再臨主の御言葉(2)地上生活と霊界

 人間の霊人体と肉身の関係について見てみるとき、より重要なのは、肉身ではなく霊人体です。肉身は百年くらい生きて死にますが、霊人体は、時間と空間を超越して永生します。いくら地上界で良い服を着て、良い物を食べ、裕福に暮らす人も、結局、死ぬのです。したがって、皆様の人生は、霊的な基準と肉的な基準をよく調和させ、霊肉が一つになった完成実体を成して暮らしてから逝かなければなりません。現象世界であり有限世界である地上界の人生で、肉身を土台として霊人体を完成させるべき責任があるということです。

 ところが、霊人体の完成は自動的にやって来るのではありません。必ず真の愛の実践を通して、体と心が完全一体となった人生の土台の上で、初めて完熟した霊人体が結果として実っていくのです。

 皆様、秋になって、倉庫に入っていくよく熟した果物になるためには、春と夏という過程を経ながら、自然界が提供してくれる栄養素と、主人の細やかな世話が絶対に必要です。無精で見識のない主人に出遭った果樹園の果物は、あらゆる疾病と悪天候に悩まされ、熟すこともできないまま落果したり、虫に食われた果物として分類されたりしてしまうでしょう。果物は果物ですが、同じ果物ではありません。市場に出して売れる完成品にはなれないのです。

 木の上で完熟した果物は、自動的に主人の倉庫に入っていきます。同じように、人間の霊人体は、木と同じ立場にある地上界の人生で完成してこそ、自動的に無形世界である霊界の天国に入っていくのです。言い換えれば、人間は、肉身をもって暮らす地上界の人生で、完熟した人生、すなわち、この地に天国を成し、楽しく暮らしてから逝ってこそ、自動的に天上天国に入城するようになるのです。

 地上界で暮らす間、皆様の一挙手一投足は、このような天の公法を基準として、一つ残らず皆様の霊人体に記録されます。したがって、霊界に入っていく皆様の姿は、肉界での人生を100%収録した霊人体の姿です。よく熟した善の人生だったのか、虫に食われ腐った悪の人生だったのかは、皆様の霊人体に赤裸々に現れるのです。神様が皆様の審判主ではなく、皆様自らが自分の審判官になるということです。このような途方もなく恐ろしい天理を知れば、どうしてあえて地上界の人生を、あらゆるサタンの誘惑に陥り、利己的で、快楽ばかりを追い求める背徳の人生で終えることができるでしょうか。皆様の霊人体に傷を負わせ、傷跡をつけることは、命を懸けて慎まなければなりません。天国行きと地獄行きが、きょうこの時間、皆様の考えと言行で決定されるという事実を、はっきりと肝に銘じてくださるよう願います。

 ところが、霊人体自体が真の愛の人生を主導し、実践できるのではありません。皆様の霊人体は、必ず体と心の円滑な授受作用によって展開する肉身の人生を土台とした真の愛の人生を通してこそ成長し、完熟し、完成するのです。

 しかし、皆様の中では、外なる人と内なる人が絶えず葛藤し、争っていることを否定しえないでしょう。あとどのくらいこの争いを継続されますか。十年ですか。百年ですか。宇宙のすべての存在には、厳然とした秩序があります。神様は、私たち人間を、そのように不完全な状態で創造されたのではないというのです。外なる人である肉身の誘惑を果敢に振り切ってしまい、内なる人である良心の道に従って人生の勝利を達成することが、皆様の人間たる義務であり、責任だということを知らなければなりません。このような人生を生きる人には、天運が共にあり、霊人体の完成も見ることができるのです。〈2006年10月14日平和メッセージ「天宙平和統一王国創建の真なる主人Ⅱ」より〉

 

(解説)

 私たち人間は、この世の人生を終えるとどのようになるのか、誰もが考えることではないでしょうか。人間はいつの時代も、死後の世界はあるのかないのかから始まってこの地上での行いが死後の世界にどのように関係するのかと、関心を持ち続けてきました。

 このことについては、今までの人類歴史の中で様々な宗教が多くのことを説いてきました。亡くなった後のことは知っても意味がないから今を生きるのだとか、神様、仏様を信じて逝けばその世界に行けるとか、死後生前の行為の審判があって天国か地獄か行先が分かれるのだとか言われてきました。

 本当のことは、誰にもよくわからないというのが多くの人の正直な感想でしょう。しかし、スエーデンボルグが霊界日記を著わしたように、また霊界からのメッセージが霊媒者を通じてもたらされているように、どうやら霊界という存在は荒唐無稽のものではないかもしれないとも思ってきました。

 最近では、生前記憶を持っている子供が生前の記憶を語る例もみられています。また、量子物理学の世界では、私たちの記憶・意識は死後も無くならないといわれるようになりました。(このことについては、ブログ「量子物理学の世界では意識の不滅が論争になりつつあるようだ」で記述した。)

 では、どうして私たちは死後の世界にそこまで関心を持つのでしょうか。それは、私たちの意識は消え去るものではないのではないかという本能的な感覚があるからです。本心は知っているのです、「意識はなくならない」と。

 私たちが感じている感覚、「死後の世界はあって私たちの意識は続く」というのが真実だからです。再臨主が語られているように、この地上生活のすべては霊人体に刻み込まれて、そのすべてを持って私たちは霊界に旅立つのです。今の私の意識と今までの行為が死後の世界を決定するのです。死後の世界は、自らの意思で自分の住処を決めるのです。閻魔大王が決めるのではないのです。神様を信じて真の愛に生きた人は神様に近いところが住みやすい住処でしょう。反対に、神様と真の愛に遠ければそのような世界を選ぶことになるでしょう。こうして自然に天国に近い住処と地獄に近い住処に分かれていくようです。

再臨主の御言葉(1) 神様の願う理想家庭と血統

 神様が人間を創造した究極的な目的はどこにあると思われますか。それは真の愛を中心とした理想家庭の完成を通して喜びを感じることでした。では、理想家庭とはどのような姿でしょうか。神様が創造された最初の人間は、男性格を代表したモデルとしてのアダムと女性格を代表したモデルとしてのエバでした。彼らが真の愛の見本となる人格者、主人になる道とはどのような道だったのでしょうか。一言で言えば、神様を父として侍って生きていける、父母と子女の関係を確保するモデル平和理想家庭でした。神様と一つの家庭を成し、永遠に喜びを感じて生きる道である、という意味です。

 皆さんも、祈祷を通して神秘的な境地に入り、この宇宙の中心は何なのかと尋ねてみてください。「父子関係」という答えを聞くようになるでしょう。父母と子女間の関係以上に、重要で貴いものはないということです。これが、宇宙を創造された神様と人間の根本的関係であるからです。

 そうであるならば、父子の関係がもっている特性とは何でしょうか。真の愛と真の生命と真の血統の関係です。真の父母の真の愛が前提とならなければ、私たちの真の生命が存在することはできません。すなわち、神様の前に人間は、絶対的な真の愛の相対として創造されたということです。そこは、正に神様が父となり、人間は息子、娘となる軸が立てられる所なのです。

(中略)

 ところで、アダムとエバの堕落以来、長い歴史を通して神様の胸に痛む恨として残されてきたものが何であるか、ご存知でしょうか。それは、天の血統を失ってしまい、兄弟圏と所有権まで失ってしまった事件です。

 生命よりも貴く、愛よりも重要なものが血統です。生命と愛が合わさって創造されるものが血統です。これらのうち、生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統なのです。

 神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。したがって、この血統と連結されれば、神様が理想とされた理想人間、すなわち人格完成も可能であり、理想家庭も生まれるのであり、さらには神様の祖国、理想国家も出現するのです。

 平和理想世界王国は、このように創建されるのです。血統の重要性は、いくら強調してもしすぎることはないということを、皆さんも肝に銘じなければなりません。

 血統がなければ、生命はもちろん、愛も離れてしまいます。血統が残ってこそ、愛した自分の伝統が残され、血統が存続してこそ、父母の息遣いが継続していくのです。言い換えれば、父母に愛の実、生命の実、血統の実、そしてすべての喜びの実を提供する最初で最後の必要十分条件は、真なる血統であることを、はっきりと知らなければなりません。

 ところが、生命とも取り替えられない、この血統を失ってしまいました。真の生命と真の愛の実を結べなかったのです。地球星に広がっている60億の人類が、天とは何の関係もない、サタンの実に転落してしまったのです。

 神様が蒔いた種が大豊作になり、秋に収穫しようとした園が、エデンの園でした。アダムとエバ、二人の息子、娘を育てて真の愛を花咲かせ、真の生命を花咲かせ、真の血統を花咲かせた所で、永遠の愛、永遠の生命、永遠の血統の主人と家庭、そして神様の平和理想世界王国を収穫しようとしたのが、神様の人間創造の理想だったのです。

 しかし、その場に現れたのは、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統でした。神様の愛と生命と血統が愛の恩讐である姦夫、サタンの所有権のもとに落ちてしまったのです。天地が真っ暗な地獄に変わってしまい、神様までも姿を隠される、そのような凄絶な世界になってしまった事実を、人間は今まで知らずに生きてきました。

