悪霊現象と救い(2)蕩減復帰原則(メシアが解明した神の武具)

 悪霊現象と救い(1)において、悪霊現象とそれがもたらす姿について説明してきました。それでは次に、この地上で人間がサタンと悪霊の術中から神様のもとに戻る道について説明していきましょう。
 救いの道は自動的には訪れません。親鸞聖人の説かれたように、「信ずればたすかる」というだけでも、お釈迦様が説かれたように八正道(正しい思いや正しい行いを行う)を実践するだけでも実現できません。道徳教育は重要ですが、それだけでは問題の全面解決にはならないのです。
 キリスト教は、人類始祖において「堕落」と呼ぶ人間の神様からの離反があったと伝えています。ほとんどの人は、遠い昔の作り話としか思っておられないでしょう。しかし、仏教が教えてきたように、先祖の因果が子孫に報うという因果応報の考えは、ほとんどの人に受け入れられています。先祖の失敗が何らかの仕組みで子孫に引き継がれているということは体験的に感じています。過去の失敗が再現されるということが、人類歴史だけでなく、私たちの家庭や個人においても再現されているのです。
 こうした歴史の失敗が起きた原因は、人間が本来の生き方(神の願い)から外れて罪を犯したということと、それをそそのかしたサタンと悪霊の存在があるためです。人類始祖は、サタンの誘惑によって罪を犯しました。その後の歴史においては、堕落した人間がサタン配下の悪霊となって人間をそそのかしてきました。そこから本来の神様の世界に復帰しようとしてきたのが人類の歴史であり私たちの歩みでした。表面的には人類歴史は人間の対立抗争の歴史であり避けられないものと考えられてきましたが、対立抗争の背後で神様による復帰の計画が進められてきたのです。それを蕩減復帰といいます。人類歴史は長い時間をかけて神様の計画が進んだ分だけ、人倫に配慮した人間社会に進歩することができているのです。(図は、「原理講論」の記述によるものです。)

 

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(1)蕩減復帰原則(メシアが解明した神の武具)とは何か
 『主にあって、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。』(エペソ人への手紙6-10~11)

 神様がサタンと配下の悪霊の攻撃に対抗するために、ひそかに計画された救いの計画が蕩減復帰なのです。人類始祖は、サタンの誘惑によって堕落しました。(具体的な罪は姦淫です。)
 この結果、人間は目が開けて自分という観念をもつようになりました。それは、自分と他人という自他の区別の情です。その情は自己に執着する、自分本位に考えやすいという性稟をもたらしたのです。サタンはこう主張するのです。「人間は所詮自分中心である。神様の言うように、人間は神様のようにすべての人を愛すことはできない」と神様に訴えるのです。サタンの主張はもっともです。お釈迦様でさえ、人間は自己愛があるが故に執着して苦しむと語っているのをみても、問題がいかに根深いかがわかります。我々人間は、とてもサタンの主張を退けるだけのものをもっていない悲しい存在だといえるでしょう。このまま人間が変わることができないならば、自己愛に執着する人間が作り出す世界は今まで同様対立抗争の世界として続くことは避けられません。
 神様はこうした状況の中で、神様を求める義人・聖人・善人を探し出して蕩減復帰という摂理をひそかに計画されたのです。堕落して神様にもサタン(悪霊)にも通じる立場に陥った人間を善悪二つに分けてサタンと対決しようとしてこられたのです。聖人・義人・善人を善なる人間の代表として立ててその人々が神様の願いに応える歩みをなしてくれることを願いました。その歩みは実に難しいものでした。聖人・義人たちは神様の願いに応えて懸命にサタンの悪なる攻撃に耐え忍びながら神様を賛美して善なる行為を繁殖することを通してサタンからこの世の支配権を少しずつ取り戻そうとしてきたのです。これが蕩減復帰であり、蕩減復帰摂理なのです。現在私たちが文明の進歩した世界で生活できるのは、神様の願いに応えて苦難の道を歩んだ聖人・義人の歩みの恩恵によっているところが大きいのです。

 

(2) 蕩減復帰における神とサタンの対決
 『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。』(使徒行伝2-17)

 蕩減とは、人間の立場から見れば神様に私たち人間が犯した罪を棒引きにしてもらうために立てる条件のことを言います。人間が本来の姿から自分の意志で罪を犯したので自分で条件を立て精誠を尽くして復帰することが必要になったために立てなければいけなくなったものです。一方、神様から見れば、善なる人間が立てた条件をもとにして、サタンとその配下の悪霊から人間とこの世の支配権を奪い返すことを企図しています。
 人類歴史は、蕩減復帰というプログラムを通して神様が堕落した人間をサタンと悪霊側から取り戻す戦いをしてきた歴史なのです。ただ残念なのは、今まで人類の蕩減復帰の歴史は、ほとんどサタンと悪霊の勝利に終わっていました。神様が召命した聖人・義人でさえほとんどサタンと悪霊に打たれてしまい、復帰摂理はほぼ水泡に帰してしまいました。文明が現在のレベルに達するには長い長い年月がかかりました。勝利したのは、サタンと悪霊が支配する勢力でした。イエス様も十字架に架けられて亡くならざるを得ませんでした。サタンが主張する堕落人間の本性(自己中心、プライド、物欲)が癌になりました。歴史はサタンが主導してきました。この世は対立抗争の世界のまま続いてきたのです。
 この世を天国にするためには、この世のサタンの支配権を取り除く必要があるのです。この世は、個人、家庭、民族、国家から世界に至るまでサタンと悪霊が中枢を支配しています。どんなに地球環境問題、人類の飢餓問題を論じても遅々として進まないのは、この世の支配権が自分を優先する価値観の人間とサタンのもとにあるからです。善なる人間が堕落した圏内(罪を犯した圏内)から蕩減条件を立ててサタンを追放する条件を立てなければ神様の領域は拡大できないのです。
 身の回りの家庭問題も例外ではありません。今、日本では多くの家庭で家庭問題が起きています。とても多くの人が苦しんでいます。それも理由がわからないので困惑している方が大半ではないでしょうか。
 現在起きている家庭問題は、善なる人が打たれることによって家族を一つにしようとしている蕩減復帰の一コマであることを理解することが必要です。善なる人は、その家庭の歴史的な先祖の失敗の償いとしてサタンと悪霊に攻撃されています。誰かが家庭を代表して苦労を引き受けてくれなければ、過去の失敗を清算することができないのです。残念なことは、苦労を引き受けた善なる人が神様をわかっていないためにサタンと悪霊に対抗できず、サタンと悪霊に翻弄されていることです。対抗する武器をもっていないのです。これでは、サタンと悪霊にしてやられるのは致し方ありません。最終的には完全に飲み込まれていくことになります。
 それに加えて、現在の家庭問題が多岐にわたり広範囲に起きている理由は、「終わりの時にわたしのすべての霊を注ごう」と聖書に書かれている現象が起きているからです。わたしの霊とは、神の救いという意味ではありません。霊界に蓄積されている善悪すべてのエネルギーが地上に降ろされるという意味です。善霊も悪霊も地上のゆかりのある人に協助するために降りてきているのです。善悪が交錯する混乱の時代が訪れているのです。終わりの時には、私の家系の問題も3代前も100代前の問題も一挙に蕩減として降りかかるのです。とても理解できるものではありません。今必要なことは、こうした神様の蕩減復帰摂理を理解して、蕩減条件を立ててサタンと悪霊に立ち向かうことが不可欠なのです。
 また目を社会に向けてみると、現在日本では、第二次世界大戦時に近隣諸国との間で起こした軋轢-慰安婦問題、徴用工問題が蒸し返されています。これも、日本の国としての蕩減復帰として80年前の現象が再現していることであると理解することが重要です。「終わりの時にわたしのすべての霊を注ごう」という聖句は、民族としても国家としても過去の歴史的な軋轢が再現されてきているのです。こうした背景の中で起きている現象ですから、その再現の中で過去の軋轢に反発せず忍耐して甘受することによって、乗り越えることが重要なのです。反発すれば、しこりは子孫に受け継がれることになるのです。いかに犠牲を少なくして乗り越えるかが重要なのです。

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(3) 蕩減復帰原則
 次に、蕩減復帰の原則について説明します。蕩減復帰は、①人間の善悪分立 ②罪の逆の経路を通しての復帰 ③神のもとに条件を立てる の三つの要件があります。


① 人間の善悪分立
 私たち堕落した立場の人間は、誰でも神とも通じる一方、サタン(悪霊)とも通じる立場にあるという中間位置にあります。どちらとも通じ合うことはできるのですが、ほとんどの場合、自分本位の考え方をするのでサタンと悪霊に通じていると考えて間違いありません。現代のように、社会に情報が氾濫していて悪なる誘惑が渦巻いている場合はサタンと悪霊にひかれていく条件がそろっています。神様は、神様を慕う人を探すことから始められました。そういう人がいないと神様が協助できないからなのです。
 神様の蕩減復帰摂理は、人間を善なる存在と悪なる存在に分立することから始まります。人間の一人は神様の側に一人はサタンの側に置く形を取ります。どちらが良いか悪いかということではなく、人間同士の間で罪を犯したので、当人同士で罪を清算するために罪を犯した方と犠牲になった方に分立されるのです。この存在を、人類始祖の物語にちなんで、アベル型人間(犠牲になった人間)とカイン型人間(罪を犯した人間)と言います。アベル型人間は、どちらかといえば従順な人で、カイン型人間は積極的な人です。善なる存在と悪なる存在に分立するのは、このように分立することにより善悪どちらの人間が勝利するかによりその結果を神様がとるかサタンがとるかを決めるのです。神様がとれば、愛と平和がもたらされ、サタンがとれば対立抗争をもたらされるのです。人類歴史は、人類始祖の物語と同じくほとんどの場面でカイン型人間がアベル型人間を力で押さえつけるという結末を迎えるサタン側の勝利となり、対立抗争をもたらしてきました。
 このことは、一人の人間の内部においても行われています。私の心の中は「心ころころ」と言われるように、いつも正しく定まっているわけではありません。善ある決意をすれば神様の方向を向き、悪なる誘惑に心が動けばサタンの方向に向いていきます。だから自分自身が本当に善なる方向に変わっていくためには、善なる条件を立てて自分の心を善の方向に定めなければならないのです。ここに後述する蕩減条件が必要な理由があります。

② 罪の逆の経路を通しての復帰
 仲の良かった二人が何らかのはずみで憎み合うようになった場合、もとの状態に復帰するためにはお互いに謝罪することが普通必要になります。罪を犯した場合、逆の経路で元の状態に復帰するということが鉄則です。二人の間の問題なので二人で解決する必要があるのです。例外はありません。
 蕩減復帰の罪の逆の経路を通しての復帰は、神様の創造の中においてもともと存在した天地創造の授受作用の原理を負荷をかけた形で再創造しようとしているものです。
AとBが月と地球の関係のように互いに支え合う関係であるのが本来の関係であったとしましょう。ところが、何かの原因でけんかをしてAがBに危害を与えたとします。AとBは支え合う関係ながらも、憎しみをもつ関係に変化します。まだかまり、不信感を持ちながら、関係を続けることになります。切ることはできませんので、不信感を低減させるか増大させるかのどちらかになります。もし、AB二人とも我が強ければ、不信感は増大して対立の根は深くなります。しかし、一方が従順ならば、対立は和らぎます。従順な人は、おそらくじっと我慢するでしょう。そうして時が経つ時、危害を加えたAが「お前はいいやつだ」と言って、「これからはお前についていくよ」と言ったとしましょう。そうすれば、AB二人の間の軋轢対立は解消されます。
 神様は、人間をこうしたAB二つの立場において対立を解消しようとしてきたのです。このことが実現できるには、従順な人間が不可欠になることがわかるでしょう。神様は、従順な人間が片方の攻撃を甘んじて受けてくれるだけで対立を終わらせようとするのです。危害を加えた人間は、被害にあった人間に従順に屈服することが必要なのです。残念ながら、危害を加えた側を演じている人は、人類始祖のカインと同様、神様に愛されないことに納得できず、危害を受けた側アベル型人間をないがしろにして押さえつけてきたのが人類歴史でした。
 仏教では、人間の三大因縁として殺傷因縁、色情因縁、財の因縁の三つをあげています。殺傷因縁は、自分のプライドが原因で他人と対立状況に至り、殺りくにまで及ぶ因縁です。家庭内、友人の間で多く見られるものです。人が一つになれない主要な因縁です。色情因縁は、文字通り男女間の問題です。もっとも深い因縁とされており、解決不可能な問題と言われています。そして、財の因縁は財の奪い合いという人類歴史の対立抗争の原因となったものです。どれも代表的な罪です。
 因果応報は、蕩減復帰のことを述べています。少し違いがあると言えば、蕩減条件を立てることにより因果応報を軽減、解消することができるということでしょう。過去の罪を一番いい形で清算するには、誰にも文句を言えない形で罪を背負うことです。病気、破産といった形は憎しみを残すことがなくあきらめに近いので、罪の清算、蕩減復帰としてたびたび登場するのです。

