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 地球に平和を招来するためには、原罪(罪の根)の清算が鍵となる (四) メシアという救世主によってのみ、罪の根から解放される

 日本にも原罪と救世主という思想は片隅で存在していた。生長の家の神想観の序に、「いよいよエデンの園再興の時がきたのである」という文章を見つけた時、エデンの園という理想郷は日本でも意識されていたのだと驚いたことがある。

 エデンの園という理想は、メシアの再臨によってもたらされるとキリスト教は伝えてきた。メシアなくして、原罪を受け継いできた人類は本然の姿に戻ることができないと伝えられてきたからである。それゆえ、メシアの再臨は信仰をもつ者にとってひたすら待ち望む希望の光である。罪の根が贖われるということは、パウロがいう別の律法-自己中心的で、名誉・淫乱・財欲・殺傷などの苦しみの根を断つことができるという希望の予言である。その暁には、人類はともに平和に暮らせる時代が来ることになる。

 

 (1)洗礼という恩恵

 もし、自らの手によって自らの罪・苦しみを救うことができるならば、宗教はこの世に出現しなかったはずである。なぜ宗教が出現したかと言えば、現世のほかに霊界が実在して救済には霊的な手続きが必要であるからである。また、人間の堕落には霊的存在である悪魔(サタン)が関与していたからでもある。神の救いは、霊的世界を通じて行われるため、霊的世界を正すことが欠かせない。

 宗教始祖は、苦難の路程を勝利して神の光を地上に届けることを可能にした。信徒たちは、その宗教始祖の霊的な信仰の勝利圏を信じることによって霊的恩恵を受け継ぐことができるのである。宗教は、こうして一人の勝利圏を多くの追随する信徒が恩恵として受けることによって広がってきた。「洗礼」というキリスト教の儀式も、イエス・キリストを信じることによってその霊的勝利圏を受け継ぐ恩賜である。

 イエス・キリストの勝利圏(十字架による贖罪と霊的復活)は、信徒たちに洗礼という宗教儀式を通じて恩恵をもたらした。イエス以降2000年のキリスト教の歴史において、イエスの十字架の贖罪の恩恵によって、数えつくせないほど多くの信徒達が罪から救われたと実感してきたのである。

 

洗礼は、イエス・キリストを信じてクリスチャンになった人が、キリストに従順な生活を始める第一歩となるからです。洗礼を受ける第一の理由は、「イエス・キリストがそう命令されたから」です。クリスチャンとは、「イエス・キリストに従う人」のことです。クリスチャンになった人は、「私はキリストを信じて、キリストと一体となった」ということを表現するために、洗礼を受けます。

一つになるということです。通常の形式では、受洗者は水の中に入って全身を浸します。その人はずぶ濡れになります。そのことが、一体化を象徴しているわけです。その一体化とは、もちろん、「イエス・キリストとの一体化」です。
ですから、「自分はイエス・キリストを信じた」、あるいは「イエス・キリストと一つになった」、ということを象徴的に表現するのが洗礼です。(中川健一)聖書入門.com  http://seishonyumon.com/movie/1794/

 人は信仰と恵み(イエス・キリストの恩恵)によって救われる」というのが、救いに関する真理である。

キリストの十字架を信じて受け入れると「不思議に」罪が清められる。心の重荷が取り去られて自由になる。過去が精算される。今生まれた嬰児のようにさせられる。

キリスト教は「罪の赦し」の宗教である。結論を先にいえば人間の努力では無理。神の霊に満たされるときに「赦しとやわらぎ」(賛美歌501)の心が与えられる。これは不思議な現象で、神の霊を頂かなければ人間はどんなに「努力」しても人を赦せない。  (高橋照男」」

洗礼を受けて、キリスト教の信徒となった人はこのような心の平安をもったのである。

 

(2)メシアの再臨と地上天国

(2-1)地上天国とは?

 地上天国とは、メシアが降臨して地上を支配するならば無条件に実現するというものではない。共産主義思想が素晴らしい理想郷としてとなえられたものの、実際革命によって実現された共産主義社会は人間が窒息するような息がつまる世界であったことは20世紀の歴史が示したことである。人間の魂が変革されていない限り、地上天国は実現できないのである。出口日出麿氏が指摘されているように、「共産主義という形で平等な社会が表面上築かれたとしても、魂が変わっていないのですぐに壊されることになる。人間一人一人の魂の改心ができるまで地上天国はできない。心の底から間違っていると気づき、正そうとすることが不可欠である(出口日出麿)」。地上天国は、人間の魂の変革なくしては難しいのである。

 地上天国とは、全人類が一つの真理により、一つの兄弟姉妹として、一つの大家族を形成していく世界である。この世界は、神を父母として侍り、人々が兄弟愛によって堅く結ばれて生きる世界である。自分一人の利益のために隣人を犠牲にするときに覚える不義な満足感よりも、その良心の呵責からくる苦痛の度合の方が遥かに大きいということを悟るときには、決して隣人を害することができないようになるのが人間誰しもが持つ共通の感情である。それ故、人間がその心の痛みから湧き出ずる真心からの兄弟愛に包まれるときには、到底その隣人に苦痛を与えるような行動は取れなくなる。まして、時間と空間とを超越して自分の一挙手一投足を見ておられる神ご自身が父母となられ、互いに相愛することを切望されているということを実感するはずのその社会の人間は、そのような行動を取ることができない。

 従って、人類の罪悪史を清算した新しい時代において建設するはずの新世界は、罪を犯そうとしても犯すことのできない世界となるのである。今まで神を信ずる信徒たちが犯罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰がきわめて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在するということを実感で捉え、犯罪を犯せば人間は否応なしに地獄に行かなければならないという天の法則を十分に知るなら、誰が敢えて罪を犯すことができようか。罪のない世界が即ち天国であるというならば、堕落した人間が長い歴史の時間をかけて探し求めてきたそのような世界こそ天国である。

 禅の秋月龍珉氏は、「従来の禅では相交わる対象がどうも自然に傾きすぎて「私と汝」という人間対人間のところで「自他不二」の境涯を練る訓練が足りなかったと思うのである」と述べられている。「一日一禅」の著作の中で、「南山に雲起これば、北山に雨下る」という句について、次のように説明している。『南山の雲と北山の雨とは不二である(二つであって二つでないこと)。それを空というのだ。空とは「自他不二」である(禅は、この不二を自覚することを説く)。平等即差別である。したがって差別即差別である。個物(微塵)と個物(微塵)とが相即相入する「事事無礙法界(じじむげほっかい=個と個とが円融交差して互いに礙〔さまた〕げない自他不二の境地の世界)」がそこにある。』自他の区別も空ぜられたとき、すべては一体化する。

 この認識も、真の兄弟愛に結ばれた地上天国のあり方を説いているものである。地上天国は、人と神との関係を元返すとともに人と人の関係をかけがえのないものにしない限りできないのである。そして地上天国の基点は、私たち人間の存在の原点である家庭から始まらないといけない。ここに天国が築けない限り、地上天国の建設は不可能である。

 

(2-2)原罪の清算は、神が地上の支配権を悪魔(サタン)から取り戻す第一歩である

「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。」(ロ-マ人への手紙第7章22~24)

「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げてくださった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」(ローマ人への手紙第8章1~7)

 

 イエス・キリストによる十字架による恩賜が多くの人類に救いをもたらせたことは、事実である。イエス・キリストの霊によって心に平安がもたらされ、死後楽園に行くことが約束された。しかし、聖パウロが述べているように、霊による救いは得たものの、自分の肉体には神の律法とは違う肉なる思いが厳然と残って自分を苦しめている。イエス・キリストによる救いは、完結していないのである。それ故、イエス・キリストは、再臨を約束されたのである。

 イエス・キリストの再臨によってなされなければならないことは、肉の思いの救いである。平たく言えば、この地上で生活するうえで、さまざまな状況・事態の中で神の思いと同じ思いと行いをすることができるようになれるか否かである。

 それは、人間が堕落によって神がわからず、自己中心の考えになり、互いに対立するようになって、罪を犯すようになってしまった心の中の罪の根を取り除くことが欠かせない。これがどんなに難しいことか、仏教は無明ということを教えたが、闇から完全に抜け出ることができないのが罪ある人間の姿である。まさに、この罪ある人間に救いをもたらす存在がメシアであり、人間の罪の根(原罪)取り除く救世主である。

 また、イエスの十字架の代贖によって救われたと実感している人々にあっても、一人として、救い主の贖罪を必要とせずに天国に行けるような罪のない子女を生むことができなかったという事実は、原罪がその子孫にそのまま遺伝しているという有力な証拠である。イエスの十字架の贖罪によって完全に赦罪されたと実感している信徒たちの間でも、実際には罪のない個人も、罪のない家庭も、罪のない社会も、一度たりとも存在したことはなかった。

 

 人間社会から、この犯罪を根こそぎ取り除かないかぎり、決して理想社会をつくることはできない。宗教によってどんなに人倫道徳を啓蒙しても、文明が発達して天国が近づいたように見えても、最後に残る関門が罪の根(原罪)であり淫行である。釈尊の最後の試練が色魔の誘惑であったことを見れば分かるように、性の問題が最後に我々に悟りへの道を妨げ、悪魔(サタン)の手中に陥れるのである。現在、性の問題が極度に問題になっているのも、最後の審判の時がきていることを示している。再堕落の道が準備されているといっていい。

 だからこそ、罪の根(現在)の贖罪・清算が不可欠なのである。再臨のメシアのもとで行われると予言された「小羊の婚宴」という言葉には、堕落が家庭で起きたこと、堕落が淫行であったことを暗示している。「小羊の婚宴」という言葉で言われる再臨のメシアによる原罪の清算は、実際存在するのであろうか。また、実際罪の根は取り除かれるのだろうか。

 結論から言えば、存在するし取り除かれる。再臨のメシアによる原罪の清算には、肉体が浄められたという実感がある。そして、神とつながっているという感覚を得る。ただ、罪の根のほかに先祖から受け継いできた家系の罪が積み重なっている場合、それは実感しにくいものである。その場合、罪の根を清算されても、何も感じられないことも多い。しかし、罪の根が清算されたならば、何代か後には罪なき子孫が誕生するであろう。罪の根が消えたのだから、自らの煩悩と真正面から取り組み脱却することははるかに容易になる。罪の根の清算という根源の救いを受けることによって、人間は努力すれば近い未来に地上天国を築くことが可能になることだけは確かである。