 恩讐の血統が生命線であるかのように錯覚し、そこに命を懸けて生きている群像こそが、今日の堕落の末裔となった人類の悲しい姿なのです。それで、この世界を地上地獄と呼ぶのです。

(2005年9月12日米国ニューヨークにて「神様の理想家庭と平和理想世界王国Ⅰ」より)

 

(解説)

 この御言葉は、再臨主が世界の指導者の方々に語られたメッセージの一部です。世界平和を実現するためには、まず理想的な家庭を築くことが先決であり、その家庭は神様と一つになったものでなければ実現できないと語られているのです。神様の中にある真の愛と真の生命と真の血統を子女として受け継ぐことが不可欠なのです。

 しかし、人類は人類始祖の堕落により偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統をもってしまいました。それはどんなものかというと、神様のものでない考え、思いが生まれたということです。聖書の記述「堕落後のエバは、自分が裸であることを恥ずかしく思い下部を隠した」という記述は、自分の思いというものが新たに心に芽生えたということを示しているのです。再臨主は、「自分はというのはサタンだ」と言われています。私たちの心の中の99%は、サタンの情に染まっているのです。この情の中においては、仏教が語るように人間は「無明」です。闇の中で何が正しいのかさえ分からず苦悶するのです。神の心情がわからないから出口が見えないのです。

 再臨主は、愛、生命、血統の三つの中で、すべては血統に結実するから血統が最も重要であると語られます。その通りなのです。旧約聖書に何故、血筋のことが延々と述べられているのか、その秘密は血統に愛と生命が連結されていくことを神様が教えてくださったからです。私もブログで、先祖の因縁が子孫に現れるということを書きました。偽りの愛も偽りの生命も血統に現れてくるのです。神様の血統でない場合、それは偽りの愛、偽りの生命(苦しみ、再堕落、分裂対立、死と滅亡)が血統を通して起きるのです。小手先では越えることはできません。人類が人類始祖より持った宿命だからです。そのことに気づいた宗教者は、来るべき救い主再臨主に一縷の望みを託したのです。

精神疾患の背後にある否定的な潜在意識とヒーリング

 精神疾患は、うつ状態になって黙り込んだりマイナス思考に落ちいったり、そう状態になって陽気にはしゃぎすぎたり支離滅裂になったりとさまざまな症状を示します。その多くは、いまだその原因を突き止められていません。しかも、それぞれの精神疾患には多様な症状があるので、一律にその原因を指摘することもできません。ここでは、今までの宗教並びに精神医学、臨床医学スピリチュアリズム(心霊科学)の研究成果を踏まえて克服する道を探ってみたいと思います(ひと言、私は医師ではないことをお断りしておきます)。

 精神疾患を考えるとき、どんなに健全な人でも精神疾患を起こすということをまず心得ておくことが重要です。臨済禅の中興の祖である白隠禅師も、修行中禅病(瞑想をしていると頭痛がしたり、神経過敏になったりと体調が悪くなる)といわれるうつ病になり、内観法によって克服したといわれています(本人がメモに残しています)。

 

 (1) 潜在記憶とヒーリング

  精神疾患の症状の背後には、患者の潜在記憶が大きな影響を与えているということが分かってきています。鈴木重裕氏の論文から取り上げてみます。

  最近の多くのエピジェネティックスなDNA研究によると、潜在記憶が人間の言動や行動に多大の影響を与えている、ということが明らかになってきた(Tonegawa, 1987; Reik & Walter, 2001; Surani, 2001)。うつ病統合失調症、双極性感情障害を始めとする多くの精神疾患の発症にエピジェネティックスな DNA の変化が指摘されてきている (Kato, 2009; Gregory et.al, 2009)。つまり、先祖から伝わる後天的な心理的要素(ストレスや情動)などの膨大な量の否定的な「潜在記憶」が、DNA を通じて私たちの潜在意識の中に存在しており、その影響は確実に世代を越えて受け継がれているのである (Suzuki, 2009)。この否定的な潜在記憶が生活習慣や対人関係などを含む環境的側面や、性格、気質、体質などの遺伝的素因も関与して人間の否定的な言動や行動を引き起こし、人間に備えられた崇高な価値を見失わせる要因になっているのである。

 あらゆる病気を根源的な観点から医学的に解決するためには、この「否定的な潜在記憶」を解放し消去することが重要であり、その治療的プロセスはヒーリング(癒 し)によってなされることがわかっている。

 ヒーリング(癒し)はどのようにして起こるのであろうか?ヒーリングには「マグネティック・ヒーリング(生体磁気治療:手かざし療法)」と「スピリッチュアル・ヒーリング(祈りによるヒーリング)」の二つがある。ヒーリング・エネルギーの観点から 言えば、前者の作用は肉身の肉体/エーテルレベルの調整に関わっている傾向があり、 治療はヒーラーが患者に手を接近させる形で行われる (Krieger, 1979; Burke, 1980)。 それに対して後者は、肉身の肉体/エーテルレベルで作用するだけではなく、霊人体のアストラルレベル、メンタルレベル、そしてさらに高次のコーザルレベルの機能障害をも調整する。その上、「スピリッチュアル・ヒーリング」は患者がそばにいなくても可 能であり、ヒーラーと患者の間に膨大な距離の隔たりがあっても可能である。

 「スピリッチュアル・ヒーリング」は病気の根治的な治療を目指しており、微細な身体やチャクラのような高次エネルギーレベルに働きかけることを目標としている。スピリッチュアル・ヒーラーは様々な周波数に対応できる電源のように、同時に数段階のレベルのエネルギーを患者に注入する。言い換えると、ほとんどのマグネティック・ヒーラーが物質的身体的レベルのみの治療を行っているのに対し、スピリッチュアル・ヒーラーは心と霊の多数のレベルにも同様に働きかけているのである (Wallace & Henkin, 1978)

 祈りによるヒーリングの治療的効果を最大限に引き出すためには何が必要なのだろうか?それを解決するためのヒントは、潜在意識、脳、顕在意識の繋がりにある。つまり、狭義の祈りとしての顕在意識が、習慣と情動によって、「祈りに満ちた心」としての潜在意識にスムーズに刻み込まれるかどうかが鍵なのである。すなわち、潜在意識、脳、顕在意識が一体化すれば、「祈り(狭義)」と「祈りに満ちた心」が相補的関係になり、共鳴し合い、西洋と東洋の心情が和合・統一された「真の祈り」による「真のヒーリング」が実現されるであろう。

* “統一医学のグローバルな展開” ~治療的ヒーリングの観点から

高知大学医学部臨床教授 医療法人社団真愛会 札幌ファミリークリニック 理事長 鈴木重裕

http://www.utitokyo.sakura.ne.jp/uti-index-gaiyou01-symposium01-schedule01-jk-professor-07-suzuki-shigehiro01.pdf

 

(2)現代の脳科学研究の状況と治療

  現代の脳科学の研究と精神疾患に対する治療にはさまざまな方法が試みられています。一例として認知症に対する治療を見てみると、次のような治療がなされています。① 回想法

本人の楽しかった記憶を呼び起こしながら、心の安定を図る方法。

具体的には、楽しかった思い出の写真やビデオを見せて思い出を思い起こし語ってもらう。話すことで気分が高まり、穏やかな気持ちになるという。

② 作業療法

家庭内で役割を作ることによって体と精神の両方から脳を刺激する。家族のためになることは、大きな満足につながる。

③ 美術療法

絵画や折り紙を作る療法です。五感を刺激することによって脳を刺激します。手先を動かすことはとても重要です。判断力や理解力を向上させます。

④ 音楽療法

音楽に合わせて手をたたいたり歌ったりすることで、脳を活性化することができます。特に、太鼓は心臓の音とリンクするので、身体機能、脳の活性化に役立つとされています。

⑤ 園芸療法

観葉植物などを育てることです。また、動物と触れ合うこともこの中に入ります。毎日育っていくものを観察し触れ合うことで、心が楽しくなります。

⑥ 体操

軽い体操をすることによって、心身をリラックスさせます。

⑦ アロマ療法

アロマによる鎮静作用で、不安やストレス、緊張などで疲れた心を癒し、リラックスすることができます。

 こうした臨床療法は、体や心をリラックスさせることによって、脳の活動を活性化させようとするものです。①の回想法は、過去の楽しい体験を呼び起こすことで、正常な心の状態を取り戻そうとするものです。こうした治療方法が効果をもたらすものであることは、経験的にわかっています。

 また、脳の活動が鈍っている所に電極を埋めたりして電気的刺激を与えて、その部分の脳の活動を活発化させて症状を改善させようとする試みもなされています。(パーキンソン病の治療では行われているようです)。

 こうした臨床治療やマグネティックな生体治療は、全面的ではないとしても効果のある治療法であることは確かです。

 理化学研究所利根川進センター長を中心とする研究チームは、マウス実験によって、うつ状態を示すマウスに楽しかった過去の記憶を人工的に思い出させることによってうつ状態が改善されるという研究結果を発表しています。 http://www.riken.jp/pr/press/2015/20150618_1/

