量子物理学の世界では“意識の不滅”が論争になりつつあるようだ

 現在の科学の常識では、意識は脳の中にあるとされている。この前提に立つと、意識の独立はなく霊界・死後の世界というものは存在しないことになる。物質が根本である。このことについて、量子物理学では疑問が提起されている。量子物理学においては、量子は粒子性(物質の性質)と波動性(状態の性質)をあわせ持つ。この量子独特の性質を論争する中で、意識と物質の関係について新見解が出されている。いよいよ、科学と宗教が頭をつき合わせて議論する時が来たのかもしれない。

新見解を紹介する前に量子物理学(力学)の世界について認識を深めておきたい。

科学雑誌「ニュートン」2017年2月号―光の量子論―より

 

(1)光の粒子説と波動説の歴史

 300年前変幻自在にふるまう光について、アイザック・ニュートン(1642~1727)とクリスティアンホイヘンス(1629~1695)が光についての仮説を発表した。ニュートンは、「光は粒子であり、光が起こす現象は粒子の運動として説明できる」と粒子説を唱えた。当時科学者の多くがこの粒子説を支持した。一方、同時代のオランダの物理学者ホイヘンスは、「光は波であると考えると、光の現象は説明できる」と波動説を主張した。光の波動説は、当初あまり支持がなかったが、イギリスの物理学者トマス・ヤング(1773~1829)が1807年に光が「波の干渉」と呼ばれる現象を起こすことを示す実験を行って、光が波であると考える人が増えていった。イギリスの物理学者ジェームズ・マクスウェル(1831~1879)は、電磁気学の理論から電気を帯びた粒子が振動すると、電磁波と呼ばれる波が生じ周囲に拡がっていくことを明らかにした。またその速度は、光の速度(30万キロ/秒)の値と高い精度で一致し、光の正体は電磁波であると考えられるようになった。こうして、「光は波動である」ということで決着するかに思われた。

 ところが、20世紀に入ると、光が粒子であると考えたほうが理解しやすい現象が次々に発見され、再び大論争が起こった。朝永振一郎博士は、「もし光が波なら、3メートル先のろうそくは見えないだろう」と語った。その理由は、ろうそくから3mはなれると、1mはなれている時に比べると同じ面積に当たる光のエネルギーは9分の1になる。計算してみると、3mもはなれると網膜のなかの細胞「視物質」を変形させるだけの光のエネルギーが視物質に当らなくなる。そのため、ろうそくの光が見えなくなってしまうはずと。光が粒子だとすると、その分布はまばらになるが、粒子1個のもつエネルギー自体は変わらないため粒子自体のエネルギーは薄まらない。粒子は十分なエネルギーをもっていれば、光の粒子が当たった視物質の分子は変形するので、ろうそくを感知することができる。このことは、遠く離れた星々を見ることができる理由でもある。

 アルベルト・アインシュタイン(1879~1955)は、「光電効果=光を金属板に当てると、電子が飛び出す現象」の原理を説明するにあたって、「光量子仮説」を唱えた。光には最小の粒「光子(光量子)」があり、光子1個のもつエネルギーは波として見たときの「振動数」に比例して大きくなると考えた。また、電子はエネルギーを少しずつ蓄積することができず、1個の光子だけで電子を飛び出させるエネルギーをまかなう必要があると考えた。

 こうして、光は波の性質をもつとともに粒子としての性質ももつという仮定から出発した「量子力学」は、さまざまなミクロな粒子の振る舞いを説明するのに成功してきた。電子や光、分子や原子などの振る舞いについて説明した量子力学の成果は、半導体やパソコンとなって我々の生活を支えるものとなっている。だが、光が「波と粒子の両方の性質をあわせもつ」とは結局どういうことなのか?」再び大論争となって来た。

 

(2)光の二面性=ホイーラーの「遅延選択実験」(1987年)

 「遅延選択実験」=光が出発後に、粒子としてではなく波として振る舞うことを選択したように見えるため、こう呼ばれた。

 アメリカの物理学者ジョン・ホイーラー(1911~2008)は、光を放出する時、出力をどんどん絞っていくと、最終的に光子1個分のエネルギーしかない光がぼつぼつ出るようになる非常に弱い光を「ハーフミラー」という特殊な鏡に通す実験を行った。ハーフミラーは、光の半分を透過し、もう半分を反射する特殊な鏡である。ハーフミラーでは光はaとb二つに分かれる。二つに分かれた光は、それぞれ普通の鏡で進路を変えた後、光子の検出器AとBに到達する。

 光子の検出器は、光子の半分のエネルギーをそれぞれ検出しそうに思える。しかしホイーラーが考えたのは、「量子力学が正しいなら、光子1個分のエネルギーが、必ずAとBの片方の検出器だけから検出される。検出の確率はそれぞれ50%で、どちらの検出器が検出するかは予想することはできない」と考えた。実験の結果、ホイーラーの予想通りの結果が出た。

 光子1個分のエネルギーが片方の検出器だけで検出されるということは、光子が「それ以上分けられないエネルギーのかたまり」であり、粒子であることを示している。もし光が波であるならば、いくらでも細かく分けることができるはずなので、光はハーフミラーで半分に分けられ、光子のエネルギーが半分ずつ両方の検出器で検出されるはずである。

 

 次に、ホイーラーは、今度はほぼ同じ実験装置で光の波動性を示す実験を行った。

光子1個分のエネルギーをもつ非常に弱い光を、ハーフミラーに向けて放出する。波としての光は二つ(aとb)に分かれた後、それぞれ普通の鏡で進路を変える。この実験では、分かれた光の波がすれちがうところに、もう一枚ハーフミラーを置く。ハーフミラーの先に検出器Aと検出器Bがある。

 aから来た光の波はハーフミラーで二つに分かれ、二つの検出器(AとB)に向かう。bから来た光の波も同様にハーフミラーで二つに分かれ、二つの検出器(AとB)に向かう。あらかじめ鏡とハーフミラーの距離を微調整しておくと、検出器Aに向かう二つの光の波を、互いに弱め合い、打ち消し合うようにできる。すると、検出器Bに向かう二つの波は、必ず互いに強め合うようになる。その結果、検出器Aでは光がまったく検出されず、逆に検出器Bでは必ず光が検出されるようになる。

 この実験から、光は検出器の直前まで二つの波が重ね合って弱め合ったり強め合ったりする波動性をもっていることが証明された。

 

 ホイーラーの三つ目の実験は、二つ目のハーフミラーを置かない状態で光子1個を放出するものである。この実験は、光は出発した後に粒子か波かを選択できるという仮説を検証するものである。この二つ目のハーフミラーがない装置では、光は光子(粒子)として振る舞い、50%の確率で検出器Aで見つかり50%の確率で検出器Bで見つかるはずである。そうしておいて、光が検出装置に到着する前に、二つ目のハーフミラーを素早く追加するという実験である。すると光は、必ず検出器Bでは見つかり検出器Aでは見つからないという結果になった。これは波の重ね合わせが起きたことを示した。光はハーフミラーがふえたことに途中で気づいて粒子から波に変身し、干渉を起こしたのか、あるいは時間をさかのぼって波として出発し直したのか?いずれにしても、「はじめから波か粒子かが決まっている」と考えることはできないことを示した。光が出発後に粒子としてではなく波としてふるまうことを選択したように見えるため「遅延選択実験」と呼ばれている。

 

(3)光の波と粒子の二面性の不思議さを示す「二重スリット実験」

 ヤングが行った二重スリット実験装置(板に細かい隙間スリットを左右二つ開け、光源とスクリーンの間に置く)で、左右二つのスリットを両方開けて光子を一つずつ飛ばすと、スクリーンにはボツボツと一つずつ光子が到達した跡が残される。この段階では、光子は粒子としてふるまっているように見える。しかし実験を続けていくと、スクリーンにはたくさん到達した場所と、到達しない場所が交互に並んだ「干渉縞」が現れる。干渉縞が生じたということは、波が二つのスリットを同時に通過し、スクリーンの手前で干渉を起こしたということを意味する。光子をひとつずつ飛ばしたのだから、光子は一つのスリットしか通過していないはずである。しかし、光が波だとすると波は広がって存在するので、二つのスリットを通り抜け干渉縞が現れることの説明がつく。

 

 次に、スリットに偏光板(ある方向に振動する光だけを通し、他の方向に振動する光は遮るもの)を置くという実験である。

 二つのスリットに偏光板を右のスリットには横方向に振動する光を通すものを、左のスリットには縦方向に振動する光を通すものを置き、スクリーンに当たった時の振動によって左右どちらのスリットを通り抜けてきたかをみようとする。不思議なことに一つのスリットを通った光がつくる像を重ね合わせただけの像が現れる。(縦方向のスリットは青の跡。横方向のスリットは緑の跡)。しかし干渉縞はできない。光は波としてふるまわなくなる。

 更に不思議なのは、スクリーンの手前にスクリーンと同じ大きさのななめ45度の偏光板を置く。偏光板を置くと、縦に変光した光も横に偏光した光も、一部が通り抜け、弱いななめの偏光になり、どちらのスリットを通ったかわかなくする。そうすると、干渉縞が復活する。「どちらのスリットを通ったか」という情報が消えると、観測されていない光と同じように波としてふるまうのである。

 

 

<確立解釈(コペンハーゲン解釈)>

 この実験結果をみて、光が粒子の性質と波の性質をあわせもつことをどのように説明すればいいのか?

 1926年イギリスの物理学者マックス・ボルン(1882~1926)が、現在標準的解釈とされている「確率解釈」を提案する。「コペンハーゲン解釈」とも呼ばれているもので、「ある場所の波の揺れ幅(振幅)は、粒子がそこに出現する確率と関係している」というものである。

 光子は、見ていない(観測していない)間は波としてふるまい、(観測すると)粒子としての姿を現す、ということになる。光子がある場所に出現する確率は、出現する直前のその場所での波としての振幅(波の高さ)が大きいほど高くなる、という解釈である。<ほかにもいろいろな解釈が出されている。>

 光は、観測されないかぎり波としてふるまい、二つのスリットを同時に通過し、最終的には1個の粒子として現われる。粒子性と波動性は同時には現れず、粒子的な振る舞いをする場合には波動的な性格を失い、逆に波動的な振る舞いをする場合には粒子的な性格を失うのである。

 量子(極微)現象とは、純粋数式世界(高次元幾何学世界)と、物質物理世界(3次元世界)の中間の現象なのである。

 

(4)「双子の光子」実験-量子のもつれ(量子エンタングルメント)

 特殊な光学機器を使うと、同じ方向に偏光(振動)した「双子の光子」を放出することができる。実験では、二つの光子の前に、それぞれ偏光板と検出器を置く。そして、片方の光子Aを偏光板と検出器に飛び込ませ、時間差をおいて、もう片方の光子Bも偏光板と検出器に飛び込ませる。すると、不思議なことに、先の光子Aが偏光板に到達した瞬間、離れた場所にいるもう一つの光子Bの偏光方向が偏光板Aと同じ向きになる。光子AとBが、まるでテレパシーで通信しているかのようにふるまうのである。

 このように、はなれた二つの粒子の間に相関がある状態を「量子のもつれ」という。かつてアインシュタインは、この現象を「不可解な遠隔作用」と呼び、そんなものがあり得るはずがないと批判した。しかしこの現象は実験で確認されている。何光年と離れていても一瞬で伝わる。量子のもつれによる粒子間の遠く離れた相関を予言する量子力学の性質のことを「量子力学の非局所性」と呼んでいる。この現象が、量子コンピューターや量子暗号通信に応用可能と期待されている。

