スピリチュアリズムの主張は、99%正しいが1%偽りがある。その1%は天地をひっくり返す偽りである

 スピリチュアリズムの主張は、霊界の高級霊からの通信であるとされる。通信は検証のうえ間違いないとされている。スピリチュアリズムが提示した内容は、今までの常識を覆し、新たな霊界像と信仰観を示してきた。私は、スピリチュアリズムを学びながらその見解にほぼ真理に近いと感じてきた。しかし、私自身が経験してきたこと合わせて考えると、どうしても腑に落ちないところがあった。ある時それがなぜなのか?はっきりした。スピリチュアリズムの目的は、サタンと悪霊集団はいないという存在そのものを消し去ることにあるのだと悟った。シルバーバーチはサタンの使いである」。

 スピリチュアリズムは、心霊現象の意味、霊界の姿、摂理を通しての神の支配、霊主肉従、利他愛の実践など、99%まで真理を語って通信内容を信用させ人々を納得させてきた。しかしそれは、残りの1%に人々を導くための伏線であったのではないか。それは、「サタンはいない」「原罪はない」「最後の審判はない」「メシアは必要ない」という見解である。サタンと日夜闘ってきた者としては、それはありえない見解である。サタンと悪の霊的集団は存在する。スピリチュアリズムの見解は、この世の君「サタン」がこの世の支配権を手放さまいとする発悪行為である。こう解釈すると、用意周到に準備された主張の一つ一つに目論見が見えてくる。

 

 (1)既成の宗教を否定するスピリチュアリズムは、悪霊との闘いを放棄させることを目的にしている

 多くの人にとって、サタンが存在するという認識はほとんどないであろう。サタンがその姿を見せることは稀である。また、霊界の事実と霊的成長なるものを示されたうえで、今まで宗教が行ってきたことを否定されると、信仰は必要ないんだという理解に至るかもしれない。そういう結論に導こうとするサタンの目論見は、ただ一つ宗教が果たしてきた本質的な役割、悪霊との闘いを放棄させることなのである。

 スピリチュアリズムの「宗教観」は、霊界にいる霊たちが地上の宗教を見たときの見解である。その際、地上の宗教の真偽の判断基準となるのが「霊的事実」と「霊的真理(神の摂理)」と「霊的成長」であるという。こう霊界という別次元から切り出されると、人間は戸惑い平伏しかねない。そこが大きな狙いである。

 スピリチュアリズムが主張する「宗教観」は、次のようなものである。

  • 地上の宗教の教え(教義・ドグマ)には霊的真理の一部が含まれているが、教えの大半は地上人によってつくり出された“ニセモノ”である。その代表がキリスト教におけ る「贖罪論」や「最後の審判説」であり、悪の勢力としての「サタン存在説」である。
  • 地上の宗教の教えの多くは霊的事実からかけ離れており、「霊的無知」の上に宗教がつくられている。
  • 霊的無知の上に築かれた地上の宗教は、「神」に対する間違った認識を人々に植えつけているため、地上人類を霊的成長へと導くことはできない。それどころか、人々を霊的成長から遠ざけることになっている。地上の宗教は「人類の霊性向上を促す」という本来の使命から見ると、明らかに失格である。
  • 地上の間違った宗教の中でキリスト教は、最も弊害の大きな宗教である。イエスの教えとは無関係な人工的教義を土台としてつくられたのが“キリスト教会”という宗教組織である。キリスト教会は絶対的な権力を獲得し、宗教的独裁によって人々を“霊的牢獄”の中に閉じ込めてきた。
  • 霊的観点から見ると、キリスト教の教えの多くは間違っているが、イエスが生前に説いたシンプルな教え(神の愛・利他愛の教え)は摂理に一致しており、それは人類にとって“最高の教え”と言える。

  http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-11.htm

 このように、スピリチュアリズムは既成の宗教をほぼ全面的に否定している。スピリチュアリズムは、宗教者の霊的知識がどうしても部分的にとどまる点をついて徹底的に攻撃する。霊界からの事実を告げているスピリチュアリズムこそ正しいものだというスタンスである。そこにはなぜ宗教が起きたか、宗教がなしてきた贖罪・カルマの清算について、その意味をほとんど認めていない。

 神が宗教を立てた理由は、一人の宗教始祖の信仰の勝利をもとにそれに連結することによって、多くの人間を救おうとされたからである。宗教始祖の信仰の勝利を信じる信者は、少ない苦労で罪を清算できるのである。もし人間が単独ではほとんど罪の清算をなさなければならないとしたら、誰もがイエスや釈迦と同じ苦難の道を歩まなければいけなくなる。そしてほぼ全員、信仰の勝利に辿り着くことは不可能であるだろう。

 

 (2)イエスもサタンの挑戦を受けている

 スピリチュアリズムとは、イエスを中心とする地球圏霊界の高級霊が結集して、計画的に進めている「地球人類救済プロジェクト」であるという。イエスも、私たちの仲間でありリーダーであると述べている。その一方、キリスト教の教えはイエスの教えとは別であるとして、キリスト教の教えを否定するのである。聖書の記述は、イエスの利他愛の教えだけが正しいという。聖書の中で、スピリチュアリズムのリーダーの一人であるイエスがサタンと闘っていることはつくり話だというのであろうか。

 聖書の中のイエスがサタンに試される場面(「マタイによる福音書第4章1~11」の場面)、イエスのサタンとの闘いは、釈尊の悪魔との闘いのように真実であったはずである。

 さて、イエス聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、 悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 それから悪魔はイエスエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。(出典/口語訳聖書 Public Domain)

 イエスの歩みは、イエスが利他愛を説き実践するだけでなく、サタンと対決しサタンを屈服させる闘いだったのである。上記のサタンとの闘いの場面は、この世の支配権をサタンから取り戻そうとする非常に重要な場面なのである。

 

 (3)堕落と原罪を否定するスピリチュアリズム

 スピリチュアリズムは、堕落と原罪を否定する。スピリチュアリズムの見解を見てみよう。

 スピリチュアリズムでは、霊的事実に基づいて、神とサタンに関連づけた従来の宗教の善悪観を完全に否定します。「神とサタンの対立」などというものは、霊界にも地上界にも存在しないからです。(中略)

 「霊肉の問題」「善悪の問題」「罪の問題」に対してスピリチュアリズムの霊界通信は、これまでの説とは異なる回答を示しました。キリスト教で教えてきた悪の中心的存在である“サタン”も、それから生じたとされる“悪の一大勢力”も否定します。霊界には、地上人が永い間信じてきた“サタン”は存在しません。当然、サタンによって発生したとされる“原罪”もありません。スピリチュアリズムのすべての霊界通信は、これまで地上の宗教において説かれてきた「善悪観」や「罪観」を否定します。

 シルバーバーチは、人間の内部(心)における葛藤を「罪の問題」や「善悪の問題」としてではなく、「霊的意識」と「肉体本能的意識」の対立と見なします。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-02.htm

 また次のようにも説明する。

 シルバーバーチは――「善と悪は、霊的成長のプロセスにおいて現れる相対的な状態にすぎない」と説いています。そして「悪とは、人間の未熟性・霊性の低さによって生み出される神の摂理への不一致行為である」としています。したがって、今は“悪”として現れているものも、霊的成長にともなって“善”に変化していくことになります。

 “善悪”という言葉を「利他性」「利己性(霊的未熟性)」という言葉に置きかえて人類に提示したのです。地上世界は“光と影”の両方を体験し、そこからより明るい世界を目指して歩み出すための訓練場なのです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-08.htm

 

 「悪とは、人間の未熟性・霊性の低さによって生み出される神の摂理への不一致行為である」というのである。その悪に人間は悩まされ続けたことをどのように解釈するのであろうか。古来、悩まされ続けてきた罪、魂の癖は、仏教では「煩悩」と呼ばれてきた。物欲・色欲・名誉欲、そしてその背後にある自分が一番大事であるという我欲と自分中心主義、このことから脱却するために人間は苦悩してきたことを忘れてはいけない。

 スピリチュアリズムでは、「そもそも苦しみや困難は、人間が「神の摂理」から逸脱したために発生したものです。その苦難は、神が人間に幸福をもたらすために設けた摂理に合わせる生き方を通して消滅するようになっています」という。

 確かに、人類始祖の堕落という行為は、人類始祖が「神の摂理」から逸脱することによって生じたものである。サタンは、人間は自分中心に判断するから地上の支配者としてふさわしくないと主張したかったのではないか。人類始祖が、サタンの試練に敗北したのが堕落という行為であった。その結果、人間は神との授受の関係が切れてしまい、サタンと授受の関係を結び、それと一体となった。そのことによって人間は、自分中心という人類共通の意識をもつことになった。

 スピリチュアリズムが主張するように、もし堕落からの回復が人間の苦難だけによって消滅するというならば、もうとっくにこの世から苦しみは亡くなっていてもいいはずである。しかし、今なお人間の苦悩は続いている。「神の摂理から逸脱した」という単純な問題ではない。ほとんどの人は、イブが天使から誘惑されたことをつくり話と思っておられるかも知れない。

 しかし、心霊が霊界と相通じるようになると、サタンの誘惑という現象は実際に存在することがわかる。スピリチュアリズムは、「サタンはいないのだから、サタンの誘惑などあるはずがない」というが、サタンと対決してきた者としてはありえないことである。通常、サタンは姿を隠しその正体をさらすことはほとんどない。姿を現したとしても、巧妙にもっともらしく誘惑をかけてくる。しかも決して自分に責任があるような言い方はしない。責任逃れの天才であるといっていい。サタンの誘惑によって人類始祖が神の摂理から逸脱し、その結果人類が苦難の道を歩まなければならなくなったのはよく理解できるし事実である。

 堕落の結果人類は、自分中心・肉主霊従に陥り、対立抗争を繰り広げる悲惨な歴史を作り上げてきたのである。人類始祖が起した罪(堕落・原罪)は、「淫行」という子孫繁殖行為による罪であったがために、子々孫々血統を通じて引き継がれることになったのである。

 「サタンは遠くにいるのではありません。自分と共に連結されています。自分というのは、天国と地獄の境界になるというのです。自分に地獄があり、天国があります。良心は天国、地獄は肉身なのです。人間は堕落する時、愛の為に堕落したので性器が最も怖いのです」。この言葉に謙虚に耳を傾けるべきである。

 

(4)利他愛の実践だけでは霊性の向上には限界がある

 シルバーバーチが教える霊的成長のための実践項目とは――「霊優位の生き方(物欲にとらわれない霊主肉従の生き方)」「利他愛の実践」「苦しみの甘受」の3つです。この3つの実践こそが、霊的成長を促す“善(正しい生き方)”の具体的な内容と言えます。

 それに対して“悪(間違った生き方)”の内容とは、この3つの実践に反する行為のことです。すなわち「物欲・肉欲を追求する肉主霊従の生き方」「利己的・自己中心的な生き方」「苦しみを避ける生き方」です。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-08.htm

 実にもっともな見解である。利他愛の実践を皆が行えば世界はよくなることは間違いない。スピリチュアリズムの主張は世界を正しい方向に導く正当な教えであると、多くの人が賛同するであろう。しかし、そこに大きな落とし穴がある。人間は自然に純粋に利他愛を実践できる存在になっていないという現実である。

 現実の世界を見ても、利他愛の行動が世界に平和と安定、人々の幸福をもたらすものとして欠かせないとわかっていても、現実の世界は対立と抗争が続き、人々の間では貧富の差が拡大して生命が脅かされている。仏教は、「人間は誰でも自分が一番大事である。それゆえ、どうしても自分中心に物事を判断してしまう。三大煩悩(物欲、性欲、食欲)及び名誉欲に翻弄され我慢できず我欲に負けてしまう。このため、仏教の修行は《無我》(私心をなくす)に至るために厳しい修行をするのです」と説いてきた。自分中心の行動を抑制できないのが実際の人間の姿である。

 このことを考えただけでもわかるように、利他愛の実践と苦難の甘受を唱えただけで人間の霊性が向上して完成に至るとは考えられないのである。人間の自我を少しつけば、サタンはすぐにでも人間を神の摂理から外れた誤った道に追い込むことができる。日蓮は、「魔を降伏しない教えは、正法ではない」といったといわれるが、どんなに利他愛の実践に努めても、サタン・悪魔を屈服していない限り、我々はサタン・悪魔の手中にあるといえるのである。

 

(5)地上生活は愛のリハーサルだけの場ではない。愛を完成する場であり、愛の人を繁殖する場である

 原罪は淫行であると語った。そして、原罪によって人間が引き継いだものが魂の癖である。仏教でいう自分中心という間違った自我と煩悩、これが原罪によって引き継いだ魂の癖である。原罪が淫行という人間の子孫繁殖行為によるものであったため、血統を通して引き継がれることになってしまった。

 スピリチュアリズムはこのことを認めない。地上の複雑な家族関係が血統によってもたらされているということに触れない。しかし、多くの人は仏教の教えによって、因果応報という法則が我々を支配しており、血統を通じて現れてくることを学んでいる。家族関係の背後には、先祖の問題が絡んでいることを薄々感じている。したがって、地上の人間関係、とりわけ家族関係の問題はいい加減にすべきものではない。スピリチュアリズムの家族観を紹介してみよう。

 男女愛と同様、地上における「家族愛」は往々にして排他性と利己性をおびています。常に自分たちの家族の利益を第一に求めます。親は自分の子供の幸せだけを願い、自分の子供の利益を優先して求めます。“我が子だけが大切”というのが、地上の大半の親子愛の実態です。地上の家族の結びつきは、いわゆる血のつながり(血縁)であって、どこまでも物質的つながり・物質的関係にすぎません。それは肉体本能による結びつきであって、霊的なものではありません。そのため大半の地上の家族関係は、霊界においては失われることになります。

 地上の家族関係の中には、人間として体験すべきあらゆる種類の愛が存在します。親子愛・兄弟愛・夫婦愛という、それぞれ異なった次元の愛を体験することで“人類愛”のリハーサルが可能となります。また他人に愛を与え、他人の愛を受け入れるという愛の基本的訓練が、家族関係の中でなされるようになっています。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-2_04.htm