 最後に宗教は、地上天国ができた暁には不要になるものであることを述べておく。

地球に平和を招来するためには、原罪(罪の根)の清算が鍵となる (三) なぜ、罪の根を清算する必要があるのか

(1)今の世相をみれば、罪の根が人間を苦しめているのがよくわかる

 今の世相を見れば、現代人は善悪がわからなくなり自己破滅の状態に陥っていることがわかる。精神的病を患う人は数多であり、この地上での生活は苦悩に満ちたものである。世相を賑わす事件は、性の問題と殺戮、家庭内の不和。どれも人類始祖のアダム家庭で起きたことの繰り返しなのである。もう解決策はないかのような状態である。道徳を叫べども問題は解決されない。なぜなら、罪の根が一人一人の心の奥底あってまとわりつき苦しめているからである。

 人間の罪の根とは何か。罪とは何か。日本人は罪のわからない民族であるといわれている。罪を一言でいうならば、「神がわからない。神の意図がわからない。天宙で自らが立っている位置がわからない。だから神の願いに応える行動がとれない」ということになる。このことは、次の次元として「悪がわからない。悪主権(サタン)がわからない。当然ながら霊界という世界が理解できない。自己と他己の対立そのことが罪であることがわからない」ということになる。自らが神(宇宙の根源)と一つになっていない、一つになることがどういうことかわからない。どんなに細かい選択も、どちらかが神側でありもう一方がサタン側である。知らず知らずに悪の選択をしていることが多い。

 罪が清算されていくと、体がだるいということが減り、物事に集中することがしやすくなる。また、心が浄まると、ものごとの背後にある動機、人の行動の背後にある動機を感じやすくなる。自分は何をしなければいけないかが自明のこととしてわかるようになる。そうなればなるほど、罪の根が私と神との関係を引き裂いているということを感じるものである。

 そもそも最大の問題は、罪の根を持っていない人間、罪の根を清算した人間とはどのような姿なのかがはっきりしないことが大きな問題なのである。歴史上罪なき人間の姿は、イエス・キリストしかいない。仏教指導者が釈尊の悟りを語る時、超能力を得たかのように千里眼になると語るものだから、余計わからなくなっている。罪が清算されてくると、集中力が増し、創造力が啓発され、知恵が出やすくなる。また他人を思いやることが当たり前になる。この霊性の向上は、一世代で行えるものではない。何代にもわたる努力の積み重ねがあって向上するものである。

 

(2)罪の根(原罪)

<聖書 創世記第3章1~7>

001:さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは、女に言った。「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」と。
002:女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
003:ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
004:へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
005:それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
006:女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
007すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

 これが聖書が記述しているアダムとイブの堕落の箇所-原罪と呼ばれている-である。アダムとイブから受け継がれてきた故に原罪と呼ばれている。

 罪の根は淫行である。アウグスティヌスは、原罪をアダムから遺伝された罪とし、両親の性交を遺伝の機会として解釈した。多くの宗教が姦淫を最大の罪と見て禁欲生活を強調してきたのも、ユダヤ民族が贖罪の条件として割礼を行ってきたのも、罪の根が淫行にあることを感じ取って来たからである。また、淫乱によって多くの国家・人間が滅んでいった。

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」 (マタイ第5章27~30)

 

(3)サタンの血統とは、自己中心性の血統

 淫行は何故罪となったか。不自然な性の関係をもったため、人間と神との関係が切れたのである。そしてサタンの血統になったのである。サタンの血統とは、自己中心性の血統である。

へびと表示された天使ルシファーと不倫な血縁関係を結んだ人間は、神がわからなくなり、神の願う善の繁殖行為ができなくなった。代わりにサタンの悪の血統(自己中心性)の血統を繁殖するようになってしまった。この地上世界は、自己中心性の人間によって形成される世界となってしまったのである。

蛇が誘惑に使った決定的な言葉は、「目が開け、神のように善悪を知るものとなる」でした。神のように善悪を知るということは、つまり、神がいなくても自分がすべてを知っている、自分が神になるということに発展します。
現代でも自分は神であると自称する人が数多くいますが、本当の神を差し置いて自分が神になりたいという欲望はアダムとエバの時代から内在していました。自分が神のように振舞うことは神が最も忌み嫌われた罪です。(キリスト教聖書用語辞典)http://www.bible-word.org/content/%E5%8E%9F%E7%BD%AA/

 罪が入ってからの人間は他人と比較するようになり、お互いを蔑みあい、憎み合うようになった。自己中心的な考え方によって行動し、多くの対立抗争を引き起こすようになった。神との関係が損なわれると、自分が自分の主人であり、自分が神であるかのように振る舞うようになる。親子関係も破壊されてしまった。そこから、神なき世界が生れたのである。神なき世界は、強者の独裁の世界であり、暴虐の世界である。対立と抗争は、多くの憎しみと罪を生んでいった。原罪を背負った人間とは、サタンの血統をもっているということ」なのである。

 こうして堕落した人間は、神のわからない悲しい姿に転落し、互いに争い合い憎しみ合って分裂する社会を作り上げてしまった。堕落した人間の姿は、次の特徴をもつものである。

  • 神がわからなくなった。自己の立つ位置が分からなくなった
  • 自己中心性が芽生え、他人と対立するようになった
  • 他人と対立することにより、多くの罪の繁殖を行うようになった
  • 堕落は、淫行という行為によって起きたので、子々孫々に遺伝することになってしまった

 こう述べると、誰もがサタンの血統であり、原罪を背負っているということを自覚するはずであろう。

 

(4)原罪という堕落は現在も起きている

 現在は、堕落によって起きた憎しみと争いが頂点に高まっている時代である。一人一人の人間の中では、心が病におちいり、苦悶が頂点に至り、精神を正常に保つことができず、精神の崩壊という現象を起こしてしまっている。身近な人間関係では、互いに信頼関係を築けず、人間は孤独に陥っている。生存の砦である家族は不安定であり、人と人はいつ対立して別れることになるかもしれないと不安だけが支配している。国家世界も、対立の極みにあり、人類最終戦争が起きかねない状況である。不条理な淫行ももはやタブーでもなくなり、神の審判が下っても仕方がない状況である。

 神がわからなくなっている人間は、ソドムやゴモラが滅びた時のように、堕落行為を繰り返している。最後の審判によって滅びることになりかねない。滅んでもかまわないと腹をくくっている人も、死後霊界という世界が存在して、自らが死後地上で苦しんでいた世界へ行くことが分かると、それはそれで困ったことになるはずである。

 人類始祖に起きた堕落という失敗は、遠い昔の出来事というだけでなく、現在も繰り返し起きている悲しい出来事である。現在も人間は至る所で堕落を起こしている。堕落により人間は、再び未開の時代に戻らざるを得ないかもしれない。

地球に平和を招来するためには、原罪(罪の根)の清算が鍵となる (二) 宗教は、地上に天国をもたらすための訓練として存在してきた

 大本教の出口日出麿氏は、「宗教本来の目的は、現界的にいえば、地上天国建設にある。すなわち、すべての人類がたがいに愛し愛されながら神を賛美し、その業を楽しみ、闘争や蔑視反目のない真に住み心地の良い世界を造ることにある」。そして、「信仰とは、宗教の教義をそのまま信じて実行することではない。信仰とは、神と私が対話できる状態に復帰することである。その状態ができない人間が、復帰の過程として一時的にその方法を学び実践するのが宗教なのである。神と対話することが難しい原因を知り、元の姿に戻るために、その方法の手段として学び実行するのが宗教の教理であり、宗教的修行である」と語られている。
 ここに宗教の存在目的と信仰の目的が簡潔に述べられている。宗教は、神と対話できる状態に人間が復帰するための方法を学び訓練するためのもので、その方法を通して神と対話できる状態に復帰してこの地上に争いのない地上天国を造ることが究極の目的である。

 

(1)宗教は、本来不要のものであった

 人類始祖といわれるアダムとイブが堕落しなかったならば、宗教は本来必要なかった。本然の人間は、空気を感じるように神を感じ、神の意図を感じ取ることができるはずであった。そこには、修行などという宗教行為は必要なかった。聖書の記述を見れば、アダムとイブが堕落したその時でさえ、二人は神の言葉を聞き取れることができたと書かれている。神との関係が切れた瞬間においても、まだ神の言葉は聞き取れたのである。

 しかし、世代が移っていくにつれ、神の存在、言葉はわからなくなった。神がわからなくなった人間は、自分が立っている位置(本来、人間は天上天下唯我独尊といわれるように、天宙での自分の位置がわかる)がわからなくなり不安に駆られるようになった。そうして、神を忘れ、自分本位に生活し、他人と対立し、地上に争いの王国を打ち立てていった。その結果、地上は争いと暴虐で満たされることになった。

 

(2)義人の召命と神の教えの流布
 神は、義人を探し求めた。聖書には「ノアは義人であった」と記されている。堕落した人間は、サタンの所有物である。(サタンは、人間は所詮自己中心的であると主張している。)それゆえ、アダムとイブの子孫によって建設された地上の人類は、サタンのものである。神の恩恵圏には入ることができない。それゆえ、神の恵沢圏に戻るために宗教的行為が必要であった。聖書が記述している神の最初の義人は、ノアである。ノアは、人類最初の信仰者である。世界が乱れて暴虐が地に満ちていた時、神の召命を受けて120年間あらゆる暴虐と嘲笑を受けながらも、神の命令に絶対に服従して箱舟(供え物)を造った。そして有名な洪水審判が起きた後、ノアの家族は生き残ることができたというのが聖書の記述である。ノアは、神の命令に従順に従って箱舟を山の上に造った。ノアの信仰は、人間には及びもつかない神の命令を信じてついて行ったことにある。残念ながら、洪水審判の後、ノアの家族内での不一致が神の救いを延ばすことになった。

