「易経」が教える循環と苦難への対処(1)

誰でも「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という言葉を知っていると思います。易占いは、筮(ぜい)を立てて得た卦を使って、今起きている問題への対処法を知る方法です。一方「易経」は、人生で起こるあらゆる場面の解決法<陰陽の組み合わせによる64種類の卦と384の小話を使って>が書いてある書物です。(「易経」では、解決法のことを「中する」といいます。)

易経」について、竹村亞希子さんの著書をもとにかいつまんで苦難への対処についてまとめてみました。

易経には、人生に起こるさまざまな状況を一つの卦として、64の物語が書いてあります。「卦辞(かじ)」と「爻辞(こうじ)」です。

最初の卦は、陰陽の陽を象徴する「乾為天(けんいてん)」、次に陰を象徴する「坤為地(こんいち)」です。次に、陰陽が交わって一つのものごとが生れるという考えに基づき、産みの苦しみの時をあらわす水雷屯(すいらいちゅん)」となります。その次は、「啓蒙の時」をあらわす「山水蒙(さんすいもう)」の卦になり、最後から二番目に「完成の時」を意味する「水火既済(すいかきさい)」、そして最後に「未完成の時」をあらわす「火水未済(かすいびせい)」の卦が置いてあります。最後が未完成に終わっているということは、時の変化に終わりはなく永遠に循環していくということを表しているのです。

    f:id:higurasi101:20151124190746p:plainf:id:higurasi101:20151124190810p:plain        f:id:higurasi101:20151124190931p:plainf:id:higurasi101:20151124190950p:plain              f:id:higurasi101:20151124191108p:plainf:id:higurasi101:20151124191144p:plain             f:id:higurasi101:20151124191258p:plainf:id:higurasi101:20151124191643p:plain

1、乾為天     2、坤為地    3、水雷屯     4、山水蒙  

       f:id:higurasi101:20151124191918p:plainf:id:higurasi101:20151124191934p:plain                      f:id:higurasi101:20151124192011p:plainf:id:higurasi101:20151124192045p:plain                   f:id:higurasi101:20151124192129p:plainf:id:higurasi101:20151124191144p:plain              63、水火既済         64、火水未済     25、天雷旡妄

易経」は、状況は変わっても人間は同じように問題に突き当たり、ものごとの成否はおおよそ人間の取る行動によって成行が決まっていると説いています。「易経」には、「典要となすべからず、ただ変の適くところのままなり」と書いてあり、決めつけたり頭を固くしたりせず、固定観念を捨てて時や状況とともに自分自身を変化させて適応していくことが重要だと説くのです。

易経の「易」は十二時虫と呼ばれる蜥蜴(とかげ)から来ています。光の変化によって一日に十二回体の色を変えるということから、変化を意味しています。「経」は理(ことわり)ですから、易経は「変化の理」について書いてあるという意味をあらわしています。現在伝わっている「易経」の本文は、周の文王とその息子、周公旦によって記された「周易」です。

周易』には経と伝の二つの部分があり、伝統的な言い方で言うと、伏羲が八卦を作り、文王が六十四卦として、卦辞・爻辞(こうじ)を作り、孔子が十翼すなわち「易伝」を作ったとされています。孔子が『易伝』を作ったという記述は、司馬遷の『史記』に見えるのですが、孔子が十翼を作ったということは疑問視され、近世の学者の研究によると、卦辞と爻辞は殷周の際の作、十翼は戦国時代の末に作られ、かつ一人の手によってできたものではなく、孔子の手によるものでもないとされています。

 

64卦の中で、「天雷无妄(てんらいむぼう)」は、最も易経の教えを表している卦で、64の卦のうち、これだけは「どうすれば問題が解決するか」の具体的な対処法が書かれてなく、「身をすべて委ねよ」と教えているようです。竹村亞希子さんは、2011年の東日本大震災の時、この卦「天雷无妄(てんらいむぼう)」がとっさにひらめいたといわれています。

易経」は、時の変化の兆しを感じ取ることが重要だと教えています。目に見えないが、実際にものごとが起こる前にはかならず兆しがあるので、それを感じ取ることが大切だというのです。そして、易経が語る時にぴったり合った行動を取ることが大切なのです。(これを「時中」という。)

ところが人間はなかなか時を感じ取れません。特に「吉」の時は驕り高ぶってなかなか改めることができません。「大吉は凶に転ずるから危ない」とは、このことを言っています。

「震(うご)きて咎无(な)きものは悔に存す」(易経)とは、背中が震えるような恐れ震えるような思いをしないと、人は改めないものだという意味です。震えが人を正常な感覚に戻し、凶を吉に、或いは凶に至る前に未然に転換させるのです。心の中に芽生えた傲慢さや、惜しむ、けちるという吝(りん)の兆しを察知することが大切だと教えるのです。

 

(1)十二消長卦(陰陽の消長をあらわす十二の卦)

一年の変化を陰陽の消長で表したのが、十二消長卦です。陰陽のグラデーションのようになっています。64卦の感覚がわかるのではないでしょうか。各月のこまかい説明は、下記のウェブより転記しました。占いでは、このように説いているようです。暦は旧暦です。

http://yamame.chobi.net/64_setumei.htm#2

 

4月 f:id:higurasi101:20151124192129p:plainf:id:higurasi101:20151124192129p:plain  乾為天(けんいてん) 「健やかな成長の時」 陽のピーク、裏側に陰が隠れている。

常人には荷が重い

剛健で盛運だが、責任も重く緊張も絶えない状態。実力のある大物には吉でも、常人には重圧になる。位負け。父。君主。権力。大金。厳しさ。険しさ。たかぶり。対人関係においては奢りが窺え、成立しても凶のことが多い。身の程に応じて控えめにすること。無理をすれば、どちらかが傷つくし、このまま進めば離別もある。

5月   f:id:higurasi101:20151124192129p:plainf:id:higurasi101:20151124192658p:plain  天風(てんぷうこう)夏至>「思いがけなく(陰に)出遭う時」 夏至を境に陰が勢力を伸ばしてくる。  

出合う
思いがけず遭う。奇遇。奇禍。災い。だます。女難。変事。発病。衰運のはじまり。 とは偶然の出会いのこと。好色女に騙される。卦の形はひとつの陰爻(女性)が5本の陽爻(男性)を集めて、女王のように魅惑している。女性にはいいが男性には望ましくない卦。関係は一定しない。かりに内縁で一度は成っても遂げず。

6月 f:id:higurasi101:20151124192129p:plainf:id:higurasi101:20151124191258p:plain 天山遯 (てんざんとん)「逃れる時」 二本の爻が陰になり、陰が着実に勢力を伸ばす。

自分から逃げる
遯は逃げること。遁走。自分から退く。見切りをつける。引退。家出。運気が逃れて時勢が味方しなくなった。今までの力を頼りに無理をすると危険に陥る。さっさと退いてこそ道が拓ける。チャンスが巡ってきたらまた積極策を講じればいい。相手から望まれても気が進まないなら消極策をとること。自分から逃れて吉。

7月 f:id:higurasi101:20151124192129p:plainf:id:higurasi101:20151124190950p:plain   天地否 (てんちひ)「閉塞の時」 陰と陽が半分ずつ、天地の気がまったく交わらず暗黒の時。

上下交わらず凶上下交わらず凶
否塞。時期いたらず八方塞がり。行き違い背きあいしっくりといかない。外面は強く見えるが、実態は柔弱で砂の上の楼閣のようだ。危機に直面している。なにごとも行き詰まり、無理をしても苦労ばかり。チャンスの到来を待つ以外に方策はない。情愛なく疎遠で交際がへた。先方は亢ぶる。結婚は見合わせたほうがよい。

8月 f:id:higurasi101:20151124193237p:plainf:id:higurasi101:20151124190950p:plain   風地観(ふうちかん)「観る時、洞察の時」 時の衰えを感じ始め、内省する時。

観察のとき
利欲が渦まいて秩序が混乱している。互いに決断力が乏しく様子をみている状態。
相手の出方を伺ってどう行動しようかと迷っている。岐路にたったとき、利欲に惑わされず人の模範となる行動がとれるなら咎めはない。交友を厚くしておけば先方から臨んでくる形で成立するので急がず着実に進むこと。半凶。学術頭脳派には吉。

9月 f:id:higurasi101:20151124191258p:plainf:id:higurasi101:20151124190931p:plain   山地剥(さんちはく)「剥がされる時」 時代は日暮れ、進んで事をなしてはいけない。

身を削る心配 身を削る心配
艮の山が削り取られて荒野になるさま。剥奪。心配。内向。衰退。苦労。散財。陰の勢いが強くなって陽が最後のひとつだけになった。危機が近い。身を切るような心配ごとがある。対人関係は骨折り、支障が多くて調うことがない。今までのことは諦めて次のチャンスを待てば返り咲きもありえる。

10月 f:id:higurasi101:20151124190950p:plainf:id:higurasi101:20151124190950p:plain   坤為地(こんいち)「したがう時」 すべてが陰になり、冬に向っていく。大地は養分を蓄えて次の準備をする。