 

③ 神のもとに条件を立てる
 罪を犯した人間が再び本来の位置と状態に復帰するためには、罪を埋めるに足る条件を立てなければなりません。堕落人間がこのような条件を立てて、本然の位置と状態に戻っていくことを「蕩減復帰」といい、立てる条件のことを蕩減条件といいます。
 一人の人間の心の中も、「心ころころ」と言われるように、善悪いつも正しく定まっているわけではありません。善ある決意をすれば神様の方向を向き、悪なる誘惑に心が動けばサタンの方向に向いていきます。だから自分自身が本当に善なる方向に変わっていくためには、善なる条件を立てて自分の心を善の方向に定めなければならないのです。しかし、自分一人で強大な悪なる勢力に立ち向かうことはほとんど不可能です。立ちどころにやられてしまいます。今まで私たちは、悪なる勢力に部分的に勝利した成人・義人の勝利圏を宗教という形で受け継ぎ、その恩恵圏で信仰を神の武具として闘ってきました。そしてメシア降臨の時を迎えて、新たな神の武具をもって闘える時を迎えているのです。メシアは、「君たちがこの世の君サタンに立ち向かえば必ず死ぬ」とまで言われています。この世の平安と幸福を獲得するためにサタンと悪の勢力に対抗するためには、メシアの権能という神の武具をもつことが必要なのです。蕩減条件を神様の前に立てるということは、メシアの権能を振りかざしてサタンと悪なる勢力と闘うということなのです。
 蕩減条件には、縦的蕩減条件と横的蕩減条件があります。
 縦的蕩減条件とは、神様に対する信仰条件です。神の武具で身を固めなさいという言葉は、このことを言っています。神様からくる力だけが対立を解消することができるのです。私たち堕落した人間は、自分中心というサタンの支配する情を抱えてしまっているので、このままでは神様の力を受けることができません。神様の力を受けるための条件が必要なのです。
 「縦的な蕩減条件は、何によって立てなければなりませんか。責任分担完成と神様に対する絶対的な愛の完成、この二つの条件です。このような基準があるのでイエス様も、『わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこやむすめを愛する者は、わたしにふさわしくない』(マタイ10-37)と言われました。この原則から、このような言葉が出てきたのです。」(天聖教P1188)
私たちは神様と世界のために生きることが必要なのです。そして、そのような条件を立てることがまず第一なのです。
 次に、横的蕩減条件とは何でしょうか。横的蕩減条件とは、どんなサタンの迫害にあっても耐え忍ぶということです。イエス様の歩みのように、縦的蕩減条件を立てると、サタンと悪霊が攻撃をかけてきます。神様の懐に行くのですからサタンが迫害してきます。サタンは環境を支配しているので、中傷謀略をしてでもいかなる手段を使ってでも切ってしまおうとするのです。それに対抗することが不可欠です。サタンの支配する世界から逃れるのですから、サタンは逃さまいと攻撃をかけてきます。イエス様でさえ十字架にかかってしまったので、我々が独力で立ち向かうことは不可能です。ですから、メシアの勝利圏と連結して闘うのです。
 「蕩減条件は、責任分担を完遂して神様を愛するものです。サタンがどんなに迫害し、攻撃しても、それを退け、そこに動揺しないとき、サタンが打って打ちまくってそれでも退かないときは、自分が退かなければならないのです。このようにしてサタンを分別するのです。これが決定できなければ蕩減する道はありません。」(天聖教P1187)
わたしの体験からいうと、可能だということができます。そして、この闘いにおいて重要なことは、蕩減復帰原則という仕組みをよく理解すること、もう一つはサタンと悪霊の動きを察知する霊的眼力をもつことです。サタンと悪霊は霊的に襲ってくるので、その攻撃がわからなくては闘うことができません。(悪霊にやられている人は、ある程度その感性を有しているので、サタンと悪霊と闘う能力を持っているのではないでしょうか。)
 次に、蕩減条件を立てて、現在起きている家庭問題(家庭内暴力)にいかに対処するかを少し述べてみましょう。
 今起きている家庭問題の大半は、先祖からの因果応報として再現していると観ていいでしょう。先祖の問題がまとめて起きているので、どの問題かはよくわからない場合が多いのですが、家族全員が関係して立ち向かわないと解決しないことだけは確かです。家庭問題が起きてしまうと、親はおろおろするばかりです。原因も対策も何もないからです。悪霊に翻弄されている場合、対抗する力を注入しないと抜け出すことができませんが、それが何かがわかりません。
 まずしなければいけないことは、神の武具を身につけて(縦的蕩減条件)神様の権能と力を受けることです。神様との関係を築くことです。それには、仕組を知ること、神様との関係を築く条件を立てることの二つです。そしてそれを実践して条件が満ちた時、神の力が入ってくるのです。(それは、どれくらい必要かは神様とサタンの交渉なのでわれわれにはわかりません。)
 そしてもう一つしなければいけないことがあります。暴力をふるう子に対して我慢し耐え忍ぶのです。横的蕩減条件と言われるものです。そうする中で、私の中にあるわだかまりの心情を穏やかにしていくのです。悪霊は、子供を攻撃しながら親の対応を攻撃してきているということを知らないといけません。両方を攻撃してきているのです。ですから、それに対抗するには、反撃するのではなく耐え忍ぶことによって悪霊の攻撃を消していくのです。親子共同作戦が必要なのです。お払いによって一時的に悪霊が出て行っても、親子の対立の情が残っているとすぐに入り込んできます。あまり役に立ちません。
 よくこの子はいい子なのにどうしてと言われますが、いい子というのは先祖の善霊が協助していると考えられます。いい子でないと、過去の罪の清算はできないので先祖は期待しているのです。甘んじて罪の清算という苦労を引き受けるのですから、普通の人にはできません。普通の人ならば、すぐに失敗に終わることでしょう。しかし、その子も耐える限界を越えてしまうと、悪霊に乗り移られてどうしようもなくなり、先祖の罪の再現をするだけになってしまいます。神の武具が不足しているのです。悪霊に抗しきれなくなるのです。こうして家庭は、サタンと悪霊に荒らしまわられて追い詰められていくのです。神の武具を身につけないと対抗できません。次回は蕩減条件の立て方について説明します。

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悪霊現象と救い (1)悪霊現象の仕組み

(1) 悪霊現象と悪霊憑依現象
  悪霊現象というと、悪霊と思しき者が憑依したとしか思えない現象を想像されると思います。突然異言を吐くとか奇怪な行動をする人を見ると、悪霊現象なのかなと思われることでしょう。麻薬をやって人為的に異常な世界に入る人もいますが、それも一つの悪霊現象と言えるでしょう。このような現象は、日常的な姿でないため悪霊現象であると理解している人は多いと思います。
 しかし、どうしてそのような現象が起きるのかとなれば皆目見当がつかない人が多いと思います。現在、社会には悪霊現象かと思われる奇怪な現象があまりにも多いので関心だけは強いのではないでしょうか。悪霊が憑依して心を乗っ取られた場合でも、自分の心は片隅に残っています。しかし、どうすることもできず悪霊のなすがままになすすべなく翻弄されていきます。異常行動を起こした人が「〇〇しろ」という声が聞こえてきてどうしてもそうしなければいけないように思ったと供述していることがありますが、理不尽な犯罪の背後には悪霊の働きが関与しているのです。
 悪霊に憑依されやすい人は、霊界と通じやすい体質をもっている人です。いわゆる霊的能力、霊能者体質です。こうした体質の人は、霊界とコンタクトできやすいので霊界にいるいい人も悪い人もコンタクトしてくるのです。いい人がコンタクトしてくる場合は、素晴らしいひらめきやアドバイスを受け取って自分の力になっていきます。しかし、悪霊にもコンタクトされやすいので注意する必要があるのです。修行を積んだ霊能者といえども注意しなければいけません。霊能者は悪霊に対抗する力を取得して、善霊の協助のもとに悪霊からの救いの役目をなしています。しかし、霊界とコンタクトしやすいという体質は一面危険なものです。自分本位に使用していると、悪霊にやられてしまいます。悪霊には親玉サタンから地縛霊など末端の悪霊までいるので、自分の心が悪に傾けばすぐに悪霊に乗っ取られてしまいます。このため、修行をおろそかにすることは致命傷になりかねません。
 霊能力のない私たちには関係がないと思われるかもしれません。しかし、悪霊現象は皆さんが考えているような特殊な現象だけではありません。我々は日常的に悪霊の攻撃を受けています。我々が悪霊だと感じないのは、異常な形でなく普通の形で入って来ているからです。私たちは、普通に頭が重いとか肩が重いと言っています。こういう時には体が思うように動かず難儀をします。今日は体調が悪いということで処理しています。しかし、人間は本来頭が重いとか肩が重いということはありません。悪霊が来ていない状態では、頭はすっきりして体は軽いのです。そういう状態はほとんどないというならば、もう既に悪霊に入り込まれているといっていいでしょう。
 それが進んでくると、精神的疾患と言われる状態になってくるのです。信仰生活を積み重ねて少しずつ悟りの世界が開けてくると、良くない思いが悪霊を引き寄せてくるのが感じられるようになります。頭が重いとか肩が凝るという状態は本来の姿ではないこともわかってきます。頭はすっきりしていて体は軽いのが普通です。修行を積んだお坊さんが元気なのも、悪霊を屈服させてきたからなのです。

 

(2) 普段の日常生活の中でいつも悪霊は活動している
 では、われわれの日常生活の中で悪霊はどのように活動しているのでしょうか。悪霊と言っても様々な悪霊がいます。悪霊には親玉(サタン)から末端の地縛霊、犯罪者の霊まで多種多様です。神の存在を知っているものから神様のわからないものまで。地縛霊にいたっては死んだことさえ分かっていません。その悪霊の数たるや、人類歴史の期間を考えると、膨大な数いることだけは確かです。親玉サタンは、悪霊の棟梁としてこの世を牛耳っています。(サタンの目的はこの世の支配なので、よほどのことがない限り姿を現すことはありません。)
 それらの悪霊がひとりひとりの人間に入れ代わり立ち代わり日常的に入り込んでいるのです。日々心が変わるのは、入り込んでいる悪霊が変わったからだともいえるのです。
 ちょっとした思いの瞬間、悪霊は入って来ます。私の思い、言動をサタンと配下の悪霊はいつも見つめています。入る条件があるならばいつでも侵入することができます。従って、自分の心を制御できない人は悪霊の思うつぼになります。怒りやすい人、平常心を失いやすい人、落ち込みやすい人、自己顕示欲の強い人、こうした性格の人は気を付けないといけません。自分の感情に踊らされると、それを悪霊がもっていくのです。おお喜びした後、しばらく経って急にさみしくなるのは悪霊があなたの情を奪ったのです。不安な状況に陥れられていくのです。
 自分の心を制しない人は、城壁のない破れた城のようだ。」箴言25-26)
 この聖句は、まさにこのことを言っています。あなたの体は悪霊の出入り自由なお城になっているのです。このような状態ですと、悪霊が必要な時に訪ねてくることができることになります。
 「私はあなたがたにいう。誰でも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(マタイによる福音書5-28)
 この聖句も、誰もがちょっとした瞬間に思う情さえ、おろそかにできないといっています。この瞬間、悪霊が囁いてきてそそのかしたならば、あなたは罪を犯すことになるかもしれません。
 何も知らずに生きているならば、まず悪霊にやられていると思っていいでしょう。イエス様の言葉に「聞いて悟るがよい。口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。(中略) 口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。」(マタイによる福音書15-11~20)
 私たちの日常の思いが具体的な罪を起こす原点であることに気づく必要があります。私たちの周りの環境はあまりにも悪なる誘惑に満ちています。我々は知らず知らずのうちに悪霊にしてやられているといっていいでしょう。あまりにもそのことの重要さに気づかないのは、ささいな当たり前の日常のことなので、悪霊の影響を受けているなど少しも感じていないからです。
 ギャンブルでビギナーズラックという現象がありますね。はじめてギャンブルをした人が偶然大当たりを引き当てるという現象です。一見いいことのように思いますが、このことが引き金になってギャンブルにのめり込んでいき、ギャンブルの虜にされていくことがあります。知らず知らずのうちに私の心を悪霊たちが支配していくのです。当人は、自分で判断したと思っているのでそれが悪霊の仕業であると思うこともありません。気づかれないでその人の心を支配していくのがサタンと悪霊の怖いところです。
 自分本位、プライド、おごり、悲観、邪悪な思い、それらはすべて悪霊の好むものです。平常心を失ってはいけません。厳密にいえば「私」という観念はサタン(悪魔)であるともいえるのです。悪霊の醸し出す波動は、イエス様が見抜いているようにわかるものです。悪霊が入れる条件ができると、いつでも入りたいときに入るようになります。悪霊が侵入権をもったといっていいでしょう。この段階でも表面的には変わりませんので、だれも変だとは気づきません。しかし、この思いがエスカレートしていっていつしか誰の目にもわかるような罪を犯します。
 聖書に次のような言葉があります。
「強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その分捕品を分けるのである。わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。」(ルカによる福音書11-21~23)
 今は大丈夫でも、悪霊の強力な奴が出てきて、私の守り神に打ち勝ったならば、私は悪霊に乗っ取られるのです。さらにイエス様は、神の守りがないならば、悪霊が集団でやって来てひどい状態を創り出すとも言っています。
「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、帰ってみると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである。」(ルカによる福音書11-24~26)
 悪霊の住処になってしまっても、何ら神の防護をしない限り、状態は悪化していくのです。

