共産主義では、何故地上天国は実現できないのか?

(1)K.マルクスは、イエズス会パラグアイ理想郷建設を知って共産主義に確信をもった

 K.マルクス共産主義という理想社会を確信をもって提唱したのには、ある一つの歴史事実を発見したことが大きいのです。イエズス会パラグアイ理想郷建設です。それまでのK.マルクスは、ユートピア思想に懐疑的であり世人の世迷言にすぎないと思っていました。

 イエズス会によるパラグアイ理想郷建設とは次のようなものです。

 17世紀、イエズス会は、それまで森林で遊牧生活を行なってきたグアラニー族に対し、トーマス・モアが描いた「ユートピア」の生活を実現しようと、宗教的な教えだけでなく、政治、文化、社会 教育(読み書き)だけでなく、農業、畜産、工芸品の製造などについても教える理想社会建設を行いました。イエズス会の伝道所は、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイなどに30箇所ほどで、17世紀から18世紀にかけて150年にわたって繁栄しました。財産を私有せず(貴金属、特に金は軽蔑された)、必要なものがあるときには共同の倉庫のものを使う。人々は勤労の義務を有し、日頃は農業にいそしみ(労働時間は6時間)、空いた時間に芸術や科学研究をおこなっていました。伝道所は、農業や工芸で大きな利益を上げ、住民はみな美しい清潔な衣装を着け、集落は、住民が平等に食べ物や財産を分け合い、貧富の差がない理想郷だったといいます。一帯は「パラグアイイエズス会国家」と呼ばれていました。

参考:拙者ブログ:地球村創造ブログ2018/4/15「トーマス・モアユートピア』のモデルとして建設された『パラグアイの理想郷』」

 ユートピアは実現できるのだ。イエズス会が示したパラグアイの実験は、地上天国建設を勇気づけるものであったのです。

 

(2)J.M.ケインズも、共産主義の理想主義は評価した

 多くの人が共産主義に惹かれるのは、人類はみな平等であり、すべての人が手を携えて幸せに生きるという社会の建設に賛同するからです。

 共産主義は、財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会をめざすことです。生産手段や販売方法、利益を平等に分配するなど、すべての人が平等な社会をめざすことです。それだけでなく、「共産主義社会」とは、国家権力が死滅し最後は政府も必要なくなるという人間が自主運営する社会であるともされています。

 この共産主義が提唱する人類社会の理想像については、J.M.ケインズも評価していました。しかし、現実の人間は、他人を押しのけてでも競争に勝とうとする欲得が深い性をもった自分中心の人間であり、他の人間を従属させることに何ら矛盾を感じない性をもっています。この人間の性を知るとき、共産主義という思想は社会改革の方法としては現実的なものでないといえるのです。ケインズの経済理論が発表された時、当時の人はこれで共産主義の脅威から逃れることができると安堵したのです。

 

(3)理想社会「共産主義」の前段階とされている社会主義こそが癌

 K.マルクスは、従来の理想社会、ユートピア思想を空想的社会主義として一括りにして一蹴し、自らが提案する理想主義「共産主義」はまったく新しい思想であるとして「科学的社会主義」として提案しました。最終的な目標はほとんど変わりないのですが、その過程―共産主義社会に至るステップと方法論―が科学的であるとしました。土地及び生産手段を社会所有にして能力に応じて人々に分配するとしたのです。しかし、この段階に欺瞞、問題があるのです。

社会主義では生産手段は社会の所有に移され、もはや搾取はないが、社会の構成員への生産物の分配は、『各人はその能力に応じて働き、各人はその働きに応じて受け取る』という原則に従い行われ、そのため社会的な不平等はまだ残る。社会の生産力がさらに発展し、人々の道徳水準が向上したとき『各人はその能力に応じて働き、各人はその必要に応じて受け取る』という共産主義の原則が実現され、そのときは権力の組織である国家がなくなるだろう。」([稲子恒夫]日本大百科全書(ニッポニカ)

とされています。この考えには、二つの致命的な問題があります。

 一つは、生産手段を社会の所有にして計画主義経済を採用すると、社会が窒息死するということ、もう一つは、道徳水準は自動的には向上しないということです。この結果は、現実の社会主義国の状態を見れば明らかです。経済は停滞し、道徳水準は向上するどころか粗野になっているではないですか。

 

(4)全面的に計画主義経済を採用すると、人々はやる気を失いロボット化する

 毛沢東が、1950年代大躍進時代、一切の私有を廃止して子供の教育も集団で、食事も共同食堂でという人民公社化(共同化)を進めた時、人々は自主性、創意工夫をなくして生産力は逆に低下して飢餓をもたらしました。

 また、共産主義社会の街は、北朝鮮平壌のように整然としたものになっていますが、どこか人の住む息遣いが感じられません。死の街なのです。モンゴルの首都ウランバートルでも同じような姿でしたが、一歩裏に入ってみれば、人々はささやかな菜園を囲って耕していたそうです。

 人々から自主的に創意工夫によって生活する自由を奪ってしまうと社会は死滅していきます。計画主義経済社会がつくる社会は、人々の生気が消え失せた死んだ社会になりかねないのです。

 為政者、計画立案者が把握できるものは限られています。この限られた情報に入りきらない側面を人々に解放しなければいけません。人々の自主的な活動、工夫を禁じてしまうと、社会から活気は消え失せて停滞し、人間はロボット化してしまうのです。官僚主義が冷たい生気を失った社会をもたらすのは、規制に縛られてしまうからです。

 こうした弊害を乗り越えるために、社会主義各国は経済の自由化という方策を採用するのですが、この方策は計画とは異なる価値観を生むため、計画者、為政者に刃を向ける勢力が生まれ緊張が高まることになっていきます。

 

(5)神の否定は人間の謳歌のように思われているが、人間社会の背後には神と悪魔が住む霊界がある。神の否定は、悪魔にひざまづくものである

 資本主義が内在した富の格差は、社会の中に多くの不満と憎しみをもたらしました。資本主義社会の中で、この不平等は残念ながらキリスト教の温かい愛の奉仕によって解決されることはほとんどありませんでした。そこに共産主義が登場したのです。共産主義は、このようなキリスト教徒の無慈悲な態度に怒りを覚えて誕生したのです。

 唯物弁証法によると、「精神とは弁証法的に運動する物質の機能であると考える。物質が本来的で根源的な存在であり、人間の意識は身体(例えば大脳、小脳、延髄など)の活動から生まれる」と説明します。観念の世界を否定する結果、心は物質に従属するものとなり、心の自由、自主性が軽んじられることになりました。環境を変えると心は自然に変わるのだという観念が支配するのです。それは、一面人間主義であり人間の力を誇示する考えです。

 ここに問題があります。心の自主性、魂の向上は環境を変えれば自動的に変わるものではありません。魂の改心、魂の向上は単純ではありません。そして、魂の改心ができなければ、地上天国は実現できません。

共産主義という形で平等な社会が表面上築かれたとしても、魂が変わっていない限りすぐに壊されることになる。人間一人一人の魂の改心ができるまで地上天国はできない。心の底から間違っていると気づき、正そうとすることが不可欠である。(大本教 出口日出麿)」

 共産主義が道徳を教え啓蒙しても限界があります。形としての道徳は教えても、義務としての強制的な実践にしかなりません。形だけの道徳は、悪魔も模倣することができるという言葉があります。そこには何の喜びも生まれません。道徳水準は愛によってしか高まりません。神の愛に触れて人々が改心した時、はじめて心の魂の水準が向上するのです。心が洗われるという経験を通して道徳水準は高まっていくのです。心を変えることができるのは、神のみです。神を否定した共産主義には、道徳水準の向上は不可能なことなのです。それどころか、行き詰まるので独善と強制に陥っていくことになるのです。

 

(6)正反合の弁証法からは、調和のとれた社会は生み出されない

 弁証法では、「全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)される」と説明します。

 この説明は正確ではありません。己の内に矛盾を含んでいるのではなく、時の経過とともに己の内に不完全さが生じるため、不完全さを補完するために新たな存在を必要とするのであって、このため相互に規定し相互依存的な関係が生まれるのです。

 正反合の論理は、不完全さを補完する存在を対立関係として捉えています。対立関係として捉えるということは、反発関係として捉えることであり、反発から生まれるものは憎しみであり、力による屈服ということになります。決して二者が和解して一つになる合体ではないのです。

 共産主義は、正反合を旗頭に憎しみのエネルギーをまとめ、一人一人の不満の力を大きな一つの不満の力にすることによって、体制改革を実現しようとしたのです。「万国の労働者よ、団結せよ(共産党宣言)」というスローガンと世界革命思想は、このことをよく表していると思います。

 憎しみの情から出発した弁証法的展開は、発展ではなく衰退に向かうことに気づく必要があります。そこには、マイナス(破滅)のエネルギーが働く形になります。共産主義各国において、時間とともに生産性が向上するどころか停滞し衰微していったのは当然の帰結でした。正反合という弁証法は、正反合ではなく正反滅であり、合に向かうには両者の和解というまったく別の手法が必要なのです。それは、歴史的に宗教が示してきたことです。「汝の敵を愛せよ」という聖書の言葉こそ真実を著わしているのです。

日本民族は、この世に弥勒浄土を造ることを目指してきた

 日本民族の意識の根底には、弱肉強食に陥り殺伐とした社会を招きかねない自由競争の資本主義には賛同しきれない嫌悪感があり、神仏を否定した共産主義には専横独裁に陥りかねないという違和感があるようだ。どちらも「良し」とできないもののようである。