大地の静かな動き
豊かな力を蓄えた大地。母。柔弱と消極。迷い。保守。衰微。女性的だが決して劣っているわけではない。消極を保つことで剛の攻撃をしのげる。勇気決断に乏しくて初めは疑いや迷いがあるが、なにごとも従順にして剛強を避ければ遂にかなう。お互いに様子を窺っていて定まりにくいが、みだりに変えずにいれば調和して吉となる。

11月 f:id:higurasi101:20151124190950p:plainf:id:higurasi101:20151124191144p:plain   地雷復(ちらいふく)冬至>「一陽来復(回復・復帰)の時」 地中奥深くでかすかに陽気が芽生えた兆しの段階。

くりかえし
一陽来復。復とは冬至のこと。元に戻る。卦は地中深くに春の陽がひとつ芽生えた形。長かった冬もあと一息だが、焦って飛び出してはいけない。雷のエネルギーもまだ潜んでいる状態で、活躍するのに充分な力はない。吉兆。希望。復興。仲直り。再婚。捜していたものが見つかる。着実にコツコツと努力すれば順調に達成する。

12月 f:id:higurasi101:20151124190950p:plainf:id:higurasi101:20151124193621p:plain   地沢臨(ちたくりん)「臨む(展望の)時」 人間の成長でいうと青年期、再出発にあたって栄枯盛衰のならひに注意すること。

相方から臨みあう
親しみあう。双方から臨みあう。求める。与える。躍進。将来性があって運気が隆盛に向かっている。互いに和合して万事順調な卦。結婚は進んで求めてよい。志操を守っていれば遅れてもかなう。希望があるとはいえ短期決戦と心得たほうがよい。急速に盛んになったものはたちまち衰えるからだ。機敏に行動して吉。

1月 f:id:higurasi101:20151124190931p:plainf:id:higurasi101:20151124190810p:plain   地天泰(ちてんたい)「天下泰平の時」 天と地の気が相交わり、新しいことが勢いよく生まれていく。

上下が和合して吉
上にある地は下がり、下にある天が昇って上下が和合する理想の卦。交わって吉。心を通じあい安定した関係を保つには誠意と用心が大切である。よい関係であっても乱を忘れずに、質素にして奢りを慎むこと。内面が充実して外面も穏やかだが安泰すぎるので堅く身を守ること。平穏。和合して悦び多し。結婚、恋愛に大吉。

2月 f:id:higurasi101:20151124191144p:plainf:id:higurasi101:20151124190810p:plain   雷天大壮(らいてんたいそう)「大いに勢い壮んな時」 時の勢いの後押しもあって大きく飛躍する。暴走しやすいので、自制心を持つこと。

盛大・勇猛・やりすぎ
好調な発展のときだが、空騒ぎの喧噪の意味もあって、外見ほどには実質を伴わない。こともある。すこし荒っぽい卦だが進展はある。勢いに乗りすぎると先方は逃げだすので落ち着いた対処が必要。ふたつの爻をひとつにみると全体で兌(若い女性)の形になり、結婚はのちに成立する。調子にのらず誠実を心がけること。

3月 f:id:higurasi101:20151124193952p:plainf:id:higurasi101:20151124190810p:plain   沢天夬(たくてんかい)「小人を決し去る時」 古きを決し、新しい時代を切り開く時。一番上の陰の爻は、力をなくした君子をあらわす。この卦の教えることがそのまま行われたのが明治維新です。

決断する
切り拓く。重大時を決行する。悪が去って正常にもどる。5本ある陽爻が増して一番上の陰爻を押し出すかたち。決断の時期がきているが、強く行動して陰の小物に仇をとられないように注意。無理なく穏やかに行動して吉。先方はたかぶって執着する象なので成立してもあとが良くない。好き嫌いが激しく和しにくい。

 

(参考文献;竹村亞希子著「超訳易経 自分らしく生きるためのヒント」角川SSC新書

覚りと悟り(解脱)とは同じではない

(1)釈尊の悟りと解脱

釈尊は、菩提樹の下で瞑想に入り、想いの世界において悪魔の挑戦を受け、最後色魔との闘いに勝利をおさめ、悟りを得たとされている。その境地は無上のものであったという。この伝承が、悟りを得ると解脱し、涅槃の境地に入るという仏教の教えに結びついている。仏教の伝えるところによると、釈尊生存中に同様の悟りの境地に達した修行者は500人を下らないという(悟りの境地に達した修行者は、阿羅漢と呼ばれる)。

釈尊は、悟りの境地を「天上天下唯我独尊」という言葉で表された。

そして釈尊が悟りを開いた時、悪魔はやって来て、次のように囁いたという。

「(45年前)、おまえが悟りを開いて仏陀となったとき、わしはおまえにすすめた、さっさと涅槃に入れ、と。たいていの聖者がそうする。せっかく聖者になったのに、愚かな人間と接触して汚れてしまえばなんにもならない。けれども、おまえは変わり者であった。」

一方では、梵天が現れて、「釈尊よ、お前は至上の悟りを得たが、そのまま満足するだけでいいのか。衆生に伝えないのか」と、伝道を促したとされている。

釈尊は熟考し、45年間の真理を伝える道に入る。

釈迦の最後の旅から始まって入滅に至る経過を記述したマハー・バリニヴァーナ・スッタンタ(漢訳大般涅槃経)(パーリ語)によると、「私は、人々のよるべき真理をあきらかにした。真の生き方を明らかにした、それだけなのだ。だから、私が亡くなったからといって嘆き悲しむな。およそこの世のものでいつかは破れ消え失せるものである。そこにある一貫した真理を解き明かしてきたではないか。それに頼れ。変転きわまりない世の中では、まず自分に頼れ。自分に頼れとは、その場合その場合に考えること、何を判断基準にするかというと、人間としての道「法」、インドの言葉でいうと、「ダルマ」、この人間の理法というものこれに頼ることである」、と語ったとされる。(中村 元)
また、弟子の親族アーナンダとの会話でも、「私は、29歳で出家して真理を求めて真理を実践してきた。正理(八正道)と正しい法に生きてきた釈尊自身は教義は説いていない。それは後代の教義学者が作ったもの。人間の真実を説いただけである。諸々の事象は過ぎ去るもの。努力して修業を完成させなさい」。「悟り」というものは固定したものではなく時空の中で変転するものであり、悟ったといえども宇宙とのつながりの中で、人間としての「法」に頼って考えることが必要である(中村 元)。

 

そういう釈尊なのだが、一方で経典は、悟りを得た後も魔の誘惑があったことを伝えている。既に勝利したことであっても再び誘惑されるのである。もちろん、既に勝利した内容なので乗り越えることは容易であるのだが、試練は悟りを得た後も訪れる。有名なスンダリーの迫害」マーガンディヤーという娘の話」はその一例である。もしも釈尊の心に魔がさしたなら、悟りは水泡に帰して堕落してしまうことになる。

『マーガンディヤーという娘の話』とは、次のような物語である。マーガンディヤーという美しい娘がいた。その両親が釈尊にひと目でほれてしまい、自分の娘を釈尊に嫁がせたいと思って申し入れをした時の話である。釈尊は、苦笑されて、「私は天女の誘惑にも負けなかった人間です」と、語られる。「そうした浄らかな天女の誘惑にも打ち克ったわたしが、どうして人間の女性に誘惑されることがあろうか・・・・」と、釈尊は言われるのである。しかし、その言い方に問題があったため、憎しみを与えてしまうのである。2013年2月4日ブログ 「仏陀は、悟りを得た後も最高の真理を求め続ける。そして、悟りを得た後も魔の誘惑は続く」を参照)

釈尊の覚りは、魔を降伏させた悟り(解脱)であったと思われるが、悟りを得たとしても、社会は不浄に満ちており、悪の誘惑からは逃れられないということを伝えている。

ところで、表題のテーマ、「覚りと悟り(解脱)は同じではない」であるが、釈尊の悟り(解脱)の中には、修行上の二つの内容が渾然と入り混じっていることを指摘したい。つまり悟りには、①神の召命と、②悪魔の解脱承認、の二つの要素が内包されているのである。

 

(2)覚りとは何か。覚りとは、知的レベルの飛躍であり、神の召命である。

「覚り」という言葉は、禅の修行でよく使われる。禅の公案でもっとも有名な「無門関」第一則「趙州無字」は、趙州和尚、僧の『狗子(しし)にも還た仏性ありや』と問うに因って、州云く、≪無≫』というものである。無に集中して次第に一心に統一され、推し進めていくと突然覚りを開くという。

この無字に集中して坐禅修行の実際について、川尻宝岑は次のように述べている。「この打成一片の地位を喩えてみると、厚い氷の中に閉じつ込められているようなものじゃ。上下四方、前後左右、悉く透き徹っていかにも見事な美しいものではあるけれども、わが身は氷に閉じ込められているゆえ、身動きをすることのならぬようなもの、この時に至って少しも退却の心を発さず、一念も動かさず、ただ一向に「州云く、無無無無で、無二無三で押し込んでゆくと、頓て時節到来して豁然(かつねん)として真の悟りが開けるのである。(川尻宝岑『坐禅の捷径(はやみち)』(*1)」

 

