的基盤はすべて生きとし生けるもの(大地も含めて)万物に依拠しています。万物の援助なしには人間の地上生活は成り立ちません。そうであるにもかかわらず、人間は謙虚な姿勢を忘れて、万物は勝手に利用できるものであると考えているところに大きな問題が潜んでいます。

 聖書の中に「万物は本然の人間があらわれるのを待ち望んでいる」という記述があります。聖パウロは、次のように述べています。「被造物は、実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、・・・(中略)実に被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、私たちは知っている(ローマ人への手紙8-19~22)」

 人間とこの地上に生きる生きとし生けるものすべてとの間には大きな断絶があるのです。万物の心のわかる人間が現れた時、この地上は人間と生きとし生けるものが一つになる調和したすばらしい世界が展開されることになると考えられます。

 私たちは、心から愛して万物と接すると、万物がささやきかけてくるという経験をすることがあります。こうすればいいのだよ、こうなのだよとヒントを与えてくれるのです。手塩にかけて家畜を育成し愛情をもって作物を育てることによってすばらしい実を結ぶのも、人間と家畜・作物が共感し合うことによってプラスαの成果がもたらされるのです。

 このようなことは、科学の世界でもよく言われることです。誠心誠意研究に没頭していると、ひらめき、ヒントが突然襲ってきて新しい発見発明につながるといわれます。

 生きとし生けるものはすべて、その存在に意義があり人間に対して価値を有しています。その秘められた価値を本当に引き出すことができるのは、もの(万物)に愛情を注いで一体となった人間なのです。

 私たちが生存している大地も同じです。現代の科学では、大地は人間とは関係なく地球の鼓動として活動しているとしか考えられていません。しかし、地球の鼓動といわれる大地は、私たちの心とも連動しています。地球は、私たち人間の心の反映なのです。現在地球が危機に瀕しているという姿の内側には、私たち人間の内面の心が危機に瀕しているということでもあるのです。(地球意識計画-物理世界と地球的な意識とが相互作用を起こしているという可能性を研究している-が進められている。)アニメや物語の中で、天変地異を大地の怒りであると記述している場面がありますが、天変地異は大地がバランスを崩した結果、そのバランスを戻そうとする行為であるといえましょう。私たち現代人は、科学的知見を獲得してそれに頼ってきたがために、素朴な感性を失ってしまっているようなのです。

 もう一度、私たちの科学的知見の背後にいる神様の存在に気づく必要があります。そして、神と一つになり、隣人と一つになり、生きとし生けるものと一つになる努力をすることが大切です。それができた時、そこに地上天国は生まれるのです。

日本民族の危機《神は私たちの一挙手一投足を見つめておられる》という意識と感覚の喪失

(1)先日のサイン盗み疑惑事件
 先日の選抜高校野球全国大会(2019年)で、“サイン盗み疑惑”が問題となった。第6日の星稜(石川)―習志野(千葉)戦で星稜・林監督が習志野の二塁走者がサインを盗んでいたと試合後に指摘し、大会本部や審判委員が緊急会見するなど大騒動に発展した。

 フェアプレーで闘うスポーツの世界にもルール逸脱の蔓延という由々しき事態が進行しているようだ。関係者によると、以前からサイン盗み疑惑がなかなかなくならないらしい。記者会見を行った竹中事務局長は、「やってはいけないということは大会規則に書いてあること。なのにフェアプレーの本質をわかっていないと思われる行為が見受けられる。精神を作っていかないといけないし、口を酸っぱくして言い続けるしかない。前時代的な野球はやめましょう、ということですね」と、困惑したコメントを出された。

 経済活動においても、企業のコンプライアンスに問題があることは多々報じられてきた。見つからなければいいという感覚しかないのであろうか。いつから日本人は、このような感覚しか持たなくなってしまったのであろうか。神が私たちを見つめているということを気にしないのだろうか。それとも、神は人間がつくった架空のものと思っているのであろうか。

