精神疾患の背後にある否定的な潜在意識とヒーリング

 精神疾患は、うつ状態になって黙り込んだりマイナス思考に落ちいったり、そう状態になって陽気にはしゃぎすぎたり支離滅裂になったりとさまざまな症状を示します。その多くは、いまだその原因を突き止められていません。しかも、それぞれの精神疾患には多様な症状があるので、一律にその原因を指摘することもできません。ここでは、今までの宗教並びに精神医学、臨床医学スピリチュアリズム(心霊科学)の研究成果を踏まえて克服する道を探ってみたいと思います(ひと言、私は医師ではないことをお断りしておきます)。

 精神疾患を考えるとき、どんなに健全な人でも精神疾患を起こすということをまず心得ておくことが重要です。臨済禅の中興の祖である白隠禅師も、修行中禅病(瞑想をしていると頭痛がしたり、神経過敏になったりと体調が悪くなる)といわれるうつ病になり、内観法によって克服したといわれています(本人がメモに残しています)。

 

 (1) 潜在記憶とヒーリング

  精神疾患の症状の背後には、患者の潜在記憶が大きな影響を与えているということが分かってきています。鈴木重裕氏の論文から取り上げてみます。

  最近の多くのエピジェネティックスなDNA研究によると、潜在記憶が人間の言動や行動に多大の影響を与えている、ということが明らかになってきた(Tonegawa, 1987; Reik & Walter, 2001; Surani, 2001)。うつ病統合失調症、双極性感情障害を始めとする多くの精神疾患の発症にエピジェネティックスな DNA の変化が指摘されてきている (Kato, 2009; Gregory et.al, 2009)。つまり、先祖から伝わる後天的な心理的要素(ストレスや情動)などの膨大な量の否定的な「潜在記憶」が、DNA を通じて私たちの潜在意識の中に存在しており、その影響は確実に世代を越えて受け継がれているのである (Suzuki, 2009)。この否定的な潜在記憶が生活習慣や対人関係などを含む環境的側面や、性格、気質、体質などの遺伝的素因も関与して人間の否定的な言動や行動を引き起こし、人間に備えられた崇高な価値を見失わせる要因になっているのである。

 あらゆる病気を根源的な観点から医学的に解決するためには、この「否定的な潜在記憶」を解放し消去することが重要であり、その治療的プロセスはヒーリング(癒 し)によってなされることがわかっている。

 ヒーリング(癒し)はどのようにして起こるのであろうか?ヒーリングには「マグネティック・ヒーリング(生体磁気治療:手かざし療法)」と「スピリッチュアル・ヒーリング(祈りによるヒーリング)」の二つがある。ヒーリング・エネルギーの観点から 言えば、前者の作用は肉身の肉体/エーテルレベルの調整に関わっている傾向があり、 治療はヒーラーが患者に手を接近させる形で行われる (Krieger, 1979; Burke, 1980)。 それに対して後者は、肉身の肉体/エーテルレベルで作用するだけではなく、霊人体のアストラルレベル、メンタルレベル、そしてさらに高次のコーザルレベルの機能障害をも調整する。その上、「スピリッチュアル・ヒーリング」は患者がそばにいなくても可 能であり、ヒーラーと患者の間に膨大な距離の隔たりがあっても可能である。

 「スピリッチュアル・ヒーリング」は病気の根治的な治療を目指しており、微細な身体やチャクラのような高次エネルギーレベルに働きかけることを目標としている。スピリッチュアル・ヒーラーは様々な周波数に対応できる電源のように、同時に数段階のレベルのエネルギーを患者に注入する。言い換えると、ほとんどのマグネティック・ヒーラーが物質的身体的レベルのみの治療を行っているのに対し、スピリッチュアル・ヒーラーは心と霊の多数のレベルにも同様に働きかけているのである (Wallace & Henkin, 1978)

 祈りによるヒーリングの治療的効果を最大限に引き出すためには何が必要なのだろうか?それを解決するためのヒントは、潜在意識、脳、顕在意識の繋がりにある。つまり、狭義の祈りとしての顕在意識が、習慣と情動によって、「祈りに満ちた心」としての潜在意識にスムーズに刻み込まれるかどうかが鍵なのである。すなわち、潜在意識、脳、顕在意識が一体化すれば、「祈り(狭義)」と「祈りに満ちた心」が相補的関係になり、共鳴し合い、西洋と東洋の心情が和合・統一された「真の祈り」による「真のヒーリング」が実現されるであろう。

* “統一医学のグローバルな展開” ~治療的ヒーリングの観点から

高知大学医学部臨床教授 医療法人社団真愛会 札幌ファミリークリニック 理事長 鈴木重裕

http://www.utitokyo.sakura.ne.jp/uti-index-gaiyou01-symposium01-schedule01-jk-professor-07-suzuki-shigehiro01.pdf

 

(2)現代の脳科学研究の状況と治療

  現代の脳科学の研究と精神疾患に対する治療にはさまざまな方法が試みられています。一例として認知症に対する治療を見てみると、次のような治療がなされています。① 回想法

本人の楽しかった記憶を呼び起こしながら、心の安定を図る方法。

具体的には、楽しかった思い出の写真やビデオを見せて思い出を思い起こし語ってもらう。話すことで気分が高まり、穏やかな気持ちになるという。

② 作業療法

家庭内で役割を作ることによって体と精神の両方から脳を刺激する。家族のためになることは、大きな満足につながる。

③ 美術療法

絵画や折り紙を作る療法です。五感を刺激することによって脳を刺激します。手先を動かすことはとても重要です。判断力や理解力を向上させます。

④ 音楽療法

音楽に合わせて手をたたいたり歌ったりすることで、脳を活性化することができます。特に、太鼓は心臓の音とリンクするので、身体機能、脳の活性化に役立つとされています。

⑤ 園芸療法

観葉植物などを育てることです。また、動物と触れ合うこともこの中に入ります。毎日育っていくものを観察し触れ合うことで、心が楽しくなります。

⑥ 体操

軽い体操をすることによって、心身をリラックスさせます。

⑦ アロマ療法

アロマによる鎮静作用で、不安やストレス、緊張などで疲れた心を癒し、リラックスすることができます。

 こうした臨床療法は、体や心をリラックスさせることによって、脳の活動を活性化させようとするものです。①の回想法は、過去の楽しい体験を呼び起こすことで、正常な心の状態を取り戻そうとするものです。こうした治療方法が効果をもたらすものであることは、経験的にわかっています。

 また、脳の活動が鈍っている所に電極を埋めたりして電気的刺激を与えて、その部分の脳の活動を活発化させて症状を改善させようとする試みもなされています。(パーキンソン病の治療では行われているようです)。

 こうした臨床治療やマグネティックな生体治療は、全面的ではないとしても効果のある治療法であることは確かです。

 理化学研究所利根川進センター長を中心とする研究チームは、マウス実験によって、うつ状態を示すマウスに楽しかった過去の記憶を人工的に思い出させることによってうつ状態が改善されるという研究結果を発表しています。 http://www.riken.jp/pr/press/2015/20150618_1/

【光遺伝学によってマウスのうつ状態を改善ー楽しかった記憶を光で活性化―(2015年6月18日理化学研究所)】

 理化学研究所理研脳科学総合研究センター 理研-MIT神経回路遺伝学研究センターの利根川進センター長、スティーブ・ラミレス大学院生らの研究チームは、光遺伝学(1)を利用してうつ様行動を示すマウスの海馬の神経細胞の活動を操作して、過去の楽しい記憶を活性化することで、うつ様行動を改善させることに成功している。

(1)光遺伝学:光感受性タンパク質を、遺伝学を用いて特定の神経細胞群に発現させ、その神経細胞群に局所的に光を当てて活性化させたり、抑制したりする技術。

 研究チームは、オスのマウスにメスのマウスと一緒に過ごすという楽しい体験をさせ、その時に活動した海馬の歯状回の神経細胞を遺伝学的手法により標識しました。この技術を用いると、楽しい体験で活性化された海馬歯状回の神経細胞でだけ、チャネルロドプシン2(ChR2)と呼ばれる、光をあてると神経活動を活性化させることができる特殊なタンパク質が作られます。

 次に、そのオスのマウスに体を固定する慢性ストレスを与えて、「嫌な刺激を回避する行動が減る」「本来なら好む甘い砂糖水を好まなくなる」といったうつ様行動が、実際に引き起こされることを確認しました。驚いたことに、この「うつ状態」のマウスにおいて、楽しい体験の記憶として標識された海馬歯状回の神経細胞群に光をあてて人工的に活性化したところ、「嫌な刺激を回避する行動が再び見られる」「砂糖水を再び好むようになる」といったうつ状態の改善がみられました。

 さらに調べると、このうつ状態の改善は、海馬歯状回から扁桃体基底外側部を通り、側坐核の外側の殻であるシェルと呼ばれる領域へとつながる回路の活動によるものであることがわかりました。扁桃体は「恐怖」「喜び」といった情動の記憶に関わる領域であり、側坐核はやる気や意欲、さらに報酬をもらった時に感じる喜びなどと関連する領域だと考えられています。したがって、この結果はメスのマウスと一緒にいるという楽しい体験の最中に実際に感じた喜びの記憶や感覚などが細部まで呼び覚まされて、症状の改善につながっていることを示唆しています。

 研究は、楽しい体験の際に活動した神経細胞群を活性化し、楽しい記憶を人工的に思いださせることで、うつ状態が改善することを初めて示しました。

 

 (3)遺伝的障害による精神疾患

 すべての精神疾患が臨床治療、マグネティックな生体治療で治るとは限りません。ASD(自閉症スペクトラムアスペルガー症候群)と呼ばれる精神疾患群は、遺伝に基づく先天的な疾患であると考えられています。ウェンデイ・チャンが、TEDで2014年(「自閉症―分かっていることと、まだ分かっていないこと)で語った講演の内容を伝えます。

【すべてのASD自閉症スペクトラムアスペルガー症候群)について】

 自閉症は、先天的な脳の機能障害であるとされています。自閉症を引き起こす遺伝子は、200から400あると考えられています。これらの遺伝子は、無作為に存在しているのではなく、実際には結びついて回路が形成されています。治療法はないとされています。遺伝子が1つの要因であることを理解する方法の1つは、一致率と呼ばれるものを見てみることです。一致率を見た時に印象的な点の1つは、一卵性双生児では一致率が77%であることです。非常に顕著ではありますが、100%ではないのです。 遺伝子は、自閉症となるリスクの全てではないもののその大部分を説明できます。なぜなら二卵性双生児の場合だと 一致率はたった31%になるからです。

 ASDには、周辺症状への緩和の薬はあるものの、まだ根源的な部分を解消する薬はまだ開発されていません。脳内神経物質として働くオキシトシンを投与して改善を図る試みがなされているが、効果は未知数。(オキシトシンが分泌されると、幸福感をもたらす。)(ウェンデイ・チャンat TED 2014「自閉症―分かっていることと、まだ分かっていないこと」)

 

 ASDと呼ばれる精神疾患には遺伝子が一つの要因として作用していることが明らかなのですが、遺伝子と疾患がどのような関係性をもって回路を形成しているのかはわかっていません。また、それぞれの遺伝子の働きもよくわかっていません。遺伝子の変異がどうして起きたのかもわかっていませんし、遺伝子を元の状態に修復することがいいのかどうかもわかりません。ひょっとすると、変異している遺伝子は、霊的感性に関与している可能性もあるとも考えられるのです。

 

 (4)スピリチュアル・ヒーリング

  遺伝子が生命の根源であり、生命のすべてを決定しているという唯物論の立場に立つならば、スピリチュアル・ヒーリングはまったく意味がありません。その場合、遺伝子を修復することですべては解決されるはずです。しかし、多くの人は肉体を超えた霊の世界が存在することをうすうす感じています。そうでなければ、先祖供養などはまったく無用のものとなるでしょう。

 スピリチュアル・ヒーリングが有効であるか否かを理解するためには、人間の人体構造についての理解が欠かせません。

 スピリチュアリズム(心霊科学)では、人体は霊体(霊人体)、霊の心、肉体、肉の心(本能)によって構成されているとされています。そして、それぞれの間をエネルギーが行き来しています。宗教的力(エネルギー)というものは、霊の心あるいは霊体から肉体にもたらされているものです。その力(エネルギー)の存在を前提にすると、スピリチュアル・ヒーリングは極めて有効なものであることになります。

 ただ、この仕組みの中で、遺伝子がどのような役割をはたしているかは全く分かっていません。今後の研究にゆだねる問題です。

 次に、スピリチュアル・ヒーリングによる精神疾患治療についてまとめてみます。スピリチュアル・ヒーリングとは、肉体に触れずにオーラによって癒したり遠隔によって直すものであります。祈りのエネルギーと呼べば分かりやすいのではないでしょうか。

 スピリチュアル・ヒーリングでは必ず霊、精神(霊の心)、霊の体、肉体のいずれかの領域でプラスの影響力がもたらされ、活性化されます。その意味では、治癒率は100%ですが、肉体の治癒に至るまでにはまず先に霊レベル、精神レベル、霊体レベルの癒しが実現していないといけません。