なるほど、そのように修行すればいいのかと思われるだろう。ほとんどの人は、覚りを開くとすべての迷い、煩悩が亡くなり解脱して聖なる境地に至ると思われていることだろう。煩悩と闘い、苦難の歩みの中で長い苦しい修業を超えて得た光は、すべての達成であるかのように。

しかし、その願いと覚りの境地とは少し違っている。鈴木大拙氏は、「『禅と俳句』の中で、覚りは『狂う』こと、すなわち通常の意識レベルたる知的レベルを超えることだといわれている。覚りには別の一面があって、それは通常に異常を見、平凡な事物に神秘的なものを感知し、創造全体の意味を一気に領得する一点を把握し、一本の草の葉を採ってこれを丈六の金身仏に変ずるのである」。絶対マイナスの先には、神に出会って神の愛に触れて絶対プラスに転じるという大転換が起こるというのである。このような大転換を体験するがゆえに、絶対者の愛に応えてはたらく主体へと転ずるのである。無の境地とは、空の境地であり、そこに神が存在していてそこが神と出会える場なのである。

また鈴木大拙氏は、禅について次のように言われている。「禅はどうしても芸術と結びついて、道徳とは結びつかぬ。禅は無道徳であっても、無芸術ではありえない」と、語られている。(*2)道徳とは必ずしもこのようにはならない。「無」に徹しきったならば、神・仏の大慈悲が顕現して道徳的に直結しても不思議ではない。しかしそうならないと鈴木大拙氏は述べている。

禅の覚りは、自然との間においては、問題なく直結するが、対人間の関係においてはそれが難しいといわれているのである。個を超越したとしても、人間同士の関係においては、神・仏が直截に入り込めない。覚りと道徳は直結していないのである。

 

(3)覚りに至っても、煩悩はしつこく付きまとう。

覚りと道徳は直結していないのである。それゆえ、覚りに至ってもすべてが解決されるわけではないのである。楞厳経に、「理は頓悟するも、事は漸修す」という言葉がある。煩悩は、しつこく付きまとうのである。

中国の禅僧袾宏は、「一念に自理を頓悟しても、無始以来の習気は頓に除きがたいから現業流識(現在の業づくりとしてはたらいている意識)の払拭にはげめ、という潙山霊祐の語をひき、「経、少し悟るところがあると、すぐに一生参学の目的は達せられたというのは、何たることだ」と厳しく戒めている。中国明代末の禅僧達観は、心に巣くう情のしつこさへの注視をおこたるべからずと、「道は頓に悟るべきだが、情は漸々に除かねばならぬ」(紫柏老人集、巻二)と示し、徳清も、「頓悟するといえども、漸修を廃せず。仏祖の心、もとより二なきなり」(夢遊集、巻一二)の語を残している。陽明学王陽明も、「もしわれわれの凡夫心がまだのこっているなら、いくら悟りを得たとしても、まだ随時、漸修の工夫を用いねばならぬ。そうしなければ、凡夫を超えて聖人に至ることはできぬ」(『伝習録』巻下)と述べている。(*3)

 

情(煩悩)のしつこさは、聖書の中にも記載されている。回心して伝道に邁進したパウロは、「ローマ人への手紙」の中で、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな存在なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」(『ローマ人への手紙』7-12~25)と語っている。

パウロでさえ、煩悩に悩まされているのである。現世で歩む我々人間は、当然ながら煩悩に翻弄されている。

 

(4)なぜ情(煩悩)はしつこく付きまとうのか

上で述べたように、修行僧の煩悩との闘いは、現世での欲望をすべて断ち切って出世間での修行に入っても、煩悩はしつこく付きまとい苦しめることを伝えている。

 

情は、本然のものであれ煩悩であれ、対象と触れ合うことによって生起する。対象に反応して心に対象の情報が入ると、そこに一つの情が生起してくる。その場面場面によって湧き上がる情は異なる。その中には、善きものもあれば悪しきものもある。孟子は、幼児が井戸に落ちかけているのを見たら、どんな人でも驚きあわてて、いたたまれない気持ちになろう。孟子はこうした素朴な心情の存在を根拠として、人間の本来性を「四端」<「惻隠の心」、「羞悪の心」、「辞譲の心」、「是非の心」>が備わっているとして性善説を主張した。

一方荀子は、人間の本来の性質には生まれながらにして自分中心で憎悪の心がある。その心をそのままにすると、他人に危害を加えるような行為をしてしまいやすい。また、自己の欲望にしたがい感情の赴くままに行動すれば、人の道に外れた行為が横行し、秩序が崩壊することになると主張した。古来より人間の心には善悪両面の心が備わっていて、善なる心よりも悪なる心の方が圧倒的に強いことが知っられていた。その悪なる力が人間を苦しめて来た。パウロの嘆きは、まさにこれゆえであった。

 

宗教者は、悪なる心-仏教では煩悩と呼んでいる―をいかに克服するかと闘ってきた。そして煩悩を払拭するために、宗教者は出家という方法(出世間)を見出した。出世間においては、欲望が生起する環境を極力なくしているのだが、それでも煩悩の解脱が一挙にできず困難なのである。それは、情が己と対象の関わりにおいて生起して、己を虜にし苦しめるからである。その煩悩の力が弱まわらず苦しめ続けるのは、煩悩に力を与えている存在(悪魔とか悪霊と呼ばれている霊的存在)が、その都度姿を現して容易に消え失せないからである。知的に人間存在の高みを覚ったとしても、わきあがる情をコントロールしにくいということは、情というものが我々個人の心の中から発しているだけではないことを暗示している。

 

現世の場合は、それははるかに難しくなる。煩悩は、清浄な出世間の環境では制御しやすいが、現世においては欲望が渦巻いており情が揺れ動いて悪魔に誘惑され罪を犯しやすい。自己の情を律することはとても難しい。しかも、人間関係が複雑に絡み合っており、その内容の多くは因果応報という先祖からの因果に由来するものが多い。煩悩はぬぐってもぬぐっても沸き起こってくるのである。それだけではなく、対立となりけんかとなって再び新しい罪を作り出す。何と嘆かわしいことか。

しかし、自ら湧き上がる欲望には本然の好ましいものもある。それゆえ、宗教者といえども、現世での幸福を願ってきたし、現世において解脱できると信じて来た。人間にはすべての人に仏性があるという教えこそが希望であった。しかし、いまだこの願いは達成されていない。

 

(5)現世での解脱への道―魔を退けて、「天上天下唯我独尊」に至ること

仏教が伝えるところによると、解脱の最終局面での試練は、色情と自尊心(プライド)であるという。この二つの煩悩は、人間の有する根源的な煩悩であり、心の病の原点だともいえよう。それは、煩悩の根であり、仏教はそれを無明と呼び、キリスト教は原罪と呼んだ、始原の問題である。人間は煩悩の根を抱えているがゆえに、業を抱えて輪廻するという道を歩む悲しい存在となってしまっているのである。

 

それではなぜ人間は、煩悩から一挙に解放されず付きまとわれるのか?それは、人間にこの地上世界を創りかえることのできる力、「人間の裁量権」ともいうべきものが与えられているからである。人間がこの力をどのように用いるかによって、人間が住むこの地上世界は不浄な悪の世界にも幸せな善なる世界にもなりうるのである。すべては人間次第なのである。もし、幸せなる地上世界を願うならば、煩悩に働きかけて来る悪魔の囁きにイエス・キリストのように答えなければいけない。「神のみを愛せよ」と。

そして、釈尊が「天上天下唯我独尊」と語られたように、神・宇宙とのつながりの中で、変転する時空の中に自らが存在する位置を自認して、宇宙の秩序の中で生きる道を選択することが重要なのである。

 

*1:竹村牧男著「禅の思想を知る事典」東京堂出版2014

*2:鈴木大拙著 北川桃雄訳「禅と日本文化」岩波新書 1940

*3:荒木見悟著 「仏教と陽明学第三文明社レグルス文庫 1979

朱子(朱熹)の鬼神論(2)

(4)問う。『遊魂、変をなす』とありますように、時たま人に祟るものがあります。どうして散らずにおれるのですか。」

先生いう。「『遊』というのは、次第々々に散るということである。人に祟るものの場合は、まともな死に方をしなかったものが多い。その気が散らないので、結ばれて祟るのだ。体がひ弱くて病死した人の場合は、気が完全に消耗してから死ぬので、二度と結ばれて祟るようなことはない。しかしまともな死に方をしなかったものも、しばらくたつうちに散る。たとえばうどん粉をこねて糊を作る場合、なか頃には、小さいかたまりとなって散らないものができるが、しばらくこねているうちに次第に散ってくる。またたとえば『その精を取ること多く、その物を用ふること弘し』といわれている伯有のようなものも、すぐには散らないのである。張横渠は、『物が初めて生ずる時は、気が日々やってきて生長する。物が完全に生長しおわると、気は日々返っていって離散する。やってくるのを神という。気が伸びるからである。返っていくのは鬼という。気が帰るからである』と述べている。天下の万物万事は、古から今に到るまで、陰陽二気の消息屈伸にすぎないのだ。張横渠は、屈伸ということで一貫して説いた。謝上蔡の説は、循環のありさまをうまく説いていないようだ。『宰我曰く、われ鬼神の名を聞けども、その謂ふところを知らずと。子曰く、気なるものは神の盛んなるなり。魄なるものは、鬼の盛んなるなり。鬼と神とを合はすは、教への至りなり』の注に、『口鼻の嘘吸を気となし、耳目の聡明を魄となす』とある。気は陽に属し、魄は陰に属しているのだ。いま『眼光が落ちる』といういい方をするものがいるが、これがつまり『魄が降る』ということである。いま人が死のうとしているのを、また『魄が落ちる』ともいう。気の方は升って散るだけだ。だから『魂気は天に帰り、形魄は地に帰る』というのだ。道家の養生法にもこんな説があり、わが儒教の説とおおむね一致している。」葉賀孫