 困り切った時だけ神頼みをするという情けない姿に対しては、神はどうすることもできない。ここに、日本民族の本当の危機がある。


(2)身近に神を感じてきた日本民族の伝統
 古来、日本人は身近に神を感じて神を崇敬してきた。私たちの生活の周りには、常に神が存在した。かまどの神であり、山の神であり、田の神であった。神は身近な存在であった。その霊力が強い所には、祠をつくり神を祀ってきた。産土神を祀る日本古来の信仰では、そこら中に神の気配(正確には霊界の姿)を感じていた。日本は神々の国であり、人々は身近に神を感じてきたのである。親は、子供に「お天道様が見ているから恥じない行いをしなさい」と諭したものである。

 私たち日本人は、今も正月には神社に初詣をして静かに厳かに1年の始まりを祝う。静かに正月を祝う民族はほかにはいない。その風習は、神の前に心を正して神と共に新しい年を迎えるという日本の伝統である。正月には、年神あるいは歳徳神と呼ばれるご先祖様を各自の家に迎え入れてこれを祀る。ご先祖様は各自の家に戻って来られ、家族がみんなそろって年神と一緒に食事をする。大晦日の夕方に年神に神饌を供えて、翌朝その神饌をおろしてみんなで食べる。そのごった煮が雑煮である。

 また、日本人は言葉にならない雰囲気という会話によって無言の会話をしている。それは、他の国の人には実にわかりにくいものであるが、会話は言葉だけではないのである。それは時としてはっきりしないものではあるが、以心伝心としてその場の空気として会話が行われている。

 日本語の言葉も特殊である。日本語は「言霊」とも言われてきた。日本の言葉には霊力が宿っていると言われてきた。確かに、日本語はほかの言語と異なる面がある。一音一語で、音の響きによって意味を伝えるという特殊な一面がある。アルファベットが表音文字であり、漢字が表意文字であるならば、日本語は表霊言語と呼んでもいいかもしれない。

 そのような日本人であるからこそ、村の鎮守様を中心に村社会を形成できたと言えるだろう。しかし、いつしか日本人は神を感じなくなってしまった。感性が鈍くなってしまったようである。

 

(3)神を感じなくなった人間は、道徳と規則に頼ることになる
 神を感じ神に見つめられているという感覚を失うと、目に見える表面だけを取り繕う社会となる。私の心の奥底は誰にもわからないという意識は、他の人間にわからなければ何をしてもかまわないという意識を生む。社会秩序を保つためには、人間関係を正しく保つために表に現れる道徳を浸透させなければいけないという意識をもたらす。神が見つめておられるという意識のない世界では、道徳と規則だけが社会秩序を保つ拠り所となる。それは、一見必要不可欠の正しい姿のように思われる。

 しかし、神を感じない世界において、道徳を教え規則を作るということは、言葉によって秩序を形成するものとなるため、堅苦しく個人の自由と行動を縛るものとなっていく。道徳の背後に神が見つめているという意識がなければ、その場を支配する空気は安らいだものとならない。しかも規則は、時と共にエスカレートして細かくなっていく。心の通わないギクシャクとしたルールが支配する社会では、安らいだ情がそこに生まれず息苦しくなる。それはやがて、神なき人間が人間を支配する硬直した社会となる。神の愛と心情が欠落した社会は、平安と安らぎが感じられない冷たい社会を創り出していくのである。

 そして、最終的には神なき社会の秩序は全体主義に転化していく。共産主義や計画社会、近年懸念されているAIによるロボット奴隷社会となっていく。

 

(4)自由主義経済は、神に見つめられているということを自明のこととしてフェアプレーをするという精神が一般化して初めて成立したということを忘れてはいけない

 倫理学者であったアダム・スミスが経済活動について執筆した目的は、すべての人に最低限の富の確保をもたらすことなくしてこの世界において幸福を達成することができないという熟慮に基づいていた。一人一人が貧困を避けることが出来るか否かは、節約や勤勉など個人の努力だけでは難しい。社会全体の富の拡大なくして人間の幸福はもたらされないというのが、アダム・スミスが見出した結論であった。