 2014年米国のピュー・リサーチセンターが行った自由市場についての世論調査によると、主要先進国のうち、日本だけが自由市場を支持する人が50%を切っている。日本は自由市場を支持するという人がわずかに47%で、自由市場を否定する人の方が上回っています。主要国の中で自由市場を支持している人の割合がもっとも高かったのはドイツで、73%の人が自由市場を支持。ついで米国が70%、英国が65%という結果でありました(ベトナム95%、韓国78%、ギリシャ47%、スペイン45%)。
http://thepage.jp/detail/20141023-00000012-wordleaf

 歴史を振り返ると、日本の社会は共に生きて助け合う共同体であったことがわかります。お互いが助け合って生きていく相互扶助社会だったのです。日本民族は、「共存共栄共生」の持続性ある平和な社会を築いてきたのであり、その社会を築くことを理想としてきたのです。

 古代縄文日本人は、紀元前後大陸の動乱から逃れて弥生人と呼ぶ人々が移住してきたとき、「共に生きる」という共存融合の道を選びました。また、外国からの侵略の危険があると、日本は交易を閉ざして自国の文化と精神を守ってきました。

 しかし、江戸時代末期にはそうした選択は不可能でした。それゆえ、明治維新の時の海外への開国は一大事であったのです。日本民族が歴史的に培った文化と精神が根絶やしにされかねない国難だったのです。混乱が必至であったがゆえに、多くの神の啓示が地上に降ろされて、西洋の思想の中には容認しがたいものが含まれているから気を付けなければいけないと警告したのです。明治維新期、大正期に多くの新興宗教が誕生した背景には、こうした歴史事情があったことを理解することが大切です。

 日本という国家は、聖徳太子の17条の憲法、594年の大化の改新天皇号が明記された689年飛鳥浄御原令を経て701年大宝律令(日本という国号が初めて制定されたという説もある)によって中国の王土王民思想にならった国家制度が成立します。班田収授の法によって国家の根幹となる国民への田の支給を定めましたが、前提となる土地の原資は時の豪族が提供(奪ったのではない)したようです。支配、被支配という観念ではなく、相互扶助、共存共生という感性がその時からあったようです。

 このような民族意識は、民族の心を育む信仰として現れて来ました。

 (1)宗派を超えて信仰されてきた弥勒信仰

 弥勒信仰は、日本人にとって根幹にもあたる共通の信仰です。推古天皇の時伝来し、奈良・平安時代、戦国時代に特に栄えました。奈良中宮寺太秦広隆寺弥勒菩薩像を思い浮かべる人が多いのではと思います。弥勒信仰は仏教だけにとどまらず、各地に土着の信仰として広まりました。各地に残る地蔵信仰は、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの間衆生を救う菩薩として信仰を集めてきました。生前弥勒の化身とされていたという七福神の布袋(ほてい)様も、多くの人々に信仰されてきました。富士講の中興の祖 伊藤伊兵衛は、「食行身禄」と称し貧しい庶民の救済に尽力しました。

 では、弥勒信仰とはどのような信仰なのでしょうか。
兜率天(とそつてん)に住んでおられた釈迦牟尼仏は、われわれ衆生を救わんとして、兜率天から地上に降りて来られて、インドの釈迦国の浄飯王の妃である摩耶夫人の胎内に入られ、シッダ-ルタ太子となって誕生されました。釈迦牟尼仏は、兜率天を去る直前、弥勒菩薩を未来仏にノミネート〈指名)されました。自分はこれから人間界に行って仏陀となり、衆生を教化するが、自分のあとは、弥勒菩薩よ、そなたが人間界に行って仏陀となってほしい・・・・。その依頼によって、弥勒菩薩は、56億7千万年後に仏陀となってわれわれのところに来現されるというのです。(弥勒下生経〈羅什訳〉)』

 古代インドにおいて、弥勒信仰は熱狂的に流布し、多くの弥勒像が造られていきました。弥勒下生の地とされるゲートマティという都市は、仏教の描くすばらしいユートピアとして知られ、後世の極楽浄土に比定されるものでした。信者たちの弥勒浄土への憧憬は、「弥勒浄土変相図」によく示されています。仏はこの地上に悪が充満している時に、悪行・非法をなすものを救済しようとして現れたのに対して、弥勒はこの地上から悪が一掃される時にはじめて、大衆とともに成仏したいというのです。

 このように弥勒は、仏陀が未来仏として救済を託した仏であり、この地上を救うために降臨すると予言されたものでした。地上の救いを実現するという使命を持っているため、熱狂的に信じられてきました。日本でも、古代、弥勒信仰が隆盛して弥勒菩薩像が崇拝されました。弥勒信仰とは、古代インドに現れたユートピア思想だったのです。
 しかし、弥勒が降臨するのは56億7千万年後というとてつもなく遠い未来であったため、いつしかその期待はしぼんで、阿弥陀信仰に変わっていきました。弥勒は菩薩で兜率天におられるが、阿弥陀仏如来である。浄土では阿弥陀仏の方が上の世界におられるのだから阿弥陀仏を信仰した方がいいと考えたようです。ここから阿弥陀仏を信仰する浄土信仰が始まるのです。

 弥勒信仰は、仏教においてだけでなく神道においても大切にされてきました。日本仏教においては、観音経(法華経の経典の一つ)が愛されるように、この世の幸福が願われてきました。日本民族は、大乗仏教という在家仏教を通してこの世に浄土を造りたいものだと願ってきたのです。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/3/19 「弥勒信仰の発生と起源」より)

 (2)日本の村社会は、信仰共同体

 国家機構が出来上がる大化の改新(646)前後から血縁集団としての氏が崩壊していきます。その後村落は、律令体制下での班田収受制、荘園公領制を経て、鎌倉時代末期変質し始めます。
 その中で百姓は、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、まず畿内・近畿周辺において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていきました。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれるようになりました。惣村の内部は、平等意識と連帯意識により結合していました。惣村の結合は、村の神社での各種行事(年中行事や無尽講・頼母子講など)を取り仕切る宮座を中核としていました。惣村で問題や決定すべき事項が生じたときは、惣村の構成員が出席する寄合(よりあい)という会議を開いて、独自の決定を行っていきました。
 葬式も、共同体としての氏が崩壊してから氏から村で行うものになっていきました。村が大きくなると葬式を一緒にできないので、村の中をいくつかの組に分けて、村の運営がされるようになりました。
 この組のもとになっていたのが二十五三昧念仏講です。二十五三昧講(三昧会)は、986年(寛和2年)に比叡山内横川にあった首楞厳院で、25人の僧が結集して結成された念仏結社です。この結社は、極楽往生を希求する念仏結社であり、月の15日ごとに僧衆25名が集結して念仏を誦し、極楽往生を願いました。彼等は、発願文に「善友の契りを結び、臨終の際には相互に扶助して念仏する」ことを記していました。「往生要集」の作者でもある恵心僧都源信、942~1017)が始めました。講を結成するときに約束をするのが12か条の約束【横川首楞厳院(よかわしゅりょうごんいん)二十五三昧式】でした。

 民族学者の五来 重氏は、「日本の村は、二十五三昧講の結成により血縁社会から一種の信仰集団に変わっていった。村は、信仰的なつながりをもって運命共同体になった。ですから、日本の村落には多数決はありません。必ず全員で決め、一人でも反対があったら否決だという慣習ができています。そのかわり、一人二人の頑固者がいて承知しないと、縁のある者がみな寄ってたかって『よし』というまで説得します。運命共同体には、多数決で少数の人を犠牲にしてはいけないという観念が昔からありますが、それは宗教的な集団であったからです(五来 重著「先祖供養と墓」角川書店1992 p140)」と言われています。
 日本の共同体精神は、宗教によって啓蒙され、村は運命共同体となったのです。
(参考:筆者ブログ キヴィタス日記2013/8/21「日本の共同体精神の源流〈ニ十五三昧講〉」より) http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-b928.html

 (3)茶室と茶道は、仏国浄土を目指した

 茶室というのは、お茶をたてるために、最小限の空間、亭主と客、お道具がおさまるだけの極小空間を囲んだもの、たったそれだけのものですが、そこに本来の究極の人間社会の姿を表現しようとしたものが茶室と茶道です。主人と客人、そして二人の間を取り持つ最小限の道具をもって、あるべき本然の姿を創り出そうとしたのです。村田珠光武野紹鴎千利休という茶人の創意工夫によって草庵茶室と茶道が完成されていきますが、豪奢を排したありふれた自然の中に美を発見し仏国浄土を築こうとしたのです。

 茶室に向かう客人は、日常生活から離れ、茶の湯の世界へ入るための庭園、露地に入ります。まず、外腰掛で心をしずめます。そして、一歩一歩飛び石をつたって、手水で浄めて躙口(にじりぐち)をくぐって席入りをします。客用の小さな出入口である躙口(にじりぐち)から中に入るには、誰もが身をかがめて入らなければなりません。この世の上下関係、立場を捨ててお互いに無垢のありのままの姿の一人の人間として対峙する。それを、何をいわずとも、空間の所作によって教える、それが躙口なのです。茶室は、小宇宙、あるいは母親の胎内であるとよく言われますが、躙口から入ったらそこは浄土なのです。心でみる美しさ」の茶道の世界なのです。

 茶の湯の教えや道具扱いの心得を教示したといわれる「利休居士道歌」では、どんな道具でも、手順で他の道具にうつる時は、その前の道具を恋しい人と別れるように、名残惜しく扱わなければならないと教えています。一連の作法のなかで、茶碗に水や湯、抹茶を入れる時、どんな道具であれ、なにか自分自身の全責任をもって、新しい世界を切り開くのです。茶の湯は、誠心誠意心を込めて客人をもてなすことを教えているのです。