 

(3) 善霊の業と悪霊の業(善神・悪神とも呼ばれている)
 私たちの思い、言動はすべて神側の善霊とサタン側の悪霊によっていつも見つめられています。この基本的な仕組みがわからないと、私たちは悪霊に対処することはできません。自分の思いで自由に生きているのではないのです。では、どういう仕組みなのでしょうか。
 神と神側にいる善霊たちと天使たちが協助する業が善霊の業であり、サタンとサタン側にいる悪霊たちが協助する業が悪霊の業です。善霊の業と悪霊の業は形としては差異がありません。違いは、悪霊が協助した業は動機が自分中心なので時間が経つにつれて不安と恐怖と利己心を増加せしめ、また健康を害するようになります。反対に、善霊の業は動機が神の御心に適うため時間が経つにつれて平安感と正義感を増進せしめ、健康も向上させていきます。  
 たとえば、祈願して運よく宝くじにあたったとしましょう。普通に考えれば、神様が応援してくださった、ありがたい、良かった良かったと善霊の業と解釈するでしょう。まさか悪霊の仕業であるなどと誰も思わないでしょう。しかし、宝くじに当たったことで、気持ちが大きくなり、有頂天になり、その後の人生が波乱万丈になったとしたら、どうでしょうか。悪霊は、一見良さそうな現象を起こして人間を引き込むのです。宝くじに当たることで、心に変化が起きるのです。自分の心に起きる変化を狙って悪霊は攻撃をしかけているのです。20世紀終わりのバブル経済の時、悪霊は日本人に金こそすべてという価値観を擦り込んで多くの日本人を狂わしてしまいました。
 もう一、二、例を挙げてみましょう。不幸が続き詐欺にまであって大金を失ったとしましょう。不幸の連続は悪霊の仕業には違いありません。周りの人からは、何とお人よしなんだと馬鹿にされて立つ瀬がないでしょう。不運が続くことは悪霊にやられたことに間違いありませんが、不運を耐え忍んで甘受すれば、そこで悪霊の攻撃は止まります。不運を甘受することによって罪を拡散せず罪を止めることになり、その後健康的に運も好転することがあります。わざわいは転じて福になるのです。表面だけで判断してはいけないのです。
 もう一例、家族の関係についてあげてみましょう。子供がいうことを聞かないで親に乱暴ばかりするケースを考えてみましょう。子供が乱暴するのは、悪霊の仕業であることは間違いないでしょう。乱暴をふるう子供は、ただ衝動に駆られてやっているだけでしょう。止めようがありません。自制心を失い、もはや自分で自分を律することができない状態です。完全に悪霊に支配されている悪霊現象です。子供は、自分の力で立ち直る力を既に失っています。(悪霊の力が強烈である場合、子供の心は乗っ取られていきます。) 家庭DVという問題ではこうしたケースが多いのではないでしょうか。
 こうした場合、暴力をふるう悪霊人と親との間で信仰の闘いが始まるのです。よく、「この子は悪いのではありません。この子に加担している悪霊が悪いのです」といって親は子供をかばいます。その通りです。子供の背後にいる霊(多くの場合先祖)が子に乗り移り、悪事を再現しているのです。
 このような場合、親子が一つになって悪霊と闘わないといけないのです。子供だけの問題ではありません。悪霊は、子供と親の関係を突き付けていることに気づかないといけないのです。

 

(4) 人類の救いの歴史-現代の救い
 お釈迦様は、苦の続くこの世の生活から出家して修行を積まれて悟りを開かれました。お釈迦様は、修行を通じて悪魔の挑戦を退け悟りにいたりました。最後の色魔の誘惑は誰もが知るところです。
 悟りを開かれたお釈迦様は、四諦を説かれました。「この世は無常なるがゆえに苦なり」ここにこの世で生きるうえでは、苦から逃れられないというこの世の限界を述べています。だから、この世の苦から完全に逃れるためには出家することが必要だと説かれたのです。在家の人についは、他者への施しと戒(戒め)を守ることを教えます。そうすれば、布施の功徳を積んで悪事をせず、来世は天界に生まれると教えたのでした。
① 苦諦・・・われわれの生存は苦である。一言付け加えるならば、無常なるがゆえに苦なり、である。生・老・病・死が基本的な苦(四苦)である。この四苦に加えて、a愛別離苦、b怨憎会苦、c求不得苦、d五陰盛苦(物質界と精神界の一切の事物・現象が苦である)。ここから四苦八苦という成句ができた。
② 集諦(じったい)・・・苦の原因に関する真理である。自己愛があるが故に執着するのであり、苦しむのである。a欲愛(感覚的・物質的な欲望)、b有愛(来世の幸福を願う欲望)、c無有愛(死後の世界の虚無を願う気持ち)
③ 滅諦・・・原因の滅に関する真理である。医学の方法によく似ている。
④ 道諦・・・方法に関する真理である。治療の段階である。八正道(実践)を教えられている。a正見、b正思惟、c正語、d正業、e正命(正しい生活)、f正精進、g正念(教えを忘れないこと)、h正定(精神の集中と解放)
*八正道の教えは、基本的に出家者に対する教えである。

 お釈迦様の教えは、当時の人々の灯明となりました。しかし当時の時代圏では、出家という方法が不可欠で、この世で心に平安を保ち幸せを得ることには限界がありました。それゆえに、この世での救いは後の仏と呼ばれる弥勒の降臨に希望を託さざるをえなかったのです。キリスト教でも、イエス様の十字架をもってしてもこの世の救いは完全には実現されなかったため、再臨主の降臨に引き継がれました。世の東西両洋でメシア降臨が期待され続けられてきたのです。メシアが降臨されるとき、この地上で私たち人類ははじめて救われると信じられてきたのです。弘法大師空海も、弥勒降臨の時には私も降臨して協力すると述べています。
 悪魔の領袖サタンは、この世の君と言われます。メシア降臨の終末の時、この世の支配者であるサタン(悪魔)のもとにある人類歴史が終わりを告げ、新しい時代が始まると言われてきました。そして、終末に降臨すると予言されていたメシアは現実に来られてサタン(悪魔)との壮絶な闘い(愛と忍耐の闘い)に勝利されて私たちに救いの道をもたらして下さいました。私たちは今、メシアにつながることによって、この地上においてこの世の主サタン(悪魔)から逃れて神のもとに戻る道が開かれたのです。わかりやすくいえば、この地上に地上天国を築く道筋が開かれたのです。
 現在悪霊現象が頻発しているのは、地上にメシアの救いがもたらされる時が来たために、その恩恵に浴しようと善霊人、悪霊人がこぞって霊界から降りてきているのです。いい人が苦労したり悪霊現象に悩まされたりしているのは、こうした背景があるからなのです。霊界にいる霊人たちも、地上にいる縁ある人(子孫が多い)がメシアにつながることを期待しているのです。メシアの価値を分かっている霊人はあまりいないと思いますが、協助している地上人がメシアにつながるならば喜び、無視するならばがっかりしていることでしょう。そして、メシアと関係がもてないならば救いは先延ばしされてしまうのです。
 既に、メシア以降の千年王国時代は出発しています。しかし、その恩恵にあなた自身が浴するのか否かは、あなたの価値観と生き方次第です。今までこの世を牛耳ってきたサタンの価値観にとらわれるならば、サタンと共に滅ぶ運命にいたるでしょう。反対に、神様のもとに帰ることを選択するならば、希望の未来が切り開かれていくことでしょう。しかし、神様のもとに戻る道は、自らの中に侵入しているサタンと悪霊の条件を払しょくすることなくしては現実のものとなりません。すべては人間次第です。おそらくほとんどの人がいままでの価値観のもとにとどまるでしょう。その場合、人類に大きな悲劇が来ることは避けられないものとなります。

 

地上天国建設への道「神に侍り、隣人に寄り添い、生きとし生けるものすべてを慈しむ」

 

 この言葉は、ほとんどの宗教が教えていることと同じではないか、さして新しいことではないと思われることでしょう。そうです。それほど真新しい言葉ではありません。宗教が教えてきたことは本来の人間の在り方、生き方を教えてきたものなので、本質的には同じものです。世界の中では地域・民族によって宗教の教えが異なっているように見られていますが、それはその民族に適した教え方を取っているためだけであって、その教えの基本は変わりません。宗教は、神様がいること、神様と人間は親子の関係であること、人間はこの地上でお互いに助け合って天国をつくることを教えてきたのです。

 聖書のはじめに、神様は人間を創造した後彼らを祝福して「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ(創世記1-28)」と言われたと書かれています。この言葉の中にすべての神様の願いが凝縮されているのです。

 表題で述べた言葉は、神様が創世記の中で語られたみ言を地上に生きる人間がどのように実践するかという意味を込めたのです。言葉に込めた意味を少し説明していきたいと思います。

 

 (1) 神を崇め、神を信じではなく、なぜ神に侍るなのか?

 科学万能の時代に神様という話題自体がナンセンスだと思われている人も多いと思います。現代は、人間の意識の中に神様を忘れ棄て去り人間万能を誇示している時代です。神の力が働いているなどということを信じている人の方がごく少数派でしょう。ちょうど、ソドムやゴモラの街のように、神を忘れて快楽にふけった時代と同じように。この価値観が正しいものかどうかは今後の歴史が示すことでしょう。

 神を信じている人からみても、なぜ神に侍るのかは理解できないのではないでしょうか。神を信じることはわかるけれども、神の意図が分からない限り侍ることなどできないではないかと思われるでしょう。そうなのです。私たち人間は、神様から遠い存在になってしまったのです。神様の言葉が聞き取れないばかりか、神様の存在さえ確信を持てなくなってしまいました。

 神の言葉を聴き取れなくなった人間にとって、自分の思いがすべてになりました。お釈迦様は、「人間は自分中心である。だから他人に危害を与えてはいけない」と諭されたと言われています。「私は私自身のことを知らない。私が苦しんでいるのは、物がないからでもない。敵が攻めてきたからでもない。他の人がこう言ったからでもない。自分の無知、無明。自分のこころが明るくない。ものを知らないということに原因があるということに気づくということが大切です。」(出典:「お釈迦さまの願いと教え」 上山大峻先生のご法話より(平成20年6月20日) www.joukyouji.com/houwa0808.html

 わたしたちの心の中に、自分という価値観が占領したのです。そしてそれは、無明であるのです。

 聖書の人類始祖の堕落の場面に「イブが蛇の言葉を信じて善悪知るの木の実を食べた後、自分が裸であることがわかりいちじくの葉を腰に巻いた」という記述があります。私たちの意識の中に、別の意識・情が入り込んだのです。自分という情(自分と他人を分ける情)です。この情は、人間を仲違いさせていく自分優先の情だったのです。人類歴史が対立抗争の歴史になったのは、この情が入り込んだためなのです。それゆえ、神のもとに帰るためには、自己犠牲と自己否定という難しい道を通過することが不可欠になってしまったのです。自分優先という情は、とても根深いものです。この情を拭い去るために宗教人がどれほど悪戦苦闘しエネルギーを注いできたことでしょうか。