【光遺伝学によってマウスのうつ状態を改善ー楽しかった記憶を光で活性化―(2015年6月18日理化学研究所)】

 理化学研究所理研脳科学総合研究センター 理研-MIT神経回路遺伝学研究センターの利根川進センター長、スティーブ・ラミレス大学院生らの研究チームは、光遺伝学(1)を利用してうつ様行動を示すマウスの海馬の神経細胞の活動を操作して、過去の楽しい記憶を活性化することで、うつ様行動を改善させることに成功している。

(1)光遺伝学:光感受性タンパク質を、遺伝学を用いて特定の神経細胞群に発現させ、その神経細胞群に局所的に光を当てて活性化させたり、抑制したりする技術。

 研究チームは、オスのマウスにメスのマウスと一緒に過ごすという楽しい体験をさせ、その時に活動した海馬の歯状回の神経細胞を遺伝学的手法により標識しました。この技術を用いると、楽しい体験で活性化された海馬歯状回の神経細胞でだけ、チャネルロドプシン2(ChR2)と呼ばれる、光をあてると神経活動を活性化させることができる特殊なタンパク質が作られます。

 次に、そのオスのマウスに体を固定する慢性ストレスを与えて、「嫌な刺激を回避する行動が減る」「本来なら好む甘い砂糖水を好まなくなる」といったうつ様行動が、実際に引き起こされることを確認しました。驚いたことに、この「うつ状態」のマウスにおいて、楽しい体験の記憶として標識された海馬歯状回の神経細胞群に光をあてて人工的に活性化したところ、「嫌な刺激を回避する行動が再び見られる」「砂糖水を再び好むようになる」といったうつ状態の改善がみられました。

 さらに調べると、このうつ状態の改善は、海馬歯状回から扁桃体基底外側部を通り、側坐核の外側の殻であるシェルと呼ばれる領域へとつながる回路の活動によるものであることがわかりました。扁桃体は「恐怖」「喜び」といった情動の記憶に関わる領域であり、側坐核はやる気や意欲、さらに報酬をもらった時に感じる喜びなどと関連する領域だと考えられています。したがって、この結果はメスのマウスと一緒にいるという楽しい体験の最中に実際に感じた喜びの記憶や感覚などが細部まで呼び覚まされて、症状の改善につながっていることを示唆しています。

 研究は、楽しい体験の際に活動した神経細胞群を活性化し、楽しい記憶を人工的に思いださせることで、うつ状態が改善することを初めて示しました。

 

 (3)遺伝的障害による精神疾患

 すべての精神疾患が臨床治療、マグネティックな生体治療で治るとは限りません。ASD(自閉症スペクトラムアスペルガー症候群)と呼ばれる精神疾患群は、遺伝に基づく先天的な疾患であると考えられています。ウェンデイ・チャンが、TEDで2014年(「自閉症―分かっていることと、まだ分かっていないこと)で語った講演の内容を伝えます。

【すべてのASD自閉症スペクトラムアスペルガー症候群)について】

 自閉症は、先天的な脳の機能障害であるとされています。自閉症を引き起こす遺伝子は、200から400あると考えられています。これらの遺伝子は、無作為に存在しているのではなく、実際には結びついて回路が形成されています。治療法はないとされています。遺伝子が1つの要因であることを理解する方法の1つは、一致率と呼ばれるものを見てみることです。一致率を見た時に印象的な点の1つは、一卵性双生児では一致率が77%であることです。非常に顕著ではありますが、100%ではないのです。 遺伝子は、自閉症となるリスクの全てではないもののその大部分を説明できます。なぜなら二卵性双生児の場合だと 一致率はたった31%になるからです。

 ASDには、周辺症状への緩和の薬はあるものの、まだ根源的な部分を解消する薬はまだ開発されていません。脳内神経物質として働くオキシトシンを投与して改善を図る試みがなされているが、効果は未知数。(オキシトシンが分泌されると、幸福感をもたらす。)(ウェンデイ・チャンat TED 2014「自閉症―分かっていることと、まだ分かっていないこと」)

 

 ASDと呼ばれる精神疾患には遺伝子が一つの要因として作用していることが明らかなのですが、遺伝子と疾患がどのような関係性をもって回路を形成しているのかはわかっていません。また、それぞれの遺伝子の働きもよくわかっていません。遺伝子の変異がどうして起きたのかもわかっていませんし、遺伝子を元の状態に修復することがいいのかどうかもわかりません。ひょっとすると、変異している遺伝子は、霊的感性に関与している可能性もあるとも考えられるのです。

 

 (4)スピリチュアル・ヒーリング

  遺伝子が生命の根源であり、生命のすべてを決定しているという唯物論の立場に立つならば、スピリチュアル・ヒーリングはまったく意味がありません。その場合、遺伝子を修復することですべては解決されるはずです。しかし、多くの人は肉体を超えた霊の世界が存在することをうすうす感じています。そうでなければ、先祖供養などはまったく無用のものとなるでしょう。

 スピリチュアル・ヒーリングが有効であるか否かを理解するためには、人間の人体構造についての理解が欠かせません。

 スピリチュアリズム(心霊科学)では、人体は霊体(霊人体)、霊の心、肉体、肉の心(本能)によって構成されているとされています。そして、それぞれの間をエネルギーが行き来しています。宗教的力(エネルギー)というものは、霊の心あるいは霊体から肉体にもたらされているものです。その力(エネルギー)の存在を前提にすると、スピリチュアル・ヒーリングは極めて有効なものであることになります。

 ただ、この仕組みの中で、遺伝子がどのような役割をはたしているかは全く分かっていません。今後の研究にゆだねる問題です。

 次に、スピリチュアル・ヒーリングによる精神疾患治療についてまとめてみます。スピリチュアル・ヒーリングとは、肉体に触れずにオーラによって癒したり遠隔によって直すものであります。祈りのエネルギーと呼べば分かりやすいのではないでしょうか。

 スピリチュアル・ヒーリングでは必ず霊、精神(霊の心)、霊の体、肉体のいずれかの領域でプラスの影響力がもたらされ、活性化されます。その意味では、治癒率は100%ですが、肉体の治癒に至るまでにはまず先に霊レベル、精神レベル、霊体レベルの癒しが実現していないといけません。

 スピリチュアル・ヒーリングの治療効果は、ヒーラーの霊的能力よりも患者サイドの条件(霊的成長度、カルマの程度、霊体と肉体の質、生活習慣、環境など)によって多くが決定されます。こうしたスピリチュアル・ヒーリングの大原則があるので、ヒーラーに過大な期待をすることは間違いなのです。

 前世のカルマによって生じている病気は、どんな治療法によっても治すことはできません。前世のカルマがあると、「霊的エネルギーの取り入れ口(魂の窓)」に制限が加えられ、これが原因になって肉体次元に病気が生じるようになるのです。

 カルマによる病気の苦しみは、それを通して前世の悪行を償うために、摂理の働きによって引き起こされる現象です。「因果律(因果応報)」という神の摂理によって展開される宇宙の営みの一つです。したがって、カルマを償った状態にならない限り、病気は治らないようになっているのです。(前世のカルマによる病気を抱えている人は想像以上に多い。)苦しみの体験を通して「霊」が浄化され、「魂の窓」が開かれる準備が完了すると、病気が治る時期を迎えるのです。そうすると、摂理の働きによってスピリチュアル・ヒーリングを受けるチャンスが訪れ、「霊的エネルギー循環システム」が一気に正常化され、病気は奇跡的に治されることになるのです。

http://spiritualhealing-volunteer.jp/healing/outcome/oc-2.html

 

  スピリチュアル・ヒーリングでは、最も優れた祈りによるヒーリング専門のヒーラーの手によっても、一般的にはせいぜい 20%の確率でしか成功しないといわれます。歴史上には、エドガ-・ケーシーなど有名なヒーラーがいますが、その中で歴史上最高のスピリチュアル・ヒーラーとして世界中の人々から尊敬を集めたのがハリー・エドワーズ(1893~1976)です。ハリー・エドワーズの治療の結果は、効果が認められたケースが80%、完治したケースが30%でした。また、鈴木重裕氏が報告されている某団体のスピリチュアル・ヒーリング役事での総合的・統一的に行われる霊性治療の改善率は約 77%であるそうです。この数字は驚異的であります。

 最後に、鈴木重裕氏は、次のようにも言われています。人間には、自己中心の「自体自覚」を引き起こす傲慢な潜在記憶に満ち溢れています。「私」は罪人であるという現実を知ることが必要であり、自分を罪人と認めたとき、自己への執着から解放されるのである、と。

 精神疾患について、どこに原因があるのかどうすれば治るのか、糸口が見つかったならば幸いです。

摂理として働く神とサタン (2)神とサタンの基台の奪い合い

1、神の摂理と基台

 宇宙は、単なる容器にすぎないと考えている人であっても、根源に見えない力が存在して作用しているのではないかと考えておられる人は多いのではないでしょうか。その根源の力を神、究極の力(意思)と呼ぶのです。