 人類歴史を通して神は、聖人・義人を召命して聖人・義人の信仰と苦役の犠牲の上で、人類全体を救済するという摂理をされてきた。歴史上に名を残している宗教上の指導者・義人・聖人は、例外なく神の召命を受けて苦難の人生を歩むことを余儀なくされながら、神の救いの摂理に貢献してきたのであった。宗教上の義人・聖人の歩みは、神の救済の恩恵をあまねく広めることにあった。一つ一つの宗教あるいは義人・聖人の召命は、全く関係がないように見えるが、神が周到に準備した奥深い摂理として関連性をもって進められている。だからそれぞれに存在理由がある。そして、召命した義人・聖人を通して、人間としての生きる道理・規範が伝えられてきたのである。

 

(3)なぜ、供え物が必要とされたのか

 供え物が宗教行為として必要とされる理由は、霊界の実在と霊界に実在する悪魔(サタン)という存在がわからないと理解できないものである。科学に慣れ親しんだ現在人には空想に思えるであろうが、人類は創世以来供え物を神に捧げてきた事実が示すように、人間は直観的に神の前に供え物が必要であることを感じてきた。

 聖書の記述では、人類最初の供え物をした人物は、人類始祖アダムの長子カインと次子アベルである。「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。 主はアベルとその供え物とを顧みられた。(創世記 第4章3~4節)」人類始祖の段階から神への供え物は、あったのである。
 考古学の研究においても、ネアンデルタール人は宗教儀礼を行っていたといわれている。

 約 30 万年前、現生人類の祖先として誕生したてネアン デルタール人(優秀な狩猟採集民であって、ヨーロッパを中心に熱帯、温帯の広い範囲に適応して生存した。人口は最大時で50 万人ほどに達したと推測されている)は、脳の大きさが1400ml に達し、超自然的なものや死後の世界を考えた最初の人類と言われている。イラク北部のティグリス川上流の山中にあるシャニダー ル渓谷の洞窟で発見されたシャニダール4号人骨は、明らかに土を掘り 下げて「埋葬」されており、さらに遺骨の周辺からは花の破片と花粉の 化石が多数見つかった。仲間を埋葬し、何種類もの花々を野山から摘んで帰り、死者に供えて埋葬儀式を行ったと見られている。この人骨は「花と共に埋葬された最初の人類」と称されたが、死を悼み、死後のための 埋葬品を飾る葬送儀礼の始まりとも考えられる(赤澤, 2000:227-234)。*1

*1:創価大学教授 中野 毅論文「宗教の起源・再考 ―近年の進化生物学と脳科学の成果から―」現代宗教2014  2014年3月4日発行 発行者 (公財)国際宗教研究所

 

 このように、人類誕生とともに人間の超自然に対する畏敬の念と宗教儀礼は、存在していたことがわかっている。なぜ、仲間の葬送儀礼を行い、豊穣の供え物をしてきたのか。人間は、人間を超えた超越した存在(神、天宙の根源的存在)を確信していたのであり、神に守られなければ生きていけないとわかっていたからであろう。何故供え物をしなければならないと感じたのかは、人間が神と離れてしまったことによって、心に不安が生じ不安が心を支配したからであろう。神の御心を感じ取れなくなってしまった人間に残された方法は、供え物をして神にとりなしを乞うことだった。ただ供え物をする以外に守られる術はわからなかった。そして供え物をした人間にとっては、神が供え物を取ってくださるかどうかが重大な関心事であった。

 しかし、神は全ての人間から平等に供え物を受け取ることはなかった。人類最初の供え物をしたのは、アダムとイブの息子アベルとカインである。この時、神はアベルの供え物は受け取るがカインの供え物は受け取らなかったと記されている。平等に受け取るのが筋ではないかというのが人間的解釈であるが、供え物に対する神の考えは、アベルの供え物によってアベルが神につながることを願うとともに、カインについては、弟アベルと一つになるということを通して神につながることを願われていたのである。神の救いには、供え物を通して神につながることと人と人が一つになることの二つのことがなされることによって成就するようになっていたのである。宗教の役割も、宗教始祖の神に対する信仰と信徒たちの教祖に対する忠誠によって救いが成就するようになっているのである。

 

(4)なぜ、出家が尊重されたのか

 人類始祖の堕落により、人間は自己中心性という堕落性をもってしまった。自分を優先するという自己中心性の堕落性は、如何ともし難い人間の本性であるように受け止められた。それゆえ釈尊は、「人間は自己中心的である。それゆえ、他人に危害を与えてはいけない」と語られたと伝えられている。サタンのものとなった人間には、神の意志を感じて行動することができなくなり、自己中心という煩悩が取り去り難く心の中心に居座っているのである。

 自己中心性を有した人間によって築かれるこの世の中も、当然ながら自己中心的な人間と人間の対立の世界となる。「サタンはこの世の支配者」といわれるのも、自己中心的な人間によって築かれた世界は神のものではなく、この世における自己中心的な人間の欲望に寄り添っている悪魔(サタン)のものだからである。だから、神を求め善を求める人が「神はいない。善をなす人がいない」と嘆いて現世に失望してしまうのは、至極あたりまえのことである。

 神を求め善を求めた人が、サタンの手を逃れる方法としてこの世を捨てるという方法を取ったのは罪ある人間が取り得る有効な方法だった。釈尊が「出家」という方法を選択して悟りの境地を開かれたのは、実に意味あることであった。この世では、サタンの手を逃れることが難しかったからである。

 その釈尊でも、悟りの境地に達するためには、苦行と瞑想を経て色魔というサタンに試されることが必要であった。それを退けて初めて、悪魔(サタン)は立ち去ったのだった。しかし、この世で生存しているかぎり、いくら出家しているからといっても、この世との接点がある。だから、折を見つけては、サタンは誘惑をかけてくるのである。釈尊スンダリー事件などはいい例である。

 また、出家により心の安定と煩悩からの脱却に成功したとしても、人間にはこの現世にて幸福を得たいという捨てがたい願望がある。だから、宗教はどうしても現世での生き方に道を探すことになる。人間には誰にも仏性があるという経典の言葉は、現世における救いを願う根拠となった。観音経が根強い信仰を集めるのも、弥勒の下生を願うのも、この世における救いを待ち望む人間の姿なのである。

 

(5)宗教にはなぜ迫害がつきものなのか

 新しい宗教が打ちたてられると、必ずといっていいほど迫害が起きる。その宗教が教える教義がこの世の常識に合わないからである。宗教に降りた神の啓示は、悪魔(サタン)に支配された既存の観念を打ち破り神の世界に一歩ずつ近づけるものであるため、激しい抵抗を受けることになる。宗教は、単なる道徳の教えではない。
 出口王仁三郎は、こう述べている。「信仰のためならば、地位も財産も親兄弟も朋友も一切捨てる覚悟がなくては駄目である。信仰を味わって家庭を円満にしようとか、人格を向上させようとかいうような功名心や自己愛の精神では、どうして宇宙大に開放された真の生ける信仰を得ることができようか。自分は世の終わりまで悪魔だ、地獄行きだ、一生涯世間の人間に歓ばれない。こうした絶望的な決心がなくては、この広大無辺にして、ありがたく尊い大宇宙の真理、真の神さまに触れることができようか。」

 この地上の支配権は悪魔(サタン)が有しており、信仰を味わうというような道徳的な関心やヒューマニズムでは悪魔に取り込まれ、神につながることができないのである。自らの内に存在する悪魔(サタン)の存在に気づき、これを払拭する努力が欠かせないのである。多くの宗教が必ず迫害を受けてきたのも、悪魔の支配権から脱却するためには、必ず悪魔の誘惑を振りのけて前に進むという過程が必要だからである。釈尊が悪魔の誘惑を忍んで断ったように、宗教は耐え忍んで悪魔の誘惑に勝つ必要があるのである。「耐えて勝つ」というのが宗教の戦法である。

 一人一人の信仰を考えた場合、苦行・苦役という外的な努力を自らに課すことによって悪(サタン)と闘い、行いの中にある悪しき行為を取り除いている(行儀)。さらに、瞑想・祈りという内的な努力を自らに課すことによって内的な悪(サタン)と闘い、神の光につながることよって心の罪を取り除いている(信義)。釈尊の修行が最初に苦行があり、最後が瞑想であったという伝承は、人間一人一人が罪を脱却して解脱に至るには内外両面の苦難の信仰路程を通過しなければならないことを示しているのである。

 

(6)宗教は何故対立するのか

 「人類が誕生して以来、宗教の対立と抗争は常識であった。神と人間は親子の関係であるといいながら、地上に天国を建設するといいながら、自分の属する宗教こそが正しく他の宗教は間違っていると主張するのが常であった。どれほど多くの迫害と抗争が繰り広げられてきたことだろう。平和を目指す宗教が、対立と抗争の原因であったことは数限りない。そして、今も多くの抗争の原因が宗教に根ざしている。なんと残念な事なのか。(出口日出麿)」

 宗教は、一つの宗教を作ることで満足し、宗教というものが地上に神の王国を築くための一里塚として存在しているということを忘れがちである。しかも、宗教教団自体が絶対的なものとして自認するものであるから、その教団に属す人は、教団本位という自己中心性に陥り他を排撃しやすい。また、信仰という行為が信じるという盲目的なものであることも問題を複雑にしている。出口日出麿氏が言われるように、十分な内省が不可欠である。そして、宗教の目的が人間が神と対話できるようになることであることを鑑みると、啓示に従うことは信仰の第一歩ではあっても、信仰のすべてではない。信仰が深まると、天宙において唯一無二の存在である自分という存在は、神と対話して行くべき道を教えられるまでもなく悟るようになる。

 「なぜ、宗教が抗争の原因になるのか。その第一原因は、信じるという行為にある。信じるという行為は、盲目的である。理性ではなく、魂の要求のままに従順に従うためである。それは、宗教的行為のすばらしさであり、誰にも平等に行える神へつながる道であるが、十分な内省を伴わずに他のものを盲目的に排撃するという傾向を持っている。(出口日出麿)」

 宗教は、この地上に天国を築くために神が準備してきたものであることを理解して、お互い寛容に相互理解に努めるべきである。

 

(7)なぜ、メシアが必要であるとされたのか

 メシア思想は、ユダヤキリスト教だけでなく、世界各地の宗教に散見される。仏教の弥勒降臨待望論もその一つである。メシアは、ユダヤ教において救い主として待望された。イスラエルを再建してダビデの王国を回復し、世界に平和をもたらす存在とされている。人々を苦難から救済し神の支配を確立する者としている。エレミアは、バビロン捕囚のような苦難は律法を守らなかった人々への神からの罰であると説いた。しかし神はユダヤ人たちを許して、救い主(メシア)をこの世に送る事を約束した。

