地上天国建設への道「神に侍り、隣人に寄り添い、生きとし生けるものすべてを慈しむ」

 

 この言葉は、ほとんどの宗教が教えていることと同じではないか、さして新しいことではないと思われることでしょう。そうです。それほど真新しい言葉ではありません。宗教が教えてきたことは本来の人間の在り方、生き方を教えてきたものなので、本質的には同じものです。世界の中では地域・民族によって宗教の教えが異なっているように見られていますが、それはその民族に適した教え方を取っているためだけであって、その教えの基本は変わりません。宗教は、神様がいること、神様と人間は親子の関係であること、人間はこの地上でお互いに助け合って天国をつくることを教えてきたのです。

 聖書のはじめに、神様は人間を創造した後彼らを祝福して「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ(創世記1-28)」と言われたと書かれています。この言葉の中にすべての神様の願いが凝縮されているのです。

 表題で述べた言葉は、神様が創世記の中で語られたみ言を地上に生きる人間がどのように実践するかという意味を込めたのです。言葉に込めた意味を少し説明していきたいと思います。

 

 (1) 神を崇め、神を信じではなく、なぜ神に侍るなのか?

 科学万能の時代に神様という話題自体がナンセンスだと思われている人も多いと思います。現代は、人間の意識の中に神様を忘れ棄て去り人間万能を誇示している時代です。神の力が働いているなどということを信じている人の方がごく少数派でしょう。ちょうど、ソドムやゴモラの街のように、神を忘れて快楽にふけった時代と同じように。この価値観が正しいものかどうかは今後の歴史が示すことでしょう。

 神を信じている人からみても、なぜ神に侍るのかは理解できないのではないでしょうか。神を信じることはわかるけれども、神の意図が分からない限り侍ることなどできないではないかと思われるでしょう。そうなのです。私たち人間は、神様から遠い存在になってしまったのです。神様の言葉が聞き取れないばかりか、神様の存在さえ確信を持てなくなってしまいました。

 神の言葉を聴き取れなくなった人間にとって、自分の思いがすべてになりました。お釈迦様は、「人間は自分中心である。だから他人に危害を与えてはいけない」と諭されたと言われています。「私は私自身のことを知らない。私が苦しんでいるのは、物がないからでもない。敵が攻めてきたからでもない。他の人がこう言ったからでもない。自分の無知、無明。自分のこころが明るくない。ものを知らないということに原因があるということに気づくということが大切です。」(出典:「お釈迦さまの願いと教え」 上山大峻先生のご法話より(平成20年6月20日) www.joukyouji.com/houwa0808.html

 わたしたちの心の中に、自分という価値観が占領したのです。そしてそれは、無明であるのです。

 聖書の人類始祖の堕落の場面に「イブが蛇の言葉を信じて善悪知るの木の実を食べた後、自分が裸であることがわかりいちじくの葉を腰に巻いた」という記述があります。私たちの意識の中に、別の意識・情が入り込んだのです。自分という情(自分と他人を分ける情)です。この情は、人間を仲違いさせていく自分優先の情だったのです。人類歴史が対立抗争の歴史になったのは、この情が入り込んだためなのです。それゆえ、神のもとに帰るためには、自己犠牲と自己否定という難しい道を通過することが不可欠になってしまったのです。自分優先という情は、とても根深いものです。この情を拭い去るために宗教人がどれほど悪戦苦闘しエネルギーを注いできたことでしょうか。

 自己犠牲、自己否定の宗教修行を通して自分優先という情を何とか乗り越えてくると、心の内に入り込んだ自分という誤った情が何かがわかるようになります。心の中に、善悪の葛藤が明確に芽生え、その情を克服すると、人間は神と部分的ですが一つになってきて神性を帯びるようになり、神の心情と摂理がわかるようになってきます(悟りと呼んでいる現象)。一種の超能力なようなものも生まれてきます。しかしそれは、自分勝手なものではないことも同時にわかるようになります。私たち人間は、自分勝手に生きているのではなく、神様の摂理の中で生きている、生かされていることに気づくのです。

 人間は、天宙の中心として創造されているので、神に近づくにつれて神の心情と摂理が理解できるようになるのです。ちょうど、子供が成長して親の気持ちがわかるようになるようになるのと同じです。

 何故、神に侍るのかと言えば、人間は自分勝手に自分の都合で生きているのではなく、神の摂理の中で生きているということを感じるようになるからです。しかも、神の摂理は刻々変わっていきます。昨日の摂理と今日の摂理とは違うことがままあるのです。また、人間の行いの結果次第で神の摂理は変わっていくのです。イエス様を十字架につけたその時からその後の2000年の人類歴史のアウトラインは決定されたようにです。

 私たちの身の回りの行動にも摂理は働いています。私が取る選択如何によって、私の未来は決まっていきます。私が取る選択次第で私の未来を神と悪魔(サタン)が奪い合っているのです。今日の私の判断は、明日の私と神の摂理に大きな影響を及ぼしているのです。そうした背後の事情の分からない人間は、ほとんどの場合神の願いとは反対の選択をしてしまいます。保身という選択は、失敗という言葉に置き換えてもいいかと思います。

 

 (2) なぜ、隣人を愛すではなく、寄り添うなのか?

 「汝の隣人を愛せよ」とは聖書に記されているイエス様の言葉です。家族、隣人と仲良くし互い助け合うことは宗教の教えの基本です。しかし、なかなか隣人とひとつになれないのが現実の姿ではないでしょうか。

 その最も身近な隣人が家族です。隣人に寄り添うことの原点である家族は、互いに寄り添う愛の基地でなくてはいけないのです。家族の中にどんな問題があろうとも、それを避けて通ってはいけません。家族の破綻は、子孫により大きな愛の問題を先送りするのです。

 人類歴史の出発が家族の間の対立、分裂から始まっているということを知らないといけません。世界中の民族の神話にはほとんどすべて兄弟殺しが記述されているということは、家族の分裂が混乱と人間の不幸の原因なのだということです。現在、多くの家族で、家庭内に問題を抱えています。わけもわからず突然、重い闇が押し寄せてきて家族を苦しめているようです。家族そのものが歴史の結実体で、過去にあった問題が噴出しているのです。それは、一人の問題ではありません。家族間の心の問題が表出しているのです。この問題は、家族が一つにまとまろうと互いに寄り添うことによってしか解決できないのです。

 私たち家族を神様と悪魔(サタン)は見つめています。悪魔(サタン)は、いつもこういいます。「所詮、人間は自分中心で、互いに協力して一つになることはできない」と主張してくるのです。人類歴史を振り返ると、悪魔(サタン)の言い分に返す言葉がありません。何と悲しい人間なのでしょうか。同時にそれを見つめている神様の悲しみが伝わってきます。本当にどうしようもありません。

 信仰を深め宗教的に修行を積んだとしても、それを克服することは至難の業です。聖パウロが、「私は内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう(ローマ人への手紙7-22~23)」。聖パウロの嘆きは、善を求める宗教人すべての嘆きです。

 この人間の苦しみに神様が摂理されたのが、メシアを送るという摂理です。人類歴史の終末の時、私の肢体の中にある悪魔(サタン)の律法を拭い去って神の律法に置き換えるという役事を準備されたのです。それが、黙示録にある子羊の婚姻なのです。家族の分裂の原点の修復、それがこの役事なのです。

 では次に、汝の隣人を愛せよではなく、なぜ隣人に寄り添うようにという言葉を選んだのかを語ってみましょう。汝の隣人を愛せよという教えは、私たち一人一人に愛の実践の行動指針を教えています。多くの人が、宗教が教えている指針に従って、隣人を愛することを実践されています。そう実践することによって、かけがえのない兄弟愛に結ばれた隣人関係を築いておられると思います。しかし、隣人を愛するという行動は、ともすれば押し売り的で他人の不興を買うこともあります。また、隣人に気遣い慈しんでも、隣人は期待に副う反応を示してくれるとは限りません。私が考えている隣人への愛と隣人が受け取る愛の姿には隔たりがあることが多いのです。

 お釈迦様の逸話の中に次のようなお話があります。

王様がお妃に「この国は、豊に栄え民衆も穏やかに過ごし、何の不足もないが、そなたにとって一番いとおしいものは何か?」と、聞かれました。お妃は「王様です」とは答えずに、「自分が一番いとおしいです。」と答えました。また、逆にお妃が王様に同じように質問されると王様も「自分が一番いとおしい」と答えられたということです。そこで、この答は正しいのかをお釈迦さまに尋ねに行かれたところ、お釈迦様は「その通り、それで間違いない。」と答えられ、「だからこそ他の人もまた、自分が一番かわいいと思っていることに気づかねばならない。」

(コーサラ国のハシノク王とお妃のマツリカの話)

出典:「お釈迦さまの願いと教え」 上山大峻先生のご法話より(平成20年6月20日) www.joukyouji.com/houwa0808.html

 誰しも自分が一番かわいいと思っているという現実を直視する必要があるのです。このことに気づかれたお釈迦様は、本当に自分がかわいいのであったら、自分を大切にすると同時に、他人も大切にしていくということに気づかなければならないということにも気がつかれたのです。これが、仏教の原点です。自分が一番かわいいと思っている人間同士が一つになるということは、お互いを尊重することなくして成立しません。だから一方的に愛を施すのではなく、その人に寄り添うことが重要であり原点であるのです。

 人類の歴史は、反発と反逆の歴史でした。私と隣人との関係は、今を生きている二者の間の関係だけでしたらそれほど難しい問題を抱えることはないでしょう。しかし、私もそして隣人も長い歴史の背景がありその結実体として今を生きています。それぞれ歴史の中で起こした深い事情を抱えています。一朝一夕に解消するものではありません。兄弟愛のもとに唯一無二の関係を築いていくことが目標ですが、間に横たわっている問題はいつ解消されるのか定かではない複雑なものを含んでいることも多いのです。だからこそ、寄り添うという姿勢が大事なのです。それは、多くの場合我慢強く耐え忍ぶということを必要とするのですが。お互いに寄り添う中において信頼関係が生まれ、兄弟愛(利他の精神)に結ばれた人類一家族を形成していくことが可能となるのです。そこにあるのは、無私の愛の姿なのです。

 イエス様が「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りにせよ(マタイ7-12)」と語られ、「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれる(マタイ7-1~2)」であろうと語れていますが、この言葉の中に寄り添うということがいかに重要な姿勢であるかが示されています。

 

 (3) 生きとし生けるものすべてを慈しむとはどういうことなのか?