 スピリチュアル・ヒーリングの治療効果は、ヒーラーの霊的能力よりも患者サイドの条件(霊的成長度、カルマの程度、霊体と肉体の質、生活習慣、環境など)によって多くが決定されます。こうしたスピリチュアル・ヒーリングの大原則があるので、ヒーラーに過大な期待をすることは間違いなのです。

 前世のカルマによって生じている病気は、どんな治療法によっても治すことはできません。前世のカルマがあると、「霊的エネルギーの取り入れ口(魂の窓)」に制限が加えられ、これが原因になって肉体次元に病気が生じるようになるのです。

 カルマによる病気の苦しみは、それを通して前世の悪行を償うために、摂理の働きによって引き起こされる現象です。「因果律(因果応報)」という神の摂理によって展開される宇宙の営みの一つです。したがって、カルマを償った状態にならない限り、病気は治らないようになっているのです。(前世のカルマによる病気を抱えている人は想像以上に多い。)苦しみの体験を通して「霊」が浄化され、「魂の窓」が開かれる準備が完了すると、病気が治る時期を迎えるのです。そうすると、摂理の働きによってスピリチュアル・ヒーリングを受けるチャンスが訪れ、「霊的エネルギー循環システム」が一気に正常化され、病気は奇跡的に治されることになるのです。

http://spiritualhealing-volunteer.jp/healing/outcome/oc-2.html

 

  スピリチュアル・ヒーリングでは、最も優れた祈りによるヒーリング専門のヒーラーの手によっても、一般的にはせいぜい 20%の確率でしか成功しないといわれます。歴史上には、エドガ-・ケーシーなど有名なヒーラーがいますが、その中で歴史上最高のスピリチュアル・ヒーラーとして世界中の人々から尊敬を集めたのがハリー・エドワーズ(1893~1976)です。ハリー・エドワーズの治療の結果は、効果が認められたケースが80%、完治したケースが30%でした。また、鈴木重裕氏が報告されている某団体のスピリチュアル・ヒーリング役事での総合的・統一的に行われる霊性治療の改善率は約 77%であるそうです。この数字は驚異的であります。

 最後に、鈴木重裕氏は、次のようにも言われています。人間には、自己中心の「自体自覚」を引き起こす傲慢な潜在記憶に満ち溢れています。「私」は罪人であるという現実を知ることが必要であり、自分を罪人と認めたとき、自己への執着から解放されるのである、と。

 精神疾患について、どこに原因があるのかどうすれば治るのか、糸口が見つかったならば幸いです。

摂理として働く神とサタン (2)神とサタンの基台の奪い合い

1、神の摂理と基台

 宇宙は、単なる容器にすぎないと考えている人であっても、根源に見えない力が存在して作用しているのではないかと考えておられる人は多いのではないでしょうか。その根源の力を神、究極の力(意思)と呼ぶのです。

 今まで人間は、神とは人間のように一つの意思ある存在(人格身)としてとらえてきました。人間に奇跡をもたらし、啓示をおろして人々を導く存在として考えてきました。その御方が神自体かそれとも神の代身なのか知る由もなかったが、人間は一括りにして神と呼んできました。

 しかし、科学が発達し、一方においてスウェーデンボルグシルバーバーチなどによってスピリチュアリズム(心霊科学)が進展するにつれ、神を人格神としてとらえることに無理が生じてきました。ブログ「神と霊界の存在形態<神はいかなる御方か、そして霊界は>」(2016/6/25)において記したように、私たちの現実世界の背後には霊的世界が存在し、霊的世界は人間の霊と霊的世界だけの存在である霊的実体(キリスト教でいう天使と万物)によって構成されているとおぼろげながらわかりかけてきました。霊的世界は、想念の世界なので現実世界のように時間空間に縛られていません。また、霊的世界は単独で存在しているのではなく、霊的世界で生じた想念は一人一人の人間を通じて現実世界に作用していることもわかってきました。我々人間は地上での生活を終えると、霊的世界に旅立ち、また霊的世界から地上世界に生まれ変わりというような形で戻ってくることもわかってきました。仏教でいわれてきた縁の世界は、霊的世界を理解するようになってだいぶ分かりやすくなってきたのです。

 このような姿がわかってきて、神は霊的世界に一つの意思ある存在(人格神)として存在しているのではなく、霊的世界の更に背後に存在して、霊的世界の善霊を通じて現実世界に力を及ぼしているようだと理解されてきたのです。

 神の摂理とは、霊的世界の背後に存在する無形の神が現実世界に働きかけるにあたっての時間空間的展開の形なのです。そこに神が姿をあらわす時間的法則、空間的法則が存在するのです。歴史においてしばしば現れる歴史の繰り返し現象や占い(易)で予言として語られる現象は、摂理的展開として現実世界に現れる事象を過去の経験から導き出してきたものなのです。

 

 2 サタンの介在と摂理

 神の摂理だけが作用しているのであれば、現実世界は宇宙のように整然とした秩序に満たされた世界になったはずです。しかし、現実の地上世界は苦に満ちた住みにくい闘争の世界であります。その根源は、すべての宗教が語っているように、我々人間の心に問題があり(仏教では煩悩と呼んでいる。キリスト教では罪と呼んでいる)、人々を対立と闘争に向かわしめていることにあるのです。すべての宗教は、そこから脱却する道を必死に探求してきました。それがどんなに大変なことか、宗教がこのことに費やしたエネルギーを考えればわかると思います。

 お釈迦様は、悟りに至る最後の段階で色魔の誘惑を受けます。この色魔は単なる妄想だけなのか、それと実体ある存在なのか、疑問に思われている方も多いと思います。聖書の創世記には、天使長ルシファーがイブを誘惑して堕落させたことにより地に落とされサタンになったと記されています。キリスト教は、霊的実体としてサタン(悪なる力)の存在を認めています。

 妄想は単なる思いだけなのか、それともそれ以上のものなのか。霊的感覚のある人ならば、霊的世界にいる霊的存在としての人間(幽霊など)あるいは天使その他の存在を感覚的に感じると思います。そして、霊的存在から何らかの波動を受けると実感しておられるでしょう。私たちは、霊的存在から影響を受けているのです。霊的スポットといわれる場所は、霊的波動を強力に発している所です。非業の死者を多く出した場所は重々しく、聖なる神社、教会はすがすがしいのです。人間の妄想に霊的存在の力が加わると、妄想は制御できないくらい強力になって人間を苦しめることになるのです。

 人間の堕落と原罪という人類始祖の物語は、このことが分からないと絵空事になってしまうのです。人類始祖を堕落させた存在、霊的存在であるサタンは、神に反抗するもう一つの主人として、人間とは自分中心的な存在であると主張して、自分の配下に組み込もうとしているのです。サタン(悪なる力)とその配下の悪霊団は、神が摂理を通して働くように神の摂理を利用して働くのです。神とサタンは、摂理という時間空間に作用する法則を通じて対峙しているのです。

 摂理の時というのは、神とサタン(悪魔)の双方が領有権を争う瞬間であり、人間が神を選択するかサタン(悪なる力)を選択するかの時なのです。サタン(悪なる力)は、人間は自分中心の存在であると主張し、神は人間は利他愛に満ちた存在であると主張するのです。選択の主権は、人間にゆだねられているのですが、いつも人間はサタンの主張通りの選択をしてきたのです。歴史は、ほとんどサタン(悪の力)の勝利で終わってきたのです。それゆえ、この世界から苦しみも対立も闘争もなくなることはありませんでした。

 神は、そうした中で数少ない神の勝利圏(義人聖人の信仰の勝利)を土台にして人間を救う摂理をされてきたのです。

 

 3、神の基台醸成とサタンの基台つぶし

3-1、個人基台(自灯明)

 「自らを灯明として生きなさい(自灯明)」。この言葉は、お釈迦様が最後に言い残された言葉です。自分自身を拠り所として、世を照らす光となって生きなさいという意味です。

 人間誰もが、自らの中に森羅万象、宇宙とつながる唯一の存在としてのすばらしい自我を有しています。お釈迦様は、それを「天上天下唯我独尊」と呼ばれました。誰もが自分の中にかけがえのない灯明を持っています。それを発見することこそが自分の人生なのです。それを発見し、その道を懸命に歩むことがここでいう個人基台なのです。それは他人と比べることはできません。あなたの代わりはいないのですから。

 しかし、それを発見しそれに尽力することは至難の業です。今までほとんどの宗教がこのことに専心してきたのは、これがいかに難しいものであるかを物語っています。自分を主管する、自分を律するということは、世界のことを考える以上に難しいものなのです。

 私たちの心の中に煩悩・罪が宿っているからです。生老病死や愛別離苦・怨憎会(おんぞうえ)苦・求不得(ぐふとく)苦・五陰盛(ごおんじょう)苦だけが煩悩ではありません。

 お釈迦様は、瞑想の中で「人間は無明である(根本的に無知である)。人生における人間の苦しみは、すべてこの無明から始まる」ことを発見しました。私は何も知らないということに気づいたのです。空の存在なのです。それなのに私たちは、ごく普通に「自分は」という言葉を発しています。「自分は」という言葉の中に、「自分は正しい」「自分の意見としては」という観念がはりつき、こころを支配しているのです。自分という観念は、煩悩そのものなのだと気づくことが重要なのです。自分という存在は、単独で独立して存在しているものではないのです。デカルトの「我思う、故に我有り」という命題は、私たちの心に「自分」という観念が正しいように植え付けてしまいました。

 「私」という観念は空虚なものなのです。仏教では、無我を説きます。それは通常、「我をなくせ」という風に解釈されています。それは正しくありません。もともと「我はない」というのが本来の意味です。

 個人基台を醸成するということは、私という観念を滅却して私の背後にある存在-神とか仏-につながろうとすることなのです。それは、新しい自分に目覚めるということであり、生かされているということに気づくことなのです。神につながっている、天宙の呼吸に合わせられている、すべての身の回りのものが貴重に見えるというかけがえのない世界を体感することなのです。そのことを追求しなければいけません。

 その道から外れたならば、サタン(悪なる力)が待ち構えていて煩悩と罪の世界へ導いていくのです。そうなると、どんどん深みにはめられていくのです。

 

3-2、家庭基台

 家庭は、人間が地上生活をおくるにあたっての最小単位であり、生活の基盤となるものです。誰もが幸せな家庭を願うのは当然のことなのです。人間の一生を考えた場合、祖父母、父母、子の最低三世代が同居して生活するのが基本であり最も安定する形であるといえましょう。この姿が家庭の基台なのです。

 しかし、人間はこの形を崩してきました。夫婦が仲違いし兄弟が仲違いし、親子が仲違いしてきました。人類歴史を振り返ると、仲違いと対立、分裂の歴史であることがわかります。

 仲違いと分裂は、世代間の摂理として子孫に受け継がれることになっていきます。このことは、ブログ「家系の法則(1)」「家系の法則(2)」「家系の法則(3)」で詳しく説明してきました。先祖の失敗があると、子孫は先祖が失敗したのを復元する必要があるので、同じような状況を再び迎えることになります。先祖が失敗した形なので、なぜそのような状況を迎えるのかわからないと再び同じ失敗を犯すことになりやすいのです。その結果、代々同じ失敗を繰り返すことになり、〇〇家の業として子々孫々に語り継がれていくのです。

 家が代々続いてきたということは、先祖が家庭の基台を守り、逸脱した行為を最小限に抑え、先祖の失敗を清算してきた賜物であることを忘れてはいけません。

 家庭基台を取り戻すためには、祖父母、父母、子の三世代の相互の間で、先祖が失敗してきた状況(夫婦の仲違い、親子の仲違い、兄弟の仲違い)から犯した罪(浮気、殺人、離婚など)を清算するために、同じような状況の中でお互いが仲違いしかねない情の対立を乗り越えて一つになることが必要となるのです。

 近年、家庭内で親子の相克、家庭内暴力、子供の閉じこもりを始めとした精神疾患が急増していますが、これも先祖の失敗に起因している可能性が高い現象なのです。それゆえ、当事者個人の問題としてではなく、家族が一つになって立ち向かわなければならないのです。家族一人一人にその役割があるのです。

 さらに、現代では、個人主義の風潮の中で核家族が普及して三世代同居がほとんど見られなくなっています。このことがどんな弊害をもたらすかも考えてみることが大切です。核家族は、家族をばらばらにしかねないということを念頭に置かなければなりません。経済的な面だけでなく、家族の孤立(老人の一人暮らしなど)、相互扶助の欠如、家庭の伝統継承の断絶という問題が起こることを懸念しなければならないでしょう。

 家庭の基台だけでなく、一族、地域社会も同じことです。禅の秋月龍珉は、今後の禅の役割はこの現実世界の中で唯一無二の人間関係を築くことにあると語っています。誰しも人生を生きてきて感じることは、自分の身の回りの世界は広いようでいて狭いということです。人生の中で築き上げる人間関係の中に、唯一無二の関係を築くことが人生の目的となり、自らの幸せをもたらす基となるのではないでしょうか。