 スピリチュアリズムは、「地上の家族の結びつきは、いわゆる血のつながり(血縁)であって、どこまでも物質的つながり・物質的関係にすぎません」と、現実の家族は排他的で利己的な部分があっても仕方ないと切り捨ててしまう。家族というものは、人類愛のリハーサルの場としか見ていないようである。そうではない。家族は、先祖から私に至るまで血縁を通して連綿とつながってきた歴史の結実体であり、おろそかにできるものではない。家族は代えられないものであって、修復して人間の生存の愛の基地にしなければならないものである。愛は対象があって初めて成立するが、家族は人間が地上で愛を訓練し完成する中核的な存在である。家族を完成することが地上生活の目的であるといっても過言ではない。この原則に立つならば、スピリチュアリズムの説く地上生活の意義はあまりにも皮相的なものである。

 

(6)神の摂理は、人間の選択によって大きく変わる

 スピリチュアリズムでは、善悪の基準を「神の摂理」において、神の摂理に符合するものを「善」、反するものを「悪」としている。この見解は、多くの人の神観からみると戸惑いがあるであろう。しかし、易や占いの世界を知る人にとっては、神の摂理という考え方は納得しやすいものではないだろうか。スピリチュアリズムは、こう述べる。

 シルバーバーチは、神と人間は「神→摂理→人間」という摂理を介した間接的な関係にあると主張します。神は「摂理」を造り、それを通じて宇宙や人間を支配しています。そのため人間は常に、神が造った摂理には触れることになりますが、神と直接的に接触することはできません。神は摂理によってすべての人間を機械的に支配し、完全平等・完全公平に扱います。そこには、えこひいきや特別な配慮は一切ありません。宇宙から万物・人間に至るまで、すべてが「神の摂理」によって厳格に支配されているのです。(中略)

 人間はさまざまな摂理の支配を受けながら、「霊的成長」というレール(摂理)の上を一歩ずつ上昇していくことになります。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-08.htm

 私たち一人一人の人間は、神の摂理の中で生きている。その通りである。そして神の摂理を人間側から見た場合、日々私たちが選択する内容が世界から個人の人生に至るまでの神の摂理の方向を決めている。ほとんどの人はまったくその意識はないが、私たちが判断する選択はどちらかが神の摂理にかなうものであり、どちらかが神の摂理に反するものである。神は摂理によって世界を支配していることに間違いない。そしてその摂理の方向は、人間の選択にかかっているのである。ほとんどの場合、人間は神の摂理に反する選択を行い、その結果、苦難な状況をもたらすものになる。人類歴史や人生が苦難に満ちたものになりやすいのは、人間の選択の基準が自己中心から生じたケースが大半であるからである。(先祖の誤った選択を子孫が受けていることも多い。)

 シルバーバーチは、“悪”(神の摂理に反する選択)とは、キリスト教で説いてきたようなサタンによるものではなく、自らの未熟さが招く結果のことだという。確かに、人間の心霊の未熟さゆえであるといえばその通りであるが、ほとんどの人間が歴史上勝利できていないという現実の背後には、サタンと悪霊の働きかけがある。摂理の重要な局面に差し掛かると、サタンは姿を現し、人間を誘惑するのである。もしスピリチュアリズムが主張するように、「そういう存在はない」というならば、はるかに多くの人が悟りの境地に至っているだろうし、人類歴史はここまで悲惨なものとなっていないであろう。度重なる人間の神の摂理選択の失敗が、人類歴史の再現現象、家系の中の因縁現象をもたらしているのである。

 

(7)宗教不要論-宗教が果たしてきた役割を軽んじてはいけない。しかし、最後には宗教組織は不要になる

 スピリチュアリズムは、宗教団体のあり方に対して全否定する。確かに、宗教団体は、宗教独自の「神」に対する認識を人々に植えつけ、自分の宗教だけが真実であるという排他的な姿勢をとることが多い。その結果、その教義に固陋することになりやすく、人々を救いに導くことができなくなることもある。しかし、宗教は神がその時代その民族に必要な教えを教祖といわれる人を通して授けたもので、多くの人を救ってきたことを忘れてはいけない。今までさまざまな宗教が誕生してきたのは、時代・地域で異なる人間の状況に対応するためのものであった。

 スピリチュアリズムは、宗教組織の不要について次のように主張する。

 宗教本来の使命を知れば、これまでのような宗教組織は不要となります。不要どころか、一刻も早く地上から駆逐しなければなりません。スピリチュアリズムは、人々の「霊的成長」を促す正しい宗教を地上に確立しようとする運動です。“正しい宗教”とは、教祖も間違った人工的な教義もない宗教です。エゴ的な宗教組織も狂信じみた布教活動もありません。それは「霊的真理」を指針とし、自己責任のもとで霊的成長の道を歩むという霊的人生のことです。正しい宗教とは、「神」と「神の摂理」だけを絶対崇拝する生き方のことであり、従来のような特定の宗教組織に属して一人の人間を神格化するものではないのです。http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-11.htm

 真理は一つなので、最終的には宗教は一つになり、宗教組織は不要になるものではある。しかし、そこに至るには順序があって、段階ごとに人間の霊性向上をもたらす必要な教えと救いが必要である。人間は、宗教組織の教えに従うことによって霊性の向上を図ってきた。宗教者は、救いは一人ではなしえないということに気づいた。パウロが、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。私は、なんというみじめな人間なのだろう。(ローマ人への手紙第7章22~23)」と慨嘆しているように、救いは独力では無理だと感じていたのである。

 特に原罪の清算は、人間の努力だけでは難しいというのが宗教上(特にキリスト教)の見解である。原罪の清算が済むまでは、宗教組織と教祖の恩恵なくしては困難なのである。このことを感じるがゆえに、メシア待望論が起こり、メシアに連結されることによって贖罪(救い)を受けたいと多くの宗教者は願ってきたのである。

 原罪(罪の根)を清算して唯一の真理の道を悟ったのちは、スピリチュアリズムが主張するように自らの責任で霊的成長過程を歩むことになる。(スピリチュアリズムは、この段階だけのことを述べている。)霊的成長の最期の段階は、人間は神によって神の分身としてこの世を主管するように定められているため、主人になる資格を自らの手によって誰もが独力で勝利しなければならない。旧約聖書で、ヤコブがハランの地からカナンの地に帰る途中、ヤボク河のほとりで天使と組打ちをするが、これはサタンがカナンの地に入らせまいとする妨害であるというだけでなく、ヤコブがカナンの地の主管者として認定されるための儀式でもあったのである。

 

(8)スピリチュアリズムが普及した世界は野蛮化する

 スピリチュアリズムは、宗教とサタンの存在を否定する。この思想が広まると、人間は宗教および宗教の教えをないがしろにすることになるだろう。今まで人類の霊性向上に貢献してきた宗教は捨てられるのである。サタンと悪霊集団は存在しないことになるため、サタンと悪霊に対する人間の闘いは止むになるだろう。

 そうすると、実在しているサタンは隠れたところから容易に人間を支配しあやつり続けることができるであろう。この世の君「サタン」は、引き続きこの世を支配し続けることができるのである。人間は、サタンの誘惑に翻弄されて堕落と罪の繁殖を繰り返すであろう。人間の霊性は後退し、人間社会は野蛮化するであろう。一見先見的と思われるスピリチュアリズムの普及は、人間の平等と繁栄をもたらすと期待されて主張された共産主義が辿った末路と同じように、人間を霊的退廃の世界に導くことになるのである。

 

 最後に、このブログを書こうとした瞬間から、強烈な霊的な攻撃がかかってきたことを付け加えておく。

スピリチュアリズムの死生観と葬送・供養

 スピリチュアリズムの主張は、霊界からの霊界通信によって知らされてきた情報を積み重ねて研究されてきたものです。一人の宗教始祖が啓示として受けた内容と大きく異なり、170年にわたる多くの霊界通信の事例を整理してまとめてあることに特色があります。その中には、三大霊訓と呼ばれている(シルバーバーチ、モーゼス、アラン・カルデック)の霊界通信も含まれています。

 これから紹介する内容は、このウェブサイト【スピリチュアリズム普及会第一公式サイト・第二公式サイト・第三公式サイト】から引用しています。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/

 

1、スピリチュアリズムの死生観

 スピリチュアリズムでは、死は悲しみではありません。死によって霊は、肉体から開放され、自由になるからです。この考え方は、死後人間は霊的存在として存続するということが信じられないと理解できないものです。最初に述べたように、スピリチュアリズムは霊界からの霊の通信によって確立したものであることを考えると、「霊と霊界はある」ことは自明のことなのです。

 「霊界に行った人間(霊界人)は、もはや地上人の死を悲劇とは見なしません。それどころか“死”は、人間にとっての喜びであり祝福であり、苦しみからの解放であると考えるようになります。それが霊界人の常識となっています。(スピリチュアリズム) 」http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-2/sp-thought1-2-5.htm

 スピリチュアリズムでは、死は賛美されています。死によって霊は肉体から開放され、霊界での霊の誕生ということになるからです。私も、ブログ「2013年11月15日  日本人の死生観(産育と葬送の類似性)」の中で、国立歴史民俗博物館教授 新谷尚紀氏が指摘された日本人の独特な死生観「人の誕生と死亡をあの世からこの世へ、この世からあの世へのそれぞれ移行であると考え、そこでは同じような段階を経てその移行が完了するものだと考えていたのではないかといわれる」を紹介し、日本人はこの世の死はあの世での誕生であると薄々感じていたのではないかと伝えた。日本人の多くの人にとっては、死後の世界は当然あると思っているのではないでしょうか。この直感は、スピリチュアリズムによって裏付けられたようでもあります。

2、地上人の肉身と霊人体

 ところで、死によって霊はどのように誕生するのであろうか。死の瞬間、霊体が肉体から抜け出すということがよく言われています。『シルバーバーチの霊訓』が明らかにした地上人を構成する仕組みは次のようなものです。

f:id:higurasi101:20171002182336p:plain

  これを地上人サイドの視点、すなわち地上人(霊能者)に見える状態として示すと次の図のようになります。肉眼に映る「肉体」に重複して「霊的身体(霊体)」が存在しています。そしてそれらの身体からは“オーラ”が放射されています。オーラとは人間から放射されるエネルギーのことで、“肉体オーラ”と“霊体オーラ”と“霊の心のオーラ”があります。

f:id:higurasi101:20171002182418p:plain

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-02.htm

 

3、死の瞬間と死の直後

 死の瞬間と死の直後の状態について、スピリチュアリズムは次のように説明しています。「死とは肉体と霊体を結ぶシルバーコードが切れること」である。米国の心霊研究家で優れた霊能者でもあったハドソン・タトルは“死の瞬間”を霊視して、次のように述べています。「徐々に霊体は手足から抜け出し、頭の方に凝縮する。やがて頭頂から後光(ごこう)が現れ大きくなる。次第にそれは形を現し、ついに抜け出した肉体と全く同じ形になる。霊体は高く上がり、一個の美しい霊が私の前に立つ。他方、肉体は下に横たわっている。だが一本の細いコードが霊体と肉体をつないでいる。このコードは次第に薄れていき、やがて消滅する。こうして霊は永久に地上と縁を切るのである。」

 他界した人たちの話によれば、皆“死の瞬間”は一様に、深い眠りに入るような状態――ただただ深い眠りに落ちていくような状態になると言います。痛みや苦しみを感じることは全くありません。やがて死の眠りから覚めると、自分とそっくりな人間が横たわっているのが見えます。実は、すでに本人は肉体から離れ、霊体となって自分の肉体を見ているのですが、そのことにはまだ気がついていません。そして抜け殻となった自分の遺体の傍(そば)に立っていたり、空中に浮揚していたりします。このとき大部分の死者は、思いもよらない環境の変化に戸惑うことになります。さらに、自分の死の知らせで集まっている家族や親戚の姿も見えるようになります。

 やがて死者は、地上の日数にして数日くらいで、少しずつ自分が死んだことに気がつくようになります。死を自覚するようになると、内在していた霊的意識と霊的感覚が急激に蘇(よみがえ)ってきます。このとき大半の者が、身体がすがすがしく軽やかになっていることに気がつきます。いつの間にか病気の苦しみや身体の痛みも完全に消えています。

 しかし中には、いつまでも自分が死んだことに気がつかない者もいます。相変わらず地上生活を送っているのだと思い込んでいるのです。周りの霊たちが「あなたはもう死んだのですよ」と教えてあげても、「とんでもない、私はこの通り生きています」と、死んだことをいっこうに認めないばかりか、教えてくれた人に対して怒り始めることもあります。戦争や事故でアッという間に死んだ者は、なかなか自分の死を悟ることができません。また激しい憎しみや恨みの感情を持って死んだ者も、悪感情が災いして、いつまでも死の自覚を持つことができません。また自殺した人間の場合も、長期にわたって自分の死に気がつかないのが普通です。自分は死んだつもりでいたのに実際には生きていることを知って、何度も自殺をはかろうとします。その時、たまたま地上に霊媒体質者(幽体質素が多い人)が通りかかると、無意識のうちに霊はその地上人に憑依し、自殺へと引き込んでしまうことになります。http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-2_02.htm

 

4、霊界への旅立ち

 死の眠りから覚め、死の自覚を持つようになると、いよいよ霊の世界(霊界)に入って行くことになります。霊界といっても最初に赴く所は、霊界の最下層で「幽界」と呼ばれている世界です。初めて幽界に足を踏み入れた新参者は、幽界での生活を通して地上臭を拭い去り、本格的な霊的世界へ行くための準備をすることになります。

 幽界に入ったばかりの他界者は、その環境があまりにも地上と似ているため一様に驚きます。そこには山もあり川もあり、野原や海や湖もあります。村も町も家もあり、大人も子供も、犬やネコもいます。幽界には、地上世界に存在しているものが何でもあるのです。幽界が地上とそっくりな所であるため、他界者の多くが「自分は本当に死んであの世へきたのだろうか?」と思うのです。

 幽界に存在するすべてのものが、地上世界と同じように感じられます。感触も地上と同じで堅さもあります。叩けば音を出すこともできます。水に触れれば冷たさも伝わってきます。死によって肉体はなくなっても、霊体に属していた心(精神)はそのまま幽界に持ち越されます。死んでも人間の心は、すぐに変わるわけではありません。したがって死後もしばらくは、地上時代と全く同じ考え方・性格・癖・人間性を維持します。地上時代の人格を、そのまま保ち続けます。

 さらに驚くべきことは、本人の願望や好みが、その人間を取り巻く環境をつくり出すということです。もはや肉体はないので睡眠をとる必要はありません。地上での病気や身体の不快感や重苦しさ・疲れは一切なく、身体は軽くて風呂あがりのようにすがすがしく、爽快そのものです。さらに大切なことは、すでに肉体はないので、この世界ではもう飲食の必要がないということです。お金も必要がない、欲しいものは何でもすぐ手に入るのです。 