 仏教に殺生禁断という言葉があります。むやみに生き物を殺すことを戒めることです。

お釈迦様は、「すべてのものは、暴力におびえる。すべての生き物にとって、いのちはいとおしい。おのが身に引き比べて、殺してはならない。殺さしめてはならない。(ダンマパダ 第10章)」と言われています。私たちの身の回りの生きとし生けるものはすべて生命をもっています。それだけでなく、大地までもが生命を有していてある心をもっています。そうであるからこそ、自らに危害を加えようとする者に対しては恐怖を覚え身構えます。しかし人間は、生きとし生けるものの叫びの声が聞こえないがゆえに、人間本位に生きとし生けるもの(万物)を殺したり利用したりしています。生きとし生けるものの心を感じ取ることができないのです。

 私たち人間は、この地上生活においてその物的基盤はすべて生きとし生けるもの(大地も含めて)万物に依拠しています。万物の援助なしには人間の地上生活は成り立ちません。そうであるにもかかわらず、人間は謙虚な姿勢を忘れて、万物は勝手に利用できるものであると考えているところに大きな問題が潜んでいます。

 聖書の中に「万物は本然の人間があらわれるのを待ち望んでいる」という記述があります。聖パウロは、次のように述べています。「被造物は、実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、・・・(中略)実に被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、私たちは知っている(ローマ人への手紙8-19~22)」

 人間とこの地上に生きる生きとし生けるものすべてとの間には大きな断絶があるのです。万物の心のわかる人間が現れた時、この地上は人間と生きとし生けるものが一つになる調和したすばらしい世界が展開されることになると考えられます。

 私たちは、心から愛して万物と接すると、万物がささやきかけてくるという経験をすることがあります。こうすればいいのだよ、こうなのだよとヒントを与えてくれるのです。手塩にかけて家畜を育成し愛情をもって作物を育てることによってすばらしい実を結ぶのも、人間と家畜・作物が共感し合うことによってプラスαの成果がもたらされるのです。

 このようなことは、科学の世界でもよく言われることです。誠心誠意研究に没頭していると、ひらめき、ヒントが突然襲ってきて新しい発見発明につながるといわれます。

 生きとし生けるものはすべて、その存在に意義があり人間に対して価値を有しています。その秘められた価値を本当に引き出すことができるのは、もの(万物)に愛情を注いで一体となった人間なのです。

 私たちが生存している大地も同じです。現代の科学では、大地は人間とは関係なく地球の鼓動として活動しているとしか考えられていません。しかし、地球の鼓動といわれる大地は、私たちの心とも連動しています。地球は、私たち人間の心の反映なのです。現在地球が危機に瀕しているという姿の内側には、私たち人間の内面の心が危機に瀕しているということでもあるのです。(地球意識計画-物理世界と地球的な意識とが相互作用を起こしているという可能性を研究している-が進められている。)アニメや物語の中で、天変地異を大地の怒りであると記述している場面がありますが、天変地異は大地がバランスを崩した結果、そのバランスを戻そうとする行為であるといえましょう。私たち現代人は、科学的知見を獲得してそれに頼ってきたがために、素朴な感性を失ってしまっているようなのです。

 もう一度、私たちの科学的知見の背後にいる神様の存在に気づく必要があります。そして、神と一つになり、隣人と一つになり、生きとし生けるものと一つになる努力をすることが大切です。それができた時、そこに地上天国は生まれるのです。

日本民族の危機《神は私たちの一挙手一投足を見つめておられる》という意識と感覚の喪失

(1)先日のサイン盗み疑惑事件
 先日の選抜高校野球全国大会(2019年)で、“サイン盗み疑惑”が問題となった。第6日の星稜(石川)―習志野(千葉)戦で星稜・林監督が習志野の二塁走者がサインを盗んでいたと試合後に指摘し、大会本部や審判委員が緊急会見するなど大騒動に発展した。

 フェアプレーで闘うスポーツの世界にもルール逸脱の蔓延という由々しき事態が進行しているようだ。関係者によると、以前からサイン盗み疑惑がなかなかなくならないらしい。記者会見を行った竹中事務局長は、「やってはいけないということは大会規則に書いてあること。なのにフェアプレーの本質をわかっていないと思われる行為が見受けられる。精神を作っていかないといけないし、口を酸っぱくして言い続けるしかない。前時代的な野球はやめましょう、ということですね」と、困惑したコメントを出された。

 経済活動においても、企業のコンプライアンスに問題があることは多々報じられてきた。見つからなければいいという感覚しかないのであろうか。いつから日本人は、このような感覚しか持たなくなってしまったのであろうか。神が私たちを見つめているということを気にしないのだろうか。それとも、神は人間がつくった架空のものと思っているのであろうか。

 困り切った時だけ神頼みをするという情けない姿に対しては、神はどうすることもできない。ここに、日本民族の本当の危機がある。


(2)身近に神を感じてきた日本民族の伝統
 古来、日本人は身近に神を感じて神を崇敬してきた。私たちの生活の周りには、常に神が存在した。かまどの神であり、山の神であり、田の神であった。神は身近な存在であった。その霊力が強い所には、祠をつくり神を祀ってきた。産土神を祀る日本古来の信仰では、そこら中に神の気配(正確には霊界の姿)を感じていた。日本は神々の国であり、人々は身近に神を感じてきたのである。親は、子供に「お天道様が見ているから恥じない行いをしなさい」と諭したものである。

 私たち日本人は、今も正月には神社に初詣をして静かに厳かに1年の始まりを祝う。静かに正月を祝う民族はほかにはいない。その風習は、神の前に心を正して神と共に新しい年を迎えるという日本の伝統である。正月には、年神あるいは歳徳神と呼ばれるご先祖様を各自の家に迎え入れてこれを祀る。ご先祖様は各自の家に戻って来られ、家族がみんなそろって年神と一緒に食事をする。大晦日の夕方に年神に神饌を供えて、翌朝その神饌をおろしてみんなで食べる。そのごった煮が雑煮である。

 また、日本人は言葉にならない雰囲気という会話によって無言の会話をしている。それは、他の国の人には実にわかりにくいものであるが、会話は言葉だけではないのである。それは時としてはっきりしないものではあるが、以心伝心としてその場の空気として会話が行われている。

 日本語の言葉も特殊である。日本語は「言霊」とも言われてきた。日本の言葉には霊力が宿っていると言われてきた。確かに、日本語はほかの言語と異なる面がある。一音一語で、音の響きによって意味を伝えるという特殊な一面がある。アルファベットが表音文字であり、漢字が表意文字であるならば、日本語は表霊言語と呼んでもいいかもしれない。

 そのような日本人であるからこそ、村の鎮守様を中心に村社会を形成できたと言えるだろう。しかし、いつしか日本人は神を感じなくなってしまった。感性が鈍くなってしまったようである。

 

(3)神を感じなくなった人間は、道徳と規則に頼ることになる
 神を感じ神に見つめられているという感覚を失うと、目に見える表面だけを取り繕う社会となる。私の心の奥底は誰にもわからないという意識は、他の人間にわからなければ何をしてもかまわないという意識を生む。社会秩序を保つためには、人間関係を正しく保つために表に現れる道徳を浸透させなければいけないという意識をもたらす。神が見つめておられるという意識のない世界では、道徳と規則だけが社会秩序を保つ拠り所となる。それは、一見必要不可欠の正しい姿のように思われる。

 しかし、神を感じない世界において、道徳を教え規則を作るということは、言葉によって秩序を形成するものとなるため、堅苦しく個人の自由と行動を縛るものとなっていく。道徳の背後に神が見つめているという意識がなければ、その場を支配する空気は安らいだものとならない。しかも規則は、時と共にエスカレートして細かくなっていく。心の通わないギクシャクとしたルールが支配する社会では、安らいだ情がそこに生まれず息苦しくなる。それはやがて、神なき人間が人間を支配する硬直した社会となる。神の愛と心情が欠落した社会は、平安と安らぎが感じられない冷たい社会を創り出していくのである。

 そして、最終的には神なき社会の秩序は全体主義に転化していく。共産主義や計画社会、近年懸念されているAIによるロボット奴隷社会となっていく。

 

(4)自由主義経済は、神に見つめられているということを自明のこととしてフェアプレーをするという精神が一般化して初めて成立したということを忘れてはいけない

 倫理学者であったアダム・スミスが経済活動について執筆した目的は、すべての人に最低限の富の確保をもたらすことなくしてこの世界において幸福を達成することができないという熟慮に基づいていた。一人一人が貧困を避けることが出来るか否かは、節約や勤勉など個人の努力だけでは難しい。社会全体の富の拡大なくして人間の幸福はもたらされないというのが、アダム・スミスが見出した結論であった。

 しかし、経済活動には多くの身勝手な活動が入り混じっている。富と地位に対する野心の競争となるため、それは社会の繁栄を推し進める一方、社会の秩序を乱す危険の大きいものである。  

 スミスはこの危険を乗り越えるためには、「競争はフェアプレーのルールに則って行われる必要がある」と主張した。そしてもし、フェアプレーの侵犯がなされるならば、(胸中の)観察者たちが許さないと述べた。私の心の中にある良心とそれを背後から神が見つめているという意識と感覚が経済活動を前進させる前提であることを教えたのだ。

 スミスが容認したのは、正義感によって制御された野心だけである。「見えざる手」が十分に機能するためには、放任されるのではなく「賢明さ」によって制御されなければならない。制御されないならば、人類と文明は当然ながら解体に向かうのである。