 メシアは、外的世界の混乱を収拾し神の支配をもたらすものと期待されているが、その解釈は表面的である。どんなに信仰を重ねてもぬぐい去れない自らの内にある罪の意識を払拭してくださる神と人間との間の仲保の存在である。外的世界の混乱は、その世界を造っている人間の意識に問題があるのであり、それを正す道を示すことがメシアの使命である。人間の意識に罪の意識が乏しいならば、メシアによる救済は遠いといわざるを得ない。

 聖パウロは、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ローマ人への手紙第7章22~23)と慨嘆した。我々は善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする罪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。このように存在するものがそれ自体の内部に矛盾性をもつようになれば破滅せざるを得ない。

 人間は、信仰を重ねてもなお、邪心からくる悪の欲望にとりこにされている。人間は、堕落して自己破滅に瀕しているのである。多くの人間が現在苦悩の中で自己破滅に陥っている状況は、メシアなくしては解決しえない問題である。ここに、メシア待望論がある。

 

(8)日本人と宗教

 ところで、日本人の大部分の人は、宗教とは八百万の神に供え物を捧げて祈り、先祖を供養し、この世においては倫理道徳を守れば事足りるという観念をもっていると思われる。この考え方は、日本という国が海によって世界と隔てられ、しかも気候が温暖であるため、大自然に抱かれて生活するという環境にあったゆえに育まれてきたものであると思われる。しばしば起きる天変地異は、人間の力を超越した恐怖であり、神に祈るしかないものであった。日本人は、大自然という神(産土神)に守られて純朴に生きてきたといえるだろう。

 しかし、それではやっていけない時代がやって来た。西洋文明という黒船の来襲である。当時、神から啓示を受けた新宗教は、日本民族の精神上の危機が訪れたことを警告している。西洋文明は、日本に自由平等博愛とともに個人主義・民主主義という価値観を持ち込んだのである。島国で平和に暮らしていた日本人に個人の自立という価値観をもたらしたのである。人間の思春期に自立・自我の形成がなされるように、日本人に自立・自我の形成の時が訪れたのである。

 西洋の個人主義・民主主義という価値観は、日本人の自己意識を啓発し、自己と他己という二者間の人間関係、自己意識・自分中心という価値観を眠りから揺り起こした。それはまた、心の奥底に潜む闇(無明、罪)を呼び覚ますものであった。西洋の価値観には「神のもとに」というキリスト教の前提があったが、日本に持ち込まれた西洋思想は「神のもとに」という前提が抜け落ちてしまった。神なき自由平等と神なき個人主義・民主主義が広まることになった。このことは、人間の心の奥底に隠されていた自己中心性の思いを呼び起こし、個人の欲望を肥大化させ、個人の権利をわが物顔に主張する風潮を作り出した。日本の伝統にはない弱肉強食の論理が容認された。

 このため、社会秩序を安定させる必要が生じた。儒教倫理をベースとする倫理道徳教育が行われた。この教育は、儒教社会特有の上下関係の秩序を重んじるものであったため、硬直的で息苦しいものになりやすい面を有していた。現在でも日本の組織社会に陰鬱な影を感じる人が多いのは、この儒教倫理の影響が大きい。儒教倫理の社会では、表面的な秩序が重んじるため、その中で生活する人間は、自分の心は隠して表面だけを取り繕い、他人の心を察しながら生活するという葛藤を抱えるのだった。倫理道徳の啓蒙は、人間の行動を律し心の底にある闇(罪)を一時的に抑制することはできても消滅させることは難しいものなのである。

 心の内面に潜む妬み、怨み、不満といった醜い心はそのままにされた。心の救済には手は差しのべられなかったのである。キリスト教では、キリストが私の中に共にいるという実感をもたらし、キリストの故に赦しの気持ちが湧いてくるという。人間の心を罪(サタン)から解放して平安に導くのは、神の光(救い)である。今、自我と自立に目覚めた日本人に必要なことは、心の罪をぬぐい去り心に神の光を届けることによって心を解放して、自我の健全な成長を促すという宗教的な救いなのである。日本社会が変わるためには、宗教的浄化・感化が欠かせないことを知らなければならない。

地球に平和を招来するためには、原罪(罪の根)の清算が鍵となる (一) 現代は、善悪二つの主権が最後の闘いをしている終末である

 多くの予言者や宗教家が20世紀から21世紀にかけて終末が来ると警告してきた。宗教的に見た場合、現代は終末であることに異論をさしはさむ人はいないだろう。

 終末とは、社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代が訪れ、神あるいは絶対者の審判と救済なくしては未来はないという宗教一般で語られる言葉である。終末という現象は、個々人の内的な生命の終わりを指すだけでなく、人類全体(民全体)にとっても最後のとき、人類全体(民全体)に対する最後の審判と義人選別救済のときをも意味している。

 では終末はなぜ起きるのか?現在が終末の状態であることに同意できたとしても、何ゆえに起きるのかが問題である。終末というのは、神とこの地上の支配権を有している悪魔(サタン)が激突する時なのである。個人から始まり、家族、民族国家、人類全体が激突する時なのである。この世の支配者である悪魔(サタン)のもとにある人類歴史が終わりを告げ、新しい時代が始まることを意味する。古き天地が滅び新しき天地が始まるのである。

 終末には、天変地異が起こり、人々が泣き叫び、もだえ苦しみ、多くの人が生命をなくすといわれるのも、以上のような理由によるのである。

 

(1)ノアの時も終末であった

 創世記第6章は、ノアを召命した時のことをこう記している。

「人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。(中略)主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる』と言われた。(中略)時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、『わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。』」

 その後、神の洪水審判がなされる。悪魔(サタン)主権下の歴史を洪水審判によって終わらせ、神のみを信奉するノアの家庭を立てることによって神主権の理想世界を建設しようとされたのであった。ノアの家庭を除いては、どの人間も生き延びることはできなかった。現代人は、この出来事を実際にあったこととは信じていない。しかし、東日本大震災のように、想像をはるかに超えた天変地異は歴史の上しばしば起き、歴史の流れそのものを変えていったことを知らなければならない。

 

(2)イエス・キリストの時も終末であった

 神が願った地上の理想世界は、ノアの時もノア以降も実現されなかった。神は何度となく預言者を使わして最後の審判がなされると予言した。「万軍の主は言われる。見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、罪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽くして、根も枝も残さない」(マラキ第4章1)。

 イエス・キリストの時も終末であった。イエス・キリストは、ただ人類を救いに来られたのではない。審判主として来られた。

 イエスは、「わたしは火を地上に投ずるために来たのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなに苦しい思いをすることであろう。あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今から後は、一家の内で五人が相分かれて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう(ルカ第12章49~53)」と言われたことを見てもわかる。

「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すぐにきている。そして聞く人は生きるであろう。(ヨハネ第5章24~25)」と言われたのである。

 

 神の国はいつ来るのかとパリサイ人が尋ねた時には、次のような言葉を残した。

「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起こった。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。(ルカ第17章26~33)」と言われ、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」と言われたのであった。

 イエスの時にも、イエスを神の代身に立てて、神と悪魔(サタン)が激突したのである。残念ながらイエスは十字架につけられ、ユダヤ民族は十字架につけた報いを背負うことになり、2000年にわたるユダヤ民族の放浪の歴史が始まることになった。

 

(3)イエスの再臨の時も終末である

 イエスは、ユダヤ民族の不信によって十字架に釘けられてなくなることにより、地上に新しい天地をもたらすことはできなかった。イエスの十字架と後の霊的復活によって霊的救いのみの新しき天地が、イエスがもたらした神の勝利圏であった。キリスト教は、霊的救いの宗教として人類を導くものとなった。このため、イエスは再臨して霊肉合わせての救いの摂理を完遂する必要が生じた。イエスの再臨の予言がイエスご自身の言葉も含めて数多くあるのは、イエスが再臨する必要があることを示している。

 イエスの再臨は、この地上に神の国を実現するためである。イエス以降のサタンの悪主権にある人類歴史は、宗教・哲学・倫理によって、善を指向する人間の創造本性が喚起されるに従い、漸次悪主権から善主権のための勢力が分立され、ついに、世界的に対立する二つの主権を形成するに至っている。しかし、目的が相反するこの二つの主権(神とサタン)は、決して共存することができない。従って、人類歴史の終末に至れば、これらは必ず一点において交叉し、理念を中心として内的に衝突し、それが原因となって軍事力を中心とする外的な戦争(世界大戦)が行われ、神が勝利すればサタン主権は滅び、天側の主権のみが永遠なる神の単一主権として復帰されるのである。善悪二つの主権の歴史路程が交叉する時が来るのである。

 現在、人類歴史は世界的な文化圏を形成し、発達した交通機関にと通信網によって時間と空間を短縮させて地球を自由に行き来できるようになってきた。今や、イエスだけが再臨すれば、全人類は地球上で一つの大家族をつくり、一家団欒して生活し得るようになっている。

 そして一方では、人類世界の命運をかけて二つの主権がぶつかり合っている。一人一人の心の内部で、そして家庭の中において、身近なコミュニティの中で、国家の中において、そして世界の国々の中で。混乱と対立がすべてに共通するキーワードである。そして、混乱と対立の中で一人一人は身もだえしながら自ら行くべき道を模索している。神への道を選択して生き残ることができるのか、サタンを信奉して疲弊し滅んでいくのかを自らが選択しているのである。

 

(4)ノストラダモスの予言は当たっていた

 「1999年7の月、空からアンゴルモアの大王が下りてきて人類は滅ぶ」というノストラダモスの予言が、かつて大きく取り上げられた時、人々は戦々恐々としていた。しかし、その時が無事にすぎると、予言は外れたとまるで意に介しなくなった。予言とはその程度のものであると思っておられるだろう。

 それは、正しい解釈ではない。終末の現在、善悪二つの主権により綱引きが行われている。一人一人が善側に導かれるのか、悪側に残るのか、審判されている。1999年7月のアンゴルモアの大王の降臨は予定の未来の一つだった。その予言がはずれたのは、それまでにおける善悪二つの主権の闘いにおいて、ある勝利があったからである。アニメや漫画で描かれている人間と悪魔の正義の闘いは、架空のものではなく、実際に現実の歴史の背後で行われているのである。