 実は「幽界」は、さらに次の段階である霊界へ行くための準備をする場所なのです。幽界について最も重要なことは――「純粋な霊的世界(霊界)へ行くための準備をする所である」ということです。それは幽界が、他界した人間が永遠に住むことになる霊的世界に無理なく適応することができるようにとの「神の配慮」によって造られた世界だからです。このように「幽界」とは、地上臭を拭い去り純粋な霊的存在となって、次に行くことになる「霊界」での生活に向けて準備をする所なのです。

 また、霊界には地獄と言ってもいいような醜悪な場所・暗黒の場所があります。地獄を「邪悪で醜い悪人が集まる所」と定義するならば、地上に最も近い幽界の最下層の一部が、それに相当します。幽界の下層には、現実に“地縛霊や低級霊”が集まっている醜い境域(世界)が存在します。そこには魂の中身が極悪で、利己性がきわめて強い者がたむろしています。いつまでも地上的感覚を拭い去ることができず、享楽・快楽に耽溺(たんでき)したままの醜悪な霊たちが大勢いるのです。そうした醜い心の持ち主の思念は、醜い環境をつくり出します。当人たちには、それが一番心地よく感じられるのですが、外部から見れば、そこは暗く醜悪性に満ち満ちた“暗黒地獄”となっています。自分自身の地上的欲望がつくり出した地獄です。地獄は神が造ったものではなく、人間の心がつくり出したものなのです。地上時代に利己的な生き方をしてきた者、他人を苦しめてきた者、善行をするチャンスがありながらそれを無視してきた者は、死後、霊界(幽界)に行ってから、その愚かさのツケを払わされることになります。

 幽界では、地上時代になした愚行によって自分で自分を責め、後悔の念で苦しむことになるのです。“地獄の苦しみ”とは、そうした魂の苦しみ・心の苦しみのことを指しています。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-2_03.htm

 「死霊は初め穢れに満ちた荒ぶる存在であるが、あの世とこの世を往来し、家族・親族の供養を受けている間に次第に穢れと個性を脱し、やがて清浄化して祖霊群と融合一体化するに至る。そして没個性的な祖霊(カミ)として子孫を見守るために時(盆・正月)を定めて現世を訪れる。さらにはその祖霊は、新しい肉体に入り込み生まれ変わる(*柳田はそれを「魂の若返り」と言っています。すなわち肉体を借り物として、祖霊としての霊魂が繰り返し肉体を遍歴することになります)。」

柳田が述べている日本人の伝統的死生観は、スピリチュアリズムが明らかにした死生観ときわめて類似しているのです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-2/sp-thought1-2-6.htm

 

5、スピリチュアリズムの「霊界通信」によって明らかにされた「死後世界観(他界観)」のまとめ

 スピリチュアリズムが伝えている霊界通信の内容をまとめると次のようなものです。

  • 霊体と肉体を結ぶシルバーコードが切れる時が“死の瞬間”である
  • 人間は“死”によって肉体を脱ぎ去り、霊体だけになって死後の世界(霊界)で新たな生活を始めるようになる
  • “あの世”と呼ばれてきた死後の世界とは、「霊界」のことである
  • 死の直後に入る霊的世界を「幽界」と言う(*幽界は「精霊界」や「アストラル界」や「ブルーアイランド」などと呼ばれることもある)。幽界は、本格的な死後の世界である霊界と地上界との中間領域・境界的世界であり、霊界の最下層を指す。他界者はここで、生前の反省をしたり休息を取ったりすることになる。休息にともなって、大半の人間は“死の自覚”を持つようになる
  • 幽界では、思念でつくられた環境の中で、地上時代と同じような生活(地上時代の延長的生活)を送るようになる。幽界の環境が地上とそっくりなのは、そこの住人の思念が環境をつくり出した結果である。
  • 人間は死後も地上時代と同様に感情を持ち、思考活動をすることになる
  • 幽界には、自分の死を自覚できない者もいる。そうした者たちはしばらくの間(死を自覚し地上臭を拭い去るまで)、幽界に留まることになる。彼らの中には“地縛霊”となって、地上人に対して悪い働きかけをする者もいる。しかし、これまで伝統宗教で説かれてきた“サタン”や“魔王”といった悪の勢力の支配者は存在しない
  • 幽界は、本格的な死後の世界である霊界に入るための準備の場所である。幽界での生活を通して地上臭を拭い去ると、自動的に霊界に入っていくようになる。特殊なケースとして、地上時代から霊性が高く、霊的世界のことを正しく理解していた人間の場合には、幽界を素通りして初めから霊界に入ることもある
  • 幽界は地上世界とよく似ている点も多いが、全く異なる点もある。例えばお互いのコミュニケーションは以心伝心(テレパシー)でなされ、地上のような言語は用いなくなる。また、思念がそのまま外部に現れるようになる。心の中で願えば、好みの衣服や食べ物・家・持ち物などがそのまま実物として現れるようになる
  • 死後は肉体がないため、幽界では飲食をしたり睡眠をとる必要はなくなる。肉体の重さ・不自由さから解放され、病気の苦痛や疲労などは一切なくなる
  • 幽界では欲しいものは何でも自由に手に入るようになるため、お金は不要となる。地上時代のような、お金を稼ぐための労働も必要はなくなる
  • 幽界での生活を通じて地上臭を拭い去り、「もっと霊的に向上したい!」という思いが湧き上がるようになる。幽界での生活に飽きを覚え嫌気がさすようになると、霊界へ行く準備が整ったことになる。すると、自然な形で霊界に入っていくようになる
  • 霊界には幾つもの界層が存在する。本格的な霊的世界である霊界には、霊格(霊性・霊的成長度)の違いから無数とも言える界層が形成されている。他界者は自分の霊格に相応しい界層に赴き、そこで霊的親和性によって結ばれた霊たちと共同生活を送るようになる。霊界では上下の界層間の交流はなく、同一界層の間だけで交流が行われる。したがって霊界では、霊性の違いによって住み分けがなされることになる。高い界層には霊性レベル(霊的成長度)の高い霊たちが住み、低い界層には霊性レベルの低い霊たちが住むようになる。高い界層ほど素晴らしい環境となり、天国・楽園のような様相となる
  • 霊界の低い界層の住人は、高い界層の住人が輝きに満ちた美しい環境の中で幸せに過ごしていることを知っている。そのため「自分も一刻も早くそこに行きたい!」と願うようになる
  • 霊界にも仕事はあるが、それはすべて利他愛の実践・他者への奉仕活動として行われている。霊界での仕事は純粋な利他愛の精神によるものであり、霊たちはその利他的行為を通じて霊的成長を達成していくことになる。この意味で、霊界での仕事は霊的成長にとって不可欠なものと言える。霊界での仕事は完全な適材適所のもとで行われており、誰にとっても喜びとなっている。皆が生き生きと奉仕の仕事に専念しており、一人として不平を言う者はいない

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-04.htm

6、葬儀と埋葬、供養

 スピリチュアリズムでは、葬儀・埋葬・供養について次のように述べています。

 (葬儀について)

 人間の死にともなう“葬式”についても、霊的事実に基づいて考えれば、はっきりします。これまで葬式は死別を悲しむ儀式とされてきましたが、今後は霊界に旅立つ死者を祝福するセレモニーにしなければなりません。本来、葬式はしてもしなくてもどちらでもいいことであり、それほど重要性はありません。“墓”も、造っても造らなくてもどちらでもいいのです。どのような形式で造るかも問題ではありません。葬式や墓が大切なのではなく、真理に立って身近な人間の死に向き合うことができるかどうかが問題となるのです。http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-03.htm

 シルバーバーチが語るように、亡くなった人を悲しむのは自分自身への哀れみであり、愛する人を失ったことを嘆いているのです。苦の世界から開放された人のために涙を流すべきではないのです。

「皆さんは赤ん坊が生まれると喜びます。が、私たちの世界では、これから地上へ生まれていく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。同じように、地上では人が死ぬと泣いて悲しみますが、私たちの世界ではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは地上生活が果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意がこの霊に具わったことを意味するからです。」

シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.208

 葬儀を悲しみとして行うのではなく、葬儀を祝福する宗教が一つあります。統一教会です。統一教会では、喪服も喪章もせず、祝いの礼装で式に臨みます。そこにある思想は、スピリチュアリズムと同じ霊界への旅立ちへの祝いなのです。

 統一教会では死んで葬儀をする事を「昇華式」と言います。死んだ人にすがりついて泣くのを見れば、死んだ霊が嘆息するというのです。「こんなに無知だから、私の行く道を綱で引っ張って行く事が出来ない様にしている」と言うのです。その様な事を知っている為に、統一教会では「昇華」と言うのです。高潔に飛翔するというのです。愛の力をもって押してあげなければ成りません。引っ張らず、押してあげなければ成りません。昇華式とは何ですか。変化して一段階上がって行くという事です。(文鮮明

 ただ、統一教会スピリチュアリズムの葬儀の祝福には大きな違いがあります。「堕落しなければ、人が死ぬ事は幸福です。それで今日、統一教会は、死を悲しみで迎える教会になってはならないと教えるのです。(文鮮明)」堕落という問題の解釈がポイントなのです。このことについては、別のブログ「サタンの実在について」で言及することにします。

(葬儀への参列について)

 しかし、葬儀をただ祝福すればいいというものではありません。この世の葬儀では、人々の悲しみに引き寄せられて多くの邪霊・低級霊・地縛霊が集まります。死者を迎えに来るのは、死者とゆかりのある人だけではありません。死者の想念に引き寄せられて邪霊・低級霊・地縛霊も集まって来ます。スピリチュアリズムで語るような善霊だけだと解釈してはいけないのです。したがって、霊的に敏感な人は邪霊・地縛霊を連れて帰ることになります。葬儀の場には、多くの霊が集まるのです。スピリチュアリズムでも次のように注意しています。
 この世の一般の葬式では、人々の悲しみの想念に引き寄せられて邪霊や地縛霊の類が会場に集まってきます。したがって霊的に敏感な人間は、そうした葬式への参加は避けるのが無難なのです。どうしても出席しなければならないときには、自分が守護霊とともに“霊の光”に包まれている姿をしっかりとイメージして臨んでください。http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-2/sp-thought1-2-6.htm

(供養について)

 死後、時間が経っているにもかかわらず、遺族の夢の中などに死者の霊がしつこく出てくるようであれば、その霊はいまだ「死の自覚」ができていないと思って間違いありません。また自分の墓についてあれこれ注文をつけてきたり、供養を要求してくるような場合も、地上への意識があまりにも強すぎて「霊的意識」が目覚めていないことを示しています。霊的自覚の乏しい先祖の霊に、死んだことを自覚させることが本当の意味での先祖供養です。位牌(いはい)をつくったり、読経をしたり、花や果物などの供物(くもつ)をあげても、本人の霊的意識の向上には何のプラスにもなりません。いったん本人に「死の自覚」ができれば、もはや先祖供養は必要ではなくなります。あとは指導霊の導きに任せればよいのです。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-2_02.htm

(埋葬と墓について)

 火葬にせよ土葬にせよ、死体を処理するまでに最低3日間は時を置くということが大切です。死者が生前に霊的知識に無知であった場合、霊体と肉体を結ぶシルバーコードが切れても、それまでの長年にわたる一体関係の名残で、ある程度の相互作用が続くことがあります。そして地上的感覚をしばらく持ち続けるのです。その場合、自分の肉体が処理されると、一時的であっても霊の精神に障害が及ぶことになります。“自分は生きている”というような感覚を残している分だけショックを受けるのです。もちろん生前から霊的知識を知っている人の場合は、そうしたことにはなりません。

 墓については結論から言えば――「墓はあってもなくてもどちらでもいい」ということです。墓は、不用となった肉体の捨て場所にすぎません。したがって、わざわざ墓という特別な場所を設けなくても構わないということになります。山や海に捨て去っても、川に流してもいいのです。その意味で“遺灰をガンジス川に流す”というインド宗教の在り方は、霊的事実に近いと言えます。言うまでもありませんが、大きな墓を造って故人の生前の威光を示そうなどという考えは全く馬鹿げています。散骨も文句なしによい方法です。そこには何の問題もありません。スピリチュアリズムでは、遺骨には何の意味も認めず、不用となった肉体は大地に戻せばよしとします。

 ついでに言うならば、墓ばかりでなく仏壇も位牌も必要ないということになります。死んで霊界に行った先祖が幸福であるならば、地上時代の墓が無縁化しても何の問題もありません。

 死別は永遠の別れではなく、それどころか死によって愛する人との霊的距離は、これまで以上に近くなるとします。死は永遠の別離でもなければ、悲しみの時でもありません。葬送儀式は、死者の旅立ちに対する祝福のために執り行うものです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-2/sp-thought1-2-6.htm

 

7、地縛霊と地獄

 霊的世界の実在を認められない霊は、結局、地上世界の近くに留まることになります。これがいわゆる“地縛霊”です。自分の間違った考えで自分自身を地上に縛りつけている霊という意味です。よく昔から言われてきた「幽霊」という存在は、自分が死んだことに気がつかない地縛霊のことです。幽界の下層には地縛霊が集まり、絶対数としてはかなりの数に上ります。地上近くには、こうした霊たちがウヨウヨしているのです。

 地縛霊の中には、何十年も、時には何百年にもわたって、自分が死んだことを認めない者もいます。このような人間(霊)は、長い期間「自分は生きている、死んではいない」という思いを強く持ったまま、地上近くに留まり続けることになります。生前、飽食に浸り酒色の快楽に溺れるといった本能的喜びだけを追い求めてきた人間は、死んで肉体はなくなっても、本能的欲求が習性となり心に染みついています。その結果、地上近くを放浪し、同じような欲望を持った地上の人間にまとわりつくようになります。長い間、不安や憎しみ、嫉妬や恐れ、苛立ち・悲しみ・後悔の念といった地獄の世界の中に住み続けるようになります。反省しない霊、過ちを認めない霊、自分の楽しみや快楽しか考えられない地縛霊の心は、まさに“地獄”そのものと言えます。そしてその苦しみ・拷問状態が、霊たちには永遠に続くように思われるのです。

