現代文明を変革する旗手は日本である。日本が立ち上がらなければ世界が滅びる

 終末を迎えている世界の中で、唯一打開の術を秘めているのが日本です。まさかと思う人が大半でしょう。でもそのうちわかります。日本が立ち上がり世界を指導していかなければ人類と世界が滅びるのです。こんなことは、欧米思想に絡められて毒されて民族の原点を見失ってしまった現代日本人には理解できないことでしょう。とはいえ、誰もが欧米文明が限界に来ていて考え方を変えなければ未来がないことだけは感じているはずです。でも何が間違いなのか、どうすればいいのか?限界が訪れた時模索する方向はまったく違う観点です。それは何なのか?このことについて記述していきます。それは、欧米思想の原点「聖書」と日本民族の原点の神話「古事記」を通して紐解いていくことです。
 聖書と古事記は、水と油のように全く別物のように思われています。それは間違いです。理解されていないだけです。神は、まったく異なるように見える二つの啓示を通して人類を導いているのです。聖書と古事記は、一言で言えば「男性宗教」と「女性宗教」、「天の宗教」と「地の宗教」という大きな違いがあります。すべての事物が男性(プラス)と女性(マイナス)が一つに結びついて発展していくように、男性神だけでも女性神だけでも行き詰まるのです。聖書と古事記は、補完関係にあるのです。
 聖書は、救い主としてメシアを待ち望み、メシアの救いが世界を救うと予言してきました。確かにそのとおりであり、メシアが降臨してメシアの救いがもたらされました。メシアは、「天の動きと人間の復帰の法則」を携えて来られました。しかし、人間の復帰の法則が地上で花開くためには、地上で受け入れる土壌が必要なのです。どんな良き種も良き土壌がないと芽を出すことができません。よき土壌となる受け皿が必要なのです。よき男性の種を受け止める女性が必要なのです。日本はその良き受け皿であるのです。天照大神が女性神であるということは偶然ではありません。日本の使命は、神の準備したよきものを受け入れて花開かすことなのです。そのためか、日本の宗教「神道」は教義というものに乏しくすべて受容するという精神に富んでいるのです。それでいいのです。よきものを受け入れるためには、空の方がいいのです。大和魂とは、武士の魂のように思われていますが、平安時代は日本化するという意味でした。日本は、外国のものを取り入れることによって発展するようにできているのです。なぜなら日本は女性神の国だからです。
  しかし、日本にはよきものだけが入ってくるわけではありません。悪いものも入り込んできます。昔は海によって隔絶されていたため、貿易・交流を閉鎖することによって容易に閉じることができました。しかし、近代になってそうすることもできず、西欧諸国の思想と貿易の要求によって、西欧化した国づくりをせざるを得ないことになりました。正に民族の危機が訪れたのです。以下に引用した大本教の開祖出口なおさんに神が最初におろしたお筆書き(明治25〈1892〉年旧正月)は、日本民族の危機を切々と訴えています。神が日本の行く末を本当に心配しているのです。しかし残念ながら、日本民族は、神の心配をよそに欧米化の道を盲目的に受容して没落の道を突き進んできたのです。正しかったでしょうか。今の価値観に永続性がありますか。もう後はないことを知るべきです。

出口なおー明治25〈1892〉年旧正月―お筆書き(大本神諭)
 三ぜん世界一同に開く梅の花艮の金神の世に成りたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。日本は神道、神が構わな行けぬ国であるぞよ。外国は獣類の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ眼が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ。是では、国は立ちては行かんから、神が表に現はれて、三千世界の立替へ立直しを致すぞよ。用意を成されよ。この世は全然、新つの世に替へて了ふぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下太平に世を治めて、万古末代続く神国の世に致すぞよ。神の申した事は、一分一厘違はんぞよ。毛筋の横巾ほども間違いは無いぞよ。これが違ふたら、神は此の世に居らんぞよ。
 『東京で仕組を駿河美濃尾張大和玉芝国々に、神の柱を配り岡山』 天理、金光、黒住、妙霊、先走り、とどめに艮の金神が現はれて、世の立替を致すぞよ。世の立替のあるといふ事は、何の神柱にも判りて居れど、何うしたら立替が出来るといふ事は、判りて居らんぞよ。九分九厘までは知らしてあるが、モウ一厘の肝心の事は、判りて居らんぞよ。三千世界の事は、何一とつ判らん事の無い神であるから、淋しく成りたら、綾部の大本へ出て参りて、お話を聞かして頂けば、何も彼も世界一目に見える、神徳を授けるぞよ。
(中略)
 からと日本の戦いがあるぞよ。此いくさは勝ち軍、神が蔭から仕組が致してあるぞよ。神が表に現はれて、日本へ手柄致さすぞよ。露国から始まりて、モウ一と戦があるぞよ。あとは世界の大たたかいで、是から段々判りて来るぞよ。日本は神国、世界を一つに丸めて、一つの王で治めるぞよ。そこへ成る迄には中々骨が折れるなれど、三千年余りての仕組であるから、日本の上に立ちて居れる守護人に、チット判りかけたら、神が力を付けるから、大丈夫であるぞよ。世界の大峠を越すのは、神の申す様に、素直に致して、何んな苦労も致す人民でないと、世界の物事は成就いたさんぞよ。神はくどう気を付けるぞよ。此事判ける御魂は、東から出て来るぞよ。此御方が御出になりたら、全然日の出の守護と成るから、世界中に神徳が光り輝く神世になるぞよ。大将を綾部の高天原の竜門館に、○○さんならん事が出て来るぞよ。中々大事業であれども、昔からの生神の仕組であるから、別条は無いぞよ。
 一旦たたかい治まりても、後の悶着は中々治まらんぞよ。神が表に現はれて、神と学との力競べを致すぞよ。学の世はモウ済みたぞよ。神には勝てんぞよ。

 お筆書きは、弱肉強食の悪魔の世の中が来ようとしていること、このままでは先行きがないこと、終わりの時が来たから神が表に表れて世の中を立て直し、弥勒の世をつくると述べているのです。いつ世の中が立て直されるのでしょうか。大本教では、一人一人が改心するまで苦難が続くと述べています。お筆書きでは、なかなか改心しない人間に神も困り果てています。
 また、明治25年の時点で日清、日露、第一次世界大戦の勃発を予言しています。後日、太平洋戦争の勃発と敗戦も予言されています。実際、太平洋戦争が起きて日本は焼け野原になりました。そして今や第三次世界大戦勃発と人類存亡の危機の下にあります。大本教では、神は世界の洗濯をすると語っていることは、人間がひとりひとり御魂を洗いかえることが必要だ、それなくしては始まらない。ほっておいて弥勒の世が来るとは言っていないのです。間違いを正すことが必要不可欠なのです。
 これから聖書と古事記の記述を通して、神が伝えたかったこと、人間がなすべきことは何か、日本の使命について伝えていくことにします。

既に救世主は地上に生まれ役割を果たして天国に帰られた。救いの道は示されている

 人類歴史の中で、多くの宗教指導者が神の願いにこたえてその時代その時代その場所その場所において人々に多くの救いの恵沢を授けてきました。それは、多くの人々の苦悩を取りのぞき心に安らぎと活力をもたらし、生きる勇気と希望を与えることにありました。信仰は、人間にとってかけがえのないものとして生活に根付いていきました。世界中で神と信仰のない世界はありません。人間は、歴史の中で神のもとに帰るために宗教という準備された階段を一歩ずつ上ってきたのです。
 しかし、科学文明が全盛を極め人間が力を謳歌するようになった現代、人々は神と信仰を疑うようになりました。神と信仰は、必要なものに思われなくなってきたのです。神と信仰は、人間が作り出した妄想ではないかとさえ考えるようになりました。人間は、自らの力によってこの地上に天国が築けると過信するようになったのです。しかし、科学技術が発展した現代においても、人々の中には苦悩はなくならず、この世が対立と抗争に暮れる住みにくい世界であることには変わりはありません。地上を科学技術で快適なものにできると信じていた人たちも、地球環境の悪化の前にたじろぐばかりです。神を不信した人間にとって、この世界の苦悩からの救いは共産主義という社会革命にゆだねられました。神は必要ない立場に追いやられたのです。神はもうその立つべき位置さえもなくしてしまいました。
 しかし共産主義は社会体制を変革するものの、神を否定し人間精神の救いをないがしろにしたため息苦しいものにしかなりませんでした。社会の形をいかに整えたとしても、人間が改革前と同じような自分中心の考えをしている限り、そこに調和ある社会が築かれるはずはありませんでした。社会を無理やりに統治するには、権力による弾圧、粛清という方法しかありません。それは新たな抗争(内部闘争)を引き起こすのです。共産主義という理想を掲げても、体制が出来上がると恐怖社会が現出するのは当然のことなのです。
 人間の心が愛に満たされ正しく清らかなものでない限り地上に天国は訪れません。自分よりも他人のことを心配する、わが身を捨ててでも全体のことを気にかけるという心情がなければ、地上に天国など築けるはずもありません。しかし一人一人の人間はそうなっていません。人間は罪深いのです。罪深いということを自覚するところから天国建設は始まるのです。この地上は、今も苦悩が充満したままなのです。人々に喜びはもたらされてはいません。人々は心を変えてくださる救い主が必要だということに気づかなければいけません。
 人類歴史の中で人間は、この地上の救いは救世主によらなければ難しいと悟り、救世主(再臨主・弥勒)の降臨に託してきたことを思い出してほしいのです。弘法大師空海も、弥勒下生の時には自分も下生して協力すると語ったといわれています。宗教の究極の目的は、この地上に天国浄土を建設することにあるのですが、その鍵は救世主(再臨主・弥勒)の降臨にゆだねられてきたのです。
 降臨する救世主(再臨主・弥勒)には二つの使命があります。一つは、人類歴史の中で拭い去ることのできない罪とされている原罪(罪の根)の贖罪の道を示すこと、そしてもう一つは、地上における家族、氏族、民族、国家という対人関係の修復方法を教えに来ることです。人間は、この地上で生活する時、内外両面にわたってさまざまな対立抗争を繰り返しています。家族の中で、本当に全員が仲の良いかけがえのない家庭があるでしょうか。私たちは、多くの人間関係の苦しみの世界にまみれているのです。救世主は、こうした人間関係の軋轢が生まれた原因とその修復方法を教えに来るのです。この二つの道を信徒たちが実践することによってはじめて、この地上に救いが現実のものとなり、喜びに満ちた地上天国が実現していくのです。
 そんなことはありえないと思うことでしょう。これは、人類歴史にかつてなかった奇跡的な慶事なのですから当然です。黙示録の中にある「子羊の婚姻」は、この救いの姿を象徴的に表しているのです。このような救いが訪れるのですから、人々にとっては喜び以外の何物でもないはずです。しかし、そこに大きな障害があるのです。救いへの道を妨げる力が自らの内に働くのです。自らの内にある悪の力(罪)とは、自分中心の考え方です。人間を誘惑した悪魔(サタン)は、「人間は所詮自分中心の考えをする。だから、その考えに力を貸す」といって邪魔をするのです。自尊心・我が自らを救いへの道から閉じ込めてしまうのです。私と他人を不二のかけがえのない関係にすることを妨げるのです。
 このようなことが起こるため、救世主(再臨主・弥勒)が来られた時、心砕かれ苦悶の中で神を求め救い主を求める環境にある人のほうが幸いなのです。反対に栄耀栄華を謳歌している人は災いとなるのです。救いを必要とせず、神を求めようともしないからです。イエスの言葉、山上の垂訓は、最後の時に処すべき人々の態度を戒めています。

山上の垂訓(マタイ5-3~12)
3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
1 2喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 終末の時は、神の救いに入る人と神から離れていく人に分かれるといわれています。終末というのは、神と今までこの地上の支配権を有している悪魔(サタン)が激突する時なのです。個人から始まり、家族、民族、国家、人類全体が激突する時なのです。この世の支配者である悪魔(サタン)―対立と力による支配―のもとにある人類歴史が終わりを告げ、新しい時代が始まることを意味しています。古き天地が滅び新しき天地が始まるのです。
 「神さまは、“得心さして改心さす”と仰っている。“悪でこの世が続いていくかどうかということをみせてあげる”と仰っている。“渡るだけの橋は渡ってしまわねばミロクの世にならぬ”と仰っている。どうもそうらしい。せめて世界中の半分の人間が、なるほどこれは間違っているということを心の底から気づいてこなくてはダメだ。(出口日出麿)」。どのような形になるかは別として、混乱は避けられないのです。救世主(再臨主・弥勒)の降臨は、この地上に救いをもたらし神の国を実現するという人類歴史を大転換させる事件であり、この慶事を通して人類は新たな時代に踏み出していけるのです。