 大本教出口なお氏の受けた御筆書きには、「人類は3%しか残れない」という啓示があった。人類ほぼ全滅というのが最悪の未来である。丁度ノアの時ノアの家族だけが残ったように。2012年のマヤの滅亡の予言の時も重大な危機であった。何もなかったかのように歴史は過ぎ去っていったが、人類の重要な岐路の年であった。そして今、2025年という岐路が待ち受けている。神の摂理歴史として、40年周期の節目を迎える。その時どのような審判がなされているだろうか。神を信じなければ、当然ながら新しい天地につながることはできない。善悪がよく分からなくなった現代人に神の審判がなされるのは致し方ないことである。

 「神さまは、“得心さして改心さす”と仰っている。“悪でこの世が続いていくかどうかということをみせてあげる”と仰っている。“渡るだけの橋は渡ってしまわねばミロクの世にならぬ”と仰っている。どうもそうらしい。せめて世界中の半分の人間が、なるほどこれは間違っているということを心の底から気づいてこなくてはダメだ。(出口日出麿)」。どのような形になるかはわからないが、審判は避けられないのである。

量子物理学の世界では“意識の不滅”が論争になりつつあるようだ

 現在の科学の常識では、意識は脳の中にあるとされている。この前提に立つと、意識の独立はなく霊界・死後の世界というものは存在しないことになる。物質が根本である。このことについて、量子物理学では疑問が提起されている。量子物理学においては、量子は粒子性(物質の性質)と波動性(状態の性質)をあわせ持つ。この量子独特の性質を論争する中で、意識と物質の関係について新見解が出されている。いよいよ、科学と宗教が頭をつき合わせて議論する時が来たのかもしれない。

新見解を紹介する前に量子物理学(力学)の世界について認識を深めておきたい。

科学雑誌「ニュートン」2017年2月号―光の量子論―より

 

(1)光の粒子説と波動説の歴史

 300年前変幻自在にふるまう光について、アイザック・ニュートン(1642~1727)とクリスティアンホイヘンス(1629~1695)が光についての仮説を発表した。ニュートンは、「光は粒子であり、光が起こす現象は粒子の運動として説明できる」と粒子説を唱えた。当時科学者の多くがこの粒子説を支持した。一方、同時代のオランダの物理学者ホイヘンスは、「光は波であると考えると、光の現象は説明できる」と波動説を主張した。光の波動説は、当初あまり支持がなかったが、イギリスの物理学者トマス・ヤング(1773~1829)が1807年に光が「波の干渉」と呼ばれる現象を起こすことを示す実験を行って、光が波であると考える人が増えていった。イギリスの物理学者ジェームズ・マクスウェル(1831~1879)は、電磁気学の理論から電気を帯びた粒子が振動すると、電磁波と呼ばれる波が生じ周囲に拡がっていくことを明らかにした。またその速度は、光の速度(30万キロ/秒)の値と高い精度で一致し、光の正体は電磁波であると考えられるようになった。こうして、「光は波動である」ということで決着するかに思われた。

 ところが、20世紀に入ると、光が粒子であると考えたほうが理解しやすい現象が次々に発見され、再び大論争が起こった。朝永振一郎博士は、「もし光が波なら、3メートル先のろうそくは見えないだろう」と語った。その理由は、ろうそくから3mはなれると、1mはなれている時に比べると同じ面積に当たる光のエネルギーは9分の1になる。計算してみると、3mもはなれると網膜のなかの細胞「視物質」を変形させるだけの光のエネルギーが視物質に当らなくなる。そのため、ろうそくの光が見えなくなってしまうはずと。光が粒子だとすると、その分布はまばらになるが、粒子1個のもつエネルギー自体は変わらないため粒子自体のエネルギーは薄まらない。粒子は十分なエネルギーをもっていれば、光の粒子が当たった視物質の分子は変形するので、ろうそくを感知することができる。このことは、遠く離れた星々を見ることができる理由でもある。

 アルベルト・アインシュタイン(1879~1955)は、「光電効果=光を金属板に当てると、電子が飛び出す現象」の原理を説明するにあたって、「光量子仮説」を唱えた。光には最小の粒「光子(光量子)」があり、光子1個のもつエネルギーは波として見たときの「振動数」に比例して大きくなると考えた。また、電子はエネルギーを少しずつ蓄積することができず、1個の光子だけで電子を飛び出させるエネルギーをまかなう必要があると考えた。

 こうして、光は波の性質をもつとともに粒子としての性質ももつという仮定から出発した「量子力学」は、さまざまなミクロな粒子の振る舞いを説明するのに成功してきた。電子や光、分子や原子などの振る舞いについて説明した量子力学の成果は、半導体やパソコンとなって我々の生活を支えるものとなっている。だが、光が「波と粒子の両方の性質をあわせもつ」とは結局どういうことなのか?」再び大論争となって来た。

 

(2)光の二面性=ホイーラーの「遅延選択実験」(1987年)

 「遅延選択実験」=光が出発後に、粒子としてではなく波として振る舞うことを選択したように見えるため、こう呼ばれた。

 アメリカの物理学者ジョン・ホイーラー(1911~2008)は、光を放出する時、出力をどんどん絞っていくと、最終的に光子1個分のエネルギーしかない光がぼつぼつ出るようになる非常に弱い光を「ハーフミラー」という特殊な鏡に通す実験を行った。ハーフミラーは、光の半分を透過し、もう半分を反射する特殊な鏡である。ハーフミラーでは光はaとb二つに分かれる。二つに分かれた光は、それぞれ普通の鏡で進路を変えた後、光子の検出器AとBに到達する。

 光子の検出器は、光子の半分のエネルギーをそれぞれ検出しそうに思える。しかしホイーラーが考えたのは、「量子力学が正しいなら、光子1個分のエネルギーが、必ずAとBの片方の検出器だけから検出される。検出の確率はそれぞれ50%で、どちらの検出器が検出するかは予想することはできない」と考えた。実験の結果、ホイーラーの予想通りの結果が出た。

 光子1個分のエネルギーが片方の検出器だけで検出されるということは、光子が「それ以上分けられないエネルギーのかたまり」であり、粒子であることを示している。もし光が波であるならば、いくらでも細かく分けることができるはずなので、光はハーフミラーで半分に分けられ、光子のエネルギーが半分ずつ両方の検出器で検出されるはずである。

 

 次に、ホイーラーは、今度はほぼ同じ実験装置で光の波動性を示す実験を行った。

光子1個分のエネルギーをもつ非常に弱い光を、ハーフミラーに向けて放出する。波としての光は二つ(aとb)に分かれた後、それぞれ普通の鏡で進路を変える。この実験では、分かれた光の波がすれちがうところに、もう一枚ハーフミラーを置く。ハーフミラーの先に検出器Aと検出器Bがある。

 aから来た光の波はハーフミラーで二つに分かれ、二つの検出器(AとB)に向かう。bから来た光の波も同様にハーフミラーで二つに分かれ、二つの検出器(AとB)に向かう。あらかじめ鏡とハーフミラーの距離を微調整しておくと、検出器Aに向かう二つの光の波を、互いに弱め合い、打ち消し合うようにできる。すると、検出器Bに向かう二つの波は、必ず互いに強め合うようになる。その結果、検出器Aでは光がまったく検出されず、逆に検出器Bでは必ず光が検出されるようになる。

 この実験から、光は検出器の直前まで二つの波が重ね合って弱め合ったり強め合ったりする波動性をもっていることが証明された。

 

 ホイーラーの三つ目の実験は、二つ目のハーフミラーを置かない状態で光子1個を放出するものである。この実験は、光は出発した後に粒子か波かを選択できるという仮説を検証するものである。この二つ目のハーフミラーがない装置では、光は光子(粒子)として振る舞い、50%の確率で検出器Aで見つかり50%の確率で検出器Bで見つかるはずである。そうしておいて、光が検出装置に到着する前に、二つ目のハーフミラーを素早く追加するという実験である。すると光は、必ず検出器Bでは見つかり検出器Aでは見つからないという結果になった。これは波の重ね合わせが起きたことを示した。光はハーフミラーがふえたことに途中で気づいて粒子から波に変身し、干渉を起こしたのか、あるいは時間をさかのぼって波として出発し直したのか?いずれにしても、「はじめから波か粒子かが決まっている」と考えることはできないことを示した。光が出発後に粒子としてではなく波としてふるまうことを選択したように見えるため「遅延選択実験」と呼ばれている。

 

(3)光の波と粒子の二面性の不思議さを示す「二重スリット実験」

 ヤングが行った二重スリット実験装置(板に細かい隙間スリットを左右二つ開け、光源とスクリーンの間に置く)で、左右二つのスリットを両方開けて光子を一つずつ飛ばすと、スクリーンにはボツボツと一つずつ光子が到達した跡が残される。この段階では、光子は粒子としてふるまっているように見える。しかし実験を続けていくと、スクリーンにはたくさん到達した場所と、到達しない場所が交互に並んだ「干渉縞」が現れる。干渉縞が生じたということは、波が二つのスリットを同時に通過し、スクリーンの手前で干渉を起こしたということを意味する。光子をひとつずつ飛ばしたのだから、光子は一つのスリットしか通過していないはずである。しかし、光が波だとすると波は広がって存在するので、二つのスリットを通り抜け干渉縞が現れることの説明がつく。

 

 次に、スリットに偏光板(ある方向に振動する光だけを通し、他の方向に振動する光は遮るもの)を置くという実験である。

 二つのスリットに偏光板を右のスリットには横方向に振動する光を通すものを、左のスリットには縦方向に振動する光を通すものを置き、スクリーンに当たった時の振動によって左右どちらのスリットを通り抜けてきたかをみようとする。不思議なことに一つのスリットを通った光がつくる像を重ね合わせただけの像が現れる。(縦方向のスリットは青の跡。横方向のスリットは緑の跡)。しかし干渉縞はできない。光は波としてふるまわなくなる。

 更に不思議なのは、スクリーンの手前にスクリーンと同じ大きさのななめ45度の偏光板を置く。偏光板を置くと、縦に変光した光も横に偏光した光も、一部が通り抜け、弱いななめの偏光になり、どちらのスリットを通ったかわかなくする。そうすると、干渉縞が復活する。「どちらのスリットを通ったか」という情報が消えると、観測されていない光と同じように波としてふるまうのである。

 

 

<確立解釈(コペンハーゲン解釈)>

 この実験結果をみて、光が粒子の性質と波の性質をあわせもつことをどのように説明すればいいのか?