 

(5)問う。「人が死ぬ時、一体、魂魄(コンハク)はすぐ散るのですか。」

先生いう。「勿論そうだ。」

また問う。「子孫がお祭りをすると、先祖の霊が感じてやってくるのはなぜですか。」

先生いう。「結局、子孫は祖先の気なのだ。祖先の気は散っても、その血すじをひくものがちゃんといて、誠敬を尽くすならば、やはり祖先の気を呼び寄せて集めることができるのだ。たとえば波がただようようなもので、後の水は前の水ではなく、後の波は前の波ではないが、どれもこれも同じ水の波なのだ。子孫の気と、祖先の気との関係も同じことだ。祖先の気はすぐに散ってしまうが、血すじを引くものはちゃんといる。ちゃんといる以上、祖先の気を呼び集めることができるのだ。この事は説明しにくい問題だ。各人が自分で理解しなければいけない。」

問う。「『下武』の詩の、『三后、天に在り』の先生の解釈に、『天に在りとは、三后が没した後、その精神が、上、天に合するという意味だ』とありますが、これはどういうことですか。」

先生いう。「つまりそういう理もあるということだ。」

劉用之いう。「多分、理として上、天に合するまでなのでしょう。」

先生いう。「理がある以上、気もあるのだ。」

ある人いう。「想像ですが、聖人は清明純粋な気を受け取っているので、死ぬと、その気が、上、天に合するのでしょう。」

先生いう。「まあそういうことだ。この件はさらに微妙なところがあって説明しにくい。各人が自分で理解しなければいけない。世の中の道理には、まともでわかりやすいものもあれば、また変化常なくて、推測できないものもある。このように考えてこそ、道理というものをとらわれずに理解することができるのだ。またたとえば『文王陟降(チョクコウ)して、帝の左右に在り』というのは、いまもし文王が、本当に上帝の左右にいるとか、本当に世間で造られている泥人形のような上帝がいるとかいうならば、勿論いけない。しかし聖人がそのように説いているからには、つまりそんな理もあるのだ。たとえば周公の『金縢』の中にある、『すなはち壇嘽(ダンゼン)を立つ』の一節は、あきらかに死者に対するものだ。『もし爾三王、これ丕子(ヒシ)の責を天に有せば、且を以て某の身に代へん』という一条は、先儒はみな間違った解釈をしており、晁以道(チョウイドウ)のだけがよい。晁以道は、『丕子の責』を、史伝中にある、侍子(ヒトジチ)を責(モト)む」の『責』のように解釈している。思うに『上帝が三王の侍子を責める』というのであろう。侍子は武王をさしているのである。上帝が、武王がやってきて左右に服事することを責めたので、周公が武王の身代わりになって死ぬことを乞い、『且を以て某の身に代へん』といったのだ。三王にもし天に対して侍子を差し出す責任があるならば、私を武王の身代わりにした方がよろしい。私は多才多芸で、上帝によくお仕えすることができるが、武王は私のように多才多芸ではないから、鬼神にお仕えすることができません。それよりもしばらくこの世にとどめて、あなた様の子孫と、世界中の人民を治めさせた方がよろしいという意味だ。文意は以上のようであるが、程伊川は、周公が自分から多才多芸であるというはずはないであろう。そうではなくて周公はただ、武王の身代わりとなって死のうとしたまでだと考えた。」

劉用之問う。「先生が廖子晦に答えた手紙に、『もはや散った気は、死んだ以上は存在しない。しかし理にもとづいて日々に生ずるものは、勿論、広大であって窮まることがない。だから謝上蔡が、自分の精神は、つまり祖先の精神であるといったのは、思うにこのことをいったのであろう』とあります。そこでお尋ねしますが、理にもとづいて日々に生ずるものは、広大であって窮まることがないというのは、天地が気によって万物を創造するという場合の気を説いたのですか。」

先生いう。「気はまったく同じだ。『周礼』にいわゆる『天神・地示・人鬼』は、三様があるけれども、本当はまったく同じなのだ。もし子孫のいるものは、祖先の気を招き寄せることができると説いたとしても、子孫のいないものは、祖先の気が全くなくなってしまっているとはいえまい。その血気は流伝しなくても、その気は広大であって日々に生じて窮まることがないのだ。たとえば『礼書』の『諸侯因国の祭』は、自国内に、すでに亡んだ前代の国があって、しかもその君主の子孫がいない場合には、子孫に代って、その国の先祖を祭るのである。たとえば斉の太公が、斉の国に封ぜられた時、なぜ爽鳩氏・季○(草冠に則)・逢伯陵・蒲姑氏などを祭らなければならなかったのか。それは彼らがこの国の前代の君主であり、礼として祭るのが当然だったからであろう。ところで聖人が礼を制定した際に、その国を継承したものは祭るべきであり、その国にいないものは祭るべきではないとしたのは、つまり理としてそうすべきだったからだ。道理としてそうすべきであるならば、気があるのだ。たとえば衛の成公が夢の中で衛の始祖の康叔から、『夏后相が私への饗(マツリ)を奪おうとしている』と告げられたのは、思うに衛は後に帝丘に都したわけだが、夏后相も帝丘に都したのだから、その国に都したら当然夏后相も祭らなければならないのに、祭らなかったので、そのような事態が発生したとしても無理からぬことなのである。またたとえば普候が、黄熊(コウユウ)が寝門にはいる夢をみて、黄熊を鯀(コン)の神であると考えたのも、同じ類のものだ。子孫がいるものであって、はじめて感格の理があるということにはならないのだ。たとえ子孫がいなくても、祖先の気は亡んだことはないのだ。たとえば現在、勾芒を祭っている。それは遠い昔のものだが、祭るのが当然であるとする以上、少しばかりの気があるのだ。要するに天地人を一貫して、この一気だけなのだ。それで『洋々然としてその上に在るがごとく、その左右にあるがごとし』と説くのだ。宇宙空間はどこもかしこも理でないものはないのだ。各人がとらわれずに理解しなければいけない。言葉で教えさとすことは難しいのだ。それで程明道は、人が鬼神について質問した時、『実在しないと説明しようとすると、なぜ聖人は実在すると説いたのであろうか。実在すると説明しようとすると、君はこんどは私に向って根ほり葉ほり尋ねようとするだろう』と答えたのだ。ここまで説明したら、後は各自で理解することだ。孔子は、『いまだ人に事ふること能はず。いずくんぞ能く鬼神に事へん』といった。いまはまず身近で大切な道理を理解するように務めることだ。しばらくして道理がはっきりした時に、自然にわかるのだ。謝上蔡の説で、もはや十分にあきらかなのだ。」沈僴

 

(6)問う。「子孫が祭祀を行う時には、誠意を尽くして祖先の精神(タマシイ)を集めますが、一体、祖先の魂気と体魄を合せるのですか、それとも魂気を感格させるだけですか。」

先生いう。「蕭〔ヨモギ〕と祭脂(イケニエノアブラ)を焫(ヤ)くのは、〔祖先の魂〕気に報いるためであり、鬱鬯(ウツチョウ)の酒を〔地に〕灌ぐのは、〔祖先の体〕魄を招き寄せるためである。つまり祖先の魂気と体魄を合わせるのだ。いわゆる『鬼と神とを合はすは、教への至りなり』だ。」

また問う。「一体、常時このようにするのですか、それとも祭祀の時だけですか。」

先生いう。「子孫の気がありさえすれば、祖先の気はある。しかし祭祀の時でなければ、どうして祖先の気は集まれるだろうか。」

 

(7)先生いう。「世間ではやたらと化け物を崇め尊んでいる。たとえば、私の郷里の新安などは、一日中、お化け屋敷にいるみたいだ。私は一度里帰りをしたことがあるが、世間で五通廟と呼んでいる社がある。とりわけ霊怪で、『霊験あらかたである』といって、みんなが大事にお守りをしている。土地の人たちは、外出する時には、神片をもってお社に行き、おいのりをしてから出かけることにしている。通りすがりのお役人たちは、必ず門生の誰それがしと名前を書いた紙切れを持ってお参りした。私が帰郷した当初、親戚のものたちから、お参りに行けとせっつかれたが、私は行かなかった。その晩、一族の人たちを呼んで宴会をした。役所に行って酒を買ったが、灰が混っていて、飲んだとたんにひどい腹痛がして、夜通し苦しんだ。つぎの日、たまたま蛇が一匹、屋敷の階段のそばに現れた。お参りをしなかった罰だといってみんなが大騒ぎをした。私は『胃の腑が物を消化しなかったのであって、五通廟とは何の関わりもない。むやみに五通のせいにしないことだ』といってやった。なかに一人、学問熱心な人がいたが、この人もやって来て、『これも衆に従うということです』といって、お参りに行くようにすすめた。私は『衆に従ってどうしようというのです。学問熱心なあなたのような人まで、こんなことをいうとは意外です。私は幸いなことに、郷里に帰省する機会に恵まれ、先祖の墓所のすぐ近くにおります。もし本当に祟りで死んだのなら、どうか私を祖先の墓所のそばに葬ってください。はなはだ好都合です』といってやった。」