 今まで人間は、神とは人間のように一つの意思ある存在(人格身)としてとらえてきました。人間に奇跡をもたらし、啓示をおろして人々を導く存在として考えてきました。その御方が神自体かそれとも神の代身なのか知る由もなかったが、人間は一括りにして神と呼んできました。

 しかし、科学が発達し、一方においてスウェーデンボルグシルバーバーチなどによってスピリチュアリズム(心霊科学)が進展するにつれ、神を人格神としてとらえることに無理が生じてきました。ブログ「神と霊界の存在形態<神はいかなる御方か、そして霊界は>」(2016/6/25)において記したように、私たちの現実世界の背後には霊的世界が存在し、霊的世界は人間の霊と霊的世界だけの存在である霊的実体(キリスト教でいう天使と万物)によって構成されているとおぼろげながらわかりかけてきました。霊的世界は、想念の世界なので現実世界のように時間空間に縛られていません。また、霊的世界は単独で存在しているのではなく、霊的世界で生じた想念は一人一人の人間を通じて現実世界に作用していることもわかってきました。我々人間は地上での生活を終えると、霊的世界に旅立ち、また霊的世界から地上世界に生まれ変わりというような形で戻ってくることもわかってきました。仏教でいわれてきた縁の世界は、霊的世界を理解するようになってだいぶ分かりやすくなってきたのです。

 このような姿がわかってきて、神は霊的世界に一つの意思ある存在(人格神)として存在しているのではなく、霊的世界の更に背後に存在して、霊的世界の善霊を通じて現実世界に力を及ぼしているようだと理解されてきたのです。

 神の摂理とは、霊的世界の背後に存在する無形の神が現実世界に働きかけるにあたっての時間空間的展開の形なのです。そこに神が姿をあらわす時間的法則、空間的法則が存在するのです。歴史においてしばしば現れる歴史の繰り返し現象や占い(易)で予言として語られる現象は、摂理的展開として現実世界に現れる事象を過去の経験から導き出してきたものなのです。

 

 2 サタンの介在と摂理

 神の摂理だけが作用しているのであれば、現実世界は宇宙のように整然とした秩序に満たされた世界になったはずです。しかし、現実の地上世界は苦に満ちた住みにくい闘争の世界であります。その根源は、すべての宗教が語っているように、我々人間の心に問題があり(仏教では煩悩と呼んでいる。キリスト教では罪と呼んでいる)、人々を対立と闘争に向かわしめていることにあるのです。すべての宗教は、そこから脱却する道を必死に探求してきました。それがどんなに大変なことか、宗教がこのことに費やしたエネルギーを考えればわかると思います。

 お釈迦様は、悟りに至る最後の段階で色魔の誘惑を受けます。この色魔は単なる妄想だけなのか、それと実体ある存在なのか、疑問に思われている方も多いと思います。聖書の創世記には、天使長ルシファーがイブを誘惑して堕落させたことにより地に落とされサタンになったと記されています。キリスト教は、霊的実体としてサタン(悪なる力)の存在を認めています。

 妄想は単なる思いだけなのか、それともそれ以上のものなのか。霊的感覚のある人ならば、霊的世界にいる霊的存在としての人間(幽霊など)あるいは天使その他の存在を感覚的に感じると思います。そして、霊的存在から何らかの波動を受けると実感しておられるでしょう。私たちは、霊的存在から影響を受けているのです。霊的スポットといわれる場所は、霊的波動を強力に発している所です。非業の死者を多く出した場所は重々しく、聖なる神社、教会はすがすがしいのです。人間の妄想に霊的存在の力が加わると、妄想は制御できないくらい強力になって人間を苦しめることになるのです。

 人間の堕落と原罪という人類始祖の物語は、このことが分からないと絵空事になってしまうのです。人類始祖を堕落させた存在、霊的存在であるサタンは、神に反抗するもう一つの主人として、人間とは自分中心的な存在であると主張して、自分の配下に組み込もうとしているのです。サタン(悪なる力)とその配下の悪霊団は、神が摂理を通して働くように神の摂理を利用して働くのです。神とサタンは、摂理という時間空間に作用する法則を通じて対峙しているのです。

 摂理の時というのは、神とサタン(悪魔)の双方が領有権を争う瞬間であり、人間が神を選択するかサタン(悪なる力)を選択するかの時なのです。サタン(悪なる力)は、人間は自分中心の存在であると主張し、神は人間は利他愛に満ちた存在であると主張するのです。選択の主権は、人間にゆだねられているのですが、いつも人間はサタンの主張通りの選択をしてきたのです。歴史は、ほとんどサタン(悪の力)の勝利で終わってきたのです。それゆえ、この世界から苦しみも対立も闘争もなくなることはありませんでした。

 神は、そうした中で数少ない神の勝利圏(義人聖人の信仰の勝利)を土台にして人間を救う摂理をされてきたのです。

 

 3、神の基台醸成とサタンの基台つぶし

3-1、個人基台(自灯明)

 「自らを灯明として生きなさい(自灯明)」。この言葉は、お釈迦様が最後に言い残された言葉です。自分自身を拠り所として、世を照らす光となって生きなさいという意味です。

 人間誰もが、自らの中に森羅万象、宇宙とつながる唯一の存在としてのすばらしい自我を有しています。お釈迦様は、それを「天上天下唯我独尊」と呼ばれました。誰もが自分の中にかけがえのない灯明を持っています。それを発見することこそが自分の人生なのです。それを発見し、その道を懸命に歩むことがここでいう個人基台なのです。それは他人と比べることはできません。あなたの代わりはいないのですから。

 しかし、それを発見しそれに尽力することは至難の業です。今までほとんどの宗教がこのことに専心してきたのは、これがいかに難しいものであるかを物語っています。自分を主管する、自分を律するということは、世界のことを考える以上に難しいものなのです。

 私たちの心の中に煩悩・罪が宿っているからです。生老病死や愛別離苦・怨憎会(おんぞうえ)苦・求不得(ぐふとく)苦・五陰盛(ごおんじょう)苦だけが煩悩ではありません。

 お釈迦様は、瞑想の中で「人間は無明である(根本的に無知である)。人生における人間の苦しみは、すべてこの無明から始まる」ことを発見しました。私は何も知らないということに気づいたのです。空の存在なのです。それなのに私たちは、ごく普通に「自分は」という言葉を発しています。「自分は」という言葉の中に、「自分は正しい」「自分の意見としては」という観念がはりつき、こころを支配しているのです。自分という観念は、煩悩そのものなのだと気づくことが重要なのです。自分という存在は、単独で独立して存在しているものではないのです。デカルトの「我思う、故に我有り」という命題は、私たちの心に「自分」という観念が正しいように植え付けてしまいました。

 「私」という観念は空虚なものなのです。仏教では、無我を説きます。それは通常、「我をなくせ」という風に解釈されています。それは正しくありません。もともと「我はない」というのが本来の意味です。

 個人基台を醸成するということは、私という観念を滅却して私の背後にある存在-神とか仏-につながろうとすることなのです。それは、新しい自分に目覚めるということであり、生かされているということに気づくことなのです。神につながっている、天宙の呼吸に合わせられている、すべての身の回りのものが貴重に見えるというかけがえのない世界を体感することなのです。そのことを追求しなければいけません。

 その道から外れたならば、サタン(悪なる力)が待ち構えていて煩悩と罪の世界へ導いていくのです。そうなると、どんどん深みにはめられていくのです。

 

3-2、家庭基台

 家庭は、人間が地上生活をおくるにあたっての最小単位であり、生活の基盤となるものです。誰もが幸せな家庭を願うのは当然のことなのです。人間の一生を考えた場合、祖父母、父母、子の最低三世代が同居して生活するのが基本であり最も安定する形であるといえましょう。この姿が家庭の基台なのです。

 しかし、人間はこの形を崩してきました。夫婦が仲違いし兄弟が仲違いし、親子が仲違いしてきました。人類歴史を振り返ると、仲違いと対立、分裂の歴史であることがわかります。

 仲違いと分裂は、世代間の摂理として子孫に受け継がれることになっていきます。このことは、ブログ「家系の法則(1)」「家系の法則(2)」「家系の法則(3)」で詳しく説明してきました。先祖の失敗があると、子孫は先祖が失敗したのを復元する必要があるので、同じような状況を再び迎えることになります。先祖が失敗した形なので、なぜそのような状況を迎えるのかわからないと再び同じ失敗を犯すことになりやすいのです。その結果、代々同じ失敗を繰り返すことになり、〇〇家の業として子々孫々に語り継がれていくのです。