 霊界に行くと大半の人間が、一時的であっても地上人生を後悔し、辛い苦しみの時を過ごすようになります。実はこれが“地獄の苦しみ”ということなのです。霊的視点に立つならば“地獄”とは――「魂が苦しむ場所・後悔で苦しみもがく心の世界」のことなのです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-5/sp-thought1-5-1.htm

 

 人間は、地上で霊性の向上を図り霊界へ旅立つのです。霊界は、私達の故郷の地です。本然の故郷の地です。この地は本然の体の故郷の地であり、霊界は本然の心の故郷の地なのです。霊界は、愛を呼吸する世界です。愛が空気の様な世界だと自由に考えればいいのです。第二の新しい出発を「死」というのです。それ故に、その様に怖がる必要はありません。死は新しい出発の門を開くのです。

『心霊現象』-スピリチュアリズムの見解

 この世で起きている心霊現象については説明がつかないため、ありえないことと否定する人が多い。しかし、多くの心霊現象は今も世界のいたるところで起き続けている。どのような仕組みで起きているのかについては誰もが不思議に思っている。ここでは、スピリチュアリズムが蓄積した研究成果を紹介してみたい。

 スピリチュアリズム並びに近代心霊研究は、その発祥のもととなった1848年のフォックス家事件に始まる。スピリチュアリズムは、その後の長い研究の中で非常に興味深い見解を提供している。その内容は、決して笑いごとですまされるものではない。

 コナン・ドイルは、スピリチュアリズムへの懐疑論者に対して次のような厳しい言葉を述べている。

「枚挙に暇(いとま)がないほどの著名人が、多くの時間と情熱を注いで確立した見解を“ナンセンス”だの“たわごと”だのといった、ぞんざいな言葉で片付けていられる時代は確実に去りつつある。今まさにスピリチュアリズムは、これまで以上の証拠を出そうと思えばあふれるほど出せるし、それに対する反証をいくら持ち出しても、ことごとくその人の重荷となっていく段階に立ち至っている――証拠、証拠としつこく要求する人ほど、実はそれまでに出されている膨大な証拠をまじめに検討していない人たちである。」http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-1_01.htm

 

 紹介するスピリチュアリズムの見解は、次のウェブサイトのものである。

スピリチュアリズム普及会第一公式サイト・第二公式サイト・第三公式サイト】

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/

 

 霊的真理を受け入れるためには、それに先立って霊魂の存在を認めなければなりません。「霊魂説」は霊的真理の最も基本ですから、人々が霊的真理の全体を理解するためには、まず「霊魂説」を受容することが不可欠です。「人間は死んでも消滅することはない。霊として永遠に霊界で生き続ける」「霊界は、我々が住んでいる物質世界に重複して存在している。同じ場所に次元を異にして存在している」「霊界に住む霊から、絶えず地上人に向けて働きかけがなされている。その働きかけによって心霊現象が引き起こされる」――こうした基本的な霊的真理、すなわち「霊魂説」を証明するために、霊界側は心霊現象を演出したのです。

 フォックス家事件がきっかけとなり、霊媒を使って心霊現象を起こし、そのメカニズムを解明したり、霊魂の存在を証明するという心霊研究の道が開かれることになりました。それと同時に霊から通信を受け取ることによって、他界後の世界の様子を探索していく道も開かれることになったのです。心霊現象の中で、まず科学者が研究の対象としたのが「物理的心霊現象」です。これは、私たちの周りで怪奇現象とか超常現象としてよく騒がれる現象のことで、宗教では古来から“奇跡”として扱われてきたものです。物質世界の法則だけを研究対象とする現在の科学にとって、心霊現象は初めから研究対象とはなり得ないものなのですが、近代心霊研究では、さまざまな心霊現象に対して、当時の一流の科学者による厳しい検証・研究が進められました。物理的心霊現象は、科学者に霊的世界の存在を知らせることが大きな目的だったのです。

 スピリチュアリズムは、その後「物理的心霊現象 → 霊魂説の証明・霊界通信の準備 → 霊界通信 → 霊的真理・霊的教訓」へと展開し、現在では心霊現象の中心は「心霊治療(スピリチュアル・ヒーリング)」や「主観的心霊現象」といった先進諸国の知性レベルに相応しいものへ移ろうとしています。地上人の内面に向けてより強く働きかけ、「霊的覚醒」を促すことができるものへと変化しつつあるのです。

http://sp-phenomena.in.coocan.jp/part2/p2chapter5/p2c5-01.htm

 

(1)「スピリチュアル心霊現象」と「サイキック心霊現象」

 心霊現象には、スピリチュアル心霊現象とサイキック心霊現象の二種類があります。

1-1、スピリチュアル心霊現象

 霊(スピリット)が主導して引き起こす現象であるため、「スピリチュアル心霊現象」と言われています。一般的な心霊現象(スピリチュアル心霊現象)は、霊界サイドの霊たちと地上の霊能者のコラボレーションによって演出されます。

 「スピリチュアル心霊現象」の場合は、霊界にいる霊たちからもたらされる「スピリット・エネルギー」と、地上の霊能者から提供される半物質性の「サイキック・エネルギー」を用いて心霊現象が演出されることになります。霊界の霊たちは、地上の霊能者から提供される半物質性のサイキック・エネルギーに、自分たちのスピリット・エネルギーを付け加えて加工し、心霊現象の演出に必要な材料をつくり出します。「物理的心霊現象」においてしばしば話題となる“エクトプラズム”(*1)は、こうしたプロセスの中でつくられる心霊現象の素材です。

 物体移動や物体浮揚・人間の空中浮揚といった物理的心霊現象、幽霊の物質化現象、霊界の医師によるスピリット・ヒーリングなどは、すべて「スピリチュアル心霊現象」です。霊媒現象(霊界通信)も同様です。

(*1)エクトプラズム:「物理的心霊現象」においてしばしば話題となる“エクトプラズム”は、幽界下層にいる未熟霊(職人としての役割を担う霊)が地上の「物理霊媒」から幽質素と生体エネルギー(半物質エネルギー)を取り出し、これに自らの幽質素と霊的エネルギーを加えることによって合成されます。地上の霊媒がエクトプラズムの素材を供給し、霊界の職人霊がそれを加工してエクトプラズムをつくるのです。エクトプラズムは、霊媒の身体のさまざまな開口部(鼻・耳・口・眼・生殖器)から流出します。謎が残された物質で、「物質と霊質の中間物質」「謎の半物質」としか表現のしようがありません。

 物質化したエクトプラズムの多くの場合、物質化したエクトプラズムの重量分だけ霊媒の体重が減少します。http://sp-phenomena.in.coocan.jp/part3/p3chapter1/p3c1-0B.htm

 

f:id:higurasi101:20171002175324p:plain

1-2、サイキック心霊現象

 霊界の霊が関与することなく、地上の「霊能者(超能力者)」の能力だけで引き起こされる心霊現象・超常現象です。霊・霊能者・交霊会という3つの条件のもとで引き起こされる一般的な心霊現象を「スピリチュアル心霊現象」と呼ぶのに対し、この例外的なケースを「サイキック心霊現象」と呼びます。

 「サイキック心霊現象」の場合は、使用されるエネルギーは霊能者が持っている「サイキック・エネルギー」に限られます(*時には「肉体エネルギー(生体磁気)」も用いられます)。当然、使用されるエネルギーには初めから限界があり、スピリチュアル心霊現象と比べてサイキック心霊現象は、すべての点(スケールや威力など)で劣ることになります。ある種の霊視や透視、サイコメトリーや念写、またサイキック・ヒーリングなどは、霊の関与しない「サイキック心霊現象」です。

 

f:id:higurasi101:20171002175444p:plain

http://sp-phenomena.in.coocan.jp/part2/p2chapter4/p2c4-01.htm

http://sp-phenomena.in.coocan.jp/part2/p2chapter4/p2c4-03.htm

 

(2)「物理的心霊現象(客観的心霊現象)」と「精神的心霊現象(主観的心霊現象)」

 心霊現象が、誰にでも(視覚的・聴覚的に)認識できるような客観性を持って現れるものか、あるいは霊能者の主観の世界(精神次元の世界)だけに発生するものか、という観点からの分類です。前者の心霊現象を「客観的心霊現象」、後者を「主観的心霊現象」または「精神的心霊現象」と言います。物理的心霊現象は典型的な「客観的心霊現象」であり、霊視や霊聴や透視、リーディングやテレパシー、神との合一体験や宇宙との一体体験などは「主観的心霊現象(精神的心霊現象)」です。また例外的に、この2つの「中間の心霊現象」もあります。客観的要素と主観的要素の両方を併せ持っている現象です。客観的心霊現象の場合には、周りにいる人間の誰にでも現象の事実が確認できるため、詐欺の入り込む可能性は少なくなります

 霊能者による霊視や霊聴やテレパシーの内容は、周りの人間には真偽のチェックのしようがありません。「主観的心霊現象」には、常に不正や詐欺が付きまとっているのです。したがってスピリチュアリズムでは、客観性を示す何らかの証拠が提示されないかぎり、その現象を霊能者の作り話や勝手な思い込み・詐欺・ペテンと判断します。

 死者からのメッセージの真偽は、縁故者しか知り得ない事実を霊能者が言い当てることによって、その真実性が証明されることになります。そのためスピリチュアリズムでは、霊能者に対して常に客観性のある証拠を求めるのです。

http://sp-phenomena.in.coocan.jp/part2/p2chapter4/p2c4-03.htm

 

2-1、物理的心霊現象

 「物理的心霊現象」とは、物理的な変化をともなう心霊現象のことで、その大半が典型的な「スピリチュアル心霊現象」であり「客観的心霊現象」です。スピリチュアリズムの初期において、霊界側からひんぱんに演出された驚異的な現象の大半がこの「物理的心霊現象」です。スピリチュアリズムの初期に盛んに演出された「物理的心霊現象」には、唯物論者で知識人の代表である当時の科学者たちに「霊魂説」を認めさせるという目的がありました。それを通して「霊的真理の伝道」の支援体制を整えようとしたのです。しかし時代の推移にともない、先進諸国ではこの種の心霊現象はあまり見られなくなりました。

 物理的心霊現象の多くが“エクトプラズム”という特殊な半物質を使用することによって演出されます。これらの現象はいずれも「スピリチュアル心霊現象」であり、「客観的心霊現象」に属します

①叩音(ラップ)現象・音響現象

 誰もいない空中から叩音が聞こえてきたり、音楽が聞こえてくるといった現象があります。これが「ラップ現象」であり「音響現象」です。霊界の霊が、霊媒体質者からエネルギーを取り出してエクトプラズムをつくり、これを用いて物質界に働きかけ、音を立てたり音楽を作成して地上人の聴覚に認識できるように演出するものです。

②物品移動現象・物品浮揚現象・人体浮揚現象

 霊が、エクトプラズムを用いて物体を移動させたり、空中に浮揚させたり、時には人間を空中に浮き上がらせるといったことを行います。これが「物品移動現象」であり「物品浮揚現象」であり「人体浮揚現象」です。こうした現象は、その場に居合わせた人々にはまるで重力がなくなってしまったかのように映り、大きな驚きを与えます。しかしこれは、霊がエクトプラズムという特殊な物質によって重力に逆らった動きをつくり出しているもので、そのすべてが「物理法則」のもとで発生しています。物理法則に従わない「物理的心霊現象」は存在しません。

ポルターガイスト現象

 霊(大半が低級霊)が、霊媒体質者からエネルギーを取り出してエクトプラズムをつくり、これを利用して家の中で騒動を起こしたり雑音を立てるといったイタズラをすることがあります。スピリチュアリズムの発端となった“フォックス家事件”は、こうした「ポルターガイスト現象」によって引き起こされました。これは最もポピュラーな心霊現象の一つであり、「ポルターガイスト現象」がひんぱんに生じる家屋は“幽霊屋敷”として、しばしば人々の話題にのぼってきました。また昔から“悪魔の仕業”として恐れられてきました。

④アポーツ現象(物品引き寄せ現象)

 何もないところから突如、物体が現れるといった不思議な現象があります。時には霊媒の身体から見たこともない物体が現れるようなこともあります。これを「アポーツ現象」と言います。霊が物体に特殊な働きかけをして分解し、それを離れた場所でもう一度組み立てて元の物体を再現するのが、この「アポーツ現象」のメカニズムであると言われています。

⑤トランスポーテーション現象(人間や物体の瞬間的な遠隔移動)

 人間や物体が突如、人々の面前から消え去り、その瞬間に遠方にそれらが現れるといった心霊現象があります。これが「トランスポーテーション現象」で、アポーツ現象とは逆の現象と言えます。

物質化現象(幽霊現象)

 霊媒から取り出したエクトプラズムを物質化させることによって、死者の生前の姿を再現するといった驚異的な現象があります。エクトプラズムの物質化の程度はさまざまですが、物質化が完全なときには、再現した死者のエクトプラズム体には生前の身体的特徴(脈拍など)がはっきりと現れるようになります。またエクトプラズム体として現れた死者の霊が、地上人と食事をしたり、握手をしたり、会話をするなど、生きている人間と全く同じ行動をすることもあります。エクトプラズム体は、一定の時間を過ぎると形態を維持することができなくなり、徐々に姿を消滅させることになります。この「物質化現象(幽霊現象)」は、“奇跡中の奇跡”と言ってもよいような驚異的な心霊現象です。

 巷でしばしば“幽霊”が出たと騒がれますが、それは物質化した霊の姿を偶然、地上の人間が見たものなのです。さらに特殊な「物質化現象」のケースがあります。それは「幽体離脱」した地上人の霊体が、自分の肉体から離れた場所で物質化して姿を見せるというものです。これが昔から“生霊”の出現として恐れられてきました。

 次で取り上げる「物理的心霊現象」は、スピリチュアリズムとは無関係なところでも、しばしば存在してきたものです。その中には「スピリチュアル心霊現象」と「サイキック心霊現象」の両方の要素を持った心霊現象もあります。

念力現象

 スピリチュアリズムにおける物品浮揚現象・人体浮揚現象が、霊界側からの働きかけによって発生したのに対し、地上の霊能者の霊体能力(念力)によって物質に力を及ぼして移動させたり破壊するといった現象があります。これは典型的な「サイキック心霊現象」で、スピリチュアル心霊現象(物品移動・物品浮揚現象)に比べ、その影響力は微々たるものにとどまります。

 一方、念力現象の中には、“低級霊”の関与によって引き起こされる「スピリチュアル心霊現象」もあります。行者が念力を用いて遠方にいる相手に危害を加えようとして呪詛(じゅそ)をすると、その悪なる念に惹かれて、低級霊が行者の周りに大挙して押し寄せるようになります。もっとも低級霊がどれほど結集しても、摂理に反した働きかけはできないため、それほど大きな影響力を及ぼすことはできません。