【光子、電子、原子といった極小の粒子、つまり量子には、徹底的に直感に反する「非局所性」がある。たとえば遠く離れた二つの量子は、まるでコインの裏表のように運命を共有した状態になることがある。一方の量子の物理量が観測されたと“同時”に、もう一方の物理量も時空を飛び越えて決定されるという性質だ。】
出典とある理論物理学者の「量子重力理論」への探求:量子もつれには「質量」があるのか? « WIRED.jp

 実際に量子の世界ではテレポーテーションの実験が成功したという報告がなされている。テレポーテーションの成功例として報告されているもっとも大きな物質は原子だという。(京都産業大学 工学部・情報通信工学科 外山 政文教授)

 以上みてきたように、光子などのミクロな粒子のふるまいを説明する量子力学では、遅延選択実験や二重スリット実験、量子のもつれなど奇妙な現象が実際に起こることが確認されてきているのである。

(以上、科学雑誌「ニュートン」2017年2月号―光の量子論―より)

 

(5)量子力学において、「観察」という行為がもつ影響力の背後にある真理

 光は、観測されないかぎり波としてふるまい、二つのスリットを同時に通過し、最終的には1個の粒子として現われる。観察・観測という行為が、量子の行動を調べる上で重要な因子になっている。量子力学の世界では、「観察」という“意識的な”行為が、量子レベルでは大きな影響力を持っているのである。この世界は波動・振動でできており、その根本には結晶があり、振動が現実化したものが物質なのではないかといえまいか。

 量子論の生みの親であるマックス・プランクは、「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と驚きを持って受け入れ、ノーベル物理学者を受賞した理論物理学者ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だった」と語っている。

 観察という行為を介在して、意識と物質の関係について問題が再度提起されているのである。現在、脳科学が進めば人間の意識・思考・感情は解明されると考えられている。しかし、それは人間の妄想であるかもしれない。脳は、意識の受け皿にすぎないかもしれない。意識は、肉体に付属するものではなく、別々のものであるかもしれない。そう考えると、死後の世界は論理的に実在して当然である。肉体から解き放たれた意識が存在するということになる。

 いずれにしても、宗教と科学とは頭を突き合わせて論議する時を迎えたのではないだろうか。

 

 二つのニュースリリースを転載して、現代の主張・論争の一端を示す。

 

トカナ 【ガチ】「死後の世界」が存在することが量子論で判明!米有名科学者「脳は意識の受け皿に過ぎない」

http://tocana.jp/2017/01/post_12042.html

 米「タイム」誌の「世界で最も影響力がある100人(2014年度)」にも選ばれた、再生医療の専門家ロバート・ランザ博士が、死後の世界を肯定する発言をしていたことが判明した。

意識が物質世界よりも根源的

 米ニュースサイト「Collective Evolution」(1月14日付)によると、ランザ博士は著書「Biocentrism: How Life and Consciousness Are the Keys to Understanding the True Nature of the Universe(生命中心主義:いかに生命と意識が宇宙の本質を理解するための鍵であるか)」において、物質ではなく生命と意識こそ現実理解のための基礎的な要素であると断言、意識は肉体的な死とは別物である上、脳が意識を生み出しているわけではないと主張している。

 量子論の世界では、最も基本的な思考原理である矛盾律(AがB、かつ非Bであることはない)が通用しない状態である「量子の重ね合わせ」が長らく世界中の科学者を悩ませてきた。「二重スリット実験」では、2つのスリット(細長い穴)を通った電子が壁に衝突して作る痕跡をもとに電子が波なのか粒子なのか確定されるはずだったが、観察者がいない場合、電子は“波”の性質に見られる干渉縞を作り、観察者がいる場合、“粒子”に見られる痕跡を残すという “非科学的な”事態が生じたことで大問題となる。つまり、電子は「波であり、波じゃない」、「粒子であり、粒子じゃない」という矛盾する性質を抱えていることが判明したのだ。

 ここで問題となるのは何より「観察者」の存在だ。物理的世界に直接の影響力を持ちそうもない「観察」という“意識的な”行為が、どういうわけか量子レベルでは大きな影響力を持ってしまっているのである。このことを量子論の生みの親であるマックス・プランクは、「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と驚きを持って受け入れ、ノーベル物理学者を受賞した理論物理学者ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だった」と語っている。

 この論理に従うと、肉体(物質)と意識の因果関係が逆転する。つまり、意識が現実を生み出しているならば、発生の順番が脳(物質)→意識ではなく、意識→脳(物質)でなければならないため、肉体(物質)が死んでも、意識まで消滅する必要はない。こうして死後の(意識)世界が認められるというわけだ。

 ランザ博士によると、肉体と意識が別個のものだとしたら、肉体がアンテナのように意識を受信していると考えることもできるという。

 

トカナ 【ガチ】ついに臨死体験が科学の常識に!複数の物理学者「死んだら意識は宇宙に放出され、未知の世界に行く」

http://tocana.jp/2017/01/post_12053_entry.html

 

意識は量子情報として永遠に残り続ける

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7の細い管がマイクロチューブル「Wikipedia」より引用

 英紙「Express」(2016年12月7日付)などが、世界的に評価の高い複数の物理学者が「意識は肉体の死後も残り続ける」という驚きの発言をしていたと報じている。たとえば、米アリゾナ大学のスチュアート・ハメロフ教授によると、「意識は量子レベルに貯蔵された単なる情報」である可能性が極めて高いというのだ。

 それだけではない。スティーブン・ホーキング博士とともにイギリスを代表する数理物理学者ロジャー・ペンローズ博士も、細胞中に見いだされる直径約 25 ナノミリメートルほどの「マイクロチューブル(微小管)」が量子情報を準―原子レベルで貯蔵していると主張。

博士によると、肉体が死に行く過程で、マイクロチューブルが保持する量子情報が宇宙空間に徐々に放出されていくという。ただ、この過程の途中で蘇生した場合、量子情報はマイクロチューブルに回収され、意識を取り戻す。この量子情報の回収にともなう現象が、いわゆる臨死体験であるという。もし運悪く蘇生できなかった場合、放出された量子が永遠に宇宙空間に存在し続けることになる。つまり、魂(=量子情報)は不滅なのだ。

世界最高レベルの量子物理学研究機関である、独「マックス・プランク研究所」の研究者らもペンローズ博士らに同意しており、知覚を司る肉体が滅びれば、まったく未知なる宇宙が待ち受けている可能性もあるという。

「我々が“今、ここ”と認識しているもの、つまりこの世界は物質的に理解されただけのものに過ぎません。物質世界の向こうには、無限の現実が横たわっているのです……肉体は死にますが、精神的な量子場はなくなりません。そういう意味で、我々は不死身なのです」(マックス・プランク研究所元所長ハンス・ペーター・デュル博士)

「我々の思考、意志、意識、感情は、精神的な性質です。これらは物理学が取り扱う自然界の基礎的な力(重力、磁場など)とは直接的な関係はありません。一方、量子的世界では精神的性質との驚くべき一致が見られるのです」(マックス・プランク研究所クリスチアン・ヘルウィグ博士)

科学と宗教は、同じ土俵で議論する時を迎えたのではないだろうか。

 神様は生きて働いている-「野球の神様はいるんですね」

「野球の神様はいるんですね」

日本ハムファイターズ栗山英樹監督が日本シリーズの第5戦でシリーズ不調だった西川選手が逆転のサヨナラ満塁ホームランを放ったのを見た時、そんな感慨になったといわれていた。

テレビ番組のゲストとして出演された栗山監督は、南原清隆氏との対談において、今シーズンの監督采配の内側を披歴されていた。その内容は、傾聴すべきすばらしい内容であった。

栗山監督が野球に取り込まれている姿勢は、野球の神様が働きやすい状況を作り出している。

監督として権威をもって選手をまとめるのではなく、チームの目標に向かって、いかに選手を生かすかに精力を注がれている。その方法はとてもすばらしいものである。

 

 (1)自分の流儀を押し付けない

リーダーになると、自分のビジョンでまとめるということが目標になる。それはともすれば、自分の流儀を押し付けることになりかねない。ビジョンを実現するためには、チームの一人一人の協力が不可欠である。ビジョンを納得して、自発的にその目標に向かって一致団結していくというステップが欠かせない。それを強引に引っ張っていこうとすると、チームの中に不協和音が生じてくる。不満、反発、惰性が支配するようになってくる。こうなると、もはや活力は生み出されていかない。日本のスポーツ界・組織のマネジメント・指導方法は、この押し付け型に近いものが多いとされている。押し付け型は、チーム内の一人一人の意欲と創意工夫を削ぎ、個性の乏しい一様な組織を作り出しかねない。日本の弱点は、この組織マネジメントにある。この風土を改善するためには、リーダーが変わらないと無理である。

リーダーが明確なビジョンをもち、ビジョンを一人一人に説明して共通のビジョンにすること、そしてリーダーが親分風を吹かさないことが大事である。リーダーもチームの一員である。統率の役割を託されてはいてもそれほど特別な存在ではない。リーダーは筋を貫く一方で謙虚でないといけないのである。

 

 (2)選手を信頼する

どんなリーダーも選手を信頼するというが、選手を信頼するということはどういうことだろうか。ともすれば、リーダーの独りよがりの場合が多い。このことは、選手の側から考えるとわかりやすい。選手は、リーダーは私のことをわかってくれていると感じるとき、はじめてリーダーとの間に信頼感が芽生える。要は、選手一人一人をよく理解してあげるということが出発点である。理解しあえて初めて信頼感が芽生える。一人一人から見れば、リーダーとも1対1の関係である。この基本を忘れてはいけない。選手から見れば、わかってくれているということが大きな安心感であり、モチベーションとなる。リーダーが自分本位に選手を信頼するのではなく、選手が信頼されているという環境を作り出すことが成功の秘訣である。

栗山監督は、日々の選手との交流において堅い信頼関係を築かれているようだ。

 

(3)楽しく野球をやっていない。個々の能力をいかに発揮させるか。野球を心から楽しんでいるか。選手のことを真剣に思うから智慧がわいてくる

栗山監督は、大谷翔平選手がシーズン初め投手に専念していた時、楽しそうに野球をやっていない。なぜなのだろう。どうしたらいいのかと自問していたそうである。日々選手の状況を観察しているからこそ感じたことだろう。大谷選手への解答は、「リアル二刀流」だった。この選択はものの見事にはまった。大谷選手のその後の活躍は、誰の目にも焼き付くものとなった。そして一番ピッチャー大谷という今までにない奇抜な選手起用は、先頭打者ホームランとなって球史に残るものとなった。選手がいかにしたら輝くか、そのことを追求した結果が最高の形で結果として現れた。

人を活かすとは、チーム内の一人一人をいかに輝かせるかにかかっている。それこそ、リーダーに求められる資質である。誰もが才能をもっている。誰もが輝きたいと思っている。その気持ちを汲みわかってあげ、活かす道を示すことができれば、チームが生きるのである。そして、与えられた人材を最高の形で活かしたならば、神の導きによって最高の結果がもたらされるのである。

 

(4)苦言・厳しい𠮟責・処遇は、相手が納得して受け止めて初めて効果がある

栗山監督は、不調に陥った西川選手には一時二軍行きを命じ、打撃不調の中田選手の二軍行き申し出には、「そこに逃げたらだめだろう」と4番継続を命じたという。チーム内の選手が苦しい状況になった時、どのように対処すべきかはリーダーの大きな腕の見せ所である。厳しい叱責・処遇が必要な時、それを行うためには普段から築かれた信頼関係が欠かせない。選手以上に選手のことをわかっているという、選手からすればわかってもらえているという関係が築かれていないと厳しい叱責は効果をもたらさない。厳しい叱責・処遇は、される選手自身が納得して受け入れてはじめて効果をもつものである。監督権限として一方的に叱責したりしても、それは裁いたようになり、しこりを残すことになりかねない。下手をすると、その時の言葉が尾を引いて関係の修復が困難になる。そしてチームがバラバラになる。