 しかし、降臨された救世主(再臨主・弥勒)も、やはりイエスの時と同じように虐げられ苦難の人生を歩まれました。既に、救世主(再臨主・弥勒)は、その役割を終え、天上に帰られましたが、どれだけの人がその価値を知っていたことでしょうか。その人生は、イエス・キリストの時と同じように虐げられ迫害を受け、その姿は栄光の主どころか泥まみれの宣教師にしか見えません。それどころか、怪僧ラスプーチンのように世を惑わす怪物として警戒されてしまったのです。その名を知ってはいるがその教えもその活動も知らない。風評だけに左右されて危険なものとして近づこうとしない存在になったのです。人間という存在は、歴史をかけてあれほど救い主を待ち望みながら、時が満ちその待ち望んだ人が来た時、信じることもついていくこともできないのです。それどころか、反対し虐待してその存在を消し去ろうとするのです。
 救世主(再臨主・弥勒)は、虐げられてみじめな末路を迎えるために来られたのではありません。そのようにさせたのは、救世主の行く道を妨げたその時代の人々の信仰や行いのためです。救世主(再臨主・弥勒)の救いを拒否したではありませんか。行くべき道のなくなった救世主には悲しい最期しか残されていなかったのです。イエス様が、迫害する人々に向かって「あなた方は何をしているのかわかっているのか」と慨嘆する場面がありますが、受け入れてもらえないもどかしさ口惜しさを抱えたイエス様の悲痛な心痛がいかばかりであったことかと察します。すべての人を救いに来たのに、人々は罵倒し石を投げつけてくる。そのことがどんな結末を迎えるのか。十字架にかけられたイエス様が、大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れに向かって、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。 不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだと言う日が、いまに来る。」(ルカ23-27~29)と語られます。イエス様の脳裏には、ユダヤ民族の過酷な未来が見えていたのです。
 それでも、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分ではわからないのです」(ルカ23-34)と祈られました。エス様は、十字架の上で、自分を取り囲み、この十字架へと導いた者達を赦してくださるようにというとりなしの祈りをされたのです。
 イエスを十字架につけることについて、民衆は「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい(マタイ27-25)」とピラトにこたえました。ユダヤ人は、自ら選んでイエスを十字架につけたのでした。「イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した(マタイ27-30)」のです。言い訳はできません。自らメシアによる救いを拒否したのです。そのことにより、その後の歴史におけるユダヤ人の過酷な未来はいたしかたないものとなったのです。

 救世主(再臨主・弥勒)もやはり同じような道を歩まれました。人間は何と罪深いのでしょうか。神という究極の愛の主人から遣わされた独り子を無視し不遜な態度を取る姿は見苦しいとしか言えません。名前は知られてはいても、その教えも活動もほとんど理解されていません。人々は警戒し色眼鏡でみて近づこうとさえしませんでした。その結果、イエス様の時と同じように、そして同じように罵倒され、敬遠され、救いの道は閉ざされていったのです。
 しかし、その教えは正しいのです。教えに従って歩むことによって、救いは実感されていきます。救いの道は示されているのです。日が暮れる前に、救いの道を求めることが重要ではないでしょうか。現代は誰もが未来が見えにくくなっています。今の社会の価値観は音を立てて崩れ去ろうとしているのです。救世主(再臨主・弥勒)によって示される新しい天地につながれなければ未来は開かれていかないことに気づいていただきたいものです。

実験で実証された「祈り」の驚くべき効果

 「祈り」が私たち人間の生活に大きな力を発揮して来たことは明らかです。人間は窮地に立たされた時無意識に神に祈ります。私たち人間は、本能的と呼んでもいいくらい祈りという行為を身につけています。古来祈りのない社会はありませんでした。無神論の世界であっても、人間は困り果てると祈り求めているようです。

 「祈り」は、宗教だけの世界のように思っているかもしれませんが、どんな人も祈り求めることがあるでしょう。「祈り」という行為は、宗教という特別な世界のものではなく、普遍的なありふれた人間の行いなのです。人間は、祈ることによって神につながり救いを神に求めることを実践してきたのでした。祈ることを通して救いを実感した人が多いことがこうした習慣を築いてきたといえるでしょう。

 しかし一方では、祈りが本当に人間に不可欠な必要なものであることには疑念をいだく人も少なからず存在したことも事実です。祈ってはいてもその効果を感じず確信を持てないことも多いからです。その場合、いつしか祈ることをやめてしまいます。

 近年、医学の研究として「祈り」という人間の行為が取り上げられてきています。今まで宗教面からだけ論じられてきた「祈り」に科学のメスが入ったのです。その研究によると、「祈り」は明らかに効果をもっていることが証明されています。次のブログより研究結果について紹介します。https://www.88luck.jp/祈りの効果/ 

 ここ数年、アメリカを中心とした先進国の中では、『祈り』というものが新しい視点で大変注目を浴びています。バーバード大学、コロンビア大学デューク大学などの権威ある大学が、こぞって『祈り』の研究を進めているのです。全米120に及ぶ医大のうち、「信仰と医療」問題を取り上げる大学は、2004年には70校を超えるようになったそうです。 
 ハーバード大学のハーバード・ベンソン教授は『祈り』が呼吸数、心拍数、二酸化炭素排出量、酸素消費量の抑制を確かめ、『祈り』がガンや糖尿病、不妊症など病気に効果的に働くこともわかってきました。他にも、1200例以上の『祈り』に関する研究データが次々に確認されていますが、医学と科学、そして宗教を超えたその驚きの研究結果に、世界中の人々が今、『祈り』に関心を高めています。
 信じるか信じないかは別にして、これが1200例以上の事実です。

 

🔲 きっかけになった1988年、元カリフォルニア大学の心臓学教授ランドルフ・ビルドの実験 

実験で実証された『祈り』の驚くべき効果https://matome.naver.jp/odai/2147729808368487601

 1988年、元カリフォルニア大学の心臓学教授ランドルフ・ビルドは、厳密な実験によって、祈りによって大変な治療効果があることを証明しました。実験はサンフランシスコ総合病院のCCU(心臓病集中治療室)に入院中の患者393人を対象に、10ヶ月にわたり行われました。393人の患者はコンピュータにより無作為に分けられ、祈られるグループ192人と祈ってもらわないグループ201人に分け、臨床実験で行われる厳密な基準が適用されました。患者、看護婦、医師も、どのグループにどの患者が入るかを、知らないという厳格さでありました。

 患者のために祈る人たちを全国のカトリックプロテスタント教会、さまざまな宗教グループに呼びかけ、患者のために祈ってもらいました。祈る人には患者のファーストネーム、病名、現在の状況を簡単に知らせ、毎日その患者のために祈るように依頼しました。しかし、祈り方については、なんら指示もありませんでした。患者一人につき祈る人は5人から7人の割合でした。

 結果は衝撃的なものでした。

  • 祈られたグループでは抗生物質を必要とした人は、祈られないグループの6分の1であった。
  • 祈られたグループでは肺気腫になった人が、祈られないグループの3分の1であった。
  • 祈られたグループでは人工気道を確保する気管内挿管を必要とする人はいなかった。一方、祈られないグループでは12人が人工気道を必要とした。

 このように、祈られた患者グループは、祈られないグループに対して、驚くほど良い治療効果を示したのです。

この結果を見て、ウィリャム・ノーラン博士は、「この研究は精査に耐えうるものだ。・・・・・・・ おそらく、われわれ医師は『一日3回祈ること』と処方箋に書くべきなのだろう。祈りは効くのである」と述べたといいます。

 

🔲 ノースキャロライナのデューク大学医学部の調査報告

実験で実証された『祈り』の驚くべき効果

https://matome.naver.jp/odai/2147729808368487601

(出典:祈りによる療法、科学的立証へ向けて本格的な動き

 1986年から1992年にかけ、65歳以上の男女4000人を対象に健康におよぼす祈りの効果を調べた結果、「祈ったり聖書を読んでいる高齢者は、健康で長生きしている」と結論づけた。 メディアがこぞって好奇心の目を向けたのはいうまでもない。対象のほとんどがクリスチャンだった。老人学の専門誌「老人学誌」にも掲載された調査報告によると、6年の調査期間中に亡くなった人の数は、祈らない高齢者の方が約50%も高かった。ただし、祈りの頻度による違いはなかったという。
 ほかにも、「30年間にわたり高血圧患者を対象に行った調査では、教会に行っている人はいかない人よりも血圧が低い」「教会に通う人は通わない人に比べて冠状動脈の病気に罹る率が低い」「信仰心のある人は憂鬱や不安が要因のひとつになっている病気に罹る率が低い」「教会に行かない人の自殺率は通う人に比べ高い」――などの調査報告がある。いずれも祈るという心の作用が健康に影響しているといえるだろう。
 研究者のひとりハロルド・コーニング氏は「祈ることでストレスが解消されている」と説明する。祈りと瞑想のストレス解消のメカニズムはと同じだという。ストレスが高まるとアドレナリンなど体に害をおよぼすホルモンが分泌され、高血圧や免疫力低下を引き起こす。祈りや瞑想は、こういったストレス・ホルモンを抑える脳の化学物質「神経伝達物質」の分泌を促進するため、ストレスを解消するということがわかった。

 

🔲 実験で分かった祈りに関すること

 次のまとめ記事で、どんな祈りが効果が大きいかについてまとめてあります。転載します。参考にしてください。
実験で実証された『祈り』の驚くべき効果

https://matome.naver.jp/odai/2147729808368487601

(出典:祈りの力-インテリジェンスフィールズ)

 10年以上にわたり祈りの効果を客観的に研究しているスピンドリフトという組織があります。そこでは麦の発芽と祈りの関係を実験して、祈りの方や祈りの時間の長さ等々、効果ある「祈りの方法」について調査をしました。

(1)麦の発芽実験で、祈られたグループの種子の方の発芽率がはるかに高かった。(何度実験しても同じであった)。祈りは、発芽に効果があった。

(2)苦しい時ほど『祈り』の効果がある

 発芽しにくいように、麦の種を浸している水に塩分を加える実験で、塩分の濃度を増すほど(ストレスを多く与えるほど)祈りの効果が大きかった。このことから、祈ってもらう人が重い病気であるほど、あるいは、つらい、不幸な境遇にあるときほど、「祈り」の効果が大きいと思われる。

(3)『祈り』の量は『祈り』の効果と比例する

 麦の発芽実験で、祈る時間を2倍にした場合は、発芽率が2倍になった。このことは病人のために祈る場合、時々、祈る場合よりも、いつもその病人のことを思いながら、できるだけ多く、「祈り」の念を送ってあげるほうが病人のためによいといえる。

(4)対象を明確にした祈りが効果的

 祈りが効果を持つためには、誰に対して祈るのか、或いは何に対して祈るかと、はっきり「祈り」の対象を明確にして祈るほど、「祈り」の効果がある。このことから、ただ漠然と祈るよりも、「病気のAさん、Bさん、Cさん、Ⅾさん」と一人一人を意識しながら祈るほうが効果が大きいといえる。

(5)祈りの対象の数が増えても効果は減らない

 種子を用いた実験では、種子の数が多くても少なくても、結果は同じだった。このことから、「祈り」の対象数がいくら増えて、例えば1人の人への祈りであろうと、5人、10人であろうとも、「祈り」の効果は変わらないといえる。

(6)祈りの経験の長い人ほど祈りの効果が大きい

 実験によって、「祈り」の経験の長い人のほうが、浅い人よりも大きな効果を生むということが分かった。よって「困った時の神頼み」で、急に思い立って祈る人よりも、ふだんから神棚や仏壇に向かって「祈り」をしている人の「祈り」のほうが、効果が高いといえる。その意味では、神主や僧侶、神父、牧師の「祈り」の効果は大きいと思われる。