 茶道では、一期一会という言葉が頻繁に使われます。同じ茶会が開かれることはないからこそ、「誠心誠意を込めて客人をもてなそう」と考える精神につながっていくのです。茶道では、茶会によって用いられる花が違い、テーマによって掛け軸を変えます。そうすることによって、まったく同じ茶会は二度と開かれないことを暗に演出しているのです。

 茶道の言葉に「和敬清寂」という言葉があります。主人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にするという意味です。こうして狭い空間の中に客と亭主が相対する、濃密な空間を生むのです。茶道は、茶室という狭い空間の中に仏国浄土を築こうとしたことを忘れてはいけません。

 村田珠光は、「心の文」の冒頭で、茶の湯の修行において最も障害となるのは、心の我慢(われこそはと慢心すること)、我執(自分に執着して我をはること)であると述べました。しかし、最後になって「かまんなくてもならぬ道也」、つまり茶の湯は「我こそはと思う気持がなくては成就しない道である」と、反対のことを言っています。仏国浄土は、自らの手によって切り開かなければできないと言っているのです。

(参考:www.digistyle-kyoto.com/study/culture/chashitsu/chashitsu09.html

 (4)禅が教える還相の役割

 禅では、「悟るだけが禅ではない。悟った後、還相(げんそう)して本来の主体(神仏)のもとに役目を果たすことが重要である」と説きます。還相とは、この世に戻ることです。出家したままでは何もならない、世間と隔絶することがすべてはないというのです。あくまでもこの世を神の世界に変えていかなければならないというのです。この考え方は、おそらく日本に特に強いものではないでしょうか。
 「極楽というところは久しくとどまるべきではない。とどまってもしようのないところだ。ありがたいかしらんけれども、ありがたいだけでは何のためにもなりゃしない。ただ自己満足ということになる。それだから、どうしても極楽を見たらただちに戻って来なければならない。還相の世界へ入らりゃならん。」(鈴木大拙)

 「徳雲の閑古錘、幾たび妙峰頂を下る。他の癡(ち)聖人を傭うて、雪を担うて共に井を填(うず)む」(白隠『毒語心経』)
(
解釈:武村牧男氏 白隠は、修行の跡も消し去って、とがったところもまったくなくなった境地にある者が、その利害打算を超えた立場から、報いを求めずに黙々とひたすら働きつづけるあり方こそ、「兼中到」という至高の境地にふさわしいと見たのです。どんなに雪を放り込んでも、井戸は埋められることはありえない。そのような無意味のことに、せっせとはたらいてやまないところに、禅のこのうえなく深い味わいがあると。)

 「ただはたらいてやまない」というのは、自我にしがみついてはたらくというのではなく、本来の主体(超個あるいは神・仏)そのものに目覚めてこのかけがえのない主体を自覚して、その主体の下にやってやってやりぬく(真空妙用)ということなのです。還相して本来の主体そのものに目覚めて、やり抜けと言っているのです。

 秋月龍珉氏は、『従来の禅では相交わる対象がどうも自然に傾きすぎて「私と汝」という人間対人間のところで「自他不二」の境涯を練る訓練が足りなかったと思うのである』と語り、還相して自他不二の人間関係を築くことに努めなければいけないと説いています。禅の修行によって得た覚りは、覚りの終着点ではないのです。アガペーの愛の実践だけではない。さらなる覚りの世界を目指さなければいけないというのです。禅は、還相(娑婆)の中に自他不二の世界(地上天国)を創り出そうとしているのです。

 禅は、特定の教義をもたず、自由な立場にあることから、多くの宗教間対話に参加して主導的な役割を果たしてきています。世界のさまざまな宗教の対立が深刻になる中で、禅は宗教間の対話の重要な役割を果たすことができるのではないでしょうか。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/7/15「禅の世界と禅の未来(5)現世における自他不二の世界の創造」より)

(5)武士道精神が培った生死の呪縛からの解放と忠孝

 17世紀の武人著者大導寺友山は、その著書「武道初心集」の初めに、「武士にとって最も肝要な考は、元旦の暁より大晦日の終わりの一刻まで日夜念頭に持たなければならぬは死という観念である。この念を固く身に体した時、汝は十二分に汝の義務を果たしうるであろう。・・・」と記しています。日本人の、特に武士の『潔く死ぬ」という死の哲学・態度は、禅の教えから来ました。禅の修行は単純・直裁・自恃・克己的であり、この戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致するのです。
 禅は、武士に道徳的哲学的二つの面から支援しました。道徳的というのは、一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教えるのが禅であり、哲学的というのは生と死とを無差別に取り扱うからです。禅には、一揃いの概念や知的公式を持つ特別な理論や哲学があるわけではありません。ただそれは、人を生死のきずなから解こうとするのです。しかも、これをするために、それ自身に特有な、ある直覚的な理解方法によるのです。それゆえに、その直覚的な教えが妨げられぬ限り、いかなる哲学にも道徳論にも、応用自在の弾力性をもっていて、極めて抑揚に富んだものになるのです。

 武士道の有名な書「葉隠」には、こう記されています。「葉隠の意味は、〈葉の陰に隠れる〉の意で、わが身を誇示せず、角笛を吹いて廻らず、世間の眼から遠ざかって、そうして社会同胞のために深情を尽くすのが、武士の徳の一つだというのです。いつにても身命を捧げる武士の覚悟を強調し、いかなる偉大な仕事も、狂気にならずしては、すなわち、意識の普通の水準を破ってその下に横たわる隠れた力を解放するのでなければ、成就されたためしはないと述べています。この力はときとして悪魔的であるかもしれぬが、超人間的であり、すばらしい働きをすることは疑えません。無意識状態が口を切られると、それは個人的の限度を超えて立ち上がり、死はまったくその毒刺を失う。武士の修養が禅と提携するのは実にこの点にあるというのです。

 生死を超えた毅然とした態度と不断の精進、一度決断したことは翻さない、こうした修養が武士に武士たる威厳をもたらし、武士道という精神を造り上げたのです。

 日本の精神とされている忠孝の精神は、武士道が儒教(朱子学)と結びつくことによって、どの民族にもない「忠孝」-滅私奉公という主君との主従関係を創り出しました。私という観念を拭い去って主人のために尽くすという精神は尊いものです。しかし、それは礼を守るという姿勢だけが極端に強調されて、江戸時代の儒教武士道(武士は君主のためなら自己犠牲をいとわない)とか国粋主義(国のためなら家族を犠牲にすべきだ)という国や君主のために死ぬのは当然だとかいう倫理に変質したのでした。

 日本民族の武士道の精神は、世界から称賛されています。それは、武士道が私という観念、生死という観念を超越して公(全体)のために生きるという、信仰の自己犠牲、自己否定と同じ道を啓発しているからです。ここに武士道がもつ素晴らしさがあるのです。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/6/26「(鈴木大拙氏とともに)禅と武士道」より)

 (6)日本教(人生と修行)

 松永尺五、石田梅岩とともに日本型資本主義の精神の形成に大きな役割を果たしたといわれているのが江戸初期の曹洞宗の僧侶、鈴木正三です。正三は徳川家康に仕えた元旗本で、日々の職業生活を大切にすることが仏の道に通じると説きました。「何の事業も皆仏行なり。人々の所作の上におひて成仏したまふべし。仏行の外なる作業有るべからず。一切の所作、皆以て世界のためとなる事を以てしるべし。仏体をうけ、仏性をそなはりたる人間、意得あしくして好て悪道に入ることなかれ」。正三は、職業の中に仏教を生かすことが大切だと主張したのです。
 鈴木正三は、山本七平氏によって高く評価され、近代の日本人の人生観、勤労観に大きな影響を与えた人物です。日本人が好きな「人生修行」という観念は、この人から生まれているといってもよいでしょう。この世のすべての職業がすべて仏行である。人間はそれぞれの職業生活において成仏できると肯定したのです。日本のプロテスタンティズムを作った人物と呼んでもいいと思います。
 「正三の思想は、仏は気(機)であり、天地はその仏である気で満ちているという、画期的な仏理解が上げられる。つまり、仏である気が、十方に、満々と満ちており、その仏の働き(徳用)によって世界・世間のものごとが生成している。仏は、万徳円満の仏、言い換えれば、気である仏の計り知れない働き(万徳)によって、森羅万象が形をなし、一切世間の人々の所作・事業、すなわち鍛冶、農業、医業などの具体的なる活動(万徳)が生成して、世界を利益するのであると、その一端を測ることができる(公益財団法人中村元東方研究所研究員 加藤みち子氏)」と捉えたのです。何と近代的な神観ではないでしょうか。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/7/15「禅の世界と禅の未来(5)現世における自他不二の世界の創造」より)

 (7)近代神道が目指した地上天国

 幕末明治維新の時代は、13世紀鎌倉時代と並ぶ宗教の一大変革期でありました。この時代に、習合神道系、仏教系、山岳信仰系等の多くの宗教運動が新たに成立してきました。如来教黒住教天理教金光教、冨士講身禄派、丸山教、本門仏立講(のちの本門仏立宗)などが生まれました。村上重良氏は、「これらの新興宗教は封建宗教にはもとめえなかった個人の主体的信仰に基づくもので、同じ信者の強固な結合がはぐくまれた」と述べています。この時期に起きた宗教にはいくつかの共通した特徴があります。

 まずあげられることは、強力な一神教的な最高神による救済の教義であるということです。如来教如来黒住教天照大神天理教の天理王命、金光教の天地金乃神、丸山教大祖参神(もとのおやがみ=太元の父母)等です。

 第二は、各宗教はすべて現世中心主義で、病貧争のない「この世の極楽」が語られ、病気なおし等の現世利益が一貫して強調されていることです。天理教では、死を出直しと呼び、その教義には、来世も祖霊信仰も原理的には意義を認めない徹底した現世中心主義がみられるのです。