 

3-3、国家基台

 私の心が神につながれば、そして周りの人もその輪に入れば国は護られるといえば、ほとんどの人がそんな馬鹿な!と思われると思います。しかし、ここで取り上げてきた神とサタンの摂理が、霊的世界という想念世界を経由してこの現実世界にもたらされていることを知るならば、否定することはできないのではないでしょうか。

 国家の命運についても、摂理を通して働く神とサタンの激突があるのです。上で述べたように、神の摂理は無形なる根源の神の愛と力が霊的世界の善霊を通して現実世界に働きかけてきます。サタン(悪なる力)も霊的世界から悪霊を通して現実世界に働きかけてきます。それゆえ、霊的世界においてサタン(悪なる力)を抑えることができれば、現実世界をサタン(悪なる力)から護ることができるのです。

 私は、ブログ「日蓮の警告が受け入れられていれば、蒙古襲来という悲劇は避けられていただろう」(2015/7/27)で、日蓮という日本の霊的支柱であった存在と主張を受け入れていれば、元寇という蒙古襲来の国難は防ぐことができたはずだったと述べました。日蓮は、国難を予知して「立正安国論」を書いて、鎌倉幕府に訴えたのですが退けられ迫害を受けて佐渡島流しにされてしまいました。日蓮が受け入れられたのは、蒙古襲来が起きてからでした。最初の蒙古襲来は防ぐことができなかったのです。

 江戸時代末期にも再び日本に国難が襲ってきました。西欧の文化と価値観の襲来であり、日本植民地化の危機でした。この時も、霊的世界を通じて神は啓示によって国難の到来を知らせ、人々を霊的支柱に導こうとされたのです。金光教天理教黒住教という神道新宗教は、神の願いを受けて設立されたのです。それぞれの宗教が、人々を国難から護るべく普及に努めました。幸いなことに人々は導かれ、そして現実世界である日本は、西欧の植民地になることなく護られて近代化を達成することができたのです。

 しかし、第二次世界大戦の時には逆のことが起きてしまいます。大正・昭和初期、国民の誰の目にも国難と感じられる状況が出現します。この時、国難を予見して活発な活動を行っていたのが大本教でした。出口王仁三郎の活動により教勢を拡大し、知識人・軍人の入信、新聞社の買収、政治団体との連携や海外展開により大きな影響力を持つようになりました。1934年(昭和9年)には昭和神聖会を結成します。昭和神聖会の政策請願に署名した人数は800万人にのぼりました。教勢が急速に拡大したとき、国家権力による迫害が起きたのです。

 1921年(大正10年)第一次大本事件と1935年(昭和10年第二次大本事件です。本殿は叩き潰され、王仁三郎は捕えられます。天皇制と国家神道との国家観・歴史観の対立が原因でした。その後国家神道固執した日本は太平洋戦争に突き進み、多くの戦死者を出して敗戦し日本は焦土と化したのでした。終戦出口王仁三郎は、戦争に協力しなくてよかったと述懐しています。

 この大本教の活動に神の摂理が働いているのです。出口王仁三郎は、多くの予言を残していますが、その中に、「ひな型の理論」というのがあります。大本教で起きたことは、日本で起きるという教義です。あまりにもあてはまったので、こわがられていました。その例を挙げてみましょう。

 王仁三郎が徹底的な弾圧を受けたのは、昭和10(1935)年の12月8日です。この日、警官隊は綾部、亀岡、そして王仁三郎のいた宍道(しんじ)湖畔の松江別院を急襲したのですが、連合艦隊特別攻撃機が真珠湾を急襲したのは、ちょうどこの日から6年後の12月8日でした。
 しかも、日時だけでなく、宍道湖(しんじこ)→真珠湾(しんじゅわん)という地名まで符合しているのです。昭和11(1936)年4月18日、綾部、亀岡の聖地はその所有権を取り上げられ、全国の大本関係の施設が次々と破壊されます。ちょうど6年後の昭和17年4月18日、アメリカの爆撃隊による最初の本土空襲が行なわれ、やがて全国の主要施設が空襲によってくまなく破壊されるようになるのです。
 また、昭和20(1945)年9月8日、王仁三郎は大審院において無罪を言い渡されます。ちょうど6年後の昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約が結ばれ、第二次世界大戦は法的にも終結するのです。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1482212839

 

 大本教でいうひな型の理論は、心の基台(霊的基台)と現実世界とは連結していることを表しています。心の基台(霊的基台)が失われれば、現実世界も崩壊していくという結果を招くのです。宗教は、国家の霊的基台を醸成しているのです。もし、その宗教を迫害すれば、国家の命運は尽きてしまうのです。

 現在、日本は亡国の淵に立たされています。亡国の淵にあるのには理由があるのです。霊的基台が失われているのです。国難の背後には、国の霊的支柱である存在を迫害しているがゆえに、神の愛と力がさえぎられているのです。国を護るためには霊的支柱を立てその輪を広げる必要があるのです。それが何なのか、答えは皆さんが考えてください。ただし、もう時間はほとんど残されていません。

 

摂理として働く神とサタン(1)   占いと予言の背後に秘められた摂理

(1)占い・易とは

 誰もが、信じる信じないは別にして、占いの世界に無関心ではいられないのではないでしょうか。これだけ科学が発達して目に見えない世界を信じる人が少ない現代でも、多くの人が占いに関心を持ち、占いの言葉に耳を傾けます。手相、四柱推命、気学、水晶占い、風水など多くの占いが地球上あらゆる場所で行われ、どこでも生活の一部となっています。人間は、何か行動を起こそうとする時、いつも占いを判断の参考にしてきました。理由はわからなくとも、無視することはできない存在です。

 占いは、当たることもあれば外れることもあります。それゆえに信じ切ることもできなければ、無視することもできません。どうしてこういうものが存在するのか、なぜ歴史上ずっと続いてきたのか、首をかしげる人が多いのも事実です。しかし、続いてきたのには訳があります。それは有用だったからです。無視できないものがあることを知っていたからです。

 では占いとは何でしょうか。一言でいえば、人間が生きてきた姿を分析した統計学であると言ったらいいでしょう。人類の歴史の中で起きた様々な現象の共通点を分析してまとめたものが占いです。〇〇の天体の配置の時には△△の現象が起きた、手相にこういうラインが出ると不吉であるとかを学んできて集大成したのです。

 易経では、こう述べています。易経は「変化の理」について書いたもの。人生で起こるあらゆる場面を著わし、その解決法<陰陽の組み合わせによる64種類の卦と384の小話を使って>を著わしたものです。この中で、時の変化の兆しを感じ取ることが重要だと教えています。目に見えないが、実際にものごとが起こる前にはかならず兆しがあるので、それを感じ取ることが大切だというのです。

 さらに次のようにも述べています。恐れおののくような事態に遭遇しなければ、人は改めないと。「震(うご)きて咎无(な)きものは悔に存す」(易経)とは、背中が震えるような恐れ震えるような思いをしないと、人は改めないものだという意味です。震えが人を正常な感覚に戻し、凶を吉に、或いは凶に至る前に未然に転換させるのです。心の中に芽生えた傲慢さや、惜しむ、けちるという吝(りん)の兆しを察知することが大切だと教えるのです。

 ある宗教の教祖が、厄年で相談に来た信者に「お役に立つ時が来ましたね」と言われたといいます。厄年という年回りは、人生の変化の時(転換期)であり、不幸なことが起きがちです。こういう時は、人生を大きく変える変化の時なので、人の選択如何によって人生が大きく変わってしまうのです。犯罪を犯した人の年齢を見るたびに厄年という人生の転換期を迎えていたことがよくあります。この教祖は、変化の時は過去の行いの清算をする時が来たので、艱難を感謝して受け入れて神様のもとに帰りなさいと教えたのです。そうすることができないと艱難に飲み込まれて転落していくといいたかったのです。

 一人の人間の人生から始まり、家族一族の歴史、民族国家の歴史に至るまで、秘められた「変化の理」があります。このブログの中で、厄年の話、家系の話などを述べてきましたが、すべて「変化の理」なのです。地球の1年に春夏秋冬の季節の変化があるように、個人の人生だけでなく、家族の行く末、国家世界の歴史も易経の世界が作用しているのです。ノストラダモスの予言や聖書のヨハネの黙示録という言葉を聞いた方も多いでしょう。これらの予言は、世界の未来の姿を「変化の理」として予言したものなのです。

 

(2)占い(易)の背後にあるもの

 占いが統計学であると前に述べました。また、その現象が現れる前に前兆があるとも述べました。現実世界で現象が起こるためには、その原因があるのです。原因があって、占いで予感された現象が起こるのです。

 その原因は、現実社会の背後にある世界及び人間社会の外にある世界なのです。一つは、霊界と呼ばれている世界であり、もう一つは人類の手を超えた自然・宇宙の世界なのです。ここに原因があり、その見えない世界の姿がこの世界に現れる時、その前兆として示されたものが人相、手相などの相であり、誕生日占いであり、姓名判断であり、天空の占いなのです。

 私たちは、生まれた瞬間から生まれるにあたって予定された運命を背負って生まれています。誰一人として例外はありません。生前記憶のある人がいますが、その人は生まれる前に自分の人生の運命を予め決めて地上に誕生したことを覚えているのです。すべての人が固有の人生の使命をもって生まれてきているのです。ほとんどの人は、何の生前記憶もなく生まれて人生を歩んでいますが、一切記憶のない人でも自分の運命を記されたものからいくらかは知ることができます。それが相(手相・骨相・人相・姓名・誕生日)です。それゆえ、相を見れば過去の統計によってどういう人生を歩むかがある程度わかるのです。

 もちろん一人一人の運命は、決定しているものではないことはいうまでもありません。手相が変わっていくように、一人一人がどのように人生を歩むかによって変わっていくものです。できるだけ平安な人生を歩みたいと願うのは誰しもでしょう。しかし、平安な人生は安楽に見えても、必ずしも実りある人生になるとは限りません。人生の目的は楽に生きることではありません。「かわいい子には旅をさせよ」という言葉ありますね。私たちは、人生という荒波の中で、多くの辛さ喜びの心情を経験して愛を完成することが目的なのす。高山右近という戦国時代のクリスチャン大名が、最後にイエス・キリストのように十字架にかかる心情を分かち合いたいと願い、切支丹弾圧にあっても信仰を曲げずルソン島に島流しにされます。苦境にあればあるほど愛の深みに触れ、愛が深まるのです。苦楽を通して心情を深めることが大切なのです。「子をもって知る親の恩」ということわざがありますね。子育ての苦労の心情を知るためには、親になって同じ経験をしなければわからないという言葉です。心情は、同じ境地を通過して初めて会得できるのです。苦しい時を通過し苦しい心情を感謝に感じた時、私たちは聖人や神の心情に近づくことができるのです。

 

(3)神への信仰と占い(易)

 占いが記す「変化の理」が厳然と働くのであれば、信仰によって救われるということにならないのではないかと疑問に思われる方が多いのではないでしょうか。占いと信仰とはつながりが見えにくいのです。

 私たちは、誰しも何がしかの業を背負って誕生し、善悪のはざ間で善を選択するか悪を選択するかで生きています。その業の歴史、善悪のはざ間の歴史の姿を分析したのが占い(易)なのです。占い(易)の世界では、「禍福はあざなえる縄のごとし」で、繁栄しそして疲弊し没落していくのは避けられないと教えます。それゆえ、時を感じて構えを教えるにとどまるのです。あなたを取り巻くこの世の主人悪魔(サタン)支配下の論理(業の論理)にとどまっているのです。ですから、事態を大きく好転させることはできません。栄華の頂点では没落が待っていることになります。四柱推命による占いでは、ほとんど場合よくない結果になるといいます(もちろん当事者にはオブラートに包んで伝えるのですが)。占い(易)は、「変化の時」(転換期)を教えてくれるだけなのです。変化の時をどのように乗り越えるかは教えていないのです。それを教えてきたのが宗教なのです。宗教は、この世の主人サタンから人間を解放する力(神の救い)をもっているのです。

 宗教に入るのはほとんどの場合転換期であり、苦境のどん底の時です。生き方を変える必要を感じた時です。知らず知らずのうちに変化の時に、新たな道を選択することになるのです。そうすることによって神の光が差し込んでいくのです。宗教始祖がサタンを屈服させた勝利圏を信じるという行為によってその恩恵を受けるのです。キリスト教の洗礼には、イエス様を信じたというただそれだけの条件でイエス様がサタンに勝利した恩恵を受けることができるという意味があるのです。このように、宗教と関係を結ぶことによって、今までの占いは外れるかまたは軽減されていくのです。もちろんそうさせまいとしてサタンは邪魔してきます。宗教が迫害を受けるのはこのためです。

 実は、何がしかの業を背負って生まれるということを計画されたのは神なのです。一人の人間の背後には長い人類歴史の業(罪)の歴史があるのです。その業を清算できなければ、この地上に天国を築くことはできません。それゆえ、多くの義人聖人に苦難の道を歩ませ、イエス・キリストに十字架の死を甘受してもらうことによって、人類の業を清算してきたのです。