(7)「無指示的な祈り」は、「指示的な祈り」より効果が大きい

 「指示的な祈り」とは、例えば、ガンが治癒すること、苦痛が消えることなど、祈る人が特定の目標やイメージを心に抱いて祈ること。いわば祈る人は宇宙に「こうしてくれ」と注文をつける祈り方である。無視地的な祈りは、何らの結果も想像したり、注文したりせずに、ただ、「最良の結果になってください」とか「神の御心のままにしてください」とかと、宇宙を信じてお任せする祈り方。実験結果では、「指示的な祈り」と「無指示的な祈り」のどちらも効果は上がったが、「無指示的な祈り」のほうが「指示的な祈り」の2倍以上の効果をもたらすことも多かった。

(8)祈りに距離は関係ない

 サンフランシスコ総合病院の心臓病患者に対する祈りに関して、病院から遠い東海岸側からの祈りも、西海岸にあるこの病院に近いグループからの祈りも、距離に関係なく、同様の効果があった。つまり、病院のすぐ側で祈るも、何百キロ離れたところから祈るのも、効果は同じだということです。

救世主(メシア)を迎え入れなかった韓国に悲劇が迫っている

(1)韓国から天運が去っている
 現在の韓国の状況を見ていると、この国はどこに向かおうとしているのかと疑問がわいてくる。日本、米国と同盟を結んで共産圏三国と対峙しているのかと思えば、同盟といいながら同盟関係に亀裂が入りかねないことを平気で行っている。一方で、北朝鮮との統一、民族統一に思い入れが強いあまり、北朝鮮に対して経済協力の提案など不用意に近づいている。それが非常に危険な行為であることにさえ気づいていないようである。
 現在の韓国政権にはもう天の守りがない。国の霊的中心となる宗教界も天の守りをもっていないようである。いわば韓国は漂流しているのである。天の守りを失ったならば、そこに代わりにサタン(悪魔)が侵入するのが人類歴史である。既に韓国内にはあちこちにサタンが入り込んで騒いでいる。そして、とどめを刺すタイミングを見計らっている。
 ここに及んでも韓国国民は、危機を感じないのであろうか。

(2)韓国はサタン(悪魔)に主権を取られて苦難の未来を歩むのか?
 国の主権をサタン(悪魔)に奪われるということは、北朝鮮とその同盟国が韓国に主権を樹立して、韓国国民を収奪していくということを意味する。同一民族なのでそんなことはありえないと安易に考えているであろうが、表面的な問題の背後に神とサタンの主権の奪い合いという問題があることを忘れてはいけない。天の摂理では、韓国に救世主(メシア)を降臨させて韓国民族を一つにまとめて偉大な民族にするという壮大な計画があった。それにもかかわらず、韓国に降臨した救世主(メシア)を韓国国民は受け入れず拒否したために国をサタンに引き渡さざるを得ないという深刻な天の事情が関係しているのである。
 2000年前救世主(メシア)を迎えたユダヤ民族は、メシアであるイエス・キリストを十字架に架けてしまい、ユダヤの王として迎え入れることができなかった。そのことと同じことが起ころうとしているのである。

(3)イエス・キリストを十字架に架けたユダヤ人の末路
 キリスト教では、イエス・キリストが私たちの代わりに十字架に架かることによって人類の罪を背負ってくださった恩恵により私たちは救われたと教えている。確かに、イエスの十字架の代贖によって人類は救われたのだが、イエスを十字架に架けた当事者ユダヤ民族はその罪を償わなければならなかった。それが、イスラエル王国の滅亡とユダヤ民族放浪の2000年を決定づけた原因である。
 ゴルゴダの丘に向かうイエス・キリストは、悲しみ嘆く女たちにこう言われている。
エルサレムの娘たちよ、私のために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日がいまに来る。そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。(ルカ書第23章28~30)」と語られた。
 神の子イエス・キリストを十字架に架けたユダヤ民族は、神の身元からサタン(悪魔)に引き渡されることが決まったのである。イエスの死後40年後の西暦70年、エルサレムローマ帝国との間に起こったユダヤ戦争において陥落する。エルサレム神殿は破壊され、一部の生き残ったユダヤ人もマサダの砦で玉砕する。(エルサレム神殿から持ち去られた財宝によってローマのコロセウムが建設された。) それ以降、1948年のイスラエル建国に至るまで2000年間、ユダヤ民族は国を失い放浪の民として迫害を受け、嘆き悲しむ受難の歴史を歩まざるをえなくなった。歴史は偶然で動いているのではない。

(4)救世主(メシア)とは何か
 人類始祖がサタンの誘惑によって堕落した結果、人類は自らの心の中に自分本位の醜い心を宿すようになり、外面的には対立と抗争を繰り広げ、誰もが苦しみもがく罪悪歴史をつくってきた。宗教は、この人間の置かれている苦悩から逃れる術を探し求めてきたが、人間にはどうすることもできない心の闇(仏教では無明と呼んだ。キリスト教では原罪と呼んだ。) が存在し、サタン(悪魔)が支配していることに気づいた。この闇を取り払うには神が送られると予言されてきた救世主(メシア)によってしか救われないと悟り、救世主(メシア)の出現を待ち望んできた。
 創造主である神は、人類始祖の堕落を悲しみ、悲痛な思いで絶望の淵から人類をサタンの手から取り戻すべく救済の摂理を準備されてきた。聖人・義人・善人を召命して様々な宗教を打ち建てて、彼らの信仰と犠牲を条件にして人類の救済を進めてこられた。残念ながら多くの失敗があったがゆえに、救済の摂理は延長に次ぐ延長を重ねて現在に至っている。人類救済の神の最後の計画は、人類始祖の堕落によって生じた原罪の清算とこの世における神の主権復帰(千年計画)である。人類をサタンから取り戻し苦難の歴史に終止符を打つ人物として救世主(メシア)の降臨を準備された。
 救世主(メシア)の降臨は、神の経綸であるがゆえに世界中の多くの宗教で主唱されてきた。ユダヤ教キリスト教のメシアとして、仏教の弥勒として、儒教の真人として、呼び方は違えども、救世主が降臨して人類と世界を救うといわれてきた。人々は、そこにすべての希望を託してきた。
 そして2000年前実際にユダヤ民族に救世主(メシア)が降臨した。イエス・キリストである。しかし、古代ユダヤ民族はメシアを待望していたにもかかわらず、実際に来たメシアであるイエスを受け入れることができず反対に十字架に架けてしまった。その結果、人類歴史はその後2000年の苦闘の歴史を繰り広げることになった。
 そして現在、韓国民族に同じことが起ころうとしている。韓国に実際に降臨した救世主(メシア)を韓国国民は受け入れることができず拒否したのである。今、韓国情勢が不穏なのは、その報いが始まろうとしているからである。

(5)韓国民族の苦難の歴史は、救世主(メシア)を迎え入れるためにあった
 救世主(メシア)を迎え入れる民族となるためには、民族としての条件が必要である。この条件(基台)が整わなければ、民族の栄光であるメシアを迎え入れることはできない。ユダヤ民族は、救世主(メシア)であるイエスを迎え入れるためにその条件を満たすために苦難の歴史を歩んだのであった。韓国民族も、メシアを迎え入れるために苦難の歴史を歩んできたのである。韓国民族が歩んできた苦難の歴史は、救世主(メシア)を迎え入れるものだったと理解することが重要である。

(5-1)神の心情の対象となる国
 救世主(メシア)を産む民族は、神の悲しい心情の対象となるために、血と汗と涙の道を歩む必要があった。人類始祖の堕落によって人間は神と対立するようになったので、神は子女を失った父母の心情をもって悲しまれながら悪逆無道の人間を救おうとさまよわれ、義人・聖人・そしてメシアであるイエスまで犠牲にしながら、天に反逆する人間を救おうとされてきた。神は、人類始祖の堕落以来一日として悲しみの晴れることもなかったという。
 メシアを迎え入れる民族は、神の心情の対象として立つ善なる神の孝子・孝女として血と汗と涙の路程を歩む民族である必要があった。韓国民族が歩んできた悲惨な歴史路程は、将来メシアを迎え入れるための準備であった。4000年の歴史の中で、何度となく侵略を受けたが、一度も侵略をしたことはなかった。また、韓国民族は、古来より敬天思想が強く、忠・孝・烈を崇敬する民族性をもっている。迫害を受けても苦難にあってもそれを怨むのではなく、「恨」という赦す心情をもって歩んできた。赦しと愛の心情が韓国民族の誇るべきすばらしい民族精神である。

(5-2)メシアの降臨を準備するための日本従属40年期間
 ユダヤ民族は、400年のエジプトでの迫害と苦役期間を経てカナンの地に入って古代イスラエル王国を建設した。それが崩れた後は、バビロン捕囚70年を経てイスラエル王国の再建に臨み、メシアを迎え入れた。苦難の期間を民族的に通過することによって、民族の心情を一つにしてメシアを迎えるためであった。
 韓国民族の場合も同じことが起きた。日本の属国にされたのである。韓国民族の日本への従属は、1905年の乙巳保護条約に始まる。この条約によって、韓国の外交権が日本の外務省に移管・一任された。日本は韓国に統監(後の総督)を置き、必要な地域ごとに理事官を置いて内政に干渉した。韓国の政治、外交、経済の主要部門の権利は剥奪された。1910年韓国を併合した後には韓国民の自由はさえぎられ愛国者は迫害された。1919年キリスト教徒を中心として起きた三・一独立運動の時には多くの国民が迫害された。
 多くの韓国国民は日本の圧政に耐えかねて、故国を捨てて自由を求めて満州の広野に移民し、苦しみながら祖国の解放運動をなした。第二次世界大戦末期には神社参拝まで強要された。この苦しみは、1945年の第二次世界大戦終戦、韓国の解放・光復説まで続いた。その期間がちょうど40年間になる。
 韓国民族が40年にわたる日本の属国になったのには理由がある。メシアを迎え入れるためにサタン分立の苦難の道を通過することが必要だったのである。

(5-3)メシアが韓国に降臨するという予言者の証の存在
 ユダヤ民族は預言者たちの証言によって、将来メシアが王として来て王国を立て、自分たちを救ってくれるであろうと信じていた。キリスト教徒たちもメシアの再臨を待ち望みながら険しい信仰の道を歩んできた。韓国民族も、李朝500年以来、この地に義の王が現れて千年王国を建設し、世界各国の敬愛を受けるようになるという預言(鄭鑑録)を信じる中で、救世主を待ち望んで苦難の歴史路程を歩んできた。韓国に新しい王が現れるというメシア思想なので、時の権力者たちはこの思想を抑圧した。日本の占領時代には、日本の執権者たちは、この思想を抹殺しようとして書籍を焼却するなどの弾圧を加えた。キリスト教が入ってきた後には、キリスト教によってこの思想は迷信として追いやられた。
 韓国民族は、苦悶しつつ待ち望んできた義の王、正道令(神の正しいみ言をもって来られる方という意味)は韓国に再臨される救世主(メシア)の韓国式の名称であった。将来キリスト教ではイエスが再臨されることを、仏教では弥勒仏が、儒教では真人が、天道教では崔水雲が、そして「鄭鑑録」では正道令が顕現すると異なった啓示を受けてきたのである。

(5-4)自由・共産の分断国家に降臨する
 メシアの降臨される国は、自由・共産の分断国家である。現代の世界における神とサタンの対決の最前線は、自由と共産の対決である。(共産主義は、神を否定するがゆえに神の恩讐となっている。)
 メシアが降臨される国は、神のもっとも愛する国であると同時に、サタンが最も憎む国となり、自由と共産が衝突するようになる。この衝突する一線が38度線である。神とサタンの対峙線として供えられた38度線は、自由と共産という二つの世界の対決であるとともに、神とサタンの対決の最前線である。朝鮮動乱で、北側にソ連、中国が加わり、南側に国連加盟の多くの国家が動員されたのは、世界的な神の復帰摂理として韓国を解放することだった。

(6)そして韓国に救世主(メシア)は降臨した
 多くの予言と韓国民族の苦難の歴史路程の上に救世主(キリスト教でいう再臨のメシア)は再臨した。しかし、再臨のメシアはイエス・キリストの時と同様ないがしろにされ、苦難の路程を歩まざるを得なかった。神が準備に準備を重ねてきて送り出した再臨のメシアも、悲運の道しか残されていなかった。再臨のメシアの道は、苦難に耐えて人類を救済することが使命なのだが、苦難に耐えても人々は受け入れなかったのである。
 残念なことに、既に再臨のメシアはこの世から天界へ去って行かれた。もし、再臨のメシアの勝利圏が少しでも残されてないならば、韓国民族は2000年前のユダヤ民族と同じような迫害と苦難の歴史路程を歩まざるを得ないことになる。イエスが、十字架に架けられるとき、「あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」と語られたように、苦難の道が待ち受けている。
 幸いなことに、再臨のメシアは勝利圏を残されてまだ希望が残っている。再臨のメシアの栄光と権能を受け継いでいる教団がある。そこを見出して、再臨のメシアの権能を受け入れることができれば、韓国の未来は大きく転換して道が開けることになるであろう。