 しかし、経済活動には多くの身勝手な活動が入り混じっている。富と地位に対する野心の競争となるため、それは社会の繁栄を推し進める一方、社会の秩序を乱す危険の大きいものである。  

 スミスはこの危険を乗り越えるためには、「競争はフェアプレーのルールに則って行われる必要がある」と主張した。そしてもし、フェアプレーの侵犯がなされるならば、(胸中の)観察者たちが許さないと述べた。私の心の中にある良心とそれを背後から神が見つめているという意識と感覚が経済活動を前進させる前提であることを教えたのだ。

 スミスが容認したのは、正義感によって制御された野心だけである。「見えざる手」が十分に機能するためには、放任されるのではなく「賢明さ」によって制御されなければならない。制御されないならば、人類と文明は当然ながら解体に向かうのである。

 神様は、いつも私たち人間を見つめておられ、神様の前に正しく行動する人には手を差し伸べ、背を向ける人にはため息をついておられることを忘れてはいけない。全ての力と救いは神様からきているのであり、神様なくして我々の平和と幸福はないのである。

 日本資本主義の父と言われている渋沢栄一も、「商人にとっては信用こそが根本だ」と主張し、誠実さが経済活動に不可欠であることを強調した。不正直に商売をしてももうけることはできるかもしれないが、そのような利益は決して永続するものではない。誠実に商売をしてこそ、安定的・持続的な利益を獲得することができると述べた。「不誠実に振る舞うべからず」「自己の利益を第一には図るべからず」。この言葉は、アダム・スミスと同様、心の中の良心とその背後に神様が見つめているという感覚からもたらされたものである。
 こうした精神が根付いていたからこそ、日本は近代化に成功したのである。


(5)この地上世界を築くのは、人間の責任である
 地上世界は、この地上で生活する人間が作り出すものである。無形の神は、人間に多くの知恵を与えることはできても、具体的に地上を作っていくのは人間である。神様は無形の存在であるので、具体的には直接手を下すことができない。この地上は、実際に住む人間によって作られる。住みやすくするのも、住みにくくするのも、人間である。その意味で、現在の地上の姿は人間の心の姿の反映である。地球が危機に瀕している現実は、人間の心が危機に瀕していることの反映でもあるといえよう。

 アダム・スミスも、人間はこの世界に責任をもつ必要があるということを述べていた。「道徳的存在は、責任ある存在である。責任ある存在は、そのことばが表現するように自己の諸行為についての説明を、だれか他人に与えなければならない存在であり、したがってそれらの行為をこの他人の好みに応じて規制しなければならない存在である。人間は、神と彼の被造物に対して責任を有する(『道徳感情論』3部2編)。」

古き天地が滅びて新しき天地が始まる。私たちは、神様が遣わされた弥勒(再臨主)につながらないと救われない

 私はこのブログを通して、宗教を多角的に取り上げてきました。ブログを読まれた方は50万近くになります。お読みになられた皆様には心から感謝いたします。

 私は、このブログを宗教の知識、必要性、心得を伝えるためだけに書き続けたのではありません。もちろん宗教を誤解している人には正しい理解をしていただきたいと願いました。それだけではありません。もっと本質的なことがあります。

 人類が歴史をかけて待ち望んだイエスの再臨(再臨主と呼ぶ。東洋では弥勒の降臨として待ち望まれた)がこの地上で実際に起こり、再臨主は救いの摂理を成し終えられて天に帰られたこと、その恵みが今地上にあることをお伝えしたいのです。再臨主の人生は、あまりにも苦難に満ちていました。イエス・キリストの十字架の人生のように私たちの至たらなさをすべて抱えて、この世の主サタン(悪魔)と壮絶な戦いをして来られました。そしてサタン(悪魔)との壮絶な闘い(愛と忍耐の闘い)に勝利されて私たちに救いの道をもたらして下さいました。このあまりにも大きい恵みに対して感謝の言葉しかありません。私たちは今、再臨主につながることによって、この世の主サタン(悪魔)から逃れて神のもとに戻ることができるようになったのです。わかりやすくいえば、この地上に地上天国を築く道筋が開かれたのです。