中田選手は、栗山監督と話し合う中で監督の気持ちを理解し気持ちが吹っ切れて、その後4番として大活躍していくことになった。

 

(5)一つにまとまれば道が開ける

どんなスポーツでも、チーム全員の気持ちを一つにして試合に臨むために円陣を組むなりして気持ちをまとめようとする。このことは、スポーツだけではなくどの組織においても日常行われている方法である。苦境にあればあるほど、気持ちがバラバラになりやすい。そんな時でも、みんなの気持ちが一つにまとまれば道が開かれて来る。智慧が出て解決策が浮かび、全員が全力で臨む中に最善の結果がもたらされる。よくスポーツで「みんなが一つになった結果です。応援ありがとうございました」という談話がされているが、一つにまとまることは信じられない秘密の力を引き出すのである。一つになることは「神様がはたらく条件を創り出す」ことなのである。

 

テレビ番組の栗山監督の話を聞きながら、「栗山監督はすでに名監督である」と感じた。野球の神様の導きを引き出せる術を会得されている。一ファンとしてこれからの采配を期待して応援していきたい。どんな選手が育つのか、どんなチームができるのか、興味は尽きない。

霊界で四大聖人・聖賢の方々がセミナーを開いているそうだ。霊界からのメッセージ(5)【ソクラテス、トマス・ジェファーソン、ヒンドゥー教のヤージュニャヴァルキヤ、マイトリ】

霊界で四大聖人(イエス、釈迦、孔子、ムハマンド)と聖賢(アウグスティヌス、ルター、ソクラテスなど)の方々がセミナーを開いているそうである。セミナーの主題は「神様は人類の父母」であり、地上に降臨された文鮮明先生が解明された『原理講論』を分析、討論しているのだという。セミナーに参加した聖賢たちが霊界から地上にメッセージを送ってきている。5回に分けて四大聖人・聖賢の方々の霊界からのメッセージを伝えてみたい。

メッセージの出典は、統一教会の教材【「平和神経 平和メッセージ1~17」光言社2015版 の中の付録霊界報告書「神様は人類の父母」】である。統一教会の教材であるから当然文鮮明氏を讃えているものであるが、このメッセージが本物かどうかは皆様自身に検討していただきたい。

なお、上記教材の中には4人の他に、歴代アメリカ大統領3人、ヒンドゥー教の聖賢10人のメッセージが収録されている。

 

ソクラテス様のメッセージ]

 私、ソクラテスは、アテネ元老たちから審判を受けることになりました。私が主張したすべての理論が当時の市民の精神を混乱させたとしても、彼らが一人の人間の生命をもう少し大切に、高貴に感じていたら、という考えに浸ることが多くありました。人間の一生命は、肉眼で見えるもので判断すべきでないからです。一握りの微々たる万物であれ、神様の創造のみ手によらない創造物がどこにあるでしょうか。そして人間は、神様の作品のうち、最も大切で崇高な存在として、あらゆる知性と誠意を尽くして造られた神様の子女ではないでしょうか。
 神様の子女として造られた人間は、それを知らずに生きてきました。地上での父母と子女の関係を考えてごらんなさい。父母と子女は常に慕わしさの中で、お互いの出会いと離別に、どれほど胸を痛めるでしょうか! 父母と子女は、一つ屋根の下で愛情を交えて対話し、幸福に生きるべきではないでしょうか。神様も、そのように生きることを願われるでしょう。人間の創造主であられる神様は、愛の本体であり、情の塊自体ですが、人間の創造以後、誤った歴史が流れる中で、神様と人間の関係が断絶されたのです。このような状態にある神様の心情は、いかばかりでしょうか。
 知性人の皆さん! 私、ソクラテスは、アテネ陪審員たちから不信され、裏切られた男でした。当時の悔しさと悲しみは、語り尽くせませんが、この神様の傍らに来てみると、さらにもう一つ悲しくて悔しいことがあるのを知りました。それは、神様と人間の関係を知らなかったということです。これより悲しく悔しい事情が、どこにあるでしょうか! 自らの父母を知らず、人間をこの上なく愛してこられた神様の愛を知らず、悠久なる歳月をかけて子女を待たれる神様の痛みを、私たち人類は知らなかったのです。今や、こうした事実を知ったソクラテスの痛みは、表現するすべがありません。
 知性人の皆さん! 父母と子女の間で、知識と学問を自慢して生きてきましたか。人間の生活において最も大切なのは、父子の関係を回復し、維持していくことです。これは、いかなる学問の発見よりも偉大なことです。しかし、肉身を支えるために、地上であらゆる知性社会の中心的立場がとても大切であることを、私が知らないはずがあるでしょうか。しかし、自らの父母を大切にし、敬うことは、いかなるものとも比べようのない、高貴なことです。それを肝に銘じなさい。この神様の傍らで、ほかに何が必要だというのでしょうか。「神様は私の父母であり、私は神様の子女だ」ということは、血統の立場が最高位にあることを意味します。
 知性人の皆さん! 肉身は、地上で生活するときだけ必要であり、皆さんのもつ知識と学問もまた、大体そのようなものです。それゆえ、ここに入籍する来世の準備のためにも、内的な知識を備えなければなりません。あまりに無知で何も知らないまま、自身の学問だけに執着し、ある日、突然に肉身と霊魂が分離すれば、その霊魂は、どこに行くのでしょうか。これは深く考えてみるべき問題です。来世は間違いなく存在し、私たちの霊魂は、ここで永存するという事実を、肝に銘じなさい。
 したがって、備えなき霊魂は、ここではとどまる所がありません。地上で、道端の乞食を見たことがありますか。乞食は、自分の居場所がないため、道端が自分の居場所です。皆さんの霊魂は、とどまる居場所を地上で備えなければなりません。
 私、ソクラテスは、地上生活において、人間の外的な学問と知識も貴重でしたが、それよりも人間の内的な良識と真理、いわゆる哲学を常に追求しました。これを解明するために、どれほど多くの時間を投入したか分かりません。地上で、刹那的な生活を送るためではなく、人間の内的真理を追究しているうち、知性人の立場にゴールインしたのです。永遠なる居場所に来るのに、どうして苦労と努力の代価が不要でしょうか。その苦労と努力と投資の結実として、ここで永遠なる幸福の立場にとどまるようになったのです。
 私が知性人にこのようにお願いするまで、幾度かの苦い峠を通過しました。それはどうしてでしょうか。ここも、地上のように様々な姿で生きているのです。そして、地上のように多様な宗教と宗派があるのです。ところが、ここの知性人たちの集いで、「人生の行くべき道」をテーマに、「統一原理」の講義を聞くことになりました。ここで私は新しい真理に触れたのですが、それは人間の根本なる生き方を悟らせる真理でした。この真理によって実に驚くほど変わっていく自らの姿に、自尊心がとても傷つくこともありました。幾度も首を横に振って、この真理を否定したく思いました。それが真理でないことを願いました。この途方もない原理が、どこから出てきたのかを知って、幾度か心の葛藤が起きました。知性人としての威信と体面が根こそぎ吹っ飛んでしまう私自身が、とても恥ずかしくもありました。しかし、これは間違いなく真理なので、どうしようもありません! それで、私、ソクラテスは、自分のすべてを捨てたのです。知性も自尊心も、みな捨てました。そして、この真理の前にすべてを投入するつもりで、地上の皆さんにメッセージを伝えるのです。
 知性人の皆さん! 皆さんの知性を総動員するとしても、神様の知性と比較することができるでしょうか。天地万物を創造されるとき、何らの考えや計画もなく万物がぽんぽんと生じたのでしょうか。皆さんの知性と能力をすべて売っても、神様の能力と知性を買うことはできません。科学の力がいくら発達したとしても、自然のことわりを変えることができるでしょうか。科学の主人公は、正に神様です。ソクラテスが発見した神様の能力と神性を、すべて表現しきることはできません。それだけではありません。今、このレポートをしている女性は地上人であり、ソクラテスは霊人です。この事実についても知性人は、理解できるでしょうか。この事実もまた神様の能力です。時が来たので、天の秘密を地上人に告げ、神様の子女たちを正しく導くためです。
 知性人の皆さん! 神様は、子女を正しく立てるために、様々な方法を動員して苦労していらっしゃいます。皆さんは、神様を見ましたか。神様は無形で、体のないお方です。しかし、子女を探そうとする神様の一念、数千年が過ぎても変わることはありませんでした。そうして、神様は、そのみ旨を果たすために文鮮明先生を地上に遣わし、人間が歩むべき方向を定めるために、私たち人類に「統一原理」を明らかにしてくださいました。その「原理」とは、人間の知性で書かれたものではなく、文鮮明先生が神様と議論し、サタンと血闘を繰り広げて探し出した、人類救世の書なのです。それを精読してごらんなさい。そこには、人生のすべてが含まれています。それを精読してごらんなさい。そうすれば、皆さんの知性が皆さんの霊魂を、どの程度呼び覚ましたかが分析でき、皆さんがどのように生活すべきで、生活の方向をどこに定めるべきかを悟れることでしょう。
 知性人の皆さん! 皆さんが考えた偉大な人物、偉大な尊敬の対象とは誰でしょうか。自問自答してごらんなさい。彼らの大部分は、地上生活に必要な内容を残した偉人たちであることでしょう。しかし、皆さんの来世の生活にまで責任を負おうとする偉大なる師を、皆さんは、いまだに探せずにいるのです。文鮮明先生は、私たちに来世の永存を悟らせてくださり、私たちの霊魂にまで責任をもとうとされる、神様に代わる使命をもって、人類を永遠なる平和の道に導いていらっしゃるのです。
 そのお方を研究してごらんなさい。そして、そのお方よりも偉大な師がいるか、比較して探してごらんなさい。もし、地上に来られた偉大なる師として、このお方より偉大な師がいないと思うなら、皆さんはどうしますか。深刻な立場であり、深刻な時間であり、皆さんの人生に重大な決断を要する時間になるのです。人生は長くはありません。来世は明らかに存在します。それならば、真の師に会って来世を研究し、備えるのが賢明だと考えるべきではないでしょうか。
 皆さんの学問も知性も、神様に誇るものとはなりません。謙虚な者のみが、神様と共にとどまることができるのです。そのお方の偉大な真理を学び、皆さんのものとして消化して、永遠なるこの場に来るとき、無知な乞食の姿になることは避けなければなりません。最高の知性人とは、神様を自らの父母様として迎え入れる人でしょう。そのような人のみが、最高の知性人だと結論づけたいと思います。
 (二〇〇一年四月十日)

 

トマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson、在位期間1801~1809。アメリカ第三代大統領、独立宣言書起草)のメッセージ

建国精神に帰りなさい

 

静かな国、韓国で素晴らしい聖人、メシヤがお生まれになられたので、東洋の明るい光が全世界に照らされていくことを懇切に願う心で、ジェファーソンの心情を伝えようと思います。私たちアメリカの偉大な建国精神は、どの国にも劣りません。私は、それに誇りをもっています。

しかし、ここ死後の世界で、私は、静かで小さな韓国人をとてもうらやましく思っています。思想的葛藤、人種的葛藤、そして多くのテロに苦しんでいるアメリカ国民の、どこに平和と幸福があるでしょうか。人類のメシヤ、人類の真の父母は、世界平和の思想をもっています。アメリカの指導者たちは、その思想を受け入れてみなさい!アメリカは、外的最強国の自尊心だけを求めずに、人類の平和のために何をしているのかを冷静に判断してみなさい!