(7)再臨主の権能はどこが受け継いでいるのか?鍵は、現在の韓国の大統領の名前と外務大臣の名前にある
 現在の韓国大統領は、文在寅である。そして、外交の中心を担っている外務大臣は康 京和(カン・ギョンファ)である。ここにヒントがある。本来の人物が座ることができなかった場合、偽物が同じような顔をして座るのである。
〔この内容は再臨したメシアが語られたことをベースにしている。〕

関連ブログ(キヴィタス日記)
・ 「ホワイト国から韓国除外」-泥沼の対立の始まりか? 」2019-08-04
・ 「北朝鮮が入り込んで来た時の韓国-人的収奪、経済的収奪が始まる 」2019-08-04

毛沢東の誤算 【毛沢東はなぜ「私は孔子様にはならない。始皇帝になる」といったのか?】

(1)毛沢東の評価(功績70%、誤り30%)
 毛沢東については、「功績70%誤り30%(1981年第11期中央委員会第六回全体会議)」と評価されています。功績70%は、建国の父として人民主導の独立国家を建設したこと、誤り30%は、中華人民共和国建国後の大躍進政策(1958~1961)で数千万人が餓死したこと、政敵を多数粛清したこと、文化大革命(1966~1976)を発動して人民を迫害、財産没収を主導して中国を10年間の混迷に陥れたこととされています。
 中国共産党のこの評価に疑問をもたれる方は多いと思います。しかし、これから述べるように毛沢東の思想と行動を分析するならば、納得できるものでしょう。
 中国共産党が中国統一の主人公となるきっかけとなった大きな事件は、1936年に起きた西安事件です。
 張作霖の長男の張学良が、中国国民党蒋介石・軍事委員長の身柄を拘束した事件です。事件の首謀者張学良は、晩年、中国国民党中国共産党に敗北した原因について、「国民党は中心的な思想をもっていなかったからだ。それに比べて、共産党共産主義思想を信仰にまで高めており、それが革命の原動力になった」と述懐しています。
 それによると、張学良は国民党の方が共産党よりも数倍も強力な軍隊や兵器、さらに資金をもっていたが、結局、国民党が勝てなかったのは、中心的な思想がなかったためで、共産党軍は一種の信仰に近い共産主義思想をもっていたことを評価しています。張学良は後に首相になる周恩来共産党の最高幹部と接するうちに、「共産党は明確な目標があり、理想がある」として、張学良自身も共産主義に共鳴し、思想をともにするようになったといいます。
 これに比べて、国民党は孫文が提唱した三民主義民族主義民権主義民生主義)を党の指導理念としたが、党の指導者が各自自身の利益を優先し、共産主義のように信仰の部分にまで高めることができなかったと分析しています。
 毛沢東中国共産党は、共産主義の思想と理想に燃えて一枚岩になって中国を改革しようとしていたのです。明確な理想がありそれが人々を団結に導いていました。共産党が指導する中華人民共和国はこうして1949年10月1日建国したのです。共産党の思想と理想が現実のものとなりました。建国されると、共産党の主導する社会の共産化が進められました。1950年には、土地改革法が成立して全国で土地の再配分が行われていきました。
 この共産革命が中国にとって中国国民にとって歓迎されるものであったかどうかについては、次の西村肇氏の手記を読めばおのずから理解できると思います。

西村肇の手記 http://jimnishimura.jp/soc_per/chuo_koron/7911/5.html
 「人民公社の食堂にいきなり飛びこんで飯を食べてみた。附近の工場労働者が来る食堂だった。せまいたてこんだ食堂だが、みんなどんぶりにピ一ルをついでゆっくり食事していた。みんな服装は貧しかったけれど、落着いた顔で食事をしていた。みんなの間で食事をしていると、中国では食の問題が一応満足すべきレベルで解決しているのだという感じを深くした。解放前の中国を知っているものにとっては、これは瞠目すべき事実なのである。私は一般の人が毛沢東に感謝する気持が良くわかる気がした。日本流にいえば、毛沢東さまさまという気持であろう。すべての功績は毛沢東にあるとは考えない人でも、人々は毛沢東がいなければ新中国はなかったとゆるぎない確信をもっていた。」
 人々は食の問題を一応解決した毛沢東共産党に感謝しているようだった。解放前に比べて人々は生きていく土台を勝ち得たのであった。このような姿がもたらされたのであるから、功績70%と評価されることは妥当であろう。
 問題は誤り30%です。このことについて論じる前に、毛沢東の思想と心情について少し述べておくことにします。

 

(2)中国理想社会建設の夢
 日本人には、中国社会が理想としてきた大同社会と小康社会というものがあまり理解されていません。しかし、中国においてはその時代時代の革命家、改革者はみなこの理想に影響を受け念頭に置いて改革運動を進めてきました。
 「時代の思想家や革命家はみな、各々天下大同と小康社会に基づく異なった憧れの未来図を提示したし、異なる時代の思想家や政治家は皆影響を受けている。たとえば、洪秀全、康有為、譚嗣同、孫文らは皆その影響を受けた。近代の民主革命家で思想家の孫文の掲げた「民族・民権・民生」の三民主義は、孔子の大同の主張と儒家の民本思想を西洋資産階級の思想と結合したものである。そして中国の社会主義初期段階も、孔子の小康と異なるけれども、小康社会を目標としている。」
(引用文献:孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明翻訳「図説 孔子―生涯と思想」科学出版社東京株式会社 2014 p82~86)
 現代中国の英雄毛沢東も、孔子理想社会の思想に大きな影響を受けています。長沙に出て、湖南第四師範(のちに第一師範と合併)で学んだ時、「第一師範の孔子」と噂される楊昌済という教師と出会いました。毛沢東の回想によると、「楊昌済は、理想主義者で、道徳性の高い人物で、自分の倫理学を非常に強く信じ、学生に正しい、道徳的な有徳な、社会に有用な人物になれという希望を鼓吹した」と言ったそうです。毛沢東は、この教えを聞き、「いささかも自私自利の心のない精神を樹立して、高尚な純粋な道徳をもった人になろう」と手記に記しています。毛沢東は、学生時代に「心の力」という論文を書いているのですが、楊昌済はこの論文を激賞したといいます。毛沢東の最初の妻は、楊昌済先生の娘、楊開慧です。毛沢東は、儒教の教えを受けてこれを土台として毛沢東思想を展開したことを覚えておくことが必要です。
 毛沢東は、共産主義理論(マルクス・レーニン主義)と孔子儒教・大同世界思想を結び付けて毛沢東理論を構築したのです。
 毛沢東の構想した社会は、多くの都市、農村の人民公社によって構成されるものであり、人民公社は分配における平等を実現するために必要な基層組織でした。人民公社は、二つの移行(集団所有制から全民所有制への移行及び労働に応じての分配から必要に応じての分配への移行)を実現するための最もよい形式であり、大であり共有であることはこの二つの移行の実現を有利にするものであり、それは将来の共産主義社会の基層単位となるものであったのです。

 

(3)毛沢東は、神の存在を信じていた
 毛沢東は、共産主義者だから神の存在など全く信じていないと思われていると思います。確かに、表立って神のことを語ったことはないし神様を崇敬しているわけではありません。しかし毛沢東は、1965年1月スノウと会見した時、「神との対面を準備している」と語ったのです。
 毛沢東は、「神との対面を準備している」と語った。「天」への回帰である。紅衛兵の集会に臨んだ毛沢東の横顔には、そうした言葉から連想しがちな、消極的な諦観の影はない。むしろ、どこまでも人間くさく、自分が指導した中国革命の未完の事業を時代の青年たちに、しっかりと引き渡したいという、意志と執念と興奮による輝きと、そしていくらかの疲労も感じられるようである。《竹内実著 「毛沢東伝」毛沢東語録河出書房新社)所収》
 共産主義と神という絶対に相容れない両者を毛沢東は両方とも受容していたのです。驚くべき内容ではないでしょうか。

 

(4)毛沢東思想は、共産主義思想の異端
 毛沢東は、「矛盾論」のなかにおいて、「我々は、全体的な歴史発展の中では、物質的なものが精神的なものを規定し、社会的な存在が社会的な意識を規定することを認めるが、同時に、精神的なものの反作用、社会的存在に対する社会的意識の反作用、経済的土台に対する上部構造の反作用をもまた認めるし、また認めなければならない。これは、唯物論に背くことではなく、まさに、機械的唯物論に陥らずに弁証法唯物論を堅持することである」と記しています。精神的なものが物質的なものを動かすという論点を提示しているのです。これはマルクス主義にはない論点であり、毛沢東思想独自のものです。唯物論だけでなく、控えめながら唯心論をも認めていることになります。この考えの原点は、湖南第四師範学校時代に書いた「体育の研究」という論文(のちの毛沢東思想の原型があるとされている)にあります。「学校の設備、教師の指導、これは外なる客観であって、われわれには内なる主観というものがある。いったい、内において、心に断ずれば体は命令に従うものである。自分が発奮しなければ、外なる客観が善を尽くし美を尽くしても効果をあげることはできない。故に体育を重んじる人は、必ず自ら動くことから始めなければならない」と論じたのです。
 毛沢東思想は、儒教の色彩の強い共産主義だと言えるのです。前置きはこのくらいにして誤り30%に入ることにします。

 

(5)中華人民共和国建国と社会建設(この項Wikipedia)
 1949年10月1日、中華人民共和国は建国されますが、それに先立って臨時憲法が制定されます。
 1949年9月、北京で中国人民政治協商会議が開催され、統一戦線の代表により新しい政権建設についての話し合いが行われ、中華人民共和国の臨時憲法である「中国人民政治協商会議共同綱領」(1949.9.29公布)が定められました。この臨時憲法では、中華人民共和国は「人民民主主義国家」であるとしています。そして、政治と経済の体制には「新民主主義」(綱領第1条)と「国家資本主義」(綱領第31条)を掲げ、「共産党の指導」や「社会主義」といった文言は一切盛り込んでいませんでした。つまり、建国の段階では中華人民共和国中国共産党がめざす「社会主義国家」ではなかったのです。事実、国家元首である中央人民政府主席には毛沢東が、首相である政務院総理には周恩来が就任したものの、中央人民政府副主席6名のうち半数は非共産党員であり、副総理・閣僚級ポストのおよそ半数も非共産党員が占めていました。毛沢東社会主義を「将来の目標」としており、ソ連との関係強化を図っているだけです。
 1950年の全国政治協商会議第2回会議で、社会主義への移行は「かなり遠い将来のこと」と発言し、建国当初、新民主主義社会の建設を目標に「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東だったのですが、1952年9月24日、突如として社会主義への移行を表明しました。急進的に社会主義を導入することに方針転換したことは、周恩来劉少奇など多くの指導者を困惑させました。しかし毛沢東は、かまわず1953年1月よりソ連社会主義計画経済をモデルとした第一次五カ年計画をスタートさせ、農業の集団化などの社会主義化政策を推進していったのです。
 毛沢東は、中華人民共和国を新民主主義国家から社会主義国家に変貌させるために、国家機構の改造にも着手しました。1954年9月、全国政治協商会議に代わる最高権力機関として全国人民代表大会が設置され、9月20日全人代第1回会議において中華人民共和国憲法が正式に制定されました。
 国家主席に就任した毛沢東は、自己に対する反対勢力を粛清していきます。一方で、1956年2月にソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフが行ったスターリン批判に衝撃を受けた毛沢東は、中国共産党に対する党外からの積極的批判を歓迎するという「百花斉放百家争鳴」運動を展開します。しかし、多くの知識人から共産党の独裁化を批判されると、毛はこれを弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄しました。
 1958年には大躍進政策を発動。この大躍進政策は失敗し、発動されてから数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出しました。大躍進政策の失敗は毛沢東の権威を傷つけ、1959年4月27日、毛沢東大躍進政策の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなったのです。
 しかしその後も毛沢東は、密かに権力奪還の機会をうかがい、紅衛兵による文化大革命(1966~1976)を起こし主導したのです。文化大革命は、毛沢東の死去と共に終焉しました。(Wikipedia