念写・心霊写真現象

 霊能者がカメラに向けて思念を集中すると、カメラの感光紙(フィルム)に映像や文字が写し出されることがあります。これが「念写・心霊写真」と呼ばれる心霊現象です。この現象には、霊能者のサイキック能力だけを用いて演出されるもの(「サイキック心霊現象」)と、霊界にいる霊が介入して“エクトプラズム”の操作によって映像を発生させる「スピリチュアル心霊現象」の二通りのケースが存在します。

聖痕現象

 信仰心の篤い人間の身体に、アザなどの聖なる印(しるし)が現れるという現象があります。熱心なキリスト教徒の身体に、イエスが受けたのと同じ十字架のクギの跡や、ヤリで突かれた跡が出現したりします。時にはそこから血が流れ出るといったこともあります。これが「聖痕現象」で、その人間の信仰心の深さを示すものとして尊敬の対象となってきました。

 この現象の大半は“サイキック・レベル”で発生しています。本人の純粋で強烈な霊的意識が、霊体に変化を引き起こし、それが肉体にまで現れるようになったものです。この「聖痕」は、催眠術と共通したメカニズム(自己暗示)によって引き起こされると考えられます。深い催眠状態下では五感が施術者によってコントロールされ、身体的な変化が発生することがありますが、「聖痕現象」もそれと同じような自己暗示のプロセスによって発生したものと言えます。

耐火現象

 行者が修行の一環として燃えさかる火の上を素足で渡ったり、真っ赤に焼けた石炭を素手でつかんだりしますが、不思議なことに全く火傷を負いません。これを「耐火現象」と言いますが、この現象にはサイキック能力によるもの(「サイキック心霊現象」)と、霊の関与による「スピリチュアル心霊現象」の両方のケースが存在します。いずれも肉体を半物質の物体(エクトプラズムや幽質素)で覆うことで可能となります。

芳香現象

 よい香りが霊界の霊によってつくり出され、地上人の臭覚に認識されるようになる現象が「芳香現象」です。言うまでもなくこれは典型的な「スピリチュアル心霊現象」で、音響現象と同様のメカニズムによって引き起こされるものです。

 

2-2、精神的心霊現象(主観的心霊現象)

 精神的心霊現象を発生させるのは、そこに特別な目的があるからです。その目的とは――「人間は死後もあの世で生き続ける」という事実を証明することです。すなわち“死後存続の証拠”を地上人に示して、「霊魂説」の正当性を証明することが精神的心霊現象の主な目的なのです。

霊視現象

 通常、肉眼では認識することができない物体や景色などが見えるといった不思議な出来事があります。これが「霊視現象」です。霊視は、霊体に備わっている「霊的視力(霊視力)」を用いることによって発生する心霊現象です。肉眼で見るわけではないので、目を閉じても、目に覆いをしても見ることができます。

 霊視力には低いレベルから高いレベルに至る質的違いがあります。低いレベルのものを「サイキック霊視力」と言い、高いレベルのものを「スピリチュアル霊視力」と言います。スピリチュアル霊視力は、霊体の能力であるサイキック霊視力が、霊界からの働きかけを受けて質的にレベルアップしたものです。「サイキック霊視力」では、遠方の風景や人物を見たり、目の前の人間の体内を見透すといったこと(*「透視現象」)しかできませんが、「スピリチュアル霊視力」の場合には、肉体を持ちながら霊界の景色や霊を認識することができるようになります。これが本当の「霊視現象」です。サイキック霊視力を持っているだけでは、霊視はできません。透視はできても霊視はできません。

 スピリチュアル霊視力は、霊界からの働きかけによって霊視力のレベルが高まって開かれるものですが、時に“低級霊”が働きかけて一時的に霊視現象が引き起こされるようなこともあります。“憑依”の状況の中では、しばしばこうした困ったマイナスの霊視現象が発生します。

透視現象

 霊体に備わっている「霊能力(サイキック霊視力)」を用いて、通常は認識できない地上世界の景色や人間などを見る現象が「透視」です。透視は広い意味では霊視現象の中に含まれますが、本質的な点で大きな違いがあるため、ここでは霊視と透視を区分します。霊界の霊などを認識するものを「霊視」とし、地上世界の人間などを見るものを「透視」とします。したがって透視では霊界の霊を見ることはできません。霊視も透視も、肉眼では見えないものを認識するという点では共通していますが、前者が「スピリチュアル心霊現象」であるのに対し、後者は「サイキック心霊現象」であるという点で異なります。

 透視現象は認識する対象によって、遠隔透視・物体透視・人体透視・半物質次元の透視に分類されます。「遠隔透視」は、遠く離れた所の風景や人間を認識するという現象で、かつて日本では“千里眼”と言われてきました。「物体透視」は、封筒や箱などの中に入ったモノや紙に書かれた文字などを読み取る現象です。「人体透視」は、エックス線検査のように人体内を見透して異常個所などを発見する現象です。「半物質次元の透視」とは、霊体と肉体の接合部分(中間体)に属するオーラやチャクラ・霊的エネルギーの通路などを認識する現象です。

霊聴現象

 霊視現象が霊体の視覚に関するものであるのに対し、「霊聴現象」は霊体の聴覚による現象です。霊聴現象も、サイキック・レベルのものとスピリチュアル・レベルのものがあります。「霊界の人(霊)の声を聞く」という場合は、純粋なスピリチュアル・レベルの霊聴現象です。“憑依”の始まりの段階において、異常な雑音に悩まされることがありますが、これはサイキック・レベルからスピリチュアル・レベルに移行する段階の現象です。

 ここで重要な点は、霊能者が「霊の声を聞く」といっても、地上人のような音声を聞くわけではない、ということです。なぜなら霊界には、地上のような言語はないからです。霊界人が、声を出して話をすることはありません。“言語”は、どこまでも物質世界におけるコミュニケーションの道具・物質的手段であり、霊能者が「霊の声を聞く」というのは、あくまでも主観的な感覚でのことなのです。それは霊能者にとって、地上の言語を耳で聞くような感じであったり、心の中に突如声が湧き出してくるような感じであったりします。さらには遠くから話しかけられるような感じで聞くというような場合もあります。

未来予知現象

 未来において発生する事件や事故について予知する人間がいます。そして実際に、それが的中することがあります。この「未来予知現象」も、「サイキック能力」によるものと霊界からの導きと援助の中で起きるもの(「スピリチュアル能力」によるもの)に分けられます。

 しかしスピリチュアル能力による未来予知で大切な点は、高級霊が事件や事故の発生を具体的な月日まで挙げて予知するようなことは絶対にない、ということです。なぜなら地上における事件や事故には人間の“自由意志”が関係しており、どのようなことが起きるのかは予想がついても、それがいつ発生するのかは正確には断定できないからです。霊界人には、今後発生する事件や事故の様子がフラッシュ・閃光のような形で瞬間的に示されます。それによって未来の出来事の大枠を知ることができるようになりますが、地上の時間にして具体的にいつ起きるのかは断言できないのです。軽々しく月日を指摘するような予知や予言の類は、“ニセ霊能者”の作り話であったり、地上人をからかおうとする“低級霊”の仕業であることが多いので注意が必要です。

テレパシー(感応)現象

 他人の思考や感情・体調などが、言葉を介さずに直接、伝わってくることがあります。こうした“以心伝心”と言われる現象の存在が、昔からよく知られてきました。これが「テレパシー(感応)現象」です。この「テレパシー現象」には、物質次元(*生体磁気レベル)のものから純粋に霊的レベルのものまで、さまざまあります。

 健康を害している人間の近くにいるだけで、直接相手の身体に触れたわけでもないのに急に体調が悪くなったり重苦しくなることがあります。これは肉体レベルでのテレパシー(感応)現象で、病人の発する肉体オーラ(生体磁気エネルギー)が周りの人々に影響を及ぼすことで発生します。“あくびの伝染”という現象を、多くの人々が経験的に知っていますが、これも生体磁気を介した物質次元のテレパシー現象です。

 また、ある人の写真を見たり、その人のことを考えるだけで心にエネルギーが入ってきて急に明るくなったり、反対に精気(霊的エネルギー)を奪われるように感じて落ち込んでしまうことがあります。これはサイキック・レベルのテレパシー現象です。この場合もやはり、相手の発するオーラを通して影響がもたらされています。また、これとは別種のマインド(霊的意識)レベルのテレパシーもあります。自分の考えが、遠く離れた人間に直接届くようなことがあります。相手のことを思っていたら、実はそのとき相手も自分のことを考えていたというようなことがしばしば起こりますが、これは霊的意識レベルのテレパシーと言えます。霊体や霊的心から霊的エネルギーが発せられていますが、相手に思い(念)を集中させることによって、それが一つの霊的絆・霊的パイプを形成することになります。スピリチュアル・ヒーリング(スピリット・ヒーリング)における「遠隔治療」では、霊医から発せられた霊的治療エネルギーは、この霊的パイプに乗ってヒーラーから患者に届けられます。

 テレパシーには、さらに高次元の霊的レベルでのテレパシーが存在します。それは霊界からのメッセージや導きを直接感じ取るというものです。宗教者の悟り、芸術家や音楽家のひらめき、科学者の偶然的発見などは、こうした霊的なテレパシーによるものが多いと言われています。

 このように“テレパシー”と一言で表現しても、さまざまな次元のものがあることが分かります。物質・肉体レベルのテレパシーからサイキック・レベルのもの、精神レベル(霊的意識レベル)のもの、純粋に霊的レベルのものというように、いろいろあります。この“テレパシー”という典型的な「精神的心霊現象」は、外部からではその内容を判断することができず、ニセモノと本物の区別がつきません。多くの場合、単なる個人的な思い込みにすぎないものがテレパシーとされています。

サイコメトリー現象

 霊能者が、初めて手にした物体からその持ち主や、その物体に関する背景を正確に言い当てるといった現象が存在します。これを「サイコメトリー現象」と言います。まるで物体が霊能者に語りかけ、情報を与えているようです。これは物体レベルでのオーラによる現象です(*オーラは、もっぱら“生命体”からのみ発せられる一種のエネルギーと思われていますが、実際には「物質次元のオーラ」があり、すべての物体はこの物質次元のオーラを放射しています)。この物質レベルのオーラには、その物体に関係するさまざまな情報が溶け込んでいます。

 こうした情報を、直感的に読み取る能力、ある種の霊的感応力・テレパシー能力を持った人間がいます。この「サイコメトリー」という霊的能力が、犯罪捜査においてしばしば力を発揮します。遺留品から犯人に関する情報が明らかにされることがあります。この種の現象は、霊能者のサイキック能力によって引き起こされる「サイキック心霊現象」と、霊の関与による「スピリチュアル心霊現象」の二通りに分けられます。霊界の霊が物質オーラの情報を読み取り、地上の霊能者に伝えるものが「スピリチュアル心霊現象」ということになります。

変性意識・神との合一体験

 催眠誘導やある種のドラッグ、また瞑想法や肉体行やブリージングといった特殊な手段を講じることによって、通常の意識状態に変化が生じるようになります。その際本人は、これまで味わったことがないような衝撃的な内面的体験をすることになります。人によってはその体験を、一種の悟りに至った状態と錯覚するようになります。一方、霊媒者にしばしば見られる“トランス状態”も、明らかに通常とは違った意識状態であることが分かります。こうした通常とは異なる意識状態を「変性意識」と言います。これは「心霊現象」の一つと考えることができます。

 人間の通常意識がいとも簡単に変化することが、近年の催眠術の研究やトランスパーソナル心理学や精神医学によって明らかにされるようになりました。古来より宗教には、こうした「変性意識」という心霊現象が当たり前のものとして付きまとってきました。スピリチュアリズムでは、この変性意識の発生メカニズムを明らかにしています。普段、「霊的意識」は物質(肉体)の中に閉じ込められていて、ほんの一部分しか自覚(顕在化)できないようになっています。ところが一度に多くの「霊的エネルギー」が取り入れられると、それまで顕在意識の中にわずかしか現れていなかった「潜在意識(霊的意識)」が、突如たくさん顕在化されるようになります。このとき大半の人間は、思ってもみなかった自分の心の変化に驚くことになります。以上が、変性意識の発生メカニズムです。

 変性意識の発生は、特殊な方法(催眠誘導・ドラッグ・瞑想法・肉体行・ブリージングなど)によってある程度まで可能になりますが、それは自然なプロセスにそったものではないため好ましくない結果をもたらします。しばしば“精神障害”や“憑依”といった副作用を引き起こすことになります。本来「変性意識(霊的意識の拡大化)」は、どこまでも人間の「霊性向上」にともなって自然発生的に起きるものなのです。時間をかけた霊性向上の努力にともなって、いつの間にか発生するようになるのが理想です。熱心で真剣なクリスチャンが、長年の祈りと禁欲生活の末に体験する「神との合一体験」という神秘体験は、まさにこうした自然発生的な「変性意識現象」なのです。

幽体離脱現象・臨死体験

 睡眠中やトランス状態下において霊体が肉体と分離し、自分の肉体を眺め下ろしていたというような体験談が数多く報告されています。その際しばしば、死後の世界の入り口(この世とあの世の境界)を垣間見たという報告がなされます。これが「幽体離脱現象(臨死体験)」です。こうした現象に対してある人は、それは脳内での主観的な体験にすぎないと言い、また別の人は、死後の世界を見てきた体験(臨死体験)であると主張します。近年、この「幽体離脱現象(臨死体験)」に関する研究が盛んになってきましたが、いまだに賛否両論が真正面から対立し、当分のあいだ決着はつきそうにありません。

 スピリチュアリズムは、この「幽体離脱現象」について驚くべき事実を明らかにしています。「幽体離脱」は、これまで一部の人間だけに起きる特別な現象と考えられてきましたが、実は大半の人間が毎晩のように体験しているということです。大部分の人々は眠っている間の体験を目覚めてから思い出せないために、「幽体離脱」は特別な人間だけに生じる現象と考えられるようになったのです。スピリチュアリズムが明らかにした事実からすれば、すべての人間が「幽体離脱現象」を引き起こすことができる霊能者ということになります。