 家が代々続いてきたということは、先祖が家庭の基台を守り、逸脱した行為を最小限に抑え、先祖の失敗を清算してきた賜物であることを忘れてはいけません。

 家庭基台を取り戻すためには、祖父母、父母、子の三世代の相互の間で、先祖が失敗してきた状況(夫婦の仲違い、親子の仲違い、兄弟の仲違い)から犯した罪(浮気、殺人、離婚など)を清算するために、同じような状況の中でお互いが仲違いしかねない情の対立を乗り越えて一つになることが必要となるのです。

 近年、家庭内で親子の相克、家庭内暴力、子供の閉じこもりを始めとした精神疾患が急増していますが、これも先祖の失敗に起因している可能性が高い現象なのです。それゆえ、当事者個人の問題としてではなく、家族が一つになって立ち向かわなければならないのです。家族一人一人にその役割があるのです。

 さらに、現代では、個人主義の風潮の中で核家族が普及して三世代同居がほとんど見られなくなっています。このことがどんな弊害をもたらすかも考えてみることが大切です。核家族は、家族をばらばらにしかねないということを念頭に置かなければなりません。経済的な面だけでなく、家族の孤立(老人の一人暮らしなど)、相互扶助の欠如、家庭の伝統継承の断絶という問題が起こることを懸念しなければならないでしょう。

 家庭の基台だけでなく、一族、地域社会も同じことです。禅の秋月龍珉は、今後の禅の役割はこの現実世界の中で唯一無二の人間関係を築くことにあると語っています。誰しも人生を生きてきて感じることは、自分の身の回りの世界は広いようでいて狭いということです。人生の中で築き上げる人間関係の中に、唯一無二の関係を築くことが人生の目的となり、自らの幸せをもたらす基となるのではないでしょうか。

 

3-3、国家基台

 私の心が神につながれば、そして周りの人もその輪に入れば国は護られるといえば、ほとんどの人がそんな馬鹿な!と思われると思います。しかし、ここで取り上げてきた神とサタンの摂理が、霊的世界という想念世界を経由してこの現実世界にもたらされていることを知るならば、否定することはできないのではないでしょうか。

 国家の命運についても、摂理を通して働く神とサタンの激突があるのです。上で述べたように、神の摂理は無形なる根源の神の愛と力が霊的世界の善霊を通して現実世界に働きかけてきます。サタン(悪なる力)も霊的世界から悪霊を通して現実世界に働きかけてきます。それゆえ、霊的世界においてサタン(悪なる力)を抑えることができれば、現実世界をサタン(悪なる力)から護ることができるのです。

 私は、ブログ「日蓮の警告が受け入れられていれば、蒙古襲来という悲劇は避けられていただろう」(2015/7/27)で、日蓮という日本の霊的支柱であった存在と主張を受け入れていれば、元寇という蒙古襲来の国難は防ぐことができたはずだったと述べました。日蓮は、国難を予知して「立正安国論」を書いて、鎌倉幕府に訴えたのですが退けられ迫害を受けて佐渡島流しにされてしまいました。日蓮が受け入れられたのは、蒙古襲来が起きてからでした。最初の蒙古襲来は防ぐことができなかったのです。

 江戸時代末期にも再び日本に国難が襲ってきました。西欧の文化と価値観の襲来であり、日本植民地化の危機でした。この時も、霊的世界を通じて神は啓示によって国難の到来を知らせ、人々を霊的支柱に導こうとされたのです。金光教天理教黒住教という神道新宗教は、神の願いを受けて設立されたのです。それぞれの宗教が、人々を国難から護るべく普及に努めました。幸いなことに人々は導かれ、そして現実世界である日本は、西欧の植民地になることなく護られて近代化を達成することができたのです。

 しかし、第二次世界大戦の時には逆のことが起きてしまいます。大正・昭和初期、国民の誰の目にも国難と感じられる状況が出現します。この時、国難を予見して活発な活動を行っていたのが大本教でした。出口王仁三郎の活動により教勢を拡大し、知識人・軍人の入信、新聞社の買収、政治団体との連携や海外展開により大きな影響力を持つようになりました。1934年(昭和9年)には昭和神聖会を結成します。昭和神聖会の政策請願に署名した人数は800万人にのぼりました。教勢が急速に拡大したとき、国家権力による迫害が起きたのです。

 1921年(大正10年)第一次大本事件と1935年(昭和10年第二次大本事件です。本殿は叩き潰され、王仁三郎は捕えられます。天皇制と国家神道との国家観・歴史観の対立が原因でした。その後国家神道固執した日本は太平洋戦争に突き進み、多くの戦死者を出して敗戦し日本は焦土と化したのでした。終戦出口王仁三郎は、戦争に協力しなくてよかったと述懐しています。

 この大本教の活動に神の摂理が働いているのです。出口王仁三郎は、多くの予言を残していますが、その中に、「ひな型の理論」というのがあります。大本教で起きたことは、日本で起きるという教義です。あまりにもあてはまったので、こわがられていました。その例を挙げてみましょう。

 王仁三郎が徹底的な弾圧を受けたのは、昭和10(1935)年の12月8日です。この日、警官隊は綾部、亀岡、そして王仁三郎のいた宍道(しんじ)湖畔の松江別院を急襲したのですが、連合艦隊特別攻撃機が真珠湾を急襲したのは、ちょうどこの日から6年後の12月8日でした。
 しかも、日時だけでなく、宍道湖(しんじこ)→真珠湾(しんじゅわん)という地名まで符合しているのです。昭和11(1936)年4月18日、綾部、亀岡の聖地はその所有権を取り上げられ、全国の大本関係の施設が次々と破壊されます。ちょうど6年後の昭和17年4月18日、アメリカの爆撃隊による最初の本土空襲が行なわれ、やがて全国の主要施設が空襲によってくまなく破壊されるようになるのです。
 また、昭和20(1945)年9月8日、王仁三郎は大審院において無罪を言い渡されます。ちょうど6年後の昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約が結ばれ、第二次世界大戦は法的にも終結するのです。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1482212839

 

 大本教でいうひな型の理論は、心の基台(霊的基台)と現実世界とは連結していることを表しています。心の基台(霊的基台)が失われれば、現実世界も崩壊していくという結果を招くのです。宗教は、国家の霊的基台を醸成しているのです。もし、その宗教を迫害すれば、国家の命運は尽きてしまうのです。

 現在、日本は亡国の淵に立たされています。亡国の淵にあるのには理由があるのです。霊的基台が失われているのです。国難の背後には、国の霊的支柱である存在を迫害しているがゆえに、神の愛と力がさえぎられているのです。国を護るためには霊的支柱を立てその輪を広げる必要があるのです。それが何なのか、答えは皆さんが考えてください。ただし、もう時間はほとんど残されていません。

 

摂理として働く神とサタン(1)   占いと予言の背後に秘められた摂理

(1)占い・易とは

 誰もが、信じる信じないは別にして、占いの世界に無関心ではいられないのではないでしょうか。これだけ科学が発達して目に見えない世界を信じる人が少ない現代でも、多くの人が占いに関心を持ち、占いの言葉に耳を傾けます。手相、四柱推命、気学、水晶占い、風水など多くの占いが地球上あらゆる場所で行われ、どこでも生活の一部となっています。人間は、何か行動を起こそうとする時、いつも占いを判断の参考にしてきました。理由はわからなくとも、無視することはできない存在です。

 占いは、当たることもあれば外れることもあります。それゆえに信じ切ることもできなければ、無視することもできません。どうしてこういうものが存在するのか、なぜ歴史上ずっと続いてきたのか、首をかしげる人が多いのも事実です。しかし、続いてきたのには訳があります。それは有用だったからです。無視できないものがあることを知っていたからです。

 では占いとは何でしょうか。一言でいえば、人間が生きてきた姿を分析した統計学であると言ったらいいでしょう。人類の歴史の中で起きた様々な現象の共通点を分析してまとめたものが占いです。〇〇の天体の配置の時には△△の現象が起きた、手相にこういうラインが出ると不吉であるとかを学んできて集大成したのです。

 易経では、こう述べています。易経は「変化の理」について書いたもの。人生で起こるあらゆる場面を著わし、その解決法<陰陽の組み合わせによる64種類の卦と384の小話を使って>を著わしたものです。この中で、時の変化の兆しを感じ取ることが重要だと教えています。目に見えないが、実際にものごとが起こる前にはかならず兆しがあるので、それを感じ取ることが大切だというのです。

 さらに次のようにも述べています。恐れおののくような事態に遭遇しなければ、人は改めないと。「震(うご)きて咎无(な)きものは悔に存す」(易経)とは、背中が震えるような恐れ震えるような思いをしないと、人は改めないものだという意味です。震えが人を正常な感覚に戻し、凶を吉に、或いは凶に至る前に未然に転換させるのです。心の中に芽生えた傲慢さや、惜しむ、けちるという吝(りん)の兆しを察知することが大切だと教えるのです。