6)毛沢東の意図「孔子様にはならない。始皇帝になる。」
 毛沢東は、建国当初穏健な考えを抱いていたようです。その後の粛清ばかりの歩みだけを見るとわからないのですが、当初は異なる考えをもっていたようなのです。
 毛沢東の警護長を務めた李銀橋の回想によると、毛沢東はもっとも金銭を嫌った。毛沢東蒋介石と握手したが、金をにぎることはなかった。毛沢東は延安で金をにぎらず、陝北に転戦した時にも金をにぎらず、北京入城後はさらに金をにぎらなかった」という。毛沢東自身も「やれやれ、かねというものはまったく煩わしいものだ。私が持っていても仕方がない(権延赤「神壇を降りた毛沢東」(雑誌『炎黄子孫』1989年第2号よりの再引)と述べたそうです。
 毛沢東は、「私は孔子様にはならない。始皇帝になる」と語ったと言われます。次の毛沢東の言葉は、始皇帝になる決意をした根拠ではないでしょうか。
「わたしは、現物給与制を行えば人間が怠け、創造や発明をしなくなり、積極性がなくなるなどということは信じない。解放後、全部を賃金制にして等級評定をやったが、かえって多くの問題が生まれた。」
 資本主義復活の危険性を説く毛沢東の不安が、建国後社会主義化を急ぎ不正の摘発・粛清につながったのではないかと考えます。中華人民共和国を建国したものの、周りの人間は我欲にまみれた人間だったのでしょう。そのことに対する解答が「私は穏便な教育者の孔子にはならず、粛清の始皇帝になる。自分の力で世の中を糺す」という決意だったのだと思います。
 毛沢東は、1973年頃外国人客との談話において、「秦の始皇帝は中国封建社会で最初の有名な皇帝である。私も秦の始皇帝である。林彪は私が秦の始皇帝であると非難した。中国は一貫して二派に分かれていた。一派は秦の始皇帝を良いと言う。もう一派は秦の始皇帝を悪いと言う。私は秦の始皇帝に賛成し、孔子様に賛成しない」と述べました。天に頼らず自分の手で、プロレタリア文化大革命を最後まで進めるという決意の表われであるのです。


(7)中国古来の権力闘争を踏襲した毛沢東戦略「破・立」「大乱大治」
 毛沢東は、中国古来の権力闘争と社会変革の歴史から、一つの大きな戦略を実行していきます。毛沢東の思想の「破なければ立なし」「破を押し出せば立はおのずと付いてくる」、「天下の大乱から天下の大治に至る」という考えです。旧いものを打破するためには乱を起こす必要がある。文化大革命はこの考え方に基づく一つの政治闘争、階級闘争であり、それは思想を清め、政治を清め、組織を清め、経済を清めるものであるというものです。修正主義を歩んでいる党と国家の指導的幹部は、通常の方法では打倒できず、天下大乱の情勢をつくり出すことによって逃げ場をなくして初めて打倒できる。このため、毛沢東は乱を恐れず、乱を作り出そうとしたのです。その後「立」をなそうと、党の組織工作、政権機関の工作、労働組合の工作、各種の大衆団体の工作を呼びかける。中心工作に奉仕しようと呼びかけるのだと考えたのです。
 中国の歴史は、古代春秋戦国の時代より破壊と再生の繰り返しであるといわれます。領土の奪い合いから始まり、秦の平定以降は天下の奪い合いでありました。そして奪った後の政治体制は、以前の中央集権の官僚政治ほぼ同じでした。ほとんど変わらないものでした。儒教は、その中で統治の道具として重宝されてきました。儒教は人間を教化することによって世の中を安定させようとするので、中国の指導部の意向に沿う思想でした。
 この中国歴史が、毛沢東の「破」と「立」の理論の根底にあったのでしょう。「乱」と「治」は繰り返してきた。この繰り返しこそが、プロレタリア独裁下での継続革命による共産主義社会への弁証的発展方法と考えていたと考えられます。ただ、他の人には、全く理解できていなかったようです。
 毛沢東は、この上部構造、人間の意識の革命を人間の手によって実現しようとしたのです。7~8年乱を起こして、7~8年安定させるという天下大乱・天下大治の思想は、継続的に困難な状況を作り出して人間を鍛えることによって、人間の意識をはじめとする上部構造を改革して、共産主義に近づけることができると考えていたようなのです。これが、文化大革命を最後まで誤りとして認めず、最後まで推進しようとした理由だと考えます。
 継続革命理論に基づいて展開された文化大革命は、中国社会に大きな爪痕を残しました。人間の意識を始めとした上部構造を改革して共産主義に近づけることができたのかと問えば、多くの疑問が残るのではないでしょうか。

 

(8)「継続革命理論」は、社会主義では理想社会は実現しないと言っているのと同じ
 「百家斉放・百家争鳴」運動の結果生じた党批判を封じ込めるために発動した1957年の反右派闘争を経て、再び階級闘争は重視されるようになっていきます。
 1966年には、毛沢東の「階級闘争を要とする」という「プロレタリア独裁の下での継続革命理論」によって、階級闘争が明確に推進されることになっていきます。すなわち、社会主義社会の中でも階級は存在し、搾取階級と被搾取階級との間に階級闘争も絶えず発生するというものです。絶えず発生する階級闘争は、「破」と「立」、「大乱大治」の戦略によって乗り越えていくとすると、常に社会は混乱の中にあることになり、混乱こそが理想社会を築く方法であるということになります。社会主義社会とは、解放前と同じ闘争の社会であるというのです。
 ここまで記述してきて、おやっと思われないでしょうか。社会主義革命では、理想社会は実現しないといっているのです。人間の意識の改造が必要であり、革命後も引き続き革命を継続する必要があるといっているのです。しかも毛沢東は、意識の改造は神の領域ではなく、人間の指導によって人為的に実現できるとして「大乱大治」を実行したのだと思います。おそらく、毛沢東は頼りにならない神に失望したのでしょう。結果は、文化大革命の結果を見ればあきらかです。文化大革命の混乱は、共産主義化を推進したどころか、多くの憎しみと対立をまき散らしたと言えるのではないでしょうか。

 

(9)「中国が西洋化することによって世界史が完成する
 「中国が西洋化することによって世界史が完成する」。この言葉は、現代の言葉ではありません。記号論理学・微積分学の創案、二進法の考案、エネルギー概念を発表した17世紀の科学者ゴットフリート・ライプニッツの言葉です。ライプニッツの中国を西洋化することによって世界史が完成するという終末論的歴史哲学は、その後、大きな影響力を欧米に残しました。その後ヴォルフ(Wolff),ヴォルテール(Voltaire)、ドルバック(Baron d’ Holbach)などに受け継がれ、中国人が西洋流の自由民主主義を受け入れたら、「歴史の終焉」という文明観まで生まれたのです。
 ライプニッツは、「中国人がもっとも崇高なものとして,理と太極の後に話題にするのは上帝です。そして上帝は天なる王,いやむしろ天を支配する巨大なる精神です。(中略)中国では,キリスト教の神を指すのに通常はこの天主という語を用います。(中略)重要な問題はむしろ上帝が中国人にとって永遠なる実体かもしくは単なる被造物かという点にあります。(中略)上帝と理が同一だとすれば,完全な論拠でもって神に上帝の名を与えることができます。」
 ライプニッツは、中国という国がキリスト教の教えに近い民族性を有しており、中国がキリスト教国家になれば世界がすべてキリスト教の世界になるというキリスト教的世界観に基づいた言葉です。
 しかし、そこに一つの大きな問題・相違点があります。中国思想にはキリスト教でいう「人類始祖の堕落」「サタン」という宗教上の観念がないのです。古代中国神話には悪神が登場しますが、反乱を企てたという悪人というものであって、キリスト教でいうサタンという存在ではありません。それどころか、中国社会の根幹はサタンと同居しているように見える節があるのです。中国神話に出てくる中華民族の祖「伏犠と女媧」は、蛇身人首(頭が人で体が蛇)の姿をしています。キリスト教では堕落した天使サタンは蛇で表徴されます。中国社会は、神とサタンが同居しているといっているようです。実事求是の考えと相まって、中国の統治は権力による人知主義(この世の君)が支配することになるもとのようです。儒教も、そのための道具として利用されてきたのです。この思考が変わらなければ、世界は終焉するという西洋の予感は的を射た指摘であるかもしれません。

 

(10)中国の未来を拓く鍵-メシア(真人)の解明した教えに理想社会建設のカギがある
 毛沢東が生存していた時代、社会統治の方法には始皇帝の弾圧的方法と孔子の教育的方法しか存在しませんでした。毛沢東共産党による新しい中国社会を実現したけれども、人々の意識は解放前と同じで我欲にまみれたままでありました。毛沢東は、人々の意識を変えるために「継続革命理論」という思想を持ち出さざるを得なかったのではないでしょうか。しかし、この考えでは人々の意識が向上するということはできませんでした。革命・闘争では人間の意識の向上は期待できないのです。
 毛沢東が不幸だったのは、毛沢東が生存していた当時はまだメシアの教えが世の中に出ていなかったことです。メシアは、人間の意識の向上を図り世界を一つにする術を神に尋ねながら解明して人類に示しました。
 メシアが示したのは、人類歴史は表面的には人間の対立抗争の歴史にみえるが、対立抗争の背後で神様による復帰の計画が進められてきたことを明かされたことです。それを蕩減復帰といいます。人類始祖は、サタンの誘惑によって堕落しました。(具体的な罪は姦淫です。)この結果、人間は目が開けて自分という観念をもつようになりました。それは、自分と他人という自他の区別の情です。その情は自己に執着する、自分本位に考えやすいという性稟をももたらしたのです。人間は善にも悪にもなる中間的存在になったのです。
 神様は、善にも悪にも相対するようになってしまった人間を善の存在と悪の存在に分立して、善の存在が悪の存在(サタンと配下の悪霊の攻撃)に対抗して勝利することによって、堕落した人間をサタンと悪霊側から取り戻す戦いをしてこられたのです。神様に召命された聖人・義人たちは、神様の願いに応えて懸命にサタンの悪なる攻撃に耐え忍びながら神様を賛美して神様と共に善なる行為を広めてサタンからこの世の支配権を少しずつ取り戻そうとしてきました。しかし、神様が召命した聖人・義人でさえほとんどサタンと悪霊に打たれてしまい、文明が現在のレベルに達するには長い年月がかかってしまいました。
 メシアは、聖書の中に善の存在が悪の存在を屈服させ和解して一体になる神の戦法が記述されていることを解明されました。と同時に、地上の統治権をサタンから奪い返してこられました。メシアの人生は、サタンとのこの世の覇権をかけた闘いだったのです。その道は複雑ですが、メシアの勝利によりこの世の国・民族・氏族の主導権をサタン(この世の君)から神様が奪還する道が開かれたのです。(毛沢東がこのことを知っていたならばと思わざるを得ません)。
 世界は現在混迷の中にあります。中国は経済は成長したけれども、国民を導く道が見えていません。孔子は、「富裕の後は道を教えん」と述べました。人として生きる道を教えることが現代中国に必要な政策です。民主化要求、人権問題が中国社会で問題になっているのは、人として生きる道を指導することが課題であることを示しています。中国政府は、その要求に対して粛清という圧力で臨んでいますが、この方法では混乱を深めるばかりで解決になりません。またこの方法は、この世の君といわれるサタンが混乱を助長して国を疲弊させていくということに気づかないといけません。中国は、サタンという存在を認識するとともに、解決の道はサタンに勝利されたメシアの理論の中にあることに気づくことが大切です。
 中国の善なる勢力がもしこの世の君サタンに勝利されたメシアと統一原理を受け入れることができれば、中国は劇的な変化を迎えるでしょう。1989年のベルリンの壁の崩壊のように、歴史を新しい次元に引き上げるでしょう。中国社会は覚醒して新たな次元に飛躍して、新しい価値観のもとに世界をリードする国となることができるはずです。一方世界は、中国の革新を受けて終末の恐怖から解放されることでしょう。しかしそうできなければ、世界の混乱はさらに深まり、人類は絶望の極に至るでしょう。