 1926年イギリスの物理学者マックス・ボルン(1882~1926)が、現在標準的解釈とされている「確立解釈」を提案する。「コペンハーゲン解釈」とも呼ばれているもので、「ある場所の波の揺れ幅(振幅)は、粒子がそこに出現する確率と関係している」というものである。

 光子は、見ていない(観測していない)間は波としてふるまい、(観測すると)粒子としての姿を現す、ということになる。光子がある場所に出現する確率は、出現する直前のその場所での波としての振幅(波の高さ)が大きいほど高くなる、という解釈である。<ほかにもいろいろな解釈が出されている。>

 光は、観測されないかぎり波としてふるまい、二つのスリットを同時に通過し、最終的には1個の粒子として現われる。粒子性と波動性は同時には現れず、粒子的な振る舞いをする場合には波動的な性格を失い、逆に波動的な振る舞いをする場合には粒子的な性格を失うのである。

 量子(極微)現象とは、純粋数式世界(高次元幾何学世界)と、物質物理世界(3次元世界)の中間の現象なのである。

 

(4)「双子の光子」実験-量子のもつれ(量子エンタングルメント)

 特殊な光学機器を使うと、同じ方向に偏光(振動)した「双子の光子」を放出することができる。実験では、二つの光子の前に、それぞれ偏光板と検出器を置く。そして、片方の光子Aを偏光板と検出器に飛び込ませ、時間差をおいて、もう片方の光子Bも偏光板と検出器に飛び込ませる。すると、不思議なことに、先の光子Aが偏光板に到達した瞬間、離れた場所にいるもう一つの光子Bの偏光方向が偏光板Aと同じ向きになる。光子AとBが、まるでテレパシーで通信しているかのようにふるまうのである。

 このように、はなれた二つの粒子の間に相関がある状態を「量子のもつれ」という。かつてアインシュタインは、この現象を「不可解な遠隔作用」と呼び、そんなものがあり得るはずがないと批判した。しかしこの現象は実験で確認されている。何光年と離れていても一瞬で伝わる。量子のもつれによる粒子間の遠く離れた相関を予言する量子力学の性質のことを「量子力学の非局所性」と呼んでいる。この現象が、量子コンピューターや量子暗号通信に応用可能と期待されている。

【光子、電子、原子といった極小の粒子、つまり量子には、徹底的に直感に反する「非局所性」がある。たとえば遠く離れた二つの量子は、まるでコインの裏表のように運命を共有した状態になることがある。一方の量子の物理量が観測されたと“同時”に、もう一方の物理量も時空を飛び越えて決定されるという性質だ。】
出典とある理論物理学者の「量子重力理論」への探求:量子もつれには「質量」があるのか? « WIRED.jp

 実際に量子の世界ではテレポーテーションの実験が成功したという報告がなされている。テレポーテーションの成功例として報告されているもっとも大きな物質は原子だという。(京都産業大学 工学部・情報通信工学科 外山 政文教授)

 以上みてきたように、光子などのミクロな粒子のふるまいを説明する量子力学では、遅延選択実験や二重スリット実験、量子のもつれなど奇妙な現象が実際に起こることが確認されてきているのである。

(以上、科学雑誌「ニュートン」2017年2月号―光の量子論―より)

 

(5)量子力学において、「観察」という行為がもつ影響力の背後にある真理

 光は、観測されないかぎり波としてふるまい、二つのスリットを同時に通過し、最終的には1個の粒子として現われる。観察・観測という行為が、量子の行動を調べる上で重要な因子になっている。量子力学の世界では、「観察」という“意識的な”行為が、量子レベルでは大きな影響力を持っているのである。この世界は波動・振動でできており、その根本には結晶があり、振動が現実化したものが物質なのではないかといえまいか。

 量子論の生みの親であるマックス・プランクは、「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と驚きを持って受け入れ、ノーベル物理学者を受賞した理論物理学者ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だった」と語っている。

 観察という行為を介在して、意識と物質の関係について問題が再度提起されているのである。現在、脳科学が進めば人間の意識・思考・感情は解明されると考えられている。しかし、それは人間の妄想であるかもしれない。脳は、意識の受け皿にすぎないかもしれない。意識は、肉体に付属するものではなく、別々のものであるかもしれない。そう考えると、死後の世界は論理的に実在して当然である。肉体から解き放たれた意識が存在するということになる。

 いずれにしても、宗教と科学とは頭を突き合わせて論議する時を迎えたのではないだろうか。

 

 二つのニュースリリースを転載して、現代の主張・論争の一端を示す。

 

トカナ 【ガチ】「死後の世界」が存在することが量子論で判明!米有名科学者「脳は意識の受け皿に過ぎない」

http://tocana.jp/2017/01/post_12042.html

 米「タイム」誌の「世界で最も影響力がある100人(2014年度)」にも選ばれた、再生医療の専門家ロバート・ランザ博士が、死後の世界を肯定する発言をしていたことが判明した。

意識が物質世界よりも根源的

 米ニュースサイト「Collective Evolution」(1月14日付)によると、ランザ博士は著書「Biocentrism: How Life and Consciousness Are the Keys to Understanding the True Nature of the Universe(生命中心主義:いかに生命と意識が宇宙の本質を理解するための鍵であるか)」において、物質ではなく生命と意識こそ現実理解のための基礎的な要素であると断言、意識は肉体的な死とは別物である上、脳が意識を生み出しているわけではないと主張している。

 量子論の世界では、最も基本的な思考原理である矛盾律(AがB、かつ非Bであることはない)が通用しない状態である「量子の重ね合わせ」が長らく世界中の科学者を悩ませてきた。「二重スリット実験」では、2つのスリット(細長い穴)を通った電子が壁に衝突して作る痕跡をもとに電子が波なのか粒子なのか確定されるはずだったが、観察者がいない場合、電子は“波”の性質に見られる干渉縞を作り、観察者がいる場合、“粒子”に見られる痕跡を残すという “非科学的な”事態が生じたことで大問題となる。つまり、電子は「波であり、波じゃない」、「粒子であり、粒子じゃない」という矛盾する性質を抱えていることが判明したのだ。

 ここで問題となるのは何より「観察者」の存在だ。物理的世界に直接の影響力を持ちそうもない「観察」という“意識的な”行為が、どういうわけか量子レベルでは大きな影響力を持ってしまっているのである。このことを量子論の生みの親であるマックス・プランクは、「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と驚きを持って受け入れ、ノーベル物理学者を受賞した理論物理学者ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だった」と語っている。

 この論理に従うと、肉体(物質)と意識の因果関係が逆転する。つまり、意識が現実を生み出しているならば、発生の順番が脳(物質)→意識ではなく、意識→脳(物質)でなければならないため、肉体(物質)が死んでも、意識まで消滅する必要はない。こうして死後の(意識)世界が認められるというわけだ。

 ランザ博士によると、肉体と意識が別個のものだとしたら、肉体がアンテナのように意識を受信していると考えることもできるという。

 

トカナ 【ガチ】ついに臨死体験が科学の常識に!複数の物理学者「死んだら意識は宇宙に放出され、未知の世界に行く」

http://tocana.jp/2017/01/post_12053_entry.html

 

意識は量子情報として永遠に残り続ける

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7の細い管がマイクロチューブル「Wikipedia」より引用

 英紙「Express」(2016年12月7日付)などが、世界的に評価の高い複数の物理学者が「意識は肉体の死後も残り続ける」という驚きの発言をしていたと報じている。たとえば、米アリゾナ大学のスチュアート・ハメロフ教授によると、「意識は量子レベルに貯蔵された単なる情報」である可能性が極めて高いというのだ。

 それだけではない。スティーブン・ホーキング博士とともにイギリスを代表する数理物理学者ロジャー・ペンローズ博士も、細胞中に見いだされる直径約 25 ナノミリメートルほどの「マイクロチューブル(微小管)」が量子情報を準―原子レベルで貯蔵していると主張。

博士によると、肉体が死に行く過程で、マイクロチューブルが保持する量子情報が宇宙空間に徐々に放出されていくという。ただ、この過程の途中で蘇生した場合、量子情報はマイクロチューブルに回収され、意識を取り戻す。この量子情報の回収にともなう現象が、いわゆる臨死体験であるという。もし運悪く蘇生できなかった場合、放出された量子が永遠に宇宙空間に存在し続けることになる。つまり、魂(=量子情報)は不滅なのだ。

世界最高レベルの量子物理学研究機関である、独「マックス・プランク研究所」の研究者らもペンローズ博士らに同意しており、知覚を司る肉体が滅びれば、まったく未知なる宇宙が待ち受けている可能性もあるという。

「我々が“今、ここ”と認識しているもの、つまりこの世界は物質的に理解されただけのものに過ぎません。物質世界の向こうには、無限の現実が横たわっているのです……肉体は死にますが、精神的な量子場はなくなりません。そういう意味で、我々は不死身なのです」(マックス・プランク研究所元所長ハンス・ペーター・デュル博士)

「我々の思考、意志、意識、感情は、精神的な性質です。これらは物理学が取り扱う自然界の基礎的な力(重力、磁場など)とは直接的な関係はありません。一方、量子的世界では精神的性質との驚くべき一致が見られるのです」(マックス・プランク研究所クリスチアン・ヘルウィグ博士)

科学と宗教は、同じ土俵で議論する時を迎えたのではないだろうか。

 神様は生きて働いている-「野球の神様はいるんですね」

「野球の神様はいるんですね」

日本ハムファイターズ栗山英樹監督が日本シリーズの第5戦でシリーズ不調だった西川選手が逆転のサヨナラ満塁ホームランを放ったのを見た時、そんな感慨になったといわれていた。

テレビ番組のゲストとして出演された栗山監督は、南原清隆氏との対談において、今シーズンの監督采配の内側を披歴されていた。その内容は、傾聴すべきすばらしい内容であった。