 ある宗教の教祖が、厄年で相談に来た信者に「お役に立つ時が来ましたね」と言われたといいます。厄年という年回りは、人生の変化の時(転換期)であり、不幸なことが起きがちです。こういう時は、人生を大きく変える変化の時なので、人の選択如何によって人生が大きく変わってしまうのです。犯罪を犯した人の年齢を見るたびに厄年という人生の転換期を迎えていたことがよくあります。この教祖は、変化の時は過去の行いの清算をする時が来たので、艱難を感謝して受け入れて神様のもとに帰りなさいと教えたのです。そうすることができないと艱難に飲み込まれて転落していくといいたかったのです。

 一人の人間の人生から始まり、家族一族の歴史、民族国家の歴史に至るまで、秘められた「変化の理」があります。このブログの中で、厄年の話、家系の話などを述べてきましたが、すべて「変化の理」なのです。地球の1年に春夏秋冬の季節の変化があるように、個人の人生だけでなく、家族の行く末、国家世界の歴史も易経の世界が作用しているのです。ノストラダモスの予言や聖書のヨハネの黙示録という言葉を聞いた方も多いでしょう。これらの予言は、世界の未来の姿を「変化の理」として予言したものなのです。

 

(2)占い(易)の背後にあるもの

 占いが統計学であると前に述べました。また、その現象が現れる前に前兆があるとも述べました。現実世界で現象が起こるためには、その原因があるのです。原因があって、占いで予感された現象が起こるのです。

 その原因は、現実社会の背後にある世界及び人間社会の外にある世界なのです。一つは、霊界と呼ばれている世界であり、もう一つは人類の手を超えた自然・宇宙の世界なのです。ここに原因があり、その見えない世界の姿がこの世界に現れる時、その前兆として示されたものが人相、手相などの相であり、誕生日占いであり、姓名判断であり、天空の占いなのです。

 私たちは、生まれた瞬間から生まれるにあたって予定された運命を背負って生まれています。誰一人として例外はありません。生前記憶のある人がいますが、その人は生まれる前に自分の人生の運命を予め決めて地上に誕生したことを覚えているのです。すべての人が固有の人生の使命をもって生まれてきているのです。ほとんどの人は、何の生前記憶もなく生まれて人生を歩んでいますが、一切記憶のない人でも自分の運命を記されたものからいくらかは知ることができます。それが相(手相・骨相・人相・姓名・誕生日)です。それゆえ、相を見れば過去の統計によってどういう人生を歩むかがある程度わかるのです。

 もちろん一人一人の運命は、決定しているものではないことはいうまでもありません。手相が変わっていくように、一人一人がどのように人生を歩むかによって変わっていくものです。できるだけ平安な人生を歩みたいと願うのは誰しもでしょう。しかし、平安な人生は安楽に見えても、必ずしも実りある人生になるとは限りません。人生の目的は楽に生きることではありません。「かわいい子には旅をさせよ」という言葉ありますね。私たちは、人生という荒波の中で、多くの辛さ喜びの心情を経験して愛を完成することが目的なのす。高山右近という戦国時代のクリスチャン大名が、最後にイエス・キリストのように十字架にかかる心情を分かち合いたいと願い、切支丹弾圧にあっても信仰を曲げずルソン島に島流しにされます。苦境にあればあるほど愛の深みに触れ、愛が深まるのです。苦楽を通して心情を深めることが大切なのです。「子をもって知る親の恩」ということわざがありますね。子育ての苦労の心情を知るためには、親になって同じ経験をしなければわからないという言葉です。心情は、同じ境地を通過して初めて会得できるのです。苦しい時を通過し苦しい心情を感謝に感じた時、私たちは聖人や神の心情に近づくことができるのです。

 

(3)神への信仰と占い(易)

 占いが記す「変化の理」が厳然と働くのであれば、信仰によって救われるということにならないのではないかと疑問に思われる方が多いのではないでしょうか。占いと信仰とはつながりが見えにくいのです。

 私たちは、誰しも何がしかの業を背負って誕生し、善悪のはざ間で善を選択するか悪を選択するかで生きています。その業の歴史、善悪のはざ間の歴史の姿を分析したのが占い(易)なのです。占い(易)の世界では、「禍福はあざなえる縄のごとし」で、繁栄しそして疲弊し没落していくのは避けられないと教えます。それゆえ、時を感じて構えを教えるにとどまるのです。あなたを取り巻くこの世の主人悪魔(サタン)支配下の論理(業の論理)にとどまっているのです。ですから、事態を大きく好転させることはできません。栄華の頂点では没落が待っていることになります。四柱推命による占いでは、ほとんど場合よくない結果になるといいます(もちろん当事者にはオブラートに包んで伝えるのですが)。占い(易)は、「変化の時」(転換期)を教えてくれるだけなのです。変化の時をどのように乗り越えるかは教えていないのです。それを教えてきたのが宗教なのです。宗教は、この世の主人サタンから人間を解放する力(神の救い)をもっているのです。

 宗教に入るのはほとんどの場合転換期であり、苦境のどん底の時です。生き方を変える必要を感じた時です。知らず知らずのうちに変化の時に、新たな道を選択することになるのです。そうすることによって神の光が差し込んでいくのです。宗教始祖がサタンを屈服させた勝利圏を信じるという行為によってその恩恵を受けるのです。キリスト教の洗礼には、イエス様を信じたというただそれだけの条件でイエス様がサタンに勝利した恩恵を受けることができるという意味があるのです。このように、宗教と関係を結ぶことによって、今までの占いは外れるかまたは軽減されていくのです。もちろんそうさせまいとしてサタンは邪魔してきます。宗教が迫害を受けるのはこのためです。

 実は、何がしかの業を背負って生まれるということを計画されたのは神なのです。一人の人間の背後には長い人類歴史の業(罪)の歴史があるのです。その業を清算できなければ、この地上に天国を築くことはできません。それゆえ、多くの義人聖人に苦難の道を歩ませ、イエス・キリストに十字架の死を甘受してもらうことによって、人類の業を清算してきたのです。

 「いい人ほどなぜ苦労するのか」というブログを書きましたが、人間は罪を犯して本来の状態から外れてしまった時、それを本来の状態に戻すためには必ずそこにその必要を埋めるに足る条件を立てなければなりません。苦難の人生を送るというのは、先祖の失敗を償い本来の状態に戻すための穴を埋める条件なのです。仏教で布施(財施)をするとか身施(行)、法施(法を説く)は、本来の状態に戻る道として教えてきたのです。失敗を償うことなくして未来を切り開くことはできないのです。それは、俗にいういい人でないとできないのです。

 変化の時はあらかじめ定まっています。その時を最善の策で乗り越えるためには、その時をどのような心で臨むかにかかっているのです。このことは、個人だけでなく国についてもいえることなのです。東日本大震災は、不幸な避けがたい自然災害だったとしか受け止められていませんが、そうではありません。日本人の心が本然の状態からあまりにもずれていたため、そのことに気づかせるために起きたということを知る必要があります。現在も日本人の心は本然の状態から大きくずれています。このことに気づかなければ、残念ながら大規模な自然災害が起きることは致し方ないことです。何を間違えているか、そのことに心を砕いて日本の国の心情を正してほしいものです。

人類理想社会建設への道【多くの日本人は、共産主義を理想主義と混同している】

 共産主義を信奉する人にとって、共産主義は資本主義に代わる理想主義社会であると思われているだろう。共産主義=理想社会と考えておられるようだ。唯物史観で説かれているように、歴史の必然として共産主義に至ると信じられている。

 共産主義を掲げている日本共産党は、理想社会「共産主義」の前段階「社会主義」への体制移行を暴力革命によるのではなく平和裏に行うと主張し、共産主義に付きまとっている暴力性を極力否定しようとしている。この方針を採用することによって、日本共産党社会主義建設は理想社会の建設を目指すものであって、世界各地に見られる共産主義国の成立過程と一線を画す平和主義者であることを認識させようとしているようである。

 確かに、危惧される暴力性が否定され、政権運営が民主的に行われるとすれば、共産主義の平等の理念が前面に押し出されて大変印象の良い政治思想になる。しかしこの主張は、共産主義の成立過程に目をつぐんだ欺瞞に満ちたものである。

 

1、共産主義社会の前段階である社会主義は、反逆と粛清、暴力的独裁管理社会であるという事実を直視すべきである

 誰も、独裁が許され、反逆と粛清が容認されている恐怖社会を支持する人はいない。北朝鮮金正恩政権の統治の姿に賛同する人は誰もいないであろう。金正恩政権は、国際社会との公約を反故にして核ミサイル開発を推進し、政権内部では兄弟を殺害し、伯父を虐殺し、幹部を粛正して、恐怖政治を行っている。

 この姿は、北朝鮮だけの共産主義の姿であるとみなしたいかもしれない。しかし、共産主義という思想が成立して普及した過程を振り返ると、この姿は特異な姿なのではなく、典型的な姿であることを知らないといけない。

 

2、共産主義思想は、資本主義のアンチテーゼとして生まれた鬼子である

 資本主義が内在した富の格差は、社会の中に多くの不満と憎しみをもたらした。資本主義社会の中で、この不平等は温かい愛の奉仕によって解決されることはほとんどなされなかった。過去の歴史の中で、社会の指導者である有力者たちは、社会の構成員たちの安寧と幸福に力を注ぎ、社会の安定に努めてきたが、資本主義社会においてはこの仕組みはあまり働かなかった。この欠陥を共産主義が埋めたのである。