 神様は、いつも私たち人間を見つめておられ、神様の前に正しく行動する人には手を差し伸べ、背を向ける人にはため息をついておられることを忘れてはいけない。全ての力と救いは神様からきているのであり、神様なくして我々の平和と幸福はないのである。

 日本資本主義の父と言われている渋沢栄一も、「商人にとっては信用こそが根本だ」と主張し、誠実さが経済活動に不可欠であることを強調した。不正直に商売をしてももうけることはできるかもしれないが、そのような利益は決して永続するものではない。誠実に商売をしてこそ、安定的・持続的な利益を獲得することができると述べた。「不誠実に振る舞うべからず」「自己の利益を第一には図るべからず」。この言葉は、アダム・スミスと同様、心の中の良心とその背後に神様が見つめているという感覚からもたらされたものである。
 こうした精神が根付いていたからこそ、日本は近代化に成功したのである。


(5)この地上世界を築くのは、人間の責任である
 地上世界は、この地上で生活する人間が作り出すものである。無形の神は、人間に多くの知恵を与えることはできても、具体的に地上を作っていくのは人間である。神様は無形の存在であるので、具体的には直接手を下すことができない。この地上は、実際に住む人間によって作られる。住みやすくするのも、住みにくくするのも、人間である。その意味で、現在の地上の姿は人間の心の姿の反映である。地球が危機に瀕している現実は、人間の心が危機に瀕していることの反映でもあるといえよう。

 アダム・スミスも、人間はこの世界に責任をもつ必要があるということを述べていた。「道徳的存在は、責任ある存在である。責任ある存在は、そのことばが表現するように自己の諸行為についての説明を、だれか他人に与えなければならない存在であり、したがってそれらの行為をこの他人の好みに応じて規制しなければならない存在である。人間は、神と彼の被造物に対して責任を有する(『道徳感情論』3部2編)。」

古き天地が滅びて新しき天地が始まる。私たちは、神様が遣わされた弥勒(再臨主)につながらないと救われない

 私はこのブログを通して、宗教を多角的に取り上げてきました。ブログを読まれた方は50万近くになります。お読みになられた皆様には心から感謝いたします。

 私は、このブログを宗教の知識、必要性、心得を伝えるためだけに書き続けたのではありません。もちろん宗教を誤解している人には正しい理解をしていただきたいと願いました。それだけではありません。もっと本質的なことがあります。

 人類が歴史をかけて待ち望んだイエスの再臨(再臨主と呼ぶ。東洋では弥勒の降臨として待ち望まれた)がこの地上で実際に起こり、再臨主は救いの摂理を成し終えられて天に帰られたこと、その恵みが今地上にあることをお伝えしたいのです。再臨主の人生は、あまりにも苦難に満ちていました。イエス・キリストの十字架の人生のように私たちの至たらなさをすべて抱えて、この世の主サタン(悪魔)と壮絶な戦いをして来られました。そしてサタン(悪魔)との壮絶な闘い(愛と忍耐の闘い)に勝利されて私たちに救いの道をもたらして下さいました。このあまりにも大きい恵みに対して感謝の言葉しかありません。私たちは今、再臨主につながることによって、この世の主サタン(悪魔)から逃れて神のもとに戻ることができるようになったのです。わかりやすくいえば、この地上に地上天国を築く道筋が開かれたのです。

 今私たちは、多くの苦悩を抱えています。精神疾患、家庭の不和、孤独、貧困問題、環境問題、国家対立など。そのほとんどには解決の術がないように感じています。まして私たちが抱えている心の闇など自分で変えることなどできません。だからこそ苦しみ悩み絶望に襲われます。私たちは、自分が抱えている苦悩を自力では解決できないと気づいています。それと同時に、私たちは心の奥底では私を生かしている何らかの存在(神様)がいるのではないか、私たちは神様を必要とし神様のもとに帰ることが本当ではないか、とうすうす感じていませんか。

 私がブログを通して伝えたかったことは、自らの苦しみを救うのは神様だけであり、神様が遣わされた再臨主であること、私たちは再臨主につながらないと救われないということを伝えるためでありました。新約聖書の「使徒行伝」16章31節には、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」とあります。これは本当です。自分の思いを捨てて主イエスを信じ侍ることによって、主イエスの霊(神の愛の情)が私の心の中に入ってくるのです。自らの思い(罪深い性)を悔い改め、主イエスに委ねることによってぎすぎすした心が消え平安な心へと心が洗われていくのです。

 悲しいことに、私が今まで再臨主と出会わないと救われないのだと説いても、誰一人そのことに耳を貸す人もいなければ、再臨主の救いを受けたいと言われた方もありませんでした。自らの心の闇、苦しみから救われることを願っておられないのでしょうか。そんなことはうそだ、あり得ない、再臨主は必要ないと感じておられるならば、自分で行ってみてください。よい結果が現れることを祈っています。

 現代が終末であることに異論を唱える人はいないでしょう。行くべき道がわからない今の状況は、このようになるべく予定されていました。終末とは、神とこの地上の支配権を有しているサタン(悪魔)が激突する時なのです。個人から始まり、家族、民族国家、人類全体の善と悪が激突する時なのです。そしてこの世の支配者であるサタン(悪魔)のもとにある人類歴史が終わりを告げ、新しい時代が始まることを意味しています。古き天地が滅び新しき天地が始まるという聖句は、こうしたことを語っているのです。

 それゆえ、終末にはすべてが混乱の局に達します。天変地異が起こり、人々が泣き叫び、もだえ苦しみ、多くの人が生命をなくすといわれるのも、以上のような理由によります。すべての人が混乱の中で、善と悪に分けられていくのです。イエス・キリストが「わたしは平和をこの地上にもたらすために来たのではない。むしろ分裂である」と語られているのは、すべてが善と悪に分けられるという意味です。

 イエス・キリストの時も終末でした。イエス・キリストは、ただ人類を救いに来られたのではありません。人々は、イエス・キリストの前で知らないうちに善と悪に分けられるので、イエス・キリストは審判主でもあったのです。

 イエスは、「わたしは火を地上に投ずるために来たのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなに苦しい思いをすることであろう。あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今から後は、一家の内で五人が相分かれて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう(ルカ第12章49~53)」と言われたことを見てもわかります。

 「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すぐにきている。そして聞く人は生きるであろう。(ヨハネ第5章24~25)」と言われたのです。

 神の国はいつ来るのかとパリサイ人が尋ねた時には、次のような言葉を残されました。

「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起こった。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。(ルカ第17章26~33)」と言われ、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」と言われたのでした。

 ゴルゴダの丘に向かうイエス・キリストは、悲しみ嘆く女たちにこうも言われました。

エルサレムの娘たちよ、私のために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日がいまに来る。そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。(ルカ書第23章28~30)」と語られました。

 神の子イエス・キリストを十字架に架けたユダヤ民族は、神の身元からサタン(悪魔)に引き渡されることが決まったのです。イエスの死後40年後の西暦70年、エルサレムローマ帝国との間に起こったユダヤ戦争において陥落します。エルサレム神殿は破壊され、一部の生き残ったユダヤ人もマサダの砦で玉砕します。それ以降、1948年のイスラエル建国に至るまで2000年間、ユダヤ民族は国を失い放浪の民として迫害を受け、嘆き悲しむ受難の歴史を歩まざるをえなくなったのです。偶然で歴史は動いているのではありません。

 再臨主(東洋では、弥勒の降臨として待望されてきた)は、この世を創造された神と完全に一つになられたお方なのです。信じられないかもしれませんが、現代歴史のものすごい荒波の背後で神とサタンの摂理を賭けた闘いがなされてきました。再臨主につながるということは、神の霊(心情・愛)が私たちの心の中に注がれてくるという救いの恵沢を受けることができるのです。反対に、再臨主につながらないということは、サタン(悪魔)から逃れられないという宿命を受け継ぎ子々孫々に受け渡すことになるのです。2000年前に起きたように、一人一人が山羊と羊に分けられていくのです。

 この話は、キリスト教だけの話であって、キリスト教でないものには関係がないだと思われている方も多いかもしれません。しかし、日本の宗教も弥勒の世が来る前にはほぼ似たことが起こるのだと言っています。「神さまは、“得心さして改心さす”と仰っている。“悪でこの世が続いていくかどうかということをみせてあげる”と仰っている。“渡るだけの橋は渡ってしまわねばミロクの世にならぬ”と仰っている。どうもそうらしい。せめて世界中の半分の人間が、なるほどこれは間違っているということを心の底から気づいてこなくてはダメだ。(大本教 出口日出麿)」。

 終末の時には多くの艱難が起こり、人々は神につながる人と悪の世界にとどまる人の善悪に分けられる審判があるのです。夜明け前が一番暗いといいますが、現在は弥勒の世が来る前の夜明け前だといっていいでしょう。私たちは今、改心して神様のもとに帰ることが一番大切なことなのです。

 審判は突如来ます。聖書の黙示録は、こう記しています。『ああ、わざわいだ、この大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた。(ヨハネの黙示録第18章―10)』審判は、核戦争か天変地異である可能性が高いでしょう。

 皆様には、神様の身元に帰る道を探し求めていただきたいと願います。そして皆様が信じている宗教は、神道も仏教もキリスト教も大本は一つの同じ神様から発している教えであることに気づいていただきたいのです。教えは、その時代その民族に合うように工夫されているだけで、すべては一つの神様につながっています。神様を探し求めましょう。神様を求める人、弥勒を求める人、再臨主を求める人は幸いなるかな。その人のもとには神の霊がとどまり神の栄光に与かれることになるでしょう。

共産主義では、何故地上天国は実現できないのか?