 

者の中国思想関連の過去のブログ一覧
筆者ブログ 「キヴィタス日記」
2010年9月16日 中国は、儒教社会主義に向かうかもしれない。
2011年7月27日 文化大革命毛沢東の意図(神への挑戦)
2011年7月27日 今、なぜ文化大革命を考えるのか。
2011年7月27日 文化大革命の展開1―革命前夜
2011年7月27日 文化大革命の展開2-序幕
2011年7月27日 文化大革命の展開3-全国的な全面展開
2011年7月27日 文化大革命の展開4-林彪事件と転機
2011年7月27日 文化大革命の展開5-終幕
2011年7月27日 文化大革命の悲劇と教訓
2011年10月8日 中国でも注目されている渋沢栄一の経済思想
2011年10月28日 他者や制度は信じられない「低信頼社会」の中国
2012年12月4日 2006年中国の論語ブーム「于丹現象」を知っていましたか?
2013年4月21日 【中国の2013年慈善ランキング】報道より
2013年7月1日 中国の反日運動のルーツは、1915年の対華21カ条要求
2013年10月8日 習近平国家主席から中国経済の舵取りを任された劉鶴氏とは?
2013年12月1日 中国人は、やはり現世のみを重視する現実主義者である。(日本人との違い)
2015年9月8日 中国は、アヘン戦争の屈辱を忘れてはいない。
2015年10月23日 〔中国が西洋化することによって世界史が完成する〕という言葉
2015年10月29日 中国で一番尊敬されている経済学者―青木昌彦先生
2018年6月10日 「銭聚人散、銭散人聚(お金が集中すれば人はばらばらになり、お金が分散されれば人は集まる)」

筆者ブログ「ぶっだがやの散歩道」

2012年9月21日 エンゲージド・ブッディズム(人間宗教)と慈済基金
2013年4月7日 都合よく改ざんされた末法思想
2014年7月15日 禅の世界と禅の未来(1)禅の歴史
2015年8月10日 孔子が目指した理想世界
2015年9月20日 孔子の「忠」の思想-「忠」の発生と「忠」思想の歪曲化
2015年9月24日 東洋陰陽思想の核「太極」
2015年9月27日 綿々と続けられてきた中国皇帝の儀式
2015年10月11日  朱子朱熹)の鬼神論(1)
2015年10月11日  朱子朱熹)の鬼神論(2)
2015年11月24日 「易経」が教える循環と苦難への対処(1)
2015年11月24日 「易経」が教える循環と苦難への対処(2)
2016年11月21日 霊界で四大聖人・聖賢の方々がセミナーを開いているそうだ。
霊界からのメッセージ(3)【孔子孟子荀子
2019年2月3日 共産主義では、何故地上天国は実現できないのか?

 

悪霊現象と救い(2)蕩減復帰原則(メシアが解明した神の武具)

 悪霊現象と救い(1)において、悪霊現象とそれがもたらす姿について説明してきました。それでは次に、この地上で人間がサタンと悪霊の術中から神様のもとに戻る道について説明していきましょう。
 救いの道は自動的には訪れません。親鸞聖人の説かれたように、「信ずればたすかる」というだけでも、お釈迦様が説かれたように八正道(正しい思いや正しい行いを行う)を実践するだけでも実現できません。道徳教育は重要ですが、それだけでは問題の全面解決にはならないのです。
 キリスト教は、人類始祖において「堕落」と呼ぶ人間の神様からの離反があったと伝えています。ほとんどの人は、遠い昔の作り話としか思っておられないでしょう。しかし、仏教が教えてきたように、先祖の因果が子孫に報うという因果応報の考えは、ほとんどの人に受け入れられています。先祖の失敗が何らかの仕組みで子孫に引き継がれているということは体験的に感じています。過去の失敗が再現されるということが、人類歴史だけでなく、私たちの家庭や個人においても再現されているのです。
 こうした歴史の失敗が起きた原因は、人間が本来の生き方(神の願い)から外れて罪を犯したということと、それをそそのかしたサタンと悪霊の存在があるためです。人類始祖は、サタンの誘惑によって罪を犯しました。その後の歴史においては、堕落した人間がサタン配下の悪霊となって人間をそそのかしてきました。そこから本来の神様の世界に復帰しようとしてきたのが人類の歴史であり私たちの歩みでした。表面的には人類歴史は人間の対立抗争の歴史であり避けられないものと考えられてきましたが、対立抗争の背後で神様による復帰の計画が進められてきたのです。それを蕩減復帰といいます。人類歴史は長い時間をかけて神様の計画が進んだ分だけ、人倫に配慮した人間社会に進歩することができているのです。(図は、「原理講論」の記述によるものです。)

 

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(1)蕩減復帰原則(メシアが解明した神の武具)とは何か
 『主にあって、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。』(エペソ人への手紙6-10~11)

 神様がサタンと配下の悪霊の攻撃に対抗するために、ひそかに計画された救いの計画が蕩減復帰なのです。人類始祖は、サタンの誘惑によって堕落しました。(具体的な罪は姦淫です。)
 この結果、人間は目が開けて自分という観念をもつようになりました。それは、自分と他人という自他の区別の情です。その情は自己に執着する、自分本位に考えやすいという性稟をもたらしたのです。サタンはこう主張するのです。「人間は所詮自分中心である。神様の言うように、人間は神様のようにすべての人を愛すことはできない」と神様に訴えるのです。サタンの主張はもっともです。お釈迦様でさえ、人間は自己愛があるが故に執着して苦しむと語っているのをみても、問題がいかに根深いかがわかります。我々人間は、とてもサタンの主張を退けるだけのものをもっていない悲しい存在だといえるでしょう。このまま人間が変わることができないならば、自己愛に執着する人間が作り出す世界は今まで同様対立抗争の世界として続くことは避けられません。
 神様はこうした状況の中で、神様を求める義人・聖人・善人を探し出して蕩減復帰という摂理をひそかに計画されたのです。堕落して神様にもサタン(悪霊)にも通じる立場に陥った人間を善悪二つに分けてサタンと対決しようとしてこられたのです。聖人・義人・善人を善なる人間の代表として立ててその人々が神様の願いに応える歩みをなしてくれることを願いました。その歩みは実に難しいものでした。聖人・義人たちは神様の願いに応えて懸命にサタンの悪なる攻撃に耐え忍びながら神様を賛美して善なる行為を繁殖することを通してサタンからこの世の支配権を少しずつ取り戻そうとしてきたのです。これが蕩減復帰であり、蕩減復帰摂理なのです。現在私たちが文明の進歩した世界で生活できるのは、神様の願いに応えて苦難の道を歩んだ聖人・義人の歩みの恩恵によっているところが大きいのです。

 

(2) 蕩減復帰における神とサタンの対決
 『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。』(使徒行伝2-17)

 蕩減とは、人間の立場から見れば神様に私たち人間が犯した罪を棒引きにしてもらうために立てる条件のことを言います。人間が本来の姿から自分の意志で罪を犯したので自分で条件を立て精誠を尽くして復帰することが必要になったために立てなければいけなくなったものです。一方、神様から見れば、善なる人間が立てた条件をもとにして、サタンとその配下の悪霊から人間とこの世の支配権を奪い返すことを企図しています。
 人類歴史は、蕩減復帰というプログラムを通して神様が堕落した人間をサタンと悪霊側から取り戻す戦いをしてきた歴史なのです。ただ残念なのは、今まで人類の蕩減復帰の歴史は、ほとんどサタンと悪霊の勝利に終わっていました。神様が召命した聖人・義人でさえほとんどサタンと悪霊に打たれてしまい、復帰摂理はほぼ水泡に帰してしまいました。文明が現在のレベルに達するには長い長い年月がかかりました。勝利したのは、サタンと悪霊が支配する勢力でした。イエス様も十字架に架けられて亡くならざるを得ませんでした。サタンが主張する堕落人間の本性(自己中心、プライド、物欲)が癌になりました。歴史はサタンが主導してきました。この世は対立抗争の世界のまま続いてきたのです。
 この世を天国にするためには、この世のサタンの支配権を取り除く必要があるのです。この世は、個人、家庭、民族、国家から世界に至るまでサタンと悪霊が中枢を支配しています。どんなに地球環境問題、人類の飢餓問題を論じても遅々として進まないのは、この世の支配権が自分を優先する価値観の人間とサタンのもとにあるからです。善なる人間が堕落した圏内(罪を犯した圏内)から蕩減条件を立ててサタンを追放する条件を立てなければ神様の領域は拡大できないのです。
 身の回りの家庭問題も例外ではありません。今、日本では多くの家庭で家庭問題が起きています。とても多くの人が苦しんでいます。それも理由がわからないので困惑している方が大半ではないでしょうか。
 現在起きている家庭問題は、善なる人が打たれることによって家族を一つにしようとしている蕩減復帰の一コマであることを理解することが必要です。善なる人は、その家庭の歴史的な先祖の失敗の償いとしてサタンと悪霊に攻撃されています。誰かが家庭を代表して苦労を引き受けてくれなければ、過去の失敗を清算することができないのです。残念なことは、苦労を引き受けた善なる人が神様をわかっていないためにサタンと悪霊に対抗できず、サタンと悪霊に翻弄されていることです。対抗する武器をもっていないのです。これでは、サタンと悪霊にしてやられるのは致し方ありません。最終的には完全に飲み込まれていくことになります。
 それに加えて、現在の家庭問題が多岐にわたり広範囲に起きている理由は、「終わりの時にわたしのすべての霊を注ごう」と聖書に書かれている現象が起きているからです。わたしの霊とは、神の救いという意味ではありません。霊界に蓄積されている善悪すべてのエネルギーが地上に降ろされるという意味です。善霊も悪霊も地上のゆかりのある人に協助するために降りてきているのです。善悪が交錯する混乱の時代が訪れているのです。終わりの時には、私の家系の問題も3代前も100代前の問題も一挙に蕩減として降りかかるのです。とても理解できるものではありません。今必要なことは、こうした神様の蕩減復帰摂理を理解して、蕩減条件を立ててサタンと悪霊に立ち向かうことが不可欠なのです。
 また目を社会に向けてみると、現在日本では、第二次世界大戦時に近隣諸国との間で起こした軋轢-慰安婦問題、徴用工問題が蒸し返されています。これも、日本の国としての蕩減復帰として80年前の現象が再現していることであると理解することが重要です。「終わりの時にわたしのすべての霊を注ごう」という聖句は、民族としても国家としても過去の歴史的な軋轢が再現されてきているのです。こうした背景の中で起きている現象ですから、その再現の中で過去の軋轢に反発せず忍耐して甘受することによって、乗り越えることが重要なのです。反発すれば、しこりは子孫に受け継がれることになるのです。いかに犠牲を少なくして乗り越えるかが重要なのです。

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(3) 蕩減復帰原則
 次に、蕩減復帰の原則について説明します。蕩減復帰は、①人間の善悪分立 ②罪の逆の経路を通しての復帰 ③神のもとに条件を立てる の三つの要件があります。


① 人間の善悪分立
 私たち堕落した立場の人間は、誰でも神とも通じる一方、サタン(悪霊)とも通じる立場にあるという中間位置にあります。どちらとも通じ合うことはできるのですが、ほとんどの場合、自分本位の考え方をするのでサタンと悪霊に通じていると考えて間違いありません。現代のように、社会に情報が氾濫していて悪なる誘惑が渦巻いている場合はサタンと悪霊にひかれていく条件がそろっています。神様は、神様を慕う人を探すことから始められました。そういう人がいないと神様が協助できないからなのです。
 神様の蕩減復帰摂理は、人間を善なる存在と悪なる存在に分立することから始まります。人間の一人は神様の側に一人はサタンの側に置く形を取ります。どちらが良いか悪いかということではなく、人間同士の間で罪を犯したので、当人同士で罪を清算するために罪を犯した方と犠牲になった方に分立されるのです。この存在を、人類始祖の物語にちなんで、アベル型人間(犠牲になった人間)とカイン型人間(罪を犯した人間)と言います。アベル型人間は、どちらかといえば従順な人で、カイン型人間は積極的な人です。善なる存在と悪なる存在に分立するのは、このように分立することにより善悪どちらの人間が勝利するかによりその結果を神様がとるかサタンがとるかを決めるのです。神様がとれば、愛と平和がもたらされ、サタンがとれば対立抗争をもたらされるのです。人類歴史は、人類始祖の物語と同じくほとんどの場面でカイン型人間がアベル型人間を力で押さえつけるという結末を迎えるサタン側の勝利となり、対立抗争をもたらしてきました。
 このことは、一人の人間の内部においても行われています。私の心の中は「心ころころ」と言われるように、いつも正しく定まっているわけではありません。善ある決意をすれば神様の方向を向き、悪なる誘惑に心が動けばサタンの方向に向いていきます。だから自分自身が本当に善なる方向に変わっていくためには、善なる条件を立てて自分の心を善の方向に定めなければならないのです。ここに後述する蕩減条件が必要な理由があります。