栗山監督が野球に取り込まれている姿勢は、野球の神様が働きやすい状況を作り出している。

監督として権威をもって選手をまとめるのではなく、チームの目標に向かって、いかに選手を生かすかに精力を注がれている。その方法はとてもすばらしいものである。

 

 (1)自分の流儀を押し付けない

リーダーになると、自分のビジョンでまとめるということが目標になる。それはともすれば、自分の流儀を押し付けることになりかねない。ビジョンを実現するためには、チームの一人一人の協力が不可欠である。ビジョンを納得して、自発的にその目標に向かって一致団結していくというステップが欠かせない。それを強引に引っ張っていこうとすると、チームの中に不協和音が生じてくる。不満、反発、惰性が支配するようになってくる。こうなると、もはや活力は生み出されていかない。日本のスポーツ界・組織のマネジメント・指導方法は、この押し付け型に近いものが多いとされている。押し付け型は、チーム内の一人一人の意欲と創意工夫を削ぎ、個性の乏しい一様な組織を作り出しかねない。日本の弱点は、この組織マネジメントにある。この風土を改善するためには、リーダーが変わらないと無理である。

リーダーが明確なビジョンをもち、ビジョンを一人一人に説明して共通のビジョンにすること、そしてリーダーが親分風を吹かさないことが大事である。リーダーもチームの一員である。統率の役割を託されてはいてもそれほど特別な存在ではない。リーダーは筋を貫く一方で謙虚でないといけないのである。

 

 (2)選手を信頼する

どんなリーダーも選手を信頼するというが、選手を信頼するということはどういうことだろうか。ともすれば、リーダーの独りよがりの場合が多い。このことは、選手の側から考えるとわかりやすい。選手は、リーダーは私のことをわかってくれていると感じるとき、はじめてリーダーとの間に信頼感が芽生える。要は、選手一人一人をよく理解してあげるということが出発点である。理解しあえて初めて信頼感が芽生える。一人一人から見れば、リーダーとも1対1の関係である。この基本を忘れてはいけない。選手から見れば、わかってくれているということが大きな安心感であり、モチベーションとなる。リーダーが自分本位に選手を信頼するのではなく、選手が信頼されているという環境を作り出すことが成功の秘訣である。

栗山監督は、日々の選手との交流において堅い信頼関係を築かれているようだ。

 

(3)楽しく野球をやっていない。個々の能力をいかに発揮させるか。野球を心から楽しんでいるか。選手のことを真剣に思うから智慧がわいてくる

栗山監督は、大谷翔平選手がシーズン初め投手に専念していた時、楽しそうに野球をやっていない。なぜなのだろう。どうしたらいいのかと自問していたそうである。日々選手の状況を観察しているからこそ感じたことだろう。大谷選手への解答は、「リアル二刀流」だった。この選択はものの見事にはまった。大谷選手のその後の活躍は、誰の目にも焼き付くものとなった。そして一番ピッチャー大谷という今までにない奇抜な選手起用は、先頭打者ホームランとなって球史に残るものとなった。選手がいかにしたら輝くか、そのことを追求した結果が最高の形で結果として現れた。

人を活かすとは、チーム内の一人一人をいかに輝かせるかにかかっている。それこそ、リーダーに求められる資質である。誰もが才能をもっている。誰もが輝きたいと思っている。その気持ちを汲みわかってあげ、活かす道を示すことができれば、チームが生きるのである。そして、与えられた人材を最高の形で活かしたならば、神の導きによって最高の結果がもたらされるのである。

 

(4)苦言・厳しい𠮟責・処遇は、相手が納得して受け止めて初めて効果がある

栗山監督は、不調に陥った西川選手には一時二軍行きを命じ、打撃不調の中田選手の二軍行き申し出には、「そこに逃げたらだめだろう」と4番継続を命じたという。チーム内の選手が苦しい状況になった時、どのように対処すべきかはリーダーの大きな腕の見せ所である。厳しい叱責・処遇が必要な時、それを行うためには普段から築かれた信頼関係が欠かせない。選手以上に選手のことをわかっているという、選手からすればわかってもらえているという関係が築かれていないと厳しい叱責は効果をもたらさない。厳しい叱責・処遇は、される選手自身が納得して受け入れてはじめて効果をもつものである。監督権限として一方的に叱責したりしても、それは裁いたようになり、しこりを残すことになりかねない。下手をすると、その時の言葉が尾を引いて関係の修復が困難になる。そしてチームがバラバラになる。

中田選手は、栗山監督と話し合う中で監督の気持ちを理解し気持ちが吹っ切れて、その後4番として大活躍していくことになった。

 

(5)一つにまとまれば道が開ける

どんなスポーツでも、チーム全員の気持ちを一つにして試合に臨むために円陣を組むなりして気持ちをまとめようとする。このことは、スポーツだけではなくどの組織においても日常行われている方法である。苦境にあればあるほど、気持ちがバラバラになりやすい。そんな時でも、みんなの気持ちが一つにまとまれば道が開かれて来る。智慧が出て解決策が浮かび、全員が全力で臨む中に最善の結果がもたらされる。よくスポーツで「みんなが一つになった結果です。応援ありがとうございました」という談話がされているが、一つにまとまることは信じられない秘密の力を引き出すのである。一つになることは「神様がはたらく条件を創り出す」ことなのである。

 

テレビ番組の栗山監督の話を聞きながら、「栗山監督はすでに名監督である」と感じた。野球の神様の導きを引き出せる術を会得されている。一ファンとしてこれからの采配を期待して応援していきたい。どんな選手が育つのか、どんなチームができるのか、興味は尽きない。

霊界で四大聖人・聖賢の方々がセミナーを開いているそうだ。霊界からのメッセージ(5)【ソクラテス、トマス・ジェファーソン、ヒンドゥー教のヤージュニャヴァルキヤ、マイトリ】

霊界で四大聖人(イエス、釈迦、孔子、ムハマンド)と聖賢(アウグスティヌス、ルター、ソクラテスなど)の方々がセミナーを開いているそうである。セミナーの主題は「神様は人類の父母」であり、地上に降臨された文鮮明先生が解明された『原理講論』を分析、討論しているのだという。セミナーに参加した聖賢たちが霊界から地上にメッセージを送ってきている。5回に分けて四大聖人・聖賢の方々の霊界からのメッセージを伝えてみたい。

メッセージの出典は、統一教会の教材【「平和神経 平和メッセージ1~17」光言社2015版 の中の付録霊界報告書「神様は人類の父母」】である。統一教会の教材であるから当然文鮮明氏を讃えているものであるが、このメッセージが本物かどうかは皆様自身に検討していただきたい。

なお、上記教材の中には4人の他に、歴代アメリカ大統領3人、ヒンドゥー教の聖賢10人のメッセージが収録されている。

 

ソクラテス様のメッセージ]