(1)K.マルクスは、イエズス会パラグアイ理想郷建設を知って共産主義に確信をもった

 K.マルクス共産主義という理想社会を確信をもって提唱したのには、ある一つの歴史事実を発見したことが大きいのです。イエズス会パラグアイ理想郷建設です。それまでのK.マルクスは、ユートピア思想に懐疑的であり世人の世迷言にすぎないと思っていました。

 イエズス会によるパラグアイ理想郷建設とは次のようなものです。

 17世紀、イエズス会は、それまで森林で遊牧生活を行なってきたグアラニー族に対し、トーマス・モアが描いた「ユートピア」の生活を実現しようと、宗教的な教えだけでなく、政治、文化、社会 教育(読み書き)だけでなく、農業、畜産、工芸品の製造などについても教える理想社会建設を行いました。イエズス会の伝道所は、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイなどに30箇所ほどで、17世紀から18世紀にかけて150年にわたって繁栄しました。財産を私有せず(貴金属、特に金は軽蔑された)、必要なものがあるときには共同の倉庫のものを使う。人々は勤労の義務を有し、日頃は農業にいそしみ(労働時間は6時間)、空いた時間に芸術や科学研究をおこなっていました。伝道所は、農業や工芸で大きな利益を上げ、住民はみな美しい清潔な衣装を着け、集落は、住民が平等に食べ物や財産を分け合い、貧富の差がない理想郷だったといいます。一帯は「パラグアイイエズス会国家」と呼ばれていました。

参考:拙者ブログ:地球村創造ブログ2018/4/15「トーマス・モアユートピア』のモデルとして建設された『パラグアイの理想郷』」

 ユートピアは実現できるのだ。イエズス会が示したパラグアイの実験は、地上天国建設を勇気づけるものであったのです。

 

(2)J.M.ケインズも、共産主義の理想主義は評価した

 多くの人が共産主義に惹かれるのは、人類はみな平等であり、すべての人が手を携えて幸せに生きるという社会の建設に賛同するからです。

 共産主義は、財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会をめざすことです。生産手段や販売方法、利益を平等に分配するなど、すべての人が平等な社会をめざすことです。それだけでなく、「共産主義社会」とは、国家権力が死滅し最後は政府も必要なくなるという人間が自主運営する社会であるともされています。

 この共産主義が提唱する人類社会の理想像については、J.M.ケインズも評価していました。しかし、現実の人間は、他人を押しのけてでも競争に勝とうとする欲得が深い性をもった自分中心の人間であり、他の人間を従属させることに何ら矛盾を感じない性をもっています。この人間の性を知るとき、共産主義という思想は社会改革の方法としては現実的なものでないといえるのです。ケインズの経済理論が発表された時、当時の人はこれで共産主義の脅威から逃れることができると安堵したのです。

 

(3)理想社会「共産主義」の前段階とされている社会主義こそが癌

 K.マルクスは、従来の理想社会、ユートピア思想を空想的社会主義として一括りにして一蹴し、自らが提案する理想主義「共産主義」はまったく新しい思想であるとして「科学的社会主義」として提案しました。最終的な目標はほとんど変わりないのですが、その過程―共産主義社会に至るステップと方法論―が科学的であるとしました。土地及び生産手段を社会所有にして能力に応じて人々に分配するとしたのです。しかし、この段階に欺瞞、問題があるのです。

社会主義では生産手段は社会の所有に移され、もはや搾取はないが、社会の構成員への生産物の分配は、『各人はその能力に応じて働き、各人はその働きに応じて受け取る』という原則に従い行われ、そのため社会的な不平等はまだ残る。社会の生産力がさらに発展し、人々の道徳水準が向上したとき『各人はその能力に応じて働き、各人はその必要に応じて受け取る』という共産主義の原則が実現され、そのときは権力の組織である国家がなくなるだろう。」([稲子恒夫]日本大百科全書(ニッポニカ)

とされています。この考えには、二つの致命的な問題があります。

 一つは、生産手段を社会の所有にして計画主義経済を採用すると、社会が窒息死するということ、もう一つは、道徳水準は自動的には向上しないということです。この結果は、現実の社会主義国の状態を見れば明らかです。経済は停滞し、道徳水準は向上するどころか粗野になっているではないですか。

 

(4)全面的に計画主義経済を採用すると、人々はやる気を失いロボット化する

 毛沢東が、1950年代大躍進時代、一切の私有を廃止して子供の教育も集団で、食事も共同食堂でという人民公社化(共同化)を進めた時、人々は自主性、創意工夫をなくして生産力は逆に低下して飢餓をもたらしました。

 また、共産主義社会の街は、北朝鮮平壌のように整然としたものになっていますが、どこか人の住む息遣いが感じられません。死の街なのです。モンゴルの首都ウランバートルでも同じような姿でしたが、一歩裏に入ってみれば、人々はささやかな菜園を囲って耕していたそうです。

 人々から自主的に創意工夫によって生活する自由を奪ってしまうと社会は死滅していきます。計画主義経済社会がつくる社会は、人々の生気が消え失せた死んだ社会になりかねないのです。

 為政者、計画立案者が把握できるものは限られています。この限られた情報に入りきらない側面を人々に解放しなければいけません。人々の自主的な活動、工夫を禁じてしまうと、社会から活気は消え失せて停滞し、人間はロボット化してしまうのです。官僚主義が冷たい生気を失った社会をもたらすのは、規制に縛られてしまうからです。

 こうした弊害を乗り越えるために、社会主義各国は経済の自由化という方策を採用するのですが、この方策は計画とは異なる価値観を生むため、計画者、為政者に刃を向ける勢力が生まれ緊張が高まることになっていきます。

 

(5)神の否定は人間の謳歌のように思われているが、人間社会の背後には神と悪魔が住む霊界がある。神の否定は、悪魔にひざまづくものである

 資本主義が内在した富の格差は、社会の中に多くの不満と憎しみをもたらしました。資本主義社会の中で、この不平等は残念ながらキリスト教の温かい愛の奉仕によって解決されることはほとんどありませんでした。そこに共産主義が登場したのです。共産主義は、このようなキリスト教徒の無慈悲な態度に怒りを覚えて誕生したのです。

 唯物弁証法によると、「精神とは弁証法的に運動する物質の機能であると考える。物質が本来的で根源的な存在であり、人間の意識は身体(例えば大脳、小脳、延髄など)の活動から生まれる」と説明します。観念の世界を否定する結果、心は物質に従属するものとなり、心の自由、自主性が軽んじられることになりました。環境を変えると心は自然に変わるのだという観念が支配するのです。それは、一面人間主義であり人間の力を誇示する考えです。

 ここに問題があります。心の自主性、魂の向上は環境を変えれば自動的に変わるものではありません。魂の改心、魂の向上は単純ではありません。そして、魂の改心ができなければ、地上天国は実現できません。

共産主義という形で平等な社会が表面上築かれたとしても、魂が変わっていない限りすぐに壊されることになる。人間一人一人の魂の改心ができるまで地上天国はできない。心の底から間違っていると気づき、正そうとすることが不可欠である。(大本教 出口日出麿)」

 共産主義が道徳を教え啓蒙しても限界があります。形としての道徳は教えても、義務としての強制的な実践にしかなりません。形だけの道徳は、悪魔も模倣することができるという言葉があります。そこには何の喜びも生まれません。道徳水準は愛によってしか高まりません。神の愛に触れて人々が改心した時、はじめて心の魂の水準が向上するのです。心が洗われるという経験を通して道徳水準は高まっていくのです。心を変えることができるのは、神のみです。神を否定した共産主義には、道徳水準の向上は不可能なことなのです。それどころか、行き詰まるので独善と強制に陥っていくことになるのです。

 

(6)正反合の弁証法からは、調和のとれた社会は生み出されない

 弁証法では、「全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)される」と説明します。

 この説明は正確ではありません。己の内に矛盾を含んでいるのではなく、時の経過とともに己の内に不完全さが生じるため、不完全さを補完するために新たな存在を必要とするのであって、このため相互に規定し相互依存的な関係が生まれるのです。

 正反合の論理は、不完全さを補完する存在を対立関係として捉えています。対立関係として捉えるということは、反発関係として捉えることであり、反発から生まれるものは憎しみであり、力による屈服ということになります。決して二者が和解して一つになる合体ではないのです。

 共産主義は、正反合を旗頭に憎しみのエネルギーをまとめ、一人一人の不満の力を大きな一つの不満の力にすることによって、体制改革を実現しようとしたのです。「万国の労働者よ、団結せよ(共産党宣言)」というスローガンと世界革命思想は、このことをよく表していると思います。

 憎しみの情から出発した弁証法的展開は、発展ではなく衰退に向かうことに気づく必要があります。そこには、マイナス(破滅)のエネルギーが働く形になります。共産主義各国において、時間とともに生産性が向上するどころか停滞し衰微していったのは当然の帰結でした。正反合という弁証法は、正反合ではなく正反滅であり、合に向かうには両者の和解というまったく別の手法が必要なのです。それは、歴史的に宗教が示してきたことです。「汝の敵を愛せよ」という聖書の言葉こそ真実を著わしているのです。

日本民族は、この世に弥勒浄土を造ることを目指してきた

 日本民族の意識の根底には、弱肉強食に陥り殺伐とした社会を招きかねない自由競争の資本主義には賛同しきれない嫌悪感があり、神仏を否定した共産主義には専横独裁に陥りかねないという違和感があるようだ。どちらも「良し」とできないもののようである。

 2014年米国のピュー・リサーチセンターが行った自由市場についての世論調査によると、主要先進国のうち、日本だけが自由市場を支持する人が50%を切っている。日本は自由市場を支持するという人がわずかに47%で、自由市場を否定する人の方が上回っています。主要国の中で自由市場を支持している人の割合がもっとも高かったのはドイツで、73%の人が自由市場を支持。ついで米国が70%、英国が65%という結果でありました(ベトナム95%、韓国78%、ギリシャ47%、スペイン45%)。
http://thepage.jp/detail/20141023-00000012-wordleaf

 歴史を振り返ると、日本の社会は共に生きて助け合う共同体であったことがわかります。お互いが助け合って生きていく相互扶助社会だったのです。日本民族は、「共存共栄共生」の持続性ある平和な社会を築いてきたのであり、その社会を築くことを理想としてきたのです。

 古代縄文日本人は、紀元前後大陸の動乱から逃れて弥生人と呼ぶ人々が移住してきたとき、「共に生きる」という共存融合の道を選びました。また、外国からの侵略の危険があると、日本は交易を閉ざして自国の文化と精神を守ってきました。