 第三には、民衆の全生活的な救済の使命感を支える素朴な人間愛であり、人間の本性への信頼でありました。天理教では、「一列はみな兄弟」とされ、金光教では、「神の氏子」として人間はすべて階級・身分・性の差別なく平等でありました。自主的な信仰によって結合した民衆宗教の信者たちは、互いにたすけあい学びあって、共同の信仰生活の場をつくり出したのです。

 『大別すると、政治と社会の変革によって「よふきぐらし」(天理教)、「日の出に松の代」(丸山教)とよばれる理想社会の実現を目指す政教一致型の世直しの宗教と、「実意丁寧神信心」(金光教)をもとめて信仰をどこまでも個人化し内面化していく、内面指向型の宗教が見られる(村上重良)』のです。

 幕末明治維新期の民衆宗教の勃興は、外国から入って来る思想の中に邪悪なものが含まれていることに対する警戒と宗教が究極的に目指している現世での理想社会の実現という目標に向かって準備されていた一つの方途であったと思われるのです。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/10/14「幕末明治維新期に成立した民衆宗教の展開と特徴」より)

(8)弥勒仏の降臨を準備した大本教

「神が表に現われて、三千世界の立替え立直しを致すぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下太平に世を治めて、万古末代続く神国の世に致すぞよ」(お筆書き)

 大本教は、明治末出口なおによって始められた宗教です。なおの「お筆書き」により、艮(うしとら)の金神の世直しを唱えて、「みろくの世」(神の国)の到来を唱えました。
 「お筆書き」には、この地上に神国の世(みろくの世-理想世界)を建設するため、精神界・物質界のいっさいを立替え立直しするという神の誓約が記されてありました。今の世は、“われよし”“強いものがち”の悪魔の心になっており、世を乱してきた悪霊を改心させ、善一筋の神の世、平和の世にすると宣言しているのです。そしてもし人類が改心しなければ世界に大難が来て、人類が3%に減じると予告されていたのです。

 王仁三郎も、明治37年(1904年)の「道の栞」の中で、次のように述べています。(松本健一著『民間日本学者3 出口王仁三郎』リブロポート1986年より)
「世界の各国はいずれも皆、おのが国の利益を中心として働きおれり。わが国は真理のため、文明のため、平和のために日本魂を中心として働くべきなり(第3巻上60)
国と国との戦いが起こるのも、人と人との争いが起こるのも、みな欲からである。神心にならずして、世界のためを思わずして、わが国さえ善ければ他の国はどうでもよい、わが身さえ善ければ他の人はどうなってもよいという自己愛から、戦いや争いが起こるのである。これらはみな悪の行為である。(第1巻下58)」
人類はすべて神の子、神の宮であり、したがって人類はすべて兄弟であり、世界は一つの大家族であるという真理を、世界の人類に自覚させることが肝要や。世界の人類が兄弟であれば、貧富の差があってはならず、そのためには私有財産の観念を否定し、すべてが神のものであるという認識に立たねばならん」と語っています。

人類はいまや救主の出現を待ちて無明暗黒の世界を模索しつつあるにあらずや

 王仁三郎は、大本教の万教同根の思想と宗教による精神的な世界の統一の方法として、世界宗教連合の実現に努力していきます。この理想は、大正14年(1925年)5月、普天教、道教、救世新教、仏陀教、回教、仏教、キリスト教の一部からなる世界宗教連合会の設立となって実現します。大正14年6月には、「人類愛善会」を発足させます。ここを母体とする人類愛善運動は、非常な勢いで国内だけでなく海外へ発展していきます。総本部は亀岡に置き、その下に東洋本部・欧州本部・東京本部を置き、あっというまに日本だけでなく満蒙、東南アジア、ヨーロッパ、アメリカ、南米、南洋諸島などに支部が設立されていったのです。ヨーロッパにおいても賛同者が続出し、入会者がひっきりなしであったといわれています。各国各地には愛善堂、愛善農園、愛善保育園、愛善診療所、愛善語学校などが作られていきました。

 大本教は、日本だけでなく世界という舞台で宗教の連合、人類の救済活動を実践しながら、救い主の出現を待ちわび、みろくの世が到来することを願っていたのです。昭和52年(1977年)2月3日には、再建された綾部のみろく殿で、キリスト教との共同礼拝式がモートン神父、日本聖交会の関本肇神父らによって行われたように、世界の諸宗教の連合に努めています。
(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2013/3/31「出口王仁三郎と理想世界、世界平和ー1、2、3」より)

 

 冒頭でも述べたように、日本民族には弱肉強食に陥りかねない自由競争の資本主義には嫌悪感があり、神仏を否定した共産主義には違和感があるのです。

 二宮尊徳は、「道徳のない経済は悪であり、経済のない道徳は寝言である」という言葉を残しています。倫理道徳からかけ離れた経済は、決して平和で幸せな社会を築くものではなく、むしろ反対に悪に染まった地獄を造ることになるのだと述べているのです。尊徳は、至誠を尽くし勤労に努め贅沢を慎むことを教えます。人間としての節度を保つこと(分度)こそが正常な心と行いを保つ上で非常に大切なことで、これを過ぎるととてつもない災いが襲ってくるのだと警告しています。また、至誠・勤労・分度の結果としてもたらされた富の剰余は、他の者に譲る〈推譲〉ことを啓蒙し実践したのです。こうした節度ある生活をすることによって、人間ははじめて物質的にも精神的にも豊かに暮らすことができるのであると説いているのです。この地上に浄土を築く道を追求してきた苦悩と心意気が伝わって来るではありませんか。

 しかし今、日本民族は立ち往生しています。海外から押し寄せてきた横暴な思想・価値観に翻弄され、古くから育まれ培ってきた民族精神が内外ともに汚染され、崩壊の淵に立たされています。日本民族は、弥勒降臨と弥勒浄土を熱望してきたのです。資本主義や共産主義には、何かおかしいと直感的に感じているのです。弥勒が携えてくる救い(キリスト教でいう再臨主)を学び受け入れることによって、民族の新しい時代が始まるでしょう。それは、同時に日本民族が育んできた精神と文化が世界の新しいモデルとして広まる出発点になると思われます。 

≪産業化の始まりを担った国(英国)と産業化の終わりを担う国(日本)≫

 私は、産業化(工業化)の始まりが英国であり、産業化(工業化)の安着を実現するのが日本であると主張しています。日本は、地球上にばらまかれた産業化の遺産(環境負荷も含めて)を地球上で持続性あるものに秩序づけする役割をもっていると考えています。

 外国生活から戻った日本人がほとんど全員、いや外国人でさえも、世界で一番生活しやすい国であるという感想を述べています。現代日本は、気づかないうちに人々が手を携えて生きる相互扶助・共生社会を作り始めているようです。この目に見えない雰囲気が、伝播して新しい時代を告げるのではないでしょうか。日本人は、生活の豊かさと安定・持続性という新時代の価値観を創造しようとしているのです。自信をもって新しい時代を切り開いていきましょう。

(参考:筆者ブログ キヴィタス日記2016/5/13「日本人は資本主義が嫌い?日本人が願う社会は、共存共栄共生社会である」

http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-e73d.html)

 

「歴史は繰り返す」の法則に従えば、世界は崩壊する。但し、別のものが現れるならば、・・・・。

 「歴史は繰り返す」と昔から言われてきました。どうして繰り返すのかはわからないものの、歴史を調べれば調べるほど同じような時代が繰り返し登場することがわかり、不思議に思われて来ました。中国の易は、このような繰り返し現象を研究して集大成したものです。現代のように科学が発展しても、占い、易は廃れてしまうことはありません。

 ほとんどの人は、一人の人間についてはそのような現象があることについて信じておられると思います。しかし、一人の人間の運命だけでなく、国、世界の運命もこのような運命を背負っているのです。ノストラダムスという中世の予言者が20世紀の自動車やヒトラーを予言していたという予言書がかつて脚光を浴びたことがあります。日本でも、出口王仁三郎がさまざまな予言をしています。聖書には、有名なヨハネの黙示録という予言があります。こうした予言は、的中しているからこそ不気味がられているのです。

 予言は、ほとんどの場合すぐに理解できないようなあいまいな形で表されます。未来のことですから100%その現象が起るとは限りません。また、あからさまにわかってしまうとその予言の影響で未来が変更されてしまうという問題があります。あくまで現象が起こるか否かは、人間の選択にかかっているからです。しかし、99%人間は予言に沿う方向の選択をします。その結果、歴史における繰り返し現象が出現するのです。そのことを摂理的同時性の時代と言います。

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(1)摂理的同時性が起こる原因

 私たち人間の意識は、誰もが感じているように時代の雰囲気を受けています。個人の意識は独立して存在しているものではありません。周りの仲間や時代の風潮から大きな影響を受けていることは誰もが実感しているでしょう。その一方、自分の意識は社会の時代風潮に一役買っていることも事実です。時代の意識というものがつくられているのです。人間の意識は、集団意識になり個人を超えた社会意識というものを形成しているのです。

 米国で地球意識プロジェクトという研究がなされています。2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件が起きた時、確立50%の選択をするはずの乱数発生器が人間の集合意識の変化を反映して出力に隔たりを生じたという意識作用現象が起きました。人間の集団意識は、乱数発生器の確立を変えたのです。

 集団意識が形成されると、社会を動かす力をもっているのです。同時性の時代とは、同じような状況が生まれ、同じような意識が形成されていくのです。その結果、同じような時代の雰囲気が形成され、同じ現象を引き起こしていくのです。現在の社会状況を見つめてみてください。ちょうど太平洋戦争前の状況とほとんど同じようなことが起こっていることに気づかれるはずです。