 この「幽体離脱現象」には、特殊なケースが存在します。それは「幽体離脱」によって霊体が肉体から離れた場所にいるとき、そこに霊媒体質者がいると物質化して人々の目で認識できるようになったり、霊視能力を持った人間によって霊体が確認されることがあるということです。これが昔から “生霊”と言われてきたものの実態です。

 以上の説明は、下記のウェブサイトからの転載です。

http://sp-phenomena.in.coocan.jp/part2/p2chapter4/p2c4-04.htm

 なお、詳しい物理的心霊現象・精神的心霊現象については、下記に記述されています。

http://sp-phenomena.in.coocan.jp/part3/p3chapter1/index.htm

http://sp-phenomena.in.coocan.jp/part3/p3chapter2/index.htm

 最後に、低級霊・邪悪霊は、地上人と霊的波動が合えばすぐに侵入してきます。地上人が疲れて物欲や利己心にとらわれ、嫉妬や憎しみ・怒り・情欲などの悪感情に支配されると、低級霊・邪悪霊にすぐにキャッチされ、侵入されかねません。その時、地上人は頭が重くなったり肩が凝ったりという現象に見舞われます。また、興味本位に心霊現象に関心を持つことも、低級霊・邪悪霊の波動に合わせることになるので注意しなければいけません。低級霊・邪悪霊を引き寄せないようにするためには、利己的な思い、物欲の思いをなくし、利他愛に満ちた健全な心を保つことが重要です。

 地球に平和を招来するためには、原罪(罪の根)の清算が鍵となる (四) メシアという救世主によってのみ、罪の根から解放される

 日本にも原罪と救世主という思想は片隅で存在していた。生長の家の神想観の序に、「いよいよエデンの園再興の時がきたのである」という文章を見つけた時、エデンの園という理想郷は日本でも意識されていたのだと驚いたことがある。

 エデンの園という理想は、メシアの再臨によってもたらされるとキリスト教は伝えてきた。メシアなくして、原罪を受け継いできた人類は本然の姿に戻ることができないと伝えられてきたからである。それゆえ、メシアの再臨は信仰をもつ者にとってひたすら待ち望む希望の光である。罪の根が贖われるということは、パウロがいう別の律法-自己中心的で、名誉・淫乱・財欲・殺傷などの苦しみの根を断つことができるという希望の予言である。その暁には、人類はともに平和に暮らせる時代が来ることになる。

 

 (1)洗礼という恩恵

 もし、自らの手によって自らの罪・苦しみを救うことができるならば、宗教はこの世に出現しなかったはずである。なぜ宗教が出現したかと言えば、現世のほかに霊界が実在して救済には霊的な手続きが必要であるからである。また、人間の堕落には霊的存在である悪魔(サタン)が関与していたからでもある。神の救いは、霊的世界を通じて行われるため、霊的世界を正すことが欠かせない。

 宗教始祖は、苦難の路程を勝利して神の光を地上に届けることを可能にした。信徒たちは、その宗教始祖の霊的な信仰の勝利圏を信じることによって霊的恩恵を受け継ぐことができるのである。宗教は、こうして一人の勝利圏を多くの追随する信徒が恩恵として受けることによって広がってきた。「洗礼」というキリスト教の儀式も、イエス・キリストを信じることによってその霊的勝利圏を受け継ぐ恩賜である。

 イエス・キリストの勝利圏(十字架による贖罪と霊的復活)は、信徒たちに洗礼という宗教儀式を通じて恩恵をもたらした。イエス以降2000年のキリスト教の歴史において、イエスの十字架の贖罪の恩恵によって、数えつくせないほど多くの信徒達が罪から救われたと実感してきたのである。

 

洗礼は、イエス・キリストを信じてクリスチャンになった人が、キリストに従順な生活を始める第一歩となるからです。洗礼を受ける第一の理由は、「イエス・キリストがそう命令されたから」です。クリスチャンとは、「イエス・キリストに従う人」のことです。クリスチャンになった人は、「私はキリストを信じて、キリストと一体となった」ということを表現するために、洗礼を受けます。

一つになるということです。通常の形式では、受洗者は水の中に入って全身を浸します。その人はずぶ濡れになります。そのことが、一体化を象徴しているわけです。その一体化とは、もちろん、「イエス・キリストとの一体化」です。
ですから、「自分はイエス・キリストを信じた」、あるいは「イエス・キリストと一つになった」、ということを象徴的に表現するのが洗礼です。(中川健一)聖書入門.com  http://seishonyumon.com/movie/1794/

 人は信仰と恵み(イエス・キリストの恩恵)によって救われる」というのが、救いに関する真理である。

キリストの十字架を信じて受け入れると「不思議に」罪が清められる。心の重荷が取り去られて自由になる。過去が精算される。今生まれた嬰児のようにさせられる。

キリスト教は「罪の赦し」の宗教である。結論を先にいえば人間の努力では無理。神の霊に満たされるときに「赦しとやわらぎ」(賛美歌501)の心が与えられる。これは不思議な現象で、神の霊を頂かなければ人間はどんなに「努力」しても人を赦せない。  (高橋照男」」

洗礼を受けて、キリスト教の信徒となった人はこのような心の平安をもったのである。

 

(2)メシアの再臨と地上天国

(2-1)地上天国とは?

 地上天国とは、メシアが降臨して地上を支配するならば無条件に実現するというものではない。共産主義思想が素晴らしい理想郷としてとなえられたものの、実際革命によって実現された共産主義社会は人間が窒息するような息がつまる世界であったことは20世紀の歴史が示したことである。人間の魂が変革されていない限り、地上天国は実現できないのである。出口日出麿氏が指摘されているように、「共産主義という形で平等な社会が表面上築かれたとしても、魂が変わっていないのですぐに壊されることになる。人間一人一人の魂の改心ができるまで地上天国はできない。心の底から間違っていると気づき、正そうとすることが不可欠である(出口日出麿)」。地上天国は、人間の魂の変革なくしては難しいのである。

 地上天国とは、全人類が一つの真理により、一つの兄弟姉妹として、一つの大家族を形成していく世界である。この世界は、神を父母として侍り、人々が兄弟愛によって堅く結ばれて生きる世界である。自分一人の利益のために隣人を犠牲にするときに覚える不義な満足感よりも、その良心の呵責からくる苦痛の度合の方が遥かに大きいということを悟るときには、決して隣人を害することができないようになるのが人間誰しもが持つ共通の感情である。それ故、人間がその心の痛みから湧き出ずる真心からの兄弟愛に包まれるときには、到底その隣人に苦痛を与えるような行動は取れなくなる。まして、時間と空間とを超越して自分の一挙手一投足を見ておられる神ご自身が父母となられ、互いに相愛することを切望されているということを実感するはずのその社会の人間は、そのような行動を取ることができない。

 従って、人類の罪悪史を清算した新しい時代において建設するはずの新世界は、罪を犯そうとしても犯すことのできない世界となるのである。今まで神を信ずる信徒たちが犯罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰がきわめて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在するということを実感で捉え、犯罪を犯せば人間は否応なしに地獄に行かなければならないという天の法則を十分に知るなら、誰が敢えて罪を犯すことができようか。罪のない世界が即ち天国であるというならば、堕落した人間が長い歴史の時間をかけて探し求めてきたそのような世界こそ天国である。

 禅の秋月龍珉氏は、「従来の禅では相交わる対象がどうも自然に傾きすぎて「私と汝」という人間対人間のところで「自他不二」の境涯を練る訓練が足りなかったと思うのである」と述べられている。「一日一禅」の著作の中で、「南山に雲起これば、北山に雨下る」という句について、次のように説明している。『南山の雲と北山の雨とは不二である(二つであって二つでないこと)。それを空というのだ。空とは「自他不二」である(禅は、この不二を自覚することを説く)。平等即差別である。したがって差別即差別である。個物(微塵)と個物(微塵)とが相即相入する「事事無礙法界(じじむげほっかい=個と個とが円融交差して互いに礙〔さまた〕げない自他不二の境地の世界)」がそこにある。』自他の区別も空ぜられたとき、すべては一体化する。

 この認識も、真の兄弟愛に結ばれた地上天国のあり方を説いているものである。地上天国は、人と神との関係を元返すとともに人と人の関係をかけがえのないものにしない限りできないのである。そして地上天国の基点は、私たち人間の存在の原点である家庭から始まらないといけない。ここに天国が築けない限り、地上天国の建設は不可能である。

 

(2-2)原罪の清算は、神が地上の支配権を悪魔(サタン)から取り戻す第一歩である

「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。」(ロ-マ人への手紙第7章22~24)

「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げてくださった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」(ローマ人への手紙第8章1~7)

 

 イエス・キリストによる十字架による恩賜が多くの人類に救いをもたらせたことは、事実である。イエス・キリストの霊によって心に平安がもたらされ、死後楽園に行くことが約束された。しかし、聖パウロが述べているように、霊による救いは得たものの、自分の肉体には神の律法とは違う肉なる思いが厳然と残って自分を苦しめている。イエス・キリストによる救いは、完結していないのである。それ故、イエス・キリストは、再臨を約束されたのである。

 イエス・キリストの再臨によってなされなければならないことは、肉の思いの救いである。平たく言えば、この地上で生活するうえで、さまざまな状況・事態の中で神の思いと同じ思いと行いをすることができるようになれるか否かである。

 それは、人間が堕落によって神がわからず、自己中心の考えになり、互いに対立するようになって、罪を犯すようになってしまった心の中の罪の根を取り除くことが欠かせない。これがどんなに難しいことか、仏教は無明ということを教えたが、闇から完全に抜け出ることができないのが罪ある人間の姿である。まさに、この罪ある人間に救いをもたらす存在がメシアであり、人間の罪の根(原罪)取り除く救世主である。

 また、イエスの十字架の代贖によって救われたと実感している人々にあっても、一人として、救い主の贖罪を必要とせずに天国に行けるような罪のない子女を生むことができなかったという事実は、原罪がその子孫にそのまま遺伝しているという有力な証拠である。イエスの十字架の贖罪によって完全に赦罪されたと実感している信徒たちの間でも、実際には罪のない個人も、罪のない家庭も、罪のない社会も、一度たりとも存在したことはなかった。

 

 人間社会から、この犯罪を根こそぎ取り除かないかぎり、決して理想社会をつくることはできない。宗教によってどんなに人倫道徳を啓蒙しても、文明が発達して天国が近づいたように見えても、最後に残る関門が罪の根(原罪)であり淫行である。釈尊の最後の試練が色魔の誘惑であったことを見れば分かるように、性の問題が最後に我々に悟りへの道を妨げ、悪魔(サタン)の手中に陥れるのである。現在、性の問題が極度に問題になっているのも、最後の審判の時がきていることを示している。再堕落の道が準備されているといっていい。

 だからこそ、罪の根(現在)の贖罪・清算が不可欠なのである。再臨のメシアのもとで行われると予言された「小羊の婚宴」という言葉には、堕落が家庭で起きたこと、堕落が淫行であったことを暗示している。「小羊の婚宴」という言葉で言われる再臨のメシアによる原罪の清算は、実際存在するのであろうか。また、実際罪の根は取り除かれるのだろうか。

 結論から言えば、存在するし取り除かれる。再臨のメシアによる原罪の清算には、肉体が浄められたという実感がある。そして、神とつながっているという感覚を得る。ただ、罪の根のほかに先祖から受け継いできた家系の罪が積み重なっている場合、それは実感しにくいものである。その場合、罪の根を清算されても、何も感じられないことも多い。しかし、罪の根が清算されたならば、何代か後には罪なき子孫が誕生するであろう。罪の根が消えたのだから、自らの煩悩と真正面から取り組み脱却することははるかに容易になる。罪の根の清算という根源の救いを受けることによって、人間は努力すれば近い未来に地上天国を築くことが可能になることだけは確かである。

 最後に宗教は、地上天国ができた暁には不要になるものであることを述べておく。

地球に平和を招来するためには、原罪(罪の根)の清算が鍵となる (三) なぜ、罪の根を清算する必要があるのか

(1)今の世相をみれば、罪の根が人間を苦しめているのがよくわかる

 今の世相を見れば、現代人は善悪がわからなくなり自己破滅の状態に陥っていることがわかる。精神的病を患う人は数多であり、この地上での生活は苦悩に満ちたものである。世相を賑わす事件は、性の問題と殺戮、家庭内の不和。どれも人類始祖のアダム家庭で起きたことの繰り返しなのである。もう解決策はないかのような状態である。道徳を叫べども問題は解決されない。なぜなら、罪の根が一人一人の心の奥底あってまとわりつき苦しめているからである。

 人間の罪の根とは何か。罪とは何か。日本人は罪のわからない民族であるといわれている。罪を一言でいうならば、「神がわからない。神の意図がわからない。天宙で自らが立っている位置がわからない。だから神の願いに応える行動がとれない」ということになる。このことは、次の次元として「悪がわからない。悪主権(サタン)がわからない。当然ながら霊界という世界が理解できない。自己と他己の対立そのことが罪であることがわからない」ということになる。自らが神(宇宙の根源)と一つになっていない、一つになることがどういうことかわからない。どんなに細かい選択も、どちらかが神側でありもう一方がサタン側である。知らず知らずに悪の選択をしていることが多い。

 罪が清算されていくと、体がだるいということが減り、物事に集中することがしやすくなる。また、心が浄まると、ものごとの背後にある動機、人の行動の背後にある動機を感じやすくなる。自分は何をしなければいけないかが自明のこととしてわかるようになる。そうなればなるほど、罪の根が私と神との関係を引き裂いているということを感じるものである。

 そもそも最大の問題は、罪の根を持っていない人間、罪の根を清算した人間とはどのような姿なのかがはっきりしないことが大きな問題なのである。歴史上罪なき人間の姿は、イエス・キリストしかいない。仏教指導者が釈尊の悟りを語る時、超能力を得たかのように千里眼になると語るものだから、余計わからなくなっている。罪が清算されてくると、集中力が増し、創造力が啓発され、知恵が出やすくなる。また他人を思いやることが当たり前になる。この霊性の向上は、一世代で行えるものではない。何代にもわたる努力の積み重ねがあって向上するものである。

 

(2)罪の根(原罪)

<聖書 創世記第3章1~7>

001:さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは、女に言った。「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」と。
002:女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
003:ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
004:へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
005:それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
006:女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
007すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