② 罪の逆の経路を通しての復帰
 仲の良かった二人が何らかのはずみで憎み合うようになった場合、もとの状態に復帰するためにはお互いに謝罪することが普通必要になります。罪を犯した場合、逆の経路で元の状態に復帰するということが鉄則です。二人の間の問題なので二人で解決する必要があるのです。例外はありません。
 蕩減復帰の罪の逆の経路を通しての復帰は、神様の創造の中においてもともと存在した天地創造の授受作用の原理を負荷をかけた形で再創造しようとしているものです。
AとBが月と地球の関係のように互いに支え合う関係であるのが本来の関係であったとしましょう。ところが、何かの原因でけんかをしてAがBに危害を与えたとします。AとBは支え合う関係ながらも、憎しみをもつ関係に変化します。まだかまり、不信感を持ちながら、関係を続けることになります。切ることはできませんので、不信感を低減させるか増大させるかのどちらかになります。もし、AB二人とも我が強ければ、不信感は増大して対立の根は深くなります。しかし、一方が従順ならば、対立は和らぎます。従順な人は、おそらくじっと我慢するでしょう。そうして時が経つ時、危害を加えたAが「お前はいいやつだ」と言って、「これからはお前についていくよ」と言ったとしましょう。そうすれば、AB二人の間の軋轢対立は解消されます。
 神様は、人間をこうしたAB二つの立場において対立を解消しようとしてきたのです。このことが実現できるには、従順な人間が不可欠になることがわかるでしょう。神様は、従順な人間が片方の攻撃を甘んじて受けてくれるだけで対立を終わらせようとするのです。危害を加えた人間は、被害にあった人間に従順に屈服することが必要なのです。残念ながら、危害を加えた側を演じている人は、人類始祖のカインと同様、神様に愛されないことに納得できず、危害を受けた側アベル型人間をないがしろにして押さえつけてきたのが人類歴史でした。
 仏教では、人間の三大因縁として殺傷因縁、色情因縁、財の因縁の三つをあげています。殺傷因縁は、自分のプライドが原因で他人と対立状況に至り、殺りくにまで及ぶ因縁です。家庭内、友人の間で多く見られるものです。人が一つになれない主要な因縁です。色情因縁は、文字通り男女間の問題です。もっとも深い因縁とされており、解決不可能な問題と言われています。そして、財の因縁は財の奪い合いという人類歴史の対立抗争の原因となったものです。どれも代表的な罪です。
 因果応報は、蕩減復帰のことを述べています。少し違いがあると言えば、蕩減条件を立てることにより因果応報を軽減、解消することができるということでしょう。過去の罪を一番いい形で清算するには、誰にも文句を言えない形で罪を背負うことです。病気、破産といった形は憎しみを残すことがなくあきらめに近いので、罪の清算、蕩減復帰としてたびたび登場するのです。

 

③ 神のもとに条件を立てる
 罪を犯した人間が再び本来の位置と状態に復帰するためには、罪を埋めるに足る条件を立てなければなりません。堕落人間がこのような条件を立てて、本然の位置と状態に戻っていくことを「蕩減復帰」といい、立てる条件のことを蕩減条件といいます。
 一人の人間の心の中も、「心ころころ」と言われるように、善悪いつも正しく定まっているわけではありません。善ある決意をすれば神様の方向を向き、悪なる誘惑に心が動けばサタンの方向に向いていきます。だから自分自身が本当に善なる方向に変わっていくためには、善なる条件を立てて自分の心を善の方向に定めなければならないのです。しかし、自分一人で強大な悪なる勢力に立ち向かうことはほとんど不可能です。立ちどころにやられてしまいます。今まで私たちは、悪なる勢力に部分的に勝利した成人・義人の勝利圏を宗教という形で受け継ぎ、その恩恵圏で信仰を神の武具として闘ってきました。そしてメシア降臨の時を迎えて、新たな神の武具をもって闘える時を迎えているのです。メシアは、「君たちがこの世の君サタンに立ち向かえば必ず死ぬ」とまで言われています。この世の平安と幸福を獲得するためにサタンと悪の勢力に対抗するためには、メシアの権能という神の武具をもつことが必要なのです。蕩減条件を神様の前に立てるということは、メシアの権能を振りかざしてサタンと悪なる勢力と闘うということなのです。
 蕩減条件には、縦的蕩減条件と横的蕩減条件があります。
 縦的蕩減条件とは、神様に対する信仰条件です。神の武具で身を固めなさいという言葉は、このことを言っています。神様からくる力だけが対立を解消することができるのです。私たち堕落した人間は、自分中心というサタンの支配する情を抱えてしまっているので、このままでは神様の力を受けることができません。神様の力を受けるための条件が必要なのです。
 「縦的な蕩減条件は、何によって立てなければなりませんか。責任分担完成と神様に対する絶対的な愛の完成、この二つの条件です。このような基準があるのでイエス様も、『わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこやむすめを愛する者は、わたしにふさわしくない』(マタイ10-37)と言われました。この原則から、このような言葉が出てきたのです。」(天聖教P1188)
私たちは神様と世界のために生きることが必要なのです。そして、そのような条件を立てることがまず第一なのです。
 次に、横的蕩減条件とは何でしょうか。横的蕩減条件とは、どんなサタンの迫害にあっても耐え忍ぶということです。イエス様の歩みのように、縦的蕩減条件を立てると、サタンと悪霊が攻撃をかけてきます。神様の懐に行くのですからサタンが迫害してきます。サタンは環境を支配しているので、中傷謀略をしてでもいかなる手段を使ってでも切ってしまおうとするのです。それに対抗することが不可欠です。サタンの支配する世界から逃れるのですから、サタンは逃さまいと攻撃をかけてきます。イエス様でさえ十字架にかかってしまったので、我々が独力で立ち向かうことは不可能です。ですから、メシアの勝利圏と連結して闘うのです。
 「蕩減条件は、責任分担を完遂して神様を愛するものです。サタンがどんなに迫害し、攻撃しても、それを退け、そこに動揺しないとき、サタンが打って打ちまくってそれでも退かないときは、自分が退かなければならないのです。このようにしてサタンを分別するのです。これが決定できなければ蕩減する道はありません。」(天聖教P1187)
わたしの体験からいうと、可能だということができます。そして、この闘いにおいて重要なことは、蕩減復帰原則という仕組みをよく理解すること、もう一つはサタンと悪霊の動きを察知する霊的眼力をもつことです。サタンと悪霊は霊的に襲ってくるので、その攻撃がわからなくては闘うことができません。(悪霊にやられている人は、ある程度その感性を有しているので、サタンと悪霊と闘う能力を持っているのではないでしょうか。)
 次に、蕩減条件を立てて、現在起きている家庭問題(家庭内暴力)にいかに対処するかを少し述べてみましょう。
 今起きている家庭問題の大半は、先祖からの因果応報として再現していると観ていいでしょう。先祖の問題がまとめて起きているので、どの問題かはよくわからない場合が多いのですが、家族全員が関係して立ち向かわないと解決しないことだけは確かです。家庭問題が起きてしまうと、親はおろおろするばかりです。原因も対策も何もないからです。悪霊に翻弄されている場合、対抗する力を注入しないと抜け出すことができませんが、それが何かがわかりません。
 まずしなければいけないことは、神の武具を身につけて(縦的蕩減条件)神様の権能と力を受けることです。神様との関係を築くことです。それには、仕組を知ること、神様との関係を築く条件を立てることの二つです。そしてそれを実践して条件が満ちた時、神の力が入ってくるのです。(それは、どれくらい必要かは神様とサタンの交渉なのでわれわれにはわかりません。)
 そしてもう一つしなければいけないことがあります。暴力をふるう子に対して我慢し耐え忍ぶのです。横的蕩減条件と言われるものです。そうする中で、私の中にあるわだかまりの心情を穏やかにしていくのです。悪霊は、子供を攻撃しながら親の対応を攻撃してきているということを知らないといけません。両方を攻撃してきているのです。ですから、それに対抗するには、反撃するのではなく耐え忍ぶことによって悪霊の攻撃を消していくのです。親子共同作戦が必要なのです。お払いによって一時的に悪霊が出て行っても、親子の対立の情が残っているとすぐに入り込んできます。あまり役に立ちません。
 よくこの子はいい子なのにどうしてと言われますが、いい子というのは先祖の善霊が協助していると考えられます。いい子でないと、過去の罪の清算はできないので先祖は期待しているのです。甘んじて罪の清算という苦労を引き受けるのですから、普通の人にはできません。普通の人ならば、すぐに失敗に終わることでしょう。しかし、その子も耐える限界を越えてしまうと、悪霊に乗り移られてどうしようもなくなり、先祖の罪の再現をするだけになってしまいます。神の武具が不足しているのです。悪霊に抗しきれなくなるのです。こうして家庭は、サタンと悪霊に荒らしまわられて追い詰められていくのです。神の武具を身につけないと対抗できません。次回は蕩減条件の立て方について説明します。

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悪霊現象と救い (1)悪霊現象の仕組み

(1) 悪霊現象と悪霊憑依現象
  悪霊現象というと、悪霊と思しき者が憑依したとしか思えない現象を想像されると思います。突然異言を吐くとか奇怪な行動をする人を見ると、悪霊現象なのかなと思われることでしょう。麻薬をやって人為的に異常な世界に入る人もいますが、それも一つの悪霊現象と言えるでしょう。このような現象は、日常的な姿でないため悪霊現象であると理解している人は多いと思います。
 しかし、どうしてそのような現象が起きるのかとなれば皆目見当がつかない人が多いと思います。現在、社会には悪霊現象かと思われる奇怪な現象があまりにも多いので関心だけは強いのではないでしょうか。悪霊が憑依して心を乗っ取られた場合でも、自分の心は片隅に残っています。しかし、どうすることもできず悪霊のなすがままになすすべなく翻弄されていきます。異常行動を起こした人が「〇〇しろ」という声が聞こえてきてどうしてもそうしなければいけないように思ったと供述していることがありますが、理不尽な犯罪の背後には悪霊の働きが関与しているのです。
 悪霊に憑依されやすい人は、霊界と通じやすい体質をもっている人です。いわゆる霊的能力、霊能者体質です。こうした体質の人は、霊界とコンタクトできやすいので霊界にいるいい人も悪い人もコンタクトしてくるのです。いい人がコンタクトしてくる場合は、素晴らしいひらめきやアドバイスを受け取って自分の力になっていきます。しかし、悪霊にもコンタクトされやすいので注意する必要があるのです。修行を積んだ霊能者といえども注意しなければいけません。霊能者は悪霊に対抗する力を取得して、善霊の協助のもとに悪霊からの救いの役目をなしています。しかし、霊界とコンタクトしやすいという体質は一面危険なものです。自分本位に使用していると、悪霊にやられてしまいます。悪霊には親玉サタンから地縛霊など末端の悪霊までいるので、自分の心が悪に傾けばすぐに悪霊に乗っ取られてしまいます。このため、修行をおろそかにすることは致命傷になりかねません。
 霊能力のない私たちには関係がないと思われるかもしれません。しかし、悪霊現象は皆さんが考えているような特殊な現象だけではありません。我々は日常的に悪霊の攻撃を受けています。我々が悪霊だと感じないのは、異常な形でなく普通の形で入って来ているからです。私たちは、普通に頭が重いとか肩が重いと言っています。こういう時には体が思うように動かず難儀をします。今日は体調が悪いということで処理しています。しかし、人間は本来頭が重いとか肩が重いということはありません。悪霊が来ていない状態では、頭はすっきりして体は軽いのです。そういう状態はほとんどないというならば、もう既に悪霊に入り込まれているといっていいでしょう。
 それが進んでくると、精神的疾患と言われる状態になってくるのです。信仰生活を積み重ねて少しずつ悟りの世界が開けてくると、良くない思いが悪霊を引き寄せてくるのが感じられるようになります。頭が重いとか肩が凝るという状態は本来の姿ではないこともわかってきます。頭はすっきりしていて体は軽いのが普通です。修行を積んだお坊さんが元気なのも、悪霊を屈服させてきたからなのです。