 

(2)日本近代歴史を動かしている40年周期説

 日本近代史は、40年周期で繁栄と衰退を繰り返しています。キヴィタス日記で何度か記してきました。2012年末からのアベノミクスも80年前の高橋是清蔵相のデフレ脱却政策の繰り返し現象(同時性)でありました。同じことをしてしまうのが、人間意識なのです。

 40年周期説について下記の図を見てください。現在は、2025年の第三次世界大戦終結?に向けての崩壊期にあたっています。この動きは、80年前の繰り返し現象です。1918年にあたります。1918年という年は経済はまだ好調なものの戦争が近づいているという不安な時期でした。1940年には東京オリンピックが開催される予定でした。2020年の東京オリンピックの80年前です。よく似ていると思いませんか。

 これから2025年までの7年、このままいくと崩壊が待ち構えているのです。その後、国を再興できるかどうかはわかりません。国を失い流浪の民になる未来もあり得るのです。外国の属国として辛酸をなめるかもわかりません。国が分断されるかもわかりません。天変地異が起こって、嘆き苦しむ事態が訪れるかも知れません。1945年前後は、天変地異が多発したことも思い起こしてください。

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 (3)世界歴史2000年の繰り返し現象と再臨主

 日本だけでなく、世界も崩壊の局面に差し掛かっています。世界歴史がどのような繰り返し現象をしているのか、それが下図の摂理です。世界歴史は、ばらばらに展開しているのではなく目標を目指して展開しています。世界各国で様々なその国の歴史がありますが、世界歴史の中心はキリスト教で、再臨主をどのように迎えるかでその後の世界歴史が決定される運命にあります。

 このような摂理が組み込まれているがゆえに、ノストラダムスの予言もヨハネの黙示録も未来を予見できたのです。人類歴史は、メシア(再臨主)を迎えることができるか否かによって平和を迎えるか、暗黒の世界を迎えるかが決まることになります。

 日本でも、出口王仁三郎が予言しています。最悪の場合、日本の大半は海に沈み、人類の97%は死ぬといっています。どこまでの事態が起こるか、核戦争を含めて楽観できません。

 鍵は再臨主にあります。わからなければ、地に飲み込まれても致し方ありません。2000年前、イエス・キリストを迎えることができなかった人類は暗黒の中世と苦難の2000年の歴史を通過しなければなりませんでした。イエス・キリストを十字架に架けた張本人ユダヤ民族は、2000年の間国を失い流浪の民にならざるを得なかったのです。



 

 



 

六道輪廻からの解脱は、堕落(罪)の反対の経路を通してしか成されない

 六道輪廻の世界からの脱却、解脱は簡単ではありません。信仰という抽象的な行為だけでは完全には解決しないのです。堕落(罪)を犯した時の反対の経路を通してしかなされないのです。家族内のいざこざは、いざこざの場面が再現した時、それを治めてはじめて解脱するのです。問題が起きた時が解決するチャンスの時なのです。一つ一つ解決していかないといけないのです。

(1)六道輪廻とは

ウェブ「チャンディーの精神世界へようこそ」の説明を見てみましょうhttp://chandi1813.sakura.ne.jp/ess3rokudourinne.html

 六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という六つの迷界を指し、そして六道輪廻とは、衆生が六道の間を生まれ変わり死に変わりして迷妄の生を続けることを言います。人間である私たちの寿命が尽きて赴くところは、生前において私たちが為したカルマ(行為)、すなわち善行、悪行によって決まるようです。大罪を犯したり、悪事を重ねた人間が霊界における地獄や餓鬼や修羅の領域に落ち、凡庸なる生を終えた人間は人間界という領域に赴き、より多くの善行を為した人は天界という領域へと昇って、そして再び物理現象界での人間としての生を享けるまでの間、それぞれの霊性領域で迷妄の生を送るのでしょう。人間とは意識という霊であって、肉体ではありませんから、人間が肉体生を終えて赴く先は、現世において個々の人間が培った意識状態に基づくところの霊性領域であるのは当然のことでしょう。(中略)

 肉体を脱ぎ捨てて意識そのものとなった霊は、自己の波動と同様な意識波動が発せられるところへ引き寄せられて行きます。<類は友を呼ぶ>という格言どおりに、死者は自己の意識波動と調和する意識を有する霊たちが集まったところへと引き寄せられるのです。(中略)

 この世界では、悪人であろうと善人であろうと表面的には同じ人間として、すべての人間が集合共存していますが、あの世では悪人は悪人同士、善人は善人同士で寄り集まり、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界などという、意識の稠密性がそれぞれに異なる領域界が多種多様に形成されていることでしょう。もし、霊が肉体を持たないで意識そのものとして存在するだけならば、霊は同一の意識レベルに留まってしまい、その意識レベルから抜け出て上昇することが可能ではないために、霊はこの物理現象界に生まれ出て種々様々な意識レベルにある人々の中に交わり、そして人間が霊性において進化していくことの重要性を悟り、自己を霊的に成長させることができる機会を得て意識進化を果たしていくのでしょう。従って、人間がこの世に生まれ出ることの本当の意義とは、意識進化の機会を与えてもらうことなのです。

         表ー仏教で説く六道の世界

  善道  or
三善趣

  天

人間の世界より苦が少なく楽の多い世界。

  人

生病老死の四苦八苦がある世界。

   修羅

独善的な世界。怒りに我を忘れ戦いを繰り返す世界。欲望を抑えることが出来ない世界。
三悪道
or
三悪趣

   畜生

弱肉強食が繰り返され、互いに殺傷しあう世界。人を蹴落としてでも、自分だけ抜け出そうとする世界。

   餓鬼

嫉妬深さ、物惜しみ、欲望の塊の世界。この世界から抜け出るため、さらに無理を重ねる世界。

   地獄

さまざまな苦しみを受ける世界。六つのうち最も苦しみの多い世界。

出典:http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/6dou.html

(2)お釈迦様が発見された解脱の道
 六道輪廻はお釈迦様が発見されたといわれています。厳密にいえば、五道輪廻を発見され、後に阿修羅界が組み込まれて六道輪廻になったといわれています。

 お釈迦様以前のバラモン教にも「五趣(ごしゅ)」「五道(ごどう)」「天界」、「人間」、「畜生(ちくしょう)」、「餓鬼(がき)」、「地獄」という輪廻思想があり、初期の仏教ではこれを踏襲していた形跡がありました。ところが、バラモン教の下では、この死後に関わる「五趣」の思想を、現世の社会階級にまであてはめていきました。その結果、天上の神々の下にバラモン(司祭階級)、クシャトリア(王族、武士階級)、バイシャ(庶民階級)、スードラ(奴隷階級)という4つのカーストが制度化されたのです。

 こうしたバラモン社会に疑問を抱き、社会の底辺の人たちを救済するために新しい宗教哲学を創始したのがお釈迦様だったのです。バラモン教では、輪廻界のなかで生まれ変わるだけだったものが、仏教の輪廻思想では六道輪廻を解脱すれば、仏界という光にあふれた悟りの世界に入ることができると説かれたのです。

 お釈迦様が説かれた解脱の方法のポイントは、出家という道でした。現実社会で生じる六道の意識―煩悩の世界から逃れ出るためには、押し寄せてくる煩悩から身を引き離して関係をもたないで世を捨てるという方法を編み出されたのです。関係を断ち切るのですから、煩悩は押し寄せてくることができません。仏教がもたらした解脱は、業の呪縛や輪廻、迷いの世界などの苦の世界を脱して魂が自由の境地に到達することを目指したのです。

 お釈迦様の説かれた解脱は出家を前提にしているので、在家の信者に対しては啓蒙によって六道輪廻の最上界天界への転生に至る道を教えています。因果応報の法を教え、解脱の道として三宝(正しい認識、正しい知識、正しい行為)をすることを教えます。そうすることによって、来世において天界に生まれると教えられたのです。お釈迦様が最初に教えられた在家信者は、ベナレスの富豪の息子サヤで、因果応報の法を説き、戒の善い習慣を身につけ、戒を犯した時には自分の弱さをわきまえ懺悔すること、そして布施(慈善は他人のためにする行為であるが、布施は自分の大切なものを他人にもらっていただく)をすることによって心を安らかにすることを教えました。布施の功徳を積むことによって心が清まり世界を正しく見ることができるようになると教えたのです。

(3)現世における解脱への道―具体的なる罪の反対の経路

 現世への輪廻転生は、意識進化の機会を与えられたものであると仏教は教えています。お釈迦様の教えに従って、戒を守り布施を実践することが基本となります。

 しかし、お釈迦様の教えは出家を前提にしており、在家の場合啓蒙にとどまっていました。お釈迦様の教えでは、現世での完全な救い(解脱)はもたらされていません。情がどのように表出するのかどのように抑えるのか、どのようにして解脱するのかは詳しくは説かれていないのです。

 六道輪廻の原因は、無知・貪欲・憎しみという人間の情ですが、人間の情は現世の物質的・具体的な人間関係、人間活動によってもたらされていることを再認識することが出発点です。人間の情は、単独では生じません。何かの対象にふれ合う時に発動されていきます。美しいものを見て美しいという情が起きるように、ある対象との触れ合いの中に情が生まれていくのです。無知・貪欲・憎しみという好ましくない情が生じてくるのも、そういう情を引き起こした原因があるのです。自分自身であったり、先祖の因果応報であったりしているのです。その関係をもとに戻さない限り解脱には至らないのです。

 こうした因果があるため、単に戒を守り布施を実践するだけでは解脱に至らないのです。しかもその情を悪神(死神またはサタン)が牛耳っているため、ほとんど同じ失敗をしてしまうのです。因果応報は乗り越えることの難しい難題として定着したのです。