 「いい人ほどなぜ苦労するのか」というブログを書きましたが、人間は罪を犯して本来の状態から外れてしまった時、それを本来の状態に戻すためには必ずそこにその必要を埋めるに足る条件を立てなければなりません。苦難の人生を送るというのは、先祖の失敗を償い本来の状態に戻すための穴を埋める条件なのです。仏教で布施(財施)をするとか身施(行)、法施(法を説く)は、本来の状態に戻る道として教えてきたのです。失敗を償うことなくして未来を切り開くことはできないのです。それは、俗にいういい人でないとできないのです。

 変化の時はあらかじめ定まっています。その時を最善の策で乗り越えるためには、その時をどのような心で臨むかにかかっているのです。このことは、個人だけでなく国についてもいえることなのです。東日本大震災は、不幸な避けがたい自然災害だったとしか受け止められていませんが、そうではありません。日本人の心が本然の状態からあまりにもずれていたため、そのことに気づかせるために起きたということを知る必要があります。現在も日本人の心は本然の状態から大きくずれています。このことに気づかなければ、残念ながら大規模な自然災害が起きることは致し方ないことです。何を間違えているか、そのことに心を砕いて日本の国の心情を正してほしいものです。

人類理想社会建設への道【多くの日本人は、共産主義を理想主義と混同している】

 共産主義を信奉する人にとって、共産主義は資本主義に代わる理想主義社会であると思われているだろう。共産主義=理想社会と考えておられるようだ。唯物史観で説かれているように、歴史の必然として共産主義に至ると信じられている。

 共産主義を掲げている日本共産党は、理想社会「共産主義」の前段階「社会主義」への体制移行を暴力革命によるのではなく平和裏に行うと主張し、共産主義に付きまとっている暴力性を極力否定しようとしている。この方針を採用することによって、日本共産党社会主義建設は理想社会の建設を目指すものであって、世界各地に見られる共産主義国の成立過程と一線を画す平和主義者であることを認識させようとしているようである。

 確かに、危惧される暴力性が否定され、政権運営が民主的に行われるとすれば、共産主義の平等の理念が前面に押し出されて大変印象の良い政治思想になる。しかしこの主張は、共産主義の成立過程に目をつぐんだ欺瞞に満ちたものである。

 

1、共産主義社会の前段階である社会主義は、反逆と粛清、暴力的独裁管理社会であるという事実を直視すべきである

 誰も、独裁が許され、反逆と粛清が容認されている恐怖社会を支持する人はいない。北朝鮮金正恩政権の統治の姿に賛同する人は誰もいないであろう。金正恩政権は、国際社会との公約を反故にして核ミサイル開発を推進し、政権内部では兄弟を殺害し、伯父を虐殺し、幹部を粛正して、恐怖政治を行っている。

 この姿は、北朝鮮だけの共産主義の姿であるとみなしたいかもしれない。しかし、共産主義という思想が成立して普及した過程を振り返ると、この姿は特異な姿なのではなく、典型的な姿であることを知らないといけない。

 

2、共産主義思想は、資本主義のアンチテーゼとして生まれた鬼子である

 資本主義が内在した富の格差は、社会の中に多くの不満と憎しみをもたらした。資本主義社会の中で、この不平等は温かい愛の奉仕によって解決されることはほとんどなされなかった。過去の歴史の中で、社会の指導者である有力者たちは、社会の構成員たちの安寧と幸福に力を注ぎ、社会の安定に努めてきたが、資本主義社会においてはこの仕組みはあまり働かなかった。この欠陥を共産主義が埋めたのである。

 富の格差とそのことから派生する社会秩序の不安定化を改革して平等で良き社会を築きたいという願いと主張は、実に正当で人間味あふれるものである。愛の精神があまり実践されない世の中にあって、共産主義という思想がこのような理想を掲げて登場したことは歴史の必然であった。 

 古来、社会に不満が充満すると、自由平等を掲げて革命が行われてきたことを思い起こしてほしい。そこに過去の革命と同じように、共産主義が自由平等の理想を掲げて登場したのだ。しかも共産主義は、過去の革命思想と同じような理想社会建設を掲げるだけでなく、建設のための方法として富める者と貧しき者の対立をあおり、憎しみを駆り立てるという方法をとった。階級闘争であり、革命思想である。

 憎しみのエネルギーをまとめ、一人一人の不満の力を大きな一つの不満の力にすることによって、体制改革を実現しようとしたのである。「万国の労働者よ、団結せよ(共産党宣言)」というスローガンと世界革命思想は、このことをよく表している。

 

3、平等社会の建設という理想社会建設思想は、昔から存在していた 

 共産主義が提唱されるはるか前から、人類は平等社会の建設の理想を抱いていた。平等社会の理想は共産主義だけのものではない。

 理想社会に対する人間の夢は古くはプラトンの『国家』、さらに近世初頭のトーマス・モアの『ユートピア』、トマソ・カンパネッラの『太陽の都』、フランシス・ベーコンの『新アトランティス』などにみられる。中国儒教思想においても、理想社会として「大同世界」と「小康世界」が示されてきた。(*1)

(*1)ぶっだがやの散歩道(2015/8/10) 「孔子が目指した理想社会」

http://higurasi101.hatenablog.com/entry/2015/08/10/190811

              

 実際の歴史の中でも、農耕地を全て公有とし、農民に均等分配して公平を図る唐の均田制や、奈良時代から平安時代にかけて行われた班田収授法、インカ帝国の生産手段の公有(私有の禁止)制度が存在した。日本の中世、浄土真宗本願寺教団は、地域宗教的自治として強固な信仰組織を形成していた。

 K・マルクスとF・エンゲルスは、これら従来の理想社会、ユートピア思想を空想的社会主義として一括りにして一蹴し、自らが提案する理想主義「共産主義」はまったく新しい思想であるとして「科学的社会主義」を提案した。最終的な目標はほとんど変わりないが、その過程―共産主義社会に至るステップと方法論―が科学的であるとした。このことが、K・マルクス科学的社会主義として提唱した新機軸である。(このステップと方法論については後程述べる。)

 K・マルクスが提起した理想社会の姿は、従来のユートピア思想と大きな差異はない。共産主義は、財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会をめざすことである。生産手段や販売方法、利益を平等に分配するなど、すべての人が平等な社会をめざすことである。別の見方では、「共産主義社会」とは、国家権力が死滅し最後は政府も必要なくなるという人間が自主運営する社会であるとされている。

 なるほど、誰もが納得するすばらしい理想郷である。

 

4、K・マルクスの説いた唯物史観―《資本主義→社会主義共産主義

 K・マルクスとF・エンゲルスが説いた唯物史観は、「人間社会にも自然と同様に客観的な法則が存在しており、無階級社会(原始共産制)から階級社会へ、階級社会から無階級社会(共産主義)へと生産力の発展に照応して生産関係が移行していく」とする歴史発展観である。この中で、現代の資本主義社会は階級社会の最後の段階であるとする。次に来る社会は無階級社会であり、そこに至るステップとして《社会主義》→《共産主義》の段階を踏むとした。

 「マルクスエンゲルスによると、資本主義から社会主義への移行は革命を必要とし、勝利した労働者階級は、社会主義を組織し、生産力を急速に発展させるため自分の国家を必要とする。彼らは、階級闘争は革命後も続き、旧支配階級の抵抗をなくすため、移行期にはプロレタリアート(労働者階級)の独裁が必要であると説いた。社会主義では生産手段は社会の所有に移され、もはや搾取はないが、社会の構成員への生産物の分配は、『各人はその能力に応じて働き、各人はその働きに応じて受け取る』という原則に従い行われ、そのため社会的な不平等はまだ残る。社会の生産力がさらに発展し、人々の道徳水準が向上したとき『各人はその能力に応じて働き、各人はその必要に応じて受け取る』という共産主義の原則が実現され、そのときは権力の組織である国家がなくなるだろう。」([稲子恒夫]日本大百科全書(ニッポニカ)とされている。

 このようなK・マルクスに始まる唯物史観の主張は、荒唐無稽なものとして一蹴して済ませばいいというものではない。宗教を毛嫌いし神を否定した共産主義思想には、キリスト教の終末論の影響が濃いという指摘がある。実は、宗教(特にキリスト教に明確に表れている)の歴史観にもほぼ同じような歴史認識がある。人類歴史の終末と救世主の降臨である。

 キリスト教歴史観によると、人類は、アダムとイブの誕生の後、二人が成人して家庭を築き「エデンの園」という理想郷を築くように神によって創造されていたとされる。しかし、人類始祖の「堕落」と呼ばれる自分勝手な行いによって人類は原罪を有する身となり、エデンの園から追放され、人類社会は対立と抗争の続く暗い社会になってしまった。人類の抱えたこの苦しみは、終末が訪れた時現れるとされてきた救世主によって解放され、理想郷(エデンの園)が再興されると伝えられてきた。(この伝承は日本にも存在する。)

 唯物史観は神を否定しているが、来るべき社会として無階級社会が到来するということにおいては同じ見解なのである。問題は、そこに至る道筋である。

 

5、K・マルクス共産主義思想は、憎しみから生まれている

 K・マルクス共産主義思想は、すばらしい人類の理想郷建設を謳っていることは事実である。そのことだけを見れば、大変好ましいものである。しかし共産主義は、表面をすばらしく飾り立てているが、その内側に怖い本音が隠されていることに気づくべきである。それは【憎しみという情】である。憎しみが原点になっているのである。憎しみによって愛と平和と平等の理想社会が築かれるだろうか。誰もが否と答えるであろう。共産主義思想には欺瞞があるのである。

 K・マルクスは、1837年19歳の時、神を憎悪する「絶望者の祈り」という詩を書いている。

 下記にこの詩を掲げた。この詩を読むと、神を呪い神に復讐することを誓っている。どんなことがあったのか不明だが、神に反逆すると宣言しているのである。(神の存在を否定しているのでもない。毛沢東にも同じような言葉がある。「私は孔子様にはならない。始皇帝になる」と語ったという有名な言葉がある。(*2)

(*2)キヴィタス日記 (2011/7/27)「文化大革命毛沢東の意図(神への挑戦)

http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-6bda.html

 

 K・マルクスは、後に、「宗教とは民衆のアヘンである」「人間が宗教をつくるのであって、宗教が人間をつくるのではない」という有名な言葉を残したが、神と宗教を毛嫌いした何らかの事件があったのであろう。ただ、この原点によって神と決別をしている。

「神が俺に、運命の呪いと軛だけを残して
何から何まで取上げて、
神の世界はみんな、みんな、なくなっても、
まだ一つだけ残っている、それは復讐だ!
俺は自分自身に向かって堂々と復讐したい。
高いところに君臨してゐるあの者に復讐したい、
俺の力が、弱さのつぎはぎ細工であるにしろ、
俺の善そのものが報いられないにしろ、それが何だ!
一つの国を俺は樹てたいんだ、
その頂きは冷たくて巨大だ
その砦は超人的なもの凄さだ、
その指揮官は陰鬱な苦悩だ!
健やかな目で下を見下ろす人間は
死人のように蒼ざめて黙って後ずさりをするがいい、
盲目な死の息につかまれて
墓は自分の幸福を、自分で埋葬するがいい。
高い、氷の家から
至高者の電光がつんざき出て
俺の壁や部屋を砕いても
懲りずに、頑張って又立て直すんだ。」

(Karl Marx and Fredrick Engels, Collected Works [New York; International Publishers, 1975-], 1:563-64. 改造社版『マルクスエンゲルス全集』第26巻)

 

6、唯物弁証法階級闘争を正当化するために

 共産主義運動は、労働者階級の「階級闘争(生活の資を得ようとするところから「唯物的」「経済的」な運動)」であるとされている。その運動を理論づけるために、マルクスは、「階級闘争」という新しい観念をヘーゲル弁証法フォイエルバッハ唯物論を結合させて編み出した。