 富の格差とそのことから派生する社会秩序の不安定化を改革して平等で良き社会を築きたいという願いと主張は、実に正当で人間味あふれるものである。愛の精神があまり実践されない世の中にあって、共産主義という思想がこのような理想を掲げて登場したことは歴史の必然であった。 

 古来、社会に不満が充満すると、自由平等を掲げて革命が行われてきたことを思い起こしてほしい。そこに過去の革命と同じように、共産主義が自由平等の理想を掲げて登場したのだ。しかも共産主義は、過去の革命思想と同じような理想社会建設を掲げるだけでなく、建設のための方法として富める者と貧しき者の対立をあおり、憎しみを駆り立てるという方法をとった。階級闘争であり、革命思想である。

 憎しみのエネルギーをまとめ、一人一人の不満の力を大きな一つの不満の力にすることによって、体制改革を実現しようとしたのである。「万国の労働者よ、団結せよ(共産党宣言)」というスローガンと世界革命思想は、このことをよく表している。

 

3、平等社会の建設という理想社会建設思想は、昔から存在していた 

 共産主義が提唱されるはるか前から、人類は平等社会の建設の理想を抱いていた。平等社会の理想は共産主義だけのものではない。

 理想社会に対する人間の夢は古くはプラトンの『国家』、さらに近世初頭のトーマス・モアの『ユートピア』、トマソ・カンパネッラの『太陽の都』、フランシス・ベーコンの『新アトランティス』などにみられる。中国儒教思想においても、理想社会として「大同世界」と「小康世界」が示されてきた。(*1)

(*1)ぶっだがやの散歩道(2015/8/10) 「孔子が目指した理想社会」

http://higurasi101.hatenablog.com/entry/2015/08/10/190811

              

 実際の歴史の中でも、農耕地を全て公有とし、農民に均等分配して公平を図る唐の均田制や、奈良時代から平安時代にかけて行われた班田収授法、インカ帝国の生産手段の公有(私有の禁止)制度が存在した。日本の中世、浄土真宗本願寺教団は、地域宗教的自治として強固な信仰組織を形成していた。

 K・マルクスとF・エンゲルスは、これら従来の理想社会、ユートピア思想を空想的社会主義として一括りにして一蹴し、自らが提案する理想主義「共産主義」はまったく新しい思想であるとして「科学的社会主義」を提案した。最終的な目標はほとんど変わりないが、その過程―共産主義社会に至るステップと方法論―が科学的であるとした。このことが、K・マルクス科学的社会主義として提唱した新機軸である。(このステップと方法論については後程述べる。)

 K・マルクスが提起した理想社会の姿は、従来のユートピア思想と大きな差異はない。共産主義は、財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会をめざすことである。生産手段や販売方法、利益を平等に分配するなど、すべての人が平等な社会をめざすことである。別の見方では、「共産主義社会」とは、国家権力が死滅し最後は政府も必要なくなるという人間が自主運営する社会であるとされている。

 なるほど、誰もが納得するすばらしい理想郷である。

 

4、K・マルクスの説いた唯物史観―《資本主義→社会主義共産主義

 K・マルクスとF・エンゲルスが説いた唯物史観は、「人間社会にも自然と同様に客観的な法則が存在しており、無階級社会(原始共産制)から階級社会へ、階級社会から無階級社会(共産主義)へと生産力の発展に照応して生産関係が移行していく」とする歴史発展観である。この中で、現代の資本主義社会は階級社会の最後の段階であるとする。次に来る社会は無階級社会であり、そこに至るステップとして《社会主義》→《共産主義》の段階を踏むとした。

 「マルクスエンゲルスによると、資本主義から社会主義への移行は革命を必要とし、勝利した労働者階級は、社会主義を組織し、生産力を急速に発展させるため自分の国家を必要とする。彼らは、階級闘争は革命後も続き、旧支配階級の抵抗をなくすため、移行期にはプロレタリアート(労働者階級)の独裁が必要であると説いた。社会主義では生産手段は社会の所有に移され、もはや搾取はないが、社会の構成員への生産物の分配は、『各人はその能力に応じて働き、各人はその働きに応じて受け取る』という原則に従い行われ、そのため社会的な不平等はまだ残る。社会の生産力がさらに発展し、人々の道徳水準が向上したとき『各人はその能力に応じて働き、各人はその必要に応じて受け取る』という共産主義の原則が実現され、そのときは権力の組織である国家がなくなるだろう。」([稲子恒夫]日本大百科全書(ニッポニカ)とされている。

 このようなK・マルクスに始まる唯物史観の主張は、荒唐無稽なものとして一蹴して済ませばいいというものではない。宗教を毛嫌いし神を否定した共産主義思想には、キリスト教の終末論の影響が濃いという指摘がある。実は、宗教(特にキリスト教に明確に表れている)の歴史観にもほぼ同じような歴史認識がある。人類歴史の終末と救世主の降臨である。

 キリスト教歴史観によると、人類は、アダムとイブの誕生の後、二人が成人して家庭を築き「エデンの園」という理想郷を築くように神によって創造されていたとされる。しかし、人類始祖の「堕落」と呼ばれる自分勝手な行いによって人類は原罪を有する身となり、エデンの園から追放され、人類社会は対立と抗争の続く暗い社会になってしまった。人類の抱えたこの苦しみは、終末が訪れた時現れるとされてきた救世主によって解放され、理想郷(エデンの園)が再興されると伝えられてきた。(この伝承は日本にも存在する。)

 唯物史観は神を否定しているが、来るべき社会として無階級社会が到来するということにおいては同じ見解なのである。問題は、そこに至る道筋である。

 

5、K・マルクス共産主義思想は、憎しみから生まれている

 K・マルクス共産主義思想は、すばらしい人類の理想郷建設を謳っていることは事実である。そのことだけを見れば、大変好ましいものである。しかし共産主義は、表面をすばらしく飾り立てているが、その内側に怖い本音が隠されていることに気づくべきである。それは【憎しみという情】である。憎しみが原点になっているのである。憎しみによって愛と平和と平等の理想社会が築かれるだろうか。誰もが否と答えるであろう。共産主義思想には欺瞞があるのである。

 K・マルクスは、1837年19歳の時、神を憎悪する「絶望者の祈り」という詩を書いている。

 下記にこの詩を掲げた。この詩を読むと、神を呪い神に復讐することを誓っている。どんなことがあったのか不明だが、神に反逆すると宣言しているのである。(神の存在を否定しているのでもない。毛沢東にも同じような言葉がある。「私は孔子様にはならない。始皇帝になる」と語ったという有名な言葉がある。(*2)

(*2)キヴィタス日記 (2011/7/27)「文化大革命毛沢東の意図(神への挑戦)

http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-6bda.html

 

 K・マルクスは、後に、「宗教とは民衆のアヘンである」「人間が宗教をつくるのであって、宗教が人間をつくるのではない」という有名な言葉を残したが、神と宗教を毛嫌いした何らかの事件があったのであろう。ただ、この原点によって神と決別をしている。

「神が俺に、運命の呪いと軛だけを残して
何から何まで取上げて、
神の世界はみんな、みんな、なくなっても、
まだ一つだけ残っている、それは復讐だ!
俺は自分自身に向かって堂々と復讐したい。
高いところに君臨してゐるあの者に復讐したい、
俺の力が、弱さのつぎはぎ細工であるにしろ、
俺の善そのものが報いられないにしろ、それが何だ!
一つの国を俺は樹てたいんだ、
その頂きは冷たくて巨大だ
その砦は超人的なもの凄さだ、
その指揮官は陰鬱な苦悩だ!
健やかな目で下を見下ろす人間は
死人のように蒼ざめて黙って後ずさりをするがいい、
盲目な死の息につかまれて
墓は自分の幸福を、自分で埋葬するがいい。
高い、氷の家から
至高者の電光がつんざき出て
俺の壁や部屋を砕いても
懲りずに、頑張って又立て直すんだ。」

(Karl Marx and Fredrick Engels, Collected Works [New York; International Publishers, 1975-], 1:563-64. 改造社版『マルクスエンゲルス全集』第26巻)

 

6、唯物弁証法階級闘争を正当化するために

 共産主義運動は、労働者階級の「階級闘争(生活の資を得ようとするところから「唯物的」「経済的」な運動)」であるとされている。その運動を理論づけるために、マルクスは、「階級闘争」という新しい観念をヘーゲル弁証法フォイエルバッハ唯物論を結合させて編み出した。