 罪を犯した(堕落と呼ぶ)人が本来の位置・状態に戻るためには、罪を犯したことの反対の経路を通ってしか戻ることができないという原則があります。家庭に不和が生じているならば、ただ祈っているだけでは解決しないのです。当事者同士が仲直りする以外に方法がないのです。この解決の道を通してはじめて現世における因縁の清算と意識進化が成せるのです。解脱への道は具体的なのです。曖昧なままで成就することはないのです。逃れる術はありません。その情を背後で悪神(死神またはサタン)が牛耳っているため、より解脱は困難なものになっているのです。

 堕落への危険、死神に操られた憎しみ、恨み、貪欲、傲慢などの醜い情が沸き上がってきたら、その時にその情に操られないように忍耐しないといけません。人類歴史は、99%そのことに抗しきれず同じ過ちを犯してきました。聖書の創世記には、アダムの息子カインに対する神の忠告が記述されています。人類始祖からの罪の因縁が我々を縛って苦しめているのです。

「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう
もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています
それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(創世記4章6~7)

        罪(堕落)からの復帰の道

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 ほとんどの人は、この話を聞いて「自分は大して悪いことも他人を苦しめたこともないし、時には世の中のためにいいこともしたから、人界か良ければ天界に行けるのではないか。解脱できなくてもそれで十分だ」と思われているかもしれません。そう思われているなら、それは良き人生を送られたものと思います。

 しかし人生の中で、離婚、不倫、兄弟対立、親子相克、知人との対立などがあったとしたら、その因果は必ず子孫に現れてきます。親子孫三代が平穏な人生を送れることはほとんどありません。ほぼ100%家系の問題が表面化して、子々孫々を苦しめることになるのです。これが先祖から引き継いでいる因果なのです。「転ばぬ先の杖」という言葉がありますが、具体的な形として堕落(失敗)する前に堕落しかねない情が沸き起こってきたならば、「耐えること・忍耐すること」これが大事なことなのです。この一点が先祖と同じ轍を踏まず、因縁を清算する道なのです。

 そしてもう一つ、一人で先祖の失敗を償うことはほぼ不可能であるということです。この手助けのためにあるのが宗教なのです。宗教創始者の功徳を頂きながら乗り越えていくのです。

再臨主の御言葉(2)地上生活と霊界

 人間の霊人体と肉身の関係について見てみるとき、より重要なのは、肉身ではなく霊人体です。肉身は百年くらい生きて死にますが、霊人体は、時間と空間を超越して永生します。いくら地上界で良い服を着て、良い物を食べ、裕福に暮らす人も、結局、死ぬのです。したがって、皆様の人生は、霊的な基準と肉的な基準をよく調和させ、霊肉が一つになった完成実体を成して暮らしてから逝かなければなりません。現象世界であり有限世界である地上界の人生で、肉身を土台として霊人体を完成させるべき責任があるということです。

 ところが、霊人体の完成は自動的にやって来るのではありません。必ず真の愛の実践を通して、体と心が完全一体となった人生の土台の上で、初めて完熟した霊人体が結果として実っていくのです。

 皆様、秋になって、倉庫に入っていくよく熟した果物になるためには、春と夏という過程を経ながら、自然界が提供してくれる栄養素と、主人の細やかな世話が絶対に必要です。無精で見識のない主人に出遭った果樹園の果物は、あらゆる疾病と悪天候に悩まされ、熟すこともできないまま落果したり、虫に食われた果物として分類されたりしてしまうでしょう。果物は果物ですが、同じ果物ではありません。市場に出して売れる完成品にはなれないのです。

 木の上で完熟した果物は、自動的に主人の倉庫に入っていきます。同じように、人間の霊人体は、木と同じ立場にある地上界の人生で完成してこそ、自動的に無形世界である霊界の天国に入っていくのです。言い換えれば、人間は、肉身をもって暮らす地上界の人生で、完熟した人生、すなわち、この地に天国を成し、楽しく暮らしてから逝ってこそ、自動的に天上天国に入城するようになるのです。

 地上界で暮らす間、皆様の一挙手一投足は、このような天の公法を基準として、一つ残らず皆様の霊人体に記録されます。したがって、霊界に入っていく皆様の姿は、肉界での人生を100%収録した霊人体の姿です。よく熟した善の人生だったのか、虫に食われ腐った悪の人生だったのかは、皆様の霊人体に赤裸々に現れるのです。神様が皆様の審判主ではなく、皆様自らが自分の審判官になるということです。このような途方もなく恐ろしい天理を知れば、どうしてあえて地上界の人生を、あらゆるサタンの誘惑に陥り、利己的で、快楽ばかりを追い求める背徳の人生で終えることができるでしょうか。皆様の霊人体に傷を負わせ、傷跡をつけることは、命を懸けて慎まなければなりません。天国行きと地獄行きが、きょうこの時間、皆様の考えと言行で決定されるという事実を、はっきりと肝に銘じてくださるよう願います。

 ところが、霊人体自体が真の愛の人生を主導し、実践できるのではありません。皆様の霊人体は、必ず体と心の円滑な授受作用によって展開する肉身の人生を土台とした真の愛の人生を通してこそ成長し、完熟し、完成するのです。

 しかし、皆様の中では、外なる人と内なる人が絶えず葛藤し、争っていることを否定しえないでしょう。あとどのくらいこの争いを継続されますか。十年ですか。百年ですか。宇宙のすべての存在には、厳然とした秩序があります。神様は、私たち人間を、そのように不完全な状態で創造されたのではないというのです。外なる人である肉身の誘惑を果敢に振り切ってしまい、内なる人である良心の道に従って人生の勝利を達成することが、皆様の人間たる義務であり、責任だということを知らなければなりません。このような人生を生きる人には、天運が共にあり、霊人体の完成も見ることができるのです。〈2006年10月14日平和メッセージ「天宙平和統一王国創建の真なる主人Ⅱ」より〉

 

(解説)

 私たち人間は、この世の人生を終えるとどのようになるのか、誰もが考えることではないでしょうか。人間はいつの時代も、死後の世界はあるのかないのかから始まってこの地上での行いが死後の世界にどのように関係するのかと、関心を持ち続けてきました。

 このことについては、今までの人類歴史の中で様々な宗教が多くのことを説いてきました。亡くなった後のことは知っても意味がないから今を生きるのだとか、神様、仏様を信じて逝けばその世界に行けるとか、死後生前の行為の審判があって天国か地獄か行先が分かれるのだとか言われてきました。

 本当のことは、誰にもよくわからないというのが多くの人の正直な感想でしょう。しかし、スエーデンボルグが霊界日記を著わしたように、また霊界からのメッセージが霊媒者を通じてもたらされているように、どうやら霊界という存在は荒唐無稽のものではないかもしれないとも思ってきました。

 最近では、生前記憶を持っている子供が生前の記憶を語る例もみられています。また、量子物理学の世界では、私たちの記憶・意識は死後も無くならないといわれるようになりました。(このことについては、ブログ「量子物理学の世界では意識の不滅が論争になりつつあるようだ」で記述した。)

 では、どうして私たちは死後の世界にそこまで関心を持つのでしょうか。それは、私たちの意識は消え去るものではないのではないかという本能的な感覚があるからです。本心は知っているのです、「意識はなくならない」と。

 私たちが感じている感覚、「死後の世界はあって私たちの意識は続く」というのが真実だからです。再臨主が語られているように、この地上生活のすべては霊人体に刻み込まれて、そのすべてを持って私たちは霊界に旅立つのです。今の私の意識と今までの行為が死後の世界を決定するのです。死後の世界は、自らの意思で自分の住処を決めるのです。閻魔大王が決めるのではないのです。神様を信じて真の愛に生きた人は神様に近いところが住みやすい住処でしょう。反対に、神様と真の愛に遠ければそのような世界を選ぶことになるでしょう。こうして自然に天国に近い住処と地獄に近い住処に分かれていくようです。

再臨主の御言葉(1) 神様の願う理想家庭と血統

 神様が人間を創造した究極的な目的はどこにあると思われますか。それは真の愛を中心とした理想家庭の完成を通して喜びを感じることでした。では、理想家庭とはどのような姿でしょうか。神様が創造された最初の人間は、男性格を代表したモデルとしてのアダムと女性格を代表したモデルとしてのエバでした。彼らが真の愛の見本となる人格者、主人になる道とはどのような道だったのでしょうか。一言で言えば、神様を父として侍って生きていける、父母と子女の関係を確保するモデル平和理想家庭でした。神様と一つの家庭を成し、永遠に喜びを感じて生きる道である、という意味です。

 皆さんも、祈祷を通して神秘的な境地に入り、この宇宙の中心は何なのかと尋ねてみてください。「父子関係」という答えを聞くようになるでしょう。父母と子女間の関係以上に、重要で貴いものはないということです。これが、宇宙を創造された神様と人間の根本的関係であるからです。

 そうであるならば、父子の関係がもっている特性とは何でしょうか。真の愛と真の生命と真の血統の関係です。真の父母の真の愛が前提とならなければ、私たちの真の生命が存在することはできません。すなわち、神様の前に人間は、絶対的な真の愛の相対として創造されたということです。そこは、正に神様が父となり、人間は息子、娘となる軸が立てられる所なのです。

(中略)

 ところで、アダムとエバの堕落以来、長い歴史を通して神様の胸に痛む恨として残されてきたものが何であるか、ご存知でしょうか。それは、天の血統を失ってしまい、兄弟圏と所有権まで失ってしまった事件です。

 生命よりも貴く、愛よりも重要なものが血統です。生命と愛が合わさって創造されるものが血統です。これらのうち、生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統なのです。