 自己犠牲、自己否定の宗教修行を通して自分優先という情を何とか乗り越えてくると、心の内に入り込んだ自分という誤った情が何かがわかるようになります。心の中に、善悪の葛藤が明確に芽生え、その情を克服すると、人間は神と部分的ですが一つになってきて神性を帯びるようになり、神の心情と摂理がわかるようになってきます(悟りと呼んでいる現象)。一種の超能力なようなものも生まれてきます。しかしそれは、自分勝手なものではないことも同時にわかるようになります。私たち人間は、自分勝手に生きているのではなく、神様の摂理の中で生きている、生かされていることに気づくのです。

 人間は、天宙の中心として創造されているので、神に近づくにつれて神の心情と摂理が理解できるようになるのです。ちょうど、子供が成長して親の気持ちがわかるようになるようになるのと同じです。

 何故、神に侍るのかと言えば、人間は自分勝手に自分の都合で生きているのではなく、神の摂理の中で生きているということを感じるようになるからです。しかも、神の摂理は刻々変わっていきます。昨日の摂理と今日の摂理とは違うことがままあるのです。また、人間の行いの結果次第で神の摂理は変わっていくのです。イエス様を十字架につけたその時からその後の2000年の人類歴史のアウトラインは決定されたようにです。

 私たちの身の回りの行動にも摂理は働いています。私が取る選択如何によって、私の未来は決まっていきます。私が取る選択次第で私の未来を神と悪魔(サタン)が奪い合っているのです。今日の私の判断は、明日の私と神の摂理に大きな影響を及ぼしているのです。そうした背後の事情の分からない人間は、ほとんどの場合神の願いとは反対の選択をしてしまいます。保身という選択は、失敗という言葉に置き換えてもいいかと思います。

 

 (2) なぜ、隣人を愛すではなく、寄り添うなのか?

 「汝の隣人を愛せよ」とは聖書に記されているイエス様の言葉です。家族、隣人と仲良くし互い助け合うことは宗教の教えの基本です。しかし、なかなか隣人とひとつになれないのが現実の姿ではないでしょうか。

 その最も身近な隣人が家族です。隣人に寄り添うことの原点である家族は、互いに寄り添う愛の基地でなくてはいけないのです。家族の中にどんな問題があろうとも、それを避けて通ってはいけません。家族の破綻は、子孫により大きな愛の問題を先送りするのです。

 人類歴史の出発が家族の間の対立、分裂から始まっているということを知らないといけません。世界中の民族の神話にはほとんどすべて兄弟殺しが記述されているということは、家族の分裂が混乱と人間の不幸の原因なのだということです。現在、多くの家族で、家庭内に問題を抱えています。わけもわからず突然、重い闇が押し寄せてきて家族を苦しめているようです。家族そのものが歴史の結実体で、過去にあった問題が噴出しているのです。それは、一人の問題ではありません。家族間の心の問題が表出しているのです。この問題は、家族が一つにまとまろうと互いに寄り添うことによってしか解決できないのです。

 私たち家族を神様と悪魔(サタン)は見つめています。悪魔(サタン)は、いつもこういいます。「所詮、人間は自分中心で、互いに協力して一つになることはできない」と主張してくるのです。人類歴史を振り返ると、悪魔(サタン)の言い分に返す言葉がありません。何と悲しい人間なのでしょうか。同時にそれを見つめている神様の悲しみが伝わってきます。本当にどうしようもありません。

 信仰を深め宗教的に修行を積んだとしても、それを克服することは至難の業です。聖パウロが、「私は内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう(ローマ人への手紙7-22~23)」。聖パウロの嘆きは、善を求める宗教人すべての嘆きです。

 この人間の苦しみに神様が摂理されたのが、メシアを送るという摂理です。人類歴史の終末の時、私の肢体の中にある悪魔(サタン)の律法を拭い去って神の律法に置き換えるという役事を準備されたのです。それが、黙示録にある子羊の婚姻なのです。家族の分裂の原点の修復、それがこの役事なのです。

 では次に、汝の隣人を愛せよではなく、なぜ隣人に寄り添うようにという言葉を選んだのかを語ってみましょう。汝の隣人を愛せよという教えは、私たち一人一人に愛の実践の行動指針を教えています。多くの人が、宗教が教えている指針に従って、隣人を愛することを実践されています。そう実践することによって、かけがえのない兄弟愛に結ばれた隣人関係を築いておられると思います。しかし、隣人を愛するという行動は、ともすれば押し売り的で他人の不興を買うこともあります。また、隣人に気遣い慈しんでも、隣人は期待に副う反応を示してくれるとは限りません。私が考えている隣人への愛と隣人が受け取る愛の姿には隔たりがあることが多いのです。

 お釈迦様の逸話の中に次のようなお話があります。

王様がお妃に「この国は、豊に栄え民衆も穏やかに過ごし、何の不足もないが、そなたにとって一番いとおしいものは何か?」と、聞かれました。お妃は「王様です」とは答えずに、「自分が一番いとおしいです。」と答えました。また、逆にお妃が王様に同じように質問されると王様も「自分が一番いとおしい」と答えられたということです。そこで、この答は正しいのかをお釈迦さまに尋ねに行かれたところ、お釈迦様は「その通り、それで間違いない。」と答えられ、「だからこそ他の人もまた、自分が一番かわいいと思っていることに気づかねばならない。」

(コーサラ国のハシノク王とお妃のマツリカの話)

出典:「お釈迦さまの願いと教え」 上山大峻先生のご法話より(平成20年6月20日) www.joukyouji.com/houwa0808.html

 誰しも自分が一番かわいいと思っているという現実を直視する必要があるのです。このことに気づかれたお釈迦様は、本当に自分がかわいいのであったら、自分を大切にすると同時に、他人も大切にしていくということに気づかなければならないということにも気がつかれたのです。これが、仏教の原点です。自分が一番かわいいと思っている人間同士が一つになるということは、お互いを尊重することなくして成立しません。だから一方的に愛を施すのではなく、その人に寄り添うことが重要であり原点であるのです。

 人類の歴史は、反発と反逆の歴史でした。私と隣人との関係は、今を生きている二者の間の関係だけでしたらそれほど難しい問題を抱えることはないでしょう。しかし、私もそして隣人も長い歴史の背景がありその結実体として今を生きています。それぞれ歴史の中で起こした深い事情を抱えています。一朝一夕に解消するものではありません。兄弟愛のもとに唯一無二の関係を築いていくことが目標ですが、間に横たわっている問題はいつ解消されるのか定かではない複雑なものを含んでいることも多いのです。だからこそ、寄り添うという姿勢が大事なのです。それは、多くの場合我慢強く耐え忍ぶということを必要とするのですが。お互いに寄り添う中において信頼関係が生まれ、兄弟愛(利他の精神)に結ばれた人類一家族を形成していくことが可能となるのです。そこにあるのは、無私の愛の姿なのです。

 イエス様が「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りにせよ(マタイ7-12)」と語られ、「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれる(マタイ7-1~2)」であろうと語れていますが、この言葉の中に寄り添うということがいかに重要な姿勢であるかが示されています。

 

 (3) 生きとし生けるものすべてを慈しむとはどういうことなのか?

 仏教に殺生禁断という言葉があります。むやみに生き物を殺すことを戒めることです。

お釈迦様は、「すべてのものは、暴力におびえる。すべての生き物にとって、いのちはいとおしい。おのが身に引き比べて、殺してはならない。殺さしめてはならない。(ダンマパダ 第10章)」と言われています。私たちの身の回りの生きとし生けるものはすべて生命をもっています。それだけでなく、大地までもが生命を有していてある心をもっています。そうであるからこそ、自らに危害を加えようとする者に対しては恐怖を覚え身構えます。しかし人間は、生きとし生けるものの叫びの声が聞こえないがゆえに、人間本位に生きとし生けるもの(万物)を殺したり利用したりしています。生きとし生けるものの心を感じ取ることができないのです。

 私たち人間は、この地上生活においてその物的基盤はすべて生きとし生けるもの(大地も含めて)万物に依拠しています。万物の援助なしには人間の地上生活は成り立ちません。そうであるにもかかわらず、人間は謙虚な姿勢を忘れて、万物は勝手に利用できるものであると考えているところに大きな問題が潜んでいます。

 聖書の中に「万物は本然の人間があらわれるのを待ち望んでいる」という記述があります。聖パウロは、次のように述べています。「被造物は、実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、・・・(中略)実に被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、私たちは知っている(ローマ人への手紙8-19~22)」

 人間とこの地上に生きる生きとし生けるものすべてとの間には大きな断絶があるのです。万物の心のわかる人間が現れた時、この地上は人間と生きとし生けるものが一つになる調和したすばらしい世界が展開されることになると考えられます。

 私たちは、心から愛して万物と接すると、万物がささやきかけてくるという経験をすることがあります。こうすればいいのだよ、こうなのだよとヒントを与えてくれるのです。手塩にかけて家畜を育成し愛情をもって作物を育てることによってすばらしい実を結ぶのも、人間と家畜・作物が共感し合うことによってプラスαの成果がもたらされるのです。

 このようなことは、科学の世界でもよく言われることです。誠心誠意研究に没頭していると、ひらめき、ヒントが突然襲ってきて新しい発見発明につながるといわれます。

 生きとし生けるものはすべて、その存在に意義があり人間に対して価値を有しています。その秘められた価値を本当に引き出すことができるのは、もの(万物)に愛情を注いで一体となった人間なのです。

 私たちが生存している大地も同じです。現代の科学では、大地は人間とは関係なく地球の鼓動として活動しているとしか考えられていません。しかし、地球の鼓動といわれる大地は、私たちの心とも連動しています。地球は、私たち人間の心の反映なのです。現在地球が危機に瀕しているという姿の内側には、私たち人間の内面の心が危機に瀕しているということでもあるのです。(地球意識計画-物理世界と地球的な意識とが相互作用を起こしているという可能性を研究している-が進められている。)アニメや物語の中で、天変地異を大地の怒りであると記述している場面がありますが、天変地異は大地がバランスを崩した結果、そのバランスを戻そうとする行為であるといえましょう。私たち現代人は、科学的知見を獲得してそれに頼ってきたがために、素朴な感性を失ってしまっているようなのです。

 もう一度、私たちの科学的知見の背後にいる神様の存在に気づく必要があります。そして、神と一つになり、隣人と一つになり、生きとし生けるものと一つになる努力をすることが大切です。それができた時、そこに地上天国は生まれるのです。

日本民族の危機《神は私たちの一挙手一投足を見つめておられる》という意識と感覚の喪失

(1)先日のサイン盗み疑惑事件
 先日の選抜高校野球全国大会(2019年)で、“サイン盗み疑惑”が問題となった。第6日の星稜(石川)―習志野(千葉)戦で星稜・林監督が習志野の二塁走者がサインを盗んでいたと試合後に指摘し、大会本部や審判委員が緊急会見するなど大騒動に発展した。

 フェアプレーで闘うスポーツの世界にもルール逸脱の蔓延という由々しき事態が進行しているようだ。関係者によると、以前からサイン盗み疑惑がなかなかなくならないらしい。記者会見を行った竹中事務局長は、「やってはいけないということは大会規則に書いてあること。なのにフェアプレーの本質をわかっていないと思われる行為が見受けられる。精神を作っていかないといけないし、口を酸っぱくして言い続けるしかない。前時代的な野球はやめましょう、ということですね」と、困惑したコメントを出された。

 経済活動においても、企業のコンプライアンスに問題があることは多々報じられてきた。見つからなければいいという感覚しかないのであろうか。いつから日本人は、このような感覚しか持たなくなってしまったのであろうか。神が私たちを見つめているということを気にしないのだろうか。それとも、神は人間がつくった架空のものと思っているのであろうか。

 困り切った時だけ神頼みをするという情けない姿に対しては、神はどうすることもできない。ここに、日本民族の本当の危機がある。


(2)身近に神を感じてきた日本民族の伝統
 古来、日本人は身近に神を感じて神を崇敬してきた。私たちの生活の周りには、常に神が存在した。かまどの神であり、山の神であり、田の神であった。神は身近な存在であった。その霊力が強い所には、祠をつくり神を祀ってきた。産土神を祀る日本古来の信仰では、そこら中に神の気配(正確には霊界の姿)を感じていた。日本は神々の国であり、人々は身近に神を感じてきたのである。親は、子供に「お天道様が見ているから恥じない行いをしなさい」と諭したものである。