 まず、弁証法という概念について整理してみよう。弁証法とは、「ドイツ語のテーゼThese、アンチテーゼAntithese、ジンテーゼSyntheseの訳語である定立、反定立、総合を略したものである。フィヒテが『全知識学の基礎』(1794)で用いた概念で、その統一・総合により一層高い境地に進むという運動・発展の姿によって、世界や事物の変化や発展の過程を本質的に理解するための方法」である。(弁証法は、ヘーゲルによってはじめて定式化されたというものではなく、ギリシャ哲学以来議論されてきたものである。)
 全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)されると説明する。対立物は相互に規定しあうことで初めて互いに成り立つという、相互依存的で相関的な関係にあって、決して独自の実体として対立しあっているわけではないという。また別の言い方では、矛盾は自然の事物と現象にかならず内在し、古いものと新しいもの、死滅するものと生成するもの、・・・・その闘争が発展過程の内容を構成するという。
 この説明は正確ではない。己の内に矛盾を含んでいるのではなく、時の経過とともに己の内に不完全さが生じるため、不完全さを補完するために新たな存在を必要とするのであって、このため相互に規定し相互依存的な関係が生まれるのである。ここで重要なことは、弁証法においては時間という観念が重要な要素を占めており、事物は時間の流れの中でエネルギーを受けて変化・発展するということである。
 太陽系を取りあげてみよう。太陽系は、巨大な分子雲の一部の重力による収縮が起こった約46億年前に始まったと推定されている。収縮した質量の大部分は集まって太陽を形成し、残りは扁平な原始惑星系円盤を形成してここから惑星、衛星、小惑星やその他の太陽系小天体等ができた。巨大な分子雲が重力収縮というエネルギーによって、時間の経過とともに太陽と惑星その他の太陽系の天体を形成する。太陽系はこうして進化してきた。そこに見られるのは、物質が時間の経過とともに弁証的に発展しているという姿である。
 しかし、問題は弁証法を人間社会に適用しようとした場合である。人間社会は、自然界と大きく異なる点がある。自然世界は調和のとれた矛盾のない世界であるのに対して、人間社会は矛盾に満ち溢れた世界であるという点である。弁証法の定義においての「己の内に矛盾を含んでいる」という説明は、人間社会を念頭においたものである。自然界において矛盾というものは考えにくいのではなかろうか。矛盾は人間社会固有のものである。
 唯物弁証法論者によると、「精神とは弁証法的に運動する物質の機能であると考える。物質が本来的で根源的な存在であり、人間の意識は身体(例えば大脳、小脳、延髄など)の活動から生まれる」と説明する。自然界はまだしも、人間社会において人間の意識を身体から生まれるとして精神とは弁証的に運動する物質の機能であるという見解は、人間精神をないがしろにしたものである。その中で、毛沢東は精神の役割を認めている。「社会の変化は、主として社会の内部矛盾の発展によるものであり、これらの矛盾の発展によって、社会の前進がうながされ、新旧社会の交代がうながされる。唯物弁証法は、外因を変化の条件、内因を変化の根拠とし、外因は内因をつうじて作用するものと考える。鶏の卵は、適当な温度を与えられると、ひよこに変化するが、石ころに温度を加えてもひよこにはならないのは、両者の根拠がちがうからである。(毛沢東「実践論・矛盾論」『毛沢東選集 第一巻』日本共産党出版部、1965年、P.421〜472))」と述べている。変化の根拠として、人間精神に根拠を与えている。主観的表象としての想念・理念が外的条件に作用して、変化を引き起こすということである。

 

7、「憎しみの情」の弁証法的展開

 K・マルクス共産主義の出発が神に対する憎しみの情から出発したことは前述した。「憎しみの情」は、誰もが経験しているように他者との間に壁を築き、交流を妨げるだけでなく対立を引き起こす。これを闘争と呼んでいる。そこには冷ややかで沈滞した暗い世界が現出される。人間同士が疑心暗鬼になり、互いの心を詮索する重苦しい世界となる。憎しみの情とそのエネルギーは、反発・対立・分裂を引き起こし、そのままにしておくと分解する方向に展開していく。唯物弁証法が説明するような「対立物は相互に規定しあうことで初めて互いに成り立ち、相互依存的で相関的な関係にあって、その統一・総合により一層高い境地に進む」ということにはならない。
 憎しみの情から出発した弁証法的展開は、発展ではなく衰退に向かうのである。そこには、マイナスのエネルギーが働く形になる。共産主義各国において、時間とともに生産性が向上するどころか停滞し衰微していったのは当然の帰結であった。社会が停滞し衰微していくという現実に対処していくためには、絶えず運動のてこ入れをすることが重要となる。弁証法唯物論という名称は G.プレハーノフによって命名され、レーニン,スターリン毛沢東などによって発展させられてきたものであるが、このように社会主義社会は、社会を守るために人為的に鼓舞されなければ社会は衰退しかねないのである。唯物弁証法が「革命の哲学」とされてきたのは、実にもっともなことなのである。

 

8、宗教的に見たとき、無神論は悪魔に魂を売り渡すもので、悪魔に歴史の主導権を任すものである

 宗教的見地から見た場合、共産主義は決定的な過ちを犯している。神を否定し宗教を否定することによって、共産主義という思想は宗教的擁護(神の擁護)を完全になくすことになっている。このブログを読まれてきた人にとっては、当たり前だと思われる霊界の存在を否定することによって、霊界からの援助がなくなるのである。それどころか、悪霊の跳躍を許すことになるのである。

 宗教は、霊界の存在を前提にして構築されている。霊界には善霊と悪霊、そしてその背後に神と悪魔(サタン)が実在している。どんなに否定しようともそれは事実である。そして、神を否定することによって神と善霊(天使など)の協力がなくなり、悪魔が主導権を握る世界が構築されるのである。共産主義国家がすべて悲惨な現実に向かうのは致し方ないことである。

 共産主義者は、社会主義から共産主義への移行は、「生産力が発展し、人々の道徳水準が向上したとき」という。現在の共産主義国家を見ると歴然とするが、強権・弾圧・粛清国家に道徳の向上が考えられるだろうか。ますます疲弊して困窮するだけではないか。人間関係は信頼とは反対に、疑心暗鬼が蔓延し誰も信用しようとしない暗黒の社会が来るだけである。道徳水準の向上は、宗教が指導してきたことであることを忘れてしまっている。

 社会主義は、共産主義社会に至るステップであるという科学的社会主義は、社会を暗黒の醜い姿にとどめて崩壊に至らしめるだけである。世界初の共産主義国ソ連が疲弊して崩壊したように、ほかの共産主義国家も同じように疲弊して崩壊するのが宗教的見地から見た結論である。社会主義という政治体制は、悪魔が支配する強権体制であり、そこからは何の希望も繁栄も幸福ももたらされない。

 

9、共産主義は革命と社会主義によってではなく、神と救世主によって実現されるものである

 強権とは反対の論理、(北風と太陽の逸話を思い起こしていただきたい)愛の論理によってしか共産主義者が唱える理想の共産主義社会は実現できない。大本教の出口日出麿氏は次のように述べておられる。仮に共産主義という形で平等な社会が表面上築かれたとしても、魂が変わっていない限りすぐに壊されることになる。人間一人一人の魂の改心ができるまで地上天国はできない。心の底から間違っていると気づき、正そうとすることが不可欠である。(大本教 出口日出麿)」

 宗教本来の目的は、地上天国の建設である。人間が、神を賛美し、ともに愛し合いながら闘争や蔑視のない平和で平等な世界を建設することにある。共産主義と同じ理想に立っている。それを実際に行うのも共産主義と同じく人間であるが、それは共産主義者が述べるように自動的に実現されるものではなく、人間一人一人の魂の改心と向上によってしか実現できない。そして、その理想が今まで実現できなかったのは、人間の堕落という罪によって、この地上世界が悪魔(サタン)の支配下に置かれてしまったからである。(一人一人の人間の内面には、自分という観念が根底に居座り、自分と他者を差別している。釈尊が、「人間は自己中心的である。それゆえ、他人に危害を与えてはいけない」と述べたと伝えられているが、それほど自分という観念は根深いのである。共産主義では、根底にある自分という観念が原因で作り出した対立・差別社会を「階級社会」と呼んでいる。)

 このことをよく認識した世界中の宗教家は、この世を悪魔(サタン)から解放してくれると予言されてきた救世主(メシア、弥勒、真人など)の出現を待ち望み、救いの希望を託してきたのである。共産主義者は、神と霊界の存在を認めて、悪魔(サタン)と縁を切り、本物の共産主義建設に向かうことが不可欠である。そのために、まず、「共産主義」という悪魔に魅入られた言葉を捨てて、神を受け入れて本物の理想社会を目指すことが必要である。

 最後に、人間にとって、理想社会(地上天国)を築くことが最終目標ではないということを付け加えておく。理想社会建設を通して一人一人が愛の完成者になることこそが最終目標である。

ホームページ開設のお知らせ

この度ホームページを開設しました。

地球村創造研究所といいます。 http://capitolino.a.la9.jp/

よろしくお願いします。

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地球村創造研究所の理念】

  • 人間としての修養、成長、完成
  • 愛に満ちたすばらしい家庭の完成
  • 相互扶助精神に満ちた社会、国家、世界の構築
  • 人ともの・環境が共存共生する地球環境の実現

スピリチュアリズムの主張は、99%正しいが1%偽りがある。その1%は天地をひっくり返す偽りである

 スピリチュアリズムの主張は、霊界の高級霊からの通信であるとされる。通信は検証のうえ間違いないとされている。スピリチュアリズムが提示した内容は、今までの常識を覆し、新たな霊界像と信仰観を示してきた。私は、スピリチュアリズムを学びながらその見解にほぼ真理に近いと感じてきた。しかし、私自身が経験してきたこと合わせて考えると、どうしても腑に落ちないところがあった。ある時それがなぜなのか?はっきりした。スピリチュアリズムの目的は、サタンと悪霊集団はいないという存在そのものを消し去ることにあるのだと悟った。シルバーバーチはサタンの使いである」。

 スピリチュアリズムは、心霊現象の意味、霊界の姿、摂理を通しての神の支配、霊主肉従、利他愛の実践など、99%まで真理を語って通信内容を信用させ人々を納得させてきた。しかしそれは、残りの1%に人々を導くための伏線であったのではないか。それは、「サタンはいない」「原罪はない」「最後の審判はない」「メシアは必要ない」という見解である。サタンと日夜闘ってきた者としては、それはありえない見解である。サタンと悪の霊的集団は存在する。スピリチュアリズムの見解は、この世の君「サタン」がこの世の支配権を手放さまいとする発悪行為である。こう解釈すると、用意周到に準備された主張の一つ一つに目論見が見えてくる。

 

 (1)既成の宗教を否定するスピリチュアリズムは、悪霊との闘いを放棄させることを目的にしている

 多くの人にとって、サタンが存在するという認識はほとんどないであろう。サタンがその姿を見せることは稀である。また、霊界の事実と霊的成長なるものを示されたうえで、今まで宗教が行ってきたことを否定されると、信仰は必要ないんだという理解に至るかもしれない。そういう結論に導こうとするサタンの目論見は、ただ一つ宗教が果たしてきた本質的な役割、悪霊との闘いを放棄させることなのである。

 スピリチュアリズムの「宗教観」は、霊界にいる霊たちが地上の宗教を見たときの見解である。その際、地上の宗教の真偽の判断基準となるのが「霊的事実」と「霊的真理(神の摂理)」と「霊的成長」であるという。こう霊界という別次元から切り出されると、人間は戸惑い平伏しかねない。そこが大きな狙いである。

 スピリチュアリズムが主張する「宗教観」は、次のようなものである。

  • 地上の宗教の教え(教義・ドグマ)には霊的真理の一部が含まれているが、教えの大半は地上人によってつくり出された“ニセモノ”である。その代表がキリスト教におけ る「贖罪論」や「最後の審判説」であり、悪の勢力としての「サタン存在説」である。
  • 地上の宗教の教えの多くは霊的事実からかけ離れており、「霊的無知」の上に宗教がつくられている。
  • 霊的無知の上に築かれた地上の宗教は、「神」に対する間違った認識を人々に植えつけているため、地上人類を霊的成長へと導くことはできない。それどころか、人々を霊的成長から遠ざけることになっている。地上の宗教は「人類の霊性向上を促す」という本来の使命から見ると、明らかに失格である。
  • 地上の間違った宗教の中でキリスト教は、最も弊害の大きな宗教である。イエスの教えとは無関係な人工的教義を土台としてつくられたのが“キリスト教会”という宗教組織である。キリスト教会は絶対的な権力を獲得し、宗教的独裁によって人々を“霊的牢獄”の中に閉じ込めてきた。
  • 霊的観点から見ると、キリスト教の教えの多くは間違っているが、イエスが生前に説いたシンプルな教え(神の愛・利他愛の教え)は摂理に一致しており、それは人類にとって“最高の教え”と言える。

  http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-11.htm

 このように、スピリチュアリズムは既成の宗教をほぼ全面的に否定している。スピリチュアリズムは、宗教者の霊的知識がどうしても部分的にとどまる点をついて徹底的に攻撃する。霊界からの事実を告げているスピリチュアリズムこそ正しいものだというスタンスである。そこにはなぜ宗教が起きたか、宗教がなしてきた贖罪・カルマの清算について、その意味をほとんど認めていない。

 神が宗教を立てた理由は、一人の宗教始祖の信仰の勝利をもとにそれに連結することによって、多くの人間を救おうとされたからである。宗教始祖の信仰の勝利を信じる信者は、少ない苦労で罪を清算できるのである。もし人間が単独ではほとんど罪の清算をなさなければならないとしたら、誰もがイエスや釈迦と同じ苦難の道を歩まなければいけなくなる。そしてほぼ全員、信仰の勝利に辿り着くことは不可能であるだろう。

 