 神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。したがって、この血統と連結されれば、神様が理想とされた理想人間、すなわち人格完成も可能であり、理想家庭も生まれるのであり、さらには神様の祖国、理想国家も出現するのです。

 平和理想世界王国は、このように創建されるのです。血統の重要性は、いくら強調してもしすぎることはないということを、皆さんも肝に銘じなければなりません。

 血統がなければ、生命はもちろん、愛も離れてしまいます。血統が残ってこそ、愛した自分の伝統が残され、血統が存続してこそ、父母の息遣いが継続していくのです。言い換えれば、父母に愛の実、生命の実、血統の実、そしてすべての喜びの実を提供する最初で最後の必要十分条件は、真なる血統であることを、はっきりと知らなければなりません。

 ところが、生命とも取り替えられない、この血統を失ってしまいました。真の生命と真の愛の実を結べなかったのです。地球星に広がっている60億の人類が、天とは何の関係もない、サタンの実に転落してしまったのです。

 神様が蒔いた種が大豊作になり、秋に収穫しようとした園が、エデンの園でした。アダムとエバ、二人の息子、娘を育てて真の愛を花咲かせ、真の生命を花咲かせ、真の血統を花咲かせた所で、永遠の愛、永遠の生命、永遠の血統の主人と家庭、そして神様の平和理想世界王国を収穫しようとしたのが、神様の人間創造の理想だったのです。

 しかし、その場に現れたのは、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統でした。神様の愛と生命と血統が愛の恩讐である姦夫、サタンの所有権のもとに落ちてしまったのです。天地が真っ暗な地獄に変わってしまい、神様までも姿を隠される、そのような凄絶な世界になってしまった事実を、人間は今まで知らずに生きてきました。

 恩讐の血統が生命線であるかのように錯覚し、そこに命を懸けて生きている群像こそが、今日の堕落の末裔となった人類の悲しい姿なのです。それで、この世界を地上地獄と呼ぶのです。

(2005年9月12日米国ニューヨークにて「神様の理想家庭と平和理想世界王国Ⅰ」より)

 

(解説)

 この御言葉は、再臨主が世界の指導者の方々に語られたメッセージの一部です。世界平和を実現するためには、まず理想的な家庭を築くことが先決であり、その家庭は神様と一つになったものでなければ実現できないと語られているのです。神様の中にある真の愛と真の生命と真の血統を子女として受け継ぐことが不可欠なのです。

 しかし、人類は人類始祖の堕落により偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統をもってしまいました。それはどんなものかというと、神様のものでない考え、思いが生まれたということです。聖書の記述「堕落後のエバは、自分が裸であることを恥ずかしく思い下部を隠した」という記述は、自分の思いというものが新たに心に芽生えたということを示しているのです。再臨主は、「自分はというのはサタンだ」と言われています。私たちの心の中の99%は、サタンの情に染まっているのです。この情の中においては、仏教が語るように人間は「無明」です。闇の中で何が正しいのかさえ分からず苦悶するのです。神の心情がわからないから出口が見えないのです。

 再臨主は、愛、生命、血統の三つの中で、すべては血統に結実するから血統が最も重要であると語られます。その通りなのです。旧約聖書に何故、血筋のことが延々と述べられているのか、その秘密は血統に愛と生命が連結されていくことを神様が教えてくださったからです。私もブログで、先祖の因縁が子孫に現れるということを書きました。偽りの愛も偽りの生命も血統に現れてくるのです。神様の血統でない場合、それは偽りの愛、偽りの生命(苦しみ、再堕落、分裂対立、死と滅亡)が血統を通して起きるのです。小手先では越えることはできません。人類が人類始祖より持った宿命だからです。そのことに気づいた宗教者は、来るべき救い主再臨主に一縷の望みを託したのです。

精神疾患の背後にある否定的な潜在意識とヒーリング

 精神疾患は、うつ状態になって黙り込んだりマイナス思考に落ちいったり、そう状態になって陽気にはしゃぎすぎたり支離滅裂になったりとさまざまな症状を示します。その多くは、いまだその原因を突き止められていません。しかも、それぞれの精神疾患には多様な症状があるので、一律にその原因を指摘することもできません。ここでは、今までの宗教並びに精神医学、臨床医学スピリチュアリズム(心霊科学)の研究成果を踏まえて克服する道を探ってみたいと思います(ひと言、私は医師ではないことをお断りしておきます)。

 精神疾患を考えるとき、どんなに健全な人でも精神疾患を起こすということをまず心得ておくことが重要です。臨済禅の中興の祖である白隠禅師も、修行中禅病(瞑想をしていると頭痛がしたり、神経過敏になったりと体調が悪くなる)といわれるうつ病になり、内観法によって克服したといわれています(本人がメモに残しています)。

 

 (1) 潜在記憶とヒーリング

  精神疾患の症状の背後には、患者の潜在記憶が大きな影響を与えているということが分かってきています。鈴木重裕氏の論文から取り上げてみます。

  最近の多くのエピジェネティックスなDNA研究によると、潜在記憶が人間の言動や行動に多大の影響を与えている、ということが明らかになってきた(Tonegawa, 1987; Reik & Walter, 2001; Surani, 2001)。うつ病統合失調症、双極性感情障害を始めとする多くの精神疾患の発症にエピジェネティックスな DNA の変化が指摘されてきている (Kato, 2009; Gregory et.al, 2009)。つまり、先祖から伝わる後天的な心理的要素(ストレスや情動)などの膨大な量の否定的な「潜在記憶」が、DNA を通じて私たちの潜在意識の中に存在しており、その影響は確実に世代を越えて受け継がれているのである (Suzuki, 2009)。この否定的な潜在記憶が生活習慣や対人関係などを含む環境的側面や、性格、気質、体質などの遺伝的素因も関与して人間の否定的な言動や行動を引き起こし、人間に備えられた崇高な価値を見失わせる要因になっているのである。

 あらゆる病気を根源的な観点から医学的に解決するためには、この「否定的な潜在記憶」を解放し消去することが重要であり、その治療的プロセスはヒーリング(癒 し)によってなされることがわかっている。

 ヒーリング(癒し)はどのようにして起こるのであろうか?ヒーリングには「マグネティック・ヒーリング(生体磁気治療:手かざし療法)」と「スピリッチュアル・ヒーリング(祈りによるヒーリング)」の二つがある。ヒーリング・エネルギーの観点から 言えば、前者の作用は肉身の肉体/エーテルレベルの調整に関わっている傾向があり、 治療はヒーラーが患者に手を接近させる形で行われる (Krieger, 1979; Burke, 1980)。 それに対して後者は、肉身の肉体/エーテルレベルで作用するだけではなく、霊人体のアストラルレベル、メンタルレベル、そしてさらに高次のコーザルレベルの機能障害をも調整する。その上、「スピリッチュアル・ヒーリング」は患者がそばにいなくても可 能であり、ヒーラーと患者の間に膨大な距離の隔たりがあっても可能である。

 「スピリッチュアル・ヒーリング」は病気の根治的な治療を目指しており、微細な身体やチャクラのような高次エネルギーレベルに働きかけることを目標としている。スピリッチュアル・ヒーラーは様々な周波数に対応できる電源のように、同時に数段階のレベルのエネルギーを患者に注入する。言い換えると、ほとんどのマグネティック・ヒーラーが物質的身体的レベルのみの治療を行っているのに対し、スピリッチュアル・ヒーラーは心と霊の多数のレベルにも同様に働きかけているのである (Wallace & Henkin, 1978)

 祈りによるヒーリングの治療的効果を最大限に引き出すためには何が必要なのだろうか?それを解決するためのヒントは、潜在意識、脳、顕在意識の繋がりにある。つまり、狭義の祈りとしての顕在意識が、習慣と情動によって、「祈りに満ちた心」としての潜在意識にスムーズに刻み込まれるかどうかが鍵なのである。すなわち、潜在意識、脳、顕在意識が一体化すれば、「祈り(狭義)」と「祈りに満ちた心」が相補的関係になり、共鳴し合い、西洋と東洋の心情が和合・統一された「真の祈り」による「真のヒーリング」が実現されるであろう。

* “統一医学のグローバルな展開” ~治療的ヒーリングの観点から

高知大学医学部臨床教授 医療法人社団真愛会 札幌ファミリークリニック 理事長 鈴木重裕

http://www.utitokyo.sakura.ne.jp/uti-index-gaiyou01-symposium01-schedule01-jk-professor-07-suzuki-shigehiro01.pdf

 

(2)現代の脳科学研究の状況と治療

  現代の脳科学の研究と精神疾患に対する治療にはさまざまな方法が試みられています。一例として認知症に対する治療を見てみると、次のような治療がなされています。① 回想法

本人の楽しかった記憶を呼び起こしながら、心の安定を図る方法。

具体的には、楽しかった思い出の写真やビデオを見せて思い出を思い起こし語ってもらう。話すことで気分が高まり、穏やかな気持ちになるという。

② 作業療法

家庭内で役割を作ることによって体と精神の両方から脳を刺激する。家族のためになることは、大きな満足につながる。

③ 美術療法

絵画や折り紙を作る療法です。五感を刺激することによって脳を刺激します。手先を動かすことはとても重要です。判断力や理解力を向上させます。

④ 音楽療法

音楽に合わせて手をたたいたり歌ったりすることで、脳を活性化することができます。特に、太鼓は心臓の音とリンクするので、身体機能、脳の活性化に役立つとされています。

⑤ 園芸療法

観葉植物などを育てることです。また、動物と触れ合うこともこの中に入ります。毎日育っていくものを観察し触れ合うことで、心が楽しくなります。

⑥ 体操

軽い体操をすることによって、心身をリラックスさせます。

⑦ アロマ療法

アロマによる鎮静作用で、不安やストレス、緊張などで疲れた心を癒し、リラックスすることができます。

 こうした臨床療法は、体や心をリラックスさせることによって、脳の活動を活性化させようとするものです。①の回想法は、過去の楽しい体験を呼び起こすことで、正常な心の状態を取り戻そうとするものです。こうした治療方法が効果をもたらすものであることは、経験的にわかっています。