 私たち日本人は、今も正月には神社に初詣をして静かに厳かに1年の始まりを祝う。静かに正月を祝う民族はほかにはいない。その風習は、神の前に心を正して神と共に新しい年を迎えるという日本の伝統である。正月には、年神あるいは歳徳神と呼ばれるご先祖様を各自の家に迎え入れてこれを祀る。ご先祖様は各自の家に戻って来られ、家族がみんなそろって年神と一緒に食事をする。大晦日の夕方に年神に神饌を供えて、翌朝その神饌をおろしてみんなで食べる。そのごった煮が雑煮である。

 また、日本人は言葉にならない雰囲気という会話によって無言の会話をしている。それは、他の国の人には実にわかりにくいものであるが、会話は言葉だけではないのである。それは時としてはっきりしないものではあるが、以心伝心としてその場の空気として会話が行われている。

 日本語の言葉も特殊である。日本語は「言霊」とも言われてきた。日本の言葉には霊力が宿っていると言われてきた。確かに、日本語はほかの言語と異なる面がある。一音一語で、音の響きによって意味を伝えるという特殊な一面がある。アルファベットが表音文字であり、漢字が表意文字であるならば、日本語は表霊言語と呼んでもいいかもしれない。

 そのような日本人であるからこそ、村の鎮守様を中心に村社会を形成できたと言えるだろう。しかし、いつしか日本人は神を感じなくなってしまった。感性が鈍くなってしまったようである。

 

(3)神を感じなくなった人間は、道徳と規則に頼ることになる
 神を感じ神に見つめられているという感覚を失うと、目に見える表面だけを取り繕う社会となる。私の心の奥底は誰にもわからないという意識は、他の人間にわからなければ何をしてもかまわないという意識を生む。社会秩序を保つためには、人間関係を正しく保つために表に現れる道徳を浸透させなければいけないという意識をもたらす。神が見つめておられるという意識のない世界では、道徳と規則だけが社会秩序を保つ拠り所となる。それは、一見必要不可欠の正しい姿のように思われる。

 しかし、神を感じない世界において、道徳を教え規則を作るということは、言葉によって秩序を形成するものとなるため、堅苦しく個人の自由と行動を縛るものとなっていく。道徳の背後に神が見つめているという意識がなければ、その場を支配する空気は安らいだものとならない。しかも規則は、時と共にエスカレートして細かくなっていく。心の通わないギクシャクとしたルールが支配する社会では、安らいだ情がそこに生まれず息苦しくなる。それはやがて、神なき人間が人間を支配する硬直した社会となる。神の愛と心情が欠落した社会は、平安と安らぎが感じられない冷たい社会を創り出していくのである。

 そして、最終的には神なき社会の秩序は全体主義に転化していく。共産主義や計画社会、近年懸念されているAIによるロボット奴隷社会となっていく。

 

(4)自由主義経済は、神に見つめられているということを自明のこととしてフェアプレーをするという精神が一般化して初めて成立したということを忘れてはいけない

 倫理学者であったアダム・スミスが経済活動について執筆した目的は、すべての人に最低限の富の確保をもたらすことなくしてこの世界において幸福を達成することができないという熟慮に基づいていた。一人一人が貧困を避けることが出来るか否かは、節約や勤勉など個人の努力だけでは難しい。社会全体の富の拡大なくして人間の幸福はもたらされないというのが、アダム・スミスが見出した結論であった。

 しかし、経済活動には多くの身勝手な活動が入り混じっている。富と地位に対する野心の競争となるため、それは社会の繁栄を推し進める一方、社会の秩序を乱す危険の大きいものである。  

 スミスはこの危険を乗り越えるためには、「競争はフェアプレーのルールに則って行われる必要がある」と主張した。そしてもし、フェアプレーの侵犯がなされるならば、(胸中の)観察者たちが許さないと述べた。私の心の中にある良心とそれを背後から神が見つめているという意識と感覚が経済活動を前進させる前提であることを教えたのだ。

 スミスが容認したのは、正義感によって制御された野心だけである。「見えざる手」が十分に機能するためには、放任されるのではなく「賢明さ」によって制御されなければならない。制御されないならば、人類と文明は当然ながら解体に向かうのである。

 神様は、いつも私たち人間を見つめておられ、神様の前に正しく行動する人には手を差し伸べ、背を向ける人にはため息をついておられることを忘れてはいけない。全ての力と救いは神様からきているのであり、神様なくして我々の平和と幸福はないのである。

 日本資本主義の父と言われている渋沢栄一も、「商人にとっては信用こそが根本だ」と主張し、誠実さが経済活動に不可欠であることを強調した。不正直に商売をしてももうけることはできるかもしれないが、そのような利益は決して永続するものではない。誠実に商売をしてこそ、安定的・持続的な利益を獲得することができると述べた。「不誠実に振る舞うべからず」「自己の利益を第一には図るべからず」。この言葉は、アダム・スミスと同様、心の中の良心とその背後に神様が見つめているという感覚からもたらされたものである。
 こうした精神が根付いていたからこそ、日本は近代化に成功したのである。


(5)この地上世界を築くのは、人間の責任である
 地上世界は、この地上で生活する人間が作り出すものである。無形の神は、人間に多くの知恵を与えることはできても、具体的に地上を作っていくのは人間である。神様は無形の存在であるので、具体的には直接手を下すことができない。この地上は、実際に住む人間によって作られる。住みやすくするのも、住みにくくするのも、人間である。その意味で、現在の地上の姿は人間の心の姿の反映である。地球が危機に瀕している現実は、人間の心が危機に瀕していることの反映でもあるといえよう。

 アダム・スミスも、人間はこの世界に責任をもつ必要があるということを述べていた。「道徳的存在は、責任ある存在である。責任ある存在は、そのことばが表現するように自己の諸行為についての説明を、だれか他人に与えなければならない存在であり、したがってそれらの行為をこの他人の好みに応じて規制しなければならない存在である。人間は、神と彼の被造物に対して責任を有する(『道徳感情論』3部2編)。」

古き天地が滅びて新しき天地が始まる。私たちは、神様が遣わされた弥勒(再臨主)につながらないと救われない

 私はこのブログを通して、宗教を多角的に取り上げてきました。ブログを読まれた方は50万近くになります。お読みになられた皆様には心から感謝いたします。

 私は、このブログを宗教の知識、必要性、心得を伝えるためだけに書き続けたのではありません。もちろん宗教を誤解している人には正しい理解をしていただきたいと願いました。それだけではありません。もっと本質的なことがあります。

 人類が歴史をかけて待ち望んだイエスの再臨(再臨主と呼ぶ。東洋では弥勒の降臨として待ち望まれた)がこの地上で実際に起こり、再臨主は救いの摂理を成し終えられて天に帰られたこと、その恵みが今地上にあることをお伝えしたいのです。再臨主の人生は、あまりにも苦難に満ちていました。イエス・キリストの十字架の人生のように私たちの至たらなさをすべて抱えて、この世の主サタン(悪魔)と壮絶な戦いをして来られました。そしてサタン(悪魔)との壮絶な闘い(愛と忍耐の闘い)に勝利されて私たちに救いの道をもたらして下さいました。このあまりにも大きい恵みに対して感謝の言葉しかありません。私たちは今、再臨主につながることによって、この世の主サタン(悪魔)から逃れて神のもとに戻ることができるようになったのです。わかりやすくいえば、この地上に地上天国を築く道筋が開かれたのです。

 今私たちは、多くの苦悩を抱えています。精神疾患、家庭の不和、孤独、貧困問題、環境問題、国家対立など。そのほとんどには解決の術がないように感じています。まして私たちが抱えている心の闇など自分で変えることなどできません。だからこそ苦しみ悩み絶望に襲われます。私たちは、自分が抱えている苦悩を自力では解決できないと気づいています。それと同時に、私たちは心の奥底では私を生かしている何らかの存在(神様)がいるのではないか、私たちは神様を必要とし神様のもとに帰ることが本当ではないか、とうすうす感じていませんか。

 私がブログを通して伝えたかったことは、自らの苦しみを救うのは神様だけであり、神様が遣わされた再臨主であること、私たちは再臨主につながらないと救われないということを伝えるためでありました。新約聖書の「使徒行伝」16章31節には、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」とあります。これは本当です。自分の思いを捨てて主イエスを信じ侍ることによって、主イエスの霊(神の愛の情)が私の心の中に入ってくるのです。自らの思い(罪深い性)を悔い改め、主イエスに委ねることによってぎすぎすした心が消え平安な心へと心が洗われていくのです。

 悲しいことに、私が今まで再臨主と出会わないと救われないのだと説いても、誰一人そのことに耳を貸す人もいなければ、再臨主の救いを受けたいと言われた方もありませんでした。自らの心の闇、苦しみから救われることを願っておられないのでしょうか。そんなことはうそだ、あり得ない、再臨主は必要ないと感じておられるならば、自分で行ってみてください。よい結果が現れることを祈っています。

 現代が終末であることに異論を唱える人はいないでしょう。行くべき道がわからない今の状況は、このようになるべく予定されていました。終末とは、神とこの地上の支配権を有しているサタン(悪魔)が激突する時なのです。個人から始まり、家族、民族国家、人類全体の善と悪が激突する時なのです。そしてこの世の支配者であるサタン(悪魔)のもとにある人類歴史が終わりを告げ、新しい時代が始まることを意味しています。古き天地が滅び新しき天地が始まるという聖句は、こうしたことを語っているのです。

 それゆえ、終末にはすべてが混乱の局に達します。天変地異が起こり、人々が泣き叫び、もだえ苦しみ、多くの人が生命をなくすといわれるのも、以上のような理由によります。すべての人が混乱の中で、善と悪に分けられていくのです。イエス・キリストが「わたしは平和をこの地上にもたらすために来たのではない。むしろ分裂である」と語られているのは、すべてが善と悪に分けられるという意味です。

 イエス・キリストの時も終末でした。イエス・キリストは、ただ人類を救いに来られたのではありません。人々は、イエス・キリストの前で知らないうちに善と悪に分けられるので、イエス・キリストは審判主でもあったのです。

 イエスは、「わたしは火を地上に投ずるために来たのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなに苦しい思いをすることであろう。あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今から後は、一家の内で五人が相分かれて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう(ルカ第12章49~53)」と言われたことを見てもわかります。

 「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すぐにきている。そして聞く人は生きるであろう。(ヨハネ第5章24~25)」と言われたのです。

 神の国はいつ来るのかとパリサイ人が尋ねた時には、次のような言葉を残されました。

「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起こった。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。(ルカ第17章26~33)」と言われ、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」と言われたのでした。

 ゴルゴダの丘に向かうイエス・キリストは、悲しみ嘆く女たちにこうも言われました。

エルサレムの娘たちよ、私のために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日がいまに来る。そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。(ルカ書第23章28~30)」と語られました。

 神の子イエス・キリストを十字架に架けたユダヤ民族は、神の身元からサタン(悪魔)に引き渡されることが決まったのです。イエスの死後40年後の西暦70年、エルサレムローマ帝国との間に起こったユダヤ戦争において陥落します。エルサレム神殿は破壊され、一部の生き残ったユダヤ人もマサダの砦で玉砕します。それ以降、1948年のイスラエル建国に至るまで2000年間、ユダヤ民族は国を失い放浪の民として迫害を受け、嘆き悲しむ受難の歴史を歩まざるをえなくなったのです。偶然で歴史は動いているのではありません。

 再臨主(東洋では、弥勒の降臨として待望されてきた)は、この世を創造された神と完全に一つになられたお方なのです。信じられないかもしれませんが、現代歴史のものすごい荒波の背後で神とサタンの摂理を賭けた闘いがなされてきました。再臨主につながるということは、神の霊(心情・愛)が私たちの心の中に注がれてくるという救いの恵沢を受けることができるのです。反対に、再臨主につながらないということは、サタン(悪魔)から逃れられないという宿命を受け継ぎ子々孫々に受け渡すことになるのです。2000年前に起きたように、一人一人が山羊と羊に分けられていくのです。

 この話は、キリスト教だけの話であって、キリスト教でないものには関係がないだと思われている方も多いかもしれません。しかし、日本の宗教も弥勒の世が来る前にはほぼ似たことが起こるのだと言っています。「神さまは、“得心さして改心さす”と仰っている。“悪でこの世が続いていくかどうかということをみせてあげる”と仰っている。“渡るだけの橋は渡ってしまわねばミロクの世にならぬ”と仰っている。どうもそうらしい。せめて世界中の半分の人間が、なるほどこれは間違っているということを心の底から気づいてこなくてはダメだ。(大本教 出口日出麿)」。

 終末の時には多くの艱難が起こり、人々は神につながる人と悪の世界にとどまる人の善悪に分けられる審判があるのです。夜明け前が一番暗いといいますが、現在は弥勒の世が来る前の夜明け前だといっていいでしょう。私たちは今、改心して神様のもとに帰ることが一番大切なことなのです。

 審判は突如来ます。聖書の黙示録は、こう記しています。『ああ、わざわいだ、この大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた。(ヨハネの黙示録第18章―10)』審判は、核戦争か天変地異である可能性が高いでしょう。

 皆様には、神様の身元に帰る道を探し求めていただきたいと願います。そして皆様が信じている宗教は、神道も仏教もキリスト教も大本は一つの同じ神様から発している教えであることに気づいていただきたいのです。教えは、その時代その民族に合うように工夫されているだけで、すべては一つの神様につながっています。神様を探し求めましょう。神様を求める人、弥勒を求める人、再臨主を求める人は幸いなるかな。その人のもとには神の霊がとどまり神の栄光に与かれることになるでしょう。

共産主義では、何故地上天国は実現できないのか?