 今私たちは、多くの苦悩を抱えています。精神疾患、家庭の不和、孤独、貧困問題、環境問題、国家対立など。そのほとんどには解決の術がないように感じています。まして私たちが抱えている心の闇など自分で変えることなどできません。だからこそ苦しみ悩み絶望に襲われます。私たちは、自分が抱えている苦悩を自力では解決できないと気づいています。それと同時に、私たちは心の奥底では私を生かしている何らかの存在(神様)がいるのではないか、私たちは神様を必要とし神様のもとに帰ることが本当ではないか、とうすうす感じていませんか。

 私がブログを通して伝えたかったことは、自らの苦しみを救うのは神様だけであり、神様が遣わされた再臨主であること、私たちは再臨主につながらないと救われないということを伝えるためでありました。新約聖書の「使徒行伝」16章31節には、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」とあります。これは本当です。自分の思いを捨てて主イエスを信じ侍ることによって、主イエスの霊(神の愛の情)が私の心の中に入ってくるのです。自らの思い(罪深い性)を悔い改め、主イエスに委ねることによってぎすぎすした心が消え平安な心へと心が洗われていくのです。

 悲しいことに、私が今まで再臨主と出会わないと救われないのだと説いても、誰一人そのことに耳を貸す人もいなければ、再臨主の救いを受けたいと言われた方もありませんでした。自らの心の闇、苦しみから救われることを願っておられないのでしょうか。そんなことはうそだ、あり得ない、再臨主は必要ないと感じておられるならば、自分で行ってみてください。よい結果が現れることを祈っています。

 現代が終末であることに異論を唱える人はいないでしょう。行くべき道がわからない今の状況は、このようになるべく予定されていました。終末とは、神とこの地上の支配権を有しているサタン(悪魔)が激突する時なのです。個人から始まり、家族、民族国家、人類全体の善と悪が激突する時なのです。そしてこの世の支配者であるサタン(悪魔)のもとにある人類歴史が終わりを告げ、新しい時代が始まることを意味しています。古き天地が滅び新しき天地が始まるという聖句は、こうしたことを語っているのです。

 それゆえ、終末にはすべてが混乱の局に達します。天変地異が起こり、人々が泣き叫び、もだえ苦しみ、多くの人が生命をなくすといわれるのも、以上のような理由によります。すべての人が混乱の中で、善と悪に分けられていくのです。イエス・キリストが「わたしは平和をこの地上にもたらすために来たのではない。むしろ分裂である」と語られているのは、すべてが善と悪に分けられるという意味です。

 イエス・キリストの時も終末でした。イエス・キリストは、ただ人類を救いに来られたのではありません。人々は、イエス・キリストの前で知らないうちに善と悪に分けられるので、イエス・キリストは審判主でもあったのです。

 イエスは、「わたしは火を地上に投ずるために来たのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなに苦しい思いをすることであろう。あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今から後は、一家の内で五人が相分かれて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう(ルカ第12章49~53)」と言われたことを見てもわかります。

 「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すぐにきている。そして聞く人は生きるであろう。(ヨハネ第5章24~25)」と言われたのです。

 神の国はいつ来るのかとパリサイ人が尋ねた時には、次のような言葉を残されました。

「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起こった。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。(ルカ第17章26~33)」と言われ、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」と言われたのでした。

 ゴルゴダの丘に向かうイエス・キリストは、悲しみ嘆く女たちにこうも言われました。

エルサレムの娘たちよ、私のために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日がいまに来る。そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。(ルカ書第23章28~30)」と語られました。