 私、ソクラテスは、アテネ元老たちから審判を受けることになりました。私が主張したすべての理論が当時の市民の精神を混乱させたとしても、彼らが一人の人間の生命をもう少し大切に、高貴に感じていたら、という考えに浸ることが多くありました。人間の一生命は、肉眼で見えるもので判断すべきでないからです。一握りの微々たる万物であれ、神様の創造のみ手によらない創造物がどこにあるでしょうか。そして人間は、神様の作品のうち、最も大切で崇高な存在として、あらゆる知性と誠意を尽くして造られた神様の子女ではないでしょうか。
 神様の子女として造られた人間は、それを知らずに生きてきました。地上での父母と子女の関係を考えてごらんなさい。父母と子女は常に慕わしさの中で、お互いの出会いと離別に、どれほど胸を痛めるでしょうか! 父母と子女は、一つ屋根の下で愛情を交えて対話し、幸福に生きるべきではないでしょうか。神様も、そのように生きることを願われるでしょう。人間の創造主であられる神様は、愛の本体であり、情の塊自体ですが、人間の創造以後、誤った歴史が流れる中で、神様と人間の関係が断絶されたのです。このような状態にある神様の心情は、いかばかりでしょうか。
 知性人の皆さん! 私、ソクラテスは、アテネ陪審員たちから不信され、裏切られた男でした。当時の悔しさと悲しみは、語り尽くせませんが、この神様の傍らに来てみると、さらにもう一つ悲しくて悔しいことがあるのを知りました。それは、神様と人間の関係を知らなかったということです。これより悲しく悔しい事情が、どこにあるでしょうか! 自らの父母を知らず、人間をこの上なく愛してこられた神様の愛を知らず、悠久なる歳月をかけて子女を待たれる神様の痛みを、私たち人類は知らなかったのです。今や、こうした事実を知ったソクラテスの痛みは、表現するすべがありません。
 知性人の皆さん! 父母と子女の間で、知識と学問を自慢して生きてきましたか。人間の生活において最も大切なのは、父子の関係を回復し、維持していくことです。これは、いかなる学問の発見よりも偉大なことです。しかし、肉身を支えるために、地上であらゆる知性社会の中心的立場がとても大切であることを、私が知らないはずがあるでしょうか。しかし、自らの父母を大切にし、敬うことは、いかなるものとも比べようのない、高貴なことです。それを肝に銘じなさい。この神様の傍らで、ほかに何が必要だというのでしょうか。「神様は私の父母であり、私は神様の子女だ」ということは、血統の立場が最高位にあることを意味します。
 知性人の皆さん! 肉身は、地上で生活するときだけ必要であり、皆さんのもつ知識と学問もまた、大体そのようなものです。それゆえ、ここに入籍する来世の準備のためにも、内的な知識を備えなければなりません。あまりに無知で何も知らないまま、自身の学問だけに執着し、ある日、突然に肉身と霊魂が分離すれば、その霊魂は、どこに行くのでしょうか。これは深く考えてみるべき問題です。来世は間違いなく存在し、私たちの霊魂は、ここで永存するという事実を、肝に銘じなさい。
 したがって、備えなき霊魂は、ここではとどまる所がありません。地上で、道端の乞食を見たことがありますか。乞食は、自分の居場所がないため、道端が自分の居場所です。皆さんの霊魂は、とどまる居場所を地上で備えなければなりません。
 私、ソクラテスは、地上生活において、人間の外的な学問と知識も貴重でしたが、それよりも人間の内的な良識と真理、いわゆる哲学を常に追求しました。これを解明するために、どれほど多くの時間を投入したか分かりません。地上で、刹那的な生活を送るためではなく、人間の内的真理を追究しているうち、知性人の立場にゴールインしたのです。永遠なる居場所に来るのに、どうして苦労と努力の代価が不要でしょうか。その苦労と努力と投資の結実として、ここで永遠なる幸福の立場にとどまるようになったのです。
 私が知性人にこのようにお願いするまで、幾度かの苦い峠を通過しました。それはどうしてでしょうか。ここも、地上のように様々な姿で生きているのです。そして、地上のように多様な宗教と宗派があるのです。ところが、ここの知性人たちの集いで、「人生の行くべき道」をテーマに、「統一原理」の講義を聞くことになりました。ここで私は新しい真理に触れたのですが、それは人間の根本なる生き方を悟らせる真理でした。この真理によって実に驚くほど変わっていく自らの姿に、自尊心がとても傷つくこともありました。幾度も首を横に振って、この真理を否定したく思いました。それが真理でないことを願いました。この途方もない原理が、どこから出てきたのかを知って、幾度か心の葛藤が起きました。知性人としての威信と体面が根こそぎ吹っ飛んでしまう私自身が、とても恥ずかしくもありました。しかし、これは間違いなく真理なので、どうしようもありません! それで、私、ソクラテスは、自分のすべてを捨てたのです。知性も自尊心も、みな捨てました。そして、この真理の前にすべてを投入するつもりで、地上の皆さんにメッセージを伝えるのです。
 知性人の皆さん! 皆さんの知性を総動員するとしても、神様の知性と比較することができるでしょうか。天地万物を創造されるとき、何らの考えや計画もなく万物がぽんぽんと生じたのでしょうか。皆さんの知性と能力をすべて売っても、神様の能力と知性を買うことはできません。科学の力がいくら発達したとしても、自然のことわりを変えることができるでしょうか。科学の主人公は、正に神様です。ソクラテスが発見した神様の能力と神性を、すべて表現しきることはできません。それだけではありません。今、このレポートをしている女性は地上人であり、ソクラテスは霊人です。この事実についても知性人は、理解できるでしょうか。この事実もまた神様の能力です。時が来たので、天の秘密を地上人に告げ、神様の子女たちを正しく導くためです。
 知性人の皆さん! 神様は、子女を正しく立てるために、様々な方法を動員して苦労していらっしゃいます。皆さんは、神様を見ましたか。神様は無形で、体のないお方です。しかし、子女を探そうとする神様の一念、数千年が過ぎても変わることはありませんでした。そうして、神様は、そのみ旨を果たすために文鮮明先生を地上に遣わし、人間が歩むべき方向を定めるために、私たち人類に「統一原理」を明らかにしてくださいました。その「原理」とは、人間の知性で書かれたものではなく、文鮮明先生が神様と議論し、サタンと血闘を繰り広げて探し出した、人類救世の書なのです。それを精読してごらんなさい。そこには、人生のすべてが含まれています。それを精読してごらんなさい。そうすれば、皆さんの知性が皆さんの霊魂を、どの程度呼び覚ましたかが分析でき、皆さんがどのように生活すべきで、生活の方向をどこに定めるべきかを悟れることでしょう。
 知性人の皆さん! 皆さんが考えた偉大な人物、偉大な尊敬の対象とは誰でしょうか。自問自答してごらんなさい。彼らの大部分は、地上生活に必要な内容を残した偉人たちであることでしょう。しかし、皆さんの来世の生活にまで責任を負おうとする偉大なる師を、皆さんは、いまだに探せずにいるのです。文鮮明先生は、私たちに来世の永存を悟らせてくださり、私たちの霊魂にまで責任をもとうとされる、神様に代わる使命をもって、人類を永遠なる平和の道に導いていらっしゃるのです。
 そのお方を研究してごらんなさい。そして、そのお方よりも偉大な師がいるか、比較して探してごらんなさい。もし、地上に来られた偉大なる師として、このお方より偉大な師がいないと思うなら、皆さんはどうしますか。深刻な立場であり、深刻な時間であり、皆さんの人生に重大な決断を要する時間になるのです。人生は長くはありません。来世は明らかに存在します。それならば、真の師に会って来世を研究し、備えるのが賢明だと考えるべきではないでしょうか。
 皆さんの学問も知性も、神様に誇るものとはなりません。謙虚な者のみが、神様と共にとどまることができるのです。そのお方の偉大な真理を学び、皆さんのものとして消化して、永遠なるこの場に来るとき、無知な乞食の姿になることは避けなければなりません。最高の知性人とは、神様を自らの父母様として迎え入れる人でしょう。そのような人のみが、最高の知性人だと結論づけたいと思います。
 (二〇〇一年四月十日)

 

トマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson、在位期間1801~1809。アメリカ第三代大統領、独立宣言書起草)のメッセージ

建国精神に帰りなさい

 

静かな国、韓国で素晴らしい聖人、メシヤがお生まれになられたので、東洋の明るい光が全世界に照らされていくことを懇切に願う心で、ジェファーソンの心情を伝えようと思います。私たちアメリカの偉大な建国精神は、どの国にも劣りません。私は、それに誇りをもっています。

しかし、ここ死後の世界で、私は、静かで小さな韓国人をとてもうらやましく思っています。思想的葛藤、人種的葛藤、そして多くのテロに苦しんでいるアメリカ国民の、どこに平和と幸福があるでしょうか。人類のメシヤ、人類の真の父母は、世界平和の思想をもっています。アメリカの指導者たちは、その思想を受け入れてみなさい!アメリカは、外的最強国の自尊心だけを求めずに、人類の平和のために何をしているのかを冷静に判断してみなさい!

アメリカ国民よ、再び立ち上がりなさい!そして、建国精神に帰りなさい!韓国に顕現された人類のメシヤ、文鮮明先生の教えに従いなさい!私たちの建国精神と、その方の教えは違いありません。ここで、歴史的に有名な大統領と王たちが、その方の平和思想の偉大性に感激しています。

アメリカよ、再び立ち上がりなさい!そして、神様の新しい真理、新しい希望の地となりなさい!それが、この時代のアメリカの召命です。

トマス・ジェファーソン(二〇〇二年六月十日)

 

ヒンドゥー教の聖賢ヤージュニャヴァルキヤ(Yajnavalkya、『白ヤジュル・ヴェーダ』を執筆した古代賢人)のメッセージ

四大聖人たちの指導を受けながら、「統一原理」の教えに従います

 

四大聖人たちと聖賢たちが、ヒンドゥー教のために、このように激励してくだって感謝します。特に、ムハンマド様は何度もここに来られて、「愛しています。私たちは互いに愛し合いましょう。私たちが互いに愛し合えば、地上でも互いに愛し合い、一つになります」とお話ししてくださって、とても感謝し、感激しました。また、四大聖人たちが互いに尊敬し合い、互いに一つになっている姿は、とても美しいものでした。彼らはみな、彼らが一つになったのは「統一原理」があるからだと、ずっとお話しされ、私、ヤージュニャヴァルキヤは、最初から「統一原理」に対する好奇心を強くもちました。

私が神様と呼べば、神様は訪ねてこられますか。このような教えは一度も聞いたことがなく、とても不慣れです。ヒンドゥー教徒はみな、遠い国から初めてここに訪ねてきたかのようです。私たち、ヒンドゥー教において、「統一原理」はとても難しいものです。そして、神様が恐ろしいです。罪人でない罪人のような気分です。しかし、四大聖人たちが一つになるまでの苦衷を話してくださり、私にはとても大きな慰めになりました。私たちは、四大聖人たちの姿に似て、その指導を受けながら、「統一原理」の教えに従おうと思います。そして今は、「統一原理」がとても不慣れですが、私たちはそれを熱心に勉強したいと思います。また、私たちは、指導されているという地上の文鮮明先生を、詳しく見極めたいと思います。ありがとうございました。

、ヤージュニャヴァルキヤ(二〇〇二年四月十四日)

 

ヒンドゥー教の聖賢マイトリ(Maitri、紀元前800年、ヒンドゥー教の真理書『ウパニシャッド』に記録された聖人)のメッセージ

私たちの行動の方向を、はっきり定めるつもりです

 

ヒンドゥー教徒たちに、このようにあふれんばかりの愛を施してくださり、心から感謝いたします。温かい愛と配慮で私たちの手をつかんでくださり、激励してくださる四大聖人の姿を体験すれば、私たちは「統一原理」を聞かなくても、それが意味するところを十分に理解することができるでしょう。私、マイトリは、ヒンドゥー教徒たちからも受けられなかった温かい愛と理解を、四大聖人たちから受けました。四大聖人たちは等しく、「統一原理」を理解するようになれば、神様と人間、人生、そして歴史に対する質問がなくなるとおっしゃりながら、真正の愛で私たちを見守ってくださいました。私は生まれて初めて、満ち足りた感情を体験しました。私たちは、統一原理を聞く前から、そのような気分で「統一原理」の講義に臨むようになりました。

果たして、「統一原理」は文字どおり、「統一原理」であることを自覚しました。今回の教育の場は、人間が歩むべき公式的な道を案内する修練場です。「統一原理」はヒンドゥー教だけでなく、あらゆる宗教者たちが必ず理解すべき生活の指針書です。それから、人間を創造された神様がただお一人だけなのに、人間個々人、あるいは、ある共同体が神様のみ旨と異なる道を歩むとすれば、それは間違った道であることでしょう。私は、誰にでも「統一原理」を勧めたいと思います。「統一原理」は本当に不思議で、驚くべき内容をお教えています。そして、宇宙と人生に対するはっきりとした教えがあるにもかかわらず、私たちはそれを全く知らずに生きてきました。

このようにとてつもない教えを明らかにされたお方は、文鮮明先生だと、講師たちは紹介しました。神でない人間が、これを明らかにしたというから、本当に驚くべき事実であらざるを得ません。講師たちによれば、神様がそのお方に、「真の父母」という称号をお与えになったということです。私たちに、今、指導を受けるべき真の師と真の指導者がいらっしゃるので、とても有り難いです。今は多少、落ち着かず、慣れませんが、私たちは根本的な核心を知ったので、私たちの行動の方向をはっきりと定めるつもりです。

マイトリ(二〇〇二年四月十日)