 しかし、江戸時代末期にはそうした選択は不可能でした。それゆえ、明治維新の時の海外への開国は一大事であったのです。日本民族が歴史的に培った文化と精神が根絶やしにされかねない国難だったのです。混乱が必至であったがゆえに、多くの神の啓示が地上に降ろされて、西洋の思想の中には容認しがたいものが含まれているから気を付けなければいけないと警告したのです。明治維新期、大正期に多くの新興宗教が誕生した背景には、こうした歴史事情があったことを理解することが大切です。

 日本という国家は、聖徳太子の17条の憲法、594年の大化の改新天皇号が明記された689年飛鳥浄御原令を経て701年大宝律令(日本という国号が初めて制定されたという説もある)によって中国の王土王民思想にならった国家制度が成立します。班田収授の法によって国家の根幹となる国民への田の支給を定めましたが、前提となる土地の原資は時の豪族が提供(奪ったのではない)したようです。支配、被支配という観念ではなく、相互扶助、共存共生という感性がその時からあったようです。

 このような民族意識は、民族の心を育む信仰として現れて来ました。

 (1)宗派を超えて信仰されてきた弥勒信仰

 弥勒信仰は、日本人にとって根幹にもあたる共通の信仰です。推古天皇の時伝来し、奈良・平安時代、戦国時代に特に栄えました。奈良中宮寺太秦広隆寺弥勒菩薩像を思い浮かべる人が多いのではと思います。弥勒信仰は仏教だけにとどまらず、各地に土着の信仰として広まりました。各地に残る地蔵信仰は、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの間衆生を救う菩薩として信仰を集めてきました。生前弥勒の化身とされていたという七福神の布袋(ほてい)様も、多くの人々に信仰されてきました。富士講の中興の祖 伊藤伊兵衛は、「食行身禄」と称し貧しい庶民の救済に尽力しました。

 では、弥勒信仰とはどのような信仰なのでしょうか。
兜率天(とそつてん)に住んでおられた釈迦牟尼仏は、われわれ衆生を救わんとして、兜率天から地上に降りて来られて、インドの釈迦国の浄飯王の妃である摩耶夫人の胎内に入られ、シッダ-ルタ太子となって誕生されました。釈迦牟尼仏は、兜率天を去る直前、弥勒菩薩を未来仏にノミネート〈指名)されました。自分はこれから人間界に行って仏陀となり、衆生を教化するが、自分のあとは、弥勒菩薩よ、そなたが人間界に行って仏陀となってほしい・・・・。その依頼によって、弥勒菩薩は、56億7千万年後に仏陀となってわれわれのところに来現されるというのです。(弥勒下生経〈羅什訳〉)』

 古代インドにおいて、弥勒信仰は熱狂的に流布し、多くの弥勒像が造られていきました。弥勒下生の地とされるゲートマティという都市は、仏教の描くすばらしいユートピアとして知られ、後世の極楽浄土に比定されるものでした。信者たちの弥勒浄土への憧憬は、「弥勒浄土変相図」によく示されています。仏はこの地上に悪が充満している時に、悪行・非法をなすものを救済しようとして現れたのに対して、弥勒はこの地上から悪が一掃される時にはじめて、大衆とともに成仏したいというのです。

 このように弥勒は、仏陀が未来仏として救済を託した仏であり、この地上を救うために降臨すると予言されたものでした。地上の救いを実現するという使命を持っているため、熱狂的に信じられてきました。日本でも、古代、弥勒信仰が隆盛して弥勒菩薩像が崇拝されました。弥勒信仰とは、古代インドに現れたユートピア思想だったのです。
 しかし、弥勒が降臨するのは56億7千万年後というとてつもなく遠い未来であったため、いつしかその期待はしぼんで、阿弥陀信仰に変わっていきました。弥勒は菩薩で兜率天におられるが、阿弥陀仏如来である。浄土では阿弥陀仏の方が上の世界におられるのだから阿弥陀仏を信仰した方がいいと考えたようです。ここから阿弥陀仏を信仰する浄土信仰が始まるのです。

 弥勒信仰は、仏教においてだけでなく神道においても大切にされてきました。日本仏教においては、観音経(法華経の経典の一つ)が愛されるように、この世の幸福が願われてきました。日本民族は、大乗仏教という在家仏教を通してこの世に浄土を造りたいものだと願ってきたのです。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/3/19 「弥勒信仰の発生と起源」より)

 (2)日本の村社会は、信仰共同体

 国家機構が出来上がる大化の改新(646)前後から血縁集団としての氏が崩壊していきます。その後村落は、律令体制下での班田収受制、荘園公領制を経て、鎌倉時代末期変質し始めます。
 その中で百姓は、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、まず畿内・近畿周辺において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていきました。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれるようになりました。惣村の内部は、平等意識と連帯意識により結合していました。惣村の結合は、村の神社での各種行事(年中行事や無尽講・頼母子講など)を取り仕切る宮座を中核としていました。惣村で問題や決定すべき事項が生じたときは、惣村の構成員が出席する寄合(よりあい)という会議を開いて、独自の決定を行っていきました。
 葬式も、共同体としての氏が崩壊してから氏から村で行うものになっていきました。村が大きくなると葬式を一緒にできないので、村の中をいくつかの組に分けて、村の運営がされるようになりました。
 この組のもとになっていたのが二十五三昧念仏講です。二十五三昧講(三昧会)は、986年(寛和2年)に比叡山内横川にあった首楞厳院で、25人の僧が結集して結成された念仏結社です。この結社は、極楽往生を希求する念仏結社であり、月の15日ごとに僧衆25名が集結して念仏を誦し、極楽往生を願いました。彼等は、発願文に「善友の契りを結び、臨終の際には相互に扶助して念仏する」ことを記していました。「往生要集」の作者でもある恵心僧都源信、942~1017)が始めました。講を結成するときに約束をするのが12か条の約束【横川首楞厳院(よかわしゅりょうごんいん)二十五三昧式】でした。

 民族学者の五来 重氏は、「日本の村は、二十五三昧講の結成により血縁社会から一種の信仰集団に変わっていった。村は、信仰的なつながりをもって運命共同体になった。ですから、日本の村落には多数決はありません。必ず全員で決め、一人でも反対があったら否決だという慣習ができています。そのかわり、一人二人の頑固者がいて承知しないと、縁のある者がみな寄ってたかって『よし』というまで説得します。運命共同体には、多数決で少数の人を犠牲にしてはいけないという観念が昔からありますが、それは宗教的な集団であったからです(五来 重著「先祖供養と墓」角川書店1992 p140)」と言われています。
 日本の共同体精神は、宗教によって啓蒙され、村は運命共同体となったのです。
(参考:筆者ブログ キヴィタス日記2013/8/21「日本の共同体精神の源流〈ニ十五三昧講〉」より) http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-b928.html

 (3)茶室と茶道は、仏国浄土を目指した

 茶室というのは、お茶をたてるために、最小限の空間、亭主と客、お道具がおさまるだけの極小空間を囲んだもの、たったそれだけのものですが、そこに本来の究極の人間社会の姿を表現しようとしたものが茶室と茶道です。主人と客人、そして二人の間を取り持つ最小限の道具をもって、あるべき本然の姿を創り出そうとしたのです。村田珠光武野紹鴎千利休という茶人の創意工夫によって草庵茶室と茶道が完成されていきますが、豪奢を排したありふれた自然の中に美を発見し仏国浄土を築こうとしたのです。

 茶室に向かう客人は、日常生活から離れ、茶の湯の世界へ入るための庭園、露地に入ります。まず、外腰掛で心をしずめます。そして、一歩一歩飛び石をつたって、手水で浄めて躙口(にじりぐち)をくぐって席入りをします。客用の小さな出入口である躙口(にじりぐち)から中に入るには、誰もが身をかがめて入らなければなりません。この世の上下関係、立場を捨ててお互いに無垢のありのままの姿の一人の人間として対峙する。それを、何をいわずとも、空間の所作によって教える、それが躙口なのです。茶室は、小宇宙、あるいは母親の胎内であるとよく言われますが、躙口から入ったらそこは浄土なのです。心でみる美しさ」の茶道の世界なのです。

 茶の湯の教えや道具扱いの心得を教示したといわれる「利休居士道歌」では、どんな道具でも、手順で他の道具にうつる時は、その前の道具を恋しい人と別れるように、名残惜しく扱わなければならないと教えています。一連の作法のなかで、茶碗に水や湯、抹茶を入れる時、どんな道具であれ、なにか自分自身の全責任をもって、新しい世界を切り開くのです。茶の湯は、誠心誠意心を込めて客人をもてなすことを教えているのです。

 茶道では、一期一会という言葉が頻繁に使われます。同じ茶会が開かれることはないからこそ、「誠心誠意を込めて客人をもてなそう」と考える精神につながっていくのです。茶道では、茶会によって用いられる花が違い、テーマによって掛け軸を変えます。そうすることによって、まったく同じ茶会は二度と開かれないことを暗に演出しているのです。

 茶道の言葉に「和敬清寂」という言葉があります。主人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にするという意味です。こうして狭い空間の中に客と亭主が相対する、濃密な空間を生むのです。茶道は、茶室という狭い空間の中に仏国浄土を築こうとしたことを忘れてはいけません。

 村田珠光は、「心の文」の冒頭で、茶の湯の修行において最も障害となるのは、心の我慢(われこそはと慢心すること)、我執(自分に執着して我をはること)であると述べました。しかし、最後になって「かまんなくてもならぬ道也」、つまり茶の湯は「我こそはと思う気持がなくては成就しない道である」と、反対のことを言っています。仏国浄土は、自らの手によって切り開かなければできないと言っているのです。