アメリカ国民よ、再び立ち上がりなさい!そして、建国精神に帰りなさい!韓国に顕現された人類のメシヤ、文鮮明先生の教えに従いなさい!私たちの建国精神と、その方の教えは違いありません。ここで、歴史的に有名な大統領と王たちが、その方の平和思想の偉大性に感激しています。

アメリカよ、再び立ち上がりなさい!そして、神様の新しい真理、新しい希望の地となりなさい!それが、この時代のアメリカの召命です。

トマス・ジェファーソン(二〇〇二年六月十日)

 

ヒンドゥー教の聖賢ヤージュニャヴァルキヤ(Yajnavalkya、『白ヤジュル・ヴェーダ』を執筆した古代賢人)のメッセージ

四大聖人たちの指導を受けながら、「統一原理」の教えに従います

 

四大聖人たちと聖賢たちが、ヒンドゥー教のために、このように激励してくだって感謝します。特に、ムハンマド様は何度もここに来られて、「愛しています。私たちは互いに愛し合いましょう。私たちが互いに愛し合えば、地上でも互いに愛し合い、一つになります」とお話ししてくださって、とても感謝し、感激しました。また、四大聖人たちが互いに尊敬し合い、互いに一つになっている姿は、とても美しいものでした。彼らはみな、彼らが一つになったのは「統一原理」があるからだと、ずっとお話しされ、私、ヤージュニャヴァルキヤは、最初から「統一原理」に対する好奇心を強くもちました。

私が神様と呼べば、神様は訪ねてこられますか。このような教えは一度も聞いたことがなく、とても不慣れです。ヒンドゥー教徒はみな、遠い国から初めてここに訪ねてきたかのようです。私たち、ヒンドゥー教において、「統一原理」はとても難しいものです。そして、神様が恐ろしいです。罪人でない罪人のような気分です。しかし、四大聖人たちが一つになるまでの苦衷を話してくださり、私にはとても大きな慰めになりました。私たちは、四大聖人たちの姿に似て、その指導を受けながら、「統一原理」の教えに従おうと思います。そして今は、「統一原理」がとても不慣れですが、私たちはそれを熱心に勉強したいと思います。また、私たちは、指導されているという地上の文鮮明先生を、詳しく見極めたいと思います。ありがとうございました。

、ヤージュニャヴァルキヤ(二〇〇二年四月十四日)

 

ヒンドゥー教の聖賢マイトリ(Maitri、紀元前800年、ヒンドゥー教の真理書『ウパニシャッド』に記録された聖人)のメッセージ

私たちの行動の方向を、はっきり定めるつもりです

 

ヒンドゥー教徒たちに、このようにあふれんばかりの愛を施してくださり、心から感謝いたします。温かい愛と配慮で私たちの手をつかんでくださり、激励してくださる四大聖人の姿を体験すれば、私たちは「統一原理」を聞かなくても、それが意味するところを十分に理解することができるでしょう。私、マイトリは、ヒンドゥー教徒たちからも受けられなかった温かい愛と理解を、四大聖人たちから受けました。四大聖人たちは等しく、「統一原理」を理解するようになれば、神様と人間、人生、そして歴史に対する質問がなくなるとおっしゃりながら、真正の愛で私たちを見守ってくださいました。私は生まれて初めて、満ち足りた感情を体験しました。私たちは、統一原理を聞く前から、そのような気分で「統一原理」の講義に臨むようになりました。

果たして、「統一原理」は文字どおり、「統一原理」であることを自覚しました。今回の教育の場は、人間が歩むべき公式的な道を案内する修練場です。「統一原理」はヒンドゥー教だけでなく、あらゆる宗教者たちが必ず理解すべき生活の指針書です。それから、人間を創造された神様がただお一人だけなのに、人間個々人、あるいは、ある共同体が神様のみ旨と異なる道を歩むとすれば、それは間違った道であることでしょう。私は、誰にでも「統一原理」を勧めたいと思います。「統一原理」は本当に不思議で、驚くべき内容をお教えています。そして、宇宙と人生に対するはっきりとした教えがあるにもかかわらず、私たちはそれを全く知らずに生きてきました。

このようにとてつもない教えを明らかにされたお方は、文鮮明先生だと、講師たちは紹介しました。神でない人間が、これを明らかにしたというから、本当に驚くべき事実であらざるを得ません。講師たちによれば、神様がそのお方に、「真の父母」という称号をお与えになったということです。私たちに、今、指導を受けるべき真の師と真の指導者がいらっしゃるので、とても有り難いです。今は多少、落ち着かず、慣れませんが、私たちは根本的な核心を知ったので、私たちの行動の方向をはっきりと定めるつもりです。

マイトリ(二〇〇二年四月十日)

霊界で四大聖人・聖賢の方々がセミナーを開いているそうだ。霊界からのメッセージ(4)【ムハンマド、ラービア・アダウィーヤ、ウマル・イブン・ハッタ―ブ】

霊界で四大聖人(イエス、釈迦、孔子、ムハマンド)と聖賢(アウグスティヌス、ルター、ソクラテスなど)の方々がセミナーを開いているそうである。セミナーの主題は「神様は人類の父母」であり、地上に降臨された文鮮明先生が解明された『原理講論』を分析、討論しているのだという。セミナーに参加した聖賢たちが霊界から地上にメッセージを送ってきている。5回に分けて四大聖人・聖賢の方々の霊界からのメッセージを伝えてみたい。

メッセージの出典は、統一教会の教材【「平和神経 平和メッセージ1~17」光言社2015版 の中の付録霊界報告書「神様は人類の父母」】である。統一教会の教材であるから当然文鮮明氏を讃えているものであるが、このメッセージが本物かどうかは皆様自身に検討していただきたい。

なお、上記教材の中には、3人の他9人のイスラム教の聖賢の方々のメッセージが収録されている。(アブー・バクル、イブン・マスウード、アブド・アッラー・ブン・カアブ、マーワルディ―、アミール・アル・シャアビー、ルフ・ビン・イバダ・アル・バスリー、アブドル・アル・ラザク・ビン・ハンマーム、アラウィ―、ヌワイリー)

 

[ムハマンド(マホメット)様のメッセージ]

 神様は、人間を創造され、「その姿一つ一つをすべて、神様の喜びの実体対象として造られた」と言われました。しかし、神様の本来のみ旨に反し、人間始祖が過ちを犯すことにより、人類は出発から神様のもとを離れてしまい、横道にそれた歴史が流れるようになりました。
 ここから人種が分かれ、宗派も生まれ、文化も分かれ、地域ごとに生活様相も多様に分かれ、変化するようになりました。しかし、私たち人間の創造主としていらっしゃるお方は、唯一、神様お一人でした。人間を創造された主人公は、お一人であるのに、宗教と宗教、人種と人種の間で数えきれないほど闘争があるため、地上を眺める神様の心境は、いかばかりでしょうか。息子たちが毎日、互いに争い、自分のものを主張し、正邪を分けながら争い合っているとき、人類の父母の立場にあられる神様にあって、子女たちのこうした姿を眺める心情は、いかばかりでしょうか。地上人が神様の全体的な歴史の方向や流れ、また神様と人間の関係を詳しく知らないがゆえに、長い間、宗教の和合が成されなかったのです。
 神様は人類の父母様です。私たちが主張する教理や真理の根本を突っ込んで考えてみると、すべてが一つなのです。どんな宗教であれ、悪をあがめ奉れという教えがあるでしょうか。方法は違っても、根本は、すべて善を志向する真理であり、教理なのです。それは、神様が絶対善と絶対愛の本体であられ、各宗教の教理には「愛し合いなさい」という教えが内包されているからです。
 ですから、各宗教の根本的な教えは、すべて同一です。各宗教の教えを包容して一つの宗教に統一するのが、神様の根本のみ旨です。それが、神様の平安のうちに侍ることなのです。神様は、数多くの日々を待ちわびて地上に文鮮明先生を遣わし、そのお方の教えを通して、宗教を統一されることを願われます。それゆえに、このお方は「統一原理」を解明されたのです。
 ムスリムイスラム教徒)の皆さん! あなた方も神様の子女として生まれたので、今こそ一つの思想に統一されることを願います。その理由は、神様、大いなる神様が一つに統一されることを切に願われるからです。ムハマンドの時代の神様も、今の神様も、不変なる私たちの神様であり、私たちの父母様です。今は、全人類が一つの兄弟愛を享受し、平和世界を具現すべき時代です。神様は常に、それを願われます。
 宗教の統一なくして人類の平和実現は、ほど遠いのです。ムスリムの皆さん! ムハマンドはお願いします。独特な私たちの信仰と教理をもって、他の宗教に痛みを与えることなく、心をみな開いて、もろ手をあげて、すべてを受け入れなさい。そうして対話の門を開き、教理の門を開いて、一つに束ねてしまいなさい。イエス様もお釈迦様を受け入れ、お釈迦様もイエス様を受け入れ、四大聖人、聖賢たちすべてが、一つの思想に統一されました。このようなセミナーの様子を見て喜ばれる神様の姿を、私たちは体験しました。こうした中で私たちは、互いに誓い、決意しました。
 地上に来られた文鮮明先生は、神様のみ旨を代わりに伝え、人類の前に真の父母として現れ、これまでばらばらに分かれていた人類を統一するため、メシヤとして来られたお方です。私たちムスリムも、謙虚な姿勢で、そのお方のみ旨を受け入れるよう願うものです。これまで皆さんが仕えてきた神様は、神様の愛そのものだったのです。神様の愛を受け入れたのち、一日も早く他の宗教の信者と一つになって働くとき、神様もムハマンドも、あなた方を高く称賛することでしょう。
 そして、静かに落ち着いて「統一原理」を精読し、分析してごらんなさい。私、ムハマンドも、原理セミナーで「統一原理」が人生の真なる指針書であることを悟り、心をさっと開きました。これは、一朝一夕にできるものではないでしょう。しかし、いずれにしろ行かなければならない道なので、近道を選び、短い人生の道で落後者にならないよう切に願うものです。
(二〇〇一年四月九日)

 

ラービア・アダウィーヤ(イスラムの歴史上最も有名な女性聖人、徹底した禁欲主義者)のメッセージ

エバの原罪に対して、私が代わりに蕩減条件を立てたいと思います

 

私、アダウィーヤは、神様が願われた人間創造の目的から離脱した者となっていたので、罪人の心情でこの場に臨みました。罪人は罰せられるのが当然なのに、どうして神聖な隊列に同参できる機会を下さったのか分かりません。いずれにせよ、感謝いたします。私が神様の創造目的を推し量ることができていれば、孝女の位置に立っていたでしょう。しかし、私たちムスリムに正しい人生観を悟らせてくれる指導者はいませんでした。「統一原理」を聞き、今、神様の創造目的が分かったので、その教えに従順に従っていこうと思います。

神様は、私たち人類の父母であられます。文鮮明先生は、「統一原理」を明らかにされ、人類の真の父母様として顕現されました。この事実をどのように受け入れなければならないでしょうか。それは、「統一原理」において具体的に解明されています。「統一原理」が神様の啓示か否かは、「統一原理」自体が明らかにしています。「統一原理」の講義を聞いてみれば、それがすぐに分かるようになります。私は全ムスリムに対して、「統一原理」を聞くことを懇切に勧めます。

それから、文鮮明先生、真の父母様に、一つのお願いを申し上げたいと思います。それは、人間の先祖であるエバの原罪の蕩減に対する問題です。当時のエバの原罪がすべての女性の悪条件として残っているのですが、私がエバの代わりに蕩減条件を立てれば、それを受け入れて下さることができるでしょうか。「統一原理」は蕩減法を説明していますが、私は男性を願うことがなかったので、できるのであれば、私が蕩減条件を立てたいと思います。今後、真の父母様の命令に従って生きていきますので、深く配慮してください。