(1)K.マルクスは、イエズス会パラグアイ理想郷建設を知って共産主義に確信をもった

 K.マルクス共産主義という理想社会を確信をもって提唱したのには、ある一つの歴史事実を発見したことが大きいのです。イエズス会パラグアイ理想郷建設です。それまでのK.マルクスは、ユートピア思想に懐疑的であり世人の世迷言にすぎないと思っていました。

 イエズス会によるパラグアイ理想郷建設とは次のようなものです。

 17世紀、イエズス会は、それまで森林で遊牧生活を行なってきたグアラニー族に対し、トーマス・モアが描いた「ユートピア」の生活を実現しようと、宗教的な教えだけでなく、政治、文化、社会 教育(読み書き)だけでなく、農業、畜産、工芸品の製造などについても教える理想社会建設を行いました。イエズス会の伝道所は、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイなどに30箇所ほどで、17世紀から18世紀にかけて150年にわたって繁栄しました。財産を私有せず(貴金属、特に金は軽蔑された)、必要なものがあるときには共同の倉庫のものを使う。人々は勤労の義務を有し、日頃は農業にいそしみ(労働時間は6時間)、空いた時間に芸術や科学研究をおこなっていました。伝道所は、農業や工芸で大きな利益を上げ、住民はみな美しい清潔な衣装を着け、集落は、住民が平等に食べ物や財産を分け合い、貧富の差がない理想郷だったといいます。一帯は「パラグアイイエズス会国家」と呼ばれていました。

参考:拙者ブログ:地球村創造ブログ2018/4/15「トーマス・モアユートピア』のモデルとして建設された『パラグアイの理想郷』」

 ユートピアは実現できるのだ。イエズス会が示したパラグアイの実験は、地上天国建設を勇気づけるものであったのです。

 

(2)J.M.ケインズも、共産主義の理想主義は評価した

 多くの人が共産主義に惹かれるのは、人類はみな平等であり、すべての人が手を携えて幸せに生きるという社会の建設に賛同するからです。

 共産主義は、財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会をめざすことです。生産手段や販売方法、利益を平等に分配するなど、すべての人が平等な社会をめざすことです。それだけでなく、「共産主義社会」とは、国家権力が死滅し最後は政府も必要なくなるという人間が自主運営する社会であるともされています。

 この共産主義が提唱する人類社会の理想像については、J.M.ケインズも評価していました。しかし、現実の人間は、他人を押しのけてでも競争に勝とうとする欲得が深い性をもった自分中心の人間であり、他の人間を従属させることに何ら矛盾を感じない性をもっています。この人間の性を知るとき、共産主義という思想は社会改革の方法としては現実的なものでないといえるのです。ケインズの経済理論が発表された時、当時の人はこれで共産主義の脅威から逃れることができると安堵したのです。

 

(3)理想社会「共産主義」の前段階とされている社会主義こそが癌

 K.マルクスは、従来の理想社会、ユートピア思想を空想的社会主義として一括りにして一蹴し、自らが提案する理想主義「共産主義」はまったく新しい思想であるとして「科学的社会主義」として提案しました。最終的な目標はほとんど変わりないのですが、その過程―共産主義社会に至るステップと方法論―が科学的であるとしました。土地及び生産手段を社会所有にして能力に応じて人々に分配するとしたのです。しかし、この段階に欺瞞、問題があるのです。

社会主義では生産手段は社会の所有に移され、もはや搾取はないが、社会の構成員への生産物の分配は、『各人はその能力に応じて働き、各人はその働きに応じて受け取る』という原則に従い行われ、そのため社会的な不平等はまだ残る。社会の生産力がさらに発展し、人々の道徳水準が向上したとき『各人はその能力に応じて働き、各人はその必要に応じて受け取る』という共産主義の原則が実現され、そのときは権力の組織である国家がなくなるだろう。」([稲子恒夫]日本大百科全書(ニッポニカ)

とされています。この考えには、二つの致命的な問題があります。

 一つは、生産手段を社会の所有にして計画主義経済を採用すると、社会が窒息死するということ、もう一つは、道徳水準は自動的には向上しないということです。この結果は、現実の社会主義国の状態を見れば明らかです。経済は停滞し、道徳水準は向上するどころか粗野になっているではないですか。

 

(4)全面的に計画主義経済を採用すると、人々はやる気を失いロボット化する

 毛沢東が、1950年代大躍進時代、一切の私有を廃止して子供の教育も集団で、食事も共同食堂でという人民公社化(共同化)を進めた時、人々は自主性、創意工夫をなくして生産力は逆に低下して飢餓をもたらしました。

 また、共産主義社会の街は、北朝鮮平壌のように整然としたものになっていますが、どこか人の住む息遣いが感じられません。死の街なのです。モンゴルの首都ウランバートルでも同じような姿でしたが、一歩裏に入ってみれば、人々はささやかな菜園を囲って耕していたそうです。

 人々から自主的に創意工夫によって生活する自由を奪ってしまうと社会は死滅していきます。計画主義経済社会がつくる社会は、人々の生気が消え失せた死んだ社会になりかねないのです。

 為政者、計画立案者が把握できるものは限られています。この限られた情報に入りきらない側面を人々に解放しなければいけません。人々の自主的な活動、工夫を禁じてしまうと、社会から活気は消え失せて停滞し、人間はロボット化してしまうのです。官僚主義が冷たい生気を失った社会をもたらすのは、規制に縛られてしまうからです。

 こうした弊害を乗り越えるために、社会主義各国は経済の自由化という方策を採用するのですが、この方策は計画とは異なる価値観を生むため、計画者、為政者に刃を向ける勢力が生まれ緊張が高まることになっていきます。

 

(5)神の否定は人間の謳歌のように思われているが、人間社会の背後には神と悪魔が住む霊界がある。神の否定は、悪魔にひざまづくものである

 資本主義が内在した富の格差は、社会の中に多くの不満と憎しみをもたらしました。資本主義社会の中で、この不平等は残念ながらキリスト教の温かい愛の奉仕によって解決されることはほとんどありませんでした。そこに共産主義が登場したのです。共産主義は、このようなキリスト教徒の無慈悲な態度に怒りを覚えて誕生したのです。

 唯物弁証法によると、「精神とは弁証法的に運動する物質の機能であると考える。物質が本来的で根源的な存在であり、人間の意識は身体(例えば大脳、小脳、延髄など)の活動から生まれる」と説明します。観念の世界を否定する結果、心は物質に従属するものとなり、心の自由、自主性が軽んじられることになりました。環境を変えると心は自然に変わるのだという観念が支配するのです。それは、一面人間主義であり人間の力を誇示する考えです。

 ここに問題があります。心の自主性、魂の向上は環境を変えれば自動的に変わるものではありません。魂の改心、魂の向上は単純ではありません。そして、魂の改心ができなければ、地上天国は実現できません。

共産主義という形で平等な社会が表面上築かれたとしても、魂が変わっていない限りすぐに壊されることになる。人間一人一人の魂の改心ができるまで地上天国はできない。心の底から間違っていると気づき、正そうとすることが不可欠である。(大本教 出口日出麿)」

 共産主義が道徳を教え啓蒙しても限界があります。形としての道徳は教えても、義務としての強制的な実践にしかなりません。形だけの道徳は、悪魔も模倣することができるという言葉があります。そこには何の喜びも生まれません。道徳水準は愛によってしか高まりません。神の愛に触れて人々が改心した時、はじめて心の魂の水準が向上するのです。心が洗われるという経験を通して道徳水準は高まっていくのです。心を変えることができるのは、神のみです。神を否定した共産主義には、道徳水準の向上は不可能なことなのです。それどころか、行き詰まるので独善と強制に陥っていくことになるのです。

 

(6)正反合の弁証法からは、調和のとれた社会は生み出されない

 弁証法では、「全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)される」と説明します。

 この説明は正確ではありません。己の内に矛盾を含んでいるのではなく、時の経過とともに己の内に不完全さが生じるため、不完全さを補完するために新たな存在を必要とするのであって、このため相互に規定し相互依存的な関係が生まれるのです。

 正反合の論理は、不完全さを補完する存在を対立関係として捉えています。対立関係として捉えるということは、反発関係として捉えることであり、反発から生まれるものは憎しみであり、力による屈服ということになります。決して二者が和解して一つになる合体ではないのです。

 共産主義は、正反合を旗頭に憎しみのエネルギーをまとめ、一人一人の不満の力を大きな一つの不満の力にすることによって、体制改革を実現しようとしたのです。「万国の労働者よ、団結せよ(共産党宣言)」というスローガンと世界革命思想は、このことをよく表していると思います。

 憎しみの情から出発した弁証法的展開は、発展ではなく衰退に向かうことに気づく必要があります。そこには、マイナス(破滅)のエネルギーが働く形になります。共産主義各国において、時間とともに生産性が向上するどころか停滞し衰微していったのは当然の帰結でした。正反合という弁証法は、正反合ではなく正反滅であり、合に向かうには両者の和解というまったく別の手法が必要なのです。それは、歴史的に宗教が示してきたことです。「汝の敵を愛せよ」という聖書の言葉こそ真実を著わしているのです。

日本民族は、この世に弥勒浄土を造ることを目指してきた

 日本民族の意識の根底には、弱肉強食に陥り殺伐とした社会を招きかねない自由競争の資本主義には賛同しきれない嫌悪感があり、神仏を否定した共産主義には専横独裁に陥りかねないという違和感があるようだ。どちらも「良し」とできないもののようである。

 2014年米国のピュー・リサーチセンターが行った自由市場についての世論調査によると、主要先進国のうち、日本だけが自由市場を支持する人が50%を切っている。日本は自由市場を支持するという人がわずかに47%で、自由市場を否定する人の方が上回っています。主要国の中で自由市場を支持している人の割合がもっとも高かったのはドイツで、73%の人が自由市場を支持。ついで米国が70%、英国が65%という結果でありました(ベトナム95%、韓国78%、ギリシャ47%、スペイン45%)。
http://thepage.jp/detail/20141023-00000012-wordleaf

 歴史を振り返ると、日本の社会は共に生きて助け合う共同体であったことがわかります。お互いが助け合って生きていく相互扶助社会だったのです。日本民族は、「共存共栄共生」の持続性ある平和な社会を築いてきたのであり、その社会を築くことを理想としてきたのです。

 古代縄文日本人は、紀元前後大陸の動乱から逃れて弥生人と呼ぶ人々が移住してきたとき、「共に生きる」という共存融合の道を選びました。また、外国からの侵略の危険があると、日本は交易を閉ざして自国の文化と精神を守ってきました。

 しかし、江戸時代末期にはそうした選択は不可能でした。それゆえ、明治維新の時の海外への開国は一大事であったのです。日本民族が歴史的に培った文化と精神が根絶やしにされかねない国難だったのです。混乱が必至であったがゆえに、多くの神の啓示が地上に降ろされて、西洋の思想の中には容認しがたいものが含まれているから気を付けなければいけないと警告したのです。明治維新期、大正期に多くの新興宗教が誕生した背景には、こうした歴史事情があったことを理解することが大切です。