 神の子イエス・キリストを十字架に架けたユダヤ民族は、神の身元からサタン(悪魔)に引き渡されることが決まったのです。イエスの死後40年後の西暦70年、エルサレムローマ帝国との間に起こったユダヤ戦争において陥落します。エルサレム神殿は破壊され、一部の生き残ったユダヤ人もマサダの砦で玉砕します。それ以降、1948年のイスラエル建国に至るまで2000年間、ユダヤ民族は国を失い放浪の民として迫害を受け、嘆き悲しむ受難の歴史を歩まざるをえなくなったのです。偶然で歴史は動いているのではありません。

 再臨主(東洋では、弥勒の降臨として待望されてきた)は、この世を創造された神と完全に一つになられたお方なのです。信じられないかもしれませんが、現代歴史のものすごい荒波の背後で神とサタンの摂理を賭けた闘いがなされてきました。再臨主につながるということは、神の霊(心情・愛)が私たちの心の中に注がれてくるという救いの恵沢を受けることができるのです。反対に、再臨主につながらないということは、サタン(悪魔)から逃れられないという宿命を受け継ぎ子々孫々に受け渡すことになるのです。2000年前に起きたように、一人一人が山羊と羊に分けられていくのです。

 この話は、キリスト教だけの話であって、キリスト教でないものには関係がないだと思われている方も多いかもしれません。しかし、日本の宗教も弥勒の世が来る前にはほぼ似たことが起こるのだと言っています。「神さまは、“得心さして改心さす”と仰っている。“悪でこの世が続いていくかどうかということをみせてあげる”と仰っている。“渡るだけの橋は渡ってしまわねばミロクの世にならぬ”と仰っている。どうもそうらしい。せめて世界中の半分の人間が、なるほどこれは間違っているということを心の底から気づいてこなくてはダメだ。(大本教 出口日出麿)」。

 終末の時には多くの艱難が起こり、人々は神につながる人と悪の世界にとどまる人の善悪に分けられる審判があるのです。夜明け前が一番暗いといいますが、現在は弥勒の世が来る前の夜明け前だといっていいでしょう。私たちは今、改心して神様のもとに帰ることが一番大切なことなのです。

 審判は突如来ます。聖書の黙示録は、こう記しています。『ああ、わざわいだ、この大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた。(ヨハネの黙示録第18章―10)』審判は、核戦争か天変地異である可能性が高いでしょう。

 皆様には、神様の身元に帰る道を探し求めていただきたいと願います。そして皆様が信じている宗教は、神道も仏教もキリスト教も大本は一つの同じ神様から発している教えであることに気づいていただきたいのです。教えは、その時代その民族に合うように工夫されているだけで、すべては一つの神様につながっています。神様を探し求めましょう。神様を求める人、弥勒を求める人、再臨主を求める人は幸いなるかな。その人のもとには神の霊がとどまり神の栄光に与かれることになるでしょう。

共産主義では、何故地上天国は実現できないのか?

(1)K.マルクスは、イエズス会パラグアイ理想郷建設を知って共産主義に確信をもった

 K.マルクス共産主義という理想社会を確信をもって提唱したのには、ある一つの歴史事実を発見したことが大きいのです。イエズス会パラグアイ理想郷建設です。それまでのK.マルクスは、ユートピア思想に懐疑的であり世人の世迷言にすぎないと思っていました。

 イエズス会によるパラグアイ理想郷建設とは次のようなものです。

 17世紀、イエズス会は、それまで森林で遊牧生活を行なってきたグアラニー族に対し、トーマス・モアが描いた「ユートピア」の生活を実現しようと、宗教的な教えだけでなく、政治、文化、社会 教育(読み書き)だけでなく、農業、畜産、工芸品の製造などについても教える理想社会建設を行いました。イエズス会の伝道所は、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイなどに30箇所ほどで、17世紀から18世紀にかけて150年にわたって繁栄しました。財産を私有せず(貴金属、特に金は軽蔑された)、必要なものがあるときには共同の倉庫のものを使う。人々は勤労の義務を有し、日頃は農業にいそしみ(労働時間は6時間)、空いた時間に芸術や科学研究をおこなっていました。伝道所は、農業や工芸で大きな利益を上げ、住民はみな美しい清潔な衣装を着け、集落は、住民が平等に食べ物や財産を分け合い、貧富の差がない理想郷だったといいます。一帯は「パラグアイイエズス会国家」と呼ばれていました。