ラービア・アダウィーヤ(二〇〇二年三月二十二日)

 

ウマル・イブン・ハッタ―ブ(Umar ibn al-khattab、634~644まで第二代カリフ)のメッセージ

四大聖人が一つになった姿にあまりにも感動し、感激しています

 

釈尊が私たちの指導者ムハンマドと、とても親しく接する姿をハッタ―ブは見ました。初めは、どちらかが間違っているのではないかと思いました。このように親交が厚いはずがないのに、どうしたことでしょうか。仏教徒のセミナーが終わり、今は、ムスリムだけが集まってセミナーをする時間であるにもかかわらず、釈尊は、依然としてこの場に共にいらっしゃいました。非常に気になりました。私、ハッタ―ブは、釈尊の人柄に感動しました。

私の気になっていたことは、すぐに解かれました。「統一原理」に、すべてのことを超越できる威力があったからです。「統一原理」は、広範囲にわたる内容をあまねく扱っていました。人間の創造に対して、人類歴史の出発と方向性に対して、どれ一つとして人間に関係しないものがありません。「統一原理」の根本の教えは、人類は、人類の父母であられる神様に侍る一つの兄弟姉妹であり、神様が創造された本然の園で、共に幸福に生きなければならないということでした。

それは、人間ならば、誰もが知らなければならず、歩んでいかなければならない道です。生れて死ぬのは、人間として避けられない天道です。「統一原理」には、天道に該当しないものが一つもありません。そして、人間は生まれるときから原罪をもって生まれたという事実は、どれほど気分の悪いことでしょうか。それで神様は、文鮮明先生を真の父母として立てられ、人類を原罪のない本然の姿に復帰しようとされたのです。地上でも天上でも、全人類は、各自蕩減条件を立て、真の父母様を主礼としてお迎えする中で祝福の過程を経なければならないと、講師たちは教えています。この過程は、全人類が、神様の創造理想である本然のエデンの園で永遠に生きるための必須課程であるといいました。

そして、神様が人類の父母であり、人類が神様の子女であるということは、どれほど途方もない幸運なことでしょうか。私、ハッタ―ブは、神様と文鮮明先生をこの上なく尊敬します。特に、四大聖人が一つになった姿を見ると、それはあまりにも感動的であり、感激せざるを得ないことです。

ウマル・イブン・ハッタ―ブ(二〇〇二年三月十二日)

霊界で四大聖人・聖賢の方々がセミナーを開いているそうだ。 霊界からのメッセージ(3)【孔子、孟子、荀子】

霊界で四大聖人(イエス、釈迦、孔子、ムハマンド)と聖賢(アウグスティヌス、ルター、ソクラテスなど)の方々がセミナーを開いているそうである。セミナーの主題は「神様は人類の父母」であり、地上に降臨された文鮮明先生が解明された『原理講論』を分析、討論しているのだという。セミナーに参加した聖賢たちが霊界から地上にメッセージを送ってきている。5回に分けて四大聖人・聖賢の方々の霊界からのメッセージを伝えてみたい。

メッセージの出典は、統一教会の教材【「平和神経 平和メッセージ1~17」光言社2015版 の中の付録霊界報告書「神様は人類の父母」】である。統一教会の教材であるから当然文鮮明氏を讃えているものであるが、このメッセージが本物かどうかは皆様自身に検討していただきたい。

なお、上記教材の中には、3人の他10人の儒教の聖賢の方々のメッセージが収録されている。

冉伯牛、子路、司馬遷、王弼、陶淵明朱子マテオ・リッチ〔利瑪寶〕、李栗谷、安重根、石井周庵)

 

孔子様のメッセージ]

 人間は、肉身をもって地上で生きるとき、目に見える現実の状況を踏まえて規範生活をします。それゆえ人間は、地上の限られた範囲の中で見聞きし、感じるほかはないでしょう。ですから今、地上の人々に、私たち四大聖人と聖賢たちがセミナーを通して決意した内容を、詳しく告げたとしても、目には見えないので、生々しく感じられないことでしょう。
 しかし、ここの四大聖人と聖賢たちは、地上で生活するとき、たとえメシヤでなくとも、個人的な快楽と家庭の安楽な生活を捨て、誰にも負けないほど人類の救いのために悩んだものと自負します。私たちは、人生自体の意味を強調しながら、人類が正しく善良に生きていくよう真理を宣布しました。そうした聖人、聖賢たちが共にセミナーを開いたのです。
 肉身は脱いだとしても、地上人が残した教友と信徒たちを自分の体のように考え、より正しい道に導くために、本当に努力し、骨を折る中で、こうしたセミナーを共に開いたのです。既に言及しましたが、天の国、ここではイエス様もお釈迦様もみな、この上なく和睦しています。イエス様が仏教徒に御自身を紹介され、「一堂に集まり、礼拝を捧げ、仏に供養もしましょう。そして、各自が抱いている信仰の根本について話しましょう」とおっしゃいました。お釈迦様は、仏教徒の集まりではなく、キリスト教徒の集いで、深くお辞儀されて、「皆さんにごあいさつできる機会を頂き、ありがとうございます」と謙遜な姿で話され、共に和解することを提案されると、一部からはざわめきの声すら上がりました。しかし、この時イエス様が「兄弟姉妹の皆さん! 私たちはみな、神様の子女であり、今こそ兄弟姉妹として、神様にむつまじい姿を見せるべき時です」と慈愛に満ちた姿で話されると、雰囲気が厳かなものに変わりました。この時、神様が静かな光でぐるぐると回られて、天地が明るい光に変わると、一同は恍惚(こうこつ)となり、驚きを禁じ得ませんでした。
 私たちのセミナーの期間中、神様は、とりわけ多くの配慮をされました。今後、こうした集いが続いていくものと信じます。そして、私たち四大聖人と聖賢たちが頻繁に集うことで、宗教の派閥がなくなるはずであり、互いの真理の門も解放されるものと考えます。
 儒教徒の皆さん! 孔子が何を話せば信じるでしょうか。全世界には人種も多く、宗派も多く、国ごとに文化的な差異も少なくなく、その風習もそれぞれが異なります。しかし、変わることのないたった一つの共通点は、人間としての姿です。黒人、黄色人、白人がもっている共通点は、人間としての姿です。白人、黒人、黄色人などの区分なしに、病院に行けば医師は、彼らに同一の治療方法を用います。人間の構造が同一であるからです。もちろん、治療の程度は違うとしてもです。これは何を意味するのでしょうか。それは、人類の主人が、唯一、創造主お一人だという事実を意味します。創造主は、正に神様であられます。神様が人類の父母様です。私たちは、父母様に侍って生きれば、それで万事が意のままになるのです。
 ところが、なぜこんなに複雑なのでしょうか。人類の始まりが誤り、様々な宗教が分かれて出てきたからです。それゆえ、もろもろの宗教を一つに統一するために、神様が地上に文鮮明先生を遣(つか)わされたのです。その師は、「すべての宗教の教理は、間違っているわけではないので、みな一つになろう」という真理を掲げられました。私、孔子は、各宗教が自分だけに固執して正しいと主張するため、今日の人類の現実がこのように複雑であると考えます。それゆえ、少しずつ譲歩し、他宗教の教えも包容する姿勢が切実に求められる時であると考えます。地上でいくら雑多に騒いだとしても、この天上世界の宗教の代表たちは、一つになりました。何によって一つになったのでしょうか。一つの真理を中心として一つになったのです。私たちはみな、神様を父母として侍って生きようと堅く決意しました。地上の儒教徒の皆さんは、どうしますか。皆さんも一つの真理を中心として、一つになるべきでしょう。
 仏教徒の皆さん! あなた方の最高の師、お釈迦様が、神様を人類の父母としてお迎えしました。そして神様は、皆さんの最高の弥勒仏になることでしょう。地上の皆さんは、私心を離れ、この無形世界で過ごすことになる皆さん自身の姿を、点検しながら生活してください。人類は一つであり、一民族であり、一血族です。唯一なる神様に仕えるため、その法度を教えるため、神様は文鮮明先生を皆さんに遣(つか)わされました。八十歳の御高齢の身でもあるにもかかわらず、人類解放のために、そのお方が今、何をされているか確認してごらんなさい。
 地上の皆さん! 皆さんがとどまる所、永遠なる居場所は天上です。地上は、瞬間的な生の訓練所にすぎません。結実期には、混じり物のない穀類だけが倉庫に入っていきます。皆さんは、成熟した生を備えなければなりません。
 儒教徒の皆さん! 最近のイエス様のメッセージ、お釈迦様のメッセージ、私、孔子のメッセージ、その他の聖賢たちのメッセージを参考にして、賢明に判断し、皆さんの態度をはっきりするようにお願いします。
 (二〇〇一年四月七日)

 

孟子(前392[372]~前294[289]。戦国時代中期の人。善の性稟(せいひん)の根源は天であると教え、性善説を主張)のメッセージ
「統一原理」の出現は人類の希望です

 孔子様の教えとその思想に魅了された私、孟子は、人間の生の基盤、根本は孔子様の思想であると規定し、ひたすらそれだけに陶酔してきました。ところが、こちらで、文鮮明先生の平和思想である「統一原理」と「統一思想」を通して、神様による人間の創造と救援、神様の摂理などを新しく悟るようになりました。「統一原理」の内容は、感動的、感激的であり、衝撃的でした。
 孟子は、「人間の善の性稟(せいひん)が人間救済の道である」と常に考えてきたのですが、「統一原理」がそれを具体的に明らかにしてくれました。それは、本当に感嘆すべき内容です。「統一原理」と比較すれば、孔子様の思想は限りなく部分的なものにすぎませんが、決して間違ったものではありませんでした。また、神様は全人類の父母だという事実も、孔子様の教えと大きく外れたものではないと思います。「統一原理」と「統一思想」は、すべての宗教と思想の障壁を崩し、人類を平和世界へ導く唯一の教えだと思います。「統一原理」セミナーに参加して新しい真理を悟り、感慨無量です。
 そして、復帰摂理における時代的な中心人物が、その当時の責任を遂行することができなかった時の神様の心情は、孟子の胸を非常に痛めました。孔子様の思想は部分的なものでしたが、外れた教えではなかったことに感謝いたします。今回、「統一原理」と「統一思想」に新しく接することによって、学問に対する情熱がより一層高められました。孟子は、このような情熱をもって、「統一原理」と「統一思想」を深く研究し、分析したいと思います。
 神様から新しい真理の教示を受けられた文鮮明先生を大変尊敬し、また「統一原理」と「統一思想」の偉大性に感嘆と感激を禁じ得ません。「統一原理」の出現は、人類の希望です。新しい希望と喜悦がとめどもなくわきあがってきます。
 すべてのことに感謝しながら、孟子も、新しい真理に対する情熱を見せようと思います。儒教の根本の教えが、神様の教えと大きく外れたものではなかったことに感謝します。「統一原理」と「統一思想」が人類の主流思想となることを願います。
 孟子(二〇〇二年一月十六日)

 