先生またいう。「地方長官となったら、淫祠を除去しなければいけない。勅額に関係したものの場合は、軽々しく除去してはいけない。」葉賀孫

*:五通廟と称される化け物を祀った社。詳細は不明であるが、通俗篇巻十九、神鬼の部などに記述されている。

 

<出典:諸橋轍次/安岡正篤 監修「朱子學体系第六巻 朱子語類明徳出版社 1981 p34~49佐藤 仁執筆「鬼神」>

 

いかがでしたか。けむに巻かれた気もしますね。

朱子(朱熹)の鬼神論(1)

中国では古代以来、自然=事物と鬼神とは表裏一体のものであった。自然や堅物の裏側に、ある霊妙なものの存在が予感されていた。『周礼』大宗伯にみえる雨師・風師は、雨や風の背後にあってそれらを現象せしめる神である。『中庸』第16章の「物に体して遣すべからず」というのも、より原初的には物の背後にある笹神などの鬼神をいっている。

しかし、儒教は鬼神について来世についてはほとんど語らなかった。孔子自身も、厳密にいえば宗教的な話題には言及したことがない。鬼神に仕えることについて聞かれた時、「未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん(人に仕えることもできないのに、どうして鬼神に仕えられよう)」(先進第十一)と答えている。

この儒教が答えない人々の来世の問題に答えたのが仏教であった。仏教伝来は、中国の人々の不安に救済の手を差し伸べたのである。道教も同じように人々の不安に応えていった。

道教は、不老不死や仙人になるための薬を生み出し、奇蹟を約束する特殊な食養生や肉体の鍛錬法を発展させた。儒教が来世については何も語らないので、来世に対する関心によって道教の魅力はいっそう高まった。道教は何世紀にもわたって影響力を持続することになる。

仏教・道教の普及に刺激を受けて、儒教が宋の時代再構築される。宋儒学、理気学とも呼ばれる朱子学である。朱子学を最終的にまとめたのが朱熹朱子)である。朱子学は、日本へも大きな影響を及ぼしたことは周知のことである。

朱子学の中で、中国古来からの霊妙なる存在、「鬼神」はいかにとらえられたのであろうか。朱子朱熹)の著作「朱子語類」の中に第三巻として「鬼神」が論述されている。第一・二巻が理気で、第四・五・六巻が性理であることからして、重要なテーマとして捉えられていたことは確かである。小倉紀蔵氏は、朱子学の世界観をリアルに理解するためには、鬼神ほど重要なものはないと語られている。私も同感である。小倉氏は、『中庸』第十六章の一節をあげられてその重要性を指摘されている。

視之而弗見。聴之而弗聞。体物而不可遺。

<訓(鬼神は)之を視れども見えず、之を聴けども聞こえず、物に体して遺す可からず

<訳(鬼神は)これを見れども見えず、これを聴けども聞こえず、すべての物の体となってあますところがありえない。

 

朱子学的世界とは、鬼神が充満し、その物をその物たらしめている「物に体する(体物)」空間である。鬼神は民衆の世界においては、日本語の「オニガミ」のように、具体的なお化けや幽霊、物の怪などを意味する。違うところは、朱子学では、鬼神は具体的なオニやお化けという実体があるのではなく、「二気(陰陽)の良能」(張横渠)として、気が帯びている陰陽の作用によって分かれる気の霊的エネルギー状態に「神」「鬼」という名をつけている。自然科学のように、陰陽の作用として受け止めているのである。(気が伸びるのが神、気が屈するのが鬼である。)〈小倉紀蔵著「入門 朱子学陽明学」ちくま新書 2012 P24~25〉

 

一言言えば、「鬼神」について、実体がなくただの気のエネルギー状態であるという朱子学の主張には問題があり、朱子学の根幹を揺さぶりかねないことを指摘しておく。ただ鬼神論を読まれれば感じられると思われるが、とても気のエネルギーとしてだけで処理できているとはいえない。

朱子語類」第三巻「鬼神」について、諸橋轍次/安岡正篤 監修「朱子學体系第六巻 朱子語類明徳出版社 1981より記載する。なお、文中の太字・下線は、小生が付けたものであることをお断りしておく。

 

鬼神(『朱子語類』巻三)

 

(1)ある人問う。「鬼神は実在するのですか、しないのですか。」

先生いう。「この問題は、急には説明できない。説明しても君は信じまい。衆理をつぎつぎにはっきり見ていかなければいけない。そうするとこの疑惑は自然に解消する。『論語』に『樊遅(ハンチ)、知を問ふ。子曰く、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく。知と謂ふべし』とあるように、理解しなければならぬことをまず理解し、理解できないことは、しばらくよそへおしやっておくことだ。日常生活の問題をすっきりと解決することができたら、鬼神の理は自然にわかるようになる。それでこそ知なのだ。『いまだに人に事ふるあたはず、焉んぞよく鬼神に事へん』というのも、意味は同じだ。」呉必大

 

(2)問う。「生死鬼神の理についてお尋ねします。」

先生いう。「天道が流行して万物を発育する。理があって、後に気がある。理も気も同時にあるのだが、結局、理の方を重要に考えるのだ。人間は理と気を得て生れる。しかし気には清と濁とがあり、気の澄んだものが気で、濁ったものが質だ。清んだものは陽に属しており、濁ったものは陰に属している。知覚運動は陽の気のしわざであり、骨肉皮毛は陰のしわざである。気は魂といい、体は魄(ハク)というが、高誘の『准南子』の注には、『魂は陽の神、魄は陰の神』とある。いわゆる神は、魂魄が形成をつかさどっているからだ。人間が生れるのは、精と気が集まるからだ。人間がいくら多くの気をもっているからといっても、必ずいつかは尽きはてる。尽きはてると魂気は天に帰り、形魄は地に帰って、死ぬことになる。人が死のうとする時、熱気が立ち上るのは、いわゆる『魂、升る』であり、下半身からだんだんと冷たくなるのは、いわゆる『魄、降る』である。これは生があれば、必ず死があり、始めがあれば、必ず終りがあるとされる理由である。聚散するものは気である。理の場合は、気に宿っているだけで、もともと凝結して一物となっているのではない。ただ人間の身分として当然そうでなければならぬことが理であって、聚散では説明できないのだ。ところで人間が死ぬと、最後には散ってしまうことになるが、すぐに散ってしまうわけではない。だから祭祀に感格**の理があるのだ。はるか遠い昔の先祖の場合、その先祖の気の有る無しはわからないが、しかし祭祀を取り行うものが、その人の子孫である以上、結局のところ気が同じなのだから、感通の理はあるのだ。しかしもはや散ってしまった気は、二度と凝まることはないのだ。ところが仏教徒は、人が死ぬと鬼になり、鬼がふたたび人になると考えている。もしそうなら天地の間には、常に大勢の人々が行ったり来たりしているだけであって、決して造化のはたらきによって生々しないのだ。こんな理はないにきまっている。たとえば伯有***の怨霊が祟ったという点になると、程伊川は別種の道理があるといっている。思うにその人の気がまだ尽くべきでないのに変死した時には、祟ることができるのであろう。子産が伯有のために跡目を立てて、落ち着き場所を与えてやったので、祟らなくなった。子産も鬼神の情状を知っていたといってよい。」

*精:『易』繋辞上伝第四章「精気物をなす」。朱子いう「精と気とを合して物をなすなり。精は魂にして気は魄なり」(『朱子語類』巻七四)。ただし精を魂とし気を魄とするのはなにかの間違いで、精を魄とし気を魂とすべきであろう。(『朱子語類』巻三・第六条)

**感格:祖先の魂が感じてやって来る。

***:伯有:『春秋左氏伝』昭公七年。伯有は春秋時代の鄭の穇(サン)公の子孫、良霄のあざな。不行跡がたたって殺されたが、死後魍魎となって人に祟ったといわれている。

 

問う。「程伊川は、『鬼神は造化の迹』といっておりますが、そんなのも造化の迹なのですか。」

先生いう。「みなそうだ。もし正常な理を論ずるならば、樹上に突然花や葉を生ずることなどが、つまり造化の迹なのだ。またたとえば空中に突然雷霆風雨が発生するのもみなそうだ。ただ人が見慣れていることなので怪しまないだけだ。突然、鬼のなき声を聞いたり、鬼火を見たりすると、すぐに怪しいと思って、これらもまた造化の迹であることに気づかない。ただ正常な理ではないので、怪異とするのだ。たとえば『孔子家語』に『山の恠(バケモノ)を夔(キ)・魍魎(モウリョウ)といひ、水の恠(バケモノ)を龍・罔象(モウショウ)といひ、土の恠(バケモノ)を●(羊+賁)羊(フンヨウ)といふ』とあるのなどは、みな気が入り乱れちぐはぐになって生じたものだ。やはり理として実在しないものなのではない。実在しないと独り決めにしてはいけない。たとえば冬寒く夏暑いのは、理として正常なのである。ある時、突然夏が寒く冬が暑かったとしても、この理がないとはいえまい。ただ理として正常でない以上、これを怪と呼ぶのだ。孔子はそれで話さなかったのであり、学ぶ者も理解する必要はないのだ。」李閎祖