 また、脳の活動が鈍っている所に電極を埋めたりして電気的刺激を与えて、その部分の脳の活動を活発化させて症状を改善させようとする試みもなされています。(パーキンソン病の治療では行われているようです)。

 こうした臨床治療やマグネティックな生体治療は、全面的ではないとしても効果のある治療法であることは確かです。

 理化学研究所利根川進センター長を中心とする研究チームは、マウス実験によって、うつ状態を示すマウスに楽しかった過去の記憶を人工的に思い出させることによってうつ状態が改善されるという研究結果を発表しています。 http://www.riken.jp/pr/press/2015/20150618_1/

【光遺伝学によってマウスのうつ状態を改善ー楽しかった記憶を光で活性化―(2015年6月18日理化学研究所)】

 理化学研究所理研脳科学総合研究センター 理研-MIT神経回路遺伝学研究センターの利根川進センター長、スティーブ・ラミレス大学院生らの研究チームは、光遺伝学(1)を利用してうつ様行動を示すマウスの海馬の神経細胞の活動を操作して、過去の楽しい記憶を活性化することで、うつ様行動を改善させることに成功している。

(1)光遺伝学:光感受性タンパク質を、遺伝学を用いて特定の神経細胞群に発現させ、その神経細胞群に局所的に光を当てて活性化させたり、抑制したりする技術。

 研究チームは、オスのマウスにメスのマウスと一緒に過ごすという楽しい体験をさせ、その時に活動した海馬の歯状回の神経細胞を遺伝学的手法により標識しました。この技術を用いると、楽しい体験で活性化された海馬歯状回の神経細胞でだけ、チャネルロドプシン2(ChR2)と呼ばれる、光をあてると神経活動を活性化させることができる特殊なタンパク質が作られます。

 次に、そのオスのマウスに体を固定する慢性ストレスを与えて、「嫌な刺激を回避する行動が減る」「本来なら好む甘い砂糖水を好まなくなる」といったうつ様行動が、実際に引き起こされることを確認しました。驚いたことに、この「うつ状態」のマウスにおいて、楽しい体験の記憶として標識された海馬歯状回の神経細胞群に光をあてて人工的に活性化したところ、「嫌な刺激を回避する行動が再び見られる」「砂糖水を再び好むようになる」といったうつ状態の改善がみられました。

 さらに調べると、このうつ状態の改善は、海馬歯状回から扁桃体基底外側部を通り、側坐核の外側の殻であるシェルと呼ばれる領域へとつながる回路の活動によるものであることがわかりました。扁桃体は「恐怖」「喜び」といった情動の記憶に関わる領域であり、側坐核はやる気や意欲、さらに報酬をもらった時に感じる喜びなどと関連する領域だと考えられています。したがって、この結果はメスのマウスと一緒にいるという楽しい体験の最中に実際に感じた喜びの記憶や感覚などが細部まで呼び覚まされて、症状の改善につながっていることを示唆しています。

 研究は、楽しい体験の際に活動した神経細胞群を活性化し、楽しい記憶を人工的に思いださせることで、うつ状態が改善することを初めて示しました。

 

 (3)遺伝的障害による精神疾患

 すべての精神疾患が臨床治療、マグネティックな生体治療で治るとは限りません。ASD(自閉症スペクトラムアスペルガー症候群)と呼ばれる精神疾患群は、遺伝に基づく先天的な疾患であると考えられています。ウェンデイ・チャンが、TEDで2014年(「自閉症―分かっていることと、まだ分かっていないこと)で語った講演の内容を伝えます。

【すべてのASD自閉症スペクトラムアスペルガー症候群)について】

 自閉症は、先天的な脳の機能障害であるとされています。自閉症を引き起こす遺伝子は、200から400あると考えられています。これらの遺伝子は、無作為に存在しているのではなく、実際には結びついて回路が形成されています。治療法はないとされています。遺伝子が1つの要因であることを理解する方法の1つは、一致率と呼ばれるものを見てみることです。一致率を見た時に印象的な点の1つは、一卵性双生児では一致率が77%であることです。非常に顕著ではありますが、100%ではないのです。 遺伝子は、自閉症となるリスクの全てではないもののその大部分を説明できます。なぜなら二卵性双生児の場合だと 一致率はたった31%になるからです。

 ASDには、周辺症状への緩和の薬はあるものの、まだ根源的な部分を解消する薬はまだ開発されていません。脳内神経物質として働くオキシトシンを投与して改善を図る試みがなされているが、効果は未知数。(オキシトシンが分泌されると、幸福感をもたらす。)(ウェンデイ・チャンat TED 2014「自閉症―分かっていることと、まだ分かっていないこと」)

 

 ASDと呼ばれる精神疾患には遺伝子が一つの要因として作用していることが明らかなのですが、遺伝子と疾患がどのような関係性をもって回路を形成しているのかはわかっていません。また、それぞれの遺伝子の働きもよくわかっていません。遺伝子の変異がどうして起きたのかもわかっていませんし、遺伝子を元の状態に修復することがいいのかどうかもわかりません。ひょっとすると、変異している遺伝子は、霊的感性に関与している可能性もあるとも考えられるのです。

 

 (4)スピリチュアル・ヒーリング

  遺伝子が生命の根源であり、生命のすべてを決定しているという唯物論の立場に立つならば、スピリチュアル・ヒーリングはまったく意味がありません。その場合、遺伝子を修復することですべては解決されるはずです。しかし、多くの人は肉体を超えた霊の世界が存在することをうすうす感じています。そうでなければ、先祖供養などはまったく無用のものとなるでしょう。

 スピリチュアル・ヒーリングが有効であるか否かを理解するためには、人間の人体構造についての理解が欠かせません。

 スピリチュアリズム(心霊科学)では、人体は霊体(霊人体)、霊の心、肉体、肉の心(本能)によって構成されているとされています。そして、それぞれの間をエネルギーが行き来しています。宗教的力(エネルギー)というものは、霊の心あるいは霊体から肉体にもたらされているものです。その力(エネルギー)の存在を前提にすると、スピリチュアル・ヒーリングは極めて有効なものであることになります。

 ただ、この仕組みの中で、遺伝子がどのような役割をはたしているかは全く分かっていません。今後の研究にゆだねる問題です。

 次に、スピリチュアル・ヒーリングによる精神疾患治療についてまとめてみます。スピリチュアル・ヒーリングとは、肉体に触れずにオーラによって癒したり遠隔によって直すものであります。祈りのエネルギーと呼べば分かりやすいのではないでしょうか。

 スピリチュアル・ヒーリングでは必ず霊、精神(霊の心)、霊の体、肉体のいずれかの領域でプラスの影響力がもたらされ、活性化されます。その意味では、治癒率は100%ですが、肉体の治癒に至るまでにはまず先に霊レベル、精神レベル、霊体レベルの癒しが実現していないといけません。

 スピリチュアル・ヒーリングの治療効果は、ヒーラーの霊的能力よりも患者サイドの条件(霊的成長度、カルマの程度、霊体と肉体の質、生活習慣、環境など)によって多くが決定されます。こうしたスピリチュアル・ヒーリングの大原則があるので、ヒーラーに過大な期待をすることは間違いなのです。

 前世のカルマによって生じている病気は、どんな治療法によっても治すことはできません。前世のカルマがあると、「霊的エネルギーの取り入れ口(魂の窓)」に制限が加えられ、これが原因になって肉体次元に病気が生じるようになるのです。

 カルマによる病気の苦しみは、それを通して前世の悪行を償うために、摂理の働きによって引き起こされる現象です。「因果律(因果応報)」という神の摂理によって展開される宇宙の営みの一つです。したがって、カルマを償った状態にならない限り、病気は治らないようになっているのです。(前世のカルマによる病気を抱えている人は想像以上に多い。)苦しみの体験を通して「霊」が浄化され、「魂の窓」が開かれる準備が完了すると、病気が治る時期を迎えるのです。そうすると、摂理の働きによってスピリチュアル・ヒーリングを受けるチャンスが訪れ、「霊的エネルギー循環システム」が一気に正常化され、病気は奇跡的に治されることになるのです。

http://spiritualhealing-volunteer.jp/healing/outcome/oc-2.html

 

  スピリチュアル・ヒーリングでは、最も優れた祈りによるヒーリング専門のヒーラーの手によっても、一般的にはせいぜい 20%の確率でしか成功しないといわれます。歴史上には、エドガ-・ケーシーなど有名なヒーラーがいますが、その中で歴史上最高のスピリチュアル・ヒーラーとして世界中の人々から尊敬を集めたのがハリー・エドワーズ(1893~1976)です。ハリー・エドワーズの治療の結果は、効果が認められたケースが80%、完治したケースが30%でした。また、鈴木重裕氏が報告されている某団体のスピリチュアル・ヒーリング役事での総合的・統一的に行われる霊性治療の改善率は約 77%であるそうです。この数字は驚異的であります。

 最後に、鈴木重裕氏は、次のようにも言われています。人間には、自己中心の「自体自覚」を引き起こす傲慢な潜在記憶に満ち溢れています。「私」は罪人であるという現実を知ることが必要であり、自分を罪人と認めたとき、自己への執着から解放されるのである、と。

 精神疾患について、どこに原因があるのかどうすれば治るのか、糸口が見つかったならば幸いです。