 (2)イエスもサタンの挑戦を受けている

 スピリチュアリズムとは、イエスを中心とする地球圏霊界の高級霊が結集して、計画的に進めている「地球人類救済プロジェクト」であるという。イエスも、私たちの仲間でありリーダーであると述べている。その一方、キリスト教の教えはイエスの教えとは別であるとして、キリスト教の教えを否定するのである。聖書の記述は、イエスの利他愛の教えだけが正しいという。聖書の中で、スピリチュアリズムのリーダーの一人であるイエスがサタンと闘っていることはつくり話だというのであろうか。

 聖書の中のイエスがサタンに試される場面(「マタイによる福音書第4章1~11」の場面)、イエスのサタンとの闘いは、釈尊の悪魔との闘いのように真実であったはずである。

 さて、イエス聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、 悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 それから悪魔はイエスエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。(出典/口語訳聖書 Public Domain)

 イエスの歩みは、イエスが利他愛を説き実践するだけでなく、サタンと対決しサタンを屈服させる闘いだったのである。上記のサタンとの闘いの場面は、この世の支配権をサタンから取り戻そうとする非常に重要な場面なのである。

 

 (3)堕落と原罪を否定するスピリチュアリズム

 スピリチュアリズムは、堕落と原罪を否定する。スピリチュアリズムの見解を見てみよう。

 スピリチュアリズムでは、霊的事実に基づいて、神とサタンに関連づけた従来の宗教の善悪観を完全に否定します。「神とサタンの対立」などというものは、霊界にも地上界にも存在しないからです。(中略)

 「霊肉の問題」「善悪の問題」「罪の問題」に対してスピリチュアリズムの霊界通信は、これまでの説とは異なる回答を示しました。キリスト教で教えてきた悪の中心的存在である“サタン”も、それから生じたとされる“悪の一大勢力”も否定します。霊界には、地上人が永い間信じてきた“サタン”は存在しません。当然、サタンによって発生したとされる“原罪”もありません。スピリチュアリズムのすべての霊界通信は、これまで地上の宗教において説かれてきた「善悪観」や「罪観」を否定します。

 シルバーバーチは、人間の内部(心)における葛藤を「罪の問題」や「善悪の問題」としてではなく、「霊的意識」と「肉体本能的意識」の対立と見なします。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-02.htm

 また次のようにも説明する。

 シルバーバーチは――「善と悪は、霊的成長のプロセスにおいて現れる相対的な状態にすぎない」と説いています。そして「悪とは、人間の未熟性・霊性の低さによって生み出される神の摂理への不一致行為である」としています。したがって、今は“悪”として現れているものも、霊的成長にともなって“善”に変化していくことになります。

 “善悪”という言葉を「利他性」「利己性(霊的未熟性)」という言葉に置きかえて人類に提示したのです。地上世界は“光と影”の両方を体験し、そこからより明るい世界を目指して歩み出すための訓練場なのです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-08.htm

 

 「悪とは、人間の未熟性・霊性の低さによって生み出される神の摂理への不一致行為である」というのである。その悪に人間は悩まされ続けたことをどのように解釈するのであろうか。古来、悩まされ続けてきた罪、魂の癖は、仏教では「煩悩」と呼ばれてきた。物欲・色欲・名誉欲、そしてその背後にある自分が一番大事であるという我欲と自分中心主義、このことから脱却するために人間は苦悩してきたことを忘れてはいけない。

 スピリチュアリズムでは、「そもそも苦しみや困難は、人間が「神の摂理」から逸脱したために発生したものです。その苦難は、神が人間に幸福をもたらすために設けた摂理に合わせる生き方を通して消滅するようになっています」という。

 確かに、人類始祖の堕落という行為は、人類始祖が「神の摂理」から逸脱することによって生じたものである。サタンは、人間は自分中心に判断するから地上の支配者としてふさわしくないと主張したかったのではないか。人類始祖が、サタンの試練に敗北したのが堕落という行為であった。その結果、人間は神との授受の関係が切れてしまい、サタンと授受の関係を結び、それと一体となった。そのことによって人間は、自分中心という人類共通の意識をもつことになった。

 スピリチュアリズムが主張するように、もし堕落からの回復が人間の苦難だけによって消滅するというならば、もうとっくにこの世から苦しみは亡くなっていてもいいはずである。しかし、今なお人間の苦悩は続いている。「神の摂理から逸脱した」という単純な問題ではない。ほとんどの人は、イブが天使から誘惑されたことをつくり話と思っておられるかも知れない。

 しかし、心霊が霊界と相通じるようになると、サタンの誘惑という現象は実際に存在することがわかる。スピリチュアリズムは、「サタンはいないのだから、サタンの誘惑などあるはずがない」というが、サタンと対決してきた者としてはありえないことである。通常、サタンは姿を隠しその正体をさらすことはほとんどない。姿を現したとしても、巧妙にもっともらしく誘惑をかけてくる。しかも決して自分に責任があるような言い方はしない。責任逃れの天才であるといっていい。サタンの誘惑によって人類始祖が神の摂理から逸脱し、その結果人類が苦難の道を歩まなければならなくなったのはよく理解できるし事実である。

 堕落の結果人類は、自分中心・肉主霊従に陥り、対立抗争を繰り広げる悲惨な歴史を作り上げてきたのである。人類始祖が起した罪(堕落・原罪)は、「淫行」という子孫繁殖行為による罪であったがために、子々孫々血統を通じて引き継がれることになったのである。

 「サタンは遠くにいるのではありません。自分と共に連結されています。自分というのは、天国と地獄の境界になるというのです。自分に地獄があり、天国があります。良心は天国、地獄は肉身なのです。人間は堕落する時、愛の為に堕落したので性器が最も怖いのです」。この言葉に謙虚に耳を傾けるべきである。

 

(4)利他愛の実践だけでは霊性の向上には限界がある

 シルバーバーチが教える霊的成長のための実践項目とは――「霊優位の生き方(物欲にとらわれない霊主肉従の生き方)」「利他愛の実践」「苦しみの甘受」の3つです。この3つの実践こそが、霊的成長を促す“善(正しい生き方)”の具体的な内容と言えます。

 それに対して“悪(間違った生き方)”の内容とは、この3つの実践に反する行為のことです。すなわち「物欲・肉欲を追求する肉主霊従の生き方」「利己的・自己中心的な生き方」「苦しみを避ける生き方」です。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-08.htm

 実にもっともな見解である。利他愛の実践を皆が行えば世界はよくなることは間違いない。スピリチュアリズムの主張は世界を正しい方向に導く正当な教えであると、多くの人が賛同するであろう。しかし、そこに大きな落とし穴がある。人間は自然に純粋に利他愛を実践できる存在になっていないという現実である。

 現実の世界を見ても、利他愛の行動が世界に平和と安定、人々の幸福をもたらすものとして欠かせないとわかっていても、現実の世界は対立と抗争が続き、人々の間では貧富の差が拡大して生命が脅かされている。仏教は、「人間は誰でも自分が一番大事である。それゆえ、どうしても自分中心に物事を判断してしまう。三大煩悩(物欲、性欲、食欲)及び名誉欲に翻弄され我慢できず我欲に負けてしまう。このため、仏教の修行は《無我》(私心をなくす)に至るために厳しい修行をするのです」と説いてきた。自分中心の行動を抑制できないのが実際の人間の姿である。

 このことを考えただけでもわかるように、利他愛の実践と苦難の甘受を唱えただけで人間の霊性が向上して完成に至るとは考えられないのである。人間の自我を少しつけば、サタンはすぐにでも人間を神の摂理から外れた誤った道に追い込むことができる。日蓮は、「魔を降伏しない教えは、正法ではない」といったといわれるが、どんなに利他愛の実践に努めても、サタン・悪魔を屈服していない限り、我々はサタン・悪魔の手中にあるといえるのである。

 

(5)地上生活は愛のリハーサルだけの場ではない。愛を完成する場であり、愛の人を繁殖する場である

 原罪は淫行であると語った。そして、原罪によって人間が引き継いだものが魂の癖である。仏教でいう自分中心という間違った自我と煩悩、これが原罪によって引き継いだ魂の癖である。原罪が淫行という人間の子孫繁殖行為によるものであったため、血統を通して引き継がれることになってしまった。

 スピリチュアリズムはこのことを認めない。地上の複雑な家族関係が血統によってもたらされているということに触れない。しかし、多くの人は仏教の教えによって、因果応報という法則が我々を支配しており、血統を通じて現れてくることを学んでいる。家族関係の背後には、先祖の問題が絡んでいることを薄々感じている。したがって、地上の人間関係、とりわけ家族関係の問題はいい加減にすべきものではない。スピリチュアリズムの家族観を紹介してみよう。

 男女愛と同様、地上における「家族愛」は往々にして排他性と利己性をおびています。常に自分たちの家族の利益を第一に求めます。親は自分の子供の幸せだけを願い、自分の子供の利益を優先して求めます。“我が子だけが大切”というのが、地上の大半の親子愛の実態です。地上の家族の結びつきは、いわゆる血のつながり(血縁)であって、どこまでも物質的つながり・物質的関係にすぎません。それは肉体本能による結びつきであって、霊的なものではありません。そのため大半の地上の家族関係は、霊界においては失われることになります。

 地上の家族関係の中には、人間として体験すべきあらゆる種類の愛が存在します。親子愛・兄弟愛・夫婦愛という、それぞれ異なった次元の愛を体験することで“人類愛”のリハーサルが可能となります。また他人に愛を与え、他人の愛を受け入れるという愛の基本的訓練が、家族関係の中でなされるようになっています。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-2_04.htm

 スピリチュアリズムは、「地上の家族の結びつきは、いわゆる血のつながり(血縁)であって、どこまでも物質的つながり・物質的関係にすぎません」と、現実の家族は排他的で利己的な部分があっても仕方ないと切り捨ててしまう。家族というものは、人類愛のリハーサルの場としか見ていないようである。そうではない。家族は、先祖から私に至るまで血縁を通して連綿とつながってきた歴史の結実体であり、おろそかにできるものではない。家族は代えられないものであって、修復して人間の生存の愛の基地にしなければならないものである。愛は対象があって初めて成立するが、家族は人間が地上で愛を訓練し完成する中核的な存在である。家族を完成することが地上生活の目的であるといっても過言ではない。この原則に立つならば、スピリチュアリズムの説く地上生活の意義はあまりにも皮相的なものである。

 

(6)神の摂理は、人間の選択によって大きく変わる

 スピリチュアリズムでは、善悪の基準を「神の摂理」において、神の摂理に符合するものを「善」、反するものを「悪」としている。この見解は、多くの人の神観からみると戸惑いがあるであろう。しかし、易や占いの世界を知る人にとっては、神の摂理という考え方は納得しやすいものではないだろうか。スピリチュアリズムは、こう述べる。

 シルバーバーチは、神と人間は「神→摂理→人間」という摂理を介した間接的な関係にあると主張します。神は「摂理」を造り、それを通じて宇宙や人間を支配しています。そのため人間は常に、神が造った摂理には触れることになりますが、神と直接的に接触することはできません。神は摂理によってすべての人間を機械的に支配し、完全平等・完全公平に扱います。そこには、えこひいきや特別な配慮は一切ありません。宇宙から万物・人間に至るまで、すべてが「神の摂理」によって厳格に支配されているのです。(中略)

 人間はさまざまな摂理の支配を受けながら、「霊的成長」というレール(摂理)の上を一歩ずつ上昇していくことになります。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-08.htm

 私たち一人一人の人間は、神の摂理の中で生きている。その通りである。そして神の摂理を人間側から見た場合、日々私たちが選択する内容が世界から個人の人生に至るまでの神の摂理の方向を決めている。ほとんどの人はまったくその意識はないが、私たちが判断する選択はどちらかが神の摂理にかなうものであり、どちらかが神の摂理に反するものである。神は摂理によって世界を支配していることに間違いない。そしてその摂理の方向は、人間の選択にかかっているのである。ほとんどの場合、人間は神の摂理に反する選択を行い、その結果、苦難な状況をもたらすものになる。人類歴史や人生が苦難に満ちたものになりやすいのは、人間の選択の基準が自己中心から生じたケースが大半であるからである。(先祖の誤った選択を子孫が受けていることも多い。)

 シルバーバーチは、“悪”(神の摂理に反する選択)とは、キリスト教で説いてきたようなサタンによるものではなく、自らの未熟さが招く結果のことだという。確かに、人間の心霊の未熟さゆえであるといえばその通りであるが、ほとんどの人間が歴史上勝利できていないという現実の背後には、サタンと悪霊の働きかけがある。摂理の重要な局面に差し掛かると、サタンは姿を現し、人間を誘惑するのである。もしスピリチュアリズムが主張するように、「そういう存在はない」というならば、はるかに多くの人が悟りの境地に至っているだろうし、人類歴史はここまで悲惨なものとなっていないであろう。度重なる人間の神の摂理選択の失敗が、人類歴史の再現現象、家系の中の因縁現象をもたらしているのである。

 