 日本という国家は、聖徳太子の17条の憲法、594年の大化の改新天皇号が明記された689年飛鳥浄御原令を経て701年大宝律令(日本という国号が初めて制定されたという説もある)によって中国の王土王民思想にならった国家制度が成立します。班田収授の法によって国家の根幹となる国民への田の支給を定めましたが、前提となる土地の原資は時の豪族が提供(奪ったのではない)したようです。支配、被支配という観念ではなく、相互扶助、共存共生という感性がその時からあったようです。

 このような民族意識は、民族の心を育む信仰として現れて来ました。

 (1)宗派を超えて信仰されてきた弥勒信仰

 弥勒信仰は、日本人にとって根幹にもあたる共通の信仰です。推古天皇の時伝来し、奈良・平安時代、戦国時代に特に栄えました。奈良中宮寺太秦広隆寺弥勒菩薩像を思い浮かべる人が多いのではと思います。弥勒信仰は仏教だけにとどまらず、各地に土着の信仰として広まりました。各地に残る地蔵信仰は、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの間衆生を救う菩薩として信仰を集めてきました。生前弥勒の化身とされていたという七福神の布袋(ほてい)様も、多くの人々に信仰されてきました。富士講の中興の祖 伊藤伊兵衛は、「食行身禄」と称し貧しい庶民の救済に尽力しました。

 では、弥勒信仰とはどのような信仰なのでしょうか。
兜率天(とそつてん)に住んでおられた釈迦牟尼仏は、われわれ衆生を救わんとして、兜率天から地上に降りて来られて、インドの釈迦国の浄飯王の妃である摩耶夫人の胎内に入られ、シッダ-ルタ太子となって誕生されました。釈迦牟尼仏は、兜率天を去る直前、弥勒菩薩を未来仏にノミネート〈指名)されました。自分はこれから人間界に行って仏陀となり、衆生を教化するが、自分のあとは、弥勒菩薩よ、そなたが人間界に行って仏陀となってほしい・・・・。その依頼によって、弥勒菩薩は、56億7千万年後に仏陀となってわれわれのところに来現されるというのです。(弥勒下生経〈羅什訳〉)』

 古代インドにおいて、弥勒信仰は熱狂的に流布し、多くの弥勒像が造られていきました。弥勒下生の地とされるゲートマティという都市は、仏教の描くすばらしいユートピアとして知られ、後世の極楽浄土に比定されるものでした。信者たちの弥勒浄土への憧憬は、「弥勒浄土変相図」によく示されています。仏はこの地上に悪が充満している時に、悪行・非法をなすものを救済しようとして現れたのに対して、弥勒はこの地上から悪が一掃される時にはじめて、大衆とともに成仏したいというのです。

 このように弥勒は、仏陀が未来仏として救済を託した仏であり、この地上を救うために降臨すると予言されたものでした。地上の救いを実現するという使命を持っているため、熱狂的に信じられてきました。日本でも、古代、弥勒信仰が隆盛して弥勒菩薩像が崇拝されました。弥勒信仰とは、古代インドに現れたユートピア思想だったのです。
 しかし、弥勒が降臨するのは56億7千万年後というとてつもなく遠い未来であったため、いつしかその期待はしぼんで、阿弥陀信仰に変わっていきました。弥勒は菩薩で兜率天におられるが、阿弥陀仏如来である。浄土では阿弥陀仏の方が上の世界におられるのだから阿弥陀仏を信仰した方がいいと考えたようです。ここから阿弥陀仏を信仰する浄土信仰が始まるのです。

 弥勒信仰は、仏教においてだけでなく神道においても大切にされてきました。日本仏教においては、観音経(法華経の経典の一つ)が愛されるように、この世の幸福が願われてきました。日本民族は、大乗仏教という在家仏教を通してこの世に浄土を造りたいものだと願ってきたのです。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/3/19 「弥勒信仰の発生と起源」より)

 (2)日本の村社会は、信仰共同体

 国家機構が出来上がる大化の改新(646)前後から血縁集団としての氏が崩壊していきます。その後村落は、律令体制下での班田収受制、荘園公領制を経て、鎌倉時代末期変質し始めます。
 その中で百姓は、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、まず畿内・近畿周辺において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていきました。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれるようになりました。惣村の内部は、平等意識と連帯意識により結合していました。惣村の結合は、村の神社での各種行事(年中行事や無尽講・頼母子講など)を取り仕切る宮座を中核としていました。惣村で問題や決定すべき事項が生じたときは、惣村の構成員が出席する寄合(よりあい)という会議を開いて、独自の決定を行っていきました。
 葬式も、共同体としての氏が崩壊してから氏から村で行うものになっていきました。村が大きくなると葬式を一緒にできないので、村の中をいくつかの組に分けて、村の運営がされるようになりました。
 この組のもとになっていたのが二十五三昧念仏講です。二十五三昧講(三昧会)は、986年(寛和2年)に比叡山内横川にあった首楞厳院で、25人の僧が結集して結成された念仏結社です。この結社は、極楽往生を希求する念仏結社であり、月の15日ごとに僧衆25名が集結して念仏を誦し、極楽往生を願いました。彼等は、発願文に「善友の契りを結び、臨終の際には相互に扶助して念仏する」ことを記していました。「往生要集」の作者でもある恵心僧都源信、942~1017)が始めました。講を結成するときに約束をするのが12か条の約束【横川首楞厳院(よかわしゅりょうごんいん)二十五三昧式】でした。

 民族学者の五来 重氏は、「日本の村は、二十五三昧講の結成により血縁社会から一種の信仰集団に変わっていった。村は、信仰的なつながりをもって運命共同体になった。ですから、日本の村落には多数決はありません。必ず全員で決め、一人でも反対があったら否決だという慣習ができています。そのかわり、一人二人の頑固者がいて承知しないと、縁のある者がみな寄ってたかって『よし』というまで説得します。運命共同体には、多数決で少数の人を犠牲にしてはいけないという観念が昔からありますが、それは宗教的な集団であったからです(五来 重著「先祖供養と墓」角川書店1992 p140)」と言われています。
 日本の共同体精神は、宗教によって啓蒙され、村は運命共同体となったのです。
(参考:筆者ブログ キヴィタス日記2013/8/21「日本の共同体精神の源流〈ニ十五三昧講〉」より) http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-b928.html

 (3)茶室と茶道は、仏国浄土を目指した

 茶室というのは、お茶をたてるために、最小限の空間、亭主と客、お道具がおさまるだけの極小空間を囲んだもの、たったそれだけのものですが、そこに本来の究極の人間社会の姿を表現しようとしたものが茶室と茶道です。主人と客人、そして二人の間を取り持つ最小限の道具をもって、あるべき本然の姿を創り出そうとしたのです。村田珠光武野紹鴎千利休という茶人の創意工夫によって草庵茶室と茶道が完成されていきますが、豪奢を排したありふれた自然の中に美を発見し仏国浄土を築こうとしたのです。

 茶室に向かう客人は、日常生活から離れ、茶の湯の世界へ入るための庭園、露地に入ります。まず、外腰掛で心をしずめます。そして、一歩一歩飛び石をつたって、手水で浄めて躙口(にじりぐち)をくぐって席入りをします。客用の小さな出入口である躙口(にじりぐち)から中に入るには、誰もが身をかがめて入らなければなりません。この世の上下関係、立場を捨ててお互いに無垢のありのままの姿の一人の人間として対峙する。それを、何をいわずとも、空間の所作によって教える、それが躙口なのです。茶室は、小宇宙、あるいは母親の胎内であるとよく言われますが、躙口から入ったらそこは浄土なのです。心でみる美しさ」の茶道の世界なのです。

 茶の湯の教えや道具扱いの心得を教示したといわれる「利休居士道歌」では、どんな道具でも、手順で他の道具にうつる時は、その前の道具を恋しい人と別れるように、名残惜しく扱わなければならないと教えています。一連の作法のなかで、茶碗に水や湯、抹茶を入れる時、どんな道具であれ、なにか自分自身の全責任をもって、新しい世界を切り開くのです。茶の湯は、誠心誠意心を込めて客人をもてなすことを教えているのです。

 茶道では、一期一会という言葉が頻繁に使われます。同じ茶会が開かれることはないからこそ、「誠心誠意を込めて客人をもてなそう」と考える精神につながっていくのです。茶道では、茶会によって用いられる花が違い、テーマによって掛け軸を変えます。そうすることによって、まったく同じ茶会は二度と開かれないことを暗に演出しているのです。

 茶道の言葉に「和敬清寂」という言葉があります。主人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にするという意味です。こうして狭い空間の中に客と亭主が相対する、濃密な空間を生むのです。茶道は、茶室という狭い空間の中に仏国浄土を築こうとしたことを忘れてはいけません。

 村田珠光は、「心の文」の冒頭で、茶の湯の修行において最も障害となるのは、心の我慢(われこそはと慢心すること)、我執(自分に執着して我をはること)であると述べました。しかし、最後になって「かまんなくてもならぬ道也」、つまり茶の湯は「我こそはと思う気持がなくては成就しない道である」と、反対のことを言っています。仏国浄土は、自らの手によって切り開かなければできないと言っているのです。

(参考:www.digistyle-kyoto.com/study/culture/chashitsu/chashitsu09.html

 (4)禅が教える還相の役割

 禅では、「悟るだけが禅ではない。悟った後、還相(げんそう)して本来の主体(神仏)のもとに役目を果たすことが重要である」と説きます。還相とは、この世に戻ることです。出家したままでは何もならない、世間と隔絶することがすべてはないというのです。あくまでもこの世を神の世界に変えていかなければならないというのです。この考え方は、おそらく日本に特に強いものではないでしょうか。
 「極楽というところは久しくとどまるべきではない。とどまってもしようのないところだ。ありがたいかしらんけれども、ありがたいだけでは何のためにもなりゃしない。ただ自己満足ということになる。それだから、どうしても極楽を見たらただちに戻って来なければならない。還相の世界へ入らりゃならん。」(鈴木大拙)

 「徳雲の閑古錘、幾たび妙峰頂を下る。他の癡(ち)聖人を傭うて、雪を担うて共に井を填(うず)む」(白隠『毒語心経』)
(
解釈:武村牧男氏 白隠は、修行の跡も消し去って、とがったところもまったくなくなった境地にある者が、その利害打算を超えた立場から、報いを求めずに黙々とひたすら働きつづけるあり方こそ、「兼中到」という至高の境地にふさわしいと見たのです。どんなに雪を放り込んでも、井戸は埋められることはありえない。そのような無意味のことに、せっせとはたらいてやまないところに、禅のこのうえなく深い味わいがあると。)

 「ただはたらいてやまない」というのは、自我にしがみついてはたらくというのではなく、本来の主体(超個あるいは神・仏)そのものに目覚めてこのかけがえのない主体を自覚して、その主体の下にやってやってやりぬく(真空妙用)ということなのです。還相して本来の主体そのものに目覚めて、やり抜けと言っているのです。

 秋月龍珉氏は、『従来の禅では相交わる対象がどうも自然に傾きすぎて「私と汝」という人間対人間のところで「自他不二」の境涯を練る訓練が足りなかったと思うのである』と語り、還相して自他不二の人間関係を築くことに努めなければいけないと説いています。禅の修行によって得た覚りは、覚りの終着点ではないのです。アガペーの愛の実践だけではない。さらなる覚りの世界を目指さなければいけないというのです。禅は、還相(娑婆)の中に自他不二の世界(地上天国)を創り出そうとしているのです。

 禅は、特定の教義をもたず、自由な立場にあることから、多くの宗教間対話に参加して主導的な役割を果たしてきています。世界のさまざまな宗教の対立が深刻になる中で、禅は宗教間の対話の重要な役割を果たすことができるのではないでしょうか。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/7/15「禅の世界と禅の未来(5)現世における自他不二の世界の創造」より)

(5)武士道精神が培った生死の呪縛からの解放と忠孝

 17世紀の武人著者大導寺友山は、その著書「武道初心集」の初めに、「武士にとって最も肝要な考は、元旦の暁より大晦日の終わりの一刻まで日夜念頭に持たなければならぬは死という観念である。この念を固く身に体した時、汝は十二分に汝の義務を果たしうるであろう。・・・」と記しています。日本人の、特に武士の『潔く死ぬ」という死の哲学・態度は、禅の教えから来ました。禅の修行は単純・直裁・自恃・克己的であり、この戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致するのです。
 禅は、武士に道徳的哲学的二つの面から支援しました。道徳的というのは、一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教えるのが禅であり、哲学的というのは生と死とを無差別に取り扱うからです。禅には、一揃いの概念や知的公式を持つ特別な理論や哲学があるわけではありません。ただそれは、人を生死のきずなから解こうとするのです。しかも、これをするために、それ自身に特有な、ある直覚的な理解方法によるのです。それゆえに、その直覚的な教えが妨げられぬ限り、いかなる哲学にも道徳論にも、応用自在の弾力性をもっていて、極めて抑揚に富んだものになるのです。