 まず、弁証法という概念について整理してみよう。弁証法とは、「ドイツ語のテーゼThese、アンチテーゼAntithese、ジンテーゼSyntheseの訳語である定立、反定立、総合を略したものである。フィヒテが『全知識学の基礎』(1794)で用いた概念で、その統一・総合により一層高い境地に進むという運動・発展の姿によって、世界や事物の変化や発展の過程を本質的に理解するための方法」である。(弁証法は、ヘーゲルによってはじめて定式化されたというものではなく、ギリシャ哲学以来議論されてきたものである。)
 全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)されると説明する。対立物は相互に規定しあうことで初めて互いに成り立つという、相互依存的で相関的な関係にあって、決して独自の実体として対立しあっているわけではないという。また別の言い方では、矛盾は自然の事物と現象にかならず内在し、古いものと新しいもの、死滅するものと生成するもの、・・・・その闘争が発展過程の内容を構成するという。
 この説明は正確ではない。己の内に矛盾を含んでいるのではなく、時の経過とともに己の内に不完全さが生じるため、不完全さを補完するために新たな存在を必要とするのであって、このため相互に規定し相互依存的な関係が生まれるのである。ここで重要なことは、弁証法においては時間という観念が重要な要素を占めており、事物は時間の流れの中でエネルギーを受けて変化・発展するということである。
 太陽系を取りあげてみよう。太陽系は、巨大な分子雲の一部の重力による収縮が起こった約46億年前に始まったと推定されている。収縮した質量の大部分は集まって太陽を形成し、残りは扁平な原始惑星系円盤を形成してここから惑星、衛星、小惑星やその他の太陽系小天体等ができた。巨大な分子雲が重力収縮というエネルギーによって、時間の経過とともに太陽と惑星その他の太陽系の天体を形成する。太陽系はこうして進化してきた。そこに見られるのは、物質が時間の経過とともに弁証的に発展しているという姿である。
 しかし、問題は弁証法を人間社会に適用しようとした場合である。人間社会は、自然界と大きく異なる点がある。自然世界は調和のとれた矛盾のない世界であるのに対して、人間社会は矛盾に満ち溢れた世界であるという点である。弁証法の定義においての「己の内に矛盾を含んでいる」という説明は、人間社会を念頭においたものである。自然界において矛盾というものは考えにくいのではなかろうか。矛盾は人間社会固有のものである。
 唯物弁証法論者によると、「精神とは弁証法的に運動する物質の機能であると考える。物質が本来的で根源的な存在であり、人間の意識は身体(例えば大脳、小脳、延髄など)の活動から生まれる」と説明する。自然界はまだしも、人間社会において人間の意識を身体から生まれるとして精神とは弁証的に運動する物質の機能であるという見解は、人間精神をないがしろにしたものである。その中で、毛沢東は精神の役割を認めている。「社会の変化は、主として社会の内部矛盾の発展によるものであり、これらの矛盾の発展によって、社会の前進がうながされ、新旧社会の交代がうながされる。唯物弁証法は、外因を変化の条件、内因を変化の根拠とし、外因は内因をつうじて作用するものと考える。鶏の卵は、適当な温度を与えられると、ひよこに変化するが、石ころに温度を加えてもひよこにはならないのは、両者の根拠がちがうからである。(毛沢東「実践論・矛盾論」『毛沢東選集 第一巻』日本共産党出版部、1965年、P.421〜472))」と述べている。変化の根拠として、人間精神に根拠を与えている。主観的表象としての想念・理念が外的条件に作用して、変化を引き起こすということである。

 

7、「憎しみの情」の弁証法的展開

 K・マルクス共産主義の出発が神に対する憎しみの情から出発したことは前述した。「憎しみの情」は、誰もが経験しているように他者との間に壁を築き、交流を妨げるだけでなく対立を引き起こす。これを闘争と呼んでいる。そこには冷ややかで沈滞した暗い世界が現出される。人間同士が疑心暗鬼になり、互いの心を詮索する重苦しい世界となる。憎しみの情とそのエネルギーは、反発・対立・分裂を引き起こし、そのままにしておくと分解する方向に展開していく。唯物弁証法が説明するような「対立物は相互に規定しあうことで初めて互いに成り立ち、相互依存的で相関的な関係にあって、その統一・総合により一層高い境地に進む」ということにはならない。
 憎しみの情から出発した弁証法的展開は、発展ではなく衰退に向かうのである。そこには、マイナスのエネルギーが働く形になる。共産主義各国において、時間とともに生産性が向上するどころか停滞し衰微していったのは当然の帰結であった。社会が停滞し衰微していくという現実に対処していくためには、絶えず運動のてこ入れをすることが重要となる。弁証法唯物論という名称は G.プレハーノフによって命名され、レーニン,スターリン毛沢東などによって発展させられてきたものであるが、このように社会主義社会は、社会を守るために人為的に鼓舞されなければ社会は衰退しかねないのである。唯物弁証法が「革命の哲学」とされてきたのは、実にもっともなことなのである。

 

8、宗教的に見たとき、無神論は悪魔に魂を売り渡すもので、悪魔に歴史の主導権を任すものである

 宗教的見地から見た場合、共産主義は決定的な過ちを犯している。神を否定し宗教を否定することによって、共産主義という思想は宗教的擁護(神の擁護)を完全になくすことになっている。このブログを読まれてきた人にとっては、当たり前だと思われる霊界の存在を否定することによって、霊界からの援助がなくなるのである。それどころか、悪霊の跳躍を許すことになるのである。

 宗教は、霊界の存在を前提にして構築されている。霊界には善霊と悪霊、そしてその背後に神と悪魔(サタン)が実在している。どんなに否定しようともそれは事実である。そして、神を否定することによって神と善霊(天使など)の協力がなくなり、悪魔が主導権を握る世界が構築されるのである。共産主義国家がすべて悲惨な現実に向かうのは致し方ないことである。

 共産主義者は、社会主義から共産主義への移行は、「生産力が発展し、人々の道徳水準が向上したとき」という。現在の共産主義国家を見ると歴然とするが、強権・弾圧・粛清国家に道徳の向上が考えられるだろうか。ますます疲弊して困窮するだけではないか。人間関係は信頼とは反対に、疑心暗鬼が蔓延し誰も信用しようとしない暗黒の社会が来るだけである。道徳水準の向上は、宗教が指導してきたことであることを忘れてしまっている。

 社会主義は、共産主義社会に至るステップであるという科学的社会主義は、社会を暗黒の醜い姿にとどめて崩壊に至らしめるだけである。世界初の共産主義国ソ連が疲弊して崩壊したように、ほかの共産主義国家も同じように疲弊して崩壊するのが宗教的見地から見た結論である。社会主義という政治体制は、悪魔が支配する強権体制であり、そこからは何の希望も繁栄も幸福ももたらされない。

 

9、共産主義は革命と社会主義によってではなく、神と救世主によって実現されるものである

 強権とは反対の論理、(北風と太陽の逸話を思い起こしていただきたい)愛の論理によってしか共産主義者が唱える理想の共産主義社会は実現できない。大本教の出口日出麿氏は次のように述べておられる。仮に共産主義という形で平等な社会が表面上築かれたとしても、魂が変わっていない限りすぐに壊されることになる。人間一人一人の魂の改心ができるまで地上天国はできない。心の底から間違っていると気づき、正そうとすることが不可欠である。(大本教 出口日出麿)」

 宗教本来の目的は、地上天国の建設である。人間が、神を賛美し、ともに愛し合いながら闘争や蔑視のない平和で平等な世界を建設することにある。共産主義と同じ理想に立っている。それを実際に行うのも共産主義と同じく人間であるが、それは共産主義者が述べるように自動的に実現されるものではなく、人間一人一人の魂の改心と向上によってしか実現できない。そして、その理想が今まで実現できなかったのは、人間の堕落という罪によって、この地上世界が悪魔(サタン)の支配下に置かれてしまったからである。(一人一人の人間の内面には、自分という観念が根底に居座り、自分と他者を差別している。釈尊が、「人間は自己中心的である。それゆえ、他人に危害を与えてはいけない」と述べたと伝えられているが、それほど自分という観念は根深いのである。共産主義では、根底にある自分という観念が原因で作り出した対立・差別社会を「階級社会」と呼んでいる。)

 このことをよく認識した世界中の宗教家は、この世を悪魔(サタン)から解放してくれると予言されてきた救世主(メシア、弥勒、真人など)の出現を待ち望み、救いの希望を託してきたのである。共産主義者は、神と霊界の存在を認めて、悪魔(サタン)と縁を切り、本物の共産主義建設に向かうことが不可欠である。そのために、まず、「共産主義」という悪魔に魅入られた言葉を捨てて、神を受け入れて本物の理想社会を目指すことが必要である。

 最後に、人間にとって、理想社会(地上天国)を築くことが最終目標ではないということを付け加えておく。理想社会建設を通して一人一人が愛の完成者になることこそが最終目標である。

ホームページ開設のお知らせ

この度ホームページを開設しました。

地球村創造研究所といいます。 http://capitolino.a.la9.jp/

よろしくお願いします。

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地球村創造研究所の理念】

  • 人間としての修養、成長、完成
  • 愛に満ちたすばらしい家庭の完成
  • 相互扶助精神に満ちた社会、国家、世界の構築
  • 人ともの・環境が共存共生する地球環境の実現