 

(2) 普段の日常生活の中でいつも悪霊は活動している
 では、われわれの日常生活の中で悪霊はどのように活動しているのでしょうか。悪霊と言っても様々な悪霊がいます。悪霊には親玉(サタン)から末端の地縛霊、犯罪者の霊まで多種多様です。神の存在を知っているものから神様のわからないものまで。地縛霊にいたっては死んだことさえ分かっていません。その悪霊の数たるや、人類歴史の期間を考えると、膨大な数いることだけは確かです。親玉サタンは、悪霊の棟梁としてこの世を牛耳っています。(サタンの目的はこの世の支配なので、よほどのことがない限り姿を現すことはありません。)
 それらの悪霊がひとりひとりの人間に入れ代わり立ち代わり日常的に入り込んでいるのです。日々心が変わるのは、入り込んでいる悪霊が変わったからだともいえるのです。
 ちょっとした思いの瞬間、悪霊は入って来ます。私の思い、言動をサタンと配下の悪霊はいつも見つめています。入る条件があるならばいつでも侵入することができます。従って、自分の心を制御できない人は悪霊の思うつぼになります。怒りやすい人、平常心を失いやすい人、落ち込みやすい人、自己顕示欲の強い人、こうした性格の人は気を付けないといけません。自分の感情に踊らされると、それを悪霊がもっていくのです。おお喜びした後、しばらく経って急にさみしくなるのは悪霊があなたの情を奪ったのです。不安な状況に陥れられていくのです。
 自分の心を制しない人は、城壁のない破れた城のようだ。」箴言25-26)
 この聖句は、まさにこのことを言っています。あなたの体は悪霊の出入り自由なお城になっているのです。このような状態ですと、悪霊が必要な時に訪ねてくることができることになります。
 「私はあなたがたにいう。誰でも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(マタイによる福音書5-28)
 この聖句も、誰もがちょっとした瞬間に思う情さえ、おろそかにできないといっています。この瞬間、悪霊が囁いてきてそそのかしたならば、あなたは罪を犯すことになるかもしれません。
 何も知らずに生きているならば、まず悪霊にやられていると思っていいでしょう。イエス様の言葉に「聞いて悟るがよい。口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。(中略) 口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。」(マタイによる福音書15-11~20)
 私たちの日常の思いが具体的な罪を起こす原点であることに気づく必要があります。私たちの周りの環境はあまりにも悪なる誘惑に満ちています。我々は知らず知らずのうちに悪霊にしてやられているといっていいでしょう。あまりにもそのことの重要さに気づかないのは、ささいな当たり前の日常のことなので、悪霊の影響を受けているなど少しも感じていないからです。
 ギャンブルでビギナーズラックという現象がありますね。はじめてギャンブルをした人が偶然大当たりを引き当てるという現象です。一見いいことのように思いますが、このことが引き金になってギャンブルにのめり込んでいき、ギャンブルの虜にされていくことがあります。知らず知らずのうちに私の心を悪霊たちが支配していくのです。当人は、自分で判断したと思っているのでそれが悪霊の仕業であると思うこともありません。気づかれないでその人の心を支配していくのがサタンと悪霊の怖いところです。
 自分本位、プライド、おごり、悲観、邪悪な思い、それらはすべて悪霊の好むものです。平常心を失ってはいけません。厳密にいえば「私」という観念はサタン(悪魔)であるともいえるのです。悪霊の醸し出す波動は、イエス様が見抜いているようにわかるものです。悪霊が入れる条件ができると、いつでも入りたいときに入るようになります。悪霊が侵入権をもったといっていいでしょう。この段階でも表面的には変わりませんので、だれも変だとは気づきません。しかし、この思いがエスカレートしていっていつしか誰の目にもわかるような罪を犯します。
 聖書に次のような言葉があります。
「強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その分捕品を分けるのである。わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。」(ルカによる福音書11-21~23)
 今は大丈夫でも、悪霊の強力な奴が出てきて、私の守り神に打ち勝ったならば、私は悪霊に乗っ取られるのです。さらにイエス様は、神の守りがないならば、悪霊が集団でやって来てひどい状態を創り出すとも言っています。
「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、帰ってみると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである。」(ルカによる福音書11-24~26)
 悪霊の住処になってしまっても、何ら神の防護をしない限り、状態は悪化していくのです。

 

(3) 善霊の業と悪霊の業(善神・悪神とも呼ばれている)
 私たちの思い、言動はすべて神側の善霊とサタン側の悪霊によっていつも見つめられています。この基本的な仕組みがわからないと、私たちは悪霊に対処することはできません。自分の思いで自由に生きているのではないのです。では、どういう仕組みなのでしょうか。
 神と神側にいる善霊たちと天使たちが協助する業が善霊の業であり、サタンとサタン側にいる悪霊たちが協助する業が悪霊の業です。善霊の業と悪霊の業は形としては差異がありません。違いは、悪霊が協助した業は動機が自分中心なので時間が経つにつれて不安と恐怖と利己心を増加せしめ、また健康を害するようになります。反対に、善霊の業は動機が神の御心に適うため時間が経つにつれて平安感と正義感を増進せしめ、健康も向上させていきます。  
 たとえば、祈願して運よく宝くじにあたったとしましょう。普通に考えれば、神様が応援してくださった、ありがたい、良かった良かったと善霊の業と解釈するでしょう。まさか悪霊の仕業であるなどと誰も思わないでしょう。しかし、宝くじに当たったことで、気持ちが大きくなり、有頂天になり、その後の人生が波乱万丈になったとしたら、どうでしょうか。悪霊は、一見良さそうな現象を起こして人間を引き込むのです。宝くじに当たることで、心に変化が起きるのです。自分の心に起きる変化を狙って悪霊は攻撃をしかけているのです。20世紀終わりのバブル経済の時、悪霊は日本人に金こそすべてという価値観を擦り込んで多くの日本人を狂わしてしまいました。
 もう一、二、例を挙げてみましょう。不幸が続き詐欺にまであって大金を失ったとしましょう。不幸の連続は悪霊の仕業には違いありません。周りの人からは、何とお人よしなんだと馬鹿にされて立つ瀬がないでしょう。不運が続くことは悪霊にやられたことに間違いありませんが、不運を耐え忍んで甘受すれば、そこで悪霊の攻撃は止まります。不運を甘受することによって罪を拡散せず罪を止めることになり、その後健康的に運も好転することがあります。わざわいは転じて福になるのです。表面だけで判断してはいけないのです。
 もう一例、家族の関係についてあげてみましょう。子供がいうことを聞かないで親に乱暴ばかりするケースを考えてみましょう。子供が乱暴するのは、悪霊の仕業であることは間違いないでしょう。乱暴をふるう子供は、ただ衝動に駆られてやっているだけでしょう。止めようがありません。自制心を失い、もはや自分で自分を律することができない状態です。完全に悪霊に支配されている悪霊現象です。子供は、自分の力で立ち直る力を既に失っています。(悪霊の力が強烈である場合、子供の心は乗っ取られていきます。) 家庭DVという問題ではこうしたケースが多いのではないでしょうか。
 こうした場合、暴力をふるう悪霊人と親との間で信仰の闘いが始まるのです。よく、「この子は悪いのではありません。この子に加担している悪霊が悪いのです」といって親は子供をかばいます。その通りです。子供の背後にいる霊(多くの場合先祖)が子に乗り移り、悪事を再現しているのです。
 このような場合、親子が一つになって悪霊と闘わないといけないのです。子供だけの問題ではありません。悪霊は、子供と親の関係を突き付けていることに気づかないといけないのです。

 

(4) 人類の救いの歴史-現代の救い
 お釈迦様は、苦の続くこの世の生活から出家して修行を積まれて悟りを開かれました。お釈迦様は、修行を通じて悪魔の挑戦を退け悟りにいたりました。最後の色魔の誘惑は誰もが知るところです。
 悟りを開かれたお釈迦様は、四諦を説かれました。「この世は無常なるがゆえに苦なり」ここにこの世で生きるうえでは、苦から逃れられないというこの世の限界を述べています。だから、この世の苦から完全に逃れるためには出家することが必要だと説かれたのです。在家の人についは、他者への施しと戒(戒め)を守ることを教えます。そうすれば、布施の功徳を積んで悪事をせず、来世は天界に生まれると教えたのでした。
① 苦諦・・・われわれの生存は苦である。一言付け加えるならば、無常なるがゆえに苦なり、である。生・老・病・死が基本的な苦(四苦)である。この四苦に加えて、a愛別離苦、b怨憎会苦、c求不得苦、d五陰盛苦(物質界と精神界の一切の事物・現象が苦である)。ここから四苦八苦という成句ができた。
② 集諦(じったい)・・・苦の原因に関する真理である。自己愛があるが故に執着するのであり、苦しむのである。a欲愛(感覚的・物質的な欲望)、b有愛(来世の幸福を願う欲望)、c無有愛(死後の世界の虚無を願う気持ち)
③ 滅諦・・・原因の滅に関する真理である。医学の方法によく似ている。
④ 道諦・・・方法に関する真理である。治療の段階である。八正道(実践)を教えられている。a正見、b正思惟、c正語、d正業、e正命(正しい生活)、f正精進、g正念(教えを忘れないこと)、h正定(精神の集中と解放)
*八正道の教えは、基本的に出家者に対する教えである。

 お釈迦様の教えは、当時の人々の灯明となりました。しかし当時の時代圏では、出家という方法が不可欠で、この世で心に平安を保ち幸せを得ることには限界がありました。それゆえに、この世での救いは後の仏と呼ばれる弥勒の降臨に希望を託さざるをえなかったのです。キリスト教でも、イエス様の十字架をもってしてもこの世の救いは完全には実現されなかったため、再臨主の降臨に引き継がれました。世の東西両洋でメシア降臨が期待され続けられてきたのです。メシアが降臨されるとき、この地上で私たち人類ははじめて救われると信じられてきたのです。弘法大師空海も、弥勒降臨の時には私も降臨して協力すると述べています。
 悪魔の領袖サタンは、この世の君と言われます。メシア降臨の終末の時、この世の支配者であるサタン(悪魔)のもとにある人類歴史が終わりを告げ、新しい時代が始まると言われてきました。そして、終末に降臨すると予言されていたメシアは現実に来られてサタン(悪魔)との壮絶な闘い(愛と忍耐の闘い)に勝利されて私たちに救いの道をもたらして下さいました。私たちは今、メシアにつながることによって、この地上においてこの世の主サタン(悪魔)から逃れて神のもとに戻る道が開かれたのです。わかりやすくいえば、この地上に地上天国を築く道筋が開かれたのです。
 現在悪霊現象が頻発しているのは、地上にメシアの救いがもたらされる時が来たために、その恩恵に浴しようと善霊人、悪霊人がこぞって霊界から降りてきているのです。いい人が苦労したり悪霊現象に悩まされたりしているのは、こうした背景があるからなのです。霊界にいる霊人たちも、地上にいる縁ある人(子孫が多い)がメシアにつながることを期待しているのです。メシアの価値を分かっている霊人はあまりいないと思いますが、協助している地上人がメシアにつながるならば喜び、無視するならばがっかりしていることでしょう。そして、メシアと関係がもてないならば救いは先延ばしされてしまうのです。
 既に、メシア以降の千年王国時代は出発しています。しかし、その恩恵にあなた自身が浴するのか否かは、あなたの価値観と生き方次第です。今までこの世を牛耳ってきたサタンの価値観にとらわれるならば、サタンと共に滅ぶ運命にいたるでしょう。反対に、神様のもとに帰ることを選択するならば、希望の未来が切り開かれていくことでしょう。しかし、神様のもとに戻る道は、自らの中に侵入しているサタンと悪霊の条件を払しょくすることなくしては現実のものとなりません。すべては人間次第です。おそらくほとんどの人がいままでの価値観のもとにとどまるでしょう。その場合、人類に大きな悲劇が来ることは避けられないものとなります。