 これが聖書が記述しているアダムとイブの堕落の箇所-原罪と呼ばれている-である。アダムとイブから受け継がれてきた故に原罪と呼ばれている。

 罪の根は淫行である。アウグスティヌスは、原罪をアダムから遺伝された罪とし、両親の性交を遺伝の機会として解釈した。多くの宗教が姦淫を最大の罪と見て禁欲生活を強調してきたのも、ユダヤ民族が贖罪の条件として割礼を行ってきたのも、罪の根が淫行にあることを感じ取って来たからである。また、淫乱によって多くの国家・人間が滅んでいった。

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」 (マタイ第5章27~30)

 

(3)サタンの血統とは、自己中心性の血統

 淫行は何故罪となったか。不自然な性の関係をもったため、人間と神との関係が切れたのである。そしてサタンの血統になったのである。サタンの血統とは、自己中心性の血統である。

へびと表示された天使ルシファーと不倫な血縁関係を結んだ人間は、神がわからなくなり、神の願う善の繁殖行為ができなくなった。代わりにサタンの悪の血統(自己中心性)の血統を繁殖するようになってしまった。この地上世界は、自己中心性の人間によって形成される世界となってしまったのである。

蛇が誘惑に使った決定的な言葉は、「目が開け、神のように善悪を知るものとなる」でした。神のように善悪を知るということは、つまり、神がいなくても自分がすべてを知っている、自分が神になるということに発展します。
現代でも自分は神であると自称する人が数多くいますが、本当の神を差し置いて自分が神になりたいという欲望はアダムとエバの時代から内在していました。自分が神のように振舞うことは神が最も忌み嫌われた罪です。(キリスト教聖書用語辞典)http://www.bible-word.org/content/%E5%8E%9F%E7%BD%AA/

 罪が入ってからの人間は他人と比較するようになり、お互いを蔑みあい、憎み合うようになった。自己中心的な考え方によって行動し、多くの対立抗争を引き起こすようになった。神との関係が損なわれると、自分が自分の主人であり、自分が神であるかのように振る舞うようになる。親子関係も破壊されてしまった。そこから、神なき世界が生れたのである。神なき世界は、強者の独裁の世界であり、暴虐の世界である。対立と抗争は、多くの憎しみと罪を生んでいった。原罪を背負った人間とは、サタンの血統をもっているということ」なのである。

 こうして堕落した人間は、神のわからない悲しい姿に転落し、互いに争い合い憎しみ合って分裂する社会を作り上げてしまった。堕落した人間の姿は、次の特徴をもつものである。

  • 神がわからなくなった。自己の立つ位置が分からなくなった
  • 自己中心性が芽生え、他人と対立するようになった
  • 他人と対立することにより、多くの罪の繁殖を行うようになった
  • 堕落は、淫行という行為によって起きたので、子々孫々に遺伝することになってしまった

 こう述べると、誰もがサタンの血統であり、原罪を背負っているということを自覚するはずであろう。

 

(4)原罪という堕落は現在も起きている

 現在は、堕落によって起きた憎しみと争いが頂点に高まっている時代である。一人一人の人間の中では、心が病におちいり、苦悶が頂点に至り、精神を正常に保つことができず、精神の崩壊という現象を起こしてしまっている。身近な人間関係では、互いに信頼関係を築けず、人間は孤独に陥っている。生存の砦である家族は不安定であり、人と人はいつ対立して別れることになるかもしれないと不安だけが支配している。国家世界も、対立の極みにあり、人類最終戦争が起きかねない状況である。不条理な淫行ももはやタブーでもなくなり、神の審判が下っても仕方がない状況である。

 神がわからなくなっている人間は、ソドムやゴモラが滅びた時のように、堕落行為を繰り返している。最後の審判によって滅びることになりかねない。滅んでもかまわないと腹をくくっている人も、死後霊界という世界が存在して、自らが死後地上で苦しんでいた世界へ行くことが分かると、それはそれで困ったことになるはずである。

 人類始祖に起きた堕落という失敗は、遠い昔の出来事というだけでなく、現在も繰り返し起きている悲しい出来事である。現在も人間は至る所で堕落を起こしている。堕落により人間は、再び未開の時代に戻らざるを得ないかもしれない。

地球に平和を招来するためには、原罪(罪の根)の清算が鍵となる (二) 宗教は、地上に天国をもたらすための訓練として存在してきた

 大本教の出口日出麿氏は、「宗教本来の目的は、現界的にいえば、地上天国建設にある。すなわち、すべての人類がたがいに愛し愛されながら神を賛美し、その業を楽しみ、闘争や蔑視反目のない真に住み心地の良い世界を造ることにある」。そして、「信仰とは、宗教の教義をそのまま信じて実行することではない。信仰とは、神と私が対話できる状態に復帰することである。その状態ができない人間が、復帰の過程として一時的にその方法を学び実践するのが宗教なのである。神と対話することが難しい原因を知り、元の姿に戻るために、その方法の手段として学び実行するのが宗教の教理であり、宗教的修行である」と語られている。
 ここに宗教の存在目的と信仰の目的が簡潔に述べられている。宗教は、神と対話できる状態に人間が復帰するための方法を学び訓練するためのもので、その方法を通して神と対話できる状態に復帰してこの地上に争いのない地上天国を造ることが究極の目的である。

 

(1)宗教は、本来不要のものであった

 人類始祖といわれるアダムとイブが堕落しなかったならば、宗教は本来必要なかった。本然の人間は、空気を感じるように神を感じ、神の意図を感じ取ることができるはずであった。そこには、修行などという宗教行為は必要なかった。聖書の記述を見れば、アダムとイブが堕落したその時でさえ、二人は神の言葉を聞き取れることができたと書かれている。神との関係が切れた瞬間においても、まだ神の言葉は聞き取れたのである。

 しかし、世代が移っていくにつれ、神の存在、言葉はわからなくなった。神がわからなくなった人間は、自分が立っている位置(本来、人間は天上天下唯我独尊といわれるように、天宙での自分の位置がわかる)がわからなくなり不安に駆られるようになった。そうして、神を忘れ、自分本位に生活し、他人と対立し、地上に争いの王国を打ち立てていった。その結果、地上は争いと暴虐で満たされることになった。

 

(2)義人の召命と神の教えの流布
 神は、義人を探し求めた。聖書には「ノアは義人であった」と記されている。堕落した人間は、サタンの所有物である。(サタンは、人間は所詮自己中心的であると主張している。)それゆえ、アダムとイブの子孫によって建設された地上の人類は、サタンのものである。神の恩恵圏には入ることができない。それゆえ、神の恵沢圏に戻るために宗教的行為が必要であった。聖書が記述している神の最初の義人は、ノアである。ノアは、人類最初の信仰者である。世界が乱れて暴虐が地に満ちていた時、神の召命を受けて120年間あらゆる暴虐と嘲笑を受けながらも、神の命令に絶対に服従して箱舟(供え物)を造った。そして有名な洪水審判が起きた後、ノアの家族は生き残ることができたというのが聖書の記述である。ノアは、神の命令に従順に従って箱舟を山の上に造った。ノアの信仰は、人間には及びもつかない神の命令を信じてついて行ったことにある。残念ながら、洪水審判の後、ノアの家族内での不一致が神の救いを延ばすことになった。

 人類歴史を通して神は、聖人・義人を召命して聖人・義人の信仰と苦役の犠牲の上で、人類全体を救済するという摂理をされてきた。歴史上に名を残している宗教上の指導者・義人・聖人は、例外なく神の召命を受けて苦難の人生を歩むことを余儀なくされながら、神の救いの摂理に貢献してきたのであった。宗教上の義人・聖人の歩みは、神の救済の恩恵をあまねく広めることにあった。一つ一つの宗教あるいは義人・聖人の召命は、全く関係がないように見えるが、神が周到に準備した奥深い摂理として関連性をもって進められている。だからそれぞれに存在理由がある。そして、召命した義人・聖人を通して、人間としての生きる道理・規範が伝えられてきたのである。

 

(3)なぜ、供え物が必要とされたのか

 供え物が宗教行為として必要とされる理由は、霊界の実在と霊界に実在する悪魔(サタン)という存在がわからないと理解できないものである。科学に慣れ親しんだ現在人には空想に思えるであろうが、人類は創世以来供え物を神に捧げてきた事実が示すように、人間は直観的に神の前に供え物が必要であることを感じてきた。

 聖書の記述では、人類最初の供え物をした人物は、人類始祖アダムの長子カインと次子アベルである。「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。 主はアベルとその供え物とを顧みられた。(創世記 第4章3~4節)」人類始祖の段階から神への供え物は、あったのである。
 考古学の研究においても、ネアンデルタール人は宗教儀礼を行っていたといわれている。

 約 30 万年前、現生人類の祖先として誕生したてネアン デルタール人(優秀な狩猟採集民であって、ヨーロッパを中心に熱帯、温帯の広い範囲に適応して生存した。人口は最大時で50 万人ほどに達したと推測されている)は、脳の大きさが1400ml に達し、超自然的なものや死後の世界を考えた最初の人類と言われている。イラク北部のティグリス川上流の山中にあるシャニダー ル渓谷の洞窟で発見されたシャニダール4号人骨は、明らかに土を掘り 下げて「埋葬」されており、さらに遺骨の周辺からは花の破片と花粉の 化石が多数見つかった。仲間を埋葬し、何種類もの花々を野山から摘んで帰り、死者に供えて埋葬儀式を行ったと見られている。この人骨は「花と共に埋葬された最初の人類」と称されたが、死を悼み、死後のための 埋葬品を飾る葬送儀礼の始まりとも考えられる(赤澤, 2000:227-234)。*1

*1:創価大学教授 中野 毅論文「宗教の起源・再考 ―近年の進化生物学と脳科学の成果から―」現代宗教2014  2014年3月4日発行 発行者 (公財)国際宗教研究所

 

 このように、人類誕生とともに人間の超自然に対する畏敬の念と宗教儀礼は、存在していたことがわかっている。なぜ、仲間の葬送儀礼を行い、豊穣の供え物をしてきたのか。人間は、人間を超えた超越した存在(神、天宙の根源的存在)を確信していたのであり、神に守られなければ生きていけないとわかっていたからであろう。何故供え物をしなければならないと感じたのかは、人間が神と離れてしまったことによって、心に不安が生じ不安が心を支配したからであろう。神の御心を感じ取れなくなってしまった人間に残された方法は、供え物をして神にとりなしを乞うことだった。ただ供え物をする以外に守られる術はわからなかった。そして供え物をした人間にとっては、神が供え物を取ってくださるかどうかが重大な関心事であった。

 しかし、神は全ての人間から平等に供え物を受け取ることはなかった。人類最初の供え物をしたのは、アダムとイブの息子アベルとカインである。この時、神はアベルの供え物は受け取るがカインの供え物は受け取らなかったと記されている。平等に受け取るのが筋ではないかというのが人間的解釈であるが、供え物に対する神の考えは、アベルの供え物によってアベルが神につながることを願うとともに、カインについては、弟アベルと一つになるということを通して神につながることを願われていたのである。神の救いには、供え物を通して神につながることと人と人が一つになることの二つのことがなされることによって成就するようになっていたのである。宗教の役割も、宗教始祖の神に対する信仰と信徒たちの教祖に対する忠誠によって救いが成就するようになっているのである。

 

(4)なぜ、出家が尊重されたのか

 人類始祖の堕落により、人間は自己中心性という堕落性をもってしまった。自分を優先するという自己中心性の堕落性は、如何ともし難い人間の本性であるように受け止められた。それゆえ釈尊は、「人間は自己中心的である。それゆえ、他人に危害を与えてはいけない」と語られたと伝えられている。サタンのものとなった人間には、神の意志を感じて行動することができなくなり、自己中心という煩悩が取り去り難く心の中心に居座っているのである。

 自己中心性を有した人間によって築かれるこの世の中も、当然ながら自己中心的な人間と人間の対立の世界となる。「サタンはこの世の支配者」といわれるのも、自己中心的な人間によって築かれた世界は神のものではなく、この世における自己中心的な人間の欲望に寄り添っている悪魔(サタン)のものだからである。だから、神を求め善を求める人が「神はいない。善をなす人がいない」と嘆いて現世に失望してしまうのは、至極あたりまえのことである。

 神を求め善を求めた人が、サタンの手を逃れる方法としてこの世を捨てるという方法を取ったのは罪ある人間が取り得る有効な方法だった。釈尊が「出家」という方法を選択して悟りの境地を開かれたのは、実に意味あることであった。この世では、サタンの手を逃れることが難しかったからである。

 その釈尊でも、悟りの境地に達するためには、苦行と瞑想を経て色魔というサタンに試されることが必要であった。それを退けて初めて、悪魔(サタン)は立ち去ったのだった。しかし、この世で生存しているかぎり、いくら出家しているからといっても、この世との接点がある。だから、折を見つけては、サタンは誘惑をかけてくるのである。釈尊スンダリー事件などはいい例である。

 また、出家により心の安定と煩悩からの脱却に成功したとしても、人間にはこの現世にて幸福を得たいという捨てがたい願望がある。だから、宗教はどうしても現世での生き方に道を探すことになる。人間には誰にも仏性があるという経典の言葉は、現世における救いを願う根拠となった。観音経が根強い信仰を集めるのも、弥勒の下生を願うのも、この世における救いを待ち望む人間の姿なのである。

 

(5)宗教にはなぜ迫害がつきものなのか

 新しい宗教が打ちたてられると、必ずといっていいほど迫害が起きる。その宗教が教える教義がこの世の常識に合わないからである。宗教に降りた神の啓示は、悪魔(サタン)に支配された既存の観念を打ち破り神の世界に一歩ずつ近づけるものであるため、激しい抵抗を受けることになる。宗教は、単なる道徳の教えではない。
 出口王仁三郎は、こう述べている。「信仰のためならば、地位も財産も親兄弟も朋友も一切捨てる覚悟がなくては駄目である。信仰を味わって家庭を円満にしようとか、人格を向上させようとかいうような功名心や自己愛の精神では、どうして宇宙大に開放された真の生ける信仰を得ることができようか。自分は世の終わりまで悪魔だ、地獄行きだ、一生涯世間の人間に歓ばれない。こうした絶望的な決心がなくては、この広大無辺にして、ありがたく尊い大宇宙の真理、真の神さまに触れることができようか。」

 この地上の支配権は悪魔(サタン)が有しており、信仰を味わうというような道徳的な関心やヒューマニズムでは悪魔に取り込まれ、神につながることができないのである。自らの内に存在する悪魔(サタン)の存在に気づき、これを払拭する努力が欠かせないのである。多くの宗教が必ず迫害を受けてきたのも、悪魔の支配権から脱却するためには、必ず悪魔の誘惑を振りのけて前に進むという過程が必要だからである。釈尊が悪魔の誘惑を忍んで断ったように、宗教は耐え忍んで悪魔の誘惑に勝つ必要があるのである。「耐えて勝つ」というのが宗教の戦法である。