(参考:www.digistyle-kyoto.com/study/culture/chashitsu/chashitsu09.html

 (4)禅が教える還相の役割

 禅では、「悟るだけが禅ではない。悟った後、還相(げんそう)して本来の主体(神仏)のもとに役目を果たすことが重要である」と説きます。還相とは、この世に戻ることです。出家したままでは何もならない、世間と隔絶することがすべてはないというのです。あくまでもこの世を神の世界に変えていかなければならないというのです。この考え方は、おそらく日本に特に強いものではないでしょうか。
 「極楽というところは久しくとどまるべきではない。とどまってもしようのないところだ。ありがたいかしらんけれども、ありがたいだけでは何のためにもなりゃしない。ただ自己満足ということになる。それだから、どうしても極楽を見たらただちに戻って来なければならない。還相の世界へ入らりゃならん。」(鈴木大拙)

 「徳雲の閑古錘、幾たび妙峰頂を下る。他の癡(ち)聖人を傭うて、雪を担うて共に井を填(うず)む」(白隠『毒語心経』)
(
解釈:武村牧男氏 白隠は、修行の跡も消し去って、とがったところもまったくなくなった境地にある者が、その利害打算を超えた立場から、報いを求めずに黙々とひたすら働きつづけるあり方こそ、「兼中到」という至高の境地にふさわしいと見たのです。どんなに雪を放り込んでも、井戸は埋められることはありえない。そのような無意味のことに、せっせとはたらいてやまないところに、禅のこのうえなく深い味わいがあると。)

 「ただはたらいてやまない」というのは、自我にしがみついてはたらくというのではなく、本来の主体(超個あるいは神・仏)そのものに目覚めてこのかけがえのない主体を自覚して、その主体の下にやってやってやりぬく(真空妙用)ということなのです。還相して本来の主体そのものに目覚めて、やり抜けと言っているのです。

 秋月龍珉氏は、『従来の禅では相交わる対象がどうも自然に傾きすぎて「私と汝」という人間対人間のところで「自他不二」の境涯を練る訓練が足りなかったと思うのである』と語り、還相して自他不二の人間関係を築くことに努めなければいけないと説いています。禅の修行によって得た覚りは、覚りの終着点ではないのです。アガペーの愛の実践だけではない。さらなる覚りの世界を目指さなければいけないというのです。禅は、還相(娑婆)の中に自他不二の世界(地上天国)を創り出そうとしているのです。

 禅は、特定の教義をもたず、自由な立場にあることから、多くの宗教間対話に参加して主導的な役割を果たしてきています。世界のさまざまな宗教の対立が深刻になる中で、禅は宗教間の対話の重要な役割を果たすことができるのではないでしょうか。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/7/15「禅の世界と禅の未来(5)現世における自他不二の世界の創造」より)

(5)武士道精神が培った生死の呪縛からの解放と忠孝

 17世紀の武人著者大導寺友山は、その著書「武道初心集」の初めに、「武士にとって最も肝要な考は、元旦の暁より大晦日の終わりの一刻まで日夜念頭に持たなければならぬは死という観念である。この念を固く身に体した時、汝は十二分に汝の義務を果たしうるであろう。・・・」と記しています。日本人の、特に武士の『潔く死ぬ」という死の哲学・態度は、禅の教えから来ました。禅の修行は単純・直裁・自恃・克己的であり、この戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致するのです。
 禅は、武士に道徳的哲学的二つの面から支援しました。道徳的というのは、一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教えるのが禅であり、哲学的というのは生と死とを無差別に取り扱うからです。禅には、一揃いの概念や知的公式を持つ特別な理論や哲学があるわけではありません。ただそれは、人を生死のきずなから解こうとするのです。しかも、これをするために、それ自身に特有な、ある直覚的な理解方法によるのです。それゆえに、その直覚的な教えが妨げられぬ限り、いかなる哲学にも道徳論にも、応用自在の弾力性をもっていて、極めて抑揚に富んだものになるのです。

 武士道の有名な書「葉隠」には、こう記されています。「葉隠の意味は、〈葉の陰に隠れる〉の意で、わが身を誇示せず、角笛を吹いて廻らず、世間の眼から遠ざかって、そうして社会同胞のために深情を尽くすのが、武士の徳の一つだというのです。いつにても身命を捧げる武士の覚悟を強調し、いかなる偉大な仕事も、狂気にならずしては、すなわち、意識の普通の水準を破ってその下に横たわる隠れた力を解放するのでなければ、成就されたためしはないと述べています。この力はときとして悪魔的であるかもしれぬが、超人間的であり、すばらしい働きをすることは疑えません。無意識状態が口を切られると、それは個人的の限度を超えて立ち上がり、死はまったくその毒刺を失う。武士の修養が禅と提携するのは実にこの点にあるというのです。

 生死を超えた毅然とした態度と不断の精進、一度決断したことは翻さない、こうした修養が武士に武士たる威厳をもたらし、武士道という精神を造り上げたのです。

 日本の精神とされている忠孝の精神は、武士道が儒教(朱子学)と結びつくことによって、どの民族にもない「忠孝」-滅私奉公という主君との主従関係を創り出しました。私という観念を拭い去って主人のために尽くすという精神は尊いものです。しかし、それは礼を守るという姿勢だけが極端に強調されて、江戸時代の儒教武士道(武士は君主のためなら自己犠牲をいとわない)とか国粋主義(国のためなら家族を犠牲にすべきだ)という国や君主のために死ぬのは当然だとかいう倫理に変質したのでした。

 日本民族の武士道の精神は、世界から称賛されています。それは、武士道が私という観念、生死という観念を超越して公(全体)のために生きるという、信仰の自己犠牲、自己否定と同じ道を啓発しているからです。ここに武士道がもつ素晴らしさがあるのです。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/6/26「(鈴木大拙氏とともに)禅と武士道」より)

 (6)日本教(人生と修行)

 松永尺五、石田梅岩とともに日本型資本主義の精神の形成に大きな役割を果たしたといわれているのが江戸初期の曹洞宗の僧侶、鈴木正三です。正三は徳川家康に仕えた元旗本で、日々の職業生活を大切にすることが仏の道に通じると説きました。「何の事業も皆仏行なり。人々の所作の上におひて成仏したまふべし。仏行の外なる作業有るべからず。一切の所作、皆以て世界のためとなる事を以てしるべし。仏体をうけ、仏性をそなはりたる人間、意得あしくして好て悪道に入ることなかれ」。正三は、職業の中に仏教を生かすことが大切だと主張したのです。
 鈴木正三は、山本七平氏によって高く評価され、近代の日本人の人生観、勤労観に大きな影響を与えた人物です。日本人が好きな「人生修行」という観念は、この人から生まれているといってもよいでしょう。この世のすべての職業がすべて仏行である。人間はそれぞれの職業生活において成仏できると肯定したのです。日本のプロテスタンティズムを作った人物と呼んでもいいと思います。
 「正三の思想は、仏は気(機)であり、天地はその仏である気で満ちているという、画期的な仏理解が上げられる。つまり、仏である気が、十方に、満々と満ちており、その仏の働き(徳用)によって世界・世間のものごとが生成している。仏は、万徳円満の仏、言い換えれば、気である仏の計り知れない働き(万徳)によって、森羅万象が形をなし、一切世間の人々の所作・事業、すなわち鍛冶、農業、医業などの具体的なる活動(万徳)が生成して、世界を利益するのであると、その一端を測ることができる(公益財団法人中村元東方研究所研究員 加藤みち子氏)」と捉えたのです。何と近代的な神観ではないでしょうか。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/7/15「禅の世界と禅の未来(5)現世における自他不二の世界の創造」より)

 (7)近代神道が目指した地上天国

 幕末明治維新の時代は、13世紀鎌倉時代と並ぶ宗教の一大変革期でありました。この時代に、習合神道系、仏教系、山岳信仰系等の多くの宗教運動が新たに成立してきました。如来教黒住教天理教金光教、冨士講身禄派、丸山教、本門仏立講(のちの本門仏立宗)などが生まれました。村上重良氏は、「これらの新興宗教は封建宗教にはもとめえなかった個人の主体的信仰に基づくもので、同じ信者の強固な結合がはぐくまれた」と述べています。この時期に起きた宗教にはいくつかの共通した特徴があります。

 まずあげられることは、強力な一神教的な最高神による救済の教義であるということです。如来教如来黒住教天照大神天理教の天理王命、金光教の天地金乃神、丸山教大祖参神(もとのおやがみ=太元の父母)等です。

 第二は、各宗教はすべて現世中心主義で、病貧争のない「この世の極楽」が語られ、病気なおし等の現世利益が一貫して強調されていることです。天理教では、死を出直しと呼び、その教義には、来世も祖霊信仰も原理的には意義を認めない徹底した現世中心主義がみられるのです。

 第三には、民衆の全生活的な救済の使命感を支える素朴な人間愛であり、人間の本性への信頼でありました。天理教では、「一列はみな兄弟」とされ、金光教では、「神の氏子」として人間はすべて階級・身分・性の差別なく平等でありました。自主的な信仰によって結合した民衆宗教の信者たちは、互いにたすけあい学びあって、共同の信仰生活の場をつくり出したのです。

 『大別すると、政治と社会の変革によって「よふきぐらし」(天理教)、「日の出に松の代」(丸山教)とよばれる理想社会の実現を目指す政教一致型の世直しの宗教と、「実意丁寧神信心」(金光教)をもとめて信仰をどこまでも個人化し内面化していく、内面指向型の宗教が見られる(村上重良)』のです。

 幕末明治維新期の民衆宗教の勃興は、外国から入って来る思想の中に邪悪なものが含まれていることに対する警戒と宗教が究極的に目指している現世での理想社会の実現という目標に向かって準備されていた一つの方途であったと思われるのです。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/10/14「幕末明治維新期に成立した民衆宗教の展開と特徴」より)

(8)弥勒仏の降臨を準備した大本教

「神が表に現われて、三千世界の立替え立直しを致すぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下太平に世を治めて、万古末代続く神国の世に致すぞよ」(お筆書き)