参考:拙者ブログ:地球村創造ブログ2018/4/15「トーマス・モアユートピア』のモデルとして建設された『パラグアイの理想郷』」

 ユートピアは実現できるのだ。イエズス会が示したパラグアイの実験は、地上天国建設を勇気づけるものであったのです。

 

(2)J.M.ケインズも、共産主義の理想主義は評価した

 多くの人が共産主義に惹かれるのは、人類はみな平等であり、すべての人が手を携えて幸せに生きるという社会の建設に賛同するからです。

 共産主義は、財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会をめざすことです。生産手段や販売方法、利益を平等に分配するなど、すべての人が平等な社会をめざすことです。それだけでなく、「共産主義社会」とは、国家権力が死滅し最後は政府も必要なくなるという人間が自主運営する社会であるともされています。

 この共産主義が提唱する人類社会の理想像については、J.M.ケインズも評価していました。しかし、現実の人間は、他人を押しのけてでも競争に勝とうとする欲得が深い性をもった自分中心の人間であり、他の人間を従属させることに何ら矛盾を感じない性をもっています。この人間の性を知るとき、共産主義という思想は社会改革の方法としては現実的なものでないといえるのです。ケインズの経済理論が発表された時、当時の人はこれで共産主義の脅威から逃れることができると安堵したのです。

 

(3)理想社会「共産主義」の前段階とされている社会主義こそが癌

 K.マルクスは、従来の理想社会、ユートピア思想を空想的社会主義として一括りにして一蹴し、自らが提案する理想主義「共産主義」はまったく新しい思想であるとして「科学的社会主義」として提案しました。最終的な目標はほとんど変わりないのですが、その過程―共産主義社会に至るステップと方法論―が科学的であるとしました。土地及び生産手段を社会所有にして能力に応じて人々に分配するとしたのです。しかし、この段階に欺瞞、問題があるのです。

社会主義では生産手段は社会の所有に移され、もはや搾取はないが、社会の構成員への生産物の分配は、『各人はその能力に応じて働き、各人はその働きに応じて受け取る』という原則に従い行われ、そのため社会的な不平等はまだ残る。社会の生産力がさらに発展し、人々の道徳水準が向上したとき『各人はその能力に応じて働き、各人はその必要に応じて受け取る』という共産主義の原則が実現され、そのときは権力の組織である国家がなくなるだろう。」([稲子恒夫]日本大百科全書(ニッポニカ)

とされています。この考えには、二つの致命的な問題があります。

 一つは、生産手段を社会の所有にして計画主義経済を採用すると、社会が窒息死するということ、もう一つは、道徳水準は自動的には向上しないということです。この結果は、現実の社会主義国の状態を見れば明らかです。経済は停滞し、道徳水準は向上するどころか粗野になっているではないですか。

 

(4)全面的に計画主義経済を採用すると、人々はやる気を失いロボット化する

 毛沢東が、1950年代大躍進時代、一切の私有を廃止して子供の教育も集団で、食事も共同食堂でという人民公社化(共同化)を進めた時、人々は自主性、創意工夫をなくして生産力は逆に低下して飢餓をもたらしました。

 また、共産主義社会の街は、北朝鮮平壌のように整然としたものになっていますが、どこか人の住む息遣いが感じられません。死の街なのです。モンゴルの首都ウランバートルでも同じような姿でしたが、一歩裏に入ってみれば、人々はささやかな菜園を囲って耕していたそうです。

 人々から自主的に創意工夫によって生活する自由を奪ってしまうと社会は死滅していきます。計画主義経済社会がつくる社会は、人々の生気が消え失せた死んだ社会になりかねないのです。

 為政者、計画立案者が把握できるものは限られています。この限られた情報に入りきらない側面を人々に解放しなければいけません。人々の自主的な活動、工夫を禁じてしまうと、社会から活気は消え失せて停滞し、人間はロボット化してしまうのです。官僚主義が冷たい生気を失った社会をもたらすのは、規制に縛られてしまうからです。