 

(3)先生いう。「昔儒者は、『口鼻の呼吸が魂であり、耳目の聡明が魄である』といっているが、まああらましを説いただけで、さらにその基本になるものがある。これがつまり坎離(カンリ)火水である。煖気(ダンキ)が魂であり、冷気が魄であり、魂が気の神であり、魄が精の神である。思量計度することができるものが魂であり、事柄を記憶することのできるものが魄である。」

先生またいう。「目では明、耳では聡となって現れるものは、魄の作用である。老氏**の『営魄に載る』の営は、晶熒(ショウケイ、きらきらと輝く)という意味である。魄は、きらきらと輝く堅く凝結したものである。釈氏の地水火風***だが、その説に、『人が死んだ時、風水の方が先に散れば、祟ることができない』とあるのは、思うに魂の方が先に散って、魄がなお残っている場合は、完全に消滅していないだけで、やがて自然に崩壊するからであろう。『もし地水の方が先に風水がなお散り遅れていると、祟ることができる』というのは、思うに魂気がなお残存しているからであろう。」

先生またいう。「魂がなければ、魄はみずからを存続させることはできない。もし思い煩うことが多いと、魂は完全に魄と遊離してしまう。老氏はそこで、ひたすら両者が結合するように守っていこうとした。いわゆる『虚を致すこと極まえり、静を守ること篤し』とは、全く動いていないようにちゃんと守るのだ。」

先生またいう。「『気に専らにして柔を致す』の方は、守るということではなくて、専らにするということである。つまり気に専一であって、全く放出しないならば、気は細やかだが、もし少しでも放出すると粗くなってしまう。」

*:後漢の鄭玄のこと

**:老子のこと

***:いわゆる四大のことで、仏教ではこの四種の元素で一切の物質が構成されていると考えた。

<続く>

 

綿々と続けられてきた中国皇帝の儀式

中国の皇帝がどのような祭祀を行ってきたか、今やほとんど知る人もいないであろう。共産主義中国になって65年、祭祀は何の意味ももっていないだろう。しかし、中国に皇帝が君臨していた時代、皇帝の儀式はとても重要な意味をもって行われていたのである。

中華帝国の繁栄は、皇帝が自ら行う国家的祭祀を正しい方法で執り行うかどうかにかかっていて、人事と天の意思が完全に和合するよう保証するのが皇帝の務めであった。皇帝自身が中華帝国の第一の司祭であった。しかし、清王朝滅亡後はこの祭祀もなくなってしまった。また、各家庭には、もう一人の司祭-父親-がいて、孔子の時代よりもはるか前から祖先の名を記した位牌を祭壇に安置し先祖崇拝の祭祀を行い、祖先に報告するのであった。儒教を奉じている中華民族の家庭では、現在も熱心に行われている。皇帝の行っていた儀式について、トーマス&ドロシー・フーブラー著鈴木博訳「シリーズ世界の宗教 儒教青土社1994(p127~147)より、中国皇帝の天に対する儀式を紹介する。

 

◆皇帝の儀式

冬至の前夜、中華帝国の皇帝は一年のうちでもっとも重要な儀式の準備に取りかかることになっていた。皇帝とその一族が暮らしている紫禁城の城門が開けられ、皇帝は金竜の刺繍を施した布で飾った輿に乗り、十六人の貴族に担がれて南下する。皇后、大臣、官僚や派手な礼服を着た召使を含む二千人余りが、広大な都城を南北に縦断する。砂金を撒いた大通りを歩み、旗手が二十八宿〔二十八星座〕、五星〔五惑星〕、五岳〔五大名山〕の旗幟を掲げ、都城の南門を出て6.4平方キロメートルもあった天壇に向かう。

天壇に入ると、皇帝は祖先の神主(位牌)を拝し、ついで斎宮に引き篭もり、翌日の祭祀にそなえて斎戒する。夜明け前に斎宮を出て、天と相対している漢白玉石造りの三段の祭壇「園丘壇」に登り、自分の天命を更新する年に一回の恒例の儀式を執り行う。

儀式は古代からの伝統にのっとって進められる。皇帝は竜の刺繍を施した藍色の長大な礼服をまとい、真珠の飾りを施した冠をかぶって、天を象った円形の祭壇の階段を登り、積み重ねられた柴に火をつける。立ち昇る煙によって、その儀式に臨む神がみを神降ろしするのである。

ついで、皇帝は祭壇に香、青い絹布、青い玉の円盤を供える。中心をなす犠牲―いかなる欠陥もない雄牛―は慎重に選ばれ、前夜のうちにすでに屠殺、解体されており、皇帝はその肉の一片を取って玉座に供え、さらに他の肉片を玉座の傍らに置かれている祖先の位牌に供え、丁重に九回ひれ伏してから祭壇を下りる。そして、皇帝が下から見上げるなか、供物を青い紅のなかで燃やす。

皇帝がこれらの務めを果たしているあいだ、笛、鐘、磬(けい)の音が祭壇の周囲に響きわたり、儀式の一部をなす荘厳な踊りが演じられる。古代から1916年まで何世紀にもわたって、この情景―王朝が交代しても、遷都が行われても、平和なときでも、戦乱のときでも―には、まったく変化がみられなかった。「五経」の一つである『礼記』に書き留められているので、この祭祀の方式は細部にいたるまでまったく変化しなかったのである。

<『礼記』礼運第九>

聖人礼の以て已む可からざるを知ると為す。故に国を壊り家を喪ぼし人を亡ぼすは、必ず先ず其の礼を去(す)つればなり。

―聖人は、礼の欠くべからざるものであることを万人に先んじて充分に知り、制定したのである。みずから国を滅ぼし、家を破り、わが身を失う人がいるのは、必ずまず礼を捨て去るからなのである。

 

文字通り、中華帝国の繁栄は皇帝がこれらの祭祀を正しい方式で執り行うかどうかにかかっており、人事と天の意思が完全に和合するような保証するのが皇帝の務めであった。それをなしうるのは、天子たる皇帝だけなのである。

皇帝によって執り行われる冬至の儀式は陽気の蘇生を意味するが、その陽気の蘇生は目に見える天と、冷と暗を意味する陰気の冬のあとにやって来る太陽を象徴しているのである。夏至にも、皇帝は同じような祭祀を都城の北方―あらゆる生命の源をなす「地」の方角―で執り行った。陽気が最高潮に達するので、夏至は時計の平衡論を戻して陰気を敬う日なのである。北側の祭壇は「地」の形である方形をしていて、皇帝の礼服、供物、輿は「地」の色である黄色を基調にしていた。また、供物は燃やされず、地中に埋められた。

国教である儒教の祭祀は、大祀、中祀、小祀に分けられ、政府の礼部には皇帝から楽師にいたるあらゆる列席者の指導にあたる官僚が配されていた。皇帝は、小祀と中祀については名代を送って行わせることができ、実際に全国の省や県の中心地にある孔子廟では、官僚が皇帝の名代として中祀や小祀を執り行った。中祀の供物には、孔子を祀る廟で孔子に捧げられるものもあった。

中祀には都城の南西方にある先農壇で皇帝によって定期的に執り行われるものもあった。農民が作物の植え付けを始める旧暦の3月の一の亥の日に、まず皇帝が六畝の神田を耕し、ついで皇后と高官が耕す。皇后は、黄帝の妻〔るい(女ヘンニ累)祖〕を祀る祭壇でもう一つ別の儀式を執り行うのであるが、その黄帝の妻〔るい(女ヘンニ累)祖〕は蚕の保護者と考えられている。というのは、伝承によれば絹の作り方を発見したからである。

皇帝しか執り行うことができない大祀が四つあった。天を祀るもの、地を祀るもの、それに、皇室の祖先を祀るもの、土地と作物の神を祀るもので、いずれも孔子の時代よりもはるか前から行われていたが、何世紀も経つうちに儒教の風習になったのである。それらの祭祀は絶対に公開されず、大祀で特定の役割を果たす人しか加わることができなかった。トーマス&ドロシー・フーブラー著鈴木博訳「シリーズ世界の宗教 儒教青土社1994(p127~147)

 

現代中国では、すでにこの祭祀は完全に捨て去られている。はるか昔よりどの時代でも最も大切に考えられてきた中華帝国の天に対する儀式は喪失してしまい、天との間を取り繋ぐ司祭ももうどこにもいない。中国人は、礼を捨て去ってしまっているのである。このことは、『礼記』に述べるように中国を滅ぼしかねない問題となりはしないだろうか。

東洋陰陽思想の核「太極」

「太極」という言葉は古代からあったが、宋学朱子学)以降極めて重要な概念となった。朱子らが編纂した宋学朱子学)の入門的教科書「近思録」の開巻冒頭に、北宋儒学者周敦頤(しゅうとんい、号は濂渓れんけい。1017~1073)が載せられている。