 大本教は、明治末出口なおによって始められた宗教です。なおの「お筆書き」により、艮(うしとら)の金神の世直しを唱えて、「みろくの世」(神の国)の到来を唱えました。
 「お筆書き」には、この地上に神国の世(みろくの世-理想世界)を建設するため、精神界・物質界のいっさいを立替え立直しするという神の誓約が記されてありました。今の世は、“われよし”“強いものがち”の悪魔の心になっており、世を乱してきた悪霊を改心させ、善一筋の神の世、平和の世にすると宣言しているのです。そしてもし人類が改心しなければ世界に大難が来て、人類が3%に減じると予告されていたのです。

 王仁三郎も、明治37年(1904年)の「道の栞」の中で、次のように述べています。(松本健一著『民間日本学者3 出口王仁三郎』リブロポート1986年より)
「世界の各国はいずれも皆、おのが国の利益を中心として働きおれり。わが国は真理のため、文明のため、平和のために日本魂を中心として働くべきなり(第3巻上60)
国と国との戦いが起こるのも、人と人との争いが起こるのも、みな欲からである。神心にならずして、世界のためを思わずして、わが国さえ善ければ他の国はどうでもよい、わが身さえ善ければ他の人はどうなってもよいという自己愛から、戦いや争いが起こるのである。これらはみな悪の行為である。(第1巻下58)」
人類はすべて神の子、神の宮であり、したがって人類はすべて兄弟であり、世界は一つの大家族であるという真理を、世界の人類に自覚させることが肝要や。世界の人類が兄弟であれば、貧富の差があってはならず、そのためには私有財産の観念を否定し、すべてが神のものであるという認識に立たねばならん」と語っています。

人類はいまや救主の出現を待ちて無明暗黒の世界を模索しつつあるにあらずや

 王仁三郎は、大本教の万教同根の思想と宗教による精神的な世界の統一の方法として、世界宗教連合の実現に努力していきます。この理想は、大正14年(1925年)5月、普天教、道教、救世新教、仏陀教、回教、仏教、キリスト教の一部からなる世界宗教連合会の設立となって実現します。大正14年6月には、「人類愛善会」を発足させます。ここを母体とする人類愛善運動は、非常な勢いで国内だけでなく海外へ発展していきます。総本部は亀岡に置き、その下に東洋本部・欧州本部・東京本部を置き、あっというまに日本だけでなく満蒙、東南アジア、ヨーロッパ、アメリカ、南米、南洋諸島などに支部が設立されていったのです。ヨーロッパにおいても賛同者が続出し、入会者がひっきりなしであったといわれています。各国各地には愛善堂、愛善農園、愛善保育園、愛善診療所、愛善語学校などが作られていきました。

 大本教は、日本だけでなく世界という舞台で宗教の連合、人類の救済活動を実践しながら、救い主の出現を待ちわび、みろくの世が到来することを願っていたのです。昭和52年(1977年)2月3日には、再建された綾部のみろく殿で、キリスト教との共同礼拝式がモートン神父、日本聖交会の関本肇神父らによって行われたように、世界の諸宗教の連合に努めています。
(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2013/3/31「出口王仁三郎と理想世界、世界平和ー1、2、3」より)

 

 冒頭でも述べたように、日本民族には弱肉強食に陥りかねない自由競争の資本主義には嫌悪感があり、神仏を否定した共産主義には違和感があるのです。

 二宮尊徳は、「道徳のない経済は悪であり、経済のない道徳は寝言である」という言葉を残しています。倫理道徳からかけ離れた経済は、決して平和で幸せな社会を築くものではなく、むしろ反対に悪に染まった地獄を造ることになるのだと述べているのです。尊徳は、至誠を尽くし勤労に努め贅沢を慎むことを教えます。人間としての節度を保つこと(分度)こそが正常な心と行いを保つ上で非常に大切なことで、これを過ぎるととてつもない災いが襲ってくるのだと警告しています。また、至誠・勤労・分度の結果としてもたらされた富の剰余は、他の者に譲る〈推譲〉ことを啓蒙し実践したのです。こうした節度ある生活をすることによって、人間ははじめて物質的にも精神的にも豊かに暮らすことができるのであると説いているのです。この地上に浄土を築く道を追求してきた苦悩と心意気が伝わって来るではありませんか。

 しかし今、日本民族は立ち往生しています。海外から押し寄せてきた横暴な思想・価値観に翻弄され、古くから育まれ培ってきた民族精神が内外ともに汚染され、崩壊の淵に立たされています。日本民族は、弥勒降臨と弥勒浄土を熱望してきたのです。資本主義や共産主義には、何かおかしいと直感的に感じているのです。弥勒が携えてくる救い(キリスト教でいう再臨主)を学び受け入れることによって、民族の新しい時代が始まるでしょう。それは、同時に日本民族が育んできた精神と文化が世界の新しいモデルとして広まる出発点になると思われます。 

≪産業化の始まりを担った国(英国)と産業化の終わりを担う国(日本)≫

 私は、産業化(工業化)の始まりが英国であり、産業化(工業化)の安着を実現するのが日本であると主張しています。日本は、地球上にばらまかれた産業化の遺産(環境負荷も含めて)を地球上で持続性あるものに秩序づけする役割をもっていると考えています。

 外国生活から戻った日本人がほとんど全員、いや外国人でさえも、世界で一番生活しやすい国であるという感想を述べています。現代日本は、気づかないうちに人々が手を携えて生きる相互扶助・共生社会を作り始めているようです。この目に見えない雰囲気が、伝播して新しい時代を告げるのではないでしょうか。日本人は、生活の豊かさと安定・持続性という新時代の価値観を創造しようとしているのです。自信をもって新しい時代を切り開いていきましょう。

(参考:筆者ブログ キヴィタス日記2016/5/13「日本人は資本主義が嫌い?日本人が願う社会は、共存共栄共生社会である」

http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-e73d.html)

 

「歴史は繰り返す」の法則に従えば、世界は崩壊する。但し、別のものが現れるならば、・・・・。

 「歴史は繰り返す」と昔から言われてきました。どうして繰り返すのかはわからないものの、歴史を調べれば調べるほど同じような時代が繰り返し登場することがわかり、不思議に思われて来ました。中国の易は、このような繰り返し現象を研究して集大成したものです。現代のように科学が発展しても、占い、易は廃れてしまうことはありません。

 ほとんどの人は、一人の人間についてはそのような現象があることについて信じておられると思います。しかし、一人の人間の運命だけでなく、国、世界の運命もこのような運命を背負っているのです。ノストラダムスという中世の予言者が20世紀の自動車やヒトラーを予言していたという予言書がかつて脚光を浴びたことがあります。日本でも、出口王仁三郎がさまざまな予言をしています。聖書には、有名なヨハネの黙示録という予言があります。こうした予言は、的中しているからこそ不気味がられているのです。

 予言は、ほとんどの場合すぐに理解できないようなあいまいな形で表されます。未来のことですから100%その現象が起るとは限りません。また、あからさまにわかってしまうとその予言の影響で未来が変更されてしまうという問題があります。あくまで現象が起こるか否かは、人間の選択にかかっているからです。しかし、99%人間は予言に沿う方向の選択をします。その結果、歴史における繰り返し現象が出現するのです。そのことを摂理的同時性の時代と言います。

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(1)摂理的同時性が起こる原因

 私たち人間の意識は、誰もが感じているように時代の雰囲気を受けています。個人の意識は独立して存在しているものではありません。周りの仲間や時代の風潮から大きな影響を受けていることは誰もが実感しているでしょう。その一方、自分の意識は社会の時代風潮に一役買っていることも事実です。時代の意識というものがつくられているのです。人間の意識は、集団意識になり個人を超えた社会意識というものを形成しているのです。

 米国で地球意識プロジェクトという研究がなされています。2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件が起きた時、確立50%の選択をするはずの乱数発生器が人間の集合意識の変化を反映して出力に隔たりを生じたという意識作用現象が起きました。人間の集団意識は、乱数発生器の確立を変えたのです。

 集団意識が形成されると、社会を動かす力をもっているのです。同時性の時代とは、同じような状況が生まれ、同じような意識が形成されていくのです。その結果、同じような時代の雰囲気が形成され、同じ現象を引き起こしていくのです。現在の社会状況を見つめてみてください。ちょうど太平洋戦争前の状況とほとんど同じようなことが起こっていることに気づかれるはずです。

 

(2)日本近代歴史を動かしている40年周期説

 日本近代史は、40年周期で繁栄と衰退を繰り返しています。キヴィタス日記で何度か記してきました。2012年末からのアベノミクスも80年前の高橋是清蔵相のデフレ脱却政策の繰り返し現象(同時性)でありました。同じことをしてしまうのが、人間意識なのです。

 40年周期説について下記の図を見てください。現在は、2025年の第三次世界大戦終結?に向けての崩壊期にあたっています。この動きは、80年前の繰り返し現象です。1918年にあたります。1918年という年は経済はまだ好調なものの戦争が近づいているという不安な時期でした。1940年には東京オリンピックが開催される予定でした。2020年の東京オリンピックの80年前です。よく似ていると思いませんか。

 これから2025年までの7年、このままいくと崩壊が待ち構えているのです。その後、国を再興できるかどうかはわかりません。国を失い流浪の民になる未来もあり得るのです。外国の属国として辛酸をなめるかもわかりません。国が分断されるかもわかりません。天変地異が起こって、嘆き苦しむ事態が訪れるかも知れません。1945年前後は、天変地異が多発したことも思い起こしてください。

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 (3)世界歴史2000年の繰り返し現象と再臨主

 日本だけでなく、世界も崩壊の局面に差し掛かっています。世界歴史がどのような繰り返し現象をしているのか、それが下図の摂理です。世界歴史は、ばらばらに展開しているのではなく目標を目指して展開しています。世界各国で様々なその国の歴史がありますが、世界歴史の中心はキリスト教で、再臨主をどのように迎えるかでその後の世界歴史が決定される運命にあります。

 このような摂理が組み込まれているがゆえに、ノストラダムスの予言もヨハネの黙示録も未来を予見できたのです。人類歴史は、メシア(再臨主)を迎えることができるか否かによって平和を迎えるか、暗黒の世界を迎えるかが決まることになります。