 こうした弊害を乗り越えるために、社会主義各国は経済の自由化という方策を採用するのですが、この方策は計画とは異なる価値観を生むため、計画者、為政者に刃を向ける勢力が生まれ緊張が高まることになっていきます。

 

(5)神の否定は人間の謳歌のように思われているが、人間社会の背後には神と悪魔が住む霊界がある。神の否定は、悪魔にひざまづくものである

 資本主義が内在した富の格差は、社会の中に多くの不満と憎しみをもたらしました。資本主義社会の中で、この不平等は残念ながらキリスト教の温かい愛の奉仕によって解決されることはほとんどありませんでした。そこに共産主義が登場したのです。共産主義は、このようなキリスト教徒の無慈悲な態度に怒りを覚えて誕生したのです。

 唯物弁証法によると、「精神とは弁証法的に運動する物質の機能であると考える。物質が本来的で根源的な存在であり、人間の意識は身体(例えば大脳、小脳、延髄など)の活動から生まれる」と説明します。観念の世界を否定する結果、心は物質に従属するものとなり、心の自由、自主性が軽んじられることになりました。環境を変えると心は自然に変わるのだという観念が支配するのです。それは、一面人間主義であり人間の力を誇示する考えです。

 ここに問題があります。心の自主性、魂の向上は環境を変えれば自動的に変わるものではありません。魂の改心、魂の向上は単純ではありません。そして、魂の改心ができなければ、地上天国は実現できません。

共産主義という形で平等な社会が表面上築かれたとしても、魂が変わっていない限りすぐに壊されることになる。人間一人一人の魂の改心ができるまで地上天国はできない。心の底から間違っていると気づき、正そうとすることが不可欠である。(大本教 出口日出麿)」

 共産主義が道徳を教え啓蒙しても限界があります。形としての道徳は教えても、義務としての強制的な実践にしかなりません。形だけの道徳は、悪魔も模倣することができるという言葉があります。そこには何の喜びも生まれません。道徳水準は愛によってしか高まりません。神の愛に触れて人々が改心した時、はじめて心の魂の水準が向上するのです。心が洗われるという経験を通して道徳水準は高まっていくのです。心を変えることができるのは、神のみです。神を否定した共産主義には、道徳水準の向上は不可能なことなのです。それどころか、行き詰まるので独善と強制に陥っていくことになるのです。

 

(6)正反合の弁証法からは、調和のとれた社会は生み出されない

 弁証法では、「全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)される」と説明します。

 この説明は正確ではありません。己の内に矛盾を含んでいるのではなく、時の経過とともに己の内に不完全さが生じるため、不完全さを補完するために新たな存在を必要とするのであって、このため相互に規定し相互依存的な関係が生まれるのです。

 正反合の論理は、不完全さを補完する存在を対立関係として捉えています。対立関係として捉えるということは、反発関係として捉えることであり、反発から生まれるものは憎しみであり、力による屈服ということになります。決して二者が和解して一つになる合体ではないのです。

 共産主義は、正反合を旗頭に憎しみのエネルギーをまとめ、一人一人の不満の力を大きな一つの不満の力にすることによって、体制改革を実現しようとしたのです。「万国の労働者よ、団結せよ(共産党宣言)」というスローガンと世界革命思想は、このことをよく表していると思います。

 憎しみの情から出発した弁証法的展開は、発展ではなく衰退に向かうことに気づく必要があります。そこには、マイナス(破滅)のエネルギーが働く形になります。共産主義各国において、時間とともに生産性が向上するどころか停滞し衰微していったのは当然の帰結でした。正反合という弁証法は、正反合ではなく正反滅であり、合に向かうには両者の和解というまったく別の手法が必要なのです。それは、歴史的に宗教が示してきたことです。「汝の敵を愛せよ」という聖書の言葉こそ真実を著わしているのです。