荀子(前340~前245。趙の国の人。性悪説を主張。社会の混乱の原因は人間の責任)のメッセージ
「統一原理」によって儒学が完成することを


 「統一原理」と「統一思想」は、特別な論理展開によって構成された人類の改革思想です。「統一原理」と「統一思想」は、とても偉大であり、とても明白であり、とても組織的であり、体系的であって、そしてとても創造的で希望的です。
 「統一思想」をはじめとする「統一原理」の論理展開は、あたかも人生の公式や数学の公式と同じです。したがって、政治、経済、教育、思想、宗教、文学芸術など、人類のあらゆる領域の指導者たちは、「統一思想」を中心として一つになるべきです。これが、私、荀子の確固不動の展望です。それは、「統一原理」と「統一思想」が、人間生活において一部分ではなく全分野を網羅し、根本的基準を扱っているからです。講師たちが「『統一原理』は神様の教示である」と紹介しましたが、私は、その表現に全面的に同意します。人間の頭脳を通しては、このように幅広く多様な側面を体系的に明らかにすることはできません。「統一原理」は、人類の普遍的な特性と共通性を具体的に明らかにし、人類を正しい方向に導いています。「統一原理」のどの部分でも、それを研究、分析すれば、それは間違いなくノーベル賞の主題になって余りあるものです。荀子は、「統一原理」に対して、ただただ偉大で、驚くべきものだという表現しかできません。
 そして、「神様は人類の父母だ」という教えも、間違いのない事実です。文鮮明先生が成約時代の人類の真の父母様であられるということも、間違いのない事実です。キリスト教的な表現である「イエス様以後の時代に責任をもった再臨のメシヤである」という表現も、論理的、摂理的に検証された事実です。荀子は、この点に対して全く異議を提起しません。
 私たち儒家が「統一原理」と「統一思想」を徹底的に研究、分析し、儒家思想と結びつけることを積極的に推奨します。そのようにすれば、儒家思想は、より一層次元の高い知性人の思想として格上げされるでしょう。神様を人類の父母として侍る平和思想は、民族と人種を超越した理念です。荀子は、儒家に、「統一原理」を積極的に受け入れることを推奨しようと思います。
 しかし、地上儒家が天上から伝えるこのような荀子の願いをどのように信じ、受け入れるのかが心配です。地上の儒家たちよ、どうぞ荀子の懇請に顔を背けることがないようお願いします。「統一原理」には、奇跡的な思想的・学問的内容が内在しているので、地上の皆さんは、これを研究、分析し、儒学を完成してくれるよう、重ね重ねお願いします。このことができなければ、皆さんは、この時代に後れた落伍者となってしまうでしょう。地上の皆さんが成約時代の真の父母様の真理である「統一原理」と「統一思想」のすべての内容を受け入れ、積極的に研究することを願います。
 荀子(二〇〇二年一月十六日)

霊界で四大聖人・聖賢の方々がセミナーを開いているそうだ。 霊界からのメッセージ(2)【釈迦、羅睺羅(らごら、ラーフラ)、須菩提(しゅぼだい、スブーティ)、弥勒】

霊界で四大聖人(イエス、釈迦、孔子、ムハマンド)と聖賢(アウグスティヌス、ルター、ソクラテスなど)の方々がセミナーを開いているそうである。セミナーの主題は「神様は人類の父母」であり、地上に降臨された文鮮明先生が解明された『原理講論』を分析、討論しているのだという。セミナーに参加した聖賢たちが霊界から地上にメッセージを送ってきている。5回に分けて四大聖人・聖賢の方々の霊界からのメッセージを伝えてみたい。

メッセージの出典は、統一教会の教材【「平和神経 平和メッセージ1~17」光言社2015版 の中の付録霊界報告書「神様は人類の父母」】である。統一教会の教材であるから当然文鮮明氏を讃えているものであるが、このメッセージが本物かどうかは皆様自身に検討していただきたい。

なお、上記教材の中には、4人の他9人の仏教の聖賢の方々のメッセージが収録されている。(目犍連、迦葉、馬鳴、竺法護菩提達磨、康僧会、玄奘、智顗、異次頓)

 

[お釈迦様のメッセージ]

 地上の信仰者、とりわけ仏教徒たちに私、釈迦の最後の言葉を伝えようと思います。イエス様もおっしゃいましたが、私たち四大聖人は、各宗派の代表者として、人類の平和実現と救いに心血を注いで努力しています。そのことは、地上ではよく理解できないことでしょう。ここ霊界で、私たち四大聖人と聖賢たちは、常に一緒にいながらセミナーを開きますが、意見の対立や衝突は全くありません。
 私たちが一箇所でセミナーを開くまで、それぞれに原理教育などや修練会を経ました。私たちが各宗派の責任者であることを考慮すれば、このような場が一朝一夕につくれるでしょうか。祈祷し、誠意を尽くしながら、幾度か「統一原理」を分析し、検討したあと、こうしたセミナーが設けられたのです。私たちはセミナーを通して、一つの家族のように互いに話し合うので、宗派的な偏見による葛藤は生じません。そして、こうしたセミナーが進行するたびに神様は、美しい花火と、きらびやかな光で私たちを包んでくださったのです。そして、私たちの和気あいあいとした姿を見られると、喜びながら、悠々とその場をあとにされます。
 仏教徒のみなさん! イエス様は、新約時代にメシヤの使命を背負って来られたという事実を、自ら証しされました。釈迦も、そうするほかありません。旧約時代と新約時代が過ぎたのち、成約時代が到来しました。神様は、一つの時代が過ぎるたびに、新しい人物を中心に摂理を引っ張ってこられました。
 このように釈迦も当時、神様の前に方向は違っても、人類を善行の道に導くため、力を尽くしたのは事実でした。ただ、その時代は結婚しないで時を待ち、修行するのが自我完成の近道であっただけです。これは、神様の前に直接出ていける道ではないとしても、相当に価値があったと考えます。キリスト教歴史の「旧約時代」という用語は、仏教徒にはなじみがうすいでしょうが、その時代には、人類救援の恩恵がその段階まで成されるほかなかったのです。当時の状況から見ると、釈迦の生涯と教えも、相当な影響力があったのです。
 仏教徒の皆さん! 今までの皆さんの人生が間違っていたというわけではありません。当時の釈迦も、イエス様のように人類を善導することに最善を尽くしたのです。ただ、摂理が進むとともに、人類を救うメシヤが時代的に変わっただけです。
 今までの仏教徒たちの修行の結実に、新しい時代の摂理を接ぎ木してください。「統一原理」を研究してください。そうすれば、仏教徒たちにも同じ脈が流れる新しい真理が、少なからず発見できるでしょう。あまりに固陋(ころう)な考えにだけ浸らず、新しい真理を受け入れ、私たち仏教徒の真理に新時代の真理を接ぎ木させてごらんなさい。そうすれば、素晴らしい信仰の道が、もろもろの仏教徒たちに展開されると確信します。
 今、この時代には文鮮明先生が皆さんの釈迦牟尼(しゃかむに)であり、弥勒仏(みろくぶつ)です。誠心誠意、仏を供養してごらんなさい。成約時代の新しい弥勒仏とその真理について、排斥の先頭に立つのではなく、真なる仏教徒の人格を示す時であると考えます。
 謙遜、冷静にして、人の科(とが)を見ずに、磨き上げてきた様々な仏教徒の慈悲の美徳を表し、行動してごらんなさい。真の真理とは何でしょうか。時代によって生きていく人間の方向は、いくらでも変化し得るものです。自然界をごらんなさい。神様が創造された被造物は、環境によって種類はあるとしても、大きさと色合いは、季節ごとにいくらでも変わるではありませんか。信仰をする人間の本心の声を誰が妨げることができるでしょうか。しかし、人間の本性の声に従った人間の生活の姿、それ自体は、神様の前に様々な次元で喜びの対象になり得るのです。
 それゆえ、固陋として一箇所にのみ依存しないで、思考の領域を広げてごらんなさい。「イエス様と釈迦が、兄弟のように過ごす」と言えば、皆さん、仏教徒は釈迦を信じないでしょう。
 しかし、それは事実なので、信じるべきではありませんか。神様は、私たちが一つになって働くことを願われます。イエス様は、釈迦をどのように呼ばれると思いますか。常に謙遜で静かな微笑みを浮かべながら、「そうです」、「そうでしょう」、「そうしましょう」と言われながら、慈愛に満ちた語調で話されます。
 仏教徒の皆さん! キリスト教徒の皆さん! 天上で私たちがみな一つになり、平和の世界を成したので、地上でも和合すべきではありませんか! 新時代の新真理で一つになりましょう! 人類の平和運動に渾身の力を尽くされる文鮮明先生は、成約時代のメシヤであり、弥勒仏であられます。これは、四大聖人たちのセミナーにおける、一様の結論です。仏教キリスト教が互いに一つになり、神様を解放しましょう!
(二〇〇一年四月六日)

 

羅睺羅(らごら、ラーフラ釈迦の息子であり、十大弟子の一人、密行第一)のメッセージ
肉身の父母のための子女の道とは何なのでしょうか


 世の中に生まれてみると、釈迦の息子でした。それは羅睺羅個人の意思ではなく、私には選択の余地がないことでした。私の家庭は、幸福ではありませんでした。父親の顔は見ることさえ難しく、母親の顔は常に涙にぬれ、試練の中に沈んだ姿をしていらっしゃいました。これが、私の家庭の雰囲気でした。私は、分別がつくと同時に、世の中を見る視角が変わりました。父親の立場と母親の立場を理解できるようになりました。
 そして、家庭から解放されてみたいと思いました。どの家庭を調べてみても、夫婦間や父子間や兄弟間の幸福は、見つけられませんでした。なぜ家庭の姿がそうなのか、そしてその問題をどのようにして解決しなければならないのか、私には知るすべが全くありませんでした。私の家庭も、ほかの家庭のように、家庭の平和が壊れてこなごなになってしまいました。華やかな衣装はもちろん、華やかな食卓や宮廷にも、私には何の関係もありませんでした。人生というものが何なのか、悩み、深い苦悩に陥り始めました。
 これが、私が父親に従うようになった動機でした。「統一原理」を聴講したのち、私は、胸の張り裂けるような痛みに、耐えることができませんでした。第一に、私の父親の苦労と、母親の哀れさを克服するのは、難しいことでした。このような惨めな姿が、私を非常に困らせていました。私の父親は、あらゆる苦行を、すべて経験されたお方です。生涯、過酷な肉体的拷問を自らに課して生活されました。それを通して、無我の境地に至ったのです。それが容易なことだったでしょうか! 人間の生老病死を解決するために、私の父親がこのような生涯を生きたのだとすれば、今はどうなのでしょうか。当時の時代的な状況に伴う問いが、私の家庭をばらばらにして投げ捨ててしまいました。当時のその痛みは、文字をもってしては少しも表現することができません。いかなる表現も、その状況を比喩(ひゆ)することができません。
 今、「統一原理」を知ってみると、神様は、私の家庭の和睦(わぼく)を願われたでしょう。文鮮明先生が明らかにされた「統一原理」によれば、人間は、誰もが家庭的四位基台(よんいきだい)をつくって天国理想を成し、神様と永遠に暮らすというのです。これが、神様の願いであり、人間の祝福の前提です。今、私は、どの位置に立たなければならないのでしょうか。「統一原理」の偉大性を、私は認めます。ですから、私は、様々な側面において、複雑で苦しいのです。私の父親は、既に随分前に「統一原理」を悟り、人生の方向を転換されました。しかし、私はどこに立たなければならず、私の母親はどこに立たなければならないのでしょうか。このように不思議な悲喜劇が、私の家庭を固く締めつけています。
 神様、文鮮明先生、人類の縦的父母様、横的父母様、私の家庭の問題をどのように解決してくださるのですか。私、羅睺羅は、「統一原理」のすべてのものを信じます。たとえこの道を行かなければならないと、はっきりと悟ったとしても、肉身の父母のための子女の道とは何なのでしょうか。このような立場から、天国理想を成し得る道はないのでしょうか。
 神様、文鮮明先生、私、羅睺羅の人生も収拾してくださり、新しい道に導いてください。懇切にお願い申し上げます。
 羅睺羅(二〇〇二年二月十二日)