朱子学は、人間の心の微細な動きから、宇宙の全体的な力動までをすべて説明する壮大な体系である。そのミクローマクロを貫通するのが理と気である。宇宙のしくみや力動を説明するときには、理は往々にして『太極』という言葉で表現される。太極とは、理のさまざまな側面の内、究極的で、もっとも包摂的で、もっとも全一的で、完全に統合的な性格を指し示すときに使われる語である。(小倉紀蔵

小倉紀蔵氏が著書の中で、周濂渓の『太極図説』(「近思録」巻之一)を載せ解説されている。「太極」の概念をかみしめてみたい。

       

       陰陽魚太極図

この形をした太極図は、陰陽太極図、太陰大極図ともいい、太極のなかに陰陽が生じた様子が描かれている。この図は古代中国において流行して道教のシンボルとなった。白黒の勾玉を組み合わせたような意匠となっており、中国ではこれを魚の形に見立て、陰陽魚と呼んでいる。黒色は陰を表し右側で下降する気を意味し、白色は陽を表し左側で上昇する気を意味する。魚尾から魚頭に向かって領域が広がっていくのは、それぞれの気が生まれ、徐々に盛んになっていく様子を表し、やがて陰は陽を飲み込もうとし、陽は陰を飲み込もうとする。陰が極まれば、陽に変じ、陽が極まれば陰に変ず。陰の中央にある魚眼のような白色の点は陰中の陽を示し、いくら陰が強くなっても陰の中に陽があり、後に陽に転じることを表す。陽の中央の点は同じように陽中の陰を示し、いくら陽が強くなっても陽の中に陰があり、後に陰に転じる。太極図は、これを永遠に繰り返すことを表している。〔Wikipedia

 

【周濂渓の『太極図説』(「近思録」巻之一)】

濂渓先生曰、無極而太極<濂渓先生曰く、無極にして太極なり。>

「無極にして太極なり」という哲学にきわめて重要な言葉において、「にして(而)」という語の意味に関してさまざまな議論がある。これを「から」と解釈すれば、道家のように「無から有が生まれる」という意味になってしまう。これは儒家としては絶対に認められないところである。したがって「であって」とか「でありながら」と読むのが穏当である。太極は朱子学では理を指すが、理は有の性格を持ちながら無の性格をもつのである。なぜなら理が一個の実体としての有であるなら、万物に浸透できないからである。理が無の性格を持つ(無そのものではない)からこそ、万物(気)に浸透できるのである。このような意味で、「無極而太極」というきわめて道家的(非儒教的)な言葉が、宋学においてはアクロバティックに重要な核心的キーワードとなるのである。

 

太極動而生陽<太極動いて陽を生ず。>

太極は動きを通して陽を生む。朱子によれば、太極に動静があるのは、天命の流行である。

 

動極而静<動くこと極まって静なり。>

動きが極限に達すると、静まる。

 

静而生陰<静にして陰を生ず。>

静を通して太極は陰を生む。大極は形而上の道であり、陰陽は形而下の器(物質性のあるもの)である。

 

静極復動<静なること極まって復動く。>

静が極限に達すると、ふたたび起動する。

 

一動一静、互為其根、分陰分陽、両儀立焉<一動一静、互に其根と為り、陰に分れ陽に分れて、両儀立つ。>

動と静がこのように交替し、互いに相手の根となりながら、やがて陰と陽という区別が生じて、そしてふたつの様態(二気)が成立する。陰と陽とは、ふたつの別個の実体を持った存在なのではない。ひとつの気(一気)が帯びるふたつの様態なのである。これは、陰陽の図において、陰の部分と陽の部分のそれぞれ中央に丸い穴が空いていることからもわかる。これはどこに続いている穴かというと、相手(陰だったら陽、陽だったら陰)に通じているのである。二項対立でも二分論でもない。陰と陽とはつながっているのだし、明確な区分はないのである。

 

陽変陰合、而生水火木金土<陽変じ陰合して、水・火・木・金・土を生ず。>

陽が変じて陰と合し、水・火・木・金・土という五行を生む。

 

五気順布、四時行焉<五気順布し、四時行わる。>

五つの気(五行)が調和をもってあまねくゆきわたると、四つの季節が順番にめぐってくる。

 

五行一陰陽也、陰陽一太極也<五行は一陰陽なり。陰陽は一太極なり。>

五行はひとつの陰陽である。陰陽はひとつの太極である。陰陽が太極なのか、それとも陰陽する道が太極なのか、に関しては陸象山と朱子の間に論争がある。陸象山は陰陽そのものが太極だといった。それに対し朱子は、陰陽は気(形而下)であって太極は理(形而上)だから、陰陽がそのまま太極だということはありえないと考えた。

 

太極本無極也<太極は本無極なり>

太極は元来、無極である。

 

五行之生也、各一其性<五行の生ずるや、各(おのおの)其の性を一にす。>

五行が生まれると、それぞれの性質は異なる。

 

無極之真、二五之精、妙合而凝<無極の真、二五の精、妙合して凝る>

本源的な無極と、精緻な顕現としての陰陽の二気、そして五行が絶妙に合わさって、あらゆるものごとの本質部分が形成される。

 

乾道成男、坤道成女<乾道(けんどう)は男を成し、坤道(こんどう)は女を成す。>

天をあらわす乾道は男性的な性質を生み、地をあらわす坤道は女性的な性質を生む。

 

二気交感、化生万物<二気交感して、万物を化生す。>

このふたつの性質(男性的・女性的)を持つ気が互いに感じあって、相互作用を起こすことにより、宇宙の万物に生命と形を与えながら、それらを生み出す。

 

万物生生、而変化無窮焉<万物生生して、変化窮まりなし。>

宇宙の万物はつねに生命力にあふれて生みつづけ、生れつづける。だから生命も宇宙もその変化は一瞬たりとも止まらずに終わりがない。

 

惟人也、得其秀而最霊<惟(ただ)人や、其の秀を得て、最も霊なり。>

そのような万物の中で人間だけが、宇宙の気の中のもっともすぐれた部分を受け取ってできあがったものである。したがって人間こそがもっとも霊性に満ちている。「人間は天地の心なのである。だから人間の心が正しければ、天地の心もまた正しいし、人間の気が順であれば、天地の気もまた順である。」(李栗谷『天道策』)

 

既生矣、神発知矣<形既に生じ、神発して知る。>

人間の形が徐々に形成されて人間が生れるや、霊的能力が発現して知的能力が現実化する。

 

五性感動、而善悪分、万事出矣<五性感動して、善悪分れ、万物出ず。>

人間に内在する五つの道徳的本性が外界の刺激を感じてそれに反応し、現実的に発動する。それにより善と悪がわかれ、すべての事が起こる。

 

聖人定之、以中正仁義、而主静、立人極焉<聖人之を定むるに、中正仁義を以てし、而して静を主として、人極を立つ。>

聖人はこれらのすべての事に、それにふさわしい位置を与える。それは聖人が中庸であること(中)、正しいこと(正)、人間愛にあふれていること(仁)、正義のかたまりであること(義)によって可能なのである。また、動ではなく静を基本として人間の標準を打ち立てるのであり、その聖人自身がまさにその最高の標準なのである。

 

故聖人与天地合其徳、日月合其明、四時合其序、鬼神合其吉凶<故に聖人は天地と其徳を合せ、日月と其明を合せ、四時と其序を合せ、鬼神と其吉凶を合す。>

それゆえ聖人は天地とその徳を合一させる。聖人は太陽・月とその明るさを合一させる。聖人は春夏秋冬の四季とその順序を合一させる。聖人は鬼神とその吉凶を合一させるのである。

 

君子修之吉、小人悖之凶<君子は之を修めて吉なり、小人は之に悖(もと)りて凶なり。>

君子はその聖人の道徳的標準性をしっかりと自分のものにするので良い方向に進む。だが小人はその聖人の道徳的標準性に背馳するので悪い方向に進む。

 

故曰、立天之道日陰与陽、立地之道日柔与剛、立人之道日仁与義<故に曰く、天の道を立てて陰と陽と曰(い)い、地の道を立てて柔と剛と日(い)い、人の道を立てて仁と義と日(い)うと。>

それゆえ次のようにいわれるのである。天の道を立てて陰と陽といい、地の道を立てて柔と剛といい、人の道を立てて仁と義という、と。

 

叉曰、原始反終、故知死生之説<叉曰く、始めを原(たず)ねて終りに反(かえ)る。故に死生の説を知ると。>

また、次のようにもいわれる。始めに立ち戻って終わりにかえってゆく。つまり始めと終わりはつながっている。それゆえに死や生とは何かということを知るのだ、と。

 

大哉易也、斯其至矣。<大なるかな易や。斯(こ)れ其の至れるなり。>

このような宇宙の大きな真理をすべて含んだものが『易』である。ここにこそ、すべての真理の究極がある。

 