(7)宗教不要論-宗教が果たしてきた役割を軽んじてはいけない。しかし、最後には宗教組織は不要になる

 スピリチュアリズムは、宗教団体のあり方に対して全否定する。確かに、宗教団体は、宗教独自の「神」に対する認識を人々に植えつけ、自分の宗教だけが真実であるという排他的な姿勢をとることが多い。その結果、その教義に固陋することになりやすく、人々を救いに導くことができなくなることもある。しかし、宗教は神がその時代その民族に必要な教えを教祖といわれる人を通して授けたもので、多くの人を救ってきたことを忘れてはいけない。今までさまざまな宗教が誕生してきたのは、時代・地域で異なる人間の状況に対応するためのものであった。

 スピリチュアリズムは、宗教組織の不要について次のように主張する。

 宗教本来の使命を知れば、これまでのような宗教組織は不要となります。不要どころか、一刻も早く地上から駆逐しなければなりません。スピリチュアリズムは、人々の「霊的成長」を促す正しい宗教を地上に確立しようとする運動です。“正しい宗教”とは、教祖も間違った人工的な教義もない宗教です。エゴ的な宗教組織も狂信じみた布教活動もありません。それは「霊的真理」を指針とし、自己責任のもとで霊的成長の道を歩むという霊的人生のことです。正しい宗教とは、「神」と「神の摂理」だけを絶対崇拝する生き方のことであり、従来のような特定の宗教組織に属して一人の人間を神格化するものではないのです。http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-11.htm

 真理は一つなので、最終的には宗教は一つになり、宗教組織は不要になるものではある。しかし、そこに至るには順序があって、段階ごとに人間の霊性向上をもたらす必要な教えと救いが必要である。人間は、宗教組織の教えに従うことによって霊性の向上を図ってきた。宗教者は、救いは一人ではなしえないということに気づいた。パウロが、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。私は、なんというみじめな人間なのだろう。(ローマ人への手紙第7章22~23)」と慨嘆しているように、救いは独力では無理だと感じていたのである。

 特に原罪の清算は、人間の努力だけでは難しいというのが宗教上(特にキリスト教)の見解である。原罪の清算が済むまでは、宗教組織と教祖の恩恵なくしては困難なのである。このことを感じるがゆえに、メシア待望論が起こり、メシアに連結されることによって贖罪(救い)を受けたいと多くの宗教者は願ってきたのである。

 原罪(罪の根)を清算して唯一の真理の道を悟ったのちは、スピリチュアリズムが主張するように自らの責任で霊的成長過程を歩むことになる。(スピリチュアリズムは、この段階だけのことを述べている。)霊的成長の最期の段階は、人間は神によって神の分身としてこの世を主管するように定められているため、主人になる資格を自らの手によって誰もが独力で勝利しなければならない。旧約聖書で、ヤコブがハランの地からカナンの地に帰る途中、ヤボク河のほとりで天使と組打ちをするが、これはサタンがカナンの地に入らせまいとする妨害であるというだけでなく、ヤコブがカナンの地の主管者として認定されるための儀式でもあったのである。

 

(8)スピリチュアリズムが普及した世界は野蛮化する

 スピリチュアリズムは、宗教とサタンの存在を否定する。この思想が広まると、人間は宗教および宗教の教えをないがしろにすることになるだろう。今まで人類の霊性向上に貢献してきた宗教は捨てられるのである。サタンと悪霊集団は存在しないことになるため、サタンと悪霊に対する人間の闘いは止むになるだろう。

 そうすると、実在しているサタンは隠れたところから容易に人間を支配しあやつり続けることができるであろう。この世の君「サタン」は、引き続きこの世を支配し続けることができるのである。人間は、サタンの誘惑に翻弄されて堕落と罪の繁殖を繰り返すであろう。人間の霊性は後退し、人間社会は野蛮化するであろう。一見先見的と思われるスピリチュアリズムの普及は、人間の平等と繁栄をもたらすと期待されて主張された共産主義が辿った末路と同じように、人間を霊的退廃の世界に導くことになるのである。

 

 最後に、このブログを書こうとした瞬間から、強烈な霊的な攻撃がかかってきたことを付け加えておく。

スピリチュアリズムの死生観と葬送・供養

 スピリチュアリズムの主張は、霊界からの霊界通信によって知らされてきた情報を積み重ねて研究されてきたものです。一人の宗教始祖が啓示として受けた内容と大きく異なり、170年にわたる多くの霊界通信の事例を整理してまとめてあることに特色があります。その中には、三大霊訓と呼ばれている(シルバーバーチ、モーゼス、アラン・カルデック)の霊界通信も含まれています。

 これから紹介する内容は、このウェブサイト【スピリチュアリズム普及会第一公式サイト・第二公式サイト・第三公式サイト】から引用しています。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/

 

1、スピリチュアリズムの死生観

 スピリチュアリズムでは、死は悲しみではありません。死によって霊は、肉体から開放され、自由になるからです。この考え方は、死後人間は霊的存在として存続するということが信じられないと理解できないものです。最初に述べたように、スピリチュアリズムは霊界からの霊の通信によって確立したものであることを考えると、「霊と霊界はある」ことは自明のことなのです。

 「霊界に行った人間(霊界人)は、もはや地上人の死を悲劇とは見なしません。それどころか“死”は、人間にとっての喜びであり祝福であり、苦しみからの解放であると考えるようになります。それが霊界人の常識となっています。(スピリチュアリズム) 」http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-2/sp-thought1-2-5.htm

 スピリチュアリズムでは、死は賛美されています。死によって霊は肉体から開放され、霊界での霊の誕生ということになるからです。私も、ブログ「2013年11月15日  日本人の死生観(産育と葬送の類似性)」の中で、国立歴史民俗博物館教授 新谷尚紀氏が指摘された日本人の独特な死生観「人の誕生と死亡をあの世からこの世へ、この世からあの世へのそれぞれ移行であると考え、そこでは同じような段階を経てその移行が完了するものだと考えていたのではないかといわれる」を紹介し、日本人はこの世の死はあの世での誕生であると薄々感じていたのではないかと伝えた。日本人の多くの人にとっては、死後の世界は当然あると思っているのではないでしょうか。この直感は、スピリチュアリズムによって裏付けられたようでもあります。

2、地上人の肉身と霊人体

 ところで、死によって霊はどのように誕生するのであろうか。死の瞬間、霊体が肉体から抜け出すということがよく言われています。『シルバーバーチの霊訓』が明らかにした地上人を構成する仕組みは次のようなものです。

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  これを地上人サイドの視点、すなわち地上人(霊能者)に見える状態として示すと次の図のようになります。肉眼に映る「肉体」に重複して「霊的身体(霊体)」が存在しています。そしてそれらの身体からは“オーラ”が放射されています。オーラとは人間から放射されるエネルギーのことで、“肉体オーラ”と“霊体オーラ”と“霊の心のオーラ”があります。

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http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-02.htm

 

3、死の瞬間と死の直後

 死の瞬間と死の直後の状態について、スピリチュアリズムは次のように説明しています。「死とは肉体と霊体を結ぶシルバーコードが切れること」である。米国の心霊研究家で優れた霊能者でもあったハドソン・タトルは“死の瞬間”を霊視して、次のように述べています。「徐々に霊体は手足から抜け出し、頭の方に凝縮する。やがて頭頂から後光(ごこう)が現れ大きくなる。次第にそれは形を現し、ついに抜け出した肉体と全く同じ形になる。霊体は高く上がり、一個の美しい霊が私の前に立つ。他方、肉体は下に横たわっている。だが一本の細いコードが霊体と肉体をつないでいる。このコードは次第に薄れていき、やがて消滅する。こうして霊は永久に地上と縁を切るのである。」

 他界した人たちの話によれば、皆“死の瞬間”は一様に、深い眠りに入るような状態――ただただ深い眠りに落ちていくような状態になると言います。痛みや苦しみを感じることは全くありません。やがて死の眠りから覚めると、自分とそっくりな人間が横たわっているのが見えます。実は、すでに本人は肉体から離れ、霊体となって自分の肉体を見ているのですが、そのことにはまだ気がついていません。そして抜け殻となった自分の遺体の傍(そば)に立っていたり、空中に浮揚していたりします。このとき大部分の死者は、思いもよらない環境の変化に戸惑うことになります。さらに、自分の死の知らせで集まっている家族や親戚の姿も見えるようになります。

 やがて死者は、地上の日数にして数日くらいで、少しずつ自分が死んだことに気がつくようになります。死を自覚するようになると、内在していた霊的意識と霊的感覚が急激に蘇(よみがえ)ってきます。このとき大半の者が、身体がすがすがしく軽やかになっていることに気がつきます。いつの間にか病気の苦しみや身体の痛みも完全に消えています。

 しかし中には、いつまでも自分が死んだことに気がつかない者もいます。相変わらず地上生活を送っているのだと思い込んでいるのです。周りの霊たちが「あなたはもう死んだのですよ」と教えてあげても、「とんでもない、私はこの通り生きています」と、死んだことをいっこうに認めないばかりか、教えてくれた人に対して怒り始めることもあります。戦争や事故でアッという間に死んだ者は、なかなか自分の死を悟ることができません。また激しい憎しみや恨みの感情を持って死んだ者も、悪感情が災いして、いつまでも死の自覚を持つことができません。また自殺した人間の場合も、長期にわたって自分の死に気がつかないのが普通です。自分は死んだつもりでいたのに実際には生きていることを知って、何度も自殺をはかろうとします。その時、たまたま地上に霊媒体質者(幽体質素が多い人)が通りかかると、無意識のうちに霊はその地上人に憑依し、自殺へと引き込んでしまうことになります。http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-2_02.htm

 

4、霊界への旅立ち

 死の眠りから覚め、死の自覚を持つようになると、いよいよ霊の世界(霊界)に入って行くことになります。霊界といっても最初に赴く所は、霊界の最下層で「幽界」と呼ばれている世界です。初めて幽界に足を踏み入れた新参者は、幽界での生活を通して地上臭を拭い去り、本格的な霊的世界へ行くための準備をすることになります。

 幽界に入ったばかりの他界者は、その環境があまりにも地上と似ているため一様に驚きます。そこには山もあり川もあり、野原や海や湖もあります。村も町も家もあり、大人も子供も、犬やネコもいます。幽界には、地上世界に存在しているものが何でもあるのです。幽界が地上とそっくりな所であるため、他界者の多くが「自分は本当に死んであの世へきたのだろうか?」と思うのです。

 幽界に存在するすべてのものが、地上世界と同じように感じられます。感触も地上と同じで堅さもあります。叩けば音を出すこともできます。水に触れれば冷たさも伝わってきます。死によって肉体はなくなっても、霊体に属していた心(精神)はそのまま幽界に持ち越されます。死んでも人間の心は、すぐに変わるわけではありません。したがって死後もしばらくは、地上時代と全く同じ考え方・性格・癖・人間性を維持します。地上時代の人格を、そのまま保ち続けます。

 さらに驚くべきことは、本人の願望や好みが、その人間を取り巻く環境をつくり出すということです。もはや肉体はないので睡眠をとる必要はありません。地上での病気や身体の不快感や重苦しさ・疲れは一切なく、身体は軽くて風呂あがりのようにすがすがしく、爽快そのものです。さらに大切なことは、すでに肉体はないので、この世界ではもう飲食の必要がないということです。お金も必要がない、欲しいものは何でもすぐ手に入るのです。 

 実は「幽界」は、さらに次の段階である霊界へ行くための準備をする場所なのです。幽界について最も重要なことは――「純粋な霊的世界(霊界)へ行くための準備をする所である」ということです。それは幽界が、他界した人間が永遠に住むことになる霊的世界に無理なく適応することができるようにとの「神の配慮」によって造られた世界だからです。このように「幽界」とは、地上臭を拭い去り純粋な霊的存在となって、次に行くことになる「霊界」での生活に向けて準備をする所なのです。

 また、霊界には地獄と言ってもいいような醜悪な場所・暗黒の場所があります。地獄を「邪悪で醜い悪人が集まる所」と定義するならば、地上に最も近い幽界の最下層の一部が、それに相当します。幽界の下層には、現実に“地縛霊や低級霊”が集まっている醜い境域(世界)が存在します。そこには魂の中身が極悪で、利己性がきわめて強い者がたむろしています。いつまでも地上的感覚を拭い去ることができず、享楽・快楽に耽溺(たんでき)したままの醜悪な霊たちが大勢いるのです。そうした醜い心の持ち主の思念は、醜い環境をつくり出します。当人たちには、それが一番心地よく感じられるのですが、外部から見れば、そこは暗く醜悪性に満ち満ちた“暗黒地獄”となっています。自分自身の地上的欲望がつくり出した地獄です。地獄は神が造ったものではなく、人間の心がつくり出したものなのです。地上時代に利己的な生き方をしてきた者、他人を苦しめてきた者、善行をするチャンスがありながらそれを無視してきた者は、死後、霊界(幽界)に行ってから、その愚かさのツケを払わされることになります。

 幽界では、地上時代になした愚行によって自分で自分を責め、後悔の念で苦しむことになるのです。“地獄の苦しみ”とは、そうした魂の苦しみ・心の苦しみのことを指しています。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-2_03.htm