 

須菩提しゅぼだい、スブーティ、十大弟子の一人、あらゆる法がむなしい道理だということを最初に悟る)のメッセージ
人生の生老病死の問題は、人間の力で解決されるものではありませんでした

 天地万物の調和が人間の力で成されるものではない、ということを悟ってから既にかなりたちましたが、「統一原理」にこのような途方もない真理が内在しているとは、本当に想像することができませんでした。どうして歴史の出発が、このように誤ったのでしょうか。お釈迦様も十大弟子も、みな無念で悔しく、その惨めな心情は到底表現することができません。しかし、神様の事情のほうが、もっと無念で惨めであり、怒りで張り裂けるようなものだったのです。もちろん、そのような摂理的過程は過去のことだとしても、数千年の間、人類歴史の主人が反対になっていたとは、あたかもそれは、ある作家が作り上げた歴史的物語のようでした。しかし、これは、歴史的事実でした。
 ある日、お釈迦様は私たちに、静かに次のように語られました。「人生の生老病死の問題は、人間の力で解決されるものではありませんでした。生まれて、老いて、病んで、死に至るまで、私たちを常に見守り、保護してくださる一人のお方がいらっしゃいました。私たち仏者は、そのお方に出会わなければなりません。そのお方は、釈迦が解決し得ないすべての問題を解決してくださいました。多くの仏者が、謙遜な心で受け入れてくれることを望みます」。
 その後、何日過ぎても、お釈迦様は特別な指示を下さいませんでしたが、今、その日が近づいてきました。そのお方とは、どなたなのでしょうか。どこにいらっしゃるのでしょうか。いくら調べてみても、見ることも、出会うこともできないお方であられました。「統一原理」は私たちに、あまりにも多くの内容を悟らせてくれました。文鮮明先生は、お釈迦様よりもっと多くの修行をされたのでしょうか。どれほど、途方もないことを経綸されたのでしょうか。お釈迦様も、人間の根本的苦悩を解決なさるために、死の峠道を数えきれないほど越えられましたが、それは、神様と文鮮明先生の経綸とは比較することができません。
 お釈迦様、心を痛めないでください。須菩提は、すべてのものを整理して、新しい出発をします。私は心に決めました。どうして人が、数限りない福をすべて享受することができるでしょうか。私がその時代に生まれたことが私の意志でない以上は、水に従い、風に従って生きてきた人生の道なので、今、この場で、すべてのものを謙遜に受け入れます。
 神様が、私たち仏者を愛されて呼んでくださったので、感謝いたします。文鮮明先生、真の父母様! お釈迦様! 弟子の威信を立てながら従っていきます。過ぎし歳月のすべてのことを、寛大に配慮してくださり、私たち仏者の未来の道を導いてください。
 須菩苔(二〇〇二年二月十一日)

 

弥勒(マイトレーヤ、瑜伽行の始祖)のメッセージ

「統一原理」の来世観に深く感動し、敬服しました

 

多くの宗教人が「統一原理」を聞き、人生の正しい道に進むことを決意したようです。「統一原理」は、偉大な経典になると思います。自尊心が深く、自らの主張だけにしがみついている方々は、顔を真っ赤にし、しかめ面をしています。そのような姿をして座っている方々が、あちらこちらに見えます。

弥勒は、「統一原理」の来世観に、深く感動し、敬服しました。人間の二重構造を説明しながら、それを理路整然と説き明かしました。弥勒も共感しましたが、大部分の仏者もそれに共感したと思います。漠然としながらも、極楽世界を期待し、望み、ありとあらゆる苦難の道、険山峻嶺を越えに越えて、一筋の道を歩んできた私たち仏者が、なぜ極楽世界に行けなかったのでしょうか。

仏者たちよ、私、弥勒をののしろうと、石を投げつけようと構いません。「統一原理」を聞いてみると、私たち仏者の歩んできた道には問題があったと思います。それが何なのかを探し求めてください。私、弥勒が、この天上で「統一原理」に夢中になれば、皆さんは私を、どのようにされるでしょうか。正しい道でなければ、行ってはなりません。正しい道ならば、いくら険しい渓谷であろうと、必ず行かなければなりません。神様と文鮮明先生の根本の教えを悟るようになりました。仏者たちよ、最後まで「統一原理」を聞いてください。そして、心を空にしてください。

弥勒(二〇〇二年二月十六日)

霊界で四大聖人・聖賢の方々がセミナーを開いているそうだ。 霊界からのメッセージ(1)【イエス・キリスト、アウグスティヌス、マルティン・ルター】

霊界で四大聖人(イエス、釈迦、孔子、ムハマンド)と聖賢(アウグスティヌス、ルター、ソクラテスなど)の方々がセミナーを開いているそうである。セミナーの主題は「神様は人類の父母」であり、地上に降臨された文鮮明先生が解明された『原理講論』を分析、討論しているのだという。セミナーに参加した聖賢たちが霊界から地上にメッセージを送ってきている。5回に分けて四大聖人・聖賢の方々の霊界からのメッセージを伝えてみたい。

メッセージの出典は、統一教会の教材【「平和神経 平和メッセージ1~17」光言社2015版 の中の付録霊界報告書「神様は人類の父母」】である。統一教会の教材であるから当然文鮮明氏を讃えているものであるが、このメッセージが本物かどうかは皆様自身に検討していただきたい。

なお、上記教材の中には、3人の他10人のキリスト教の聖賢の方々のメッセージが収録されている。(シモン・ペテロ、使徒パウロジャン・カルヴァン、テルトゥリアヌス、コンスタンティヌス大帝、エマヌエル・スウェーデンボルグカール・バルトマーティン・ルーサー・キング、金大建、李龍道)

 

[イエス様のメッセージ]

 ベツレヘムに生まれた私、イエスが、この紙面を通して地上に新しいメッセージを伝えようと思います。ユダヤ人たちは、いまだに来るべき主を待っていることでしょう。キリスト教徒、他の宗教者、そして信仰をもたない人たちも、イエスの名前ぐらいは記憶していることでしょう。
 今回のメッセージを地上に伝える私、イエスの心は、いろいろと複雑で錯綜(さくそう)しています。その内容を一言で要約して伝えられないことを、心苦しく思います。地上人、とりわけキリスト教徒は、このメッセージに触れるとき、信じるよりは、とても疑うであろうことを、私は分からなくはありません。しかし、かつて新約時代のメシヤの使命を抱いて来た私、イエスが、人類の救いの責任者として明言すべき時代が到来したため、この事実を明らかにするものです。
 当時、私は、神様からメシヤの使命を頂いて地上に来ていました。しかし、その時代、宗教者と非宗教者の葛藤を、すべて聖書に記録することはできませんでした。実際、聖書には、すべてを明かせずに、隠された摂理的内容が多くあったのです。その時代の流れに従って、神様の摂理は変わるしかありませんでした。今こそ、キリスト教徒やメシヤを待つ数多くの聖職者たちに、隠された摂理的内容の一端を、はっきり伝えようと思います。
 神様は、人間を創造されるとき、肉身を、地上で生きるときに必要なものとして造られました。そして肉身を失えば、その霊魂は霊界で永存するよう創造されたのです。メシヤを待つ聖徒の皆さん! 聖書に表現された各節の両面的な預言には、なぜ関心をもたないのですか。私、イエスは、新約時代に人類を救うために、メシヤとして来た人物です。しかし、イエスの十字架の問題を、皆さんはどのように考えますか。それは神様のみ旨だったのでしょうか。人間の失敗だったのでしょうか。皆さんは、私、イエスの生涯を綿密に検討してみましたか。イエスの懐胎と誕生についても考えてみましたか。その時代、私は間違いなくメシヤの使命を抱いて来ましたが、肉身をまとった平凡な人間の姿で、地上で食べて、着て、眠って生活したのです。しかし、私の使命は、一般人とは異なり、メシヤとしての使命をもっていたのです。メシヤの十字架の贖罪(しょくざい)は、神様の本来のみ旨ではありませんでした。
 地上の皆さん! キリスト教徒の皆さん! これが事実かどうか、断食しながら祈祷してごらんなさい。そうすれば、私、イエスが現れてはっきり教えてあげます。しかし、断食して徹夜するとき、純粋な祈祷と真心だけを尽くさなければなりません。また、いわゆる異端の声にも耳を傾けてごらんなさい。この時代に統一教会文鮮明(ムンソンミョン)先生は、十字架の贖罪により地上で成せなかった私、イエスの使命を完遂するため、再臨のメシヤとして現れたお方であり、成約時代を締めくくるために真の父母の使命を抱いて現れたお方です。
 新約時代にメシヤの使命を抱いて来た私、イエスを、当時の人々は十字架につけてしまいました。そのため、地上には神様が成就すべきみ旨が残され、そのため再臨のメシヤが必要になったのです。新約時代のメシヤは、霊的な救いしか成就できなかったため、肉的な救いは宿題として残されたまま歴史が流れてきたのです。それゆえ、恨めしい歴史の背後で、数多くの悲しみと苦痛を味わいながら神様は、再びメシヤを地上に送る時を待ってこられたのです。文鮮明先生の血統を分別して聖別し、メシヤとして送るまで、神様は、この上なく緊張した歳月を送られました。
 私、イエスは、どこで生まれたでしょうか。馬小屋で生まれました。当時、マリヤの気持ちはどうだったでしょうか。キリスト教徒の皆さん! 聖書を読むとき、容易にその内容を理解できたでしょうか。解けない問題、理解できない問題に直面して、皆さんは苦しむことがなかったでしょうか。天の秘密のすべてを明かせなかったイエスの気持ちを、理解できるでしょうか。聖書に記録できなかった摂理の奥深い内容を、皆さんは、いかに知ることができるでしょうか。イエスの父、ヨセフの婚約者であるマリヤのおなかが、どうして大きくなったのでしょうか。復帰摂理歴史において、人類が受け入れ難い、途方もない天の秘密がベールに包まれているのを、皆さんは知っているでしょうか。人類は神様の子女であるため、神様は人類を訪ねてきて、愛するほかはありませんでした。皆さんは、そういう神様の心情を推し量ることも難しいでしょう。
 この時代に地上に現れた文鮮明先生は、皆さんが待ちわびた再臨のメシヤです。文鮮明先生は、数えの十六歳の時、私、イエスからメシヤの使命を引き継がれました。キリスト教徒の皆さん! いまだに雲を見つめながら、雲の中から現れる再臨の主を待っていますか。文鮮明先生は、数万回、雲の中をかき分けて世界を巡回し、人類の平和具現のために渾身の力を尽くしていらっしゃいます。きょうもこのお方は、八十歳を超えた御高齢にもかかわらず、人類の救いのために最前線で苦闘していらっしゃいます。
 新約時代にイエスを迫害したローマ人たちのように、この時代に生きる皆さんも、そのお方を再び十字架につけるのですか。ソドムとゴモラの滅亡を皆さんは知っているではありませんか。神様は愛です。待っていらっしゃるのです。成約時代に降臨されたメシヤを迎え入れなさい。そのお方の業績と人類を救うための摂理的導きを排斥せず、心から迎えながら、祈祷してごらんなさい。皆さんの真実の祈祷の中に、イエスが共にあることでしょう。
 今こそ、キリスト教徒たちが、イエスの生涯と神様の救いについて深く祈祷しながら、メシヤ、イエスを十字架につけた新約時代の時代的な状況を、再び思い起こしてくれることを切に願うものです。
 私、イエスが三十三歳になるまで結婚できず、私に従って歩んだ十二弟子ともども空腹だった状況を考えてごらんなさい。イエスには恨めしいことが多かったのです。キリスト教徒たちは、メシヤ、イエスに関するすべてが神様のみ旨である、とだけ結論を下しています。けれでも、人類がすべきことと責任はないのか、深く考えてごらんなさい。メシヤとして来たイエスは、人の子でした。私、イエスは、神様のひとり子として、メシヤの使命を成し遂げるため渾身の力を尽くしましたが、その夢とみ旨を完全に成すことができませんでした。そのみ旨が完全に成されたならば、再臨の主が来られる必要があったでしょうか!
 キリスト教徒の皆さん! そして、もろもろの宗教者の皆さん! 当時のメシヤは私、イエスでした。間違いなくメシヤでした。しかし今日、メシヤの使命を完遂するため再び来られたお方は、文鮮明先生であられます。そのお方が、正に再臨の主であられます。二千年前、異端の魁主(かいしゅ)とされた私、イエスに「『きたるべきかた』はあなたなのですか」と尋ねた洗礼ヨハネの立場を考えてごらんなさい。皆さんは今、文鮮明先生をどう評価していますか。時代の流れを考えてみて、文鮮明先生が成し遂げた業績を思い起こしてごらんなさい。人間の力だけでは不可能な、途方もない業績を成し遂げられたのです。
 既に亡くなった私、イエスが、再び生きて皆さんの前に現れることはできません。人間の肉身は、霊人体と分離されれば、土に帰るようになっています。それが真理であり、天道なのです。墓から起き上がるという聖書の一節を、いま一度見てごらんなさい。神様は、科学的で数理的な神様であり、原理の神様であられます。消えた死体の全器官が分解して再び組み合わさり、復活するという論理は、神様は何でもできるという能力を前提にしたものですが、それは極めて矛盾しているのです。そのように問題が解決するのではありません。自然界を御覧なさい。人間の成長過程と構造を御覧なさい。神様と人間は父子の関係です。今や皆さんは、子女を待って耐えてこられた神様の摂理と心情を体験すべきでしょう。キリスト教徒が偶像崇拝者とする仏教の教祖、お釈迦様とイエスが向かい合って座り、談笑しているとすれば、私、イエスをどう思うでしょうか。
 もろもろのキリスト教徒の皆さん! 仏教徒の皆さん! そして、もろもろの宗教者の皆さん! イエス、釈迦、孔子、ムハマンド(マホメット)などの四大聖人と、ソクラテス、聖アウグスティヌスなどの聖賢たち、そしてその他の宗教指導者たちが、霊界で数回セミナーを開き、それは今も続いています。セミナーの主題は常に「神様は人類の父母」であり、地上に降臨された文鮮明先生が解明された『原理講論』をめぐり、分析、討論しています。
 それは、神様が私たちに下さった宿題でもあり、神様が地上の文鮮明先生の活動にくまなく関与し、観察し、私たちに対して、「人類を解放するためには、ここにいる宗教の代表たちが、まず一つになり、地上に協助するように」と命令されたからです。
 私たち(四大聖人)には宗派の壁はありません。私たちはみな一つになり、地上に現れた成約時代のメシヤを通して、人類が神様の子女として生まれ変わることによって、神様を中心とした一つの世界が成就できるよう祈祷し、発表し、談笑しています。地上でしばしば見かける宗教者たちの対立と葛藤は、こちらではすべて解消されました。そうなるまでに、相当な時間が流れました。人間の創造主は唯一、神様だけという究極的な真理を明らかにするまで、それだけの時間を要したからです。地上でも、すべての宗教の障壁が崩れてこそ、人類の平和が実現することでしょう。
 各宗教の教理の共通性と差異性を明らかにし、互いの長所と短所を取捨選択しながら、温柔謙遜の美徳を示すなら、宗教をもたない人たちも、その姿に倣い、正しい道に導いていけるのではないでしょうか。もろもろの宗教者、とりわけキリスト教徒がすべて一つになり、この無形世界で一堂に会することを願うものです。
 ユダヤのベツレヘム出身のイエスが、地上人にメッセージを伝えられる、時代的な環境と恵沢が与えられたのは、ほかでもなく、成約時代が到来したからであり、成約時代の主人公が文鮮明先生であり、そのお方が再臨のメシヤだからなのです。
 皆さんは、そのお方をどうしますか。批判の的にしますか。新約時代のイエスのように、十字架につけますか。祈祷し、断食して、神様に問いますか。皆さんが、最も賢明な信仰者としての在り方を選択するよう願います。この霊界からでも、新約時代のメシヤ、イエスの責任を悟らせたくて、このように地上人にメッセージを伝えるものです。                                           (二〇〇一年四月四日~五日)