 武士道の有名な書「葉隠」には、こう記されています。「葉隠の意味は、〈葉の陰に隠れる〉の意で、わが身を誇示せず、角笛を吹いて廻らず、世間の眼から遠ざかって、そうして社会同胞のために深情を尽くすのが、武士の徳の一つだというのです。いつにても身命を捧げる武士の覚悟を強調し、いかなる偉大な仕事も、狂気にならずしては、すなわち、意識の普通の水準を破ってその下に横たわる隠れた力を解放するのでなければ、成就されたためしはないと述べています。この力はときとして悪魔的であるかもしれぬが、超人間的であり、すばらしい働きをすることは疑えません。無意識状態が口を切られると、それは個人的の限度を超えて立ち上がり、死はまったくその毒刺を失う。武士の修養が禅と提携するのは実にこの点にあるというのです。

 生死を超えた毅然とした態度と不断の精進、一度決断したことは翻さない、こうした修養が武士に武士たる威厳をもたらし、武士道という精神を造り上げたのです。

 日本の精神とされている忠孝の精神は、武士道が儒教(朱子学)と結びつくことによって、どの民族にもない「忠孝」-滅私奉公という主君との主従関係を創り出しました。私という観念を拭い去って主人のために尽くすという精神は尊いものです。しかし、それは礼を守るという姿勢だけが極端に強調されて、江戸時代の儒教武士道(武士は君主のためなら自己犠牲をいとわない)とか国粋主義(国のためなら家族を犠牲にすべきだ)という国や君主のために死ぬのは当然だとかいう倫理に変質したのでした。

 日本民族の武士道の精神は、世界から称賛されています。それは、武士道が私という観念、生死という観念を超越して公(全体)のために生きるという、信仰の自己犠牲、自己否定と同じ道を啓発しているからです。ここに武士道がもつ素晴らしさがあるのです。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/6/26「(鈴木大拙氏とともに)禅と武士道」より)

 (6)日本教(人生と修行)

 松永尺五、石田梅岩とともに日本型資本主義の精神の形成に大きな役割を果たしたといわれているのが江戸初期の曹洞宗の僧侶、鈴木正三です。正三は徳川家康に仕えた元旗本で、日々の職業生活を大切にすることが仏の道に通じると説きました。「何の事業も皆仏行なり。人々の所作の上におひて成仏したまふべし。仏行の外なる作業有るべからず。一切の所作、皆以て世界のためとなる事を以てしるべし。仏体をうけ、仏性をそなはりたる人間、意得あしくして好て悪道に入ることなかれ」。正三は、職業の中に仏教を生かすことが大切だと主張したのです。
 鈴木正三は、山本七平氏によって高く評価され、近代の日本人の人生観、勤労観に大きな影響を与えた人物です。日本人が好きな「人生修行」という観念は、この人から生まれているといってもよいでしょう。この世のすべての職業がすべて仏行である。人間はそれぞれの職業生活において成仏できると肯定したのです。日本のプロテスタンティズムを作った人物と呼んでもいいと思います。
 「正三の思想は、仏は気(機)であり、天地はその仏である気で満ちているという、画期的な仏理解が上げられる。つまり、仏である気が、十方に、満々と満ちており、その仏の働き(徳用)によって世界・世間のものごとが生成している。仏は、万徳円満の仏、言い換えれば、気である仏の計り知れない働き(万徳)によって、森羅万象が形をなし、一切世間の人々の所作・事業、すなわち鍛冶、農業、医業などの具体的なる活動(万徳)が生成して、世界を利益するのであると、その一端を測ることができる(公益財団法人中村元東方研究所研究員 加藤みち子氏)」と捉えたのです。何と近代的な神観ではないでしょうか。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/7/15「禅の世界と禅の未来(5)現世における自他不二の世界の創造」より)

 (7)近代神道が目指した地上天国

 幕末明治維新の時代は、13世紀鎌倉時代と並ぶ宗教の一大変革期でありました。この時代に、習合神道系、仏教系、山岳信仰系等の多くの宗教運動が新たに成立してきました。如来教黒住教天理教金光教、冨士講身禄派、丸山教、本門仏立講(のちの本門仏立宗)などが生まれました。村上重良氏は、「これらの新興宗教は封建宗教にはもとめえなかった個人の主体的信仰に基づくもので、同じ信者の強固な結合がはぐくまれた」と述べています。この時期に起きた宗教にはいくつかの共通した特徴があります。

 まずあげられることは、強力な一神教的な最高神による救済の教義であるということです。如来教如来黒住教天照大神天理教の天理王命、金光教の天地金乃神、丸山教大祖参神(もとのおやがみ=太元の父母)等です。

 第二は、各宗教はすべて現世中心主義で、病貧争のない「この世の極楽」が語られ、病気なおし等の現世利益が一貫して強調されていることです。天理教では、死を出直しと呼び、その教義には、来世も祖霊信仰も原理的には意義を認めない徹底した現世中心主義がみられるのです。

 第三には、民衆の全生活的な救済の使命感を支える素朴な人間愛であり、人間の本性への信頼でありました。天理教では、「一列はみな兄弟」とされ、金光教では、「神の氏子」として人間はすべて階級・身分・性の差別なく平等でありました。自主的な信仰によって結合した民衆宗教の信者たちは、互いにたすけあい学びあって、共同の信仰生活の場をつくり出したのです。

 『大別すると、政治と社会の変革によって「よふきぐらし」(天理教)、「日の出に松の代」(丸山教)とよばれる理想社会の実現を目指す政教一致型の世直しの宗教と、「実意丁寧神信心」(金光教)をもとめて信仰をどこまでも個人化し内面化していく、内面指向型の宗教が見られる(村上重良)』のです。

 幕末明治維新期の民衆宗教の勃興は、外国から入って来る思想の中に邪悪なものが含まれていることに対する警戒と宗教が究極的に目指している現世での理想社会の実現という目標に向かって準備されていた一つの方途であったと思われるのです。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/10/14「幕末明治維新期に成立した民衆宗教の展開と特徴」より)

(8)弥勒仏の降臨を準備した大本教

「神が表に現われて、三千世界の立替え立直しを致すぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下太平に世を治めて、万古末代続く神国の世に致すぞよ」(お筆書き)

 大本教は、明治末出口なおによって始められた宗教です。なおの「お筆書き」により、艮(うしとら)の金神の世直しを唱えて、「みろくの世」(神の国)の到来を唱えました。
 「お筆書き」には、この地上に神国の世(みろくの世-理想世界)を建設するため、精神界・物質界のいっさいを立替え立直しするという神の誓約が記されてありました。今の世は、“われよし”“強いものがち”の悪魔の心になっており、世を乱してきた悪霊を改心させ、善一筋の神の世、平和の世にすると宣言しているのです。そしてもし人類が改心しなければ世界に大難が来て、人類が3%に減じると予告されていたのです。

 王仁三郎も、明治37年(1904年)の「道の栞」の中で、次のように述べています。(松本健一著『民間日本学者3 出口王仁三郎』リブロポート1986年より)
「世界の各国はいずれも皆、おのが国の利益を中心として働きおれり。わが国は真理のため、文明のため、平和のために日本魂を中心として働くべきなり(第3巻上60)
国と国との戦いが起こるのも、人と人との争いが起こるのも、みな欲からである。神心にならずして、世界のためを思わずして、わが国さえ善ければ他の国はどうでもよい、わが身さえ善ければ他の人はどうなってもよいという自己愛から、戦いや争いが起こるのである。これらはみな悪の行為である。(第1巻下58)」
人類はすべて神の子、神の宮であり、したがって人類はすべて兄弟であり、世界は一つの大家族であるという真理を、世界の人類に自覚させることが肝要や。世界の人類が兄弟であれば、貧富の差があってはならず、そのためには私有財産の観念を否定し、すべてが神のものであるという認識に立たねばならん」と語っています。

人類はいまや救主の出現を待ちて無明暗黒の世界を模索しつつあるにあらずや

 王仁三郎は、大本教の万教同根の思想と宗教による精神的な世界の統一の方法として、世界宗教連合の実現に努力していきます。この理想は、大正14年(1925年)5月、普天教、道教、救世新教、仏陀教、回教、仏教、キリスト教の一部からなる世界宗教連合会の設立となって実現します。大正14年6月には、「人類愛善会」を発足させます。ここを母体とする人類愛善運動は、非常な勢いで国内だけでなく海外へ発展していきます。総本部は亀岡に置き、その下に東洋本部・欧州本部・東京本部を置き、あっというまに日本だけでなく満蒙、東南アジア、ヨーロッパ、アメリカ、南米、南洋諸島などに支部が設立されていったのです。ヨーロッパにおいても賛同者が続出し、入会者がひっきりなしであったといわれています。各国各地には愛善堂、愛善農園、愛善保育園、愛善診療所、愛善語学校などが作られていきました。

 大本教は、日本だけでなく世界という舞台で宗教の連合、人類の救済活動を実践しながら、救い主の出現を待ちわび、みろくの世が到来することを願っていたのです。昭和52年(1977年)2月3日には、再建された綾部のみろく殿で、キリスト教との共同礼拝式がモートン神父、日本聖交会の関本肇神父らによって行われたように、世界の諸宗教の連合に努めています。
(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2013/3/31「出口王仁三郎と理想世界、世界平和ー1、2、3」より)

 

 冒頭でも述べたように、日本民族には弱肉強食に陥りかねない自由競争の資本主義には嫌悪感があり、神仏を否定した共産主義には違和感があるのです。

 二宮尊徳は、「道徳のない経済は悪であり、経済のない道徳は寝言である」という言葉を残しています。倫理道徳からかけ離れた経済は、決して平和で幸せな社会を築くものではなく、むしろ反対に悪に染まった地獄を造ることになるのだと述べているのです。尊徳は、至誠を尽くし勤労に努め贅沢を慎むことを教えます。人間としての節度を保つこと(分度)こそが正常な心と行いを保つ上で非常に大切なことで、これを過ぎるととてつもない災いが襲ってくるのだと警告しています。また、至誠・勤労・分度の結果としてもたらされた富の剰余は、他の者に譲る〈推譲〉ことを啓蒙し実践したのです。こうした節度ある生活をすることによって、人間ははじめて物質的にも精神的にも豊かに暮らすことができるのであると説いているのです。この地上に浄土を築く道を追求してきた苦悩と心意気が伝わって来るではありませんか。

 しかし今、日本民族は立ち往生しています。海外から押し寄せてきた横暴な思想・価値観に翻弄され、古くから育まれ培ってきた民族精神が内外ともに汚染され、崩壊の淵に立たされています。日本民族は、弥勒降臨と弥勒浄土を熱望してきたのです。資本主義や共産主義には、何かおかしいと直感的に感じているのです。弥勒が携えてくる救い(キリスト教でいう再臨主)を学び受け入れることによって、民族の新しい時代が始まるでしょう。それは、同時に日本民族が育んできた精神と文化が世界の新しいモデルとして広まる出発点になると思われます。 

≪産業化の始まりを担った国(英国)と産業化の終わりを担う国(日本)≫

 私は、産業化(工業化)の始まりが英国であり、産業化(工業化)の安着を実現するのが日本であると主張しています。日本は、地球上にばらまかれた産業化の遺産(環境負荷も含めて)を地球上で持続性あるものに秩序づけする役割をもっていると考えています。

 外国生活から戻った日本人がほとんど全員、いや外国人でさえも、世界で一番生活しやすい国であるという感想を述べています。現代日本は、気づかないうちに人々が手を携えて生きる相互扶助・共生社会を作り始めているようです。この目に見えない雰囲気が、伝播して新しい時代を告げるのではないでしょうか。日本人は、生活の豊かさと安定・持続性という新時代の価値観を創造しようとしているのです。自信をもって新しい時代を切り開いていきましょう。

(参考:筆者ブログ キヴィタス日記2016/5/13「日本人は資本主義が嫌い?日本人が願う社会は、共存共栄共生社会である」

http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-e73d.html)