 日本でも、出口王仁三郎が予言しています。最悪の場合、日本の大半は海に沈み、人類の97%は死ぬといっています。どこまでの事態が起こるか、核戦争を含めて楽観できません。

 鍵は再臨主にあります。わからなければ、地に飲み込まれても致し方ありません。2000年前、イエス・キリストを迎えることができなかった人類は暗黒の中世と苦難の2000年の歴史を通過しなければなりませんでした。イエス・キリストを十字架に架けた張本人ユダヤ民族は、2000年の間国を失い流浪の民にならざるを得なかったのです。



 

 



 

六道輪廻からの解脱は、堕落(罪)の反対の経路を通してしか成されない

 六道輪廻の世界からの脱却、解脱は簡単ではありません。信仰という抽象的な行為だけでは完全には解決しないのです。堕落(罪)を犯した時の反対の経路を通してしかなされないのです。家族内のいざこざは、いざこざの場面が再現した時、それを治めてはじめて解脱するのです。問題が起きた時が解決するチャンスの時なのです。一つ一つ解決していかないといけないのです。

(1)六道輪廻とは

ウェブ「チャンディーの精神世界へようこそ」の説明を見てみましょうhttp://chandi1813.sakura.ne.jp/ess3rokudourinne.html

 六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という六つの迷界を指し、そして六道輪廻とは、衆生が六道の間を生まれ変わり死に変わりして迷妄の生を続けることを言います。人間である私たちの寿命が尽きて赴くところは、生前において私たちが為したカルマ(行為)、すなわち善行、悪行によって決まるようです。大罪を犯したり、悪事を重ねた人間が霊界における地獄や餓鬼や修羅の領域に落ち、凡庸なる生を終えた人間は人間界という領域に赴き、より多くの善行を為した人は天界という領域へと昇って、そして再び物理現象界での人間としての生を享けるまでの間、それぞれの霊性領域で迷妄の生を送るのでしょう。人間とは意識という霊であって、肉体ではありませんから、人間が肉体生を終えて赴く先は、現世において個々の人間が培った意識状態に基づくところの霊性領域であるのは当然のことでしょう。(中略)

 肉体を脱ぎ捨てて意識そのものとなった霊は、自己の波動と同様な意識波動が発せられるところへ引き寄せられて行きます。<類は友を呼ぶ>という格言どおりに、死者は自己の意識波動と調和する意識を有する霊たちが集まったところへと引き寄せられるのです。(中略)

 この世界では、悪人であろうと善人であろうと表面的には同じ人間として、すべての人間が集合共存していますが、あの世では悪人は悪人同士、善人は善人同士で寄り集まり、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界などという、意識の稠密性がそれぞれに異なる領域界が多種多様に形成されていることでしょう。もし、霊が肉体を持たないで意識そのものとして存在するだけならば、霊は同一の意識レベルに留まってしまい、その意識レベルから抜け出て上昇することが可能ではないために、霊はこの物理現象界に生まれ出て種々様々な意識レベルにある人々の中に交わり、そして人間が霊性において進化していくことの重要性を悟り、自己を霊的に成長させることができる機会を得て意識進化を果たしていくのでしょう。従って、人間がこの世に生まれ出ることの本当の意義とは、意識進化の機会を与えてもらうことなのです。

         表ー仏教で説く六道の世界

  善道  or
三善趣

  天

人間の世界より苦が少なく楽の多い世界。

  人

生病老死の四苦八苦がある世界。

   修羅

独善的な世界。怒りに我を忘れ戦いを繰り返す世界。欲望を抑えることが出来ない世界。
三悪道
or
三悪趣

   畜生

弱肉強食が繰り返され、互いに殺傷しあう世界。人を蹴落としてでも、自分だけ抜け出そうとする世界。

   餓鬼

嫉妬深さ、物惜しみ、欲望の塊の世界。この世界から抜け出るため、さらに無理を重ねる世界。

   地獄

さまざまな苦しみを受ける世界。六つのうち最も苦しみの多い世界。

出典:http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/6dou.html

(2)お釈迦様が発見された解脱の道
 六道輪廻はお釈迦様が発見されたといわれています。厳密にいえば、五道輪廻を発見され、後に阿修羅界が組み込まれて六道輪廻になったといわれています。

 お釈迦様以前のバラモン教にも「五趣(ごしゅ)」「五道(ごどう)」「天界」、「人間」、「畜生(ちくしょう)」、「餓鬼(がき)」、「地獄」という輪廻思想があり、初期の仏教ではこれを踏襲していた形跡がありました。ところが、バラモン教の下では、この死後に関わる「五趣」の思想を、現世の社会階級にまであてはめていきました。その結果、天上の神々の下にバラモン(司祭階級)、クシャトリア(王族、武士階級)、バイシャ(庶民階級)、スードラ(奴隷階級)という4つのカーストが制度化されたのです。

 こうしたバラモン社会に疑問を抱き、社会の底辺の人たちを救済するために新しい宗教哲学を創始したのがお釈迦様だったのです。バラモン教では、輪廻界のなかで生まれ変わるだけだったものが、仏教の輪廻思想では六道輪廻を解脱すれば、仏界という光にあふれた悟りの世界に入ることができると説かれたのです。

 お釈迦様が説かれた解脱の方法のポイントは、出家という道でした。現実社会で生じる六道の意識―煩悩の世界から逃れ出るためには、押し寄せてくる煩悩から身を引き離して関係をもたないで世を捨てるという方法を編み出されたのです。関係を断ち切るのですから、煩悩は押し寄せてくることができません。仏教がもたらした解脱は、業の呪縛や輪廻、迷いの世界などの苦の世界を脱して魂が自由の境地に到達することを目指したのです。

 お釈迦様の説かれた解脱は出家を前提にしているので、在家の信者に対しては啓蒙によって六道輪廻の最上界天界への転生に至る道を教えています。因果応報の法を教え、解脱の道として三宝(正しい認識、正しい知識、正しい行為)をすることを教えます。そうすることによって、来世において天界に生まれると教えられたのです。お釈迦様が最初に教えられた在家信者は、ベナレスの富豪の息子サヤで、因果応報の法を説き、戒の善い習慣を身につけ、戒を犯した時には自分の弱さをわきまえ懺悔すること、そして布施(慈善は他人のためにする行為であるが、布施は自分の大切なものを他人にもらっていただく)をすることによって心を安らかにすることを教えました。布施の功徳を積むことによって心が清まり世界を正しく見ることができるようになると教えたのです。

(3)現世における解脱への道―具体的なる罪の反対の経路

 現世への輪廻転生は、意識進化の機会を与えられたものであると仏教は教えています。お釈迦様の教えに従って、戒を守り布施を実践することが基本となります。

 しかし、お釈迦様の教えは出家を前提にしており、在家の場合啓蒙にとどまっていました。お釈迦様の教えでは、現世での完全な救い(解脱)はもたらされていません。情がどのように表出するのかどのように抑えるのか、どのようにして解脱するのかは詳しくは説かれていないのです。

 六道輪廻の原因は、無知・貪欲・憎しみという人間の情ですが、人間の情は現世の物質的・具体的な人間関係、人間活動によってもたらされていることを再認識することが出発点です。人間の情は、単独では生じません。何かの対象にふれ合う時に発動されていきます。美しいものを見て美しいという情が起きるように、ある対象との触れ合いの中に情が生まれていくのです。無知・貪欲・憎しみという好ましくない情が生じてくるのも、そういう情を引き起こした原因があるのです。自分自身であったり、先祖の因果応報であったりしているのです。その関係をもとに戻さない限り解脱には至らないのです。

 こうした因果があるため、単に戒を守り布施を実践するだけでは解脱に至らないのです。しかもその情を悪神(死神またはサタン)が牛耳っているため、ほとんど同じ失敗をしてしまうのです。因果応報は乗り越えることの難しい難題として定着したのです。

 罪を犯した(堕落と呼ぶ)人が本来の位置・状態に戻るためには、罪を犯したことの反対の経路を通ってしか戻ることができないという原則があります。家庭に不和が生じているならば、ただ祈っているだけでは解決しないのです。当事者同士が仲直りする以外に方法がないのです。この解決の道を通してはじめて現世における因縁の清算と意識進化が成せるのです。解脱への道は具体的なのです。曖昧なままで成就することはないのです。逃れる術はありません。その情を背後で悪神(死神またはサタン)が牛耳っているため、より解脱は困難なものになっているのです。

 堕落への危険、死神に操られた憎しみ、恨み、貪欲、傲慢などの醜い情が沸き上がってきたら、その時にその情に操られないように忍耐しないといけません。人類歴史は、99%そのことに抗しきれず同じ過ちを犯してきました。聖書の創世記には、アダムの息子カインに対する神の忠告が記述されています。人類始祖からの罪の因縁が我々を縛って苦しめているのです。

「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう
もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています
それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(創世記4章6~7)

        罪(堕落)からの復帰の道

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 ほとんどの人は、この話を聞いて「自分は大して悪いことも他人を苦しめたこともないし、時には世の中のためにいいこともしたから、人界か良ければ天界に行けるのではないか。解脱できなくてもそれで十分だ」と思われているかもしれません。そう思われているなら、それは良き人生を送られたものと思います。

 しかし人生の中で、離婚、不倫、兄弟対立、親子相克、知人との対立などがあったとしたら、その因果は必ず子孫に現れてきます。親子孫三代が平穏な人生を送れることはほとんどありません。ほぼ100%家系の問題が表面化して、子々孫々を苦しめることになるのです。これが先祖から引き継いでいる因果なのです。「転ばぬ先の杖」という言葉がありますが、具体的な形として堕落(失敗)する前に堕落しかねない情が沸き起こってきたならば、「耐えること・忍耐すること」これが大事なことなのです。この一点が先祖と同じ轍を踏まず、因縁を清算する道なのです。

 そしてもう一つ、一人で先祖の失敗を償うことはほぼ不可能であるということです。この手助けのためにあるのが宗教なのです。宗教創始者の功徳を頂きながら乗り越えていくのです。