 

アウグスティヌス(354~430. ヒッポの主教。カトリック神学の教父)のメッセージ

 私、アウグスティヌスは、神様に仕えることにおいて、誰にも劣らない最高の立場に立ちたいと思っていました。ところが、こちらに来て知ってみると、誠に恥ずかしく、愚かな立場になってしまいました。私は、神様に父母として侍ることができず、ただ最高の神様としてのみ侍り、父子の関係など念頭にも置くことができなかったのです。私の信仰と思想は、神様の前に極めて小さな価値をもって残っているのみです。
 地上で熱心に信仰するキリスト教徒たちと、もろもろの宗教者の皆さん! 四大聖人や聖賢たちのメッセージを何度も読んで、多くの覚醒(かくせい)があらんことを願うものです。私たち聖賢と四大聖人たちの集いは、周期的に開かれます。この霊界で、宗派の集いを開くのは、それを通じて、様々な次元に分裂した人々に神様の思想を知らしめるためです。
 地上人たちは、イエス様がキリスト教徒だけを訪ねると考えますが、そうではありません。宗派の代表者たちは、教派を超越し、各宗派の教理と教えについて、各自の見解を交換します。そしてついには、すべての宗教は一つに統一されなければならないという結論に達します。各宗派をあまねく巡りながら、信徒たちと対話して共に礼拝を捧げたのち、互いに経験した事実を中心として、四大聖人と聖賢たちはセミナーを開きます。その際、多様な主題が出されますが、私たちは互いに和気あいあいとした雰囲気の中で、それぞれの主題を論議します。
 ここで、実に興味深い出来事がありました。イエス様がお釈迦様の説教を熱心に傾聴されたのち、その説教を仏教徒が集まった他の場所で、そのままお伝えになりました。この時、仏教徒たちは、「イエス様はキリスト教の教祖なのに、私たちの師の教えを伝えるのですか」と質問しました。ところが、イエス様の返答がとてもおもしろかったのです。なんと、「私も釈迦牟尼仏になれるか試してみました」と言われたのです。このとき、ここに集まった霊人たちは、共に笑いました。イエス様は、本当に何の欲も私心もありませんでした。ひたすら神様の子女になることだけを願う、純真無垢で謙遜なイエス様の態度に、仏教徒たちも感動したようでした。
 宗教者の皆さん! 真理は永遠なものです。真理は一つだけです。それは、神様がただお一人であり、神様が真理の本体であるからです。神様は人類の父母であり、私たち人類は神様の子女です。このような状態で、数多くの集はが存在する理由がどこにあるのでしょうか。各宗教ごとに真理の核心を要約してごらんなさい。究極的な終着地は、一つの方向のみです。各宗派の長所を捨てよというわけではありません。一つの共通目的のもとに統一せよというのです。神様は、様々な子女たちを見て喜ばれるでしょうが、彼らが争い合う姿を見れば、胸が痛くはないでしょうか。子女たちが互いに和睦するとき、聖霊が共にあることでしょう。
 私たち四大聖人と聖賢たちは、セミナーで最終の結論を得ました。「私たちは互いに愛し合い、一つになろう」と決意しました。まず、天上で宗教の代表者たちが一つになってこそ、地上も一つになると信じています。宗教が一つに統一されなければ、神様の心も安らかではあり得ません。それゆえ、人類の平和は、神様の理念によって実現するのです。
 宗教者の皆さん! もろもろの聖賢たちと四大聖人のメッセージを、肝に銘じるようにお願いします。皆さんには、こうした黄金時代は、再び訪れないでしょう。私たちが、地上人に天上の秘密を伝え続けることができると思いますか。神様の特別な配慮によって下さったこの黄金期を、皆さんはしっかり受け止めて、信仰の本質と根本を悟り、神様の子女の立場に正しく立って下さい。
 私、アウグスティヌスに、最後のお願いがあります。数多くのキリスト教徒と地上の宗教者の皆さん! 地上で人類の平和のために、殉教者の道を歩み行かれる一人の師がいらっしゃいます。そのお方こそ、文鮮明先生であられます。ですから、そのお方を心から迎え入れてください。四大聖人と聖賢たちはみな、そのお方のメシヤ思想を固く信じ、その師が行かれる道を共に行こうと、しっかり決意しました。ここでひたすら一つの方向を定めて、熱心に努力し、愛し、尊敬して、すべての宗派を超越しようと決意しました。
 そして私たちは、文鮮明先生の思想を教えているのです。これこそが人類を平和に導く道であり、真理の道だからです。宗教者の皆さん! 争ってはなりません。互いに一つに和合してください。一つになった所に、神様はいらっしゃることでしょう。
(二〇〇一年四月十日)

 

マルティン・ルター(1483~1546.宗教改革者)のメッセージ

「統一原理」が明らかにされていたならば宗教改革も必要なかったものを

 

 まず感謝と尊敬の意を表します。立派な思想を明らかにしてくださった文鮮明先生に心から感謝しながら、この文をお奉げいたします。本来、ルターは、限りない神様の愛の体験を根拠として信仰生活をしてきました。今回の教育を受けてみると、神様の前に宗教改革は、大きな不幸をしでかした事件になったかもしれない、という心の葛藤が起きました。

 文鮮明先生、人類の真の父母様、そして再臨のメシヤなど、すべての呼称は当然であり、ふさわしいものです。何をもって、このような恩恵に報いることができるでしょうか。天の秘密を、このように理路整然と明らかにしてくださったので、感謝しています。今正に、人間救済の道が開かれたという確信をもちました。「統一原理」は、すべての思想と宗教的教えを受容し得る絶対真理です。このように体系的に成し遂げられた「統一原理」がルター当時に現れていたならば、宗教改革は必要なかったことでしょう。そして、数多くの人々が犠牲になることはなかったでしょう。今も宗教の名によって、数多くの人々が犠牲になっているので、残念に思います。宗教人たちが「統一原理」さえ知れば、宗教の障壁、人種の障壁、思想の障壁がすべて崩れることでしょう。しかし、このような真理が、なぜ今になって人類にもたらされたのか・・・・・。数多くの紛争と摩擦などによって、病にかかっていった人類を回顧してみるとき、無念な思いがします。

文鮮明先生、どのような呼称でこの文をお捧げすれば、最も大きな尊敬と感謝となるでしょうか。ルターは、ただ感動と感謝だけです。地上にいらっしゃる間に、このような原理と思想が全人類に、地の果てまで広く伝播され、人類の悲惨な歴史が終息し、ただただ神様の愛の世界が実現されることを願います。

 先生、再臨の主様、ルターはまだ、お父様とお呼びすることはできないでしょう。主は、全人類の父母として来られましたが、人類は、各自の資質を磨き上げ、神様と真の父母様の前に、真の子女の姿に生まれ変わらなければなりません。ルターが真の子女の立場に立つまで、あまりにも多くの時間がかかると思うのですが、このような姿でも子女として受け入れてくださるのでしょうか。先生、ルターも真の子女の立場に立てるよう努力します。天の秘密を明らかにしてくださったことを、心から感謝いたします。最高の感謝の表現をお捧げして、この文を締めくくろうと思います。先生、ありがとうございます。本当にありがとうございます。ルターは、この真理の前に渾身の力を尽します。

マルティン・ルター(二〇〇一年九月十六日)