〔引用文献:小倉紀蔵著「入門 朱子学陽明学」ちくま新書 2012

p97~p106〕

孔子の「忠」の思想-「忠」の発生と「忠」思想の歪曲化

儒教の教えに五倫の教え〔五倫の関係=父子関係(父子の親)、夫婦関係(夫婦の別)、兄弟関係(長幼の序)、君臣関係(君臣の義)、朋友関係(朋友の信)〕がある。五倫は、戦国時代孟子が、秩序ある社会をつくっていくためには、「孝悌」を基軸に、道徳的法則として「五倫」の徳の実践が重要であることを主張した(孟子「滕文公(とうぶんこう)上篇」)ことに始まる。五倫の中で、父子関係・兄弟関係は血縁関係で維持され、夫婦関係は愛情で維持され、君臣関係は禄位の授受で維持される。朋友(友人)関係はそれらの基盤がないため不安定である。孔子は『論語』の中で、『忠』を18回使っているのだが、最も多いのが交友関係においてである。『忠』を語ったとき、その内容は政治に参画すること、民を治めること、交友、処世、修養等についてであり、人に接する時には「忠」=誠意を尽くして力を尽くして真心を尽くすこと=することを語っている。【孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明訳「図説 孔子 生涯と思想」科学出版社東京(p93~99)2014】をもとに孔子の「忠」の思想についてまとめてみた。

日本の忠孝思想は、中国の歪曲化された忠孝思想に影響を受け、日本の文化土壌と結びついて日本独特の忠孝思想ができあがったようである。

 

(1)「忠」の起源と歪曲化

「忠」という字は、歴史上遅くなって現れた文字で、甲冑文字の中には存在しない。最も早く現れるのは、戦国時代晩期の紀元前310年ごろの中山王の鼎と壷の銘文「余は其の忠(信)を智(知)る」、「志を渇(竭)くし忠を尽くす」である。文献中で使用されるのも非常に遅く、『尚書』『詩経』の中には「忠」の字はない。

『春秋左氏伝』の中には「忠」の字が数十例現れる。桓公6年(紀元前706)、季梁が隋君に勧めて言った、「所謂道は、民に忠にして神に信なり。上民を利せんことを思うは忠なり」。この例は、忠とは統治者に民の利益となるように求めることであり、統治者の人びとに対する忠なのである。春秋左氏伝に出てくる「忠」は、国・社会人びとの利益になるものであって、臣下が君主に仕えるときの道徳的要求ではない例も多い。もちろん臣下が君主に仕える道徳的要求の「忠」も描かれている。

政治理論としての「忠」の出現はとても遅く、社会制度が作り出したものである。宗法社会は、親類を大切にすることを原則とする家族と政治体制を大切にする社会で、この制度は西周の初期までには完成していた。このような制度の下では、君臣関係は政治関係でもあり、一種の血縁関係を備えた宗族関係でもあって二つの関係が統一されている場合、「孝」が社会の最高の規範と道徳の規則となり、それは家庭道徳でもあり社会道徳でもあった。

「忠」は、政治道徳の原則として封建関係の発生に従って生まれたものである。春秋の時代、生産力の発展に従って、生産関係と政治制度にもだんだんと変革が始まった。奴隷主は、あるいは土地を開発することによって富を築き、あるいは商売をすることで富を築き、あるいは製造業で富を築き、だんだんと大夫が諸候よりも富み、諸候が天子よりも富むという局面を生み出した。豊かになった諸侯は争い始め、豊かになった大夫は位を奪い始め、たいして豊かではない諸侯と大夫も自己の有している地位を失うことに甘んじていなかった。覇権を争ったり、位を奪ったり、自分の地位を保全するという目的を達するために、諸候や大夫は争って賢士を招き士を受け入れ、血縁関係のない多くの人びとを招き受け入れ役人とした。それにより、だんだんと宗族関係の政治体制が打ち破られ、以前からあった孝の道では新しい政治関係を守ることはできなくなってしまった。これらの血縁関係のない役人達を拘束し、新しく生まれた政治関係を擁護するために、「忠」が新しい行為の規則として出現した。それは臣下に自分の君主に忠誠を誓うように求めており、忠君の思想も生まれたのである。

 

後漢の時代、封建集権制の強化に従って、孔子の「君臣を使うに礼を以てし、臣君に事うるに忠を以てす」の君臣関係は、「君は臣の綱たり(君主は臣下のおおもとである)」(『礼緯含文嘉』)と硬直化され、忠君思想はこの時から封建専制を教化し、人びとの思想を束縛するものとなった。20世紀人びとは孔子を「君は臣の綱たり」を初めに唱えた人として大批判を加えたが、それは本当のところ不公平である。

「忠」の歪曲化は、「君臣の死を要むれば、臣は死なざるを得ず」という愚忠の思想となった。しかし、それは孔子の思想に対する誤解であり、本来の意味ではない。この誤解は、日本だけではなく、中国歴史にも多くの愚臣を生み出した。

 

(2)孔子の「忠」思想

孔子の君主に仕えるという関係についての論述と評価を見ると、孔子には忠君の考えは非常に薄い。まず、孔子には後世の儒家の強調した「君権は神聖にして侵犯すべからず」の観念はない。殷の湯王、周の武王は臣下として戦争を起こして、各々暴虐な夏の桀と殷の紂を滅ぼした。しかし、孔子はこのような「君を弑する」行為を批判していないだけでなく、逆に彼らを君子として称賛し、『論語』の中で湯王が伊尹を登用した行為を称賛し、武王が至徳を有したことを称賛している。このことから、孔子には後世の忠君思想がなかっただけでなく、逆に残虐な君主を打ち殺すことに賛成していたことがわかる。次に、孔子には後世に奨励された「君に忠にして二主に事えず」の考えもない。管仲は公子糾の先生である。公子糾は斉の桓公に殺されたが、管仲は公子糾のために忠を尽くさなかっただけでなく、反って公子糾の敵である斉の桓公のために力を尽くし、桓公が覇業をなすのを助けている。管仲のような「二臣」を、孔子は非難していないだけでなく、逆に彼が「仁」徳を備えていると高く評価している。

 

(3)孔子の『忠』に関する論述

◆君主に仕えることを述べた唯一の例

定公問う、「君臣を使い、臣君に事(つか)う、之を如何せん?」と。孔子対えて曰く、「君臣を使うに礼を以てし、臣君に事うるに忠を以てす」と。(八佾)

春秋中期以来の忠君思想を孔子が継承しているのだが、発展させている。すなわち「君臣を事うに礼を以てす」で、臣の一方的忠君の義務から、君臣双方が共有する条件としての義務へと修正している。まず、君主が礼に依拠して臣下を使ってはじめて、臣下は忠心をもって君主に仕える。これが孔子が提示した君臣関係である。

もし君主が礼に依拠して臣下を使わないならば、臣下はどうすべきであろうか。孔子の考えは、「道を以て君に事うも、不可ならば則ち止む」(先進)-辞職するといっている。

◆官と民の関係

季康子問いて曰く、「民をして敬、忠を以て勧ましむには、之を如何にせん」と。子曰く、「之に臨むに荘を以てすれば、則敬。孝慈なれば、則忠。善を挙げて不能に教うれば、則勧む」と。(為政)

季康子がどうやったら人びとを厳かでまじめ、一生懸命で、お互いに励まし合うようにできるかと質問すると、孔子は応えた。あなたが人びとに対して厳かでまじめであれば、人びとはあなたの政令に対して厳かでまじめになり、あなたが両親に親孝行で、幼い子に慈しみ深ければ、人びとは一生懸命になり、あなたが賢人を抜擢し、能力の劣った人を教育すれば、人びとはお互いに助け合います。

子張政を問う。子曰く、「之に居りて倦む無く、之を行うに忠を以てす」と。(顔淵)

子張が政治をどうやったら良いかと尋ねた。孔子は彼に応えた。位に就いて役人となったからには、怠ってはいけない。政令を執行するには誠意を尽くし、力を尽くさなければならない。

(4)<孟子>忠誠は相互的なもの

君の臣を視ること手足の如くなれば、則ち臣の君を視ること腹心の如し。君の臣を視ること犬馬の如くなれば、即ち臣の君を視ること国人の如し。君の臣を視ること土芥(つちあくた)の如くなれば、則ち臣の君を視ること寇しゅうの如し。(「離婁章句下」)

人君が臣下を自分の手や足のように大切に扱えば、臣下はその恩義に感じて君主を自分の腹や心(胸)のように大切に思う。君主が臣下を飼い犬や馬のように考えて追い使うだけで礼敬の心がないと、臣下もまた君主をただ路傍の人のように見て恩義を感じなくなる。また、君主が臣下を泥や芥のように見なして踏みつけにすると、臣下もまた君主を寇(仇)やしゅう(敵)のように恨みにくむものである。

 

「忠君」には、特殊な政治的意味がある。国を利し、公を利し他を利す対象を君主一人に限定するため、個人と国家との関係が君主一人との関係になる。それゆえ、歴史上忠君は愛国と一緒になって展開されてきたのである。

歴史上中国にも委細かまわず一つの王朝に忠を尽くした臣下も多数存在し、誤った忠孝思想をもった臣下も数多く存在した(中には親分に惚れて共に死を共にした臣下もいた)。本当の忠臣は、国家・民族に「忠」なのであるが、「忠」という概念は既成の政治体制・君主の擁護に転化されやすいものなのである。