 一人一人の信仰を考えた場合、苦行・苦役という外的な努力を自らに課すことによって悪(サタン)と闘い、行いの中にある悪しき行為を取り除いている(行儀)。さらに、瞑想・祈りという内的な努力を自らに課すことによって内的な悪(サタン)と闘い、神の光につながることよって心の罪を取り除いている(信義)。釈尊の修行が最初に苦行があり、最後が瞑想であったという伝承は、人間一人一人が罪を脱却して解脱に至るには内外両面の苦難の信仰路程を通過しなければならないことを示しているのである。

 

(6)宗教は何故対立するのか

 「人類が誕生して以来、宗教の対立と抗争は常識であった。神と人間は親子の関係であるといいながら、地上に天国を建設するといいながら、自分の属する宗教こそが正しく他の宗教は間違っていると主張するのが常であった。どれほど多くの迫害と抗争が繰り広げられてきたことだろう。平和を目指す宗教が、対立と抗争の原因であったことは数限りない。そして、今も多くの抗争の原因が宗教に根ざしている。なんと残念な事なのか。(出口日出麿)」

 宗教は、一つの宗教を作ることで満足し、宗教というものが地上に神の王国を築くための一里塚として存在しているということを忘れがちである。しかも、宗教教団自体が絶対的なものとして自認するものであるから、その教団に属す人は、教団本位という自己中心性に陥り他を排撃しやすい。また、信仰という行為が信じるという盲目的なものであることも問題を複雑にしている。出口日出麿氏が言われるように、十分な内省が不可欠である。そして、宗教の目的が人間が神と対話できるようになることであることを鑑みると、啓示に従うことは信仰の第一歩ではあっても、信仰のすべてではない。信仰が深まると、天宙において唯一無二の存在である自分という存在は、神と対話して行くべき道を教えられるまでもなく悟るようになる。

 「なぜ、宗教が抗争の原因になるのか。その第一原因は、信じるという行為にある。信じるという行為は、盲目的である。理性ではなく、魂の要求のままに従順に従うためである。それは、宗教的行為のすばらしさであり、誰にも平等に行える神へつながる道であるが、十分な内省を伴わずに他のものを盲目的に排撃するという傾向を持っている。(出口日出麿)」

 宗教は、この地上に天国を築くために神が準備してきたものであることを理解して、お互い寛容に相互理解に努めるべきである。

 

(7)なぜ、メシアが必要であるとされたのか

 メシア思想は、ユダヤキリスト教だけでなく、世界各地の宗教に散見される。仏教の弥勒降臨待望論もその一つである。メシアは、ユダヤ教において救い主として待望された。イスラエルを再建してダビデの王国を回復し、世界に平和をもたらす存在とされている。人々を苦難から救済し神の支配を確立する者としている。エレミアは、バビロン捕囚のような苦難は律法を守らなかった人々への神からの罰であると説いた。しかし神はユダヤ人たちを許して、救い主(メシア)をこの世に送る事を約束した。

 メシアは、外的世界の混乱を収拾し神の支配をもたらすものと期待されているが、その解釈は表面的である。どんなに信仰を重ねてもぬぐい去れない自らの内にある罪の意識を払拭してくださる神と人間との間の仲保の存在である。外的世界の混乱は、その世界を造っている人間の意識に問題があるのであり、それを正す道を示すことがメシアの使命である。人間の意識に罪の意識が乏しいならば、メシアによる救済は遠いといわざるを得ない。

 聖パウロは、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ローマ人への手紙第7章22~23)と慨嘆した。我々は善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする罪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。このように存在するものがそれ自体の内部に矛盾性をもつようになれば破滅せざるを得ない。

 人間は、信仰を重ねてもなお、邪心からくる悪の欲望にとりこにされている。人間は、堕落して自己破滅に瀕しているのである。多くの人間が現在苦悩の中で自己破滅に陥っている状況は、メシアなくしては解決しえない問題である。ここに、メシア待望論がある。

 

(8)日本人と宗教

 ところで、日本人の大部分の人は、宗教とは八百万の神に供え物を捧げて祈り、先祖を供養し、この世においては倫理道徳を守れば事足りるという観念をもっていると思われる。この考え方は、日本という国が海によって世界と隔てられ、しかも気候が温暖であるため、大自然に抱かれて生活するという環境にあったゆえに育まれてきたものであると思われる。しばしば起きる天変地異は、人間の力を超越した恐怖であり、神に祈るしかないものであった。日本人は、大自然という神(産土神)に守られて純朴に生きてきたといえるだろう。

 しかし、それではやっていけない時代がやって来た。西洋文明という黒船の来襲である。当時、神から啓示を受けた新宗教は、日本民族の精神上の危機が訪れたことを警告している。西洋文明は、日本に自由平等博愛とともに個人主義・民主主義という価値観を持ち込んだのである。島国で平和に暮らしていた日本人に個人の自立という価値観をもたらしたのである。人間の思春期に自立・自我の形成がなされるように、日本人に自立・自我の形成の時が訪れたのである。

 西洋の個人主義・民主主義という価値観は、日本人の自己意識を啓発し、自己と他己という二者間の人間関係、自己意識・自分中心という価値観を眠りから揺り起こした。それはまた、心の奥底に潜む闇(無明、罪)を呼び覚ますものであった。西洋の価値観には「神のもとに」というキリスト教の前提があったが、日本に持ち込まれた西洋思想は「神のもとに」という前提が抜け落ちてしまった。神なき自由平等と神なき個人主義・民主主義が広まることになった。このことは、人間の心の奥底に隠されていた自己中心性の思いを呼び起こし、個人の欲望を肥大化させ、個人の権利をわが物顔に主張する風潮を作り出した。日本の伝統にはない弱肉強食の論理が容認された。

 このため、社会秩序を安定させる必要が生じた。儒教倫理をベースとする倫理道徳教育が行われた。この教育は、儒教社会特有の上下関係の秩序を重んじるものであったため、硬直的で息苦しいものになりやすい面を有していた。現在でも日本の組織社会に陰鬱な影を感じる人が多いのは、この儒教倫理の影響が大きい。儒教倫理の社会では、表面的な秩序が重んじるため、その中で生活する人間は、自分の心は隠して表面だけを取り繕い、他人の心を察しながら生活するという葛藤を抱えるのだった。倫理道徳の啓蒙は、人間の行動を律し心の底にある闇(罪)を一時的に抑制することはできても消滅させることは難しいものなのである。

 心の内面に潜む妬み、怨み、不満といった醜い心はそのままにされた。心の救済には手は差しのべられなかったのである。キリスト教では、キリストが私の中に共にいるという実感をもたらし、キリストの故に赦しの気持ちが湧いてくるという。人間の心を罪(サタン)から解放して平安に導くのは、神の光(救い)である。今、自我と自立に目覚めた日本人に必要なことは、心の罪をぬぐい去り心に神の光を届けることによって心を解放して、自我の健全な成長を促すという宗教的な救いなのである。日本社会が変わるためには、宗教的浄化・感化が欠かせないことを知らなければならない。

地球に平和を招来するためには、原罪(罪の根)の清算が鍵となる (一) 現代は、善悪二つの主権が最後の闘いをしている終末である

 多くの予言者や宗教家が20世紀から21世紀にかけて終末が来ると警告してきた。宗教的に見た場合、現代は終末であることに異論をさしはさむ人はいないだろう。

 終末とは、社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代が訪れ、神あるいは絶対者の審判と救済なくしては未来はないという宗教一般で語られる言葉である。終末という現象は、個々人の内的な生命の終わりを指すだけでなく、人類全体(民全体)にとっても最後のとき、人類全体(民全体)に対する最後の審判と義人選別救済のときをも意味している。

 では終末はなぜ起きるのか?現在が終末の状態であることに同意できたとしても、何ゆえに起きるのかが問題である。終末というのは、神とこの地上の支配権を有している悪魔(サタン)が激突する時なのである。個人から始まり、家族、民族国家、人類全体が激突する時なのである。この世の支配者である悪魔(サタン)のもとにある人類歴史が終わりを告げ、新しい時代が始まることを意味する。古き天地が滅び新しき天地が始まるのである。

 終末には、天変地異が起こり、人々が泣き叫び、もだえ苦しみ、多くの人が生命をなくすといわれるのも、以上のような理由によるのである。

 

(1)ノアの時も終末であった

 創世記第6章は、ノアを召命した時のことをこう記している。

「人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。(中略)主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる』と言われた。(中略)時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、『わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。』」

 その後、神の洪水審判がなされる。悪魔(サタン)主権下の歴史を洪水審判によって終わらせ、神のみを信奉するノアの家庭を立てることによって神主権の理想世界を建設しようとされたのであった。ノアの家庭を除いては、どの人間も生き延びることはできなかった。現代人は、この出来事を実際にあったこととは信じていない。しかし、東日本大震災のように、想像をはるかに超えた天変地異は歴史の上しばしば起き、歴史の流れそのものを変えていったことを知らなければならない。

 

(2)イエス・キリストの時も終末であった

 神が願った地上の理想世界は、ノアの時もノア以降も実現されなかった。神は何度となく預言者を使わして最後の審判がなされると予言した。「万軍の主は言われる。見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、罪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽くして、根も枝も残さない」(マラキ第4章1)。

 イエス・キリストの時も終末であった。イエス・キリストは、ただ人類を救いに来られたのではない。審判主として来られた。

 イエスは、「わたしは火を地上に投ずるために来たのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなに苦しい思いをすることであろう。あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今から後は、一家の内で五人が相分かれて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう(ルカ第12章49~53)」と言われたことを見てもわかる。

「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すぐにきている。そして聞く人は生きるであろう。(ヨハネ第5章24~25)」と言われたのである。

 

 神の国はいつ来るのかとパリサイ人が尋ねた時には、次のような言葉を残した。

「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起こった。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。(ルカ第17章26~33)」と言われ、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」と言われたのであった。

 イエスの時にも、イエスを神の代身に立てて、神と悪魔(サタン)が激突したのである。残念ながらイエスは十字架につけられ、ユダヤ民族は十字架につけた報いを背負うことになり、2000年にわたるユダヤ民族の放浪の歴史が始まることになった。

 

(3)イエスの再臨の時も終末である

 イエスは、ユダヤ民族の不信によって十字架に釘けられてなくなることにより、地上に新しい天地をもたらすことはできなかった。イエスの十字架と後の霊的復活によって霊的救いのみの新しき天地が、イエスがもたらした神の勝利圏であった。キリスト教は、霊的救いの宗教として人類を導くものとなった。このため、イエスは再臨して霊肉合わせての救いの摂理を完遂する必要が生じた。イエスの再臨の予言がイエスご自身の言葉も含めて数多くあるのは、イエスが再臨する必要があることを示している。

 イエスの再臨は、この地上に神の国を実現するためである。イエス以降のサタンの悪主権にある人類歴史は、宗教・哲学・倫理によって、善を指向する人間の創造本性が喚起されるに従い、漸次悪主権から善主権のための勢力が分立され、ついに、世界的に対立する二つの主権を形成するに至っている。しかし、目的が相反するこの二つの主権(神とサタン)は、決して共存することができない。従って、人類歴史の終末に至れば、これらは必ず一点において交叉し、理念を中心として内的に衝突し、それが原因となって軍事力を中心とする外的な戦争(世界大戦)が行われ、神が勝利すればサタン主権は滅び、天側の主権のみが永遠なる神の単一主権として復帰されるのである。善悪二つの主権の歴史路程が交叉する時が来るのである。

 現在、人類歴史は世界的な文化圏を形成し、発達した交通機関にと通信網によって時間と空間を短縮させて地球を自由に行き来できるようになってきた。今や、イエスだけが再臨すれば、全人類は地球上で一つの大家族をつくり、一家団欒して生活し得るようになっている。

 そして一方では、人類世界の命運をかけて二つの主権がぶつかり合っている。一人一人の心の内部で、そして家庭の中において、身近なコミュニティの中で、国家の中において、そして世界の国々の中で。混乱と対立がすべてに共通するキーワードである。そして、混乱と対立の中で一人一人は身もだえしながら自ら行くべき道を模索している。神への道を選択して生き残ることができるのか、サタンを信奉して疲弊し滅んでいくのかを自らが選択しているのである。

 

(4)ノストラダモスの予言は当たっていた

 「1999年7の月、空からアンゴルモアの大王が下りてきて人類は滅ぶ」というノストラダモスの予言が、かつて大きく取り上げられた時、人々は戦々恐々としていた。しかし、その時が無事にすぎると、予言は外れたとまるで意に介しなくなった。予言とはその程度のものであると思っておられるだろう。

 それは、正しい解釈ではない。終末の現在、善悪二つの主権により綱引きが行われている。一人一人が善側に導かれるのか、悪側に残るのか、審判されている。1999年7月のアンゴルモアの大王の降臨は予定の未来の一つだった。その予言がはずれたのは、それまでにおける善悪二つの主権の闘いにおいて、ある勝利があったからである。アニメや漫画で描かれている人間と悪魔の正義の闘いは、架空のものではなく、実際に現実の歴史の背後で行われているのである。

 大本教出口なお氏の受けた御筆書きには、「人類は3%しか残れない」という啓示があった。人類ほぼ全滅というのが最悪の未来である。丁度ノアの時ノアの家族だけが残ったように。2012年のマヤの滅亡の予言の時も重大な危機であった。何もなかったかのように歴史は過ぎ去っていったが、人類の重要な岐路の年であった。そして今、2025年という岐路が待ち受けている。神の摂理歴史として、40年周期の節目を迎える。その時どのような審判がなされているだろうか。神を信じなければ、当然ながら新しい天地につながることはできない。善悪がよく分からなくなった現代人に神の審判がなされるのは致し方ないことである。

 「神さまは、“得心さして改心さす”と仰っている。“悪でこの世が続いていくかどうかということをみせてあげる”と仰っている。“渡るだけの橋は渡ってしまわねばミロクの世にならぬ”と仰っている。どうもそうらしい。せめて世界中の半分の人間が、なるほどこれは間違っているということを心の底から気づいてこなくてはダメだ。(出口日出麿)」。どのような形になるかはわからないが、審判は避けられないのである。