 「死霊は初め穢れに満ちた荒ぶる存在であるが、あの世とこの世を往来し、家族・親族の供養を受けている間に次第に穢れと個性を脱し、やがて清浄化して祖霊群と融合一体化するに至る。そして没個性的な祖霊(カミ)として子孫を見守るために時(盆・正月)を定めて現世を訪れる。さらにはその祖霊は、新しい肉体に入り込み生まれ変わる(*柳田はそれを「魂の若返り」と言っています。すなわち肉体を借り物として、祖霊としての霊魂が繰り返し肉体を遍歴することになります)。」

柳田が述べている日本人の伝統的死生観は、スピリチュアリズムが明らかにした死生観ときわめて類似しているのです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-2/sp-thought1-2-6.htm

 

5、スピリチュアリズムの「霊界通信」によって明らかにされた「死後世界観(他界観)」のまとめ

 スピリチュアリズムが伝えている霊界通信の内容をまとめると次のようなものです。

  • 霊体と肉体を結ぶシルバーコードが切れる時が“死の瞬間”である
  • 人間は“死”によって肉体を脱ぎ去り、霊体だけになって死後の世界(霊界)で新たな生活を始めるようになる
  • “あの世”と呼ばれてきた死後の世界とは、「霊界」のことである
  • 死の直後に入る霊的世界を「幽界」と言う(*幽界は「精霊界」や「アストラル界」や「ブルーアイランド」などと呼ばれることもある)。幽界は、本格的な死後の世界である霊界と地上界との中間領域・境界的世界であり、霊界の最下層を指す。他界者はここで、生前の反省をしたり休息を取ったりすることになる。休息にともなって、大半の人間は“死の自覚”を持つようになる
  • 幽界では、思念でつくられた環境の中で、地上時代と同じような生活(地上時代の延長的生活)を送るようになる。幽界の環境が地上とそっくりなのは、そこの住人の思念が環境をつくり出した結果である。
  • 人間は死後も地上時代と同様に感情を持ち、思考活動をすることになる
  • 幽界には、自分の死を自覚できない者もいる。そうした者たちはしばらくの間(死を自覚し地上臭を拭い去るまで)、幽界に留まることになる。彼らの中には“地縛霊”となって、地上人に対して悪い働きかけをする者もいる。しかし、これまで伝統宗教で説かれてきた“サタン”や“魔王”といった悪の勢力の支配者は存在しない
  • 幽界は、本格的な死後の世界である霊界に入るための準備の場所である。幽界での生活を通して地上臭を拭い去ると、自動的に霊界に入っていくようになる。特殊なケースとして、地上時代から霊性が高く、霊的世界のことを正しく理解していた人間の場合には、幽界を素通りして初めから霊界に入ることもある
  • 幽界は地上世界とよく似ている点も多いが、全く異なる点もある。例えばお互いのコミュニケーションは以心伝心(テレパシー)でなされ、地上のような言語は用いなくなる。また、思念がそのまま外部に現れるようになる。心の中で願えば、好みの衣服や食べ物・家・持ち物などがそのまま実物として現れるようになる
  • 死後は肉体がないため、幽界では飲食をしたり睡眠をとる必要はなくなる。肉体の重さ・不自由さから解放され、病気の苦痛や疲労などは一切なくなる
  • 幽界では欲しいものは何でも自由に手に入るようになるため、お金は不要となる。地上時代のような、お金を稼ぐための労働も必要はなくなる
  • 幽界での生活を通じて地上臭を拭い去り、「もっと霊的に向上したい!」という思いが湧き上がるようになる。幽界での生活に飽きを覚え嫌気がさすようになると、霊界へ行く準備が整ったことになる。すると、自然な形で霊界に入っていくようになる
  • 霊界には幾つもの界層が存在する。本格的な霊的世界である霊界には、霊格(霊性・霊的成長度)の違いから無数とも言える界層が形成されている。他界者は自分の霊格に相応しい界層に赴き、そこで霊的親和性によって結ばれた霊たちと共同生活を送るようになる。霊界では上下の界層間の交流はなく、同一界層の間だけで交流が行われる。したがって霊界では、霊性の違いによって住み分けがなされることになる。高い界層には霊性レベル(霊的成長度)の高い霊たちが住み、低い界層には霊性レベルの低い霊たちが住むようになる。高い界層ほど素晴らしい環境となり、天国・楽園のような様相となる
  • 霊界の低い界層の住人は、高い界層の住人が輝きに満ちた美しい環境の中で幸せに過ごしていることを知っている。そのため「自分も一刻も早くそこに行きたい!」と願うようになる
  • 霊界にも仕事はあるが、それはすべて利他愛の実践・他者への奉仕活動として行われている。霊界での仕事は純粋な利他愛の精神によるものであり、霊たちはその利他的行為を通じて霊的成長を達成していくことになる。この意味で、霊界での仕事は霊的成長にとって不可欠なものと言える。霊界での仕事は完全な適材適所のもとで行われており、誰にとっても喜びとなっている。皆が生き生きと奉仕の仕事に専念しており、一人として不平を言う者はいない

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-04.htm

6、葬儀と埋葬、供養

 スピリチュアリズムでは、葬儀・埋葬・供養について次のように述べています。

 (葬儀について)

 人間の死にともなう“葬式”についても、霊的事実に基づいて考えれば、はっきりします。これまで葬式は死別を悲しむ儀式とされてきましたが、今後は霊界に旅立つ死者を祝福するセレモニーにしなければなりません。本来、葬式はしてもしなくてもどちらでもいいことであり、それほど重要性はありません。“墓”も、造っても造らなくてもどちらでもいいのです。どのような形式で造るかも問題ではありません。葬式や墓が大切なのではなく、真理に立って身近な人間の死に向き合うことができるかどうかが問題となるのです。http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-03.htm

 シルバーバーチが語るように、亡くなった人を悲しむのは自分自身への哀れみであり、愛する人を失ったことを嘆いているのです。苦の世界から開放された人のために涙を流すべきではないのです。

「皆さんは赤ん坊が生まれると喜びます。が、私たちの世界では、これから地上へ生まれていく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。同じように、地上では人が死ぬと泣いて悲しみますが、私たちの世界ではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは地上生活が果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意がこの霊に具わったことを意味するからです。」

シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.208

 葬儀を悲しみとして行うのではなく、葬儀を祝福する宗教が一つあります。統一教会です。統一教会では、喪服も喪章もせず、祝いの礼装で式に臨みます。そこにある思想は、スピリチュアリズムと同じ霊界への旅立ちへの祝いなのです。

 統一教会では死んで葬儀をする事を「昇華式」と言います。死んだ人にすがりついて泣くのを見れば、死んだ霊が嘆息するというのです。「こんなに無知だから、私の行く道を綱で引っ張って行く事が出来ない様にしている」と言うのです。その様な事を知っている為に、統一教会では「昇華」と言うのです。高潔に飛翔するというのです。愛の力をもって押してあげなければ成りません。引っ張らず、押してあげなければ成りません。昇華式とは何ですか。変化して一段階上がって行くという事です。(文鮮明

 ただ、統一教会スピリチュアリズムの葬儀の祝福には大きな違いがあります。「堕落しなければ、人が死ぬ事は幸福です。それで今日、統一教会は、死を悲しみで迎える教会になってはならないと教えるのです。(文鮮明)」堕落という問題の解釈がポイントなのです。このことについては、別のブログ「サタンの実在について」で言及することにします。

(葬儀への参列について)

 しかし、葬儀をただ祝福すればいいというものではありません。この世の葬儀では、人々の悲しみに引き寄せられて多くの邪霊・低級霊・地縛霊が集まります。死者を迎えに来るのは、死者とゆかりのある人だけではありません。死者の想念に引き寄せられて邪霊・低級霊・地縛霊も集まって来ます。スピリチュアリズムで語るような善霊だけだと解釈してはいけないのです。したがって、霊的に敏感な人は邪霊・地縛霊を連れて帰ることになります。葬儀の場には、多くの霊が集まるのです。スピリチュアリズムでも次のように注意しています。
 この世の一般の葬式では、人々の悲しみの想念に引き寄せられて邪霊や地縛霊の類が会場に集まってきます。したがって霊的に敏感な人間は、そうした葬式への参加は避けるのが無難なのです。どうしても出席しなければならないときには、自分が守護霊とともに“霊の光”に包まれている姿をしっかりとイメージして臨んでください。http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-2/sp-thought1-2-6.htm

(供養について)

 死後、時間が経っているにもかかわらず、遺族の夢の中などに死者の霊がしつこく出てくるようであれば、その霊はいまだ「死の自覚」ができていないと思って間違いありません。また自分の墓についてあれこれ注文をつけてきたり、供養を要求してくるような場合も、地上への意識があまりにも強すぎて「霊的意識」が目覚めていないことを示しています。霊的自覚の乏しい先祖の霊に、死んだことを自覚させることが本当の意味での先祖供養です。位牌(いはい)をつくったり、読経をしたり、花や果物などの供物(くもつ)をあげても、本人の霊的意識の向上には何のプラスにもなりません。いったん本人に「死の自覚」ができれば、もはや先祖供養は必要ではなくなります。あとは指導霊の導きに任せればよいのです。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-2_02.htm

(埋葬と墓について)

 火葬にせよ土葬にせよ、死体を処理するまでに最低3日間は時を置くということが大切です。死者が生前に霊的知識に無知であった場合、霊体と肉体を結ぶシルバーコードが切れても、それまでの長年にわたる一体関係の名残で、ある程度の相互作用が続くことがあります。そして地上的感覚をしばらく持ち続けるのです。その場合、自分の肉体が処理されると、一時的であっても霊の精神に障害が及ぶことになります。“自分は生きている”というような感覚を残している分だけショックを受けるのです。もちろん生前から霊的知識を知っている人の場合は、そうしたことにはなりません。

 墓については結論から言えば――「墓はあってもなくてもどちらでもいい」ということです。墓は、不用となった肉体の捨て場所にすぎません。したがって、わざわざ墓という特別な場所を設けなくても構わないということになります。山や海に捨て去っても、川に流してもいいのです。その意味で“遺灰をガンジス川に流す”というインド宗教の在り方は、霊的事実に近いと言えます。言うまでもありませんが、大きな墓を造って故人の生前の威光を示そうなどという考えは全く馬鹿げています。散骨も文句なしによい方法です。そこには何の問題もありません。スピリチュアリズムでは、遺骨には何の意味も認めず、不用となった肉体は大地に戻せばよしとします。

 ついでに言うならば、墓ばかりでなく仏壇も位牌も必要ないということになります。死んで霊界に行った先祖が幸福であるならば、地上時代の墓が無縁化しても何の問題もありません。

 死別は永遠の別れではなく、それどころか死によって愛する人との霊的距離は、これまで以上に近くなるとします。死は永遠の別離でもなければ、悲しみの時でもありません。葬送儀式は、死者の旅立ちに対する祝福のために執り行うものです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-2/sp-thought1-2-6.htm

 

7、地縛霊と地獄

 霊的世界の実在を認められない霊は、結局、地上世界の近くに留まることになります。これがいわゆる“地縛霊”です。自分の間違った考えで自分自身を地上に縛りつけている霊という意味です。よく昔から言われてきた「幽霊」という存在は、自分が死んだことに気がつかない地縛霊のことです。幽界の下層には地縛霊が集まり、絶対数としてはかなりの数に上ります。地上近くには、こうした霊たちがウヨウヨしているのです。

 地縛霊の中には、何十年も、時には何百年にもわたって、自分が死んだことを認めない者もいます。このような人間(霊)は、長い期間「自分は生きている、死んではいない」という思いを強く持ったまま、地上近くに留まり続けることになります。生前、飽食に浸り酒色の快楽に溺れるといった本能的喜びだけを追い求めてきた人間は、死んで肉体はなくなっても、本能的欲求が習性となり心に染みついています。その結果、地上近くを放浪し、同じような欲望を持った地上の人間にまとわりつくようになります。長い間、不安や憎しみ、嫉妬や恐れ、苛立ち・悲しみ・後悔の念といった地獄の世界の中に住み続けるようになります。反省しない霊、過ちを認めない霊、自分の楽しみや快楽しか考えられない地縛霊の心は、まさに“地獄”そのものと言えます。そしてその苦しみ・拷問状態が、霊たちには永遠に続くように思われるのです。

 霊界に行くと大半の人間が、一時的であっても地上人生を後悔し、辛い苦しみの時を過ごすようになります。実はこれが“地獄の苦しみ”ということなのです。霊的視点に立つならば“地獄”とは――「魂が苦しむ場所・後悔で苦しみもがく心の世界」のことなのです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-5/sp-thought1-5-1.htm

 

 人間は、地上で霊性の向上を図り霊界へ旅立つのです。霊界は、私達の故郷の地です。本然の故郷の地です。この地は本然の体の故郷の地であり、霊界は本然の心の故郷の地なのです。霊界は、愛を呼吸する世界です。愛が空気の様な世界だと自由に考えればいいのです。第二の新しい出発を「死」というのです。それ故に、その様に怖がる必要はありません。死は新しい出発の門を開くのです。